2007.10.06
土山から水口
本日の万歩計36,042(24.14Km)
今週も3連休。旧東海道歩きに行かない訳には行かないと出かけた。
前回に終えた土山宿入り口の「あいの土山道の駅」に行くには、貴生川からバスで40分ほどかかる。貴生川には9時29分着が最も早く行ける方法だが、貴生川発のバスは9時20分で、その次は10時50分だ。しかたがないので、6時53分新横浜発で米原、草津経由で貴生川に10時15分に着く列車を選んだ。ところが、10月から9時55分発のバスができていて、ちょっと損した気分になったが、ともかく10時50分のバスに乗った。道の駅は麺類しかなかったので、「天婦羅うどん」を食べて出発する。まともに食事を取る場所が無いことが分かっていたので、コンビニの「おにぎり」もリュックに入っている。時刻は11時50分であった。
今までで、一番遅い歩き初めだが、ここが私の自宅から時間的に一番遠い場所だ。土山宿の始まりはこの石碑から始まるが、宿場町としての街並みの維持には並々ならぬ努力が払われていて、各戸の玄関には、江戸時代の屋号を示す板の看板を付けていた。「土山の街並みを愛する会」というのがあり、活動しているようだ。
古い街道の雰囲気の街並みが続き、途中にある「来見橋」の欄干も和風で安藤広重の絵を模したものが描かれていた。
旅籠があったあたりには石碑を建て、森鴎外が泊まった旅籠の「平野屋」の前には説明板があった。
説明板には、「森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎や江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち, この井筒屋で病のため息をひきとったのである。 のちに白仙の妻清子、 一女峰子の遺灰も, 白仙の眠る常明寺に葬られた。」とあった。
宿の途中に「伝馬館」という、古い旧家を改修して「資料館」としたところがあった。
中には、伝馬制の説明をはじめ、土山宿の模型、東海道53次の全ての宿の安藤広重の絵に対応した粘土細工があり、また100個の人形による大名行列もあった。
おじさんが居て、とても詳細に宿の歴史などを説明してくれ、てっきり、この「伝馬館」の説明員と思っていたら、説明が終わると帰っていった。あとには、それほど詳しくない女性職員が残った。どうもおじさんは、土山の町おこし活動の役員かなにかの方だったようである。
さすがに、本陣は石碑のみで家屋は残っていない。そして、先ほどの説明のおじさんが訪れることを勧めた、「常明寺」。森鴎外の祖父の森白仙が井筒屋で病死して、田村川のほとりの墓に埋葬されたが、鴎外が明治13年(1900)に当地を訪れ、墓がひどく荒れているのを見て常明寺の境内に移した。その供養等があるとのことであったが、見つからなかった。現在も土山の人々の多くの墓石が立っていて、人の墓地を探し回るのも気が引けたからでもある。
土山の家並みも途絶え、水口の宿に向かう途中に「歌声橋」という、人と自転車専用の橋があった。映画の「マジソン郡の橋」で屋根つきの橋を見たが、実際に屋根つきの橋は始めて見た。
そして、川の下には「野洲川」の清らかな流れが見える。
しばらく行くと、「垂水の斎王の頓宮跡」がある。旧街道から国道に出て国道を横切る必要があったが、信号も無く苦労した。ときの天皇が内親王の1人を「伊勢神宮」に差し出す風習が南北朝時代まで続いたそうだが、このときの伊勢路に宿泊所として作られたのを「頓宮」という。昔は田, 甲賀, 土山( 垂水),鈴鹿, 一志の5 ケ所あったが、いまはっきりと「頓宮跡」として残っているのはこの土山だけだという。
頓宮が使われるのは何年かに一度だが、内親王が特別な役目を負って泊まる特別な場所であるため、とても立派なものであったという。入り口は茶畑への入り口にもなっていて、草が茂りこれが貴重な史跡への入り口とは思えない。土山宿の人達も街並みのみに気を使っていて、「頓宮跡」には、全く無関心であるのが残念である。
斎王といえば、3年間の勤めを終えて16歳で無事都に帰ってきた三条帝の皇女,当子内親王がいたが、匂うばかりの美しさであったという。自然の成り行きで当時26才だった三位中将藤原道雅が彼女に近づき、ふたりは恋仲となったが、一度「斎王」となって神に仕えた身は一生一人で過すのが慣わしであった。
三条帝の知るところとなって、引き裂かれ道雅は、全ての職務を取り上げられ「いまはただ 思い絶えなんとばかりを 人づてならで
言うよしもがな」の歌を百人一首に残している。
一方の当子も23歳で失意の内に没している。悲恋物語である。
さらに少し進むと、東海道反野畷碑がある。これは水害に悩まされた住民が願い出て、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
また、その後に距離は短いが、松並木が見られた。
歩いて行くと面白いものを見つけた。酒屋さんの店先に大きな酒樽に窓を開け、屋根を付けたのが置いてある。
覗き込むと、中には何種類かのお酒の容器とおぼしきものがあり、道行く人にコップ酒でも販売しているのだろうか。そして、ようやく水口が近づき、今郷の一里塚に対面した。江戸期の一里塚は壊され、最近になって作り直したもので、方形に石で囲われ、土の盛り方も少なめである。なにより植えられた木がまだ若木の様相であるが、年輪を重ね立派になってくることだろう。
やっと、水口宿の江戸方見付けのモニュメントに達した。そして市街地の入り口には仕掛け人形が動く時計台がある。市街地の出口にも別の型の時計台があった。
水口の市街地を通ってゆくと、途中から旧東海道がアーケードになっていた。旧東海道がアーケードになっているのを見るのは、四日市の諏訪神社脇から続くのに続いて2回目である。
旧東海道は「近江鉄道」の「水口石橋駅」の直ぐ傍を通っているが、その名前の元となった「石橋」があった。しかし、流れの幅は1mぐらいで、注意していなければ見過ごしてしまうほどのものであった。かつては、立派な流れが、水路の変更などで小さくなったのであろう。
水口の市街地を抜けて田園地帯を歩いているとき、5体ほどの道祖神がまとめて祀られている場所があった。その1体を写したのだが、前掛けの図柄が面白い。周りを見れば、家々の庭にはコスモスの花が、風にそよいで、秋の彩を演出していた。
少し日も傾いてきた。急がねばと思っていたら柏木公民館前に半鐘を鳴らす鐘楼の模型なのか、実物大ではと思える銅像があった。公民館そのものも凝った造りで、何故それほど経済的余裕があるのか不思議に思った。
いよいよ、野洲川の「横田の渡し跡」が近づいて来た。野洲川の方に曲がると、「泉の一里塚」があったが、これも、近年に作り直したもので、「今郷の一里塚」と同じつくりである。作った時期も同じであろう。
そして、「横田渡し跡の常夜灯」である。高さ10.5m, 笠石2.3m四方で火袋は人が通れる大きさで、周囲17.3m の玉垣もあり、街道一の大きさと説明板に書かれていた。江戸時代には、夜でも渡る人が絶えず、水流の激しい川で方向を失って亡くなる人も多くいたので、常夜灯を設置した。これで事故はなくなったという。
さて、今日の予定は全て済ませ、あとは予約した三雲のホテルに向かうだけだ。かなりくたびれたが、足の状態は前回よりずいぶんと良くなった。