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2007.10.07

水口から草津

本日の万歩計47,708(31.96Km)
今朝は6時に起床して6時30分からホテルの朝食をとり、6時50分に出発した。
今日もよい天気で、特に早朝は涼しく気持ちがよい。
kusatsu_01.jpg歩き始めると、直ぐにJR草津線の踏み切りを渡るが、渡ると大きな石部宿への道標がある。
さらに進むと、天井川の大沙川にぶつかる。天井川といっても、川の下にトンネルのようして道路が続くのを見るのは初めてだ。川の下を通り過ぎた向こう側に、土手の上への上り口があり、上って見ると、コンクリートで固めた水路のような川があったが、水は流れていなかった。おそらく、雨でも降れば一気に流れ出すのだろう。それにしても、山から流れ出す土砂を土手に積み重ねているうちに、ドンドン土手が高くなり終には川床まで高くなって、道路を通すトンネルを穿てるほどになったのは驚きだ。
kusatsu_02.jpg川の土手には、弘法大師が植えたと伝えられる「弘法杉の大木」があった。樹齢は750年というから、弘法大師とは時代が合わないが、樹高は26メートル、周囲6メートル で、圧倒的な迫力を持つ大木である。
木の葉は確かに杉の木だが、何時も見る真っ直ぐに伸びる杉の木ではなく、太い枝がのた打ち回っているような形である。人間が利用するには不向きだが、本来の生命力旺盛な古代種の杉と思える。
真っ直ぐ伸びて天を突く杉も素晴らしいが、この杉も本当に素晴らしい。
kusatsu_03.jpgkusatsu_04.jpgkusatsu_05.jpgしばらくして、由良川という2つ目の天井川に出くわした。この川はトンエルの手前で川に沿って右に行くと土手に上る細い道が付いていた。上ってみたが、ここも水はなく、川床一面に雑草が茂っていて、まるで廃川の様相であった。
なかなかに、雰囲気のよい家並みが続くが、車の通りが多いのが難点だ。抜け道に使われているのだろう。
そして、1805年創業の北島酒造があり、伝統の暖簾が掛かっていた。
kusatsu_06.jpgkusatsu_07.jpgkusatsu_08.jpg続いて現れた「家棟川」も天井川であろうと見当を付けて歩いていったが、期待は裏切られ川の上を渡る普通の橋が掛かっていた。しかし、上流に目をやると急激に落ち込んでいる部分が見て取れ、川を改修(掘り下げ)して現在の姿になったのではないかと思う。
kusatsu_09.jpg石部宿に入って行くと、吉御子神社と対になって石部社と呼ばれる「吉姫神社」があり、1kmほど進むで直角に右折するところに、旅人の休憩所があった。吉御子神社もこの近くだが、街道から少し離れているのでスキップした。
休憩所には籠が置かれていたが、主に竹を使ったもので、簡単な構造である。重さを極力軽くする必要性からも合理的な造りであったように思える。
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石部宿では、休憩所の他、駅前の広場、小公園などを造り東海道の街道情緒を醸し出す努力をしているようだ。
kusatsu_12.jpgkusatsu_13.jpgkusatsu_14.jpg石部駅を過ぎて、ゴーシューという自動車部品の大きな機械工場の脇を通り、人気の薄い道を通って再び草津線の見える道を進んでいると、形のよい山が見え「近江富士」と呼ばれていることが分かった。
平将門の乱を平定したことで有名な俵藤太(藤原秀郷)が瀬田川に住む龍王に三上山の大百足退治を頼まれて、自慢の弓で射止めたという伝説が残っている山であり、本当の名前は、三上山と言い、432 メートルの高さの山である。
六地蔵の集落に入るとすぐに、土地の名前の由来になった六体の地蔵が祭られた法界寺がある。現在は無住のお堂に国の重要文化財にもなっている地蔵菩薩立像一体が安置されているとのこと。山門前に「国寳 地蔵尊」の大きな石碑があった。
そして、直ぐに見事な構えの「和中散本舗」があった。和中散は、胃痛や歯痛などにもよく効く薬で、旅人の必帯道中薬として重宝されたもので、最盛期にはこの梅木地区で7?8軒あったという。
建物は今まで見た内で最も勇壮な木造建築で、往時の繁栄が偲ばれる。まだ、住んでいる方がおり、解放されていないが、庭園も国指定名勝とされ素晴らしいとのこと。
kusatsu_15.jpgkusatsu_16.jpgkusatsu_17.jpgすぐに、「梅の木の一里塚跡」の真新しい石碑があり、手原駅の方に進んで行く。
手原駅前に通じる道路の交差点に「稲荷神社」があり、神社の前には手の形のベンチがあった。神社に寄ってみたが、5?6人の人が明日から始まる秋祭りの相談で集まっていた。呼び止められ、お茶をご馳走になり世間話をしたり、問われるままに今まで歩いてきた旅の話しをした。

kusatsu_18.jpgkusatsu_19.jpgkusatsu_20.jpg手原駅に行くと、駅前には「東経136度」の面白いモニュメントがあった。また広場の広範囲な面にソーラーセルが張られていて、街灯の電力をまかなっているようであった。手原には「手孕み伝説」があり、東海道名所記には馬方の話として、
いにしへ、この村の某、他国にゆくとて、その妻の年いまだわかく、かたちうつくしかりければ、友だちにあづけて、三年まで帰らず。友だち、これをあづかり、わがもとに、をきたりしに、人のぬすみ侍べらんことをおそれて、夜は女の腹の上に手ををきてまもりしに、女はらみて、十月といふに、手ひとつうみけり。それより、この村を「手ばらみ」といひけるを、略して、「手ばら」といふとかたりぬ。
よく出来た艶笑小咄である。
手原駅を過ぎ、栗東市上鈎(りっとうしかみまがり)に入ると、上鈎池があり、その堰堤に「九代将軍 足利義尚公 鈎の陣所ゆかりの地」と刻まれた石碑があった。石碑の説明には、
応仁の乱後、勢力が衰え社会は乱れ、近江守護職佐々木高頼は社寺領等を領地として、幕府の返還勧告に応じないため、時の将軍義尚は長享元年十月近江へ出陣、鈎に滞陣した。滞陣二年病を得、延徳元年三月二十五歳の若さで当地で陣没した。本陣跡は西約三百米の永正寺の一帯であったとのこと。
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歩く道すがら、曼珠沙華があちこちで咲いていた。既に盛りは過ぎたようだが、あまりにもけばけばしい赤は好きになれない。コスモスの清楚な感じと対比して見てしまう。
そして、シーボルトと縁のあった「善性寺」。説明板には、
文政9年(1826)4月25日、江戸からの帰途、シーボルトがこのお寺を尋ねたのだそうだ.住職の僧恵は植物学者で、シーボルトは「スイレン、ウド,モクタチバナ、カエデ等の珍しい植物を見学できたと自著に書き記しているとあった。
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いよいよ、草津宿に入る。既に廃川となった古い草津川に架かる草津川橋を渡る。既に河川敷は全面遊び場になっている。川の堤防から下りる途中には火袋付きの立派な道標があり、「右金勝寺志がらき道」、「左東海道いせ道」と書かれている。
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ほどなく、丁字路に突き当たるが、ここが東海道と中山道の追分(分岐点)である。ここで 、右に折れれば中山道、左に曲がれば直ぐに草津の本陣があって、京に続いている。東海道には現存する本陣は「二川宿」とここ「草津宿」だけである。入り口の門の前には今日の宿泊客の「関札」と呼ばれるものが立てられている。そしてこの門をくぐると白州と呼ばれる白い砂利の引かれた空間となり、玄関広間に到着する。
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玄関広間には大勢の大名の「関札」が並べられていた。
そして、畳廊下を通って一番奥の左手には最も格式の高い「上段の間」、その向い側には2番目に格式が高い「向上段の間」がある。
kusatsu_29.jpgkusatsu_30.jpgkusatsu_31.jpgkusatsu_32.jpgkusatsu_34.jpg本陣を出て進んで行くと、直ぐに東海道はアーケードになっていた。四日市、水口に続き3番目のアーケードになった東海道である。しかし、どこのアーケードも精彩を欠いており、シャッターの閉まった店も多いように感じる。東海道の街道が明治になって影響を受け衰退したところも多いが、果敢に生き残って繁栄した街も多くある。しかし、そのような街も再度の時代の変化の影響は避けられないものらしい。
少し進むと、「草津宿街道交流館」があり、本陣の入場券とセットで買っていて、見ることができた。興味を引いたのは、当時の旅籠の朝食と夕食が再現されていたことであった。上客用とのことだが、朝食などは現在と較べても遜色が無いように思える。また、「和宮様」が江戸に下向されたときに出された食事も記録が残っていて、再現されていた。確かに上品に作られているが、一般の旅籠の食事の方が良いようにも見えてくる。
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ここの資料館は、江戸期の書物や絵画を良く集めていて、「東海道中膝栗毛」や「東海道中膝栗毛双六」などがあった。
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進んで行くと、草津宿で一番古く767年創建の「立木神社」がある。祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)で、神社で普通に見られる「狛犬」が「鹿」なのが特色である。歴史を感じさせる神社である。そして、矢倉橋を渡る。
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その後、国道1号線を渡り、旧東海道の続きを進もうとすると、小さな公園にぶつかり、この公園を通り抜けることになる。そして、この小公園には「野路一里塚」の石碑がある。
さらに、広い道路を横断して少し進むと、右側の民家の遠藤家の塀に案内板を見つけた。平清盛の孫にあたる平清宗胴塚があるとのこと。民家であるが案内板があるので、見せて貰っても差し支えないものと、入っていくと大きな旧家のようで、庭を進んで奥まったところに、その塚があった。
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菱で一杯で水面がほとんど覆われた弁天池を過ぎて、しばらく行くと、明らかに日曜大工か何か、プロでない人が作ったと思われる木製の常夜灯があり、ここから「大津宿」、「4.6Km瀬田唐橋」の表示があった。とてもありがたい表示である。下月輪池が近づき「新田開発発祥の地」、「明治天皇御東遷御駐輩之所」などの石碑が纏まって建っていた。
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石碑の前を通り、下月輪池に達すると「東海道立場跡」の真新しい石碑が建てられていた。
その後も左折、右折をしながら街道を辿ってゆくと、石善と言う屋号の山村石材店前に、しゃれた猫の夫婦の像があり、「左旧東海道」、「右瀬田・唐橋」との道標にもなっていた。
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ようやく、瀬田の唐橋に辿り着いた。時間は4時半ころだが、進行方向に向かって写真を撮ると、逆光で夕方のように写るので、通り過ぎてから振り返って撮影した。水面にはボートの練習をする選手達を見ることができた。
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今日は瀬田の唐橋までと考えていたし、時間的にも肉体的にも限界が近づいているため、この辺で切り上げることにして、JR石山駅に向い、まず京都に向い(電車は通勤時間帯ほど混んでいた)、幸いにも直ぐ発車の新横浜停車の「のぞみ」に乗ることができた。