2007.09.22
桑名から庄野
今日の歩行距離(32Km:万歩計を忘れ推計値)
今週も3連休なため、旧東海道歩きに出かけることにし、新横浜6:13分の新幹線「のぞみ」で名古屋に向い、その後、関西本線で桑名に向かって8時10分に桑名に到着する。
桑名には、明治に日本一の地主王となった諸戸清六氏が自宅、庭園を市に寄贈した「六華苑」があり、以前同じ職場に諸戸で[清]の字まで受け継いだ知人がいたので、訪れることにした。
しかし、まだ、8時30分で開園していなかったが、入り口のくぐり戸を押すと、開いたので、そっと鹿鳴館の設計者で著名な英国人ジョサイア・コンドル氏の設計による洋館を写してきた。
長良川の堤防に出ると、長良川河口堰が銀色の輝きを見せ、空も快晴で、今日も暑くなることが予感される。
堤防を南に進むと、「七里の渡し跡」に行き着く。宮の「七里の渡し跡」よりずいぶんと小さいが、かつては伊勢参りの旅人も到着して、大いに賑わったのであろう。
ちなみに、ここの鳥居は伊勢神宮の一の鳥居である。
少し進むと、「諏訪神社」の青銅の鳥居がある。当初鳥居は木造であったが、大風で倒壊し、寛文七年(1667)、松平定重によって再建された。桑名は江戸時代から鋳物業が盛んで、この鳥居も町内の鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立された。慶長金で250両掛かったと言う。高さ6.9m、柱の回り57.5cm、街道脇にあって街道随一の青銅の鳥居として旅ゆく人々にその威容を誇っていた。
その後も再三災難に会い、伊勢湾台風でも船が衝突し倒壊した。その疵は今も残っている。その度に辻内家で何時も修復しているとのこと。
また、「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と脇本陣の石碑に刻まれていたという。
鳥居の左側には、「志類べ以志」と刻まれた石標が立っていて、右側にに「たづぬるかた」、左側には「おしゆるかた」と刻まれている。
「しるべいし」は「迷い児石」とも呼ばれ、迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした石標である。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしたとのこと。
道路の右手の三之丸堀沿いには、東海道53次を模した小公園があり、写真は日本橋を模したものである。
突き当たって左折すると、「桑名市博物館」があり、見学したかったが、まだ開園していなかった。
大きい通りを渡り一つ先の通りを南に向かって進むと、寺町という通りがあり、その名の通り分譲宅地をお寺さんの団体が買い占めたかと思いたくなるほど寺が並んでいる。主な寺を次に示すが、左から右に、上から下に向かって、
「教宗寺」、「光徳寺」、「十念寺」、「壽量寺」、「天武天皇社」(これは寺ではなく神社)、「善西寺」である。
ようやく、寺町を抜けて「員弁川(いなべがわ)」に架かる「町谷橋」を渡る。その後進んで、近鉄名古屋線を「伊勢朝日駅」のそばでよぎり、東芝の三重工場前を通り過ぎたところに「浄泉坊」と言う名のお寺があった。
立派な門構えと思ったら、徳川家に縁のある桑名藩の奥方の菩提寺であったという。山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、参勤交代で表を通る大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたといわれている。
その後、特に特徴の無い街道を進み、朝明川を渡って、山峡鉄道とJR関西本線の交差点を通過し、再び近鉄名古屋線のガードを潜ると、「富田の一里塚跡」があった。石碑のみが、ぽつんと建っていた。
その後も、取り立てて特徴の無い町並みを進むが、近鉄「阿倉川駅」の近くで国道に合流する手前で、とても立派な常夜灯があり、今も電球が付けられ機能しているようであった。
四日市の市街への入り口の海蔵橋を渡る手前に、三ツ谷の一里塚跡の立派な石碑がった。そして、海蔵橋を渡る。
空腹を感じるようになり、道端の食堂に入り天婦羅蕎麦定食を頼むが、今日ははずれであった。天婦羅も蕎麦もいまいち。 相当に空腹でも、美味しいと感じなかった。まぁー、こう言うときもあるだろう。
そして、いよいよ、三滝橋を渡る。広重の描く三滝橋は、板を並べただけの粗末な橋だが、今は広重もびっくりの綺麗で立派な橋だ。
四日市と言えば、「諏訪神社」が一番大きな神社。大きい神社ではあったが、あまりしっくりしない気がした。これほど大きな神社でもお参りに訪れるひとは多くないのであろうか。
そして、その神社脇から続く旧東海道がアーケードになっているのには驚いた。
鹿北橋を渡ると、いいよ日永の追分が近づく。橋を渡ると、天照大御神を祀る「大宮神明社」がある。天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもあるとか。
そして、いよいよ日永の追分が見えてきた。この追分では今でも神水と言われる水が豊富に湧き出しており、近所の方がポリタンクを持って汲みに来ている。水質検査でも飲料水として全く問題ないとのこと。実は、この少し前で飲み水が無くなり、スポーツ飲料でも140円ぐらいなのに、単なる水で150円とは、ぼり過ぎだと思いながらも、買ったところであった。こういうことなら買うのではなかったと思った。水を汲みに来たおじさんが、とにかく飲んでみろと言うので、飲んでみると軟らかい感じの良い水であった。
内部橋を渡って「采女(うぬめ)」という地名に入って行く。「采女」とは元来、豪族の娘などで天皇に食事を出すなどの世話をする女性で地位は低いが、美人であることが要求されたという。三重県は美人が多かったのであろうか。地位が低いとは言っても、才識兼備で気に入られて、高い位に上る例もあったとのこと。
それはさておき、「采女」では、日本武尊が、あまりの急坂で剣を杖の代わりにしたという「杖衝坂」という急坂がある。芭蕉もここを馬に乗って通りかかったとき、鞍ごと落馬して、
「歩行(かち)ならば 杖突坂を 落馬哉」の句を読み、石碑が残っている。芭蕉の句で季語の無い句として有名である。
「杖衝坂」は急でも短い坂で、上りきったところに「血塚社」という小さな神社がある。ここは日本武尊が怪我をした足の血止めをした場所と言われる。その後、旧街道は国道1号線に合流し、しばらくして分岐して「石薬師」の宿に至る。
「石薬師」はそれほど大きな宿ではない。静かな宿の通りを進んで行くと、「石薬師小学校」の校庭の隅に「佐佐木信綱」の記念碑が建っていた。佐佐木信綱と言えば、「夏は来ぬ」、
うの花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす)
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ
・・・・ 懐かしい。
なお、苗字は本来「佐々木」と記したが、信綱が訪中の折、中国には「々」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めたとのこと。
写真の後ろの建物は、信綱が還暦の記念に「石薬師文庫」として寄贈したものである。
小学校の校庭の隅の記念碑、石薬師文庫と並んで信綱の生家および佐佐木信綱記念館があり、色々な遺稿や信綱が愛用した道具類を見ることが出来る。
静かな通りが続くが、街の終わり近くに「石薬師宿」の呼び名の元になった、「石薬師寺」がある。庭の手入れが行き届いており、清々しい感じの良いお寺であった。
いよいよ、「石薬師の宿」から離れるが、石薬師の一里塚跡があり、植えられた木が既に大きく育っていて、すずめの鳴き声が喧しく聞こえていた。
そして、合流した国道1号線を通って、また別れて旧街道に入ってゆくと、「庄野の宿」の案内の石碑が建っていた。
「庄野」は本当に小さな宿で、入ってゆくとすぐに本陣跡の碑。
今日はここまでとして、鈴鹿川を渡って、予約したホテルに向かって痛い足を引きずるようにして歩いて行った。