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2007.04.02

戸塚から茅ヶ崎(2)・・・(旧東海道)

つづきです・・・・
fujisawa__029.jpg遊行寺を後にして、境川にかかる「遊行寺橋」を渡る。 写真の向こうに見えるもう一つの橋は「藤沢橋」で、車はそちらを通る。 歩いていると自然に「藤沢橋」の方に行き着くことになるので、10mほど手前で右折して「遊行寺橋」を渡るのが、旧東海道のルートである。

fujisawa__030.jpg時計を見ると11時30分になっており、そろそろ昼食をとるところを探そうとキョロキョロしながら歩いていたら、ラーメン屋に「ふじさわ本陣跡」の看板が掛かっていた。
もう、本陣跡の遺構などは残っておらず、ラーメン屋の主人が、せめて場所だけでも示そうと看板を掲げたのであろうか。

fujisawa__031.jpg良い食堂はないかと思いながら歩いていたら、米国の田舎町にあるようなレストランが見つかったが、もう少し違ったところは無いかと歩き続けていたら、「白旗神社」への道路が通じている交差点に突き当たった。
交差点の少し手前に「義経の首洗い井戸」などがあるはずだが、見落としたと思って見ると、街の案内図が掛かっていて、その図では、ほんの10mほど手前の交番の脇を入るようになっている。

fujisawa__032.jpg直ぐ引き返し、交番とマンションの間の細い路地を入ると、小さな子供の遊び場のような場所があり、一隅に「義経首洗井戸」と「源義経公之首塚」がならんで配置されていた。
それにしても、首実験の後に腰越の浜にうち捨てられた義経の首が、潮の流れに乗ってこのあたりまで境川をさかのぼってきたとは、出来すぎだろう。 判官贔屓の民衆の後日の創作のような気がしてならない。
ともかく、見学の後、先ほど見付けた米国の田舎風レストランに戻り、昼食をとった。

fujisawa__033.jpg昼食と休憩を取り、元気を回復して「白旗神社」を訪問した。 祭神は寒川比古命(さむかわひこのみこと)、源義経公(みなもとのよしつねこう)であるが、本殿の作りからも格式の高さが窺われ、また社務所などの付属設備を含め、綺麗に整備維持されており、地域の熱意も感じられる。

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元のルートに戻り、引地川を渡れば、「メルシャンワインの工場」が右手に見えてくるが、道の左側に「おしゃれ地蔵」(と呼ばれている)が見えてくる。 実際は道祖神だが、地蔵と呼ばれているようだ。
そして、女性の願いをよく叶えてくれる地蔵で、願いが叶った場合はお礼としてお顔にお化粧を施すのが通例になっているとのこと。 実際にお顔は白く塗られていた。

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やがて、四谷の交差点に達するが、大山道への立派な道標があり、また今は住宅街の一道路になってしまったが、大きな鳥居が残っている。

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fujisawa__039.jpg少し先には四谷の「一里塚跡」の道標が立っているが、単なる鉄製の杭のみである。 もう少し何とかならないものかと思った。 松並木の雰囲気は残っているのにもう少し気を配ってもよいのではなかろうかとも思う。 江戸から13番目の一里塚である。
次いで、親鸞が開祖の浄土真宗本願寺派の上正寺、遊行寺と繋がる時宗の海前寺がある。上正寺の山門前の親鸞像、海前寺の山門前の仁王像はなかなか立派である。 境内に隣接する墓地も両寺とも立派で、最近にも墓地を販売したようだ。 道理で寺の作りも立派にしつらえられる。

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足がもう歩けないと悲鳴を上げ始めたが、だましだまし歩いていると、やっと茅ヶ崎の「SATY」の大きな看板が見えてきた。 そして、駅前の「一里塚」だ。 綺麗に再生された一里塚だ。 江戸から14番目である。やれやれもう直ぐ茅ヶ崎駅だ。

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fujisawa__044.jpg最後に、市役所の庭にある上野寛永寺から寄贈された立派な石灯篭を見学して、今回の旅を終えることとした。
駅前で植え込みの縁石に腰を下ろして、冷たい飲み物を飲み、しばし休息の後、JR茅ヶ崎駅に向かった。

2007.04.07

日本橋から川崎(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計の値は44,979(29.69Km)

まず、「日本橋」から泉岳寺までです。
保土ヶ谷から歩き始めて、茅ヶ崎まで到達した私の「旧東海道てくてく旅」だが、東海道を歩くとすると、その起点の「日本橋」に行かないわけには済まないと、今回は「日本橋」からの歩き出しとなった。
少し早く自宅を出て、東京駅まで行き途中でコ-ヒーを飲んで「日本橋」には7時40分に到着した。土曜日でもあり、早朝のためか日本の大動脈の基点だが、意外にひっそりしていた。

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橋の上には高速道路が走り、可哀想だが橋の欄干脇には、しっかりと道路の起点であるとの掲示板が立っている。 また欄干の柱もとても立派だ。

tokyo_004.jpg道路元標の本物は、橋の中央センターライン上にあるが、とても危険で撮影できない。
そのため、橋のたもとにレプリカ(少し違う?)がおいてある。
今年の新年会を日本橋で開いた帰りに、夜であるのを良いことに強引に橋の真ん中の本物の「道路元標」を撮影したので覧いただきたい。
「日本橋」を出発して直ぐの「西川ふとん」のビルとCOREDOと言う大きなビルの間を入って行くと、「名水・白木屋の井戸」の碑がある。
井戸を掘ると、一体の観音様が出てきたと言うのは眉唾だが、飲料に適した水が湧き出し、住民のみならず大名まで利用したのは事実のようである。
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第一京浜国道を銀座方向に向かって歩いて行き、京橋に着くと昭和34年に川が埋められ撤去された京橋の「親柱」が保存されているのを見ることができる。 小さいのは明治8年建造で、照明設備のある大きいのが大正11年製。
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また、「江戸歌舞伎発祥」の記念碑も建っている。
さらに、歩を進めてゆくと銀座2丁目の交差点を過ぎて直ぐに、銀座発祥の記念碑とも言うべき、銀貨幣鋳造所の碑がある。 
また、銀座4丁目は日本で最も華やかな場所だが、早朝でもあることから思ったよりもひっそりとした感じである。
夜はネオンサインの瞬きがまぶしい輝きを発するのだが・・・
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銀座の一番南の端の銀座8丁目を過ぎると、西條八十(さいじょうやそ)と中山晋平の「銀座の柳の碑」を見ることができる。 明治、大正時代には植えられていた柳は大震災以降に切られてしまったのだが・・・
それにしても、「昔恋しい銀座の柳・・・」は誰でも聞いたことのある懐かしい曲である。
さらに、少し行った「新橋駅」の海側には「旧新橋停車場跡」があり、建物自体は博物館になっている。 11時開館で、見学は出来なかった。
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新橋の「旧停車場跡」を見学した後は、ひたすら南に向かって歩き、浜松町に着いたあたりで、第一京浜より外れ、「増上寺」に寄ることにした。
「増上寺」は、上野寛永寺と同じで徳川家の菩提寺だが、「浄土宗」であるのを始めて知った。
そう言えば、関東では「浄土宗」の家が多いと感じていたが、徳川家が「浄土宗」であったことの影響だろうか。
本堂の裏にある「徳川家墓所」の前まで、公開中だったので、見学した。扉には葵の紋章が取り付けられ、正に、徳川家の墓所の印象である。
tokyo_014.jpgtokyo_015.jpgtokyo_016.jpg「増上寺」見学の後は、再び第一京浜に戻って、「田町」まで歩き続ける。
田町駅前の「三菱自動車」の敷地の隅に、「西郷隆盛」と「勝海舟」が江戸城明け渡しの会談を行った、記念碑が建っている。
やがて、「高輪の大木戸跡」が現れる。
東京のど真ん中に、このような土手のような「大木戸跡」が今まで残っていたとは・・・

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だいぶ、品川に近づいてきたが、品川に着く前に忠臣蔵であまりにも有名な「泉岳寺」に寄る事にした。
山門をくぐると、「大石内蔵助」の銅像がある。 なんだか、商人の大だんなのような感じである。吉良上野介側を欺くために、武士らしい生活を排したために、このようなイメージとなったのであろうか。

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tokyo_021.jpg最後は、線香の煙の絶えることのない、47士の墓標である。
「泉岳寺」にお参りした後は、品川の宿に向かって歩を進めて行くが、長くなるので、続きは新しいエントリーで書くことにする。

日本橋から川崎(2)・・・(旧東海道)

続きです・・・
第一京浜を歩いて品川駅を過ぎ、八ツ山橋でJR線を跨ぎ、旧東海道に進む積りで道順も十分に確かめておいたのだが、八ツ山橋を渡ったところが工事中で、どう進めばよいか全く分からない。
えい、ままよと適当に進んだら、なんと第一京浜を歩いていることに気づいた。 直ぐに、軌道修正して無事「旧東海道」を歩き始めた。
tokyo_022a.jpg第一京浜を歩いてきて、旧東海道に踏み入れると、ここは「古き良き商店街」といった感じで、すこぶる気分が良い。 まだ、こういう商店街があるのだと思った。 商店街自体も「旧東海道」の表示や、雰囲気作りに努力していているのが感じられる。
tokyo_022.jpg歩いていると、「聖蹟公園」という小さな公園があり、その入り口に真新しい「品川宿本陣跡」の石碑が建っていた。 立て札には、49番目の宿場の滋賀県甲賀郡土山町から寄贈された松であると、書いてある。
それにしても、工事用の円錐の置物とビデオの看板は何とかならないのだろうか。
やがて、品川橋に至る。 橋からの眺望は桜の花が映えてなかなか綺麗である。 橋の上にもベンチがあり、案内パネルが設置され、良い感じ。
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商店街の中にある、小さな広場の一隅にも松が植えられていたが、この松は浜松市からいただいたものとのこと。
それにしても、腹が減ってきた。 どこか品川らしい食事が取れるところがないかと、見ながら進むのだが、こういう古い感じの商店街では案外見つからない。 なんとか、うなぎを食わせる小さな店があったので、ここで昼食をとった。

tokyo_025.jpg品川宿にはほんとうにお寺が多い。 多すぎてとうてい全ては回れないが、いくつか訪れた寺を紹介する。
まず、「海蔵寺」であるが、まったく何の変哲も無い、殺風景な境内のお寺であるが、飢饉で亡くなった人、牢死した人、娼婦など、社会の弱者を弔っている。
品川寺は、大仏かと見まがう地蔵菩薩に驚かされるが、見ることは出来ないが「板垣退助」の墓がある。
「海晏寺」は曹洞宗のお寺だが、この辺りでは最も綺麗な境内で「岩倉具視」の墓があるとのことだが、やはり見学は許されない。
tokyo_026.jpgtokyo_027.jpgtokyo_028.jpgお寺を覗き込みながら、歩いていると「立会川」に掛かる「浜川橋」に至る。 この橋は別名「涙橋」と呼ばれるそうで、鈴ケ森で処刑される罪人が身内と別れる橋であることから、こう呼んだのだという。 今なら、さしずめ平和島の競輪場帰りの人が財布を空にして、泣きながら渡るのかもしれない。
いずれにしろ、訪れるこちらも向かう場所が場所だけに、緊張感が増してくる。 出来れば近寄りたくない気持ちも嵩じて来る。 しかし、その辺を歩いている人達は、子供も含めて全く屈託の無い顔をしている。
慣れと言うこともあるのだろうが、人々の雰囲気に救われる気もする。
そして、いよいよ「鈴ケ森刑場跡」に到着する。 直ぐ傍を走る第一京浜の車の騒音に助けられて、思ったほどの緊張を感じることも無く向き合うことが出来た。 
処刑第一号は由比正雪の乱で有名な「丸橋忠弥」であり、他に歌舞伎で有名な「八百屋お七」などが露と消えた。
礼を欠くことの無いように手を合わせ、早々と立ち去った。
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tokyo_031.jpg鈴ケ森を過ぎてからは、旧東海道は、また第一京浜と一緒になり、多摩川の六郷の橋まで、長い長い単調な道が続く。

tokyo_032a.jpg多摩川に近づいたころ、旅人の常備薬の「和中散」を販売していた山本家が開いた茶屋がある。
屋敷内には多くの梅を植えていたため、現在では「梅屋敷公園」となっており、京浜急行の駅名にもなっている。 当時は大名も立ち寄るほどに繁盛したとのこと。
ようやく多摩川を越えて、川崎に入る。 川崎も旧東海道の整備をしているのか、「旧東海道」と書かれた石碑が建っていた。 

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tokyo_034.jpg川崎市内の旧東海道を歩いていると、田中本陣跡の表示があった。
ようやく、市役所通りに突き当たり、右折すると、街の様子が一変して突然に現在に引き戻される感じだ。 ともかく、川崎駅に向かい、本日の旅も終わることとなった。

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