2007.04.07

日本橋から川崎(2)

続きです・・・
第一京浜を歩いて品川駅を過ぎ、八ツ山橋でJR線を跨ぎ、旧東海道に進む積りで道順も十分に確かめておいたのだが、八ツ山橋を渡ったところが工事中で、どう進めばよいか全く分からない。
えい、ままよと適当に進んだら、なんと第一京浜を歩いていることに気づいた。 直ぐに、軌道修正して無事「旧東海道」を歩き始めた。
tokyo_022a.jpg第一京浜を歩いてきて、旧東海道に踏み入れると、ここは「古き良き商店街」といった感じで、すこぶる気分が良い。 まだ、こういう商店街があるのだと思った。 商店街自体も「旧東海道」の表示や、雰囲気作りに努力していているのが感じられる。


tokyo_022.jpg歩いていると、「聖蹟公園」という小さな公園があり、その入り口に真新しい「品川宿本陣跡」の石碑が建っていた。 立て札には、49番目の宿場の滋賀県甲賀郡土山町から寄贈された松であると、書いてある。
それにしても、工事用の円錐の置物とビデオの看板は何とかならないのだろうか。
やがて、品川橋に至る。 橋からの眺望は桜の花が映えてなかなか綺麗である。 橋の上にもベンチがあり、案内パネルが設置され、良い感じ。
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商店街の中にある、小さな広場の一隅にも松が植えられていたが、この松は浜松市からいただいたものとのこと。
それにしても、腹が減ってきた。 どこか品川らしい食事が取れるところがないかと、見ながら進むのだが、こういう古い感じの商店街では案外見つからない。 なんとか、うなぎを食わせる小さな店があったので、ここで昼食をとった。

tokyo_025.jpg品川宿にはほんとうにお寺が多い。 多すぎてとうてい全ては回れないが、いくつか訪れた寺を紹介する。
まず、「海蔵寺」であるが、まったく何の変哲も無い、殺風景な境内のお寺であるが、飢饉で亡くなった人、牢死した人、娼婦など、社会の弱者を弔っている。
品川寺は、大仏かと見まがう地蔵菩薩に驚かされるが、見ることは出来ないが「板垣退助」の墓がある。
「海晏寺」は曹洞宗のお寺だが、この辺りでは最も綺麗な境内で「岩倉具視」の墓があるとのことだが、やはり見学は許されない。
tokyo_026.jpgtokyo_027.jpgtokyo_028.jpgお寺を覗き込みながら、歩いていると「立会川」に掛かる「浜川橋」に至る。 この橋は別名「涙橋」と呼ばれるそうで、鈴ケ森で処刑される罪人が身内と別れる橋であることから、こう呼んだのだという。 今なら、さしずめ平和島の競輪場帰りの人が財布を空にして、泣きながら渡るのかもしれない。
いずれにしろ、訪れるこちらも向かう場所が場所だけに、緊張感が増してくる。 出来れば近寄りたくない気持ちも嵩じて来る。 しかし、その辺を歩いている人達は、子供も含めて全く屈託の無い顔をしている。
慣れと言うこともあるのだろうが、人々の雰囲気に救われる気もする。
そして、いよいよ「鈴ケ森刑場跡」に到着する。 直ぐ傍を走る第一京浜の車の騒音に助けられて、思ったほどの緊張を感じることも無く向き合うことが出来た。 
処刑第一号は由比正雪の乱で有名な「丸橋忠弥」であり、他に歌舞伎で有名な「八百屋お七」などが露と消えた。
礼を欠くことの無いように手を合わせ、早々と立ち去った。
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tokyo_031.jpg鈴ケ森を過ぎてからは、旧東海道は、また第一京浜と一緒になり、多摩川の六郷の橋まで、長い長い単調な道が続く。

tokyo_032a.jpg多摩川に近づいたころ、旅人の常備薬の「和中散」を販売していた山本家が開いた茶屋がある。
屋敷内には多くの梅を植えていたため、現在では「梅屋敷公園」となっており、京浜急行の駅名にもなっている。 当時は大名も立ち寄るほどに繁盛したとのこと。
ようやく多摩川を越えて、川崎に入る。 川崎も旧東海道の整備をしているのか、「旧東海道」と書かれた石碑が建っていた。 

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tokyo_034.jpg川崎市内の旧東海道を歩いていると、田中本陣跡の表示があった。
ようやく、市役所通りに突き当たり、右折すると、街の様子が一変して突然に現在に引き戻される感じだ。 ともかく、川崎駅に向かい、本日の旅も終わることとなった。

2007.04.14

川崎から保土ヶ谷へ

本日の万歩計の値は31,881(21.04Km)

日本橋から茅ヶ崎までつながりました。
kanagawa_001.jpg昨日の天気予報で、朝早くは雨が残ると心配したが、朝起きると、うす曇りの様子で、太陽が出るとたちまちに青空が広がる感じ。
今日は午後は用があり、午前中のみの予定なので、朝5時半に家を出て何とか川崎から保土ヶ谷までを歩いて、日本橋から茅ヶ崎まで繋ぎたいと思う。
川崎駅に着き、以前引き上げた市役所通りを進み、旧東海道にたどり着く。
旧東海道は、現在では「いさご通り」と呼ばれている通りである。 通り名を示すポールを裏側から見れば、ちゃんと「旧東海道」となっている。
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旧東海道の通りをどんどん歩いていって、八丁畷駅に着く少し手前に芭蕉の「句碑」がある。「麦の穂を たよりにつかむ 別れかな」とあり、碑の前にも、これにちなんで麦を植えてある。門弟たちとの惜別の思いを歌ったものとのこと。
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駅の直ぐ横に「旧東海道」の立派な表示板があるので、安心して進める。やがて、「市場の一里塚」に出くわす。
元の一里塚の形は崩れて、新たに石碑などを集め、「稲荷の祠」も合わせて、作り直したのであろう。
とても、やさしいお顔の双体の道祖神も祭られていた。
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程なく、鶴見川橋に到着する。 JRの鉄橋も平行に掛かっているので何時も電車から特徴のある橋を眺めていたが、今回初めて橋を渡った。 橋を渡ってしばらく進むと、特徴のある狛犬の「鶴見神社」がある。
年配のおじさんが、どこから歩いてきたのかと話しかけてきたので、日本橋からと答えると少し驚いた様子であった。 また、今年中に出来れば京都まで行きたい旨話すと、それはとても良い事、気をつけて続けてくださいと言ってくれた。
kanagawa_008.jpgkanagawa_009.jpgkanagawa_010.jpg「鶴見駅」を過ぎて、右手方向に曹洞宗の大本山の「総持寺」がある。
総本山と言うだけあって、規模がとても大きい。 面積は50万平米もあり、50余の堂塔を擁し、緑もとても豊かである。 有名人の墓地も多数とのこと。
しかし、曹洞宗の総本山は福井県の永平寺ではなかったのかと思い、調べたら曹洞宗には開祖の道元が建立した永平寺と太祖と呼ばれる蛍山(けいざん)が建てた総持寺の2つの総本山があり、宗派の代表も両方の寺の貫首が交互に勤めるとのこと。
修行道場の永平寺と布教の総持寺と役割分担をしているようだ。
kanagawa_011.jpg総持寺を訪れた後は、「生麦魚河岸通り」に進んでくる。 通りの名前の通り、新鮮な魚介類を売る多くの店がある。
「生麦魚河岸通り」を進んでいると、突然人家の塀に「生麦事件発生現場」の説明板が取り付けられていた。
さらに、歩いて第一京浜との合流点まで進むと、「生麦事件の碑」が建っている(詳細は図をクリック)。
この事件で英国人4人の内の1人、リチャードソンが斬られて死亡したが、上海から来たばかりで日本人を中国人同様に見下げていたのが、態度に表れたのも一因だったように思う。
kanagawa_012.jpgkanagawa_013.jpgkanagawa_014.jpg京浜急行の「仲木戸駅」またはJRの「東神奈川駅」への入り口の交差点に差し掛かったら、横断橋を渡り少し進んでコンビニのある角を左に曲がる。 直ぐに金蔵院(こんぞういん)と言うお寺がある。 神奈川の宿では一番古いお寺で平安期の建立とのこと。 小さいがなかなか立派なお寺であり、関東大震災の横死者の供養塔がある。
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「金蔵院」の直ぐ近くに紀州の熊野神社を勧請して平安期に創建された「熊野神社」がある。境内の手入れが良く行き届いており、格式の高さをうかがわせます。
最近では、お寺に比べ神社の荒廃ぶりが目に付きます。 お寺のように葬儀、墓地の分譲等による収入がないのでよほど格式が高いか、サポート団体がしっかりしていない限り、台所事情が苦しいと見られる。
kanagawa_016.jpgそれにしても、この通りは直ぐ近くを第一京浜が通っていることが嘘のように静かで、細い通りながら旧東海道の雰囲気を復活させたいと考えているようで、道路の両脇にはまだ若木だが松の木が植えられている。この写真のように高札場(こうさつば)も復活されている。 復活されたものとは言いながら、実物を見るのは、始めての経験である。「高札場」とは、現在のようにマスコミが発達していなかった江戸時代には、宿場の入り口に伝達事項等を掲示して民衆に周知徹底を図ろうととしたもので、宿場の大事な機能の1つとして必須であり、その規模も間口5m、高さ3.5m、奥行き1.5mと大きなものであった。

kanagawa_017.jpg次に訪れた「成仏寺」は横浜開港当時、アメリカ人宣教師の宿舎として供されたお寺で、ローマ字の「ヘボン式」で有名な「ヘボン博士」が逗留したことで有名である。

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次の「慶運寺」はフランス領事館に供せられた他、慶応の大火で焼失した浦島伝説を持つ浦島院観福寿寺を併合したので浦島寺と呼ばれているとのこと。 竜宮城から帰った浦島太郎が両親の死後300年も経っているのを知り、大いに悲しみ、庵を作って両親を弔い、この庵が後に観福寿寺となったと記してあった。
お寺の山門脇の寺名碑も、亀が背負っている。事実としての歴史の確定はつくづく難しい作業であることを思い知らされるものであった。
kanagawa_020.jpg次に訪れた浄滝寺はイギリス領事館として使用されたが、今は全面改修工事中であった。
宗興寺は、全面的に建物を新しくしたのか、近代的な建物になっている。
この「宗興寺」は、医学博士でもあるヘボン氏が医療院を開いた寺で、その記念碑が建っている。

kanagawa_021.jpgkanagawa_022.jpgkanagawa_023.jpg次に洲崎神社にお参りした。 洲崎神社は源頼朝が安房神社を勧請して幕府直轄として創建した神社で、格式も高く宮前商店街のアーチ型の表示もあるが、やはりお寺と比べた場合の経済的な差は歴然としている。
商店がサポートしているように見えるが、常駐の神主も置けず境内は掃き清めることも出来ていない。
第一京浜と第二京浜が合流して、JRと京急を跨ぐ「青木橋」を渡ると、直ぐ右側に「本覚寺」の階段がある。
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kanagawa_024.jpg「本覚寺」はハリス総領事が自らアメリカ領事館に選定した寺で、小高い丘にあり、当時は横浜の港も良く見えたのが選ばれた理由と言う。山門は白いペンキで塗られたが、これは日本で始めての「ペンキ塗装」とのこと。
また、生麦事件では、2人のイギリス人が逃げ込み、ヘボン博士が治療にあたった寺でもある。
kanagawa_025.jpg「本覚寺」を後にして、旧東海道の方に曲がって少し進んで驚いた。街の中で突然にトンネルが口を空けている。後で調べたら、「みなとみらい線」に乗り入れて、不要になった「東横線」の反町と横浜間のトンネルであった。
今後、このトンネルはどうなるのであろうか。しばらく進むと少し上り坂となって「台町」と呼ばれる街となる。ここには安藤広重の「神奈川宿台之景」に描かれた「さくら屋」が屋号を「田中屋」に変え、今に続いているのに驚かされる。 
kanagawa_026.jpg坂本竜馬の妻であった「おりょう」が仲居として働いていたこともあるとのこと。また、以前はお店の直ぐ裏まで海が迫っており、大変に景色が良かったところと伝えられている


kanagawa_027.jpgさらに進むと、「神奈川台関門跡」と書かれた石碑があるが、これは横浜開港後、外国人が大勢殺傷され、イギリス総領事のオールコックらの激しい批判に、幕府も警戒を強化するため設けた「関門」の跡である。
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あとは、旧東海道をひたすら進んだ。 浅間神社を見ながら歩を進めて行くとやがて相鉄線の「天王町駅」を通り、保土ヶ谷方面に進む。保土ヶ谷に達する少し手前で「遍照寺」と言う寺があったが、写真のように建物の正面に仁王が配置されたもので、新しい感覚の寺の様相を示していた。
本日は、午後から所用があるため、午前中のみの歩行と決めていたが、川崎から保土ヶ谷まで歩くことが出来、これで、日本橋から茅ヶ崎まで繋がったことになる。

2007.04.21

茅ヶ崎から小田原へ(1)

本日の万歩計の値は57,497(37.95Km)
日本橋から小田原までつながりました。
日本橋からの距離は81.4Kmです。
まず、茅ヶ崎から平塚までを記述します。
chigasaki_001.jpg今日は、東戸塚を朝4時59分発の1番電車で以前に引き上げた茅ヶ崎駅に向かった。1番電車に乗る必然性はないが、今後歩く区間が遠くになった場合に必要となる考え、その様子見のために選択した。
5時半には、茅ヶ崎駅に着いたが、さすがに土曜日の早朝であるだけに、ひっそりとしている。
chigasaki_002.jpg茅ヶ崎を出発すれば、直ぐに馬入川に到達できるような気でいたが、歩いてみると案外遠い。
まず最初に「鳥井戸橋」に到着して、橋を渡り終えたところにある「左富士の碑」に対面する。 道路の進む方向が急に北に振れたので、富士山が左手方向に見えるというものだが、東海道では富士山が左に見えるのは、ここと「吉原宿」だけとのこと。
chigasaki_003a.jpg「左富士の碑」は道路の左側に建っていたが、右側には「鶴嶺八幡宮」の大きな鳥居が見える。
「鶴嶺八幡宮」の祭神は「応仁天王」、「神武天王」であり、大変古く、茅ヶ崎の総社であったという。
参道が長く、800mほどもあるので往復すると1.6Km歩くことになるが、行ってみることにした。
荒れていた神社を別当寺常光院の住職・朝恵上人が再興し、慶安2年(1649)には徳川幕府から社領をもらって、記念として参道に松を植えたという。たしかに見事な松並木だ。 本殿に近づくと松以外の樹種も混じるが、地元の人達の寄進による石灯篭の並びも神域に近づく気分にさせる。
chigasaki_003.jpgchigasaki_004.jpg
「鶴嶺八幡宮」には、下の写真の左に示す「女護ケ石」と呼ばれているものがある。
この石は女性の守護神とされており、どこか体に悪いところがあると、石と患部を交互にさすると治癒すると言われている。
また、境内には「大イチョウ」の木がある。 よく神社には大きなイチョウの木があることが多いが、この「鶴嶺八幡」の大イチョウは、ことさらに大きい。
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chigasaki_007.jpgさらに、進んで行くと「旧相模川橋脚」の大きな表示ポールが建っていたが、実際の橋脚は保全処置の工事中で見ることが出来なかった。
説明の掲示板によると、傷みが激しいので古い橋脚の木材は粘土で覆って、コンクリートを被せる。 それで、レプリカを見られるようにするとのこと。 しかし、本物は誰も見ることも触れることもなく時を重ねるだけとなるが、それで、どうなのだろうか。

chigasaki_008.jpgほどなく、相模川に架かる馬入橋を渡る。 日本橋から62Kmの現代の一里塚表示が見える。先ほどの旧橋脚から相当離れているが、鎌倉時代から流れもかなり変わったことが分かる。
chigasaki_009.jpg平塚に着いて、駅に立ち寄りコーヒーを飲みながら今後の作戦を立てる。
まず、番町皿屋敷で有名な「お菊の塚」が駅の近くにあるので訪れることにしたが、小さな通りにある小公園の一隅にあり、ずいぶんと探し回ることとなった。 小公園はゴミの収集場所になっているようで、カラスが「生ゴミ」漁りをして、とんでもない状況になっていた。
お菊さんに別れを告げて、駅前の大通りに戻り、国道に面している「平塚八幡宮」を訪れる。
さすがに、相模国の総鎮守の格式を誇っていただけに立派なものだ。 源頼朝も政子の安産を祈って神馬を奉納したという。
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平塚は第二次世界大戦時には軍需工場があったため、爆撃され歴史的な遺構はほとんど残っていない。
「江戸見付」の石垣は残ったものの、それ以外は最近になり場所を示す石碑を建てて、以下のように、旧東海道を示している。
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chigasaki_015.jpgchigasaki_016.jpg
平塚には平塚の名前の由来となった「平塚の塚」がある。桓武天皇の孫の政子が天安元年(857)に父の高見王に付いて常陸の国に下向する途中、ここで没して葬られた場所だという。
塚の石碑の隣には大きな石碑が建っている。 漢文で読めない。
chigasaki_018.jpgchigasaki_017.jpgchigasaki_019.jpg最後に、「京方見附跡」をみて平塚を離れ、「大磯」に向かう。 市の境の花水橋から見ると、特徴のある山体の高麗山(こまやま)が、昔と変わらぬ秀麗な姿を見せる。 本当に安藤広重の版画と同じだ。

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国道と離れて、化粧坂(けわいざか)への旧道を歩く。 松並木は他の樹種も混じって雑木林の様相だが、それはそれでよい感じだ。 国道との分岐点から、僅かのところに「化粧井戸」がある。
鎌倉時代に白拍子であり、あだ討ちで有名な曽我兄弟の兄 曽我十郎祐成と恋仲になった虎御前が、化粧をした井戸と伝えられている。 直ぐ後ろに密着して民家があり、史跡の場所としては良くない条件である。
それにしても、直ぐ後ろの民家は、どうして壁を黄色などに塗るのだろう。 アンバランスが際立つ。
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化粧坂から続く道を歩いていたら、JRの線路にぶつかるが、地下をくぐる歩道が付いている。
潜り抜けると、見事な松並木が残っており、いよいよ大磯の市街に近づくが、続きは新エントリーで・・・
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2007.04.22

茅ヶ崎から小田原(2)

大磯から小田原まで・・・
chigasaki_024.jpg大磯市街に到着して、最初に地福寺を訪れた。 地福寺は「島崎藤村」と妻の静子の墓がある。
どちらの墓もシンプルでモダンな感じであり、墓碑にも戒名などはなく、島崎藤村墓、島崎静子墓と書かれている。 境内には芽吹いたばかりの梅の木があり、その配置もよく、美しいお寺である。
島崎藤村といえば「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子哀しむ」という「千曲川旅情の歌」を思い出した。
chigasaki_025.jpgchigasaki_026.jpgchigasaki_027.jpg島崎藤村の墓のある地福寺を訪問してから、虎御石のある延台寺を通り越したことに気が付き、少し戻って(100m程度)見学することにした。虎御石とは、高麗山麓に住んでいた山下長者が子宝祈願をして、小石を授けられ虎御前が生まれたが、小石は虎御前とともに大きくなったとのこと。あるとき曽我十郎を狙って遠矢を放ったものがいたが、矢はこの石に当たって命拾いしたとの伝承もある。この石がお堂に納められているが、もちろん覗き込むことは出来ない。
それにしても、山下長者は自分の娘を遊女である白拍子にしたとは思えないのだが、大勢の遊女を抱えていたようで、自然に自分の娘もその方向に進んでいったのであろうか。
chigasaki_028.jpg大磯はかつては、大勢の名士が別荘を構えていたところであるが、この写真のような、大変古いと思われるお店も残っているのが面白い。
また、大磯は海水浴の発祥の地でもあり、湘南の発祥の地でもある。 その石碑も建っている。

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大磯での圧巻は、西行法師で名高い「鴫立澤の庵」が残っていることである。
第一国道の直ぐ脇にあって、わずか2m程の階段を降りると、そこは別世界で国道の騒音も頭の上を越えていくのか以外に静かだ。 それだけではない、沢の水音も聞こえる。見ると、残念ながら生活排水が混じっている水ではあるが、そこそこに綺麗な水が流れている。
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小田原の崇雪が「鴫立澤」の標石を建てて、草庵を結んだのが始まりとのことであるが、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とあわせ日本三大俳諧道場と称されるだけあって、草葺の庵の風情はもう和歌の世界である。
鴫立澤と言うと、高校時代に習った古文の授業での西行法師の歌の「心なき、身にもあわれは知られけり、鴫立つ澤の秋の夕暮れ」を思い出す。
理科系の人間の常として、国語、古文などは苦手なのであるが、古文の先生の授業がうまかったのか、とてもしんみりと心に響く気がしたのを思い出す。 大げさかもしれないが、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもあった。
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一服の清涼剤の「鴫立庵」を後にして、まだ心は惹かれるようだ。鴫立つ澤の秋の夕暮れの歌は、新古今集の三夕の歌として名高いが、あとの2つはと考えて、藤原定家の「ふりむけば、花も紅葉もなかりけり、裏のとまやの秋の夕暮れ」を思い出したが、もう一首が思い出せない。 後で調べたら、もう一首は寂連の「寂しさは、その色としもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」だった。
しかし、私はやはり西行の一首が一番好きで、和歌としても群を抜いているように思える。
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余韻を引きずりながら歩き、島崎藤村の旧宅を見るのを飛ばしてしまった。周りを見ると、見事な松並木でもう、戻るには遠すぎる。それにしても、一番大きな木は太さ4.3mもある。
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やがて、伊藤博文公の別荘跡(別荘は既に中華料理屋になっている)の前を通り、吉田茂氏の別荘前に達する。
吉田茂邸は立ち入りは許可されないが、大きく海岸側に回ると、吉田茂翁の銅像だけは見ることが出来るように開放されている。 戦後の政治体制の基礎のほとんどを吉田内閣で作った功績は大としたい。
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吉田茂の銅像を見た後は、城山公園への旧道分岐まで戻り歩き始める。
ところどころ、国道と別れて旧道となっているところもあるが、基本的には単調な道を辿ることになる。 
そろそろ、お昼の時刻になったので、どこかで食事にしようと適当なお店がないかと探しながらあるく。一軒の蕎麦屋が見つかったので、入って「天ざる蕎麦」を注文する。ふと見ると火気取り締まり責任者の名前は女性だったので、女性の板前さんかと思ったが、帰りに厨房を覗き込むと、中東から来たと思われる人が調理していた。
こういう店にも、外国人労働者かと、少し考えてしまった。
食事の終え歩き続けると、ほどなく二宮に到着した。二宮では駅前に建つ、「ガラスのうさぎ」の像を見る。 空襲で父を失った戦争体験を描いた「ガラスのうさぎ」の記念碑とのこと。 直ぐ後ろには、駅の開設に尽くした「伊達時」の顕彰碑が建っている。
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二宮駅の海と反対側には「吾妻山公園」があり、上ると富士山を見る絶好の場所だが、以前に菜の花の咲くのを見に訪れていたので今回はスキップすることにした。
なお、吾妻山神社は、三浦半島から海路上総に向かう日本武尊が海神の怒りに触れ暴風雨にあったとき、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を投げ海神の怒りを静めたとの言い伝えがあり、やがて海岸に打ち上げられた櫛を埋めたところに、神社を築いたものだという。
当時としては海が荒れたのを鎮めるには、若い女の人身御供以外に方法はなかったのであろうが、弟橘媛はこの地方で勢力を誇った豪族の娘との説もある。
ともかく、吾妻神社は今は縁結びの神として崇拝されているとのこと。
chigasaki_043.jpgやがて、旧道との分岐点に押切坂の一里塚跡の碑が現れる。 うっかりすると見落としそうな目立たない場所にひっそりと建っていた。
さらに、海岸に近づく国道を歩いていると、国府津を過ぎた頃「小八幡の一里塚跡」に達する。 全く一里塚跡は残っていなかったが、記録をしらべてこの辺りと決定したとのこと。

chigasaki_044.jpgchigasaki_045.jpgchigasaki_046.jpgそして、いよいよ「酒匂川」を渡る。日本橋を出発してから多摩川に次ぐ大きな川であるが、何故か「二級河川」だ。また、「酒匂川」と言うと、東名高速での高い高い橋げたが印象に残っているが、この辺りの川は海に近いので様相は大きく異なる。 また昔の酒匂川は夏は徒渡りで冬だけは仮橋を架けたそうだ。

chigasaki_047.jpg実際の渡しは、現在の橋より上流に70mほどの地点で、そこから国道を跨いでから左折するのが旧街道だが、その旧街道の左折するところに、「新田義貞の首塚」の案内が出ている。
もう1本海側の細い通りだが、小さな広場のような公園の脇に通路があり、首塚に行けるようになっている。義経の首塚同様、あまり関心を払われたものには見えないが、塚の隣には小田原市長鈴木十郎書と刻まれた、立派な新しい碑が建っている。
酒匂川を渡って、しばらく進むと小さな山王橋に行き着く。これを渡り、250m程進んだ浜町歩道橋のところに、「江戸口見附跡」があるが、説明板の前にはデーンと選挙のポスターの掲示板が設置されており、説明を読むことが全く出来なかった。
chigasaki_048.jpg江戸見付跡の標識と説明の掲示は旅行者用に設け、より一層訪れる人を誘う積りと思うが、選挙期間中であり、選挙ポスターの掲示場所を確保するのが難しかったのであろうと思うが、残念である。
新宿(しんしゅく:濁らない)の交差点で、左折して最初の4つ角で右折して、「かまぼこ横丁」と呼ばれる通りを進む。 ここで、左手側に見えてくる「古清水旅館」はかつては脇本陣であった場所であり、明治天皇行在所の碑のある場所は「清水金左衛門本陣」のあったところである。
chigasaki_049.jpgchigasaki_050.jpg
本町の信号までたどり着いて、小田原市がサービスしている無料休憩所に入り、お茶をいただいた。
お茶を出してくれたおばさんは、時々京まで歩くという人も訪れると話していた。
お茶をいただいて、今日はこれで切り上げる積りであったが、小田原駅近くの「おしゃれ横丁」にある北条氏政、氏照の墓を訪れることにした。「おしゃれ横丁は」細い路地のような通りで、若者で賑やかなところであり、こういうところの一角に墓があるのも、何だか場違いな感じであった。
墓は武士らしく五輪塔の形を成している。しかし、豊臣秀吉との戦いに敗れてのこととは言え、関東一円を支配した後北条家の武将の墓としては、あまりにも小さな墓石である。右側の比較的大きな五輪塔は氏政夫人の墓と説明板に記されているが、氏政、氏照の墓は夫人より軽いあつかいだったのだろうか。
この辺に秀吉の人間としての度量を見る思いがする。
chigasaki_051.jpgchigasaki_052.jpg
chigasaki_053.jpg最後に小田原駅に飾られている、大きな小田原提灯をカメラに収め、今日の旅を終えることにした。
いよいよ、天下の瞼、箱根越えに向かうところまで来た。 昔も今も難所であるらしいので、周到に用意しようと思う。
そういえば、昔は箱根の関が開くのは6時から夜の6時までだったので、急ぎの旅人は暗いなかを歩いて、朝に関が開き次第通過したのだという。そのため、夜道を歩く提灯は必需品で、小田原で歩行に便利な提灯として、後に「小田原提灯」と呼ばれるのが売られたのであろう。

2007.04.29

小田原から箱根

本日の万歩計36,816(24.3Km)
今日は東海道53次で一番の難関と言われていた、箱根の攻略である。
とにかく、朝早くの出発を心がけて東戸塚をam5:33の電車にのり、戸塚駅で東海道に乗り換え小田原にはam6:21に着く。
hakone_001.jpgまず、前回立ち寄った小田原市運営の無償の休憩所のある、本町の交差点に向かった。なかなか、趣のある建物だが、大正12年の関東大震災に被害を受けた網問屋の建物を昭和7年に再建したものとのこと。 これを整備して使っているが、「出桁造り(だしげたつくり)」という典型的な当時の商家のつくりだという。
本町の交差点から一路箱根方面に向かって歩き始めると、ほどなく右手に「ういらう(ういろう)本舗」のお城のような壮麗な建物が見えてくる。「ういろう)」というとお菓子の「ういろう」の方が一般に知られるようになったが、ここでは「透頂香(とうちんこう)」という万能薬も売っている。 
「ういろう」についての詳細はこちらをご覧ください。 最近では名古屋が「ういろう」の本家のような様相だが、やはり小田原が本家らしい。
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hakone_004.jpg小田原の市街を離れて箱根路への旧市街の路は、辻毎に道祖神が祭られている。一礼して通り過ぎる。やがて「板橋地蔵尊」に行き着く。縁日には賑わうそうだが、普段はひっそりとしている。大きな大黒像がユーモラスにも見える。

hakone_003.jpghakone_003a.jpg
入生田の郷に入ると長興山招太寺がある。 参道を入ると直ぐ左手に寺名碑が建っている。ここを入れば、珍しい茅葺屋根の本堂がある。
三代将軍家光の乳母の「春日の局」は後の小田原城主の稲葉正成の後妻であり、招太寺には稲葉一族と「春日の局」の墓があるはずである。
しかし、私はここで大失敗をした。 最初、本堂はもっと奥の方と思い、どんどん参道を進んでいったが、階段と石畳の連続で700mも進んで、広いみかん畑と主要伽藍の建設跡地という表示板に行き着いただけであった。
とにかく、階段も自然石を加工はしているが綺麗にそろったものではなく、石畳ともとにかく歩きにくい。急坂でもあり、700mの往復でかなりスタミナを消費してしまい、後々まで体調に影響するほどのものであった。 しかも、残念なことに「稲葉一族」の墓も「春日の局」の墓も見付けられなかった。
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さらに進むと、「福沢諭吉」の提言で作られた「日本初の有料道路の表示板」がある。カメラをかまえる腕の影が写っているのがご愛嬌。
国道から一段高く「箱根登山鉄道」との間に歩道が作られているところがあり、単純な歩道を歩くより面白い。
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若い夫婦は、自転車で箱根登山のようだ。 若者の団体で相当な急坂も自転車で登って行くのも見かけた。
そして、いよいよ箱根への入り口の「三枚橋」を渡る。 いよいよ箱根に登る気分がたかまってくる。
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「三枚橋」で国道1号線と別れて、県道を歩いてゆくと道路の直ぐ右に後北条氏の菩提寺の「早雲寺」がある。北条早雲の遺命で、その子の氏綱が建立した。
曹洞宗のお寺で、大きなお寺ではないが境内は掃除が行き届いており、植木なども綺麗だ。 このようなお寺は入っただけで気持ちが清々しくなる。そして、右手の墓地の奥まったところに、後北条氏の5代の墓が並んでいる。 高野山にある秀吉のひときわ大きい五輪塔の墓と比べて対照的だが、こちらの方が清々しい。
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やっとの思いで、最初の石畳道の入り口に到着する。後で、もう石畳などコリゴリと言う気分にさせられるのだが、このときは期待感が高まった。 写真で見るとどこかの民家の方に入ってゆく道に見えるが、奥の車の駐車しているのが見える左側に入り口がある。 表示も写真の左の方に見える細い表示柱だけで、もう少しで見逃して通り過ぎるところであった。
hakone_013.jpghakone_014.jpghakone_015.jpg石畳を降りきったところに「さるはし」と書かれた橋があるが、その上には「箱根湯元ホテル」の本館と別館との間の渡り廊下が掛かっている。 廊下を通る宿泊客の足音が聞こえ、ちょっと興醒め。そして、この石畳道に住みついているらしい、猫に出会った。
hakone_016.jpgしばらく行くと、道路の右側に「天聖院」と書かれた、やたら派手なお寺が建っていた。箱根大天狗山神社の別院とのことだが、覗いて見える本殿も金ぴかだし、釣鐘まで金色なのは尋常とは思えない。いったい、どういうお寺なのだろう。
県道をひたすら歩いて、初花の瀑布の碑を過ぎると、「鎖雲寺(さうんじ)」が左手にあり「勝五郎」と「初花」の比翼の塚と呼ばれる墓がある。
初花と勝五郎の話は、「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいだりのあだうち)」に出てくる話である(詳細はこちらを参照)が、初花は現代でも通用する名前であるため、これを冠したものはホテル以外にも多くのお店で見られる。
hakone_013a.jpghakone_013b.jpghakone_018.jpg「鎖雲寺」を過ぎ、また県道を離れた道路歩きを味わえる地点に来た。旧街道は県道が大きく右にカーブして「須雲川」を渡ったところから始まる「女転坂」と言われるところだが、現在は通行不能である。
それで、橋の手前の「須雲川自然探索歩道」に入る。歩きよい歩道で最後に沢に渡された板の橋を渡る。当然雨が降った後の増水時は通行不能で、そのための大きな字で書かれた注意の掲示板が建っていた。

hakone_019.jpghakone_020.jpghakone_021.jpg板橋を渡って(水が少ないと、板橋がなくても石を選んで歩を進めれば渡れる)、上ってゆくと県道に飛び出すが、しばらくして右側に、また石畳道の入り口があり、割石坂の碑が建っている。 これは曽我十郎が刀の切れ味をみるため、石を切ったところから名づけられたのだという。
ともかく、ここの石畳は江戸時代に作られた石畳と近代に子供の通学路として補修された部分が交互に出てきて、違いを見ることができるようになっている。 たしかに石の組み方も異なるし、近代の方がわずかだが歩き易い。
一度県道に出て、また直ぐに左側に「国指定史跡箱根旧街道」の立派な標識が目に入る。 ここは江戸時代の石畳がよく残っているところで、石畳の石も苔むしていて、歴史を感じながら歩く。入り口から急な坂を下ると「大沢」と呼ばれる小さな沢を渡り、「座頭転ばし坂」と呼ばれる急坂を登るが、坂を登りきると突然に県道に飛びだす。
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県道に戻ると、直ぐに畑宿本陣跡がある。畑宿は宿場でなく立場(宿と宿の間の休憩場所)だが、長い登りの疲れを癒すのに良い場所にあり、1856年に初代総領事として来日したハリスも休んだとのこと。
進んで行くと、県道は右に逸れて行くが、直進して旧道にはいると江戸から23番目の一里塚が修復されてほぼ完全な形で見ることが出来る。
道の両側に丸く盛り土をして石垣で囲み、中央に植樹したものである。 箱根のような樹林帯のなかの道では、江戸から何里と知れる以外はあまりご利益はないが、田んぼの中の1本道のようなところでは植えられた樹木が作る木陰で休息して、一息入れる場所であった。
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途中で石畳の道が箱根新道を跨いでいるが、歩いていると全く気がつかないようにされていて驚いた。車の音が大きく聞こえるので雑木の間から覗き込むと、下に全く対照的な道路があり高速で車が走っていた。旧街道を極力残そうとの粋な計らいで、過去と現在の交差点だ。
県道に飛び出すと、県道も傾斜の強い道路となっていて七曲と呼ばれる車にとっても最も厳しい上り坂にさしかかる。勾配が10.1%とあったので、100mで10.1mの上りなのだろう。歩行者の歩道は途中でショートカットの階段もあるが、相当に苦しい登りで、途中で休息を取ることを余儀なくされた。
七曲の県道を何ターンかしたところで、左側に「橿(かしの)木坂」の表示とともに、箱根路で最大の難所と言われる195段もの階段に差し掛かる。東海道の名所日記にも「橿の木の、坂をこゆれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼる」と読んだ男がいたとの記述があるというのだから、尋常でない。どんぐりほどの涙はこぼれなかったが、階段は整備されたものになっていても足が上に上がらなくなり、途中で何度も休まなければ、登れなかった。
しかも、気がつくと飲み水もなっくなっていた。畑宿で補充すべきだったのだが、買い忘れた。
水がないと分かると、精神的にも打撃である。 時間を見ると11時半で、お腹も空いてきた。見ると、街道の途中に作られたベンチでどこかの夫婦が、コンビニで買ってきた弁当を広げている。こちらは、水もなく、ましてや弁当もなく一人歩きだ。 なんとか、甘酒茶屋まで我慢して歩き続けるしかないが、肉体的にも相当へばってきた。
やっとの思いで県道に飛び出し、道路を跨ぐと、「猿滑坂」の石碑があり、立て札には「猿侯といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と記載されている。やれやれ・・・
hakone_026.jpghakone_027.jpghakone_028.jpg何とか、県道に復帰し、へばった体を騙し騙し、歩いていると親鸞聖人が弟子と別れた「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるところに到着した。とても大きな石碑があった。笈とは仏像をはじめとして、お香やお供物、経文、お札など、修行に必要なものを納め背負う箱で、ここで親鸞が愛用の笈を関東に残る弟子の「性信房」に与えたので「笈の平」と呼ばれるようになったという。ともかく、この世では二度と会うことが叶わぬ師の姿が、樹林に消えてゆくのを滂沱の涙とともに見送ったのであろう。
「笈の平」からは甘酒茶屋は直ぐである。何か食べて休息しようと思ったが、飲み物は甘酒とお茶くらいで、食べ物も「あべかわ餅」、「いそべ巻き」ていどで、とてもちゃんとした食事は無理と分かった。それで、飲料水だけ自動販売機で補給して直ぐに出発した。大勢の人が訪れていたことを考えると、もう少し出し物を豊富にしてもと思ったが、5月の連休中なので混雑していたが、平素の状況からはこの程度が精一杯なのかも知れない。
空腹を満たすには先を急ぐ必要があることになったので、やむを得ず歩きにくい石畳を急いでいると、やっと登り坂が終わりになり、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と刻まれた大きな碑があった。この辺りは元箱根から来る人もあり、何組かのカップルが碑をバックに写真を撮りあっていたが、こちらは一人だ。 早々に坂道を下って、現世界への入り口の「杉並木歩道橋」を渡る。
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杉並木歩道橋をわたると、箱根の自然を残すのに功績のあった、ドイツ人のケンペルとオランダ人のバーニーの碑があり、終に芦ノ湖湖畔に出た。
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時刻は12時30分。いそいで、近くの蕎麦屋に入り「天ぷら蕎麦」を注文して、携帯電話を見ると着信の信号が出ている。
みると、妻からで「箱根神社」に来ているという。 食事を終えて「芦ノ湖遊覧船」の発着所で落ち合い、「賽の河原」を見て、杉並木を歩く。 東海道は松並木が普通だが、ここでは杉並木だ。 最初、松を植えたがうまく育たなかったのだという。 それにしても、杉はまっすぐ伸びて巨木の連続だ。
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杉並木を終えて、恩賜公園の入り口に来ると、「瀧廉太郎」作曲、「鳥居忱(とりいまこと)」作詞の中学唱歌箱根八里(箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず・・・)の大きな碑がある。 荒れていて読みづらい。
最後は、関所資料館を見学し、現在の再現された関所を通って、帰宅のバスを待った。
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今日は良く晴れていて、箱根に着く前の電車の窓から富士山が見えていたが、箱根の旧街道を上る間は見ることは無かった。 帰りのバスの窓から見えたので、すかさず撮影して最後の写真とした。しかし、帰りのバスは渋滞で小田原まで2時間も掛かってしまった。
hakone_037.jpg小田原から箱根に歩いての感想は、やはり箱根は天下の険であり、厳しかったということである。箱根に着いたのが12時30分で、時刻としては三島に下れる時刻であったが、とても三島に出発する気にはなれなかったし、疲労度からも、とうてい無理であったと思う。

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