2008.06.14

須原から十二兼

本日の万歩計29,958(20.1Km)
木曽路に入ると、電車の便が悪く必然的に1泊して2日間の歩行となる。このため、ブログの記事を書いたり、次の予定区間の下調べ、宿泊ホテルの予約などを考えると連続した週の歩行は厳しい。しかし、既に梅雨の季節に入って晴天を逃せば、次はいつになるか分からないと考え強行した。
前回帰途に着いた須原駅に12時8分に着いた。これが、一番早い到着なのである。
もちろん、須原駅は無人駅で、駅前には江戸時代から「桜の花漬け」を製造販売する「大和屋」が店を開いていて、菓子やアイスクリームなども置いている。脇本陣と問屋を務め、現在も地酒「木曽のかけはし」の蔵元を続ける西尾家の店である。
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須原では、木の丸太をくりぬいて水場を作っているのを見かける。これを「水舟」という。左の写真のタイプがほとんどであるが、右のタイプもたまにはある。コップを置いてある水舟は飲料可能のサインのようであり、旅人も自由に喉を潤してゆく。
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もう、歴史的な遺構は少ないが街並みは街道の様相を見せており、右の写真は鍵屋の坂で、水路を挟んで両側に道がある。江戸時代の一般的な街道の様を残しているとのこと。
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塩尻からの電車の中で、隣に座った千葉在住で小学校の同窓会に出るため「寝覚の床」に行くと話した年配の方から、須原で是非寄りなさいと言われた「定勝寺」に向かう。臨済宗妙心寺派の寺で嘉慶年間(1387年?1388年)に木曾氏により創建されたとされる名刹である。山門脇には水舟があり、美しく素晴らしい庭園を持ち、樹木の緑が殊更に映えるお寺であった。
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須原宿を過ぎ、長坂と呼ばれる坂を上って、進むと山の斜面にヤグラを組んで配置されたお堂がある。岩出観音と呼ばれ、馬頭観音が祀られている。江戸中期の建立と伝えられる。
その後、道は左に曲がって山を回りこむような感じで大桑の集落に向かう。どこか懐かしい、のどかな田舎の道が続いている。
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途中、文禄年間(1592?1596)定勝寺七代天心和尚の開山の地久山天長院がある。須原の定勝寺の末寺である。色々な表情の小さな地蔵が並んでいた。東海道の興津の清見寺の五百羅漢を思い出した。
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天長院の辺りから見る風景は、日本の田園風景の原点のように感じられ美しい。のどかな道が続き大桑駅が近い。
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大桑駅を過ぎて国道に合流すると、「道の駅大桑」があり立ち寄って一休みし、しばらくは国道を歩くこととなった。ようやく国道を離れて野尻宿に入って行くと、「本陣跡」の木の立て札があったが文字が相当に薄れている。どうも、野尻宿は中山道の遺構の保存には無頓着らしい。それでも街並みはそれらしい姿だ。
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野尻宿を過ぎて、JRの踏切を2回渡って、進んで行くと国道の下にトンネルがあり、ここを潜るようになっていた。元来、水路としてのトンネルで、その中を人が通れるようにしたもののようだ。メッシュの底板の下には水が流れていて涼しい。夏に涼みにくるとよいのではと思われた。
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JR十二兼駅に着いた。時計を見ると午後4時17分。駅で列車の時刻表を見ると、中津川方面行きは4時24分である。少ない本数の木曽路の列車で、全くドンピシャリと言える時刻だ。迷うことなく、今日はここで終えることにして、今日の宿を予約してある中津川に向かった。

2008.06.15

十二兼から大妻籠

本日の万歩計52,351(35.1Km)・・・十二兼から中津川までの歩数
昨日宿泊した中津川から電車で十二兼に7時12分に戻ってきて歩き始めた。しばらく進むと、柿其渓谷(かきぞれけいこく)へ渡る「柿其橋」が木曽川に架かっている。この橋を渡ることは無いが、中央付近まで進み木曽川の景観を見物する。
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この辺りの木曽川は「南目覚」と呼ばれているらしいが、なるほど「寝覚の床」の景観に似ている。白い花崗岩と青い水の対比が美しい。
さて、国道に合流して進むが、これから一里ほどは「羅天の桟道(らてんのさんどう)」と言われた、木曽路屈指の難所であったところである。木曽路名所図会にも、「道は深き木曽川に沿い狭きところは木を切り渡し、つた・かづらをからめてその巾をおぎない・・・」とあるとのこと。しかし、現在では近代土木工事の技術の成果として、全く危なげなく大型車がうなりを上げて走る国道となっている。歩くにはつらい道である。
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tsumago_05.jpg3Kmほど進むと国道と木曽川の間に数軒の家がある。「金知屋(かなちや)」という集落である。これを過ぎると、国道から左に外れ、県道264に入って行く。車もめったに通らず、樹木の緑も美しく、国道に比べると極楽である。
この辺りは今は南木曽町であるが、かつては「読書村(よみかきむら」であり、今も地域名としては残っている。この名前は、左手の方が与川村(よ)、向かっているのが三留村(み)、木曽川の向こう側が柿其村(かき)であったため、この三村が明治7年に合併して頭文字を取って「よ・み・かき」で「読書村」としたという。なかなか面白い命名である。
そして、三留宿である。連子格子の美しい家屋を見ながら進んで行く。
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tsumago_08.jpg歩いて行くと、古い木の「蛇抜橋」。蛇抜とは、木曽地方では土石流を指し、梅雨時などに大雨になり、山津波に襲われることが、多々あり恐ろしいさも込めて蛇抜けと呼んだのであろう。それにしても、この橋の下を流れる沢は、恐ろしい災害をもたらしたとは思えないほど小さな流れであった。
木の橋も相当老朽化しているように見え、車が通るのに耐えられるのが不思議だと思ったが、橋の下は鉄骨で補強されているようだ。
三留宿も終わりに近づくと、右手に木材の集積所がある。そして、南木曽駅を通過する。
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駅を過ぎると、薮原にもあったD51の蒸気機関車を展示したSL公園がある。何故木曽路はSLの展示が多いのであろうか。SL公園を過ぎて進んで行くと神戸(こうど)の集落があり、どの家も庭木が美しい。
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神戸を過ぎると、「振り袖の松」がある。木曽義仲が弓を射ろうとしたが、松の木の枝がじゃまになったので、巴御前が振り袖の袖を振って木の枝を払ったとか。何とも、荒唐無稽な話しだが、木曽の人々は木曽義仲と巴御前をよほど敬っていたのだろう。
そして、直ぐ近くに木曽義仲が創建した「かぶと観音」がある。「木曾義仲が、平家追討のため、北陸道から上京するとき、木曾谷の南の押さえとして妻籠城を築き、その鬼門にあたるこの神戸の地に、祠を建てた。 その際、かぶとのてっぺんに飾っていた安全祈願の八幡座の観音像を祭った」という。江戸時代に参勤交代で通り過ぎる大名も必ず御参りしたという、観音堂である。
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「かぶと観音」を過ぎて、しばらく進むと石畳の道になる。道の両側の緑が心地よい。さほど長くない坂道を上りきると、上久保の一里塚がある。南木曾町には一里塚が4箇所あったが、原型を留めている一里塚はここだけで、草が茂って少し分かり難いが、見事に道の両側に残っている。
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本当に緑が美しい。このような道なら、幾らでも歩けると思いながら進んで行くと、今は廃墟と化した「しろやま茶屋」があり、直ぐ横が「妻籠城跡」への上り口である。
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誰も城跡には上らず真っ直ぐ妻籠に向かうようであるが、上ると展望がよいと分かっていたので、竹林と林の道を上ることにした。築城は室町時代のようだが、誰が築いたかは分からないとのこと。天正12年(1584)の小牧・長久手の戦いでは、木曽義昌の家臣の山村甚兵衛良勝がここに籠もって徳川軍を防いだという。典型的な山城で、掘割も何箇所か残っている。
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最後の上りは、きつかったが頂上の城跡は広場になっていて、講の石碑などが建ち、期待通り妻籠宿が一望できた。
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妻籠城跡上り口まで戻り、妻籠への道を進むと直ぐに「妻籠の入り口」で家屋が数軒建っている。ここには、有名な「鯉ケ岩」がある。明治24年の大地震で形が変わり、鯉らしくなくなり、しかも蔓が茂って、少しも鯉には見えない。しかし、この地域の名前の「恋野」という粋な名前も、この「鯉ケ岩」から来たと言われている。
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tsumago_25.jpgいよいよ、街の中心に向かう。まず高札場である。高札場は旅人に読ませるのが主目的か、宿の入り口、出口付近に設けられている。入ってゆくと素晴らしい宿である。1軒の店に入り、コーヒーと五平餅を食べて休息しているときに聞いたのだが、妻籠は貧しくて誰も新しい家を建てることができず、古い家屋のまま我慢して住み続けていたのが幸いして、保存地域に指定され古い家をそのままの形で整備できた。しかし、保存地域となると、自分の家でも改修などは出来ず、快適な住まいとは言い難いと話されていた。たしかに、旅行者にはよくても、実際に住むとなると不便なことも多いであろうことは、想像に難くない。
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tsumago_28.jpg島崎藤村の母ぬいが生まれ、次兄の島崎広助が養子に来て最後の主人となった、妻籠本陣である。そもそも、妻籠と馬籠の本陣は同族で遠く三浦氏の出であると「夜明け前」にも書かれている。上がりかまち、玄関の間、上段の間等々を見学した。

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本陣と道路を隔てた向い側には「脇本陣」があり、合わせて見学した。明治10年に建設された、総檜作りで国の重要文化財に指定されている見事な建物で貴重なものである。脇本陣は問屋も勤め、「奥谷」の屋号で現在も酒造業を行っている林家が営んでいた。馬籠の酒造業の「大黒屋」の娘で島崎藤村の初恋の人と言われる、おゆふさんの嫁ぎ先でもある。島崎藤村がおゆふさんに贈った詩なども飾られていて、縁側からは妻籠城のあった城山も良く見える。案内してくれるおばさんの解説が面白く見事である。
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妻籠の郵便局は流石に江戸時代の遺構では無いであろうが、街並にマッチした建物で、郵便ポストも「夜明け前」に描かれている当時のものを再現したもの。ただし、材質は金属(鉄)になっている。
進むと、道は枡形に入って行く。
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宿の街並みはまだまだ続くが、桧笠屋さんがあった。帽子と違って頭に密着しないのでとても涼しいという。欲しかったが、これをかぶって街道を歩く勇気が無く断念した。釣りをする人は買っていた。
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妻籠を過ぎて、次は間の宿(あいのしゅく)の「大妻籠」に向かう。大妻橋を渡って樹林帯の中を上って行くと神明集落があり「大妻籠」の大きな看板が現れる。
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さらに進むと民宿を営んでいる立派な家3軒続いている。大妻籠である。このなかで「つたむらや」は秋篠宮様、紀子さまが独身時代に友人と訪れ宿泊されたところである。宮様が来るというので、慌てて水洗トイレに改修したそうである。
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大妻籠の最後には大きな塚があり、頂上付近には庚申塔が見える。一里塚であった塚である。そして、直ぐ側には民宿の「こおしんづか」がある。
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さて、これ以降は馬籠に向かう道を歩むことになる。

大妻籠から中津川

大妻籠を過ぎて、九十九折(つづらおり)の石畳の道を上ってゆく。石畳の道が終わって小さな木の橋を渡ると、道の左の少し高いところに「倉科祖霊社」がある。松本城主小笠原貞慶の重臣倉科七郎左衛門朝軌が、主命で秀吉の関白就任祝いに行った帰り、馬籠峠で土豪の襲撃を受け、この地で従者30人とともに討ち死にした場所であり、その霊を弔うために建てられたお堂である。当時小笠原氏と木曽氏は何度も戦っており、そうした因縁からかと言われている。
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男だる川の「雄滝」(左写真)と一石栃沢の「雌滝」がある。滝の作り出す冷気が上り坂を歩いて汗ばんだ体に心地よい。吉川英治の宮本武蔵の舞台となったところとのことだが、筆者は読んでいない。
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「雌滝」から沢を渡り急坂を上ると車道にでるが、ほどなく沢に沿った心地よい道を進むことになった。馬込峠から下ってくる何組かの人達にも出会った。そして、車道を横切って進むと石畳の道になり、直ぐに「さわらの大木」がある。300個の風呂桶が作れる大きさと書かれている。下枝のかたちから神居木(かもいぎ)と呼ばれる木で、山の神、天狗が休む木で、傷をつけたりすると祟りがあると信じられていて、杣人は側を通ることもいやがったという。言われると意思を持った木のようにも見える。
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林の中を歩き、急に開けてきたと思ったら「一石栃の白木改番所跡」である。木曽から移送される木材を取り締まるために設けられたもので、檜の小枝一本まで許可を示す焼き鏝を押してあるか調べたという。そして、大妻籠で残り少なくなっていた飲み水がなくなり、自動販売機もない道なので困ったと思っていたら、茶屋の前に水舟があり水を補給できた。冷たく美味しい水であった。
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標高801mの馬籠峠への最後の上りは、きつかった。ようやくたどり着いたら、峠の茶屋が1軒建っていた。平成の大合併で馬籠が中津川市に入り、ここが長野県と岐阜県の県境となった。
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茶屋の横には正岡子規の歌碑がある。「白雲や青葉若葉の三十里」とある。あとは、ひたすら馬籠宿に向かって下って行く。道に白と土色の小片を混入させており、桜の花びらが散ったようにも見える。
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急坂を下ると、峠の集落で、ここは馬方ならぬ牛方が大勢住んでいて荷物輸送を担っていた。道が厳しいので馬ではなく牛を使ったのである。島崎藤村の「夜明け前」にはこの牛方が輸送賃をめぐってストライキを行う場面が出てくる。集落のはずれには、牛方を顕彰した「峠之御頭頌徳碑」がある。
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急な下り坂を下りて行くと、十辺舎一九の大きな碑とともに休憩所があり、「渋皮の むけし女はみえねども 栗の強飯ここが名物」と刻まれていた。さらに、車道を何度か横切りながら進んで行くと、沢に架かる橋を渡って車道と接するところに、「樹梨」と言う名の食事処があったので、山菜天婦羅定食を頼み遅い昼食とした。栗の強飯は美味しかった。77歳という地元の老人も食事をしていて、木曽について色々と話してくれた。
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食事を終えて進むと、直ぐ石畳の道になり上りきると、民家にぶつかりその軒下を通るような場所がある。
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magome_19.jpgさらに、車道を何度か過ぎりながら下って行くと、ようやく陣場と呼ばれる、見晴らしの良い場所に到着する。ここには島崎藤村の「夜明け前」の一節、実父の島崎正樹の漢詩、岐阜県になった記念碑などなど沢山の碑、看板が建っていた。遠くには恵那山も見える。若いカップルが沢山ベンチに座って景色を眺めている。
この陣場は、家康、秀吉の小牧・長久手の戦いで馬籠城と妻籠城を攻めるため、家康軍が陣を張ったところである。このとき、馬籠城は島崎重通が木曽義昌の命で守っていた。
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例によって、高札場は宿の街並みへの入り口にあった。流石に、ここからは観光客が多い。進んで行くと「夜明け前」の描写の通りに「大黒屋」がある。既に酒造業はやめているが、大きな杉玉がある。そして今はお土産屋になっている。
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magome_26.jpgそして、大勢の人通りに追われるように道の反対側の本陣跡である藤村記念館に入る。
急いで飛び込み、外から冠木門を撮るのを忘れてしまった。もう、本陣の建物は残っておらず土地も「大黒屋」の持ち物となっていたそうだが、長野県で馬籠宿に観光客を呼び込むための整備計画の段階で町に寄贈されたとのこと。唯一残っていた建物は祖父母の隠居所であるが、藤村(春樹)はこの隠居所の二階の座敷で、座敷牢で狂死した国学者の父、正樹(青山半蔵)から四書五経の素読を受けたと言う。また、お城のような石垣に囲まれた通路を見ると、半蔵が裏口から友を逃がす場面が頭に浮かぶ。
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今は梅雨の季節だが、よい天気に恵まれ観光客も大勢訪れていた。家並みはすっかり整備されて素晴らしいが、少し手を入れすぎな気もするがどうであろうか?
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magome_30.jpg街の通りから僅か200mほど離れたところに、島崎家の菩提寺の「永昌寺」がある。ここを訪れる観光客は居ないのか、静かに静まり返っている。島崎家の先祖代々の墓所は、あっさりとしたものであり、正樹の墓は少し離れて妻の縫子とともに眠っている。また、全く新しい場所に、島崎家の10人ほどの石碑を配した墓所があったが、島崎家の子孫が墓地を購入して最近整備したものか?島崎藤村の墓は大磯の地福寺にもある。

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階段の道は京口の枡形である。これを過ぎると、いよいよ馬込宿も終わりで「落合宿」への道を歩んで行く。しばらく行くと、馬籠城跡の説明板があった。既に城跡は私有地になり、もとの城域は判然としない。小牧・長久手の戦いでは島崎重通が守っていたが、徳川方のあまりの大軍に恐れをなし、夜陰にまぎれて木曽川沿いを通って妻籠城に逃れたと書かれていた。
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少し先には島崎正樹の顕彰碑。さらに進んで新茶屋という集落で「信州サンセットポイント百選」という場所があり、正岡子規の歌碑「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」があった。昔の人も長い木曽路を歩いてきて、大きく開けた景色に接してほっとしたのではなかろうか。そして、新茶屋の一里塚跡を見て、石畳の道を下って行く。
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magome_41.jpg落合の石畳の道は、少しの距離だろうと思っていたが、案外長く、しかも4ケ所ほどは江戸時代のものがそのまま残っていたという。石畳が終わり、しばらく行くと「医王子」がある。有名な枝垂桜は伊勢湾台風で折れてしまったが、今は二世が大きく育っている。

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やっと、落合宿に入ってきた。もう、昔の宿の雰囲気が損なわれていると思いながら歩いて行くと、本陣があった。私邸であり公開はされていない。
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magome_46.jpg「落合宿助け合い大釜」と言うのがあった。容量は1000リットル以上で、寒天を煮ていた釜だという。今はお祭りに千人キノコ汁を作ったりしているが、災害時の緊急用も兼ねているとのこと。落合も旧中山道には白い小片を混ぜた舗装で歩くのに間違いなく、安心して歩ける。そして、このような分かり良い道は中津川の近くまで続く。歩いて行くと、与野の立場跡の碑があった。
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magome_48.jpgそして、尾張藩の「白木改番所跡」の碑。ここで、「ひのき、さわら、あすなろ、こうやまき、ねずこ」の木曽5木を取り締まった。改番所は明治4年に廃止されたが、明治新政府の材木に対する取り締まりは、より苛烈を極め、島崎正樹(藤村の父)はこの闘いで精神に異常を来たした。
これを過ぎると、後は中津川まで一気に進めると思ったのが大間違い。急な上り下りが2回あって、相当にへばってしまった。しかし、芭蕉の「山路来て 何やらゆかし すみれ草」の句碑を見ると、もう中津川だ。急坂を下ると高札場があり、真っ直ぐに中津川駅に向かうことにした。
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magome_50.jpgその後16時34分のセントラルライナーで名古屋に出て、東海道新幹線で帰宅についた。セントラルライナーは初めて乗った列車だが、名古屋に住む子供たちに会いに行くという女性と隣り合わせになり、色々と話していたら新幹線で食べるようにと、大きな「ほうば寿司」を二個頂いた。ともかく、中山道歩きで、始めての東海道新幹線利用となった。

2008.07.12

中津川から大湫(おおくて)

本日の万歩計46,553(31.2Km)
梅雨の雨に加えて夏風邪を引いたりして、なかなか歩きに行けず、今週を外すと夏の暑さで9月中旬過ぎまでお休みとなると思い、出かけた。
新横浜6:18分発の「のぞみ1号博多行き」に乗り、中津川には8:49分着であった。これで、中津川駅は3回目である。
前2回では気が付かなかったが、駅前広場には「栗きんとん発祥の碑」があった。
駅前通りを進み中山道に行き着き少し進むと、早速「栗きんとん」本家の「すや」があった。
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街道は流石に情緒の残る通りであるが、直ぐに人一人がやっと通れる路地の入り口に「桂小五郎の隠れ家跡」の立て札があった。進むと当時の料亭の「やけ山」ではないが、趣のある古い家があり、説明板が建っていた。桂小五郎と言えば、尊皇攘夷に向かっていた長州藩が佐幕に転向して、藩に帰ることも出来ず幕吏にも追われて逃げ回るが、この中津川で平田一門の助けを得て隠れながら京に向かう藩主毛利慶親を待ち、中津川会議を行って尊王倒幕に向かうことになったとして歴史に記録されている。後の木戸孝允(きどこういん)である。
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本陣の建屋はもう残っておらず、単なる説明板だけであったが、さらに進むと「夜明け前」に青山半蔵の友人として出てくる小野三郎兵衛(本名は肥田九郎兵衛通光)という庄屋の家がある。美濃の家屋の特徴である卯建(うだつ)の立派な家である。その後も文化財指定の建屋が続く。
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枡形を曲がって突き当たると立派な店構えの日本酒「恵那山」の醸造元の「はざま酒造」があり、これを過ぎると、ほどなく中津川に架かる常夜燈を配した橋がある。そろそろ宿も終わりである。

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1Kmほど進むと、「小手ノ木坂」という階段状の坂道がある。坂を上ると男女の2つの頭を持つ「双頭一身道祖神」があるが、この種の道祖神は珍しく中津川市の指定文化財になっている。
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やがて、「上宿の一里塚跡」がある。中山道は期待していたより「一里塚」が残っていないと思っていたが、今回の歩行の後半の13峠では次々と「一里塚」を見ることができた。この一里塚がその一つ目である。
その後、中津川のインターを通り抜けて「千旦林」と呼ばれる地域に入って行く。少し進むと「六地蔵」がある。最初、6つの地蔵が並んでいるものと思っていて、説明板を見て内容を読むこと無しにあぜ道を通って道路際の家屋の裏を覗きに行ったが、常夜燈の周りに6つの地蔵が彫られているのを指すことが分かった。いささか拍子抜けであった。
そして、これぞ蔓木であることを示す立派な「ノウゼンカズラ」が咲き誇っていた。梅雨の花とされるそうだが、夏の花としてしてもよいと思える。
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本当に、のどかな風景の集落が続く。素晴らしい「格子戸」をみることが出来る。そろそろ。京の影響もあるのだろうか。そして、ここにも「尾州白木改番所」があったことを示す碑が建っていた。
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茄子川と呼ばれる地域に達すると、和宮、明治天皇もご休憩されたという茶屋本陣の「篠原家」の建物が残っていた。篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子の弥右衛門が17世紀始めに移り住んだとのこと。理由は定かでないが、江戸期は庄屋、村役人等を勤めたという。
岡瀬沢と呼ばれる小さな流れの手前に「中山道・岡瀬澤」と彫られた大きな石碑があり、また常夜燈も建っていた。常夜燈は安永5年81776)に建てられたものである。
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向こうに低い峠が見えてきた。甚平坂である。上は公園になっていて、東屋では自転車で訪れた父と小学校低学年の子供が休んでいた。よい休日を過しているのだろう。
なお、甚平坂の甚平とは、頼朝の家臣で信濃の国根津に住む甚平是清の名前に由来するという。
甚平坂を過ぎて、明知鉄道の踏切を渡るといよいよ「大井宿」の中心街に入って行く。大井宿の名は現在では消えて、恵那市となっている。進むと大井宿の本陣の表門がある。昭和22年に本陣は焼けてしまったが、表門の辺りは幸いにも残ったとのこと。説明板には樹齢300年の松があると書いてあったが、枯れてしまったようだ。
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枡形の角には、いまも旅館「いち川」として営業している元旅籠の「角屋」があり、その角を曲がって進むと間口27m、奥行き65mの敷地に建つ堂々たる大井村庄屋の古屋家がある。そして、突き当たりは大井宿の氏神様の市神神社で、毎年1月7日に行われる例大祭は大変な賑わいとのこと。
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コの字型の枡形を過ぎて、大井橋を渡る。地域の皆様でいろいろと手を加え、花を植えたり、手すりに安藤広重の絵を飾ったりしている。川には色鮮やかで見事な鯉が多数泳いでいた。橋を過ぎても情緒のある古い家が恵那駅への通りを過ぎても続いている。
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食事をして続いて歩いて行くと、中野村の庄屋の前に洪水のときに、板をはめ込む溝を掘った石が残っていた。浸水防止策である。道は左に曲がり、直ぐに右に曲がってクランク状に続くが、ここには民家に挟まれて「中野観音堂」が建っていて、古い町を感じさせた。
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クランクを過ぎると直ぐに永田川を渡るが、この辺りで宿の賑わった地域も終わり、残念ながら車の通りの激しい道を進む。800mほどで「西行硯水公園」がある。西行は2度目の奥州の旅から帰ってきた文治2年(1186)にこの地に3年間逗留し、ここに湧く泉の水で墨を擦ったという。3年間の逗留費用はどうしたのだろうと、下賎なことを考えてしまう。
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ohi_31.jpg西行硯公園を過ぎると、直ぐに県道を右に外れて中央線の踏切を渡り、田圃の中道を進んで中央高速の下を潜ると、すぐに「十三峠」が始まる。13峠と言うが、「13峠におまけが7つ」といわれ正確に数えたという人の話では21箇所と言う話もある。次の大湫宿まで山道が13Kmほど続く難所である。
直ぐに「西行塚」がある。公式には西行の墓は大阪府南河内郡河南町にある、弘川寺にあるものとされているが、この辺りで入寂したとの伝説もありこの塚が作られたのではと言われているようだ。いずれにしろ、墓石は室町時代のものとのこと。
展望台もあり、素晴らしい眺望を楽しみながら休息を取る。「武並駅」から歩いてきたという3人連れのご婦人に出会ったが、武並駅から恵那駅までが、ハイキングコースとして設定されているようだ。
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西行塚を過ぎると、しばらくは石畳の道が続き、直ぐに「西行の森」と銘打った桜の木を沢山植えた場所に着く。この辺りはもう石畳は終わっているが平坦で歩き易い。
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そして、ほどなく「槙ケ根一里塚」がある。ここも綺麗に原型を留めている。そして、1.5Kmほど進むと「槙ケ根立場跡」で、釜戸から土岐、多治見を経て名古屋に行く道への分岐点でもある。名古屋へは、中山道より18Kmも近く幕府は宿場を守るため荷物の運搬を禁止したが、人気があり商人や伊勢参拝の人々に多く利用されたという。説明板には、この近道は下街道と呼ばれたとある。

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800mほど進むと、右側に「姫御殿跡」の大きな石碑があった。この辺りに松の大木があり、松かさ(松の子)が多く付き、子持ち松と呼んだという。そして、この子持ち松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため子孫が続いて縁起がよいとして、お姫様の通行のとき仮御殿を建てて休憩された。そこで、これを姫御殿と呼んだとのこと。
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姫御殿跡の斜め前には「首なし地蔵」がある。説明板には、
昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」とある。
直ぐに急な下り坂が始まる。 大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾が乱れるほの急坂であるがゆえに「乱れ坂」という。少なくとも上りでなく下りでよかった。
坂を下りると「乱れ橋」と呼ばれる橋が小さな流れに架かっているが、昔は石も流れるほどに急流だったとのこと。いまは、全くその面影はない。
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途中にある「四ツ谷」という小さな集落を過ぎ、「平六坂」を上ってゆくと急に開けて、日本の田舎の原風景のようなのどかな場所に達する。「びゃいと茶屋跡」である。びゃいとは「枇杷湯糖」と書き、枇杷(びわ)の葉に薬草を加えて煎じたもので疲労回復剤だったとか。そして、「紅坂の一里塚」である。
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一里塚を過ぎて紅坂を下って行く。石畳の片側の半分はアスファルト舗装であった。地元の人が、バイクで通れるようにしたのだろうか。途中には「ぼたん石」と呼ばれる石があり、本当に「ぼたん」か「バラ」の花を思わせる感じではあった。
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紅坂を過ぎると、次は「里すくも坂」である。下ると「佐倉宗五郎大明神」があった。佐倉惣五郎は下総(千葉県)の人であるのに、一字違いの名前の大明神は何故だろうと思って調べると、ここでも元禄年間に岩村藩で農民騒動が起こりそうになり、竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、当時の定めとして直訴は打ち首と決められていたため、首をはねられてしまった。田中氏の名前で神社を作るのは気がひけるので、下総の佐倉惣五郎のケースに似ているので、佐倉宗五郎大明神の名前で、田中氏を祀ったのではと言われている。
さて、ここは中山道から離脱して30分ほどで、JR中央線の武並駅に出られるポイントである。時刻は14:30で次のポイントの大湫宿までは6Kmほどあり、疲労感も強い。途中で飲み水の補給も怠り、残りの水も僅かである。しばし悩んだが、もしここで離脱すると、明日は午前中のみの行動で、それ以降は次のポイントまでの距離から無理となる。結局、2時間で大湫に着けるだろうと強行した。
直ぐに、「深萱立場:ふかがやたてば」で大きな案内板があった。そして、西坂を上って行くと「ばばが茶屋跡」の表示があり、三城峠を越えて下って行くと「中山道」の巨大な石碑があった。
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もう、水はほとんど残っていない。疲労は増すばかり。カメラのシャッターを押す頻度が低下する。なんとか水が手に入らないかと、そればかり気になる。やっと「権現山の一里塚」に到着。次いで「中山道ゴルフコース」を横切って進む。時々木立の隙間から芝生が見える。中ほどに、毎年8月1日にだけ、水が湧き出るという「巡礼水」があった。こちらは水が尽きた。気が逸る。
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ゴルフ場の中を横切る「びゃいと坂」とそれに続く「曽根松坂」を下って行くと「三十三観音」がある。石室に閉じ込められたようなユニークな観音である。直ぐに「尻冷やし地蔵」がある。旅人が喉を潤す貴重な水場で、湧き出す水が地蔵の尻を冷しているように見えたのだという。
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やっと、大湫宿に着いた。時刻は16:40分である。自動販売機がある。思い切り水を飲む。1軒だけある雑貨屋でタクシーを呼べるかたずねる。釜戸駅までタクシーで出て、恵那駅に向い駅前のホテルに投宿した。

2008.07.13

大湫から御嵩

本日の万歩計31,055(20.8Km)
今日のルートでは、途中で食事をとるところが無い。昨日夜にコンビニで「おにぎり」、「菓子パン」などを買い込み、今朝はホテルで朝食を済ませ、恵那発7:30の電車で釜戸に向い、釜戸からタクシーで昨日にタクシーに乗った地点までやってきた。
昨日は気が付かなかったが、タクシーに乗ったところで左に折れ、僅か20mほどのところに、コミュニケーションセンターと称する観光案内所があった。今は、8:00でまだ開いていないが、後で調べたら歩行の案内図などもいただけるそうで残念なことであった。
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もう、大湫の本陣は残っておらず空き地になっているが、そこに和宮さまが江戸に下られたときに宿泊されたのを記念して、モニュメントを最近作ったようである。
そして、脇本陣も中の家屋は、小さいものとなってしまったが、入り口の門が往時の面影を残していた。
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その後も、街道らしい家屋が続く。山中と思えないほど優美である。
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そして、大湫の神明神社である。平凡な小さな神社と思っていたが、境内にある杉の巨木には驚いた。樹齢1200年という。それにしても、圧倒される存在感だ。
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大湫宿は本陣1、脇本陣1、旅籠30軒で宿泊のための建物は美濃16宿の中では多い方であったが、宿の長さは500mほどで、すぐに高札場となって宿も終わりになる。
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高札場を過ぎて500mほど進むと、左の写真の母衣岩(ほろいわ)と、右側の烏帽子岩と呼ばれる、巨大な2つの岩がある。高さはともに、6mで幅は母衣岩が18m、烏帽子岩が9mである。
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また、500mほど進むと左の方に突如として山中には在りえない、立派で大きく近代的なビルが見えてくる。大湫病院である。車社会になって、成り立つ立地条件なのであろう。そして、右手に「琵琶峠」への入り口がある。
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「琵琶峠」の石畳の石は大きく歩き易い。現存する街道の石畳では落合宿の十曲峠、旧東海道の箱根よりも長く日本一の長さとのこと。旧中山道が廃止されてから使用されずにそのままの状態で放置されていた為、枯葉や土で埋まっていたのをそっくり発掘することが出来、損傷も少なかったとか。約500mほどで峠に達する。顔の周りにまとわりつく虫が」うるさい。
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琵琶峠頂上は、狭い領域で馬頭観音と和宮様の歌碑が建っていた。歌碑には、「住み馴れし 都路出でて けふいくひ いそぐもつらき 東路のたび」とある。残されている和宮様の歌はどれも江戸に下るのが嫌でしょうがないと言っているものばかりに思える。都を1度も出たたことの無い16歳の姫にとっては不安であったのは分かるが。
峠の頂上から下ってゆくと「八瀬沢一里塚」がある。道の両方に見事に残っている。

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石畳の道は舗装道路にぶつかり、その後は草の道となり、軟らかく歩くに気持ちのよい道であった。結局、「琵琶峠」を越える道は、上り口から1Kmほどで終わり、舗装道路に出てしまう。
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700mほど進むと、国際犬訓練所の立派な建物がある。訓練施設も入場料を取って見学させている。また、500mほどで天神辻という場所になり、天神辻の地蔵尊がある。
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1kmほどで、弁天池があり真ん中に小さな島があって、そこに弁才天が祀られていた。この辺りは、全般的に湿地帯のようである。
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尾根を通る舗装道路が続き、アップダウンも少なく木陰の道で歩き易く、車の通りもほとんどない。自転車で颯爽と走って行く人を見かけた。そして、ようやく細久手宿に到着。
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細久手宿は恵那から御嵩までの13里で、唯一宿泊可能な旅館がある。尾張藩が常宿としていた「大黒屋」がいまも営業しているので、ある程度は賑やかな宿ではと思っていたのだが、大湫より小さな宿であった。自動販売機はあったので飲み水を補給して、進んで行った。
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進んで行くと、「旧中山道くじ場跡」と書かれた碑があり、駕籠かきたちが大湫宿や御嵩宿への荷の順番を決めてたむろしていた場所だという。
その後、平岩辻という太い道路が交差した集落で、また飲料水を補給して歩き始め、少し進んで舗装道路から土の道路に入って行く。秋葉坂を上り始めると、直ぐに平岩の秋葉坂三尊がある。この石窟の上には秋葉様が祀られているので秋葉坂と呼ぶとのこと。これ以降も石で囲われた地蔵などを見かけるが、3尊も揃っているのはここだけである。
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樹林帯の中の道を1Kmほど進むと「鴨之巣一里塚」があり、さらに林の中の道が続く。道路の状態は、通る人も少ないような感じで、所によっては雨の流れで荒れていて歩き難い。
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長い樹林野中の道を過ぎ、藤あげ坂を下ると周りが開けてくる。酒造業を営んでいた豪商 山内嘉助屋敷跡があり、小さな集落が見えてくる。間の宿津橋である。
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津橋を過ぎると、ここにも石で囲われた地蔵がある。さらに進むと一軒家があり、最近では珍しく鶏が放し飼いされている。こういう鶏の肉は焼き鳥にすると締まっていて美味いのだろうなどと考えながら進む。
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急な上りの「諸の木坂」が始まり、登りつめたところが「物見峠」で「馬の水のみ場」があり、御殿場があった。御殿場は和宮様降嫁のときに休憩のための仮御殿を建てたところで、天気がよければ御岳山、恵那山が見えるとのことであったが、曇が多く無理であった。
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峠を過ぎて直ぐに「ラ・プロバンス」という洒落た喫茶店がある。手作りケーキが特に美味しいらしい。建屋の前には「ラベンダー」が咲いている。コーヒーでも飲んで休んで行こうと、入り口に来て驚いた。4?5人の人が順番待ちをしているのである。もちろん「諸の木坂」を上ってきた人達ではない。峠の向こう側からは車で来れるのである。若いカップルのお定まりのコースになっているようであった。
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物見峠を過ぎた下り坂は「謡坂(うとうさか)」である。説明板によれば、『この辺りの上り坂がとても急なため、旅人たちが自ら歌を唄い苦しさを紛らわしたことから、「うたうさか」と呼ばれていたのが次第に転じ、「うとうざか=謡坂」になったのだともいわれています。』とある。確かに京から江戸に向かう方向では急な上りで大変だ。しかし、苦しい上り坂で歌がでるものだろうか。毒吐くぐらいが関の山と思うのだが。ともかく、峠から400mほど進むと「唄清水」がある。旧謡坂村を知行地としていた尾張藩千村氏の千村平右衛門源征重(五歩)がこの清水を「馬子唄の 響きに波たつ 清水かな」と詠んだことにちなみ、唄清水と呼ばれるようになったとのこと。
坂を下って舗装道路に出たところには「一呑の清水」がある。この水は和宮様が大層気に入られた水で、上洛の際に多治見の永保寺での点茶のために、わざわざ取り寄せさせたという。また、岐阜の名水50選にもなっている。しかし、生水では飲めないとは残念である。
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再び、舗装道路から左に逸れて、進むと十本木立場で「謡坂十本木一里塚」がある。そして、謡坂の石畳が始まった。
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石畳の途中にも右手方向に石で囲われた「馬頭観音」があり、眺めながら石畳を下って行く。
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舗装道路に出て、しばらく行くと「耳神社」がある。耳の病にご利益のある神社で、錐を1本借りて耳にあて、治ったらその人の年齢の数だけの錐を奉納するのだという。簾のように奉納した錐が飾られている。耳神社を過ぎて2車線の道を左に離れると西洞(さいと)集落である。土砂の崩れ止めを施した道が面白い。
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木陰の気持ちの良い道を歩いて行くと、突然の急坂があった。「牛の鼻欠け坂」である。本当の名を「西洞坂」と言い、荷物を背に登ってくる牛の鼻がすれて欠けてしまうほどの急な上り坂であるとして「牛の鼻欠け坂」と呼ばれた。
そして、この坂が横川から続いてきた山の中の坂道の最後である。なんだか寂しい気もする。
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早速、舗装道路に出てやがて国道21号線に出る。国道脇に半分放置されたような物置小屋があり、その裏に「和泉式部の廟所」がある。東山道を旅していて、御嵩辺りで病に侵され鬼岩温泉で湯治したが、寛仁3年(1019)この地で没したという。
碑には「ひとりさへ 渡ればしずむうきはしに あとなる人は しばしとどまれ」と刻まれている。和歌の才に恵まれ恋多き女性の伝承は全国に残っているそうである。
国道を歩いて、どこから旧道に入ってゆくのかと気にしていたら、「右御嶽宿 左細久手」と刻まれた古いタイプの道標があった。進んでいって右折すると、街道の宿を感じさせる家並みが始まった。
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豪商であった商家竹屋の建物があり、見学できるようになっていたが、スキップした。そして、やっと向こうに名鉄の「御嵩駅」が見えてきた。
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駅前まで進むと「みたけ館」という綺麗な建物があり、1階は図書館で2階では、宿に関する展示がなされていた。とても暑い日でもあり、中には座り心地の良い椅子もあったので、しばらく休憩させてもらった。その後「御嵩駅」で14:30分の電車に乗り途中「可児(かに)駅」で名古屋行きに乗り換えた。名古屋から新幹線で新横浜に向かった。

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