2009.05.31
猿橋から笹子
本日の万歩計27,850(18.1Km)
3月21日に歩いてから、約2ケ月ぶりである。季節としても気持ちの良い4月は2人の都合が合わず、5月になってもなかなか行けず、5月のラストの31日に午後から雨との天気予報であったが、大したことは無いだろうと、出掛けることにした。
猿橋駅では、大勢の自転車の輪行バッグを担いだ大学生と思しき一行と一緒に下りたが、サイクリングに適したルートもあるのだろう。歩き始めると、直ぐに大月の特徴的な山容の岩殿山が見えてくる。
猿橋駅より少し進んで国道から右に離れ、800mほど進むと右手に東京電力の駒橋発電所の社員住宅がある。ここの発電所は需要が増えた東京の電力が日露戦争による石炭不足で火力発電だけでは不足するようになり、明治42年に作られた由。この遠隔地に水力発電所を建設し、東京の早稲田変電所までの76kmを55,000Vの電圧で送電した。当時はスイス製の水車にドイツ製の発電機を5台設置し15,000kWの電力を生み出したという。現在は、8本あった導水管も2本となり、電力もこの近隣への送電に留まっているとのこと。左側の上り坂を上って行くと、道路下に大きな水車が見えてくる。この水車は、ここの駒橋発電所で使われていたものでなく、旧桂川電力公司の鹿留発電所にあったフランシス水車で1912年製とのこと。
導水菅を過ぎて細い坂道を上って行くと、第五甲州街道踏切があり、少し進むと国道に合流するが、直ぐに左に分かれて旧道がある。300mほど進むと、厄王大権現があって、旧道は終わる。
国道を400mほど進み、高月橋入口交差点で右折すると真正面に岩殿山が見える。戦国時代の幕あけのころ大永七年(1527)、郡内領守護小山田越中守信有が築城した山であり、敵が攻めてきたとき、子供の泣き声で発見されるのを避けるために子供を落としたという「稚児落とし」と呼ばれる断崖がある。単なる伝説と思われていたが、最近の調査で幼児の骨が発見されたという。怖い話しである。
そして、古い商店街を進んで大月駅に着いた。
大月駅から700mほど進み、桂川を渡って、さらに700mほど進むと、国道の左側に下花咲一里塚跡がある。ここは近辺にあった石仏を集めて整備したとのことだが、元の一里塚の面影は無くなっている。
約500mで、本日のハイライトの下花咲宿の本陣である。この地方の星野家の家屋で、現在の当主は17代目とのことで、まだ部分的に住居として使用されている。
住んでおられる上品な老婦人が、家屋内を案内し、説明してくれた。
お婆さんのご主人は養子で、東海道の島田宿の本陣からこられたとのこと。叔母さんに絵を描く方が居られたと、色々な屏風絵も飾られていた。
庭の向こうには、星野家は24町歩も保有する豪農でもあって、幾つもの蔵が建っていたそうである。裏側は中央高速の大月インターが直ぐ近くで、庭の一隅には文庫蔵が残っていた。また、お婆さんの祖母が嫁入りに乗ってきたという駕籠も保存されていた。
中央高速の大月インター入口を過ぎ、笹子川を渡って、真木温泉入口にさしかかる。木が茂っていて国道であることが残念と思う道が続く。
お昼時間になり、「いなだや食堂」で昼食をとる。地元の人達が4人ほどで酒盛りで歓談していて、何処まで行くのか等話しかけてきた。
食事が終わると、雨が降ってきた。幸い大降りではない。
初狩駅も過ぎ、進むと、「小林本陣」があった。元の家屋はなくなっていたが、僅かに当時を偲ばせる。
延々と国道歩きが続くが1.5kmほど進んで、ようやく旧道に入る。やはり旧道は車の騒音を聞くことから免れられるのが良い。800mほどで、山門が立派な「宝林寺」があり、直ぐに国道に出るが、また旧道が右に分かれる。旧道の終わりが近づくと、「稲村神社」が目印で直ぐに左折して国道に合流する。
国道で笹子川を渡ると、笹一醸造の酒遊館があり、直径4.8m、長さ4.95mの世界一の太鼓が目を引く。ここでは、お土産のお酒、菓子などが売られている。酒粕を入れた饅頭が評判が良いとのことでお土産に買った。
まだ、小雨がぱらついている。酒遊館を過ぎると、直ぐに笹子駅が左に見えてくる。駅前には、大きな「笹子墜道記念碑」。そして無人の笹子駅である。ちょうど午後2時である。次回の笹子峠越えを期待しつつ、今日はここで終えることにした。今日歩いた距離は20Kmにも満たないが、久しぶりで足が少々痛んだ。