2010.07.04

笹川宿から郡山

地下道を抜けると、旧道で笹川宿である。左にある須賀川第二中学が、上人坦の地名の由来となった、上人檀(しょうにんだん)廃寺跡(国史蹟)とのこと。静かな通りが続いて歩行にはありがたい。少し先には、左側に「寶来寺」があり、参道脇には多くの石仏や、二十三夜塔が集められていた。
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「寶来寺」の山門前の階段が古びているのも歴史を感じさせる。街道の寶来寺と反対側には、立派な蔵が建っており、歴史の街に相応しく思えてくる。
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そろそろ、お昼の食事時だが、食堂などありそうに無い。やむなく400mほど進んでコンビニで折り詰めの「助六寿司」を買ってきて、茶屋池公園で食べることとなった。
食べ終わって、進むと右側に多量の石碑、石塔が集められていた。
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そして、その直ぐ横には「一里塚跡」の石碑と説明板が立っていた。江戸から60番目の一里塚で、盛り土は失われてしまっている。この辺りから、白石坂と呼ばれる上り坂になり坂の途中の左側には「スルハチ池」と「ニゴリ池」がある。 写真は「ニゴリ池」で小学生が釣りをしていた。今日は、午前で学校が終わったのか?
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左側が工業団地の道を2Kmほど進む。日差しをさえぎるものは無く、暑さが身に沁みる。
ようやく旧街道が左に分かれ、その分岐点に「筑後塚供養塔群」がある。説明板によれば、筑後塚と呼ばれる所以は、「須賀川城が二階堂氏の家臣の守谷筑後守の内通により伊達政宗に攻め落とされた戦いの後、政宗は主君を裏切った筑後守を許せず、この地で成敗したといわれることに因る」とのこと。政宗の厚遇を得ようとして主君を裏切りその報いを受けたのであろうが、非情な時代であったものである。なお、以前はこの塚は少し手前の柏城小学校前にあったが、学校建築と道路改修のためここに移されたとのこと。
また、屋根囲いの中の板碑は、鎌倉時代に官道であった東山道の路傍に建てられたもので「双式阿弥陀三尊来迎浮彫供養塔」である。
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進むと、左側には石塔があり、旧街道の雰囲気がある。そして、滑川に向って道は下って行く。
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滑川橋を渡る。先日の雨の影響で水量は多い。直ぐ右側には東北本線の鉄橋が見える。
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東北本線に沿って700mほど進むと、清陵情報高校の敷地に接して雷神社がある。京の賀茂氏の一族が奥州に来て、祖神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)を祀たのであろうか。
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また、雷神社の隣には大きな石碑2基と揚水に使った電動機が並べられていた。
石碑には「滑川地区揚水灌漑記念碑」とあり、滑川地区の用水は嘉永3年(1851)に改修されたが、電気揚水機を設置して、米の安定収穫と増産を図った記念とのこと。
そして、少し先で東北本線の踏み切りを渡る。


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1Km程先で、水郡線の踏切を渡る。渡ると直ぐに、郡山市に入る。
水郡線は、茨城県水戸市の水戸駅から福島県郡山市の安積永盛駅までと、茨城県那珂市の上菅谷駅で分岐して茨城県常陸太田市の常陸太田駅までを結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(地方交通線)であるが、まだ乗ったことはない。
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500mほど進むと、東北新幹線のガードをくぐり、その先の荒川を蛍橋で渡ると、笹川宿である。左の細い道を入って行くと「熊野神社」がある。勧請応永27年3月足利満貞(または満直)治世の折り、紀州熊野大権現より御分霊したものである。篠川城の守護神として鎮座すると伝えられる。
境内には、3つの石碑があり、その内の一つには「足尾山」と彫られている。「足尾山」は茨城県石岡市と同桜川市の境に位置する標高627.5mの山であるが、醍醐天皇がこの山の神社に祈願し足の病が治ったことから、「足の神」として信仰されるようになった。
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笹川宿は、室町時代、足利氏の東北支配の拠点となった笹川御所のあった所で、今も立派な赤瓦のある家が「笹川宿本陣跡」で「明治天皇御小休所跡碑」が建っている。そして、左に細い道路を入ると「東館稲荷神社」があり、ここが「笹川御所跡」とのこと。直ぐ裏を「阿武隈川」が流れ、東北新幹線が川を跨いでいる。
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2Kmほど阿武隈川沿いの道を進み、かつて音無川と呼ばれていた笹原川を、「耳語(ささやき)橋」で渡ると、日出山(ひでのやま)宿である。
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笹原川を渡った右側に「ささやき公園」と名付けられた小公園があり、「耳語橋」にまつわる大きな石碑が建てられていた。
石碑裏面には、「天平4年(732)、奈良より葛城王が按察使(あぜち)として陸奥の国に下向の際、片平郷の国司、祇承が3年の年貢を怠っていたので、王の怒りに触れた。その時、見目麗しい春姫が「安積山影さえ見ゆる・・・」と詠み、歓待に務めたので、王の怒りが解けた。
王が都に還る時、この地まで見送りにきた春姫と、橋の上で別れを惜しみ、何やらささやいたが、里人には何も聞こえず、川の流れも一瞬止まったといわれ、後世、この川を「音無川」、橋を「耳後橋」と称するようになった。 なお、永承6年(1051)、源頼義、義家は東征の折この橋は朽ちていて渡れなかったので「あづま路の、、、」と詠まれたと今に伝う]と書かれていた。
一方、表側には春姫の歌「安積山 影さえ見ゆる 山の井の 浅き心を 我が思わなくに
源頼義の歌、
あづま路や ささやきの橋 中たへて 文だに今は かよはざりけり
みちのくの 音無川に わたさばや ささやきの橋 しのびしのびに
が彫られていた。
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日出山宿を進むと、「おくのほそ道」の真新しい石碑があった。東山道や、奥州街道として訴求するより芭蕉の「奥の細道」を名乗る方が商品価値が高いとの判断に寄るのであろう。傍には古い「十九夜塔」があった。
次に、日出山二渡神社である。境内には、日出山公民館が建てられている。いわゆる村社であろう。
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左に日出山公園があり、その角に大きな石碑が建てられていた。日出山土地区画整理事業竣工記念碑で、郡山市街地の南西部に位置するこの地域の生活環境の向上と健全な市街地の発展をはかるため道路、公園等の一体的整備を行うべく、昭和45年6月25日に組合の認可を受け、その後12年を費やして工事が完成したと書かれていた。
200mほど進むと、「水無月橋」と名付けられた新しい橋を渡る。そして、橋には、6月(水無月)の万葉歌として、
をみなえし 咲く沢に生ふる 花かつみ かつても知らぬ 恋もするかも」 中臣女郎
と彫られていた。しかし、この橋が作られたのは近年で、万葉集とは特に関係はないようである。
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橋を渡って進むと「小原田(こはらだ)宿」である。旧奥州街道40番目の宿場で入口付近に小原寺(しょうげんじ)がある。
この辺りは、宿の中心で枡形の痕跡も残っており、門構えの立派な家も残っている。ふと門の中を望見すると、茅葺の家も残していた。
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長い参道の「香具山神社」がある。由緒は定かでないが、境内の手入れが行き届いており、タイプの異なる大きな常夜燈が2つある。地元で大事にされているものと思われる。
少し先には、枡形と思われる道路のカーブがハッキリと残っている。ここが小原田宿の出口である。
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街道左に浄土真宗本願寺派の円寿寺がある。豊臣秀吉の奥州仕置で領地を追われた長沼城主が開山したという。近くの七ッ池遺跡出土の唐二彩水瓶や金銅製頭椎の大刀を所蔵していて、国の重要文化財である。いよいよ、郡山宿が近づいてきた。
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東北本線の踏み切りを渡ると、郡山宿で市街地域に入って行く。通りは現在では大町通りと呼ばれている。
「うすいデパート」のある十字路で左折して、国道4号線に出て「善導寺」を訪れる。浄土宗名越派の本山、下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子町)円通寺第十五世良信の弟子良吸(良岌)が天正7年(1579)に創建した寺である。寺は、何度か焼失して、現在の本堂は大正2年(1913)に再建されたものである。
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「善導寺」の次には「安積国造神社(あさかくにつこじんじゃ)」を訪れた。成務天皇5年(135)、比止禰命(ひとねのみこと)が初代安積国造に任ぜられて安積国を建国し、神社を創建して和久産巣日神(わくむすひのみこと)と天湯津彦命禰命(あめのゆつひこのみこと)を祀ったのが起源とされる。 比止禰命の死後には神霊が合祀され、坂上田村麻呂の東征の際には八幡大神が同時に祀られ、八幡宮とも呼ばれる。 東北遠征時の源頼義・義家が戦勝祈願を行なったという記録も残る。極めて古い歴史を持つ神社である。境内には、由緒のある種々な建造物が存在するが、白王稲荷神社にある、明和7年(1770)高遠の商家が奉納した透かし灯籠は、高遠の石工が造った精巧な彫刻のある灯籠であり、見事である。
kagamiishi_86.jpgまだまだ、日は高いが今日の暑さで疲労も蓄積し、足も痛みを感じ出しているので、街道歩きは切り上げることにして郡山駅の方に進んだ。駅前の店でアイスコーヒーを飲んでゆっくりと休憩し、今晩の宿泊のホテルに向った。

2010.07.05

郡山から高倉

本日の万歩計45,431(29.5Km)・・・二本松まで

昨夜は、ホテルのテレビでサッカーのワールドカップのダイジェスト版を見て、早くに寝てしまったので、今朝は早い時刻に眼が覚めてしまった。
朝食の時刻には、かなりの間があるので、昨日、訪れ損ねた如寶寺に行ってみた。
真言宗豊山派の寺院で、郡山の有力者、虎丸長者が都に上り、平城天皇より馬頭観音像を賜って帰郷、大同2年(807)に観音堂を建立して笹久根上人を招いて開眼供養を行ったのが始まりと伝えられる。下の写真の左側は、観音堂と本堂で、右側は書院である。
境内には数多くの古碑があり、鎌倉時代の刻銘のある石造笠塔婆、板石塔婆は、国指定重要文化財である。
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ホテルに戻り、朝食を済ませての再出発は7時25分であった。商業地区なので当然かも知れないが、早朝で大町通りもひっそりとしている。大町交差点を過ぎて進むと、左側に「阿邪詞根(あさかね)神社」がある。由緒によると、平安時代・康平年間(1058?1065)、伊勢国阿邪詞より勧請して、はじめは道祖神社として猿田彦命を祀る。その後、寛治3年(1086)、源義家の副将軍として、前九年・後三年の役に出征した平忠通の霊を合祀し、御霊宮と改称された。さらに、明治2年(1869)には、忠通神社に改称され、明治22年(1889)3月に阿邪詞根神社に改称して現在に到るとある。
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境内の中央には、神木が貫禄を見せ、左の方には福島県重要文化財に指定されている石造法華曼荼羅供養塔と、郡山市指定文化財の石造浮彫阿弥陀三尊塔婆がある。
説明板によると、源頼義・義家が奥州平定後の治暦3年(1067)に敵、味方の戦死者を弔うために建てたといわれており、高さ2.43m、厚さ30Cmで、塔の表面は風化が進んでいるが、仏の姿を表す梵字を配した曼荼羅が刻み込まれているとのこと。
柵の内側左下には、高さ91Cmの石造浮彫の阿弥陀三尊塔婆がある。鎌倉時代末期に作られたものと推定されている。
この辺りは、まだまだ街道らしい趣のある家屋も残っている。そして少し先で、逢瀬川を安積橋で渡る。逢瀬川は、古来歌枕で有名で多くの歌が詠まれたところであったが、高度経済成長期の住宅街の急激な広がりに下水道の整備が進まず、さらに不法投棄などの増加により日本でも屈指の水質汚濁の激しい河川となってしまった。しかし、最近では環境意識も高まり、豊かな自然を取り戻しつつあるとのこと。
浅香山 さも浅からぬ 敵とみて 逢瀬に勇む 駒の足並み   源 頼義(1051年)
ほどなくも 流れぞとまる 逢瀬川 変わる心や 井堰なるらん  新続古今和歌集(1439年)
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磐越西線のガードが見えてきた。郡山と会津若松経由新潟県の新津駅を結ぶ線である。
ガードをくぐって進むと、佐藤酒造店がある。前身である藤屋本店は宝永7(1710)年に創業で、上質の井戸があり、佐藤酒造店でも近年まで井戸水を酒造りに用いていた。蔵の裏手にある日吉神社には当時からの井戸も残っているという。さらに、蔵の敷地に美しい藤が咲いていたことから、通りかかった二本松藩主丹羽公が「藤乃井」の銘を授けたと伝えられている。
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300mほど進むと左側に「日吉神社」がある。16基の石造塔婆が県指定重要文化財となっている。
また、境内には、仙台仏と呼ばれる伊東肥前守碑があり、郡山市指定史跡である。
天正16年(1588)、伊達政宗はここに本陣を築き佐竹、蘆名、二階堂、結城、相馬、田村など当時の奥羽南部のほとんどの連合軍と戦った。伊達政宗の生涯で最大の戦いの郡山合戦である。このとき、政宗の危機を救って死んだのが伊藤肥前で、仙台藩4代藩主の伊達綱村が碑を建立した。その後、参勤交代の仙台藩主は、この碑を参拝するのが慣例だったという。
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その少し先には、山門を始め本堂も新しい「阿弥陀寺」がある。享保2年(1717)江戸神田の鋳工師藤原長政の作の銅鐘は郡山の指定重要有形文化財である。いわき市勿来(なこそ)の松山寺の鐘楼にあったが、1886年久保田に留まり1888年阿弥陀寺の銅鐘となったとのこと。
さらに進むと、左側に行健小学校があり、見事なレリーフを見せていた。この小学校は、明治6年に久保田小学校として阿弥陀寺を校舎に代用して創立され、その後現在の校名に改称された。
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街道左に「豊景神社(とよかげじんじゃ)」がある。天喜4年(1056年)、源頼義・義家父子の創建と伝えられ、後の天養元年(1144)に鎌倉権五郎景政公を合祀し、現在に至る。
この神社に伝わる太々神楽は、福島県の重要無形民俗文化財に指定され、格調の高い神楽と高評されている。
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「豊景神社」から100mほどで、「本栖寺(ほんせいじ)」がある。由緒によれば、元弘元年(1332)田村莊司田村輝定(輝顕)公が臨済宗の高僧大光禅師復庵宗己大和尚を迎え八丁目恵日台に恵實山福聚寺を開山創建。その後永正元年(1504)田村義顕公に至り、三春大志多山に舞鶴城を築城し移住するに当り福聚寺もともに移ることとなり、本来の福聚寺跡に建つ寺として其のまま恵實山として寺号を本栖寺として残された。
なお、田村輝定はこの陸奥の地に土着した征夷大将軍坂上田村麿の子孫である。
それにしても、建屋、石仏像等の全てが真新しく、光り輝いている。この財力はどこから来るのであろうか。
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福原宿の終わりで、内環状線の道路標識のある信号を渡り、左の道路に入って行くと宝沢(ほうざわ)沼がある。寛永4年(1627)加藤嘉明が会津領主となるや工事に着工し、延人員4,628人を使役して寛永7年に完成した。古い潅漑用水池である。
沼を一周する1.5Kmは「一周ふれあい小路コース」として100m毎に距離表示杭を立てるなど整備されており、多くの人のウォーキングコースとして利用されている。また、沼の北東の隅には、鳥居と小さな祠の水神社がある。江戸期の創建とのこと。
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水神社の前を右に折れると、馬頭観世音の石塔が4体も建っていた。そして、宝沢沼の増水時の水を阿武隈川に流す照内川を左に見ての桜並木で、街道に復帰する。
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照内川に架かる高江橋を渡ると上り坂でとなり、姿の良い松が見えてくる。街道の松並木の名残である。坂を下ると、牛ケ池の碑があり、記述によれば、文化年間(1804?1818)の始め、名主の滝田佐野右門が牛ケ池開拓を志し、二本松藩主より許可を得て私財を投じて開拓したことを後世に伝えようとするものであった。
さて、肝心の牛ケ池だが、一面に葦が茂って、水面は全く見えなかった。しかし、牛ガエル(食用ガエル)の野太い声が、僅かにここが池であることを語っていた。
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牛ケ池から100mほどで、街道は左に別れ、自動車の通行が減って有り難い。断片的に松並木が残っていて、馬頭観世音等の石碑が見られる。
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1Kmほど進むと、道は右にカーブしながら上って行き、藤田川と東北本線を跨ぐ。自動車は、ぐるりと一巡して下の道路に下りるが、歩道は線路を跨いだところで、下りる階段がある。
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階段を下りると「日和田宿」である。300mほど進むと、左に八幡神社がある。「日和田宿」の総鎮守である。
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三春駒で有名な三春藩への追分を過ぎ、日和田駅入口を過ぎると、左側に「蛇骨地蔵堂」がある。参道には多くの石仏、石塔が延々と並んでいる。蛇骨地蔵堂は、養老7年(713)に開山され、現在の建物は享保3年(1718)の再建とのこと。当初は東勝寺の所管であったが、幕末に東勝寺が廃寺となり西方寺に移された。禅宗様式を基調として、柱や架構も雄大で、使用部材も良く、郡山市随一の仏堂建築で、市の重要文化財に指定されている。
しかし、蛇骨地蔵堂とは特異な名前の地蔵堂であり、その由来を調べると、下記のような物語が存在した。
昔、この地は、安積左衛門忠繁という領主が治めていた。忠繁には、あやめ姫という美しい娘がおり、彼女に心を寄せる若者が多く、あるときこのあやめ姫に恋した家臣の安積玄蕃が、結婚の申込みをしたが断られ、これを恨んだ玄蕃は、母親と父の忠繁を殺してしまった。
 あやめ姫は大変嘆き悲しみ、館の近くの安積沼に身を投げてしまったが、悲しみと恨みの心は、その姿を大蛇に変え、荒神となって天変地異を起こすようになった。不作が続く里人は、毎年村の娘を一人づつ人身御供に捧げることにして、あらぶる霊をなぐさめようとした。
 それから30年余りが過ぎたある日の事、33人目の人身御供に選ばれた娘の父親はあきらめきれず、娘の命を助けて欲しいと長谷の観音に参拝し、そこで佐世姫という両親ともに死別した娘に出会った。佐世姫はこの話を聞くと、自分が身代わりになるという。大蛇の棲む沼の傍で佐世姫がお経を読み始めると、水面がにわかに波立ち、中から大蛇が現れた。
 佐世姫はかまわず静かに経を読み続けると、初めは荒ぶっていた大蛇はやがて静まり、あやめ姫が現れた。あやめ姫は、「あなたの気高い心とお経のおかげで、やっと迷いからさめて往生できました」と、天女となり天界へ舞い上がっていった。
 あとには、大蛇の骨が残され、佐世姫はその蛇骨で地蔵尊を彫り、あやめ姫の冥福を祈ったと云う。この佐世姫と、人身御供になった32人の娘達を祀ったという三十三観音が、地蔵堂の後ろに並んでいる。

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また、境内には、西方寺の笠松と呼ばれる見事な松がある。樹齢250年と推定され樹高4m、枝張りが東西南北とも11mもあり、とても立派な体裁を保っている。管理も行き届いて、郡山市の天然記念物に指定されている松は、この1本だけとのこと。
さらに、参道にはイチイの木がある。福島県指定の天然記念物である。
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日和田宿の終わりは西方寺で、永世年間(1504?1521)の開基と伝えられる。当初は現在地より約1km西方にあったようだが、享保年間(1716?1736)に現在地に移ったとの事。ここの木造大日如来坐像は、福島県指定の重要文化財となっている。


koriyama_35.jpg西方寺を過ぎて、600mほど進むと万葉の時代から歌枕として有名な「安積山(あさかやま)」があり、現在では「安積公園」として整備されている。万葉集には「安積山 影さへ見ゆる山の井の 浅き心を吾思はなくに」の歌が由縁書きを添えて巻十六に記されている。また、古今和歌集には「みちのくの あさかのぬまの 花かつみ かつみみる人に 恋ひやわたらん」があり、多くの歌が詠まれるようになった。ところで、この歌の「花かつみ」であるが、あやめ、花菖蒲等、諸説ありハッキリしないが、明治9年6月17日、明治天皇の巡幸のさい、ヒメシャガを花かつみとして天覧に供し、以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年、郡山市の花に制定された。
芭蕉も旧暦元禄2年(1689)年5月1日に曽良と訪れ、万葉集に名高い「花かつみ」を尋ね歩いている。奥の細道にも、「等窮が宅を出て五里斗、檜皮(ひはだ=日和田)の宿を離れてあさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。・・・」と記している。
芭蕉の訪問を記念して、芭蕉の小道が作られ、その奥にある山の井の清水に続いていた。
また、入口の門が造られ、歌まくらの地に相応しく、ここで詠んだ歌の佳作が展示されていた。
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少し進むと、右側に横森新田の姉ヶ茶屋跡がある。明治天皇駐蹕(ちゅうひつ)御遺跡の碑が建っているだけだが、景色の良い所であり、参勤交代の行列が必ず休憩所とした所である。
その後、磐越道をくぐって山際の道を2Kmほど進むことになる。歩道も無いので、道がカーブしているところは、突然に車が現れるので気が抜けない。
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ようやく、民家が立ち並び始め、右手に濁り池が現れ、さらに700m程進むと、右手に竜宮門を構えた「山清寺」がある。ここは、中世以来、畠山氏が居城した高倉城の入り口である。天正13年(1585)に行われた伊達政宗の二本松攻撃には、佐竹、葦名、相馬、二階堂、岩城、白河結城、石川が連合して戦ったが、高倉城主の高倉近江は政宗側に寝返り、その後この山城は政宗の郡山合戦の前線基地となったようである。
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1Kmほど先で、道は左に曲がる。その角に村社・鹿島神社がある。長い石段を上ると、夫婦杉があり、迫力のある狛犬が睨みを効かせていた。
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本宮から二本松

koriyama_44.jpg山際の道を離れて、田園の中の道を進むと、本宮市の表示板が立っていた。長い郡山市の終わりである。
そして、直ぐに五百川を渡る。五百川の名前の由来には、萩姫の伝説がある。南北朝時代から室町時代初期の頃、公家の娘が不治の病にかかり、夢枕に立った不動明王から、都から東北方面に行き、500本目の川岸に霊泉があるというお告げを受けた。これに従ってたどり着いた萩姫は、2年ほど滞在して湯治して全快し都へ戻ったと伝えられる。
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五百川を渡ると、右側は本宮南工業団地で、工場群が延々と続く。日差しが強く汗で上半身はビッショリである。1Kmほど進むと、左の田圃の中にこんもりとした木立が見え、草道が伸びている。辿ると、富士愛岩神社があった。愛宕神社とばかり思い込んでいたが、愛宕ではなく愛岩である。どういう謂れなのであろうか。
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街道に戻ると、すぐに「新昌寺」がある。山門前の板碑は、新昌寺石造り供養塔で、本宮市指定文化財である。説明板によると、上面の種子キリーク(阿弥陀如来)と、正安4年(1302)の紀年銘及び「右志者為過去」と判読でき死者の供養のために造立されたものと思われる、と書かれていた。
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500mほど先で、短い区間だが旧街道が左の集落の中に残っていた。進むと集落の中ほどに「申供養塔A群」の立て札があり、4つの供養塔を含み石塔群が建っていた。
供養塔は、正応5年(1292)の記述があり、鎌倉時代のものであり、本宮市の指定有形文化財となっていた。供養塔以外の石塔も立派で謂れのありそうなものであった。そして、最後は草道で、民家の軒先を通るような感じになり、山田橋のところで広い道路に合流する。
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山田橋を渡ると、道は緩やかな上りとなる。川の水は、雨の増水で濁っていた。
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坂道を少し上ると、左側に「積達騒動(せきたつそうどう)鎮定之遺跡碑」が建っていた。説明板によると、江戸中期の寛延2年(1749)に二本松藩内で発生したただ一つの百姓一揆が「積達騒動」と言われている。寛延2年の収穫は平年の4割りであったが、年貢の軽減はわずかで不作が続いていたため農民の不安感が増大しついに農民一揆が起こった。一揆は1万8千人ほどに膨れ上がったが、本宮の町役人達は八方画策し、長百姓の冬室彦兵衛らが中心となって農民の要求を藩に認めさせ流血を見ることなく解散させたとある。
阿武隈川が街道の右に迫ってきて、本宮宿の中心が近づいてくると、左側に本宮観音堂がある。
かつて、奥州街道は、この観音堂の裏手側で、観音堂も後ろ(東側)を向いていたが、明治になり、境内の一部を削り、国道(現県道須賀川二本松線)が反対側に作られたので、それに伴い、こちら側に向きを変えられたとのこと。
境内には、「太郎丸観音堂供養塔」が金網に囲われていた。説明板によれば、厨子を形どるような枠をとり、半肉彫りで、中央に本尊阿弥陀仏を、右に合掌する勢至菩薩、左に蓮華を持った観音菩薩を踏割(ふみわり)蓮華の上に立たせている「浮彫阿弥陀三尊来迎塔婆」である。 鎌倉時代中期以降のもので、本宮市有形文化財に指定されていると書かれている。
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さらに、郷土につくした人として、小沼貞長公霊碑が建っていた。説明板によれば、貞長は田村郡船引城主であったが、田村氏が没落したのち浪人となり、慶長5年(1600)57歳の年に本宮に移り住み、  若松城主上杉景勝から荒地250石を与えられ、通称南町に新しい町の建設を計画した。伊達政宗が本宮通過の際、新しい町の建設の話をしたところ、政宗は賛同し、永楽銭200貫を与えたという。貞長は賛同した人々に奨励金を分け与え建設に着手し、慶長13年(1608)に新しい町を完成させたとのことであった。
観音堂の隣に薬師堂がある。境内には、本宮生まれの医師で、漢詩、和歌、連歌、俳句にも優れた文化人の伊東太乙(たいつ)の碑、本宮生まれの医師で、のち二本松藩の侍医となった九思堂小泉尚賢先生の碑などがある。
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郵便局のある本宮宿南町の中心部と、本宮駅付近である。
本宮の名は、久安2年(1146)町の北の菅森山に安積郡の総鎮守として安達太良神社が建てられたことに由来する。本宮宿は、安達太良川を境にして北町と南町に分かれていたが、この山の上に領主の館があったことから、戦国時代に、まず北町を中心として宿場町が形成され、江戸時代になって南町まで町が拡大した。 本宮宿は、江戸時代には、奥州街道筋では屈指の規模の遊郭があり、人形浄瑠璃で”奥州街道本宮なくば何をたよりに奥がよい”と謡われるほど有名であった。
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安達太良川に架かる本宮橋である。この橋を渡ると本宮宿の北町である。安達太良川は、この橋の直ぐの下流で阿武隈川に合流する。また、昭和61年(1986の台風で本宮町の中心部で679戸が床上、床下浸水の大洪水となり、大規模な護岸工事を行った。
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北町に入ると、蔵座敷の古い家が残されていた。少し先には安達太良神社がある。久安2年(1146)2)安達太良山と大名倉山の神々をここに遷し、安達一郡の総鎮守とした。鳥居をくぐり、木々の茂った長い階段を登ると東向きの社殿がある。
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安達太良神社を後にして進むと、百日川にぶつかり、その向こう側に「石雲寺」がある。境内の大銀杏は福島県登録の緑の文化財である。
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街道は百日川の手前なので、橋を渡って引き返し街道に復帰する。北町の終わり付近の町並みを見ながら進み、百日川に架かる「枝沢橋(えださわはし)」を渡る。川の様相も急に変わってくる。
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右手に石仏、常夜灯、髭のお題目塔がある。その先で、道は2つに別れているが、街道は真っ直ぐ進む。
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山際の道を2Kmほど進むと、ようやく二本松市の表示板があり、少し先に薬師堂への階段が見えてきた。長い階段で、疲れた身にはなかなか難儀なことと思い、上るのはスキップした。
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薬師を過ぎ、坂を下り東町に入って行く。そして、杉田橋を渡り、東北本線の踏切を渡って杉田宿の中心部に入って行く。
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1Kmほど進むと、国道4号線をくぐるが、その先で国道から分岐した県道355号線に合流して、交通量の多い道路となる。しかし、700mほどで右に別れる。新座分岐である。
しばらく進んで、上り坂になり、上り詰めると「木登り地蔵尊」が左側に建っていた。
説明板には、今から約600年前、畠山氏がこの地を治めていたころ、畠山一族には病気などの不幸が続いた。
3代目畠山国詮は、那須野ヶ原の金毛九尾の狐が、娘に化けて人々を苦しめていたのを一休和尚と会津熱塩の源翁和尚の合作による地蔵尊を祀って祈祷したところ狐を退治できた。このことを知って、その地蔵尊を竜泉寺の全忠和尚に頼んで譲りうけ、この地まで背負って来たが、少し休んで歩き出そうとしたところ、再び背負うことが出来なかった。同じ畠山領地内であり、また霧ヶ城(二本松城)の病門にあたるところから、この地に病気除けとして祀ることにした。
それから十有余年過ぎてのこと、地蔵尊は小男ほどもあるにもかかわらず、木造りのためか、時折木の根の穴に首を突っ込むので、竜泉寺3代淳学和尚が別々に石の地蔵尊を造り木の股に納めたところ、悪病の流行や天災の時には赤頭巾を飛ばしたり、和尚に夢知らせを三晩と続けた。
その時は、村人を集め祈祷し災厄から救うことが出来た、と書かれていた。
なんだか、よく分からない話しである。
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眼鏡橋で羽石川を渡る。直ぐ右には東北本線が通っていて、先には二本松インターと国道4号線を結ぶ高架橋が見える。高架橋をくぐる直前には、二勇士の碑の道標がある。
戊辰戦争で、三春藩の降伏により側面を突かれることになった二本松藩では、やむなく少年隊に出撃を命じた。二本松少年隊は、十二歳から十七歳までの少年から成る一隊である。このときの戦闘で薩摩軍に切り込んだ二人の二本松藩兵の青山助之丞(21歳)と山岡栄治(26歳)を称える石碑が建てられているのである。
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坂道が下りに差し掛かったところに、馬頭観世音の石碑があり、その先で道は大きく左に曲がりると、若宮の交差点が見えてくる。交差点を過ぎ、街中を流れる六角川に架かる四ツ谷橋を渡り、次の若宮一丁目の交差点で右折する。
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若宮一丁目の交差点を右に曲がると、かつての宿場であるが、戊辰戦争で二本松宿は一夜にして焼け落ちたので、今の町並みはそれ以降に建てられたものである。
真っ直ぐ進んで突き当たりは枡形で、その角には明治7年創業の檜物屋(ひものや)酒造店がある。銘柄の「千功成」は、秀吉の千成瓢箪に因んで「千成」と名付けたのが始まりで、後に千の功績をという意味から「千功成」に改められたという。


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枡形を過ぎると、二本松神社がある。二本松神社は寛永20年(1643)二本松藩成立に伴い藩主として入部した丹羽光重公の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神である八幡宮を左に、領民の守護神を右に二つの神様を祀る御両社として現在の場所に遷宮された。
350年の伝統を誇る二本松のちょうちん祭が有名で、秋田の竿灯、愛知の一色提灯まつりと、共に日本三大提灯まつりと言われている。
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疲れた体に鞭打ち、高い階段の二本松神社に参拝して、今日はここまでと二本松駅に向かった。駅に着くと、午後3時40分で、次の上り電車は午後4時21分であった。
ようやく、電車が来て、郡山に向かい新幹線のやまびこに乗り換え帰宅した。
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2010.09.29

八丁目宿(松川)から福島

境川から700mほど進むと、「奥州八丁目天満宮」がある。奥州八丁目宿の入り口である。本堂は、粋を凝らした彫刻で彩られていた。なお、八丁目宿の名前は、境川から八丁離れているとこから名付けられたとのこと。
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300mほど進むと、水原川(かつては松川と呼ばれていた)に架かる松川橋(めがね橋)がある。明治18年に完成したアーチ形の石橋で空石積工法の橋である。橋のアーチと水面に映った影がメガネのように見えることから「めがね橋」と呼ばれるようになったとのこと。なお、松川町の地名もこの川の古名の松川に起因する。
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めがね橋のたもとには、真言宗豊山派の西光寺がある。天正年間(1573?1592)の開山である。阿弥陀如来坐像、は奈良東大寺にあった阿々弥作の像で、1760年に大円坊と通禅坊が中町の藤倉清左右衛門を施主として持ち運んで来たことが台座に銘記されていて県文化財である。
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めがね橋を渡ると、本流の水原川が接するように流れていいる。こちらの橋は天明橋である。
橋を渡って、300mほどで街道は右折するが、その手前の左側に稲荷神社がある。境内には明治天皇御駐輦の地(めいじてんのうごちゅうれんのち)の碑がある。
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稲荷神社から街道に戻り、左折して僅か100mほどで右折する。ここで、ようやく食事処を見付け昼食をとり、休憩の後歩き始める。直ぐに松川駅入り口の交差点に達するが、左に細い参道が見えている。辿るとここにも諏訪神社が鎮座している。この地方は諏訪神社に縁のある豪族でも住んでいたのであろうか。また、境内には昭和58年に福島県文化財に登録された、樹齢約400年、樹高10m、胸高周囲4.5mの桜の大木がある。天正年間(1573?1587)に伊達政宗公が江戸で苗木を大量に買い求め仙台に運搬の途中、懇願して苗木3本を頂いた内の1本と伝えられているとのこと。
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右折して街道を500mほど進むと、相馬道追分である。古い道標の回りには六地蔵が彫られている。ここで右折して、いまは住宅開発地となってしまった道を進み、突き当たって右折すると、東北本線の下り踏み切りに行き当たる。浅川踏切である。この辺りは、東北本線の上り線と下り線の線路が離れている。
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左の写真は、郡山方面に向かって撮ったものであるが、踏切を過ぎると街道は、県道114号線に合流し、300mほどで再び離れ、東北本線の上り線のガードをくぐり再び合流する。

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114号線を1Kmほど進むと、福島大学の入り口である。福島大学のある場所の地名は福島市金谷川だが、かつての金谷川村で、松川町と合併の際に消失した地名である。しかし、1999年の福島大の町名変更の際に、大学敷地に関してのみ復活されたとのこと。
また、福島大学の敷地を横切れば、金谷川駅でJRの東北本線の駅名としても残っている。一瞬、福島大を横切って金谷川駅に出たい誘惑に駆られたが、まだ午後1時半である。頑張って歩かねばと思い直した。
進んで行くと、600mほどで右側に八幡神社の鳥居が見えてきた。浅川新町宿である。慶長9年(1604)、浅川村から集落が移転して新しい町を作った時に造られた神社だという。
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400mほど先で右に分岐して、国道4号線の下をくぐり、大きく左にカーブして進んで行く。
500mほど進むと、道は緩やかに右に曲がり、清水町宿に入って行く。左側に「出雲大神宮」がある。
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神社案内によれば、800年の昔、炭焼きの藤太が氏神として祀ったのが始まりで、藤太が京から迎えた阿姑耶姫との間に4人の子供をもうけ、その内の一人が有名な「金売り吉次」。藤太の屋敷は長者屋敷と呼ばれ村人とともに栄えていたが、文治5年(1189)の鎌倉幕府による奥州合戦・石名坂の戦いで消失。しかし出雲大神はその後も村人が祀り続け、慶長年間にこの地に移して村の鎮守として崇拝してきた、と書かれていた。
「出雲大神宮」を後にして、300mほど進むと、左側に伸興寺がある。境内には多くの石仏、石塔が集められており、ひときわ大きな馬頭観世音の石碑の左側には、安永3年3月10日(1774年)、藤原宗興卿がこの宿場で倒れ、亡くなる時に詠んだ歌の歌碑がある。享和3年(1803年)に清水町宿の有志が建立したと書かれており、「とても身の 旅路に消へば 塩釜の 浦のあたりの 煙ともなれ」と刻まれているとのこと。
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ここで、街道は左折して進む。右に杉妻自動車学校を見て1Kmほど進むと、国道4号線を跨いで、同伴ホテルの前を進んで行く。
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道は細く、山道の様相となる。車も全く通らないので気持ちが良い。
道を進むと、木立の切れ目から福島市街が望見できる。
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1Kmほど進むと、「共楽公園」の名前の公園となっていて、きれいに整備されていた。人影は見られないが、桜の咲く季節の休日には賑わうのであろうか。
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公園の出口付近には、馬頭観世音の大きな石碑も見られ、かつての街道であることを伺わせる。
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その後、急坂を下って一気に広い道路に出るが、坂の途中からは福島市街がより近くに見ることが出来るようになった。 広い道路に合流して、直ぐ左に須川南宮諏訪神社がある。かなり古い神社のようである。
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濁川を渡る。鴨が数羽泳いでいた。橋を渡って次の信号を左折すれば、南福島駅である。夏を過ぎて初めての歩行で、疲労も感じる。もう一駅の歩行だ。
1Kmほど市街区域を進んで、鎮守日吉神社を左に見る。
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次に大森川を渡る。
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300mほどで、荒川を跨ぐ「信夫橋」である。本日の歩行で一番大きな川で、直ぐに阿武隈川に合流する。
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信夫橋を渡ると、右の橋の袂に柳稲荷がある。説明書きによると、貞享年間(1684?1688)に、荒川氾濫で町が流出寸前の時、稲荷のご神体が流れてきて人々を救った。神殿は明治14年の福島大火(甚兵衛火事)に消失し、昭和8年に再建された、とある。
進むと、左手の奥に「真浄院」。創建は天長2年(825)に弘法大師空海が現在の伊達市霊山に開基したと伝わっている。当初は遍照寺と称していたが荒廃し、慶長年間(1596?1615)に上杉家の祈願所として快翁が中興開山し信夫山にある羽黒神社の別当となる。寺宝には「こもかぶり観音」と呼ばれる羽黒山聖観世音菩薩、チベットで造られた(9?10世紀)密教法具である金剛鈴と金剛杵が国重要文化財に指定されている他、金剛界、胎蔵界からなる両界曼陀羅(表具は伊達政宗が寄進したとされる)が福島市指定有形文化財に指定されているとのこと。 本堂の外観も清楚で美しい寺院である。
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次いで、左手奥に康善寺(清明町)がある。創建は親鸞の弟子である明教が開山したと伝えられていて、当初は黒岩村に草庵を結び秀安寺と称していたが天正の乱などで堂宇が焼失し一時荒廃する。13世宗覚の時代、上杉氏の家臣古川善兵衛が故郷である信州から康楽寺の僧を招き中興開山させ現在地に堂宇を再建し、寺名は康楽寺と善兵衛の名前から一字とって康善寺と改められた。古川善兵衛は上杉氏から福島の郡代として派遣され、西根下堰を自費を投じて開削するなど良政を行なった人物であったが、資金が枯渇すると藩の軍用米を無断で借用し堰の費用にあてた事で寛永14年(1637)に自決した。今も康善寺の境内には古川善兵衛の墓が祀られているとのこと。
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ホテルサンルート福島に宿を取ったので、ここでホテルにチェックインし、シャワーを浴びてサッパリして、夕食がてら駅の方に進んでいった。直ぐのところに明治元年開業で、明治9年(1876)の明治天皇巡幸に同行した木戸孝允が宿泊し、大正時代には竹久夢二が泊まったという旅館・藤金があった。
そして、駅前の広場に到着すると、芭蕉・曾良の旅姿立像がある。この像は、奥の細道300年を記念して、福島商工会議所の有志が平成元年(1989年)に建立したとのこと。
また、古関裕而のモニュメントもあった。古関祐而の生誕100年を記念して、平成21年に設置されたものである。明治42年福島市に生まれ、昭和54年に最初の名誉市民となっている作曲家である。代表曲は「とんがり帽子」、「イヨマンテの夜」、「ニコライの鐘」、「君の名は」、「高原列車は行く」、「オリンピックマーチ」等多数ある。他にも戦争中は、「暁に祈る」、「ラバウル海軍航空隊」など多くの軍歌を作った。
なお、福島駅の発車メロディーは在来線は「高原列車は行く」、新幹線ホームは「栄冠は君に輝く」で、共に古関の曲が使用されている。
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振り返って見る福島駅も夕暮れの様相となってきた。
その後、帰りに食事をしてホテルに戻り、疲れのためか早くに眠ってしまった。

二本松から二本柳

本日の万歩計41,543(27.5Km)・・・福島まで

今年の夏は、ことの他暑い日が続き、とても街道歩きを行える状況ではなかったが、9月末になって急速に涼しくなってきた。そこで、7月5日からお休みしていた街道歩きを再開すべく、出かけることにした。
東京発6時4分のやまびこ41号に乗車し、郡山で在来線に乗り換えて二本松には7時59分に到着した。大勢の高校生とともに下車して、早速に駅前通りを街道に向かって歩き始める。
本町通を進むと、1845年(弘化2年)創業の羊羹の玉嶋屋がある。二本松藩御用達であった由緒あるお店で、建物は文化庁の有形文化財にもなっている。 今でも楢薪(ならまき)の炭火で煉った餡を使用していて、その餡を使用した本煉羊羹は、江戸時代の参勤交代の将軍家への献上品としても使用されたとのこと。
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少し先には、明治21年より和菓子・洋菓子の製造販売をおこなっている「日夏(ひなつ)」がある。ここも「二本松羊羹」の看板を掲げているが、羊羹以外の和菓子も作る老舗である。
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その先で街道は、枡形となっていて、そこに田中太鼓店があり、店先に7,8個の製作途中の太鼓が並んでいた。覗き込んでいると、おばさんが出てきて、太鼓はケヤキの木が美しくてよいが、大きなケヤキが手に入り難く外材なども使うなど話してくれた。製作するのは主人だろうと思っていたら、最近では息子が主に作っているが、元は私が始めて全て自分で太鼓作りを行っていたとのことであった。
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街道は、亀谷石坂入り口で左折し、坂道を上って行く。坂道の左側に貞観6年(864)慈覚大師円仁により開山された、鏡石寺がある。当初は二本松城の北方向の細野に開基された。江戸時代に、仙台藩が参勤交代で街道を通過するとき、捕虜として捕らえられた伊達輝宗を自らの銃撃で失うはめになった敵の畠山氏の居城であった二本松城に対して、火縄銃に火縄を点じて通過し、秋田藩は槍を抜いたまま通過していたという。 城主は既に畠山氏ではなく、寛永20(1643)に丹羽光重が二本松藩主として入府していたのにである。そこで、藩主が苦慮の上、鏡石寺を亀谷の地に移し、寺内に徳川三代将軍家光公の御廟を設け、門表には三つ葉葵の紋を用いたのである。この後、各藩は馬を下り、最敬礼で通り、二本松城に対する嫌がらせがなくなった。封建時代の武士の意地を伺わせる話しである。
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亀谷坂の頂上付近に「亀谷観音堂」がある。鏡石寺の住職の隠居所として作られたとも言われており、千臂堂(せんぴどう)とか千手観音堂とも呼ばれている。境内には、芭蕉の句碑があるが、風化が激しく一部破損していて全く読めない。説明板には「人も見ぬ 春や鏡の うらの梅」の句と書かれていて、裏面には蔵六坊虚来が安永丙申之春(安永5年、1776年)建立と刻まれているとのこと。
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句碑以外にも境内には、多くの石塔類が集められていて、階段下には文豪幸田露伴ペンネームゆかりの地の石碑が建っている。20歳になって文学を志し、電信技手として赴任していた北海道余市から明治20年(1887)9月28日の日暮れ近く福島に到着。ここで一泊すると当時郡山まで開通していた東北本線の乗車賃が不足するので、夜中歩いて郡山まで行こうと決め出発。飲まず食わずで夜半近くに二本松に到着すると街は提灯祭りの賑い。懐中わびしいながらも亀谷坂頂上の阿部川屋で餅を買い、食べながら歩いたものの、体力・気力もすでに限界。道端に倒れ込み、こうもり傘を立て野宿を決意、いつか野たれ死にする時が来たら、きっとこんな状態だろうと思案し、口をついて出た句が「里遠し いざ露と寝ん 草まくら」であった。2年後、文壇初登場の時、二本松で露を伴にした一夜が忘れられず、発奮の意味をこめて、この句からペンネームを「露伴」にしたと日記などで後述している。
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亀谷坂の頂上を越えた下り坂は、竹田坂である。この坂の途中の右側に五社稲荷神社がある。
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さらに下ると、真行寺がある。ここには、戊辰戦争で二本松の少年隊士の成田才次郎に討たれた長州藩部隊長の白井小四郎の墓がある。腹部を一突きされ、白井は薄れる意識の中で「突き殺されるは我が不覚、こんな勇敢な童に討たれて本望だ。その童を殺してはならぬ」と言い残したそうである。しかし捕らえるにも才次郎は刀を振り回し抵抗する。しかし、ついに銃弾で撃たれ才次郎十四歳のに最期となった。境内では松の木が傘の形に作られていた。なお、境内に保育園があり、女性が山門から駆け出してきた理由が理解できた。
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坂を下って、竹田交差点で右折するが、ここに竹田見附ポケットパークが作られている。説明板によると、慶安年間(1648?1651)の町割りにより、旧奥州街道と二本松城の竹田門へ続く三叉路で城の最も外郭に当たる為、番所が設けられていたとのこと。ここで右折すると、広くて美しく整備された通りとなっている。
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右折して直ぐの左側に、「かげのまち 職人横丁」の木の長い看板が架かっていた。二本松藩の城造りに携わった建築大工職人が、城内の調度品を造ったのが始まりという家具職人の集まった横丁であったのであろうか。また、少し先の道の右側には、大七酒造の近代的なビルが建っていた。街道歩きで時々出くわす酒造所とは異なり近代的なイメージである。
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再び左を見ると、二本松城御用蔵が大、中、小と3つ並んでいた。天明5年(1785)と天保14年(1843)に建造された御用商人大内家の蔵で、戊辰戦争では新政府軍陣所として板垣退助が使用した。現在では、天保蔵品館と天明茶舗伝承館と呼ばれて、当時の美術品、歴史資料などが展示されている。
大七酒造の建物を通り過ぎると、右側に顕法寺がある。丹羽氏の前の藩主加藤明利の菩提寺で墓所があり、案内表示が立っていた。
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竹田交差点から500mほど進んだ交差点で街道は左折し、鯉川橋を渡る。下の左の写真は鯉川橋から上流方向を見たものである。向こうに見える小高い山は二本松城の場所である。江戸期にはここを流れる鯉川も水量が多く、川岸には多くの蔵が立ち並び物資輸送の舟が行き交ったとのこと。なお、下流は阿武隈川に合流する。
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鯉川橋を渡り、直ぐに右折して400mほど進むと、小六稲荷の参道が山の上に続いている。
さらに、400mほど進むと、智恵子の絵を描いた看板の智恵子物産店があり、土産品などを売っている。 そして、街道の右側の団地名は「智恵子の森団地」で、左手の鞍石山(鞍掛山)には「智恵子の杜公園」が出来ている。鞍石山は安達太良山と阿武隈川を展望できる景勝地で光太郎と智恵子が散策を楽しみ”あれが”阿多多羅山” “あの光るのが阿武隈川”のフレーズで有名な智恵子抄「樹下の二人」の舞台の地である。 また、伊達政宗が二本松城主畠山氏を攻めた折り、重臣の片倉小十郎がこの地に陣を構え、そこにあった石に馬の鞍をかけたというエピソードが残っている。
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少し先には、高村智恵子の生家であった、清酒「花霞」を醸造する長沼家の家が残されている。
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家屋の裏には裕福であったことを伺わせる庭があり、知恵子記念館が作られている。残念ながら水曜日は休館であった。
智恵子の生家の長沼家は破産し一家離散となったが、作られていた酒の「花霞」の名前は、現在別の酒造会社が「智恵子の花霞」の名で販売しているようだ。また、近くには智恵子記念館の大きな駐車場も出来ていた。写真は高村光太郎と結婚した当時のものである。智恵子は1907年に日本女子大を卒業した後は、当時は珍しい女性洋画家の道を選んで東京に残り、太平洋画会研究所で学び、1911年(25歳)には、同年9月に創刊された雑誌『青鞜』の表紙絵を描くなど、若き女性芸術家として人々に注目されるようになっていた。その後光太郎と出会い1914年に結婚したが、生家の離散などの心労から統合失調症に陥り、1938年10月5日(52歳)に粟粒性肺結核のため死去した。
智恵子の生家を過ぎて1Kmほど進むと、油井川(ゆいがわ)を渡るが、橋を架け替え工事中で渡れず、右往左往していたら通りに顔を出したおばさんが、迂回路を教えてくれた。写真は迂回路の橋からみた工事現場である。雨のためか水は濁っている。
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油井川から100m程度進むと、左側に長谷観音への参道が見えてくる。近づくと、長い階段が続いている。
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上り詰めると、少し古びたお堂が建っていて、境内には地を這うような見事な笠松があった。また、説明板には、本堂真下には湧水があり、祀られている長谷十一面観音の霊力による霊水と伝えられていると書かれていた。
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しばらく、静かな油井の集落を進んで行く。夏の暑さが続き咲くのが遅れていた彼岸花も咲いていた。
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進んで、Y字路を左にとって、二本柳宿の入り口で左折する。直ぐに「馬下し観音」がある。
説明版によると、戦国時代初期、修験者がこの世の平穏無事と、この地の安泰を祈願し十一面観音菩薩を安置した。あるとき、この前を馬に乗ったまま通ろうとした殿様が、不意に馬から下ろされたという。それから武将はもとより、大名に到るまで、必ず馬から下りて平安無事を祈願してから通るようになったとのこと。
少し進むと、長い塀があり、大きな枝垂桜の木がある家があるが、この辺りが二本柳宿の中心である。
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二本柳宿は500mほどで終わるが、その出口に円東寺がある。大同2年(807)徳一大師による開基で、当初は安達太良山の中腹にある猿鼻に堂宇が建立され、大日如来を本尊とする両部秘密道場であったが、慶長3年(1597)に奥州街道の二本柳宿が形成されると宿場町の枡形にあたる現在地に移された。この地方最古の歴史を持つ事から広く信仰を集め安達三十三観音霊場第十五番札所にもなっている。また、境内の枝垂桜の大木は推定年齢400年以上とされ昭和53年(1978)に二本松市(旧安達町)指定天然記念物に指定された。
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円東寺の左となりには、疱瘡神社がある。天然痘が根絶された今となっては、鳥インフルエンザにも霊験があると広めてはどうであろうか。
ここで、街道は右に曲がり、急な下り坂となる。下りきったところに流れている小川は払川である。
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払川を渡ると、道は上り坂に転じ、100mほど進むと、左側に「鹿の鳴石」がある。
説明板によれば、昔、日本柳と長谷堂の中間に大きな沼があり、そこに沼の主(龍神)が住んでいた。あるとき沼が決壊して、水が無くなり自分の相手とはぐれてしまった。沼の主は鹿に化身し、この自然石の上で鳴き、何度も相手を呼んだが見つからず、山を越えて、土湯の女沼に移り住んだといわれる。この石の周囲を左に3回まわると、鹿の鳴き声が聞こえるという、と書かれていた。坂は300mほどで下りになり、その坂の途中に「戦士七人之墓」と刻まれた石碑が建っていた。戊辰戦争の戦死者の墓標である。
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下り坂も直ぐに「烏帽子森川」の小さな流れで終わりになる。少し先の十字路脇に「日向(ひなた)集会所」あり、その前には石仏が集められていた。坂道は少し上った後に下り坂となる。二本柳宿を過ぎて、上り下りが繰り返される道である。まだ午前中で良かったが、その日の歩行を終える午後であったら、顎が上がっていたかも知れない。しかし、道端には萩も咲いていて、のどかな道である。
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坂が下りになってのんびり歩いて行く。田圃の稲ももうすぐ刈り入れであろう。境川の集落の入り口に達すると、右側に「鎮守諏訪神社」の大きな石柱が建っていて、向こうの山に参道が続いている。長野県の諏訪湖にある諏訪大社の勧請を受けた神社であるが、ほんとうに全国的な広まりを感じる。
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集落を過ぎて境川を渡ると、「思いやる心の奥の漏らさじと 忍ぶ隠しは袖か袂か」と刻まれた信夫隠の碑があると、案内書には書かれていたが、見当たらなかった。代わりに桐生幸蔵翁の頌徳碑が建っていた。

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