2010.06.10

芦野から陸奥入口

本日の万歩計47,582(30.9Km)・・・白河(女石追分)まで

東京駅を6時16発のやまびこ201号に乗り、那須塩原、黒磯で電車を乗り換え、黒田原には7時59分に到着した。那須高校の男女学生が大勢降りてきた。都合が良いことに、8時10分に伊王野行きのバスが出るので乗車するが、前回の芦野から乗ったときと同じく乗客は、私一人である。8時22分に芦野仲町の停留所に着く。丁子屋は今日は休みでない様だが、この時間ではどうしょうもないと、早速歩き始める。
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前回訪れた、石の美術館を過ぎると商店もなくなり静かな通りとなる。少し先で枡形であろうか、右折して直ぐに左折して進むと、右の方に「建中寺」の参道が見えてくる。「建中寺」は、江戸時期に旗本で2,500石を与えられた芦野氏の菩提寺で歴代の墓がある。
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芦野宿の終わりには、新町の地蔵尊がある。享保2年(1717)に建立されたもので、厄災を宿に入れない役目も持っていた。昔はこの広場で盆踊りも行われていたそうである。ここで、奈良川を渡り国道に合流する。芦野庵と称する無人の休憩所が設けられていた。近くに有名な「遊行柳」があることで、訪れる観光客も多いからであろうが、「遊行柳」は、西行が訪れ芭蕉も訪れた、歌詠みのスポットなので、詠んだ歌の投稿箱があり、優秀作品が掲示されていた。庵の裏手には、田圃の中に「遊行柳」のこんもりした柳の木が望まれる。
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芦野庵の横の道から、田圃の中の道を進むと「遊行柳」への真っ直ぐな道が伸びている。もともとは、その向こうにある「湯泉神社」への参道である。
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大きな柳の木が2本立っており、特に大きいのに石囲いが施されている。那須の名木にも指定されていて、幹回り90Cm、樹高10mと書かれていた。またその脇には芭蕉の歌碑が建っていた。
田一枚 うえてたち去る 柳かな
また、西行が詠んだ歌は、
道のべに 清水流るる柳かげ しばしとてこそ 立ちどまりつれ
そもそも、西行は、桜を殊更に愛したことから、室町の初め、西行の庵にある老木の桜を題材に謡曲「西行桜」が世阿弥によって作られたが、室町後期になって、観世信光 (1435?1516)は、西行が那須・芦野で詠んだ上の歌の柳を主題にして、謡曲「遊行柳」を創作した。
これにより芦野の柳は「遊行柳」として広く世に知られるところとなり、歌枕の地となったとのこと。
やはり、ここでは、一首詠む必要があるようだ。
蛙なき 早苗なびいて いにしえの 姿伝える 柳なりけり」・・・Naka
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「遊行柳」を通り過ぎ、湯泉神社に向う。鳥居の代わりの巨木が2本立っていた。
国道に戻って進むと、「甦る豊郷」と書かれた大きな石碑が建っていた。「芦野地区圃場整備事業完成記念碑」とある。
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500mほど進むと、左に「岩倉右大臣歌碑」が建っていて、峯岸の集落に入って行く。立派な民家の前には「大黒天」、「十九夜塔」などが建っている。
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立派な蔵も残っている。そして、左に「愛宕神社」の細い急な階段が続いている。
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直ぐ先には、「べこ石の碑」がある。寛永元年(1848)芦野宿の学者・戸村忠恕(ただひろ)が民衆教化の為に建立したもので、約3,500文字を刻んだものである。なお、「べこ石の碑」は牛の形の石というのではなく、炎帝神農氏という牛面人身の姿が彫られているからである。


asino_022.jpg「べこ石の碑」を過ぎると、一旦国道に出るが、300mほどで再び左の旧道に入って行く。左の土手には、小さな石碑が散見されるが、ひときわ大きな峯岸館兵従軍之碑がある。明治維新の戊辰戦争に黒羽藩は官軍として戦ったが、この時藩領だった峰岸、板屋、高瀬、寄居、白井、蓑岡の各集落の農民が、峰岸に設けられた峯岸館で洋式兵隊の訓練を受けて各地で転戦し戦功をたてた。この顕彰のため明治27年(1894)に建立されたものである。
国道に出て、200mほどで今度は右の方に入って行く。間の宿の板屋で、静かな集落である。
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緩やかな上り坂となる宿の終わり近くに「諭農の碑」が民家の庭に道路の方を向いて建っている。病害虫対策や飢饉への備えなどを農民に教える内容で、建立は「べこ石の碑」と同じく戸村忠恕である。
宿の終わりには「一里塚」が道の両方に残っている。「板屋の一里塚」で、江戸から44番目一里塚である。しかし、道路が切り通しに改修されたときに大きく削り取られ、もとの姿は崩されている。


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板屋の集落を過ぎると、次は蟹沢集落で、道の右上の木立の中に馬頭観音が見えてきた。とにかく、馬頭観音の石碑が他の街道と比べても多い道である。集落は短くて直ぐに終わってしまう。
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蟹沢の集落が終わると、向こうに高瀬の集落が見えてくる。日本の原風景のような道を進み、高瀬集落に入ると、民家の脇に大きな「馬頭観音の石碑」と左に「大黒天」と書かれた石碑が建っていた。
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高瀬の集落の終わりはには、高徳寺がある。入口に建っているお堂、本堂ともに美しい姿である。
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国道に出て進むと、白井石材への入口に大きな常夜燈がある。白井石材は、「芦野の石の美術館」のオーナーでもあり、手広く石材の採掘、加工を行っているようだ。しかし、石材屋さんとはいえ、大きいのを造ったものだ。
この辺りまで来ると、寄居の集落が見えてきた。右の道路わきに「座り地蔵」があり、左の旧街道に入って行く。芦野宿以降、本当に良く地蔵を見かける。
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寄居宿に入って行くと、入口付近に常夜燈が建っており、赤い瓦の立派な家が目に付く。
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そして、右側に「與楽寺(よらくじ)」がある。那須三十三所観音霊場の10番の札所である。その境内には、那須の名木の山桜がある。推定樹齢150年で、幹回り450Cm、樹高20mとある。
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寄居の終わりが近づき、旧街道に相応しい、家がある。どのような方が住まわれているのだろうか。ここを過ぎれば、少し進んで国道に合流する。合流点の直前で右折すると、「白河の関」のある旗宿への道である。
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国道を300mほど進むと、左側に「泉田の一里塚」がある。江戸から46番目の一里塚で下野(しもつけ)の最後の一里塚である。車の休憩場所を作り、併せて造り直したように思える。さらに、1Kmほど進むと、左側に「寄居大久保」の道標が見えてくる。ここからが大久保の集落となる。
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この辺りは、石の産出が盛んなのか、石切り場があった。さらに、進んで行くと、右側に馬頭観音、二十三夜塔などの多数の石碑が並んでいた。
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右側に、「初花清水碑」が建っていた。石碑というより、表示杭の感じである。初花と言えば、箱根の上りでの「初花の瀑布の碑」を思い出す。何故ここで初花が出てくるのかと思ったが、「箱根霊験躄仇討」の主人公・飯沼勝五郎は、この東の棚倉藩の武士であった。初花とともにこの地に隠れ住んだのである。
この清水は、今も枯れることなく流れているのだが、配水管様のパイプから流れ出しているのは興ざめである。水は冷たく、コップが置かれているので飲めるようだが、その気にはなれない。ここで、野良仕事のおばさんが、暑いですね、どこから来ましたかと声を掛けてきた。少し言葉を交わして進むと、国道との合流点に「馬頭観音」、「瓢石(ふくべいし)」と彫られた石碑、瓢箪の形に掘られた石像がある。「瓢石」は足を病んだ飯沼勝五郎が、ここに初花と隠れ住み足が直るのを待つ間に彫ったと言われている。
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国道を700mほど進むと、左側に山中の集落への入口である。ここも小さな集落だが、立派な蔵のある家があると思って、眺めると「明治天皇山中御小休所」の石碑が建っていた。
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また、国道に合流して進む。快晴の日の国道歩きは、汗が頬をつたう。1Kmほど進むと、右側に大きく立派な馬頭観音が建っていた。昔も今も辛い場所であったのであろうか。そして、ようやく境の明神が近づいてきて、栃木県ともお別れである。「お気をつけて」と書かれた那須町のモニュメントが建っている。反対側には、当然「ようこそ那須へ」となっている。昔の旅人も下野にお別れとの感を持ったことであろう。
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境の明神から女石の追分

本日で、奥州街道の第一章・宇都宮から白河宿までが完了。4回の旅であった。

下野側の境の明神の「玉津島神社」である。説明板によれば、奥羽側の住吉神社と並立している。創立は古く、天喜元年(1053)4月14日に、紀州和歌浦の玉津島神社の分霊勧請と伝えられる。明治39年12月の火災により類焼し、昔日の面影を失ってしまったが、道中安全の神として古い歴史をしのばせる貴重な史跡である。

asino_053.jpg紀州は私の生まれ故郷だが、今でもここからは遠く、天喜元年という古い時代に勧請したとは驚きである。確かに、和歌浦の玉津島神社は、神亀元年(724年)2 月に即位した23歳の聖武天皇が、和歌の浦に行幸してその景観に感動、この地の風致を守るため守戸を置き、玉津嶋と明光浦の霊を祀ることを命じた詔を発する。この時同行した万葉歌人山部赤人の詠んだ歌が「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」の有名な歌と言うのだから、古い神社で格式は高い。
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asino_055.jpg「お気をつけて・とちぎ県」の標柱と、「ようこそ・福島県」の看板がある。かつての下野の国(しもつけのくに)と陸奥の国(みちのくのくに)の境界線が、そののまま現在の栃木県と福島県の境界となったのである。国道であるにもかかわらず、ここはセンターラインも無い、細い道になっているのは、明神を移すのが憚られ、拡幅工事が出来なかったためであろうか。
ともかく、長かった下野の国ともお別れである。
境界を越すと、陸奥側の「住吉明神」がある。説明板によれば、境の明神の由緒は不詳であるが、文禄4年(1595)に当時白河を支配していた会津藩主の蒲生氏が社殿を造営している。現存するのは、弘化元年(1844)に建てられた小祠である。奥州街道は五街道の一つで、奥州、越後の諸大名が参勤交代で通行し、旅人や商人などの往来も盛んであった。このため、道中の安全を祈ったり、和算額を奉納したり灯籠や碑の寄進が盛んに行われているとある。
また、芭蕉の「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑を初めとして多くの歌碑等も多く建立されている。
なお、玉津島明神(女神・衣通姫(そとおりひめ))と住吉明神(男神・中筒男命(なかつつおのみこと))は、国境の神・和歌の神として、女神は内(国を守る)、男神は外(外敵を防ぐ)という信仰があり、陸奥・下野ともに自らの側を「玉津島を祀る」とし、反対側の明神を「住吉明神を祀る」としているとのこと。
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国道を挟んで境の明神の反対側に、白河二所関址の看板がかかっている。ここは、峠の茶屋「南部屋」があった場所で、横の階段を上ると、直ぐ右に「境の二所之関址」の碑が建っていた。建立は、理学博士・東京学芸大学名誉教授・国士舘大学教授 岩田孝三、白河関守 石井浩然 昭和57年(1982)5月となっており、碑文によれば、江戸時代よりの関守の家である石井浩然(南部藩士で、故あって南部藩の参勤交代路にあたる白河の関守となった石井七兵衛の子孫)とその考証に当たり、遂にその関屋跡を確認する事が出来た。茲に白河二所ノ関址立証を機とし、白坂道白河関址に紀念碑を建立し、永く白河二所ノ関の意を伝承せんとするものであるとある。 
なお、岩田教授は相撲の出羽海部屋と並ぶ名門、「二所ノ関部屋」の名も、この関の名と関係しているとの説を掲げているとのこと。
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両方から樹木が茂り、涼しく心地よい。昔は、どこでも樹木が茂っていて、現在よりはるかに歩き心地が良かったのではなかろうか。
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峠から坂を下って行くと、大きな楓の傍に「衣がえの清水」の立て札が立っていた。
急な斜面を降りると、今もこんこんと湧く泉があり、「古くは弘法大師が、この清水で衣を濯ぎ、芭蕉も門人曽良と共に元禄2年(1689)新暦6月7日 白河入りし、境の明神を参拝後この清水に立ち寄り休息をしたところである」と書かれた説明板が立っていた。
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坂道を下り終えると、左側に馬頭観音他の石碑群があり、ようやく白坂の街並みが見えてきた。
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少し先の左手に、大垣藩士の墓がある。説明板には、「五月二十六日、白坂天王山の戦いにおいて、大垣藩銃隊長・酒井元之丞重寛は、自軍の先頭に立ち兵を指揮していたが持っていた軍旗が、東軍の銃撃目標となり胸部に銃弾を受け陣没した。この碑には妹のかづが詠んだ「進み出て 績を尽くしたこの神の いまは偲びて たつる石ふみ」の歌が刻まれている。墓地は白坂観音寺にあり、大垣藩三名が合葬されている」とある。その「観音寺」が、少し先にあった。
真偽のほどは確かでないが、金売吉次の隠し金伝説にまつわる寺で、吉次が遺した最後の言葉「朝日さす夕日さす からすの横ばえ すずめのちょんちょん 三つ葉うつぎの下にある」の夕日とは、この観音寺の夕日観音のことだそうである。
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向こうに、「白坂泉岡」の交差点が見えてきた。時刻は12時を回ったところであるが、白坂には入ろうと思うような食事処がなかった。やむなく、白河への峠道に入って行く。少し先には、早速新しい牛頭観音の石碑が建っていた。
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延々と続く峠道で、空腹がつのってきた。やむなく横道に入ってリュックに入れておいたコンビニのおにぎりを食べる。芦野の丁子屋とまでは言わないが、少しは食指の動く食事処がないものかと思う。
2kmほど歩いたであろうか、皮籠(かわご)の交差点に着いた。智将・直江兼続が徳川軍を迎え撃つべく主戦場に選び数キロにおよぶ防塁を築いたところで、今も、防塁跡と思われる遺構の一部が残されているとのこと。当時はこの地は革籠原と記されていた。この交差点からしばらくは、殊更に大きな家が散見されるが、何か関係があるのだろうか。
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数百メーター進むと、左側に金売吉次の墓の案内表示があり「八幡神宮」の小さな社がある。500mほど横道に入って行くと林の中で、石囲いの中に三基の石塔があり、中央が吉次、左が吉内、右が吉六の、いわゆる「金売吉次三兄弟の墓」と伝えられている。石塔は白河石で作られた宝篋院塔(ほうきょういんとう)で、製作年代は特定できないが、作技法の特徴から室町時代頃の建立と推定されている。なお、石塔の石囲いは元治元年(1864)である。
承安4年(1174)、吉次兄弟が砂金を交易して、奥州平泉と京とを往来する途中、ここで群盗に襲われ殺害され、里人がこれを憐れみ、この地に葬り供養したと伝えられている。また、後に源義経がここに立ち寄り、吉次兄弟の霊を弔い、八幡宮に合祀したという。それで、この八幡を「吉次八幡」とも呼ぶそうである。また、皮籠の地名は、吉次が襲われ、皮籠の中の金などを奪われたことから、そうと呼ばれるようになったとも言われている。
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街道に戻ると、少し先の左側に座り地蔵と石仏が並んでいた。今日何体目の座り地蔵であろうか。進むと、左側に溜池が見えてくる。一里段という地域である。遠くに那須連山が望めるところらしいが、午後になって空は晴れていても、霞がかかったようになり見ることは出来なかった。
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新白河中央病院が左手に見えてきて、その先の坂道を下って行くと、同じく左に数本の木が意味ありげに立っているのが見え、近づくと髭文字の題目碑が建っていた。
その先で、国道から右に分かれ西小丸山の集落に入って行く。
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やはり車の通らない道は楽である。道は大きく左にカーブして5?600m程度で元の国道に合流する。
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国道に合流した地点の風景は、小さな集落の西小丸山から一変したもので、山道を歩いていて突然に都会の喧騒に出くわしたような戸惑いを覚えると言ったら大げさだろうか。直ぐに、西大沼の交差点で向こうには戊辰戦争の激戦地の稲荷山が見える。
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街道は、稲荷山に突き当たり右折するが、その曲がり角の右側に「長州大垣藩戦死六名墓」と彫られた碑がある。また、道の左側には「戦死墓」と刻まれた大きな石碑が見える。戊辰の役古戦場の説明板も建てられていて、以下の記述がある。
慶応4年(1868)、奥羽諸藩鎮定の為、薩長、大垣等の西軍が大挙して、3方から白河を攻めた。東軍の会津、仙台、棚倉の兵は城の南西の山地に陣し、これを迎え撃った。
この地は白河口での激戦地で、閏4月25日、会津兵は一旦西軍を退けたが、5月1日、再び来襲し激戦、弾尽き刀折れ、戦死者数知れず遂に敗退し、小峰城は遂に落城、城郭は焼失した。戦後両軍、各々の戦死者の碑を建て、霊を慰めた
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下の左側の写真は 田邊軍次の墓である。会津藩士田邊軍次は、戊辰の役、白河口での戦いで東軍が敗れたのは、後に白河県から白坂町取締りに任命された大平八郎が、西軍の道案内をしたためであると信じ、白坂宿鶴屋で八郎を斬殺し、自らもその場で割腹して果てた人物である。八郎の養子直之助は、義父の仇である軍次の墓を建て白坂観音寺に葬ったという。戊辰戦争の悲劇の一駒である。
また、右の写真は、戊辰戦争の会津藩士の墓で、ここは白河口最大の激戦地であった。この碑には、会津藩若年寄・横山主税、海老名衛門等304名の戦没藩士の名が刻まれている。
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右折して300mほど進むと、権兵衛稲荷神社がある。狛犬として配された狐は、阿吽(あうん)の形であるとのこと。長い階段は、稲葉山の上にある本殿に続いている。
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街道は丁字路で、左折して進む。道なりに進むと、谷津田川(やんたがわ)を南湖橋である。この橋を渡ると白河市街である。
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谷津田川を渡ると、一番町に入る。街道らしい家屋が見える。
この先で、街道は直角に右に曲がる。江戸幕府の道中奉行が管轄した奥州道中最後の宿場の白河宿である。
曲がり角に「月よみの庭」と名付けられた白河石を敷き詰めた小公園がある。白河石とは福島県白河市で産出する安山岩の名称である。埋蔵量数千万トン以上と言われ、今後も安心して使える豊かな天然資源である。
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街道は、右折するが、左側には「天神神社」が見える。さて、街道を進むことにする。白河の中心街である。
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進んでいるのは、天神町で雰囲気のある家も残っている。200mほど先には「今井醤油店」がある。
さらに、200mほど進むと枡形で、ここを右折して「関川寺(かんせんじ)」を訪れる。関川寺は古くは天台宗だったとされているが、中世、白川城主の結城宗廣が中興開山し、天正9年(1581)に現在地に移ってきて、近世は妙徳寺などと共に寺町を形成し小峰城の南方の防衛ラインを呈した。境内には赤穂四十七士の1人中村勘助の妻の墓がある。勘助の父は白河藩士だった事もあり、家族を討ち入り前に白河にいた親戚に預けたのである。寺宝である銅鐘は案内板によると宝暦11年(1761)に鋳造されたものとのこと。
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山門代わりの常夜燈も巨大で迫力がある。門前の通りにある薬局も古い造りで、50年ほど前の商店風景を思い起こさせる。
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関川寺の近くの「天恩皇徳寺」を訪れた。お目当ては「小原庄助」の墓である。寺の前を通り、裏地の墓地の中にあるが、案内板が建てられていて分かり良い。徳利に盃を伏せた格好の墓石がユニークである。説明板によると小原庄助は、谷文晁の高弟である羅漢山人に絵付けを習いに来て安政5年没した会津塗師久五郎とのこと。戒名は「米汁呑了信士」で、時世の句は、「朝によし昼になほよし晩によし飯前飯後その間もよし」と書かれていた。誰かの創作としても良く出来た話しである。
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街道に戻り、さらに東北本線を潜って、小峰城址を訪れた。三重櫓が復元されていて、しかも木造なのが嬉しい。
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白河集古苑と名付けた、結城家古文書館と阿部家名品館がある。ゆっくり見学したいが、時間がなくスキップして、本丸跡に向う。石垣の組み模様が素晴らしい。
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本丸跡に通じる門からみた三重櫓と本丸跡の広場である。
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階段を上ると、城内のバラ園と市街がよく見下ろせる。「おとめ桜の碑」が建っていた。
案内板には、以下のように書かれていた。
初代藩主丹羽長重は、幕府の命により小峰城の大改修を行い、石垣造りの城郭を築きあげました。その際、本丸の一角にある石垣が幾度となく崩れ落ちてしまうことから、人柱を立てることになりました。たまたま父に会う」ためにやって来た藩士・和知平左衛門の娘「おとめ」が、不運にも捕らえられ人柱となったと伝えられています。小峰城の完成後、人々はおとめの悲運を哀れんで城内に桜を植え、これが「おとめ桜」と呼ばれるようになりました。
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櫓の中を見学した。無料である。矢や銃を撃つ狭間、石を投げ落とした石落としも忠実に復元されていた。
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街道に戻り、2つ目の枡形を通って進む。左に萩原朔太郎の妻・美津子の生家があった。萩原朔太郎と言えば、詩集「月に吠える」の名しか知らない。
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歩いている街道は、現在の呼び名では294号線で、枡形から300mほどの交差点で左折する。進むと「白河だるま総本舗」の看板が見える。白河のだるまは、江戸時代、白河城主・松平定信が、江戸の絵師に図柄を描かせ、特産物にしたのが始まりで毎年2月11日には、だるま市も開かれてにぎわうとのこと。
先に、東北本線のガードが見えてきた。潜って進むと、右側に「津島神社」があり、鳥居が三つ並んでいる。津島神社は、愛知県津島市に総本社があり、織田氏が氏神として崇拝した。なお、織田氏の家紋も津島神社の神紋と同じ木瓜紋(もっこうもん)である。
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遂に阿武隈川に架かる田町大橋が見えてきた。阿武隈川は、那須連山の一つ旭岳(1896m)を源流とする河川で、流路延長は239Kmで、東北では北上川に次ぐ長さの川である。流石に水量が多い。車道と歩道が分離されているが、歩道側の欄干に蛇が寝そべっているのを見つけたが、続いて通る人は大騒ぎとなった。30分後に引き返してきたときは居なくなっていた。道路を歩いていて蛇を見たのは久しぶりである。
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田町大橋を渡ると、右のたもとに水難殃死者供法塔が建っていた。思いがけない災難で水死した人を弔ったようである。200mほど進むと左側に聯芳寺(れんぽうじ)がある。結城宗広の伯父、広綱が娘の菩提を弔うために建立した寺であると伝えられる。もとは太田川(泉崎村)にあったのが、いつの頃か現在の場所に移ってきたようである。
100mほど進んで、左の小道を入ると、「硎姫(えなひめ)神社」がある。兵法家鬼一法眼の娘、皆鶴姫を祀る神社である。
縁起によると、平治の乱で平清盛に敗れた源氏の棟梁源義朝の遺臣である吉岡家3兄弟のうち、長兄の鬼一法眼は京都堀川に住み、兵法家として中国伝来の兵法の秘伝書を秘蔵していた。源義経は鬼一法眼より、その秘伝書を入手したが平家の圧迫が激しく、金売吉次と共に京都を脱出し、平泉の藤原秀衡のもとに向かった。皆鶴姫も旅装を整え、恋する義経を追ったが、なれぬ長旅で病気になり、里人の手厚い看病の甲斐なく息を引き取り、この地に埋葬された。その時懐中に梅の実があり、里人は遺品としてこれを蒔くと、「八房の梅」で花咲、実を結び、大事に育て、社を建立し祀ったという。
硎姫神社の「硎」とは、胎児が生み出されたのち、排出された胎盤・卵膜などを言う。皆鶴姫は妊娠していたのであろうか。しかし、妊娠していて京からここまで来ることが出来るとは思えない。鬼一法眼も実在の人物であるかが、定かでなく、全般的に信憑性に欠ける話しではある。また、梅には「八房の梅」の立て札が立っていたが、まだ植えて1?2年の様相であった。
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街道に戻り峠を越えて、ようやく女石の追分に達する。車は丁字路に突き当たり、黒磯方面と郡山方面に分かれるが、旧街道は少し手前で右に別れて行く。
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ここ女石も、戊辰戦争で激戦が展開され、その時に戦死した仙台藩士150余名の供養碑が、左側に建てられていた。奥州街道の第一章の白河宿までが完了した。
時刻は16時20分である。日も傾いてきた。急いで白河駅に戻り、17時発の電車に乗り帰宅した。
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下の写真は、白河駅前広場である。次にここを訪れるのは、奥州街道の第二章・仙台までの歩行となる予定である。
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2010.06.18

大田川から鏡石(笠石宿)

「武光地蔵」のある森を抜けて坂を下ると、太田川宿に入って行く。進んで行くと左に「常願寺」が見えてくる。遠くから見ても、枝垂れ柳の大木がお寺全体を覆っているように見える。
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常願寺の本堂は、建替えられていて真新しいが、枝垂桜は「願い桜・樹齢600年」の表示杭が立っていた。謡曲隅田川の梅若伝説の人買い信夫藤太は、この地の出身で、梅若伝説に登場する梅若丸という少年の悲運な死を哀れんで古くより梅若丸の命日の旧暦3月15日に村指定無形民俗文化財「太田川梅若歌念仏踊」が古くより行われていた。ところが、昭和50年代の終わり頃より行われることが無くなり、四半世紀もの間途絶えてしまっていた。しかし、2009年4月10日(旧暦の3月15日)に復活させ常願寺境内で披露したとのこと。
このあたりが宿の中心で、道の片側には水路が流れ、立派な家が並んでいる。
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蔵か住居か不明の石造りの家屋があり、その先で道は丁字路となるが、その突き当りには「愛宕神社」の鳥居が建っている。しかし、神社は荒廃していて、真新しい常願寺との対比が思われる。
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愛宕神社の鳥居から150mほど進み左折して、緩やかな峠道を上がって行く。左に多数の石碑が、新しい石の社を囲むように集められていた。
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峠を一つ越えると、左側に溜池があり、さらに林の中の道を進むと、左側に見逃してしまいそうな小道がある。これが旧道である。
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小道を進むと、竹藪の脇を通る道で、笹の葉が積もった軟らかい感触の道であった。これが本来の人が歩く道なのであろう。
下右の写真は、旧道から舗装道に出て、振り返って撮ったものである。
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直ぐの左に「新池」がある。農業用水として利用されているのだろうが、樹木にも囲まれ美しい。
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進んで、国道4号線を横切ると、踏瀬(ふませ)宿である。宿の入口の左には、枝垂桜の木に隠れるように愛宕神社の鳥居が見えており、周辺には二十三夜塔などの石碑が多数建っている。
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静かな街並みを進んで行く。門の両側に白い蔵を構えた屋敷があり、後で調べたら踏瀬宿の庄屋で問屋を務めた箭内(やない)家であった。貴重な古文書多数残っているとのこと。また、庭先には、明治天皇聖蹟之碑がある。
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左に、「慈眼寺」がある。枝垂桜の大木が茂っている。この辺りのお寺は枝垂桜の大きな木が植えられているのが多く見られる。桜の季節は見事であろう。
「慈眼寺」を過ぎると、松並木が見えてくる。説明板によれば、白河藩主松平定信が街道沿いに2,300本の松を旅人の日除け、風除けとして植えたのが始まりで、現在の松並木は明治18年(1885)年頃に補植されたものとのこと。
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松並木を抜けると、右側に「卯右衛門茶屋と文七茶屋」という看板があった。ここ大和内七曲がりはその昔「富士見峠」と称され、峠を越えて二つの茶屋が軒を連ね、大縄を使い数十尺の深井戸からくみ上げる美味しい水が名物であった。明治中頃、鉄道の開通で街道がさびれ店じまいを余儀なくされたが、その井戸は現在もここに残っている。
この先で、「あぶくま高原道路」を陸橋で渡る。
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「あぶくま高原道路」を過ぎると「七曲り峠」となり、林間の気持ちの良い道となる。この道は明治になり造られた旧国道で、それ以前の街道は左の木立の中にあるが、国道工事で寸断され、放置されて通るのは困難であるとのこと。そして、「七曲りの峠」を抜けると「大和久宿」である。
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承応元年(1652)建立の「山王寺」がある。山門の両側には立派な枝垂桜の木があるが、この山王寺は、樹齢は約200年の臥竜の松が有名だという。しかし、松枯れ病に犯されたと見え、松葉が茶色く変色していた。街道を歩いていると松の名木が松枯れ病で枯れてしまったのに時々出くわすのは、本当に残念である。
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先に進むと、雑木林の中に執心地蔵尊が12体屋根付きで建っていた。
ここを過ぎると、大和久宿から奥州街道33番目の宿場・中畑新田宿に入って行く。集落の中程に幸福寺があり、戊辰戦争時の野戦病院となったところだといわれる。境内に戊辰戦争時の旧幕府軍の戦死者の墓がある。
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道路の反対側には、大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)がある。山の神、海の神、戦いの神として歴代の朝廷や武将から尊崇を集めた神社である。
交差点を渡ると、左に枝垂桜の大木の茂る「しあわせ観音」がある。参道の石畳は苔に覆われている。
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そして、進むと「矢吹宿」である。
矢吹宿は天正6年(1578)に奥州街道の宿場として成立し、天正18年(1590)に町割りが行なわれたとされている。江戸時代に入り宿場制度と参勤交代制度が確立し、本陣なども設置された。そして、当時の矢吹宿の名物が蕎麦だったようである。
宿の中心付近であろうか、右側に慶応元年(1869)に、初代代吉氏が良質の水を求めて白河で酒造りを始めた大木代吉本店がある。早くから自然に恵まれた環境を活かした酒造りを目指し、有機農法米や独自の酵母を使用して、ふくよかな香味を持つ、やや辛口でスッキリとしたお酒を造っているとのこと。
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進んで行くと、左に会田病院の大きなビルが見え、その先の矢吹町北町に入ると「下ノ地蔵」と呼ばれている地蔵がある。
小学生の女の子達が、大騒ぎで留めてある軽トラックの運転席に迷い込んだツバメを助けるのに夢中になっていた。
矢吹町を抜けて、1.5Kmほど進むと街道は国道4号線に合流し、鏡石町に入って行く。新菊島温泉の大きな看板がある。1軒宿の温泉で、アルカリ性単純泉とのこと。
そして、200mほどで、再び街道は左に国道から分かれて行く。奥州街道35番目の宿場・久来石(きゅうらいし)宿の入口である。
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下左の写真は久来石宿の街並みである。静かな街を1.5Kmほど進むと、街道は国道4号線を横切って、奥州街道36番目の宿場の笠石宿に入って行く。直ぐに、右側に熊野神社がある。無形文化財の壮麗な舞で有名とのこと。
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笠石宿の街並みである。進んで、宿の中心付近に「寶泉寺(ほうせんじ)」がある。丁寧に境内の掃除を行っていた。
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右側の民家の前に「明治天皇御駐輦(ちゅうれん)之所」碑があった。明治9年6月14日とある。そして、進むと、交差点を渡った左に笠地蔵がある。由来記には、明暦4年(1658)の記述はあるが、他は不詳である。近世になり地蔵信仰が盛んになり、この板碑に笠があるところから笠地蔵として里人の信仰と結びついて今日に到ったとある。また、覆いかぶさっている笠地蔵の枝垂桜は推定樹齢250年、目通り2.7m、樹高18.5mと記載されていた。
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時刻は3時半近くだが、今日は体調に難があり雨も降り始めたので、ここで終えることにして、鏡石駅に向った。駅に着いたのは3時34分で、3時36分の黒磯行きの電車に乗ることができた。

白河から小田川宿

本日の万歩計37,666(24.5Km)

関東も梅雨に入ったようである。今日の昼間は何とか大丈夫そうだが、夕方からは雨が降り始め、その後は一週間は雨が続きそうである。そこで今日を外すと当面は歩きに行けないと思い、出かけることにした。
前回と同じく、東京駅6時16分発の「やまびこ201」に乗車し、新白河で乗り換えて白河には8時17分着。東京から2時間。だいぶ遠くに来たものだ。
まずは、前回切り上げた「女石」に最短で向うため、駅の横の「こみね・ふれあい通り」と書かれた通路で東北本線の向こう側に出て、線路脇の道を進んで「女石」に向う294号線に出る。
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阿武隈川を過ぎて、峠の切り通しに差しかかると、前回気になった急な階段ががあり、上ってみると「石仏群」があった。明らかに昔の街道はここを通っていて、道路の切り通しの切削で旧道は取り残されたものであろう。
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「女石」に着き、右の旧道に進むと、100mほどで右に石碑群がある。中央付近の碑に説明板が立っている。内容を要約すると、「志げ女は越後三条生まれで、幼少の頃白河の坂田屋に引き取られ、性質が順良で人から愛されていた。長じて遊女となり戊辰戦争の折、奥羽鎮撫参謀長州藩士世良修蔵が志げ女と遊ぶが、世良はこの地が危険であると察して白河を脱した。このことから会津藩士は志げ女を憎み殺害した。これを知った遊女屋の下男が会津藩士を殺害して、仇を打った」とある。
遊女の仇を討つのも稀有なことであり、まして碑まで建てるとは、よほど「志げ女」は周りの人達から愛されていたのであろう。
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旧道は直ぐに終わり国道4号線に合流する。その後短い区間で左に旧道が現れ、直ぐに右に旧道の入口が見えてくる。
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旧道に入ると、直ぐに「手打ち蕎麦の大清水」が目に付く。ここが、湧き水が豊富で旅人が喉を潤した場所で、地名の大清水のもとになった場所である。周りにも石仏、石碑が多く見られるが、道の反対側の廃屋の放置等、保存状態は劣悪で、白河市の対策を願いたいものである。
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進むと、「庭渡神社」の鳥居と神社名碑が見えてくる。庭渡は鶏の神でニワトリからニワタリとなったようで、漢字はいろいろに書かれ、村の守り神となっている例が多いようである。
さらに先には、立派な門構えの家が見えてくる。「からだ楽」の看板が見えるが、どのような家なのであろうか。
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高橋川を渡ると、右に「根田醤油合名会社」の建屋が見えてくる。進んで右折すると「根田醤油」で、門を入った左には「郵便局」もある。みそと醤油を造って200年とのこと。
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ここで、チョット寄り道して国道4号線を渡ると、安珍堂がある。昭和60年(1985)3月に、東北新幹線上野駅乗り入れ記念として、和歌山県川辺町の道成寺に所蔵されていた安珍蔵を譲り受け、安珍堂を各種団体と市民有志から寄せられた浄財で建立したとのこと。
「安珍忌」の3月27日には、安珍堂の前で県無形民俗文化財「安珍歌念仏踊」が奉納される。この歌念仏踊は江戸時代から続く。
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根田宿に戻って進んで行く。少し先は新小萱(にこがや)地区で、江戸期は根田と合わせて一つの宿場を構成していた。宿の終わりは桑ケ作川に架かる岩崎橋で渡って左折し、「小田川宿」に入って行く。
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直ぐに、右方向に「石雲寺」が見えてくる。白河結城氏の一族新小萱氏を開基として、白河市表郷地区の峯全院二代、子賢が開山したと伝えられている。白河結城氏の没落にともない衰退していたが、江戸時代に入った元禄年間(1688?1703)に、厳龍という僧が再興した。
この先は、南街道端の集落で、道が適当にうねっており、旧街道の香りが感じられる。
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道の左には、無造作に放置されたような二十三夜塔、庚申塔がある。この辺りから先は、北街道端集落で、最後に「白河だるま製造所」があり、倉庫には夥しい数の「だるまのパーツ」が収蔵されていた。2月11日の建国記念日に開かれる「白河だるま祭り」は毎年、約15万人の人出で賑わうとのこと。
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国道に合流する。国道の左に、部分的だが僅かに旧道が残されている。500mほど先で、国道から左に分かれて、泉田の集落に入って行く。
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泉田地区を進む。国道から別れ静かな集落である。右側に石仏が集められていた。
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進んで行くと、右に分かれる道が見えてくるので、そちらに進む。少し先で、舗装はなくなりその先で再び分かれ道となる。左が旧街道だが、国道の切り通しの開削で途切れているので、右に進み国道に出る。
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国道の切り通しを進み、1Kmほど先で左の小田川(こたがわ)宿に入って行く。直ぐに「小野薬師堂」がある。創建は大同年間(806?810)と伝わる古社で、小野小町は故郷である秋田に帰郷する際小田川付近で病にかかり、病が治るよう「南無薬師 かけし諸願の根も切れば 身より薬師の名こそ惜しけれ」と詠い祈願したところ薬師如来が夢枕に立ち「村雨の 雨は一時のかりの宿 みのかさなれば ぬぎすててゆけ」と応えた。小町が目を覚ますと病がすっかり平癒し無事秋田へ帰郷することが出来たとのことである。この伝説により、古くから信仰の対象となり奥州街道の往来時には道中祈願として多くの人達が参拝したという。
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小田川宿を進んで行く。長く続く塀の見事な家があった。
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宿の中央付近で右に入る小道があり、進むと国道を挟んだ向こうに「寶積院(ほうしゃくいん)」がある。
真言宗豊山派(ぶざんは)の寺で14世紀中頃、鏡範上人による開山と伝えられる古刹である。結城宗広の菩提を弔っていたようであり、白河結城家と繋がりがあったと考えられるとのこと。
街道に戻ると、白い蔵と松の木の調和がとれた、街道らしい家が建っていた。本当に立派な家が多い。
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ようやく、泉川に架かる馬橋が見えてきた。ここで小田川宿は終わり、左に東北自動車道の防音壁を見ながら田園の中を進む道となる。東北自動車を潜る道路がある角には、八幡神社入口の石碑が建っていたが、自動車道の向こう側に八幡神社があるのか、自動車道の工事で神社が無くなり、入口の石碑のみ残ったのか分からなかった。
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その後、1Kmほどは旧街道特有のうねりのある道が続き、ようやく向こうに森が見えてくる。
森の入口には、左の木立の中に「武光地蔵」がある。思っていたより、大きくて存在感のある地蔵である。伊達藩の居合抜きの達人が、江戸へ向かうため、この地を通ろうとしたとき、妖しい女の影が現われたので、持っていた「武光」で斬り捨てた。さて、侍は用事を終え江戸から帰りにふたたびこの地を通ると、道ばたには真っ二つに切断された石地蔵が転がっていたという。村人が切られた首を修復してお祭りをしたが、切った刀が「武光」だったので、「武光地蔵」と呼ばれるようになったとのこと。
しかし、地元では最近、「首切り地蔵」もしくは「二身堂地蔵」と呼ばれているようだ。
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2010.07.04

鏡石(笠石宿)から須賀川

本日の万歩計43,675(28.4Km)・・・郡山まで

梅雨に入り、街道歩きに出かけられない日が続いている。九州では大雨で被害も出ているが、福島県の天気予報を見ると7月4,5日は曇りなので、暑さも晴れの日に比べればかえって良いのではと、出かけることにした。歩き始める場所がだいぶ遠くなってきたので、奥州街道では初めて一泊しての二日の旅となった。
kagamiishi_01.jpg東京駅6時12分発の「つばさ101(MAXやまびこ101と連結列車)」に乗り、郡山駅に着き在来線で戻り、ちょうど8時に鏡石に到着した。
前回、乗車した「鏡石駅」であるが、改めて眺めると、商工会の事務所のスペースが大きく、駅は付属物のような形態である。切符の販売も商工会への簡易委託で改札口も無く、JRの駅の分類上でも無人駅となっている。
駅前通を進み、街道に復帰して北東方向に真っ直ぐに延びている道を進むと、鏡沼地域に「西光寺」がある。真言宗智山派のお寺で、案内板には永禄年間(1558 – 1570)須賀川城主の二階堂の属臣「鏡沼藤内」の菩提のために建立と書かれている。参道には多くの石仏があり、境内には鏡石町の天然記念物指定の「多羅葉(たらよう)」の木がある。モチノキ、イヌツゲと同じくチノキ科に属していて、葉の裏に棒で字を書くと字が黒く浮き出るので、「葉書」の語源となったとのこと。健康茶として用いられる他、火にも強く防火壁として神社や家の周りにも植えられたという。
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車の通行の多い真っ直ぐな道を2Kmほど進むと、国道4号線に沿った旧道に「須賀川の一里塚」が残されていた。道の両側に綺麗な形を保っており、国の指定史跡となっている。日本橋から59番目の一里塚で、「江戸から須賀川六十里」といわれていたそうだ。
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一里塚を過ぎて、118号線に突き当たるが道路の中央分離帯で向こうに渡れず、左の国道4号線の交差点で渡り、右折して東北本線のガードを潜り、直ぐに左折して並木町に入って行く。1Kmほど進み、大町に入ると交差点の手前左に「勝誓寺(しょうせいじ)」がある。延文5年(1360)、長沼城主・新国上総守による建立である。
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勝誓寺の直ぐ先の交差点を渡ると、左側に「大町よってけ広場」と書かれた休憩ゾーンのような広場があり、奥のほうには東京オリンピックで銅メダルに輝きながらも、練習優先で婚約にまで干渉され、オーバーワークから腰椎のカリエスを抱えて失意の自殺を遂げた「円谷幸吉」の写真と足型、略歴が記されたのが飾られていた。「円谷幸吉」が須賀川市大町生まれであるのを始めて知った。
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進んで行くと、小さな十字路の片隅に「軒の栗庭園」と書かれた小広場があり、等窮(とうきゅう)坐像と芭蕉、曾良の立像が建っていた。元禄2年(1689)6月9日に芭蕉と曾良が等窮宅を訪れ滞在するがその時、「世の人の 見つけぬ花や 軒の栗」と詠んだ句にちなんで、軒の栗庭園と名付けられたのであろう。
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左折して進み、細いがカラータイルを貼った道に入ってNTTの敷地の裏側に行くと「軒の栗 可伸庵跡」がある。
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芭蕉は元禄2年陰暦4月22日に須賀川を訪れ相楽等窮宅に滞在し、俳人の可伸の庵を訪ね、傍らに大きな栗の木があるのを見て「世の人の 見付けぬ花や 軒の栗」の句を詠んだ。その句碑も配置されていた。
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さらに、須賀川市役所に進むと片隅に「芭蕉記念館」があり、芭蕉の句に因んだ掛け軸、扇子や芭蕉の遺品の旅の道具類が展示されていた。小さな記念館であるが、近傍の年配者の団体客で賑わっていた。街道に戻る途中にも、古い雰囲気の家が残されていた。
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須賀川の街を貫く道路は、道の両側に鉢植えの花が配置され、かわいい銅像も何種類も飾られ美しい。訪問する方も歓迎されている気分になる。
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本町の交差点を過ぎて進むと、左側に「あきない広場」というイベント等、市民相互の交流並びに産業の振興を図るためのスペースがあった。見ると、テーブルと椅子を並べ軽い食べ物を用意するなど何かの催しの準備中のようであった。
「あきない広場」を通り抜けて、裏通りに出ると「二階堂神社」があり、「須賀川城址」の石碑が建っていた。 今から420年前の天正17年(1589)6月、伊達政宗は、会津黒川城(若松城)城主芦名氏を滅ぼし、次に須賀川城も狙っていた。まさに戦国時代で、同年10月26日、伊達政宗は大軍を率いて須賀川を東西に流れる釈迦堂川の北側に本陣を構え、釈迦堂川を挟んで合戦の火ぶたが切られた。ところが、前々から政宗に内通していた二階堂家重臣の守谷筑後守が、城本丸の風上にあった二階堂家の菩提寺・長禄寺に火を放ち、火はたちまち四方に飛び火し、町中が火の海と化し、須賀川城は火炎に包まれ、文治5年(1189)から400年の長きにわたり、南奥羽の雄として権勢を誇った二階堂家の須賀川城も遂に落城したのである。
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「あきない広場」まで戻り、今度は街道から右の小道に入って行き、「十念寺」に行く。浄土宗名越派の本山である下野大沢(現在の栃木県芳賀郡益子町)円通寺の末寺として、文禄元年(1592)、良岌善龍上人により開創された。もともと庶民信仰の報恩念仏道場として開初されたささやかな寺であったが、次第に興隆に向って寺運の展開を見るに至り、元禄2年(1689)には、芭蕉が「奥の細道」の旅で須賀川に滞在した際に当山に参拝し、その足跡を後世に残している。後の安政2年(1855)須賀川の女流俳人市原多代女(いちはらたよめ)により、「風流の はじめや奥の 田植え唄」の句碑が建てられた。
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十念寺の隣には、金徳寺(こんとくじ)がある。一遍上人の起こした時宗(じしゅう)のお寺で、本山は神奈川県藤沢市の遊行寺である。二階堂家城主、三千代姫の供養寺でもあり、二代目尾上松縁の墓 がある。 境内には一遍上人の銅像も見える。金徳寺を過ぎると、急な坂で須賀川に向って下って行く。
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坂道を下ると須賀川に架かる橋があるが、その手前でユーターンして「治部稲荷」を訪れる。小さな稲荷だが、前に横たわる治部稲荷坂の名前の由来となった神社である。二階堂氏の一族の治部大輔を祀った神社とのこと。
いよいよ須賀川を見晴橋で渡る。かわの両堤は整備され、桜が植えられている。桜の季節は見事であろうが、葉っぱの緑も清々しい。
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橋を渡ると、小高い山全体が公園となっていて、市民の憩いの場として整備されている。愛宕山と隣の五老山を結ぶ陸橋も自然に溶け込んで美しい。
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駐車場から続く急な階段を上ると「不動堂」があり、傍らには石仏も林立していた。さらに上って、反対方向に下りて行くと、赤い太鼓橋があり、「あやめ」を植えて八橋のように板橋が架けられ、桂由美さんデザインの鐘が吊り下げられていた。「恋人の聖地」と大書された表示板があり、二人で鐘を鳴らすのだという。
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翠ケ丘公園から街道に戻る途中に、市原多代女(いちはら・たよめ)の記念広場が造られていた。市原多代女は江戸後期の俳人で須賀川の富商市原寿綱の娘で17歳で分家を継ぎ、31歳のとき,婿に迎えた夫と死別する。家政と子供の教育の心労をいやすために俳諧を学び、48歳のとき江戸へ出て多くの俳友と交わり,『菅笠日記』を著す。
宮先町の交差点脇には、懐かしい手押し井戸ポンプがあり、押せばちゃんと水が出た。まだ現役である。
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須賀川の総鎮守である神炊館神社(おたきやじんじゃ)に向う。途中の参道には、古い造りの家がある。神炊館神社は全国でも唯一の社名で、御祭神である建美依米命(たけみよりめのみこと)が新米を炊いて神に感謝したと言う事蹟による。江戸時代になると朝廷より「諏訪大明神」として「正一位」の位を授かり、更に広く人々の崇敬を集め、「お諏訪さま」の名のもと、多くの参詣を受ける神社となる。俳聖、松尾芭蕉が「奥の細道」の旅の途中にを参拝したのもこの頃で、「諏訪大明神」が神号として用いられていたが、明治11年になり、現在の社名である「神炊館神社」に復称し、今に至る。参道の燈籠が壮観である。
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参道には、真新しい石碑が建っていた。俳聖、松尾芭蕉が元禄時代の旧暦4月28日参拝したのを記念して、平成18年12月に建立したものである。
神炊館神社に対して道路を挟み北側に位置する普應寺(ふおうじ)を訪れた。北朝観應元年(1350)中国宋朝禅・幻住派の巨匠古先印元禅師を招いて白河城主結城親朝が父宗廣、祖父祐廣、一族の菩提を弔うため市内稲村に開創した。
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街道に復帰して400mほど進むと旧街道は右に別れ、急坂を下って行く。岩瀬の渡し坂である。坂道の途中には説明板が立っていて「江戸時代、須賀川宿の北の黒門をくぐると、道は急な下り坂になり官道・東山道の岩瀬の渡しの船着場(岩瀬川・現釈迦堂川)があった」と書かれていた。
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坂を下った民家の前には、歌碑が建っていた。「岩瀬の渡し 水越へて みつまき山に 雲ぞかかれる」(詠み人知らず、万葉集)の歌とのこと。 なお、みつまき山は岩瀬の森のことだそうだ。釈迦堂川の堤防に上ると、「中宿橋」が見える。堤防を歩いて、この橋を渡って進む。
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中宿橋と橋から見た川面である。数日前からの雨で水量は増えているようだ。
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橋を渡って右折すると、直ぐに鎌足神社の急な階段が見えてくる。藤原鎌足の子孫の波多野筑後守が建久元年(1190)に鎌足の霊を奉斎したという。疲れた足を励ましながらようやく境内に達する。藤原鎌足を祀った神社で、ここは古くからの歌枕の「岩瀬の森」として有名で、紀貫之も「陸奥や岩瀬森の茂る日に一声くらき初時鳥(ほととぎす)」と詠んでいる。紀貫之は陸奥を訪れた記録は無く、都から岩瀬の森を想像して詠んだのであろう。
なお、芭蕉の時代には岩瀬の森も往時の面影はなく、歌枕ではなくなっていたようで、芭蕉が訪れた記録も残されていない。
笠原工業の工場で旧街道は消滅しているため、工場の塀沿いに進むと、上人坦地下歩道の入口が見えてくる。自転車は降りて通るように注意書きがあるが、高校生が乗ったまま地下道のスロープを駆け上がってきた。
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