2017.09.22

我孫子から藤代

本日の万歩計27,561(19.8Km)

夏の間はお休みしていた水戸街道歩きだが、秋の彼岸に入り涼しくなってきたので再開した。今日は、8時50分に我孫子駅から歩きはじめて取手を越して藤代までの予定である。

我孫子駅入口の交差点から200mほど進むと、志賀直哉邸跡、嘉納治五郎別荘跡、白樺文学館等、文人・有名人に由来する場所の案内板が立っていた。興味はあったがスキップすることにしたが、手賀沼湖畔の風景が多くの文人等に気に入られたのであろうか。

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少し先に進には、我孫子宿本陣が単なる表示杭として残っているだけであったが、一方で天保2年(1831)建造の脇本陣の茅葺屋根の小熊家住宅は残っていた。今となっては、我孫子宿で唯一残る歴史的家屋であろう。

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その後、成田街道分岐点を過ぎ、常磐線のガードを潜って進むが、道路を水道局のある側に渡るのに手間取ったが、ようやく道路の左側に柴崎神社が見えてきた。創建は天慶元(938)年と伝えられていて、日本武尊が東国討伐の途次立ち寄り武運を祈り、また平将門も祈願所として崇拝し、土豪芝崎左馬督は社殿を改築した。相馬家一門も累代の守護神として崇め、相馬重胤は奥州に分社を建立したとのこと。

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柴崎神社の少し奥まった場所に曹洞宗の東源寺がある。天文9年(1540)に北条氏康が開基したと伝えられる。本堂正面の左手前には、樹高約16m、幹周約4.5mで樹齢250年のカヤの木があり、県指定天然記念物に指定されている。枝は四方に広がり、昭和時代初期までこの木の下で漢学塾が開かれていた。光音禅師のお手植えのカヤと伝えられ、師は信州に生まれ、江戸の呉服商の伊勢屋に奉公していたが、茨城県取手市の長禅寺の幻堂禅師の弟子になり、宝暦~安永年間(1751~81)に、四国八十八か所霊場を訪れたとされる。その後、相馬八十八ヵ所を開基して、東源寺は第75番札所で、しっかりした太子堂も本蔵の左側に存在する。

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元の街道に復帰して進み、国道6号線に合流する。6号線の歩道を歩いて進むが、予めネットで調べておいた並行して進む道路に分かれて、利根川の堤防に達した。しかし、大利根橋の歩道に行く道が見つからない。道路は橋に通じているが、歩道はなく、特に10mほどは歩道が無いばかりか、大型車が道路の幅いっぱいの状態でひっきりなしに通るので、強引に歩くことも出来ない。
相当距離引き返してようやく歩道にたどり着いたが、少しは歩行者のことも考慮して欲しいと思った。

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大利根橋の長さは、1,209mで千葉県と茨城県を繋ぐ大動脈である。下を流れる利根川は、坂東太郎の異名を持ち、日本一の規模をもつ大河である。

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途中、道路の進み方を間違えて手間取ったりしたこともあり、大利根橋を渡り終えたときには、11時を過ぎていた。少し早いが、取手駅前で昼食を取ることにした。しかし、食事を済ませて外の出ると雨が本降りであった。スマホで雨雲の状態を見て、直ぐには止まないと思って、持参した傘を取り出して長禅寺に向かって進んだ。

長禅寺は、臨済宗妙心寺派の古刹で、京都の妙心寺の末寺であり、本尊は延命地蔵尊である。朱雀天皇の代の承平元年(931)に、平将門が勅願所として創建したと伝えらている。将門没後は「御厨三郎吉秀」という人物が、密かに本尊を守り伝えてきたものの荒廃が甚だしかったとのこと。承久元年(1219)には義門和尚を開祖として再興が計られ、また「吉秀二十九代後胤織部時平」は、文暦元年(1234)に将門の守本尊で安阿弥十一面観音像(快慶の作と伝えられる)を安置するために「四間四面御堂」を建立するとともに、寺の再興を計ったとも伝えられている。

長禅寺の急な石段を上り山門をくぐると、正面に県指定文化財の三世堂がある。外観は2層だが内部3層で、「さざえ堂」の形式になっており、上り階段と下り階段があり、堂内では参拝者が交差せずにまわれるようになっているとのことであるが、特別公開日以外は入ることができない。宝暦13年(1763)に建立されたが大破したため、享和元年(1801)に再建された。

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三世堂の前を左に進むと、太子堂が2棟建っている。

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太子堂の前を回り込むように進むと本蔵があり、さらに進むと最初に潜った山門のところに戻るので、また急な石段を降りて進むと旧街道の通りにぶつかるので、左折すると田中酒造がある。創業は1655年。取手市は造り酒屋が多かったが、そのなかで唯一残った老舗とのこと。田中酒造で造っている銘柄は「君萬代」で「君(日本国)が萬年続くように。その国とともに萬年続けられるるように」と名付けられたという。明治天皇がこの地域に行幸した際、田中酒造の井戸水を献上した功によって下賜されたものとのこと。店先には、古い酒樽を利用したモニュメントが飾られている。

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田中酒造から100mほど進むと、旧取手宿本陣染野家住宅がある。公開は金、土、日の午前10時から午後4時までである。歩行再開を金曜日の今日とした理由でもある。

旧取手宿本陣染野家住宅は、寛政7年(1795)に建築された。染野家の当主は、代々取手宿の名主を勤めていたが、貞亨4年(1687)に水戸徳川家から本陣に指定されたと伝えられている。水戸徳川家の歴代藩主だけでなく、江戸と水戸を行き来する水戸藩士や、ほかの大名も染野家を本陣として宿泊や休息に利用した。

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中の間と上段の間の写真であるが、これ以外にも、広間、二の間、三の間、茶の間、納戸、中納戸等多くの部屋がある。
今まで、現存する本陣の幾つかを見てきたが、茅葺きの本陣は始めてであった。家具調度品が全く置かれていなかったのが、いささか寂しい感じがした。

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県道11号を進んで、ファミリーマートが見えてくると、県道から左に離れて進む。高台に阿夫利神社がある。神奈川県伊勢原市にある大山阿夫利神社の分神である。

阿夫利神社のところで右に曲がり進んで、吉田の信号のところで、旧街道に入って行く。民家の庭にはコスモスが咲き誇っていた。これからは、藤代宿手前の常磐線の踏切までほぼ真っ直ぐな道を4Kmあまりの距離を進む。

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道の両側には、ところどころ民家が散見されるが、ほとんど田圃の中の道をひたすら進む。2カ所ほど真新しい「水戸街道」の表示石柱が立っていたが、とにかく変化がなく、歩く以外には何もない平坦な道である。ようやく、常磐線の踏切に達して多少なりとも、気持ちに余裕がでて元気を取り戻す。

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藤代宿の中心部に入って進み、相馬神社のところで、右折すると藤代駅までもう一息である。遂に右手に愛宕神社を見て、その先で右折すると藤代駅であった。

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何時も歩行を終えてて駅前でカフェに入り、休憩して帰路につくのであるが、藤代駅周辺にはいっぱいのコーヒーを飲める店もコンビニもなく、駅は綺麗で新しい感じだが、いささか寂れた様相を呈した駅前であった。しかたなく、駅の売店で飲み物を買い、ベンチに座っていささかの休憩とする他なかった。でも、今までの街道歩きで、多くの無人駅に遭遇したことを思えば、良しとするべしと思った。

2017.06.30

北松戸から我孫子

本日の万歩計28,549(18.6Km)

今回は、水戸街道を歩くため日本橋から出発して3回目である。
今日は小雨も予想されたが朝8時半に北松戸駅につき、早速国道6号線(現在の水戸街道)を歩き始めた。

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matsudo_03.jpg1Kmほど歩いて中根立体入口の交差点で左に10mほどのところに旧道への入口があり、長津川に架かる馬橋がある。かつて、この橋は大雨のたびに流された。萬満寺と縁のあった良観上人が、馬の鞍の形をした橋を架けさせたところ、それ以後流されることはなくなった。以来、この橋は「馬橋」と呼ばれるようになり、馬橋という地名の元になったとのこと。

そして、進んで馬橋駅に近づくと、正面に特徴のある萬満寺(まんまんじ)山門が見えてくる。なお、左の小振りな建物は、鐘楼である。
建長8年(1256)に小金城首・千葉介頼胤が、鎌倉極楽寺の良観房忍性を招いて、真言宗の大日寺を開いたのがはじまりと伝えられている。現在の萬満寺(臨済宗)となったのは、千葉介頼胤の時代の康暦3年(1379)、満胤は鎌倉の端泉寺にいた夢想国師の高弟古天周誓を招いて中興開山し、関東管領足利氏満の字をとって萬満寺と号したといわれている。

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山門をくぐると、次に出会うのは仁王門である。「仁王門」の左右に、国指定重要文化財の木造金剛力士像が安置されている。運慶作とも伝えられているが、真贋のほどは定かではない。また、例大祭に仁王さまの股をぐりが行われ、これで、むこう1年病魔や災難も除け、子どもはすくすく育つという。仁王門の先には、ようやく本堂である。

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さらに、境内には弁天堂、水掛不動尊などがある。

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matsudo_09.jpg萬満寺の左に隣接して、王子神社がある。馬橋一帯は砂丘で水が乏しいため、諏訪神社を勧請し萬満寺の鎮守としたものだが、2015年10月に本殿が完全に焼失してしまい、現在再建準備中とのことであった。

萬満寺を離れて進み、国道6号線に合流して進むと、左手に蘇羽鷹神社(そばじんじゃ)がある。千葉孝胤(ちばのりたね)が治めた三ヶ月(みこぜ)の地に馬橋城が建っていたが、廃城後に千葉氏の加護を受けて創建されとのこと。

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matsudo_13.jpgここで、国道6号線を離れて、右の旧道を進む。途中で再び国道6号線にぶつかるが、これを横切って進むと、一月寺(いちげつでら)がある。お寺とは思えず、何かの集会場のような感じである。元々一月寺は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体が廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。昭和30年代、妙縁寺総代であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗して現在に至る。

一月寺から100mほど進むと、旅籠玉屋がある。この街道は旧水戸街道として有名だが、成田街道の道筋でもあるため小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原型を留めている。東京のベッドタウンと化したこの地で元旅籠屋の建物が残っていること事態が貴重である。
さらに進むと、参道が長く広大な境内の東漸寺がある。

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東漸寺は、文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創した。この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹である。 その後幕府の庇護も受け檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになり、大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。また、明治初頭には、明治天皇によって勅願所となった。

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北に進んで、北小金駅前のイオンにぶつかり街道は右に直角に進むが、イオン前には真新しい小金宿の案内板がり、八坂神社御跡地の碑も建っていた。

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根木内交差点で国道6号線を渡ると、直ぐ左に根木内歴史公園がある。ここは根木内城址で、高城胤忠が寛正3年(1462)築城したもので小金城を築いて移るまで高城氏の本拠地であった。

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matsudo_22.jpg天正18年(1590)小金落城と共に廃城となったと思われるが、昭和30年代に水戸街道(国道6号)が通り、城跡は2つに分断され、北半分は住宅地として消滅し、現在は大手口のある南側の曲輪の一部のみが残っている。掘り下げられただけの堀で、石垣などは配されておらず、典型的な戦国時代かそれ以前の城である。

この後、特に目立った歴史遺構もなく進むが、道路が大きく北に曲がると、右手に行念寺があった。創建は室町時代、明応2年(1493)で東漸寺開山・經譽愚底上人の開基である。昭和43年に本堂(鉄筋造)を復興し、庫裡(木造)を再建した。そして、「ベルクス」の名前のスーパーがあった。始めて見るスーパーである。

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次に現れたのは、香取神社。この辺りに一里塚があったようだ。その次は稲荷神社。小さな神社で村社として創建されたとのことだが、茅葺きの屋根が珍しくかわいい。

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稲荷神社の直ぐ先には、八坂神社がある。この辺りの水戸街道は小金牧の原野を通っていたため、真夏の直射日光や風雨を防ぐために街道の両脇に松が植えられていた。また、道に迷わないように道標の役目もあったようである。
進んで、南柏駅を過ぎ、日光東往還の分岐を通過して進む。やがて、左手に豊受稲荷本宮があるが、前方の家屋で半分隠れている。

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ようやく、柏神社が見えてきた。江戸時代初期に八坂神社の御分霊を勧請して創建されたのが始まりで明治中期に羽黒台に鎮座していた羽黒神社を境内へ遷宮し、明治40年(1907)に合祀された。柏神社と名付けられたのは昭和49年(1974)で、それ以前は天王様とか羽黒神社とも呼んでいたらしい。
さて、ちょうどお昼の時間である。近くのお店で昼食をとり、午後の行程について吟味しながら休憩とした。

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休憩の後、歩きだして300mほど、そごうの立体駐車場の前にある緑地帯に、明治天皇柏御小休所の石碑は建っていた。明治13年には明治天皇が行幸され、昭和16年には「明治天皇柏御小休所」として、史跡名勝天然記念物保存法による史跡に指定された。次の信号の手前左側、ビルの植え込みに「江戸へ近道」の石碑が立っていた。

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進んで国道6号線を横切り、常磐線を渡るところに達すると、向こうに立派な建物が見える。ホテルかとも思ったが、地図にもその記述がない。前を通ると「迎賓館」と書いてあり、ますます分からなくなった。後で調べたら「迎賓館」という名の結婚式場であった。
道は、常磐線に沿うように進んで行く、国道にぶつかると向こうに巨大な建造物が見える。北柏ロジポートと名付けられた物流施設であった。

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北柏駅を右に見ながら進むと、左手に東陽寺があった。由来は不明だが、明治5年に学制が公布され、翌年には東陽寺を校舎に根戸学校が開校し、のちに富勢尋常小学校(現・富勢小学校)となったとのこと。
その先の右手には、妙蓮寺。我孫子市指定文化財の阿吽二体の陶製仁王像があるとの説明板が立っていた。

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我孫子駅入口の交差点にたどり着いた。左に八坂神社。応永3年(1396)の創建と伝えられる。
さて、左に進むと我孫子駅である。今日の歩行は、ここまでとして駅前のカフェで休息して帰路についた。

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2017.06.12

小菅から北松戸

本日の万歩計31,996(20.8Km)

第一回は、日本橋から北千住までの歩行であったので、今日からが本当の旧水戸街道歩きということになる。幸いにも、天気は晴れだが、気温は23℃ほどで、この季節にしては涼しくて快適な環境であった。

さて、小菅駅を8:30amに出発して、直ぐに荒川の堤防に出て、旧街道に合流すべく歩きだした。堤防からは、スカイツリーを始め東京のビル群も眺望され、気持ちが良い。

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そして、旧街道の合流地点で堤防から降りて進む。当然だが、もう旧街道の面影は感じられなく、ありふれた街のなかの道の風情である。真っ直ぐ進むと綾瀬川にぶつかり、かつて橋がかかっていた地点に、この橋にまつわる物語の説明板が設置されていた。水戸光圀の威光を示すために書かれた、いかにも取ってつけたような説明が書かれていた。いわく、この橋には、親を殺された子狸が妖怪と化して出るので、光圀公が自ら筆をとって水戸橋と橋の親柱に記した。

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水戸橋は近年取り壊され、左に少しはなれて、歩行者通路も設けられた新水戸橋があるので、これを渡る。渡って直ぐに右に進むと、小菅神社があるのだが、参道に入ってすぐに稲荷神社が合祀されている。これには、少々訳がある。明治2年に小菅県が設置され、現東京拘置所となっている場所に県庁舎が設けられ、庁内に伊勢神宮から勧請し県下356カ町村の守護神とした。しかし、明治5年に小菅県は東京府に編入され神社も小菅村の鎮守である田中稲荷神社の境内に移設されたのである。

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街道に復帰して進むと、蓮昌寺がある。正安2(1300)年、日蓮大上人の孫弟子・松本阿闍梨日念上人によって開基とのこと。
その後、特に注目すべきものもなく街道を辿って行く。亀有3丁目あたりまで進むと、道路の右側に一里塚の碑が建っていた。日本橋から3里の一里塚跡であるが、一里塚そのものは完全になくなって水戸黄門と助さん、角さんのモニュメントが設置されていた。顔はもう少し明るい感じにした方が良いように思うが。

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進むと、左手にアリオ亀有という大きなモールが見えてきて、イトーヨーカドーの大きな看板も見える。
この先で中川を渡るが、この川までが千住宿で中川橋を渡ると新宿(にいじゅく)になる。大きな荒川が、宿の境界のような感じに襲われるが、江戸時代には現在の荒川はなかったので、中川が境界で不思議はなかったことであろう。

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橋を渡ると、最初に目についたのは寶蓮寺。天文元年(1532)に栄源が中興開基となり創建したと伝えらる。本尊は薬師三尊立像。境内のイチョウの古木が立派である。

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街道を右折して進むと、西念寺がある。文安5年(1448)僧浄円が結んだ草庵を起源とし、天文元年(1532)覚蓮社法誉が寺院として創建したと伝えられる。江戸時代には将軍が鷹狩にきた際に、この地の魚を献上したと言われている。

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街道を突き当たると、日枝神社がある。永禄2年(1559)頃に創建したものと推定され、江戸時代には新宿宿の鎮守であり、祀神は大山咋命(おおやまくいのかみ)。
この辺りは東京のベッドタウンとして宅地開発が進み旧街道が入り組んだ感じになっており、途中何度か道を間違えたが、1Kmほど進んで京成金町線の踏切を渡った。ちょうど電車が通りかかった。単線である。

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踏切のあとは順調で、常磐線をくぐった先に水戸街道の石碑が建っていが、表面が摩耗して文字はほとんど読めなかった。しかし、少し先には。葛西神社の大きな石柱が行く手に確信を与えてくれた。

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さて、立派な葛西神社だが、1185年に葛西清重が、上葛西、下葛西33郷の総鎮守として、香取神宮の分霊を勧請したと言われている。江戸時代には徳川家康から御朱印10石を賜り、11月を例大祭とするようになり、葛西囃子発祥の地として知られているほか、毎月11日に酉の市が行われる。

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街道に戻って進むと、江戸川に突き当たる。この川で新宿(にいじゅく)が終わり、川を渡ると松戸宿である。
堤防道路に出ると河川敷にゴルフコースが見え、上流をみると298号線の上下線の葛飾大橋とその更に先に54号線の葛飾橋が見え合わせて3つの橋がかかている。海から19Kmの表示もあった。下流には矢切の渡もある。

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松戸宿に徒歩で渡るのは一番奥の54号線の葛飾橋の歩道だが、足が疲れてきた身には、1Kmほどの長さと思ったが、後で調べると450m程度であった。

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葛西橋を渡って、すぐ左折して堤防道路を進むと、右に小階段が現れ、降りた先には松戸宿の碑が建っていた。江戸期には渡し場の近傍に木製で傍示杭が建てられていたはずであるが、ロータリークラブが新たに立てたものである
少し先で左折して進むと、松戸郵便局が左側にあるが、ここは元脇本陣のあった場所とのこと。その先の信号で左折すると本陣跡の表示版があるとの記述をネットで見かけたが、見つからなかった。
その先には、松戸神社への参道があり、進むと寛永3年(1626)に社殿建立、明治15年(1882)に御嶽大権現より松戸神社と改称された立派な神社がある。

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祭神は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)で、水戸街道筋にあったため、水戸光圀や水戸徳川家からも崇敬されたとのこと。
街道に戻り進むと、街道筋らしい家が建っていた。福岡家の店舗として建てられたものであるが、今は住居として使われているとのこと。なお、福岡家は江戸期以来の松戸きっての資産家で「福岡薪炭店」を営んでいた。
さて、お昼時間も過ぎ昼食をとるお店を探すことにした。極度に疲れると、脂っこいものは胃が受け付けない気がして、前回と同じく蕎麦屋を探すが見つからない。一軒良さそうなお店が見つかったが、月曜日は休みとのこと。松戸は大きな街なので蕎麦屋は容易に見つかるだろうと思っていたが、まるで見つからない、中華系の店が多い。相当疲れて足も痛くなってきている。結局、生魚の丼ものの店で昼食をとった。
その後、戸定邸を見学しようと痛む足と疲れた体にむち打ち訪れるが、やはり月曜日は休みであった。まことに残念。

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街道にもどり、進むと真言宗豊山派の善照寺がある。こ辺りには北辰一刀流を創出した千葉周作が剣術の修行をした道場があったという。また、その先には、真宗大谷派の西蓮寺がある。

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mito02_29.jpg西蓮寺を過ぎると、注目すべきものもなく、痛い足を引きずりひたすら歩く。常磐線に沿う場所まで来ると、跨線橋(こせんきょう)があり、渡って進む。右側に雷電神社が見える。祭神は別雷命(わけいかづちのみこと)である。もう、お参りする気力も残っておらず、先を急ぐ。ようやく、北松戸駅にたどり着き、例によって駅前のコーヒーショップで休息の後、帰宅した。

2017.05.31

日本橋から北千住

本日の万歩計17,692(11.5Km)

2012年5月24日に奥州街道の一戸まで歩いたところで都合により停止したが、5年が経過して健康維持の観点から街道歩きを再開することにした。 幸いにも、四国の88箇所のお遍路巡礼を始めた友人が私の街道歩きに付き合ってくれることになった。しかし、5年のブランクが有り、加齢と怠惰な生活による体力の低下、なかんずく脚力の衰えは覆うべくもない状態だが、無理をせず、のんびりと歩き始めることとした。
さて、水戸街道であるが、日本橋から北千住までは日光街道と共通であり、一般的には北千住からスタートするようであるが、友人は歩いたことがないこと、以前に日光街道を歩いたのは2009年で、8年経過して街の変わりようも見る意義があるのではと考え、再度日本橋をスタートすることとした。

東京駅の八重洲口で8時に待ち合わせ、歩き始めたが東京駅の八重洲口も美しく変貌していて、職場に足早で向かう人達を眺めながら日本橋に向かった。

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日本橋は全く変わらず、アリバイ証明のような感覚で、その佇まいと道路元標の表示柱をカメラに収め次に進むこととした。

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日本橋を後にしてスルガ銀行の角を右折して100mほど進んだ左側にある三浦按針の屋敷跡の碑を見に行った。以前に日光街道を歩いたときに見逃したが、今回も見つからず、諦めて戻ろうとした時に、小型トラックが止められている向こう側に、少しだけ見え何とか撮影できた。停車しているトラックのために、今回も見逃すところであった。三浦按針は、英国人ウイリアム・アダムスで、徳川時代初期に日本に漂着した水夫でイエズス会の宣教師たちが処刑を要求するなかで家康に重く用いられ大伝馬町の名主の娘お雪と結婚し1男1女を設けて生涯を過ごした人物だが、詳細はネットで検索すれば容易に見つかるので省略する。
元の通りに引き返し、特徴のある三越のライオン像を左手に見ながら進む。

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進んで日本橋三井タワーを左に見て、右折して大伝馬町本町通りに入って行く。昭和通りの交差点を過ぎて150mほど進んだ右手には、以前ホテルギンモンドがあったが、今は無く工事囲いの僅かな隙間に旧日光街道本通りの石碑が、侘びしげに建っていた。

少し街道から離れて、左に進み江戸通りを越えたところに、十思公園がある。ここは、江戸牢屋敷と刑場があったところで、公園の左にある老人ホームの前に、牢屋敷の発掘された石垣とその説明板が建っていた。公園には、以前にはなかった子供用の遊具なども設置されていて、かつての面影を偲ぶべくもないが、吉田松陰終焉の地の石碑と江戸市中に時を知らせた「時の鐘」は、残っていた。罪人の処刑もこの時の鐘を合図になされたとのことで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。

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返すがえすも残念なのは、吉田松陰の処刑で、生きておれば明治に大きな活躍をしたであろうと思えるが、井伊直弼は日本の大きな宝を無くしてしまったのである。元の通りに戻って進むと、馬喰町で、衣料問屋の集まっているところである。かつては、「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多かったが、今回は一軒も見つからなかった。大規模店舗が増え、問屋を通さず直に仕入れることが多くなり、問屋の必要性がうすれ、やむなく個人客を受け入れざるを得なくなったと考えられる。まるで、衣料品の安売り商店街の様相である。

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大きな交差点にぶつかり、神田川を浅草橋で渡る。今も変わらず屋形船が多く係留されている。そして進むと人形で有名な久月本店があり、道路の向こう側には吉徳がある。

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蔵前橋通りの交差点を過ぎ、蔵前二丁目交差点で右にむと、駒形町でやがて左に有名な「駒形どぜう」が見えてくる。創業200年で、当時「どぢゃう」と表記するのが一般的だったが、初代店主が縁起の良い奇数文字数をと考え「どぜう」としたとのこと。そして、駒形橋西詰交差点を北進すると、雷門が見えてくる。観光客で賑わっている。近づくと、多くの外国人観光客が、雷門の大提灯をバックに記念撮影をしていた。

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浅草の仲見世は、大変な混雑ぶりである。8年前とは、大違いである。修学旅行の学生と外国人観光客が多く、まともに歩けない程であった。

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本殿の前で右折して、二天門を出て進むと花川戸公園があり、「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
そのまま進むと、隅田川に突き当たり、スカイツリーがよく見える。川沿いの隅田公園の入口付近にも観光客が群れており、ここでも記念撮影である。

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隅田川の堤防に上れば、言問橋とスカイツリーが見え、これも新しい風景である。ところで、東武伊勢崎線は愛称を東武スカイツリーラインと呼ぶことになったが、業平橋駅はスカイツリー駅に改称になった。在原業平が、「名にしおはばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」詠んだ由緒のある場所の名前を変えるとは、いささか軽薄な気がする。まさか、言問橋をスカイツリー橋と変えることはないとは思うが。
更に隅田公園内を進むと、滝廉太郎作曲の花の歌碑が建っていた。作曲は滝廉太郎であるのは有名だが、作詞者が武島 羽衣(たけしま はごろも)であるのは、あまり知られていない。明治5年生まれの国文学者である。

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隅田川公園を離れて、待乳山聖天(まつちやましょうでん)に寄る。入り口の階段を上ると、7つの石仏が並んでいる。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。

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吉野通りに出て進むと、山谷堀公園がある。吉野橋の名の橋柱が残っているが江戸期には「山谷掘」があり、「新吉原」に通う舟で賑わったという。

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時刻は、11時半。そろそろ昼食を考える時間で、目ぼしい食堂を探しながら進んで行く。ほどなく、良さそうな「蕎麦屋」があり、昼食をとった。
昼食を済ませしばし休息をとり、出発すると泪橋の交差点。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、常磐線の貨物駅への線路を横断橋で渡ると延命寺があり、ここは小塚原刑場跡である。大きな石造りの「首切り地蔵」が野外に鎮座していた。刑場跡は、どこも気持ちの良いものではない。

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そして、つくばエクスプレスと常磐線の本線をくぐり抜けると、小塚原回向院があり、墓所は現在の墓地と歴史的な遺跡の意味もある墓所に別れていて、歴史的墓所の入り口を入ってすぐに226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓がある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。また、一番奥には、松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石がある。

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鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高いが、ここに墓石を置いているとは大したものである。大悪人の面目躍如といったところか。
回向院の入口横には、「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。

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進んで国道4号線に合流すると、このあたり一帯の総鎮守である素盞雄(すさのお)神社があり、少し先に隅田川にかかる千住大橋が見えてくる。

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千住大橋には、左側に歩道が付いており、渡って直ぐに左側から、橋の下に降りられるようになっている。階段を下ると奥の細道 旅立ちの地の大きな絵がコンクリート壁に描かれている。千住大橋の反対側に通じる鉄橋がかかっていたので、それを渡り、階段を上って国道4号線に添って進み、千住宿に入って行く。

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国道から旧日光街道が分かれるところに設けられているのが、松尾芭蕉が奥の細道に旅立つことを表したモニュメント。この千住宿で芭蕉が奥の細道への旅立ちに際しての初の句「行く春や鳥啼き魚の目は泪」を詠んだのである。そして、千住の商店街に入って行く。

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商店街を進むと、チンドン屋に遭遇した。昨今チンドン屋に出会うのは大変珍しい。5街道を歩いた経験からも、甲州街道を歩いたときに、八王子近くで一度出会っただけである。
北千住駅に向かう道路と交差すると、千住宿も終わりが近い。道の右側に小じんまりとした「街の駅」を見つけて覗き込むと、地図等も用意してあるので、休んで行ってと声をかけられた。案内地図だけもらって先に進むと、右側に江戸期の商家の様子を今に残す、横山家がある。以前通ったときは、NTTの作業車が停まっていて、邪魔であったが、今日は悠然とカメラに収めることが出来た。

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少し進むと、旧日光道中と旧水戸佐倉道の分岐となる。細い表示柱が建っていて右折して進むと、常磐線のガードが見えてきて、右手に氷川神社がある。素戔嗚尊を祀る村社である。

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次に、常磐線のガードをくぐると日蓮宗の清亮寺がある。かつて水戸街道に面して古松が茂り水戸光圀公ゆかりの「槍掛けの松」として有名であったが、今は山門を入ったところにある説明板に写真として姿を残すのみである。

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さて、つくばエクスプレスのガードを潜って、荒川に到達したが、この荒川は大正期に掘削された放水路で江戸時代の水戸街道は分断されることになった。当初、北千住駅から小菅駅まで電車で渡り、水戸街道を進む計画であったが、5年ぶりの街道歩きは、予想以上に筋肉の衰えが大きく足の太ももから股関節あたりにかけて痛みを感じる様になってきたので、今日はここで打ち切ることとして、北千住駅に向かい駅近くのカフェで十分に時間を費やし、帰宅することとした。

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