2011.05.16

寒川から中原御殿跡(平塚)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計23,717(15.4Km)・・・中原御殿跡まで

中原街道を歩く旅は5月16日に平塚の中原御殿跡に着き完了。

前回4月13日に寒川駅まで歩き、その後所用が生じ一ヶ月余り経過してしまった。この間に木々の新緑が美しく輝く季節となり、重い腰を上げて中原街道の最後の区間である、中原御殿跡に向かって歩くことにした。4回の歩行で、中原街道を歩き終えたが、前回に寒川駅に着いたのもお昼どきだったので、頑張れば3回で歩ける距離であった。
寒川駅を8時に出発して、すぐに国道47号線に出て進み、46号線を立体交差で渡る。
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下の46号線を走る車の流れが、金網を間からよく見える。そして、大門踏切前の信号で右折して踏切を渡ると、寒川神社の大きな一の鳥居が立っている。
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鳥居を過ぎると、新緑の美しい参道が続いていた。
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そして、2つ目の石造りの鳥居をくぐり、神社の境内に入って行く。まだ早朝で、大勢の方が参道の清掃を行っていた
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参道を歩いて行くと、天皇皇后両陛下の記念植樹があり、立派な門が建っていて、いよいよ本殿にたどり着く。
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寒川神社は、相模国の一之宮で現在でも初詣で名高い。創建は不詳だが、社伝によれば、雄略天皇の御代(456-479)の奉幣とのこと。また、一説には、天平神護元年(765)の建立といい他説では、神亀四年(727)の建立とも言われている。
とにかく、古くから鎮座している大社であり、高句麗系渡来人入植の地である高座郡に属することから、なんらかの有力な豪族が造営したものと推定されるとのこと。
祭神は現在、寒川比古命と寒川比女命だが、八幡神、澤女命、菊理姫命、素盞嗚尊・稲田姫命など、異説も多いらしい。
寒川神社の参拝を終え、もとの国道に戻り歩き始めると、直ぐに相模川の支流の目久尻川に架かる鷹匠橋を渡る。その先で相模川に架かる神川橋へのアプローチの坂道を上ってゆくと建設中の圏央道が右手にそびえていた。
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相模川は流石に大きな川である。そしてここに架かる神川橋の欄干には大山街道、田村の渡しと書かれている。昔は「田村の渡し」と呼ばれていた場所で、また大山街道と重なる場所でもあったようである。坂上田村麻呂が陸奥に向かうとくに立ち寄ったことから、田村の地名が生じたとのこと。
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橋を渡ると、右手下には「八坂神社」が鎮座していた。その先の旧田村十字路の交差点には、十王堂跡の石碑と古い道標が建っていた。
伝承によれば、天文6年(1537)、小田原の北条氏と川越の上杉氏が相模川で合戦となり多数の戦死者を出したので、妙楽寺の住職が弔いのため十王堂を建てたのだという。
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旧田村十字路で左折して進むと、田村の駒返橋跡の石碑があり、右に少し入ると二階建ての山門が立派な妙楽寺がある。足利基氏の開基とのこと。
なお、田村駒返橋は家康が鷹狩でこの地に来た時、大雨の後で道が酷く、田村の人々が畳を出して運行の便宜を図ったが、家康は田村の人々の苦労を慮って、ここから馬を返したと伝承されているとのこと。
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進むと、道は二股になって分かれている。この分岐点に「田村の一里塚跡」の説明板があり、南中原道、北奥州道の石碑が立っていた。また、その横には道祖神が祀られていた。道祖神のは前掛けがかけられ、果物も供えられ、大事にされているようである。
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一里塚跡の分岐で右の道を進むと直ぐに129号線に合流し、200mほどで再び左の道に分かれる。進んで行くと、左の小道を入ったところに相模国四之宮の前鳥(さきとり)神社がある。応神天皇の皇太子、菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)を祀っている。
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前鳥神社から129号線に向かい、その後は予め調べておいたルートに従って、複雑な経路を辿って進む。東真土(ひがししんど)3丁目に達すると、真土神社があり、また中原街道の大きな石碑が立っていた。この真土あたりが最も良く中原街道の面影を残しているところとも書かれていた。
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説明板の記述通り、細い小路が古道の僅かの残りに感じられた。古道らしい道は直ぐに終わり、住宅街の中を通る道路が続いている。
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進んで、129号線に中原二丁目北の信号で突き当たると、中原上宿遺跡の大きな石の案内板が立っていた。道路工事に伴い、弥生時代の住居跡、奈良平安時代の住居跡群などが見つかったと書かれていた。
ここで、右折して日枝神社に参拝し、Uターンして南に向かって進むと、平塚御殿郵便局が現れ、その先の中原宿高札場跡で右折する。
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突き当たりが平塚市立中原小学校で、その校庭に相州中原御殿之碑が立っている。慶長年間(1596?1615)、徳川家康が旅の宿泊場所として造営したもので、東海道の隆盛によりその役目を終え、明暦3年(1657)に至り、廃止されたとのことである。
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中原御殿跡を後にして、中原御殿の裏門を移設したという善徳寺を訪れ、中原街道の旅を終えることとした。平塚駅までは距離もあるので、バスを利用し、平塚駅ビルで昼食を摂り帰宅した。
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全体を通じての感想は、東京都、川崎市ならびに平塚市は遺構の保存にそれなりに注意を配っているが、横浜市はガッカリするぐらい遺構が残されていない気がしたことである。
横浜市は古い街道以外にも、みなとみらいなど売り物が豊富と言うことか?

2011.04.13

三ツ境から寒川・・・(旧中原街道)

本日の万歩計29,335(19.1Km)・・・寒川まで

もう40年近く前になるが、三ツ境は、結婚して家内と住み始めたところである。もちろん、駅とその周辺も様変わりで、駅舎も洒落た形のビルになっている。
中原街道が、地下で相鉄線の下をくぐっている地点に向かい街道に復帰する。小学生の通学時間帯であるようだ。
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進んで「二ツ上橋」の交差点には、三つの古い石碑と「二ツ橋地名由来碑」が建っていた。由来碑には、「二ツ橋」の地名の由来となった2つの歌が書かれている。
相模野の 流れも わかぬ川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな
                  道光親王 文明十六甲辰年十一月詠
しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな
                  徳川家康 慶長十八癸丑年十二月詠
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さらには、中原街道碑も立っていて、右 八王子往来 左 神奈川往来と書かれている。
中原街道は車の通行の激しい通りとして続いている。 
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1.5Kmほど進んで、下瀬谷二の交差点を過ぎると、右側に「宗川寺(そうせんじ)」がある。「寛永2年(1625)に富士重須本門寺第12世日賢上人開山、石川宗川開基」とある。山門をくぐったところに二本の銀杏があり、「夫婦銀杏」として昔から安産祈願の信仰を受けている」とのことだが、今は桜が目立つ季節である。その先で、境川を新道大橋で渡る。
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境川を渡ると、大和市である。進んで小田急江ノ島線の踏切を渡ると、左手に十一面観音像がある。昭和11年10月、深谷村の秋祭りと大和村小学校の運動会の帰途、村人の乗ったオート三輪と江ノ島行き電車が接触し11名即死2名重傷の大惨事となった。冥福と安全を願い、有志の浄財により十一面観音像が建立されたとのこと。
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引地川を渡ると、ここの川べりも桜が満開であった。その後は、厚木基地で旧中原街道は分断されている。それで、基地の柵に沿って進むことになる。
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よく晴れ渡った日で富士山もよく見える。綾瀬大橋入口交差点で左折して厚木基地と別れ、1Kmほど進むと、左に「大法寺」があり、深谷の交差点を渡る。
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その先の深谷交番前交差点脇に庚申塔群があり、不動明王像も安置されている。
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3Kmほどひたすら進むと、東海道新幹線のガードをくぐる。単調な道が続くが、時々は桜の花が彩りを添えている。
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用田の交差点には、不動明王が乗っている古い道標がある。風化が進んで刻印された文字は全く消えてしまっている。
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開発しつくされて、歴史的な遺構も失くなってしまった道を進むが、ときには下左の写真のように、植木屋さんの面白い塀に出くわしたり、右の写真のような老舗らしい和菓子の店があったりする。
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木蓮の花が青い空に映える。そして岡田西の交差点で、新しく整備された道に出会うこととなった。時間は早いがここで切り上げることにして、相模線寒川駅に向かった。改札口は線路を跨ぐ駅舎にあり、幸いにも5分ほどで茅ヶ崎行きの電車が入ってきた。
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2011.04.04

武蔵中原から三ツ境・・・(旧中原街道)

本日の万歩計42,756(27.8Km)・・・武蔵中原まで

nakahara_01.jpg福島原発は、次々に新しい問題が発生して安定化に向けた作業が、遅々として進まない。
早く何とかならないかと、テレビにかじりついている訳にも行かず、中原街道歩きにでかけることとした。今日は、長年通い慣れた武蔵中原からである。もうリタイアした身にはあまり関係ないが、横須賀線の武蔵小杉駅ができ(南武線との乗り換えに歩く距離は長いが)自宅から楽に行けるようになった。
ともかく、南武線が高架になってから、駅の施設も全て上にあがり、外観からは駅としての主張は感じられなくなった。
街道に復帰して進むと、右側に大戸神社がある。祭神は手力雄命で1504年?1521年に創建したと伝えられる。狛犬が砲弾を抱いた姿で、神社の狛犬としては異色である。日露戦争を記念したものとのこと。
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武蔵中原駅に急ぎ足で向かう通勤の人々と逆方向に向かって、1Kmほど歩くと千年の交差点で、ここで右に上ってゆく旧道が残っている。旧道は300mほどで終わり車の往来の激しい新道に合流するが、また左に旧道が顔を出している。そして、道端に天照皇大神の大きな石碑と石仏が立っていて、古い街道を感じさせる。
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その後、また1Kmほど進むと久末(ひさすえ)の交差点で、ここから左に300mほど街道から離れて、妙法寺を訪ねた。天台宗の寺院で永禄5年(1562)開山。境内に元禄6年(1693年)重い年貢に耐えかねて久末村に起きた門訴事件の犠牲者供養のための久末の義民地蔵が安置され、毎年7月24日の地蔵盆の日に追善供養が行われている。
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街道に復帰して進み、第三京浜を潜ると、左手に「鎌田堂」が建っている。 由来碑によれば、堂の背後は鎌田兵衛正清の館跡でこの名がある。もとは観音像を安置していたが盗まれ、寛文13年(1673)に地蔵を建立した。寛永から安政(1624?1859)の頃には念仏道場として繁栄し、「道場坂」の名を残した。
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鎌田堂を過ぎ、向坂の交差点で右の旧道に入って行く。300mほど進むと、右手の石垣に階段があり、上に「のちめ不動尊」がある。ご本尊は不動明王像で、口伝によると甲州武田家の守り神であった由緒あるもので、修復時に天保2年卯月(1831)志村又右衛門源貞口「甲州出身の領主」の銘が発見されているという。文久4年のちめ城山の住人が八王子(武田遺臣居住地)から背負って勧誘したと言われていつとのこと。
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旧道は、車があまり通らないので大通りより、歩いていて気持ちが良い。しかし、700mほどで新道に合流すると、直ぐ右手に山田神社の真新しい石の鳥居が建っている。
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山田神社は、平安時代の創建と書かれていたが、由緒はあまりハッキリしないようだ。先の鎌田堂の鎌田兵衛正清の居城跡らしいとのことで、とにかく参道が長い。なお、鎌田兵衛は源義朝の家臣であったようだ。
下の右の写真は少し先にある「清林寺」で、境内の「シラカシ」が横浜市の名木古木に指定されている。
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早瀬川を勝田橋で渡り、200mほど進むと道は二股に分かれていて右側が旧道であるが、旧道は少し先で港北ニュータウンの造成で途切れているので左の新道を進む。
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少し進むと、右側に国の重要文化財に指定されている関家住宅がある。関家は後北条氏に仕えた地侍で、徳川時代は代々名主を務め、江戸末期には代官も兼ねたという。そして、22代当主の関恒三郎氏が今も居住されている。住居は非公開だが、年に一度は公開されているとのことである。
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本宅内部の詳細は分からないが、長屋門も立派で、使用人の居住に使われていたらしく、玄関まで付いている。
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関住宅を過ぎると、港北ニュータウンを初め、新しく開発された近代的な住宅ビル群が続く。この後、横浜市営地下鉄のガードを潜り(地下鉄の線路が郊外では高架になっている)、向原と、大塚原の交差点を通って進んで行く。ここから佐江戸の交差点までは、道路はほぼ真っ直ぐで、アップダウンしながら続いている。ベッドタウンとして開発されつくされたためか、歴史的な遺構も残っていない。
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4Kmほどひたすら歩いて、佐江戸の交差点の到達直前で右手に、東漸寺が現れた。お寺の立地数が少ないように感じる。佐江戸の交差点を通り過ぎて、地蔵堂前の信号に突き当たり右折して進むことになるが、ちょうどお昼時で、この近くのレストランで昼食を摂った。その後進むと、看板屋さんの前に東日本大災害の大きな応援看板が建てられていた。
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いよいよ落合橋で鶴見川を渡る。鶴見川は、この辺りでもあまり綺麗な流れとは言い難い状況である。
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少し進むと、横浜線を跨ぐ。宮の下の交差点を過ぎると坂道になり、上って行く。左に広々とした長坂谷公園があった。
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坂を上り詰めると、左にショッピングセンターもあり、賑やかな通りになる。進んでゆくと、右には四季の森公園があり、横浜動物園ズーラシアにつながる動物園入り口の信号もある。
そして、都岡町の交差点を過ぎると左に三蔦神社があり、参拝した。神社境内の桜は、まだ2分咲ていどであったが、街道に戻って先に進むと、花が小ぶりで種類が違うが美しく咲いているのも見られた。
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保土ヶ谷バイパスを潜ると、左に旧道への階段がある。予習してあったので、直ぐに分かったが、立て札もなく階段上も放置された道路の感じである。せめて案内板を設置するよう横浜市の教育委員会にはお願いしたいと思う。
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くねくねと続く旧道は、歩きよい道であるが特に撮影対象も見当たらず、西武病院入口の信号で新道に復帰する。進むと、車道、歩道ともに相鉄線をくぐって進んでいる。
まだ、二時半だが、今日はここまでと左折して線路際の道路を三ツ境駅に進み帰宅した。
コブシの花が、青い空に映えて美しく咲いていた。

2011.03.31

虎ノ門から武蔵中原駅・・・(旧中原街道)

本日の万歩計38,981(25.3Km)・・・武蔵中原まで

昨年の10月19日に奥州街道の岩沼宿まで歩いて以来の久しぶりの更新である。
あと、2回で仙台市街に着くところであったが、東日本大震災で行くことが叶わなくなった。しかし、医学的な見地からも体を動かすことが求められていることから、大震災の影響も考慮して、あまり遠くの地域は避け、東京の虎ノ門から平塚市中原に至る「中原街道」を歩くことにした。
この道は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に始まる後北条氏が小田原に居城を構え、軍用道路として用いていたとされ、天正18年(1590)徳川家康が関東移封で江戸城へ入城する際利用したといわれている。その後も、駿府との往復や鷹狩に利用され、現在の武蔵中原の地に中原御殿を築いたりしている。
通勤の人々で溢れる地下鉄駅から場違いな服装と思える姿で、虎ノ門の交差点に出て桜田通りを南に向かって歩き始める。
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歩き始めて、少し先の左に「金刀比羅宮」がある。讃岐の西部に位置する丸亀藩(藩主は京極氏)の藩邸内に四国の金刀比羅宮から勧請して創建されたもので、当初藩邸は三田にあったが、延宝7年(1679)に藩邸の移転と共に現在地に移った。参道は完全にビルに取り込まれていて、周囲も高いビルが取り囲んでいる。
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金刀比羅宮を過ぎて進むと、左に愛宕山があるが、高いビルに阻まれてなかなか見えてこない。何時も通る桜田通りの右に並行している古い通りに入ってすすむと、榮閑寺があり、山門の前に「杉田玄白墓」の石碑が立っている。定年前の数年間の職場が、ここからさほど遠くない場所であったが、ここに「解体新書」で名高い「杉田玄白」が眠っているとは知らなかった。山門の中でお掃除をしている、住職の奥様とおぼしき婦人に墓の場所をお聞きし、お参りした。帰りがけに、有名な杉田玄白の墓のあることを、もう少し皆さんに知ってもらうようにしたらと、婦人に話しかけると、なにしろ小さなお寺ですからとおっしゃっていた。
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愛宕山の下を通るトンネルは何度もくぐったことはあるが、愛宕神社にはお参りしたことはなかったので、トンネル手前の細い階段を登って行った。ここが、講談で有名な「曲垣平九郎」が馬で急な階段を上り、将軍家光に手折った梅の枝を献上したところである。境内には、「平九郎手折りの梅」と立て札のある梅の古木もある。正面階段の階段を上から覗き込むと、流石に急である。手すりがないと昇り降りも出来なさそうに見える。
曲垣平九郎が実在の人物であったかどうかは定かでないが、今までに10人の人が騎乗での昇り降りに挑戦しているというから驚きである。なかでも1925年11月8日に、陸軍参謀本部の馬丁であった岩木利夫の挑戦が、放送を開始したばかりのNHKが本邦初の実況中継をして話題になったとのこと。なお、岩木利夫は、かわいがっていた8歳のサラブレッド「平形」が廃馬にされてしまうということを耳にして、「この馬の真価を天下に知らせたい」と石段上りを決行したと言われていて、この話は”美談”として参謀総長から昭和天皇にも伝えられた。結果「平形」は廃用を免れ、騎兵学校の将校用乗馬に転用され天寿を全うしたと伝えられているそうである。
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急峻な正面階段に恐れをなした訳ではないが、NHKの放送博物館も写真に収めておこうと、そちらに歩いて行った。ここで、近くの事務所で仕事を続けている会社の先輩から、ノートPCの調子が悪いので見てくれないかと電話があり、2時間ほど街道歩きを中断した。
街道歩きを再開して進むと、ビルの谷間に東京タワーが見える。大地震で先端部分が折れ曲がっていたが、ワイヤーで引っ張るなどして固定し修復したようである。
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左に進めば、東京タワー、右にはロシア大使館の飯倉交差点を通って、赤羽橋に進む。
2級河川の古川は、新宿御苑から流れて東京湾に注ぐが、姿を表すのは渋谷からである。しかし、上を首都高速が走り存在感の低い河川となっている。渡ったところに、古い親柱が立っていたが、サラリーマン風の紳士と警官が何かを盛んに話し合っていた。
500mほど進むと右手に春日神社の石段が見えてくる。春日神社の由緒は古く、天徳2年(958)武蔵国の国司として藤原正房卿が着任したとき、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神の大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命(あめのこやねのみこと)の御神霊を勧請したのが始まりという。
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その先に改修した慶応義塾大学の東門が美しい姿を見せている。 三田2丁目の交差点を通り過ぎ、もう一つ先の三田三丁目の信号を右斜めに進むと、だらだらの上り坂となる。聖坂である。中原街道は古代中世の街道で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開いたとも言われ、ここは高野聖達の宿所があったことから聖坂と呼ばれている。この辺りは江戸時代の東海道に平行した台地上にあり、中世には往来が盛んであったという。
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聖坂の途中の右手に小さな「亀塚神社」がある。境内に港区最古(文永3年:1266)の板碑がある。その先には、クェート大使館が偉容を誇るように建っている。
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聖坂を上り詰めると、右側に「幽霊坂」の表示柱が立っている。右折して坂を下って行くと、左手に「玉鳳寺」があり、山門脇に「御化粧延命地蔵」が安置されている。かつて同寺が京橋八丁堀にあったころ中興の住職宗逸が地蔵橋に放置されていた地蔵を修復して化粧したところ和尚の顔のアザが消えたことから、人びとも病気をもつ部分に白粉を塗って祈願するようになったという。なお、「幽霊坂」の呼び名は、江戸時代に坂道の両側にお寺が並び、寂しい雰囲気であったことから名付けられたもので、当時は、江戸に7箇所も幽霊坂と呼ばれる場所があったという。
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幽霊坂を下りて、桜田通りにぶつかり、左折して少し進むと、長松寺があり「史跡 荻生徂徠墓」の石碑が立っている。山門をくぐって、本堂の左側から墓地に入って行くと隷書体で「徂徠物先生之墓」と刻まれている墓石がある。
荻生徂徠(寛文6年:1666 – 享保13年:1728)は、江戸中期の儒学者で柳沢吉保に見出されて仕えたが、吉保失脚の後は、柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾蘐園塾を開き徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。また,享保7年(1722)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。
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街道に戻って進む。この辺りは伊皿子(いさらご)坂で、伊皿子の交差点を渡って更に進むと、右手に羊羹で有名な「とらや」の古い建物が見えてくる。なお、虎屋は室町年間に京都で創業されていて、御所の御用を承っていた。
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「とらや」から200mほど先の、道路の左側に「承教寺」があり、「英一蝶の墓」と、「二本榎の碑」がある。山門には、お寺にもかかわらず狛犬があるのは、明治維新の神仏分離までは寺と神社が同じ場所にあったことによると思うが、特徴のある風貌を見せている。「英一蝶」は、将軍綱吉の放縦な生活を風刺したために、三宅島に遠島となったといわれているが、本当のところはよくわかっていない。また、俳句にも造詣が深く、芭蕉の弟子達との交流があったという。
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江戸時代に、東海道を日本橋から出発して進むと、品川宿の手前で右側に小高い丘が見えてきて、「高縄手」と呼んでいた。そして、そこのお寺に二本の大木の榎があるのが見え、旅人のよき目印になっていて、誰言うとなく二本榎と呼ばれていたという。その後、木が枯れても二本榎の地名として残ったとのこと。
高輪警察署前の交差点を過ぎると、左側に高野山東京別院がある。江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年?1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創された。
その後、明暦元年(1655)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673)高野山江戸在番所高野寺として完成したものである。広い境内であるが、地下には東京電力の変電所があるとのこと。
その先の高輪三丁目の交差点で右折して、国道1号線に合流して坂を下って行く。相生坂と呼ばれている坂である。左にビルの中に収まった「雉子神社」がある。文明年間(1469-1487)の創立で、将軍家光がこの地に鷹狩りに来た時、一羽の白雉がこの神社に飛び入ったのを見て「以後雉子宮と称すべし」と神社称号を授けたという。祀神は、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、天手力雄命(あめのたちからおのみこと)、大山祗命(おおやまつみのみこと)である。
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「五反田駅」の構内を通りぬけ、目黒川を渡る。川面に映る桜を見られるのももうすぐだ。首都高2号目黒線をくぐって、「ルートイン五反田」の右側から旧道に入って行く。道は緩やかな上り坂となっていて、少し先には道端に「子別れ地蔵」が立っている。説明板によれば、享保12年(1727)に建てられた地蔵で、ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったという。今も桐ヶ谷は、火葬場として知られているそうで、江戸時代からの歴史があることになる。今回の大震災でも、親を失った子供、子供を失った親が思い起こされ、しんみりとした気分にさせられる。
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進むと、左手の小マンションの入り口脇に「品川区指定有形民俗文化財旧中原街道供養塔群-1」がある。地蔵菩薩立像2基と馬頭観世音、聖観音立像が安置されている。
更に進むと、「品川区指定有形民俗文化財旧中原街道供養塔群-2」がある。子育て地蔵、庚申塔など6基が庇の中に安置されている。
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雨が降ってきて、東急大井町線の旗の台あたりで切り上げようかと思いながら、先を急いだ。途中、ビルの軒下で休みながら進むと幸いにも雨は小降りなってきたので、一気に洗足池まで進んだ。洗足池の右横の小道を入って行くと、大田区立洗足池図書館が建っていた。立派な図書館である。
先に進むと、「妙福寺」の山門があり、くぐると本堂の左手、洗足池湖畔に「御袈裟懸松」と刻まれた石標と松がある。弘安5年(1282)9月、日蓮上人が身延山から常陸国に湯治に向かう途中、池上本門寺を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟を掛け、池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから袈裟掛けの松と称するようになり、洗足池と称されるようになったという。
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更に先に進む。左手は洗足池公園の広場となっていて、遊具も設置されており、子供の遊び場となっていた。その右手には、洗足池を愛し、湖畔に別荘を構えていた勝海舟が西郷隆盛の死を悼み、西郷隆盛の漢詩を建碑、さらに留魂祠を建立している。

獄中感あり」 西郷南洲作
朝に恩遇を蒙り夕に焚.せらる 人生の浮沈は晦明に似たり
縦え光を回らさずとも葵は日に向う 若し運を開く無くとも意は誠を推さむ
洛陽の知己皆鬼となり 南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑わむ天の附与なるを 願わくは魂魄を留めて皇城を護らむ

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そして、その右隣には、勝海舟夫妻の墓所もある。昭和28年に改葬されたものとのこと。
たしかに、洗足池は、都会の真ん中にあって広くて、自然が豊かで、落ち着いた憩いの空間となっている。また、毎年5月頃、人間国宝の笛の催し「春宵の響き」が行われるそうである。
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洗足池を後にして、石川台の信号を過ぎた直ぐの「呑川(のみかわ、のみがわ)」に大田区文化財の「石橋供養塔」が建っている。 安永3年(1774)、地元の人が石橋の安奉を祈って建立したものとのことで、既にこの時代に石橋が架けられていたことが分かる。それにしても、橋に供養塔は初めて目にしたが、万物全てに神が宿るという日本の古来からの精神文化を表しているように思える。
その後、東急池上線の「雪が谷大塚駅」の脇を通り、田園調布警察前で環八通りにぶつかり、ここから旧道に入って、多摩川方面に進む。この先は、桜坂の名のかなり急な坂道になっていて、歩道は両側に車道を見下ろすように作られている。
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歩道は途中で終わるが、最後は車道に架かった赤い橋で左右が合わさり、スロープで車道に合流している。橋から眺めると、車道の両側には桜の木が植えられていて、桜の季節は見事な景観となることが想像できる。
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坂を下りきると、多摩川駅と蒲田駅を結ぶ東急多摩川線を「沼部駅」脇で渡り、ようやく多摩川の堤防に到達する。昔は、この辺りに多摩川の渡しがあった筈であるが、今はその面影は無い。
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多摩川対岸には、最近になって急速に高層ビルが立ち始めた小杉駅方面が見える。
そして、少し上流に架かる丸子橋を渡ることになる。歩道も立派である。
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丸子橋を渡り、堤防に沿って下流に50mほど進んで、児童交通公園入口から多摩川に直角に伸びている、旧道を進み、東急東横線のガードをくぐる。
進んでゆくと、右側に旧原家跡がある。本宅の建家は川崎市立日本民家園に移設され、比較的新しい塀と門が残されているようである。
次に現れたのは、名主であった安藤家の重厚な長屋門である。安藤家の先祖は後北条氏の家臣であったという。
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次は「石橋醤油店」である。「石橋醤油店」は明治3年にこの中原の地でキッコー文山の商標で醤油作りを始め、昭和24年に操業を終えるまで大樽を据えた醸造工場や蔵が建ち並び活況を呈したという。
その先では道路が今もクランク型に曲がっている。車に乗っていると腹立たしいと思うが、細くて歩道もない道路で、歩行者にとっても難所である。
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クランクの最初の曲りの角には「徳川将軍小杉御殿跡」の石碑と説明図が立っていた。
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クランクを曲がらずに真っ直ぐ進むと、西明寺である。明治6年に「小杉学舎」が本堂を借りて誕生したところとのこと。
危険なクランク型の道路を通りすぎて進むと、供養塔がある。台座に「東江戸 西中原」と刻まれ、側面には「小杉駅」の文字もあり、小杉が宿駅であったことと中原街道が江戸と中原(平塚)とを結ぶ道であったことを示している。
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歩道もない細い道が続く。府中街道と交わる「小杉十字路」の交差点でようやく、歩道のある道路となった。
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かつて近隣の農地を潤した二ヶ領用水を渡ると「泉沢寺」がある。泉沢寺は吉良氏の菩提寺で、世田谷の烏山にあったのが焼失したため、天文19年(1550)、上小田中(かみこだなか)のこの地に再建されたとのこと。
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後は、ひたすら「武蔵中原駅」を目指す。サラリーマン生活の大半の期間に乗り降りをした駅である。駅も線路が高架になってから全く姿を変えてしまい、付近には多くのお店も開かれることとなった。時計を見ると、時刻は5時15分で、あと30分もすれば通勤客で賑わうはずである。

2010.10.19

白石城と大河原から岩沼宿(館腰駅)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計42,043(27.3Km)・・・館腰まで

昨日は流石に疲れて、早めに寝てしまった。
おかげで、朝は早く目覚め、食事前に昨日スキップした白石城を訪れることにした。
駅前通を歩いて行くと、正面に市役所の建物が見えてくる。大きなビルで完全に白石城を隠してしまうのが、位置的には残念なように思える。
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市役所の横を通り抜け、城への階段を上って行くと、ようやく白石城の天守閣が姿を現した。
白石城は、天正15年(1591)に秀吉が会津若松城とともに蒲生氏郷に与え、その後慶長3年(1598)に上杉領となって上杉氏家臣の甘糟景継(清長)が入城した。しかし、慶長5年(1600)関が原合戦の直前、伊達政宗は白石城を攻略し、以降明治維新まで、伊達氏家臣の片倉氏の居城となった。なお、城主は代々、片倉小十郎を名乗った。
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大手門への通路を進む。まだ早朝で、もちろん大手門は開いていない。
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大手門近くから天守閣を仰ぎ見て、城の北側にもまわって見る。
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一旦ホテルに戻り、朝食の後 昨日終えた大河原駅に電車で移動し、歩き始める。
尾形橋を渡り、街道に復帰する。写真は白石川の下流方面である。川はこの先で阿武隈川に合流する。
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左の写真は、大河原宿の町並みである。大河原小学校の先の土手崎交差点で右前方に進み、韮神山方向に進む。綺麗に区画整理された住宅地の中を真っ直ぐに進むこととなる。前方には韮神山が見える。
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真っ直ぐ進めば荒川の渡しがあった所であろうが、今は渡しはないので、荒川に達する手前で右折して400mほど進み、韮神橋を渡る。荒川の上流方向を撮影したが、下流では直ぐに白石川に合流する。
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橋を渡ると国道4号線で、その向こう側の山の麓に、新しい観音像と古い石塔、石碑群が並んでいる。
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近づくと、前から2列目に「奥の細道 韮神山」と書かれた表示杭が立っていて、その右側に芭蕉の句碑が建っていた。芭蕉は、元禄2年(1689)5月4日(新暦6月20日)にこの地を通過した。そのときには、句は作らなかったが、後日、芭蕉を尊崇していた大河原の俳人、村井江三が弘化3年(1846)に、芭蕉が伊賀上野で詠んだ「鶯の 笠おとしたる 椿かな」の句碑を建てたのである。
また、左側の大きな歌碑は、平安時代に藤原実方は陸奥に流配となり、その折に詠んだもので、「やすらはで おもい立ちにしみちのくに ありけるものを憚りの関」と刻まれているとのこと。「心配することなく、陸奥(みちのく)に旅立ったが、やはり越すのが憚られる関であることよ」との意味であろうか。
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1Kmほど国道を進み、西船迫(にしふなばさま)の交差点で左折する。ここから先は船迫(ふなばさま)宿である。1つ目の曲尺手(かねんて)を過ぎると、左手に阿弥陀堂への細い階段が現れた。上って行くと、阿弥陀像が鎮座していて、その前に真新しい後生車が設けられていた。
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街道の面影は、全く残っていない。2つ目の曲尺手を過ぎると、丁字路にぶつかり右折する。
200mほど進むと、左手に薬師堂への細い階段が現れ、階段上には小さなお堂が見える。
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薬師堂を後にして山沿いの街道を進んで行く。左手に仙南自動車学校を見て、柴田高校前の交差点で国道4号線を渡り、大きく左にカーブしている道を進むと、やがて白石川のほとりに出る。新しく作られた「余川の一里塚跡の碑」と案内板が建っていた。
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ここからは、白石川沿い道で、豊かな水の流れとコスモスが咲いていて気持ちの良い歩行であった。やがて、川の向こう側にリコーの工場の大きな建物を望む場所に達し、境内が大きな墓所と化した東禅寺横を通り、東北本線のガードを潜って、白幡橋のたもとで左折する。
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500mほど車の交通量の多い道を進むと、左に大きな赤い鳥居がある。八幡神社の額が掛かっているが、赤い鳥居はお稲荷さんみたいだと思っていると、長い参道の先では、八幡神社と竹原神社の2つの神社が祀られていた。
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長い参道を辿ると、左側に八幡神社、真っ直ぐ進むと竹原神社の分岐点がある。
まずは、八幡神社にお参りすることにしたが、ここからも長い長い山道の参道であった。説明表示によると、天喜4年(1056)に始まる前9年の役に、源義家が戦勝を祈願した氏神の八幡宮を康平5年(1062)に勧請したと伝えられ、源頼義、義家父子の寄進状とされる2通の書状を蔵しているとのこと。
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八幡神社を後にしてY字路を右折すると、槻木宿である。左に入って行けば東北本線の槻木駅がある。町並みは、普通の地方の街の様相だが、ときには古い旧家の建物がある。
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進んで槻木中学校を過ぎると、国道4号線に合流し、1Kmほど進んで岩沼市の境界の手前の信号で、右に国道から分かれる。300mほど先では、水道橋が阿武隈川を跨いでいる。
その後は、のどかな田園地帯の中の集落で、1Kmほど先で大きく左にカーブして、国道4号線のガードを潜る。
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400mほど先で常磐線の踏切を渡ると、右側に東洋ゴムの広大な工場が見えてくる。
次に、東洋ゴムへの引込み線の踏切を渡ると、直ぐ左に東武(とうたけ)神社の赤い鳥居と社殿が見えてくる。
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進んで、五間堀川を渡り500mほど進むと、左側に聖徳太子堂がある。由来は不詳だが、病気が流行したときに聖徳太子の像2体を作って、病気退散を願ったのが始まりといわれているとのこと。
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丁字路で左折して、最初の十字路を右折し、再び次の十字路で左折すると、通りが急に広く綺麗になる。ここからが岩沼宿である。
少し先の左側の道路の奥には、赤い鳥居が見えている。日本三大稲荷の一つと言われる「竹駒神社」である。
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竹駒神社は、別名竹駒稲荷と言われる通り、稲荷神社であるが、承和9年(842年))、小野篁(おの の たかむら)が陸奥国司として赴任した際、伏見稲荷を勧請して創建したと伝えられる。戦国時代には衰微していたが伊達稙宗が社地を寄進するなど、伊達家の崇敬を受け発展し、文化4年(1807)には正一位の神階を受けた。
かつての社殿は、仙台藩の5代藩主伊達吉村によって造営されたものであったが、平成2年(1990年)に火災で焼失し、平成6年(1994年)に再建された。
なお、竹駒という社名は、現岩沼市域の旧称「武隈」の転訛であり、もともとは、市内を流れる阿武隈川に由来するとのこと。
鳥居を潜って入って行くと、随身門が見えてくる。門を潜ると、その先には向唐門がある。
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平成6年再建の新社殿である。見事な外観で、三大稲荷と言われる所以であろうか。
なお、三大稲荷とは、 伏見稲荷大社(京都市)、豊川稲荷(愛知県)は当然として、あとの1社に上げられているのは、5?6社もある。
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境内を見渡すと、桜の葉が赤く色づき始めていた。そして、神社境内の北東部に、二木塚と言われる芭蕉句碑が立っている。芭蕉の紀行文の奥の細道には「武隈の松」を訪れた章があり、寛政5年(1793)、芭蕉翁百年忌法要を記念して芭蕉六世とも言われた俳人謙阿の句碑とともに建てられたとのこと。
芭蕉の句碑には「佐くらより 松盤(は)二木を 三月越し」とあり、謙阿の句碑には「朧よ里 松は二夜の 月丹こ楚(朧より 松は二夜の 月にこそ)」と刻まれている。
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岩沼は近世初頭から馬市で賑い、仙台藩領内でも大きな宿場として栄えた宿である。宿場内を進んでいくと右手になまこ壁の蔵のある旧家が現れる。その先に進むと左手に本陣・南町検断屋敷だった八島家で、長屋門に特徴がある。
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その先には、小野酒造(渡辺家)の蔵屋敷が現れる。消えかかった「武隈」の看板が入り口上の屋根に乗っている。下右の建物は新しいが、今はこちらを主に使っているのだろうか。
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岩沼小学校を過ぎて、細い流れを渡ると左手に相傳商店がある。文政4年(1821年)、初代傳兵衛が酒造業を創業、清酒名取駒と副産物の酒粕を利用して奈良漬を製造した。
その後も、蔵を備えた大きな構えの旧家を見かけることができる。
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宿の規模は大きかったが、ようやく終わりに近づき梶橋の信号で、国道4号線に合流する。国道を500mほど進むと、左に分かれる小道に入って行く。
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直ぐに奥州街道(本郷)踏切と書かれた東北本線の踏切を渡る。
1.5Kmほど田園の中を進むと、ようやく館腰の町並みが現れる。
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左に、館腰神社の常夜灯が見えてくる。鳥居と石段が続いている。
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歩き疲れた身には、キツイが階段を上ると、瀟洒な社殿が建っている。
館腰神社は、境内にある由緒によると、「嵯峨天皇の弘仁2年(811)僧空海、当地に弘誓寺(こうせいじ)を創建するにあたり、京都伏見稲荷大社より分霊奉斎すと伝えられる。(口碑)明治2年、弘誓寺と分離し、同7年6月、県社に列せられた。明治41、2年にわたり、村内本郷の熊野神社、飯野坂の鹿島神社、堀内の八坂神社、植松の雷神社、八幡神社等の数社を合併して、一村一社とした。」とある。また、境内には神仏混合の名残で弘誓寺観音堂や日切地蔵尊、撫牛大黒天、鐘付堂などがある。
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館腰神社の隣の弘誓寺である。こちらも立派な仁王門と、本殿を備えている。
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そして、神社の参道と平行して別に参道が設けられていた。(下左写真)
時刻は、午後3時前だが、2日間の歩行で疲労も蓄積してきたのを感じ、ここで切り上げることにして、館腰駅に向かった。15:05分発の電車は直ぐに来たが、白石駅止まりであった。次の列車で福島に向かい、やまびこに乗り換え帰宅した。
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