2011.09.26

古川から築館照越・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計40,003(26Km)

古川から築館照越の歩行ルート

暑さ寒さも彼岸までとは、よく言ったもので何時まで暑さが続くのかと思っていた今年の夏もお彼岸が近づくと急に涼しくなってきた。そこで、暑い夏の間お休みしていた街道あるきを始めることとした。
東京駅6時4分発の「やまびこ51」に乗り古川駅には8時14分に着く。駅から表にでると正面に「ササニシキ」をたたえる親子の像が目についた。稲束を捧げる子供と母親の像である。
振り返って見る「古川駅」は、大正2年に陸羽東線の「陸前古川駅」として作られ、昭和57年の東北新幹線開通に伴って「古川駅」となった。
なお、陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅(こごたえき)から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線で、2両編成のディーデルカーが走っていて「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。
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前回、奥州街道より離脱した十日市の交差点に向かい、北に向かう街道に復帰する。歩道も広く気持ち良い道路であるが、歩道のタイルがところどころ持ち上がって乱れており、3.11の大震災の影響が残っていた。
300mほど進んで北町の交差点を過ぎると、歩道も狭くなり中心街を離れて行く感じとなる。
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進んで家並みが途絶えたところの左側に「明治天皇観農遺蹟碑」が立っていた。明治9年の巡幸記念だが、「観農遺蹟」は、初めて見た。
さらに進むと、道路の右側の(株)ムラタ工務店の駐車スペースの片隅に「三峰神社」と額にかかれた神社があった。小ぶりだが立派なお社である。先祖が宮大工だったというのも頷かされる。左には安全を祈願する同社のモニュメントがある。
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すぐ先の交差点の左には赤い鳥居の八幡神社がある。源義家が前九年の役に凱旋したときこの境内に騎馬を留め、護持していた石清水八幡の神符を納めて勧請したものと伝えられている神社である。
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江合川に架かる江合橋を渡る。江合川は、大崎市の荒雄岳東部に源流があり、鳴子ダムを経て平野部へ流入、美里町、涌谷町を経て石巻市に入り、そこで旧北上川に合流しているが、江戸時代の河川改修以前は、北上川と合流せず広淵沼を経て定川に入り、石巻湾に流出していた。
橋を渡って左折し、500mほど進んで右折する。県道1号線を渡ると新幹線にぶつかり、道路は直角に左に曲がっている。
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少し進むと、左の新幹線のガードをくぐったところに春日神社がある。赤い鳥居を潜って進んでみたが、簡素な社があるだけだった。
先に進むと、左に進む道路が分岐していて、「聖骨傳真居士」と刻まれた石碑が立っていた。
裏はブロック塀が邪魔して見えなかったが「東田尻、西古川、北荒谷」と刻まれていて、追分石を兼ねていたという。ここが休塚の追分で左に歩を進めて行く。
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閑散とした道を進むと、左に天満宮がある。赤い鳥居は昭和53年の宮城県沖地震の時に倒壊したのが再建されたとのことだが、今度の3.11の大震災では、石の鳥居の上部が崩落している。
進んで国道4号線を斜めに横断すると、荒谷宿に入って行く。
道路の左端に、「剣聖千葉周作おいたちの地 斗瑩(とけい)神社参道入口」の看板が見える。
社伝によると、文治3年(1187)、源義経が奥州平泉へ下向の際、北陸路を通り鳴子を経て荒谷に至り吉野の山によく似た斗瑩山に立ち寄り、静御前遺愛の鼓の調べに聞き入っていた時どこからともなく白狐が現れ”鼓は自分の亡き母の皮でつくったもの。ぜひ返して頂きたいと、涙ながらに申し出て、斗瑩山の岩穴に入り込んだので義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を捧げ、一向の武運長久を祈願したとある。 この白狐こそが左衛門尉四郎忠信に姿を変じ、義経公東下りの先達を務めた狐忠信であり、「義経千本桜」の歌舞伎で有名である。
なお、境内に千葉周作の屋敷跡があり、幕末に北辰一刀流を創始した周作が幼少時代を過ごしたところである。
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荒谷宿を歩いて、斗瑩稲荷への道の交差点に来たが、目印らしいものは何も見当たらなかった。予習では、この交差点に高橋歯科診療所があり、その軒先に看板があるはずであったが、診療所は移転したようである。
右の写真が斗瑩稲荷への交差点で、通り過ぎて振り返って撮影した。写真で右方向に進めば神社であるが、街道から離れているので、寄らずに通り過ぎた。
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荒谷宿の出口付近には「田尻川」が流れている。上流にはかつて自然湖の化女沼(けじょぬま)があったが、現在は、整備されて化女沼ダムとなり治水と、流域農地への利水に利用されているとのこと。なお、平成20年(2008)10月30日にラムサール条約登録湿地となったとの由。
さて、化女沼といういわく有りげな名前であるが、伝説では長者の娘が沼に顔を映して化粧をしていて、化粧沼と呼ばれていたのが、娘に恋をした蛇の子を娘が生んだことから、化女沼と変わったようである。何ともおどろおどろしい伝説ではある。
少し先で国道4号線に合流し、ほんの少し先で右に別れて高清水町に入って行くが、合流点には彩りも鮮やかに花壇が作られていた。
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また、合流点のすぐ左には、羽黒山公園の名の小山があり、上って行くと「恵水不尽」碑と、左側に「忠魂碑」があった。「恵水不尽」碑によると、元禄年間(1688?1704)、伊達藩の新田開発政策として小野地区の千枝の湖を干拓し、約百ヘクタールの水田が造成されたとのこと。
左側の「忠魂碑」の揮毫(きごう)は、陸軍大将鈴木荘六の筆によるもので、見事である。元治2年(1865)生まれの軍人で、退役後は帝国陸軍の帝国在郷軍人会会長、大日本武徳会会長を歴任し、学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残したという。
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なお、この公園は、春の桜と、秋の彼岸花の名所で、多くのカメラを構えた人達が撮影しており、彼岸花写真のコンクールも開かれるとのことであった。
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羽黒山公園を後にして、国道を渡り右側の旧道に入って行く。古川小野の白山地区である。旧道らしい静かな道であった。
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ほどなく国道4号線に合流して進んで行く。ところどころ、国道の両脇に旧道が取り残されたように残っている。国道では、車にはねられて命を亡くした「たぬきの死骸」が横たわっていた。
1Kmほど国道を進むと、中蝦沢で左側に大きな溜池があり、水鳥が浮かんでいた。
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国道を歩いて進んでいると、大きなレストランが左に現れた。時刻は11時10分でお昼には少し早いが、昼食を摂った。500mほど先で市境の看板があり、大崎市から栗原市となった。
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栗原市に入ってさらに1kmほどで、右に別れて県道1号線を進む。高清水(たかしみず)の中の茎(なかのくき)である。高清水の地名は、高台に泉が湧き、その水質の良さと水量の豊富さから名付けられたものだという。道は、萩の花が咲き乱れる気持ちの良い道であった。
高清水台町の交差点の手前には、右側に溜池が見られた。
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歩いて行くと、右側に動物の木彫り彫刻が飾られていた。何かのお店でもあったのだろうか。
家並みは、旧街道らしいものとなっているが、車の通りが激しく歩道もないのが気になった。
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進んで、透川(すかしがわ)を渡ると、高清水台町から下町地区である。
下町地区も台町の延長のような家並みである。
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道路左側に、福現寺がある。仙台藩重臣で高清水に居を構えた石母田氏の菩提寺であった。
さらに1Kmほど進むと、左に愛宕山公園が見えてくる。斜面には、多くの石碑、石仏が集められている。
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ここには、かつて日本三善光寺の一つとして、信州と甲州の善光寺と並ぶ奥州善光寺があったところであるが、現在では、阿弥陀如来堂のみ残っている。この阿弥陀如来像は、保安年間(1120?24)に、平泉の藤原基衡が父清衡の供養のために、信州の善光寺の分身像を造ってこの地に遷座したものとのこと。なお、基衡と阿部宗任の娘の間に生まれたのが、藤原秀衡である。
丘の上から振り返ると、歩いてきた街並みがよく見える。
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高清水地区も終わりに近づき、南沢川にかかる善光寺橋を渡る。上流方向を撮影したが、小さな流れである。
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進んで行くと、稲が稔って刈り入れ直前の様相の田んぼが広がり、伊藤ハムの大きな工場が見える。国道4号線に合流すると、右手は伊藤ハムの正門で、通り過ぎて進むと、右手にファミリーマートの看板が見えてくる。
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ファミリーマートの敷地を過ぎたところに右に入る道路があり、「奥州街道」の道標が立っていた。小さな道標だが、安心して進んで行けるのはありがたい。
道路は大きく左にカーブしながらの上り坂であるが、上り詰めると先は下りとなり八重壁川に架かる前田橋がある。
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前田橋を過ぎると、また上り坂となり途中で左に有限会社への道路が別れて続いている。そして、右に民家が見えてくると、左側にまた「奥州街道」と書かれた小さな道標が見えてくる。
ここからは草道となっていて、おそらく奥州街道の原型に近い道路が残っているところであろう。
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歩きやすい道で、ところどころに奥州街道と書かれた石の道標が立っている。最初の道標には八重壁と力石と刻まれていた。八重壁は、ここから少し手前の高清水にある字名であり、力石はこれから向かう先にある。
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木立に挟まれ、涼しく本当に気持ちが良い。地図には載っておらず、人が通った形跡にも乏しいが、石の道標で間違える恐れはない道である。
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1Kmあまり進むと、左側が開けてきて、小さなため池が左側にあり、右側に「三迫百姓一揆旧蹟碑」が立っていた。慶応2年(1856年)、高清水城主石母田氏が、約5000人の百姓一揆勢を、ここで鎮撫した記念碑とのこと。
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草道の街道は舗装道路に突き当たり、その左側の溜池の角に「旧奥州街道力石」と刻まれた石碑がある。その右にあるのが力石で、右端は山神碑である。
力石は、1083年から1087年の後三年の役の際、源義家の家来、鎌倉源五郎景政が二つあった大石の一つを谷底に投げ込んで、味方を力づけたと伝えられている。
舗装された車道をまたぐと、また「奥州街道」の道標が立っていて、そのまま真っすぐ進む。
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草の刈込みも行われていない道である。最初右のコンクリートの道を進むのかと思ったが、これは民家の取り付き道路で、真ん中の草深い道が街道であった。
進むと、益々草が深くなり、道筋も定かではなくなるが、基本的には真っ直ぐ進めば良い。しかし、草の生えている地面はぬかるんでいて、凹凸があり歩きにくいことこの上ない。たまには、草の刈込みを行って欲しいものである。
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草深い道は、長くは続かず、直に農作業のために踏み固められた道になり、歩き易くなる。
途中で、左に分かれる道路も現れるが、舗装道路に合流するまで真っ直ぐに進む。
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ようやく舗装道路に突き当たり、趣のあった街道は終焉する。合流点を振り返ると、「奥州街道」と刻まれた石の道標が立っていて、矢印はいま歩いてきた方向を指していた。
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進むと、明治天皇行幸記念碑が、道路の右側に立っていた。そして、右手に築館育苗センターの看板と「奥州街道」の道標が立っていて、右に小道が続いていた。しかし予め調べた限りでは、途中で深い藪に蔽われ、道が判別し難いとのことであったので広い道を進むことにした。
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国道に合流すると、東京から410Km 一関まで31Kmの標識が立っていた。一関ももう少しだ。
国道を2Kmほど進むと、築館インターの入り口である。道は三筋に別れ、一番右は国道4号線が続いていて、真ん中が築館インターへの入り口であり、一番左は、これから進む一般道である。
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築館インターへの道路の下を潜り進む。静かな道路である。高速道路に突き当たって右折し「照越のバス停」を通り越して500mほど進むと、左側に分かれる道路の角に「奥州街道」の道標が立っていた。
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今日は、ここまでと100mほど真っ直ぐ進んだところにある神田バス停から古川駅前に戻ることとした。古川駅前で一泊して、明日はここから出発である。
バスは1時間ほども待つことになるので、近くにある「くりはら直販売館よさこい」で、休憩を取って時間を潰した。

2011.06.13

吉岡宿から古川・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計37,540(24.4Km)

吉岡宿から古川の歩行ルート

十分な睡眠を取り、快適な朝を迎えてホテルで朝食をとり出発した。昨日は、上町まで歩いたので、中町から歩き始める。古い蔵の前面に、空間情報展の案内が書かれていた。古い蔵を活用した催しであろうか。
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上州屋と書かれていた古い門構えの建物がある。その先で右折して、吉岡八幡神社を訪れる。吉岡八幡神社の創建は不詳だが信夫地方(福島県福島市)を治めていた飯坂氏の氏神であったといわれている。伊達政宗の三男宗清が鶴巣下草(しもくさ)に配されると、宗清の庇護のもと元和4年(1618)に黒川郡の総鎮守として現在地に移された。真っ赤な随身門が特に目を引く神社である。
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街道左側に、「大ケ森屋」の看板を掲げた旧家があった食料品店・酒屋・パン屋・ケーキ屋などを販売しているようだ。さらに、旧家が続く。
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街道を左に曲がって下町に入って行く。しばらく進むと、早坂酒造店の重厚な建物が眼に入る。ちょうど子供たちの登校時刻であった。
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吉岡宿出口の丁字路である。ここは、出羽海道との追分ともなっていた。
少し先に進んで、右折すると、曹洞宗中興寺がある。
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中興寺の前には、溜池がある。そして此処から先は大和町から宮城県で唯一の村の大衡(おおひら)村に変わる。
街道を左折して、国道4号線の信号機の方に進むと、左に階段があり、上ると山神宮がある。
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ここで、国道4号線を横切り、広い田圃のなかの道を進む。
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田植えも無事終わり、青々とした早苗が心地良い。途中に善川という小さな流れがあった。かつては悪川との名前であったというから面白い。渡るのは松本橋である。
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田圃の中の道を進んで突き当り右折すると、すぐ左手に昌源寺がある。ここは永禄4年(1561)仙台市北山輪王寺六世当山禅徹大和尚が開山し、寛永12年(1635)伊達家家臣戸田定隆の竹ノ内居住と共に現在地に開基された。山門は明和4年(1767)の建立となっている。
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昌源寺の右横の道は、土道となって進んでいて、少し先に案内板が立っている。
この案内板によれば、旧道は完全に損なわれ、第二仙台北部工業団地の造成で、村道奥田工業団地西線が作られようとしているのが分かる。右手方向に進み、杉林の中の道を上って新道に出る。
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新道は、まだ完全には舗装されていない。左のほうを見下ろすと、昌源寺を始めとして、遠くに今朝出発した吉岡宿が見える。
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手持ちの地図には、まだ描かれていないのだが、大きく右にカーブしている道を進むと、新しい住宅地区が作られていて、既に入居して子供たちの遊ぶ姿も見られた。住所は大衡村大衡となるのだろうか。さらに進むと、丁字路にぶつかり、右折して進んで行く。
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進んで行くと左に大きくカーブしていて、左には広いパークゴルフ場が見えてくる。大勢の年配の方が楽しんでいるのが見えた。そして、大きなY字路で左に進む。松の平2丁目の信号である。
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道は緩やかに下り、村道楳田(うるしだ)戸田線にでる。進むと、旧奥州街道が右から交わる地点に行き着いた。
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道路脇には、既に無くなっている旧奥州街道跡についての標識が立っていた。部分的にでも、復活させて欲しいところである。
更に進むと、戸口配水場があり、大きな貯水タンクが2基並んでいた。
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ようやく林の中の道を過ぎ、展望が開けるようになった。向こうの山際には、車の通行量も多い県道16号線も見える。
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県道16号線に出て、右折すると直ぐに、雲泉寺がある。1373年の開山で古川市の富光寺の末寺である。
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進むと、須岐神社がある。延喜式神名帳に記載されている黒川郡四社の一つで、祭神は素盞鳴尊(すさのをのみこと)である。始め宮高森上にあり、建久2年(1109)に当地に遷座して椚(くぬぎ)千本を植て神境とした。中世より支配領主の崇敬篤く、延享3年(1746)に藩主宗村が病気平癒の祈願に参拝し、社殿は宝暦10年(1760)に新築造営、明治5年(1872)3月に郷社となる。
本殿は流れ造りこけら葺きで立派である。なお、江戸時代は「赤崎大明神」と称していた。また、この辺りの駒場の地名は、源頼朝が兵を進めてきたとき、ここで駒を休め兵糧を取ったからとの伝承があるとのこと。
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また、須岐神社境内には、戦中戦後の燃料不足時代の亜炭の採掘による土地陥没被害、酸化鉄流れだしによる土壌被害の復旧事業の記念碑が立っていた。
駒場簡易郵便局があり、この郵便局を右手に見て進むと、右側に明治天皇御休所址碑がある。
明治9年に駒場村の和泉幾之助宅の離家にて休憩され、自家醸造の清酒1樽を献上した。
これに対し、金15円の下賜金があったとのこと。現在の貨幣価値では10万円程度であろうか。
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小さな流れの駒場川を渡り、右に曲がって行くと東北自動車道の下をくぐり、左折となる。
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東北自動車道を潜って、すぐに左折すると高速道路に沿って緩やかに上ってゆく道となっていた。大衡村から大崎市三本木伊賀に入って行く。
少し進んだところで、いきなり林の中からカモシカと思われる大型動物が飛び出してきて道路を横断したのには驚いた。慌ててカメラを構えたが、送電線の鉄塔のフェンスの向こう側で鮮明な写真が撮れなかったのは残念である。
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今は、ほとんど見られることのなくなった藁葺き屋根の家も残っていて、静かな三本木伊賀の集落であった。1Kmほど進むと、「市道南伊賀線」と書かれた道標が立っている丁字路があった。
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丁字路を過ぎると、道は緩やかに上って行き、今度は陸橋で東北自動車道を越す事になる。
そして、2Kmほど進むと、左側に一里塚跡の表示杭が立っていた。奥州街道で、一里塚の跡とはいえ表示されているのは珍しい。
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一里塚跡を過ぎると、もう一度自動車道を陸橋で越す。三本木パーキングエリアに近く案内標識板が見える。
陸橋を渡ると、しばらくして街道は長い下り坂になり、下り終えたところで国道4号線と交差する。三本木の大豆坂交差点である。写真は、大豆坂を下って交差点を渡ってから振り返って撮影した物である。
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大豆坂交差点を渡ると、大きな大豆坂地蔵尊がある。名和2年(1765)火刑者の後生を弔うために、仙台広瀬川産の高さ4mにおよぶ巨石で建立され、現在は、延命子育て地蔵として、地元住民の篤い信仰を集めている。また、毎年4月24日に例大祭が行われ、稚児行列などが催され子どもたちの健やかな成長が祈願されるとのこと。
地蔵尊の後ろ側には、三本木の道の駅があるので、立ち寄って昼食をとることにした。大震災に伴う各種工事に従事する人たちが多く見受けられた。
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進んで鳴瀬川に架かる国道4号線の三本木大橋をくぐり、三本木宿の南町に入って行く。
三本木宿は中世、大崎氏の家臣渋谷氏の居城桑折城の城下町として発展し、天正16年(1590)に行われた大崎合戦では桑折城が大崎氏側の重要拠点の1つとなり、大崎氏逆転勝利の役割を担った。大崎氏が奥州仕置きで改易になると渋谷氏も連座し桑折城は廃城となるが、江戸時代に入り、奥州街道が整備されると三本木は宿場町として発展し、鳴瀬川舟運の川港町としても重要な位置を占めるようになった。鳴瀬川周辺には蔵が立ち並び米を中心に多くの物資が運びこまれたとのこと。
右側に、「清水湊不動尊入口」の古くて大きな道標があった。清水湊不動尊とは、どこにあったのであろうか。
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更に進むと、右側に八坂神社がある。本殿への階段脇の馬頭観音碑が、真っ二つに割れていた。そして、急な階段を上って行くと本殿がある。ここで冬に行われる三本木どんと祭(裸詣り)は有名で、無病息災・商売繁盛を祈願して行なわれている行事とのこと。
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八坂神社の先で左折して鳴瀬川を三本木橋で渡るが、ここで三本木の南町は終わる。
橋の上から鳴瀬川の上流方向を見ると、国道4号線の三本木大橋が見える。
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橋を渡ると、北町である。左側に今回の震災で壁の一部が剥がれ落ちたと思われるが、重厚で往時の繁栄を伺わせる建物が残っていた。
次に現れた(下の右の写真)のは、明治6年創業の新澤醸造店である。
歴史は古いが、東京農大を卒業後、難関の利酒名人に25才という史上最年少で合格、平成14年に宮城県最年少杜氏となった「新澤巖夫」専務をはじめ、蔵人の平均年齢は24歳と若く活気に溢れ、今後の発展が期待される新星蔵元とのこと。銘柄は従来からの「愛宕の松」に加えて2002年に立上げた特約店限定の新銘柄「伯楽星」は、瞬く間に全国から注目を集め、引き合いの多い人気酒となっているとのこと。
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本当に重厚な蔵造りの建物が多い。そして、街道左側に三本木宿北町の鎮守の白鳥神社がある。日本武尊の白鳥伝説に基づく白鳥神社である。
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白鳥神社を過ぎて北町の中心部から遠ざかると、道の両側の家並みも現在風になってきて、最後は三本木北町信号で国道4号線に合流する。
国道に出ると、右側にYKK APの大きな工場があり、通りすぎると多田川を渡り、大崎市古川になる。
国道4号線の鴻巣交差点で国道から離れ、古川市街に向かうが、2Kmぐらいは特に歴史的な遺構もなく単調な道が続く。
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陸羽東線の踏切を渡る。陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線で、「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。
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踏切を渡ると、端川寺がある。瑞川寺の創建は明確ではないが、中世、大崎一帯を支配した大崎氏の庇護を受け、郡内第一と称されるほどであったが、豊臣秀吉に大崎氏は改易され、その後起こった「大崎・葛西一揆」により戦災に巻き込まれ被災し、廃寺となった。江戸期に大崎は伊達領となり古川城主となった鈴木和泉守元信が仙台の松音寺の六世松庵堅貞禅師を招いて中興開山とし堂宇を建立。現在、本堂の前にある山門は旧古川城の搦手門を鈴木氏が移築したといわれ、寺門風に改造したものであり、大崎市指定有形文化財となっている。
しかし、大震災による被害も大きく、山門、本堂は補強工事中であり、観音堂に至っては転倒していて、修復には時間を要する状況であった。
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街道を進むと、緒絶橋(おだえばし)がある。
「緒絶の橋」には、平安の昔に皇后の嫉妬から都を追われ、失望したお姫様が川に身を投じたという悲恋物語が伝説として伝えられており、古来より緒絶川に架かる緒絶橋の名は悲恋の歌枕として多くの歌に詠まれてきた。三十六歌仙の1人藤原道雅(みちまさ)は「みちのくの をだえの橋や これならむ ふみみふまずみ 心まどはす」と伊勢の斎宮当子内親王に歌を送った事から、勅撰和歌集に選ばれ、「緒絶の橋」は第一級の歌枕と認識されるに至った。松尾芭蕉は訪れる事はできなかったものの奥の細道「緒だえの橋」について言及している。
この緒絶の橋の袂で、橋平酒造は寛政2年(1790)に創業し、200余年の歴史を代々受け継いでいる。創業時は酒造りのみであったが、寛政5年から味噌,醤油の醸造を開始し,さらに天保5年頃には質屋も兼ねたと伝えられている。昭和60年まで酒造りを行い、以降は委託醸造による自社ブランド「玉の緒」を提供しているが、200余年の歴史を持つ建造物は、旧古川市の中心市街活性化基本計画のひとつとして再整備され,平成17年6月に商業施設「醸室(かむろ)」として生まれ変わり、数々の蔵を改修して地元大崎の食文化発信地となっている。
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緒絶橋を過ぎて、次の信号で右折する。古川七日町であるが、シャッターの閉まった店が多いのは、あながち大震災の為のみではない気がする。
十日町の信号を過ぎ、古川台町に入ると、ようやく通りも華やかさを帯びるようになってきた。
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新幹線古川駅には、14:30に着いた。駅ビル前の舗石がズレているなど、多少の被害はあるようで補修作業が行われていた。駅ビル内のコーヒーショップで休憩を取り、15:15発の「やまびこ」で帰宅の途についた。

2011.06.12

仙台から吉岡宿(大和町)・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計44,320(28.8Km)

先週に続いての街道歩きである。今日からは、いよいよ奥奥州街道で青森県三厩に向かって歩き始める。前回と同じく「やまびこ251号」で仙台に6:30に到着。まずは、出発地点の芭蕉の辻に立つ。国分通りを北に向かって出発すると、左に宮城県の歯科医師会館があり、その前に昭和26年建造の歯の塚が立っていた。このような歯の塚は、全国的に各地の歯科医師会が歯の供養として建てていて、6月4日に供養祭が行われているようだ。
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芭蕉の辻の交差点には、日銀の仙台支店があることでも分かるように、国分通りはしばらくは金融街が続く。しかし、広瀬通りとの交差点を過ぎると、様相が一変して東北随一の歓楽街となる。そして、少し先で定禅寺通りを横切るが、定禅寺通りは中央分離帯が並木道の様相で、この日もまだ朝は早いがイベントでもあるのか、大勢の人だかりで出店まで目についた。
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定禅寺通りを過ぎると、雑居ビルやマンションの多い地域となり、国道48号線を過ぎると、左側に創業元禄8年(1695)の元祖仙台駄菓子・熊谷屋がある。ゆべし、餅菓子、あめなどを販売している。覗いて見たかったが、まだ閉まっていた。もうこの辺りは、町並みもかなり閑散とした雰囲気で、向こうには青葉神社の丘が見えてくる。
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進んでゆくと、左側に大きな二体の仁王像が目に付く玄光院がある。若林区にある龍泉院の末寺で青葉城築城以前、青葉山に龍川院の別院の玄光房としてあったが、慶長5年(1600)青葉城造営に際して独立し、玄光庵として当地に移転。本堂内の寿老人像は仙台七福神の一つである。すぐ隣に、熊野神社がある、土御門天皇(1199?1209)の御代に御勅宣をもって宮城郡荒巻邑総鎮守とされ、近郷近在の崇敬をうけた。現在の社殿は享保7年(1722)の建立で明治12年(1879)村社とされるが境内はゴミの収集場所となっており、現在では篤く崇拝されているとは思えない。
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青葉通りに達すると、角に検断屋敷があり、市の指定文化財との事であったが、今回の大震災で主要部分が崩落してしまったようである。そして、正面を見ると、青葉神社の大鳥居も完全に崩落していた。
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階段を登って本殿にお参りする。仙台藩祖伊達政宗を祀る神社で神号は武振彦命(たけふるひこのみこと)である。元は仙台城(青葉城)内にあったという。慶応4年(明治元年)7月14日(1868)、有志が仙台藩祖伊達政宗を祀る神社の創営を請願し、許可され明治7年(1874)に創建された。その後、大正11年(1922)より社殿の改築を行い、昭和2年(1927)に現在の社殿が完成した。
隣には、伊達4代目の政依建立の東昌寺がある。東昌寺はいわゆる伊達五山の一つで、京都五山に倣って建立したもので、始祖朝宗の菩提寺として観音寺、朝宗夫人結城氏の菩提寺として光明寺、母の菩提寺として光福寺を創建し、次いで自らの菩提寺として東昌寺を建立、伊達五山の筆頭としたという。最初鎌倉時代に陸奥国伊達郡桑折に建立され、陸奥国の安国寺に指定された。寛政5年(1464)ころには伊達氏を檀那とし、僧衆200人を擁する寺で、住僧は黄衣を着ていたという。その後東昌寺は伊達氏と共に米沢、岩出山、仙台(1600年)へと移ったものである。
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次は伊達氏始祖朝宗の夫人の菩提寺の光明寺である。本尊は千手観音で弘安6年(1283)伊達政依が福島県伊達郡光明寺村に創建。その後慶長9年(1604)にこの地に移った。慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓と、使節団の案内人であった宣教師ソテロの記念碑が建っているそうだが、見逃した。
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最後が、鹿島神社である。弘安2年(1279)伊達政依(4代目)が福島県伊達郡に勧請。政宗が慶長9年(1604)光明寺と共に当地に遷祀したもの。千葉の香取神宮が総本宮である。
すぐに、JR仙山線の踏切を渡る。仙台線は仙台と山形の羽前千歳駅58.0kmを結ぶ路線で日本で最初に交流電化(1955)された。写真は北仙台駅方面であるが、仙山線は単線である。
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踏切を渡って進むと、左側に日蓮正宗の日浄寺がある。寛永20年(1643) に日蓮正宗第17世法主日精上人により開基。檀家は当地産物の堤焼きの檀家が多いとのこと。
その先で、緩やかな坂を下って行くと、左側に「つつみのおひなっこや」と書かれた小さなお店がある。友人の奥様に立ち寄ることを勧められたお店で、堤町の伝統の焼き物のお人形を製作販売しているが、残念ながら閉まっていた。
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「おひなっこ」の隣の「佐大商店」との間の細い道を入って行くと、大正7年(1918)に築造した、6連の登窯があるが、今回の大地震で上部の3基が崩れ落ちていた。300年以上の歴史を持つ仙台の伝統工芸「堤焼」の登り窯であり、旧仙台城下の庶民の暮らしを伝える貴重な遺産だけに、関係者は胸を痛めているとのこと。
この先で、県道22号線に合流して、500mほど進むと、左側に「青笹不動尊」がある。堤町から北上する奥州街道の旧七北田(ななきた)村までを七北田街道、北根街道とも呼ばれていた。七北田村には元禄3年(1690)頃から明治維新まで約180年間にわたり一般庶民層に刑罰が執行された仙台藩七北田刑場があり、一般庶民層に磔刑(はりつけ)、火刑(ひあぶり)、斬罪(うちくび)等の刑罰が執行されたところで、処刑された人は実に7,000人にのぼるとのこと。囚人は仙台の城下町を引き回され、この街道を刑場へと引かれていった。当時、この付近に周囲に青い笹の葉が生茂る泉があり、囚人はここで末期の水を飲まされたという。泉のほとりに置かれていた石碑を祀ったのが青笹不動尊の始まりといわれていて、現在の本尊、不動明王像は天保9年(1838)に作られたもので昭和53年(1978)道路拡張のため現在地より約100m北側より移転新築された。
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進んで行くと、右手に仙台文学館への入り口が見えてくる。仙台文学館は、郷土にゆかりのある近代文学に関する作品、文学者の遺品その他の資料を収集、保管、展示するとともに、その調査研究及び文学に関する知識の普及活動を行っているとのこと。
進んで、黒松北入り口の信号を過ぎると、泉区に入って行く。泉区はもとは、和泉市で仙台市のベッドタウンとして発展し、石巻市をも抜く人口であったが、昭和63年(1988)に仙台市に合併編入され、そのまま泉区となった。ここで、県道の左脇の道路に入って行く。徐々に上っていて、22号を右下に見下ろすようになる。
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400mほど進むと、左側に仙台藩の七北田刑場跡がある。ここも、大震災で髭文字の題目碑は倒壊していた。七北田刑場は、仙台藩の一般庶民を対象にした処刑場であり、元禄3年(1690)頃米ヶ袋より移され、幕末まで180年間この地にあり、この間の処刑者は約6,000人に及んだと云う。仙台藩では処刑された人の霊を弔うことはなかったが、五代藩主・吉村公夫人長松院(久我貞子)の遺言により、55年も経った延享2年(1745)に刑場を境に南に河南堂、北には河北堂が造られたとのこと。なお、ここで、寛政10年(1798)、長崎でオランダ医学を学んだ仙台藩医・木村寿禎(きむらじゅてい)が腑分けを行ったといわれ、供養碑がたっていたが荒町の仏眼寺に移設されたとのこと。
七北田刑場跡から下の県道22号線に降りられる小さな階段があり、ここを降りるとすぐ先が地下鉄八乙女駅前の交差点である。地下鉄の開業は昭和62年と新しい駅であるが、泉区では地下鉄でも高架線路となっている。開業前の駅の仮称は七北田であったが、開業時には旧宿場名は採用されず、八乙女駅となったのは時代の流れであろうか。
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八乙女駅を過ぎると、左に奥羽自動車学校のコースが見えてきて、七北田川を七北田橋で渡る。上流にに見えるのは、ユアテックスタジアム仙台で、ベガルタ仙台のホームスタジアムであり、ラグビーアメリカンフットボールの球技場でもある。所有者は仙台市であるが、仙台市に本社を置く電気工事会社のユアテックが命名権(ネーミングライツ)を取得している。
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橋を渡って直ぐの左側にある無量山善正寺は、浄土真宗の寺で、慶長10年(1605)に開山されたお寺である。仙台藩の三大飢饉は、宝暦、天明、天保の飢饉で、七北田地方は奥州街道の宿駅に当たる事から、馬子、人夫等の外他方面からの遊民で路頭等で餓死する者が数多くいたと云われていて、三百余人の死者を出したとの記録も残っている。犠牲者の霊を弔うため、生き残った人々によって、供養碑が建立されたが、現在七北田には善正寺の宝暦飢饉のみが残されているとのこと。
その先で、左に長い参道を入ると、二柱神社がある。万壽2年(1026)に市名坂の修林壇に祀られたのが創祀といわれ、その後、天正年間(1573年?)に国分氏の荘園33ヶ村の内、市名坂・七北田・北根・野村・上谷刈 古内・松森・鶴谷の8つの村の総鎮守として祀られるようになったといわれている。寛文2年(1662)現在地に遷座。昭和4年(1929)社殿が全焼し、現在の社殿は昭和16年造営のものとのこと。仁和多利大権現(にわたりだいごんげん)ともいわれ、子供の無病息災の神として知られているとのこと。
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泉中央駅に通じる市名坂の交差点で、ちょうどお昼時となり、近くのお店に入って昼食をとり、小休止とした。
休憩の後、進むと浄満寺が左手にある。このお寺は、慶長元年(1596)に教如上人の法弟長念が現在地に開基。この寺は藩政時代、歴代の住職によって寺子屋が開かれていたという。境内には安政5年(1858)に建立された筆墓がある。
そして、次のY字路が七北田宿の出口で左の道を進み、七北田字白水沢の集落に入って行く。
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進むと、右側に日露戦役記念碑が立っていた。近代日本が国運をかけての戦争であった。
七北田字白水沢を抜け国道4号線に合流して、将監トンネルからの道路との交差点で、友人が車で迎えに来てくれて、自宅に案内され美味しいコーヒーとケーキをごちそうになった。しばし歓談の後に、交差点まで送っていただき歩き始めた。そして、1Kmほど進んで東北自動車道の泉インターチェンジのそばを通過することとなったが、歩行者用の通路があり、問題なく通過できた。
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東北自動車道をくぐると4号線は、下の写真のように大変賑やかとなる。そして、1Kmあまり進むと、向こうに富谷配水場の配水池に立つシンフォニータワーが見えてくる。富谷町のシンボルともなっていて、夕方5時と夜8時に音楽が流れるのだそうである。
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進んで、右側のマツダの販売店過ぎたところに、「大清水石盥(おおしみずせっかん)」がある。説明板には、新妻豊前という武士が病気で倒れた家臣ののどを潤すため、持っていた槍の石突で岩を掘ったところ冷水が湧き出たといわれる。その後水は、四季を通じ冷たい清水がこんこんと湧き出し、街道を行き交う人々から大変親しまれたと、書かれていた。なお、石盥は町の有形文化財に指定されている。
少し先には、鷹乃杜団地入口のが見えてくる。その後も、あけの平団地入り口が続く。
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3Kmあまり国道4号線を進んで、ようやく一枚沖の信号で右の旧道に入って行く。
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少し進むと、右側に急な階段があり、上ると赤い鳥居が見えてきて、さらに上ると拝殿が見えてくる。天保大飢饉のころ疫病がこの地一帯に流行したので、槻木(現柴田町)の入間田から祇園社として勧請した。祭神は素盞嗚尊(スサノオノミコト)、あるいは牛頭天王(ゴズテンノウ)とのこと。牛頭天王は疫病除けの守護神として知られ、天王を祀れば疫病は直ちに平癒すると信じられていた。
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静かな町並みを進むと、熊野神社の大きな神名碑と鳥居が見えてきた。大震災にも影響を受けていない。
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熊野神社の境内に入ると、背後に鎮守の杜を控え、灯籠や絵馬の奉納が多く、富谷が宿場として栄えた古の繁栄を思い起こさせ、本殿も素晴らしい造りであった。
勧請年月は不詳だが、伝承によると古くは現社地の東方に鎮座していたといわれていて、元和4年(1618)伊達政宗公が当地へ宿場を開設したとき現在地へ遷座されたものと伝えられている。明治41年には日吉神社、雷光神社が合祀された。
街道は、熊野神社で右折していて、その少し先には、『恋路の坂』の木製の常夜灯が立っていた。この坂を上ると小規模の茶畑があるが、往時は一帯で茶が栽培され、富谷茶として知られていたという。
坂名のいわれは、女流歌人・原阿佐緒(はら あさお 1888-1969)と恋仲になった石原純(東北帝国大学教授が人目を避けて手に手にとって富ヶ岡公園に通ったとのエピソードがあるそうだ。常夜灯側面には「奥州路 恋路の坂や 茶の香り」と書かれており、裏面には、「我人を愛すれば、人もまた我を愛す」と書かれていた。
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左側に本陣跡があった。富谷宿は伊達仙台藩によって元和4年(1618)から仙台以北の奥州街道整備が始まると、七北田宿と吉岡宿の中間宿場が計画され、富谷村の中に富谷宿が新たに作られ、その建築には元黒川旧臣で帰農していた内ヶ崎筑後(のちに織部)が命じられた。
内ヶ崎織部は以後大肝煎りや本陣を務め、酒造業として今に続いている。
本陣の先には内ヶ崎酒造店があり、二代目作右衛門が寛文元年(1661)に創業して、今も営業している。地酒の「鳳陽(ほうよう)」は評判で、平成22年の新酒鑑評会では金賞を受賞している。  
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右側に内ヶ崎作三郎生誕地と書かれた門構えの家が見えてきた。内ヶ崎作三郎は、内ヶ崎宗家の分家、4代目作太郎の長男として明治9年(1876)に生まれ、第2高等学校在学中、吉野作造らと親交を重ねたあと、東京帝国大学を卒業してオックスフォード大へ留学し、早稲田大学の創立者大熊重信侯に懇請されて教授の任に就いた。大正13年(1924)衆議院議員に選ばれるや、政界でも頭角をあらわして副議長にまで栄進した。
街道左側にある「冨谷宿」と看板を掲げた店蔵がある。富谷宿の資料展示と、ふるさと物産店である。天保14年(1843)創業「佐忠」さんが、明治末期に呉服店として建てた土蔵を改修し、しんまちの資料館・地場産品販売所として開店した。なお、「冨谷宿」の「冨」という字は、お店に伝わる資料をもとに、宿場町時代の字を使用しているとのこと。
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右側に脇本陣跡が残っていた。脇本陣は、本陣に次ぐ格式が求められ、名望家の気仙屋が務めた。1876年と1881年の東北北海道行幸で明治天皇が御小休なされたこともあり、その部屋は現在も保存されているとのこと。
その先にも、富谷宿の旧家の建物が残されている。
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街道を進んで行くと、道は左にカーブし、その角に本陣を務めた内ヶ崎家の別邸がある。内ヶ崎酒造店の店主が明治時代の後期に作ったもので、この建物の裏には、回遊式庭園も造られている。
道を曲がると、西川という小さな流れがあり、架かっている御所橋を渡ると、富谷宿も終わりである。短い距離の宿場であったが、古い遺構がよく残っていた。
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広い道路に出て、すぐに西沢公園を右に見る小道に入って行くと、西沢溜池がある。
その後、1Kmほど進むと、「いぼ取り太子堂」と書かれた、祠がある。地名の由来になっている「聖徳太子」と刻まれた石塔 が祀られていて、供えてある小石でいぼを擦すれば、たちどころに消えるといわれ、治った人は石を2倍にして返す習慣があるとのこと。
その先の左手側には宮城交通の広いバスの駐車場があり、その後国道4号線に合流する。
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単調な国道歩きは、本当に疲れる。2Kmほど進んで、吉田川を高田橋で渡ると、ようやく大和町(たいわちょう)で、町名のモニュメントが見えてきた。
sendai_55.jpgそして、さらに1.5Kmほど進んで、旧奥州街道71番目の宿場・吉岡宿の入り口にたどり着いた。「なごみ」と看板のかかった派手な外観の居酒屋の角を曲がり、吉岡宿に入って行くと、すぐ右に浄土宗の九品寺があった。山門前には石仏が並んでいて、境内は静かで落ち着いた佇まいであった。
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吉岡宿の志田町の街並みである。そして、少し先の右手に、曹洞宗の宝珠山竜泉院がある。
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真っ直ぐ進んで丁字路で右折して、すぐに左折する。吉岡宿の桝形である。
ここからは、上町となる。上町は、本陣や検断屋敷があったところである。
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歴史的な遺構は、残っていないが宿場風の建家の酒屋が1軒目についた。
街道は、突き当たった丁字路で左折して続いているが、午後5時となり今日の宿泊ホテル(大和パークホテル)に急ぐべく左折して進み、チェックインした。
夕食には、まだ時間があるので、チェックイン後天皇寺を訪れることとした。
そもそも、吉岡宿は元和元年(1615)、伊達政宗の三男伊達宗清が3万8千石で吉岡城を築城、城下町として整備された。宗清は34歳で死去し天皇寺に葬られるが子がいなかった為、寛文2年(1662)から奥山氏、宝暦7年(1757)から但木氏が館主となり領地を統治した。又、吉岡宿は奥州街道の宿場町としても整備され、本陣や伝馬役など置かれる要地となり、奥州街道以外にも出羽街道など四方に枝道が広がる交通の要所として多くの物資が集められた。なお、天皇寺の門前には、宗清の墓所の表示杭とともに、飯坂の局(吉岡の局)の墓所の表示があるが、飯坂の局は、飯坂城主飯坂宗康の次女で、伊達政宗の側室で、宗清の養女であった人である。
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参道を進むと、山門は完全な茅葺きであった。中に入ると、鐘楼が大震災で崩れ落ちていた。
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本堂両脇の石燈籠も倒壊している。
これで、今日の行動は終にして、ホテルに戻った。

2011.06.04

国府多賀城跡と松島の旅・・・(旧奥州街道)

厳密には奥州街道歩きと関係ないが、仙台を訪れた機会に国府多賀城と松島にも足を延ばすことにした。
快適な目覚めで十分に疲労も回復して、ホテルの窓から東北本線を見下ろしながら、今日の行動の準備に取り掛かる。食事を済ませ、仙台駅に向かい東北本線で国府多賀城駅に向かう。
matsusima_01.jpgmatsusima_02.jpg多賀城歩行ルート
多賀城駅は、新しい橋上駅で、線路を跨ぐ通路は悠久ロマン回廊と銘打っている。
多賀城は、畿内の大和朝廷が蝦夷を制圧するため、軍事的拠点として蝦夷との境界となっていた松島丘陵の南東部分である塩釜丘陵上に設置したもので、創建は神亀元年(724)、按察使大野東人(あぜち おおのあずまびと)が築城したとされる。8世紀初めから10世紀半ばまで存続し、その間大きく4回の造営が行われている。
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下の写真の左側は、橋上駅から「館前遺跡」を見下ろしたものである。特別多賀城政庁と多賀城廃寺の中間にある小丘上に位置し、発掘調査の結果、6棟の建物跡が発見された。うち、中心となる1棟は、多賀城政庁正殿と同じ四面に廂(ひさし)の付く格調高いもので、多賀城に赴任した国司の館跡であったと推測されている。性格としては、多賀城の付属施設と考えられるが、多賀城の外郭の外にあることと、館の建つ丘の独立性が高いことから、別項扱いで特別史跡に指定されたものである。
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館前遺跡から外郭築地塀の跡を通り、小高い丘にある多賀城の南門跡方面に向かう。小高い丘を超えると、多賀城碑が覆い屋によって保護されている。多賀城碑は、群馬県の多胡碑(たごひ)、栃木県の那須国造碑(なすのくにのみやつこのひ)とともに日本三古碑のひとつに数えられており、平成10年6月30日に国の重要文化財(古文書)に指定された。また、この碑は「壺碑(つぼのいしぶみ)」とも呼ばれ、江戸時代初めの発見当初から歌枕「壺碑」と結びついて広く世に知られていた。松尾芭蕉も旅の途中にこの碑を訪れ、深い感動をもって対面した様子が「おくのほそ道」に記されている。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、覊旅(きりょ)の労をわすれて、泪も落つるばかりなり
「壷の碑」は、坂上田村麻呂が大きな石の表面に、矢の矢尻で文字を書いたとされる石碑で、行方不明となっており、ここの多賀城碑とは異なるが、芭蕉も曽良も完全に信じていたようである。
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碑文の、前半には京(平城京)、蝦夷国、常陸国、下野国、靺鞨国(まつかつのくに:中国東北部)から多賀城までの距離が記されていて、後半には、多賀城が神亀元年(724)大野朝臣東人(おおののあそんあずまひと)によって設置されたこと、天平宝字(てんぴょうほうじ)6年(762)藤原恵美朝臣朝カリ(ふじわらのえみのあそんあさかり)によって改修されたことが記されているとのこと。また、最後に天平宝字6年12月1日と碑の建立年月日が刻まれている。
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多賀城碑を後にして、多賀城政庁に向かうと、途中に多くの石仏が並んでいた。
そして、外郭南門から政庁にまっすぐに通じる大路の階段が見えてきた。自然石を用いた階段である。
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階段を上ると、政庁の模型が展示されていて、多賀城南門跡の礎石が復元されていた。
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進むと、政庁跡が一段と高くなって復元されていた。政庁前は、小さな石が敷き詰められた広場であったとのこと。
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政庁正殿を通り抜けると、後村上天皇御坐之碑(左側石碑)と明治天皇記念碑が並んで建っていた。後村上天皇は、建武元年(1334)多賀城で6歳にして義良親王となり、延元4年(1339)3月吉野に戻り皇太子なり、同年8月に父後醍醐天皇の譲位を受けて12歳で践祚(せんそ)した。践祚とは皇嗣(こうし)が天皇の位を継承することである。
さらに多賀城敷地内を北に進むと、多賀城神社が建っていた。昭和27年(1952)に創建された神社で、後村上天皇を始め北畠親房、北畠顕家、伊達行朝、結城宗広ら南朝の忠臣が祀られている。
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多賀城神社のところで右折して進むと、多賀城の最も北の地域の六月坂地区で、行政的な仕事を行う建物があったと考えられている場所である。
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六月坂地区を過ぎて、南方向に進み車の通りに出ると、その道路の南側に「あやめ園」がある。ここには、アヤメ、ハナショブなど250種200万本が植えられているそうだが、あやめ類は、古代からこの辺に自生する多年草で、古くは「多賀城古種」と言われる品種があったとのこと。
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あやめ園を過ぎて、国府多賀城駅に戻る途中に浮島神社がある。多賀城繁盛の頃の創建と伝えられ、平安時代の延久6年(1074)塩竈島海社と共に朝廷から深く崇敬され、承保年間(1074?77)には国守も詣でた名社だったとのこと。また、古来歌枕で歌われた場所でもあり、新古今和歌集で「塩竃の前に浮きたる浮島のうきて思ひのある世なりけり」と山口女王が詠っていて、当時は田圃の中に浮いている島のようだったのが想像される。さらに、鳥居の左側には、明治天皇が詠まれた「旅衣あさたつ袖をふきかへす松風すゞし浮島が原」の歌碑が立っている。
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浮島神社より、JR国府多賀城駅に戻ると駅前に扇畑忠雄の真新しい歌碑が立っていて「多賀城に 立ちて落日に 向かひけむ 家持をおもふ まぼろしの如 忠雄」と刻まれていた。
JR多賀城駅で、下り電車に乗り隣駅の「塩釜駅」に着いて歩いて仙石線の「西塩釜駅」に向かい、仙石線の下り電車を待つことにした。塩釜から西塩釜までは、1Km弱の距離である。
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電車の連絡が悪く、思ったより時間を要して、ようやく松島海岸駅に着いたところ、遊覧船がほどなく出港するというので乗ってみることにした。遊覧船乗り場までの街並みは、津波の影響を感じさせないほどに回復していたが、まだシャッターを閉めた店も多く見られた。
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観瀾亭(かんらんてい)松島博物館を回りこむ道を通り、見事な庭の樹木を眺めながら、波止場に向かう。
快適な遊覧船の乗り心地で、多くの島々をみることが出来たが、沖に出ると霧が出ており、肉眼では差し支えないが、写真撮影には厳しい状況であった。
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船着場から見た五大堂(左)と観瀾亭松島博物館(右)である。
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大津波でも何ら影響を受けることのない「かもめ」を眺めながら、五大堂の方に向かう。途中に日本三景(安芸の宮島、天橋立、松島)の碑が立っていた。
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五大堂の建つ島に行くには、3つの橋を渡る必要があるが、2つ目と3つ目の橋が、透かし橋となっていて、下の海面が見えるようになっている。五大堂への参詣には、身も心も乱れのないように脚下を良く照顧して、気を引き締めさせるための配慮だという。
五大堂は、大同2年(807)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、天長5年(828)慈覚大師円仁が延福寺(現在の瑞巌寺)を開基の際、五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになり、秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、33年に一度ずづご開帳されるようになった。
現在の建物は、 伊達政宗が慶長9年(1604)に創建したもので、桃山式建築手法の粋をつくして完工したもので、堂四面の蟇股にはその方位に対して十二支の彫刻を配している。
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次に、今日の主目的の瑞巌寺に向かう。門前のお店の並ぶ道を進み、山門を潜ると杉の大木の長い参道が続く。
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瑞巌寺は最後にゆっくりと見学したいので、突き当たってまず左方向に進むと、李登輝ご夫婦の歌碑が立っていた。
松島や 光と影の 眩しかり  李登輝
松島や ロマンささやく 夏の海   曾文恵
松島では、誰でも一句詠まなければならないらしい。それでは、私も、
松島や 津波乗り越え 初夏の海
そして、一番奥で五郎八姫の墓所のある、天麟院を訪れた。
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天麟院は、伊達政宗の正室・愛姫(めごひめ)との間に生まれた娘・五郎八姫(いろはひめ)の菩提寺で, 陽徳院、円通院と並んで松島の三霊廟に数えられている。お寺の奥に、「定照」の扁額が架かった仮霊廟がある。元々は霊廟だったが、明治に墓所が出来、それで仮となったという。五郎八姫は、徳川家康の6男,松平忠輝の正室であったが,忠輝は父である・家康に嫌われており、大阪夏の陣遅参等もあって、高田65万石を取り上げられたため、五郎八姫は離縁されて仙台へ戻り仏門に入った。政宗は不幸な娘に同情して娘の信仰生活を全面的に支援したといわれている。 なお、松島町富山の大仰寺には、出家時の五郎八姫の遺髪、仏舎利があり、門外不出の寺宝となっているとのこと。
五郎八姫の仮霊廟にお参りした後は、隣のお寺の円通院に向かった。写真右は、円通院の山門である。
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円通院は、伊達政宗の嫡孫(ちゃくそん)光宗の霊廟として、正保4年(1647)瑞巌寺第100世洞水和尚により開山されたもので、庭の美しさが際立っている。秋の紅葉も見事であろうが、今この季節の新緑も素晴らしく、心が洗われるようであった。
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新緑の庭を進んでゆくと、別名御霊屋(おたまや)とも呼ばれている三慧殿(さんけいでん)が、端正な姿を見せている。建物は宝形造、本瓦葺で、四周に高欄付の縁を巡らし、東北地方では数少ない 格式ある方三間霊屋の遺構であり、霊屋建築としては宮城県下最古とされ、3世紀半もの間秘蔵とされた国の重要文化財である。
三慧殿の正面階段を上ると、ガラスが嵌められていて、中の宮殿型厨子を見ることができる。逗子には19歳で亡くなった光宗公の馬上像と殉死した家来7人の像が祀られている。
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政宗の七男の宗高は政宗の七男で名君の誉れ高い武将であったが、京都で疱瘡にかかりこの世を去った。その時家臣10人が殉死し、ここに崖の岩を穿って配置された宗高塔を囲むように殉死者塔が立っている。
その後、山門の方に進んで行くと、樹齢700年以上のイチイ科の「おんこ」の木があり、その向こうに茅葺きの本堂である大悲亭が見えてきた。大悲亭は光宗君の江戸納涼の亭で、愛息の早逝を悼んだ忠宗公が解体移築したもので、寄棟造萱葺の瀟洒な姿は、禅寺らしい落ち着いた佇まいを見せている。
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本堂では、数珠作り教室が開かれており、また、その前には、小堀遠州作の心字池と観音菩薩が住む補陀落山を中心にした庭園がある。約350年前に作られたとのこと。
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円通院を出て、最後にゆっくりと見学しようと取っておいた、瑞巌寺前に引き返す。
入り口で入場料を払い、左手側の法身屈に進む。多くの岩窟の中で唯一、名前が付けられている岩窟で、鎌倉時代半ばに法身禅師と執権北条時頼が出会ったといわれいる。また、京都の南禅寺・西芳寺・天竜寺などの開山で有名な夢窓国師がここを訪れた時、誰もいないはずの窟の中から、天台止観(天台宗の瞑想修行法の1つ)を講ずる声が聞こえてきたという。両側に立つ2基の石碑は左側が鎮海観音、右側は楊柳観音と呼ばれ、原画はともに塩竃出身の画家小池曲江の制作である。
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一方、右手側に進むと、大きな鰻塚の石碑が見える。大正12年8月16日に建立され、同年9月13日に開眼法要が行われた。当時松島では天然鰻がたくさん獲れたことから、北海道から東京までの蒲焼店や卸問屋の関係者の方の寄付金2,565円で建立に至ったとのこと。
その奥にには、岩窟が延々と続いているのが見えるが、大災害の影響で土砂崩れの恐れから立ち入り禁止となっていた。
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進んで行くと、瑞巌寺庫裡がある。国宝で桁行23.6m、梁間13.8m、1重、切妻造、妻入、本瓦葺、玄関及び北面庇二ケ所からなる。本堂とともに慶長14年、伊達政宗によって建てられた。妻飾は梁と束で組上げ、海老紅梁や笈型で飾るなど、この種の禅宗庫裏建築の中でも最も美しいとされる。大きな切妻造の屋根の上に、入母屋の煙出しをのせているのが特徴である。
庫裏は、公開されていて電子プリントによる複製の襖絵などが見られる他、後ろの書院で伊達家歴代の位牌なども見ることが出来た。しかし、左奥の本堂は、修復中でシートで覆われていた。
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伊達政宗公の正室、陽徳院愛姫の霊廟である陽徳院が本堂改修中の代わりとして、特別公開されていた。陽徳院への通路は、松島独特の岩窟のように岩を繰り抜き作られていて、美しく苔で覆われていた。
霊廟は、撮影禁止であったが、万冶3年(1660)に孫にあたる綱宗によって造営されたものを、創建当初の豪華絢爛な姿に復元すべく平成18年から3年の月日を費やし、黒漆で外面すべてを塗り浅唐戸や蟇股は金や極彩色に彩り、失われていた飾り金具も復元したという。
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瑞巌寺を後にして、JR東北本線の松島駅に向かった。途中で復興支援隊と書かれた車が止まっていて、何か活動を行っているようであった。
その後、レストランで昼食を摂り、松島駅に向かい、仙台駅経由で帰宅の途についた。
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2011.06.03

館腰から仙台・・・(旧奥州街道)

本日の万歩計36,294(23.6Km)

今日で、白河から続く仙台街道を終了しました
東日本大震災で中断していた奥州街道歩きを再開した。
東京6:12発のやまびこで仙台に向かい、仙台から館腰駅に常磐線で戻って8:54に到着した。
駅から、街道に復帰して館腰神社参道脇に立つ奥州路の道標を見て歩き始める。
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少し進んで、左折して雷神古墳脇を流れる水路に沿って設けられた、名取中学校までの2kmの遊歩道を進むこととした。この遊歩道の左側が、雷神山古墳で、東北地方最大規模の前方後円墳で、長さ168m、後円の径が96mとのこと。出土品や立地、築造方法から、4世紀後半から5世紀前半と推定され、名称は、頂上部に雷神を祀った祠があったことから名付けられたとのこと。
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中間を過ぎた辺りに「親水公園」の案内板が立っていて、整備されて小公園となっていた。
ここから名取市飯野坂となり、更に進むと左に薬師古墳の上り階段があり、登り口の左右には多くの石仏、石碑が立っていた。案内板によれば、名取が丘の丘陵東端には、全長40m?50m規模の前方後方墳5基(宮山古墳、観音塚古墳、山居古墳、山居北古墳、薬師堂古墳)と、全長約14m規模の方墳2基(観音塚1,2号墳)からなる飯野坂古墳群があり、この中で一番東側の薬師堂古墳が全長66mの前方後方墳で、飯野坂古墳群最大の規模とのこと。また、築造年代は、形態、出土埴輪の破片から4?5世紀と推定されるとのこと。
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すぐ右を走る旧街道に出ると、浄土真宗の明観寺がある。江戸時代には、付近に館腰一里塚があったというが、今は形跡すら見いだせない。遊歩道に戻り、名取一中の手前で旧街道に戻って進むと、東北本線の踏切がある。奥州街道(飯野坂)踏切である。
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奥州街道踏切を渡ると、すぐに増田川を渡る。橋の上には、仙台空港線(平成19年開通)の新しい高架線が見える。仙台空港も津波の被害を受け破壊されたが、米軍の支援で滑走路は短期に復旧し、災害地域への物資輸送に大いに役立った。
そして、増田橋を渡って、増田宿に入って行く。
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事前に調べて、江戸時代中頃の創業の鶴見屋の明治10年ころに建造されたという2階建のなまこ壁土蔵を見ることを期待していたが、大地震の被害を受け、ブルーシートに覆われて修復中であった。
鶴見屋は、現在でも食品やガソリン、灯油等の販売を行なっているとのこと。
そしてすぐ先には、街道左側の旧家の庄司氏宅がある。門より中をの覗かせてもらうと、庭に「明治天皇増田御膳水」の石碑が建っていた。明治9年と14年の東北巡幸の際に井戸の水を献じたとのこと。
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この辺りは、歴史的な遺構が集中している。すぐ先に増田公民館があり、その前に名取市指定天然記念物の樹齢数百年の大傘の松(アカマツ)がある。ここは、名取郡の北方検断を務めた菊池家屋敷跡で、明治9年、明治天皇東北巡幸の折、ここに立ち寄られ随行した木戸孝充が詠んだ歌
大君の 立寄りましし 陰なれば 衣笠の松とこそ いうなかりけり」から、衣笠の松と命名したとのことである。
その先の左手には、増田神社がある。増田神社は、文安年中(1444?48)に南朝の忠臣菊池武光の一族菊池豊後が奥州に下向し、居をこの地に定めた時、豊後は大和国の生まれだったことから同国城上郡笠山の社より分霊。その後、永正年中(1504?20)菊池左馬介の代に現在地に奉遷。藩政時代には笠山大荒神と称したが、明治の初めに笠山神社と改称、明治42年手倉田の諏訪神社、田高の神明社、上余田の天神社・琴平神社、手倉田堰根の玉嶋神社を合祀し、社号を増田神社と改称した。その後も同44年、下余田の鹿島神社を合祀し、北町区、手倉田区、田高区、上余田区、下余田区の氏神として厚く崇敬され今日に至っている。
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進むと、名取駅前の交差点で、左に整備された駅前通りが続いていた。左の写真は、この近辺の街道の様相である。
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進むと、名取市上余田(かみようでん)の標識が立っていて、東京から343Kmとなっていた。奥州街道はまだまだ続く。なお、余田(ようでん)とは荘園制で、土地台帳に載せられていない田で一般に地利が低く、地子(じし)は納めるが公事(くじ)は負担しない田を言う。
2Kmほど進むと、左の小道を入ったところに天満宮がある。ここの境内は、天神塚古墳で、南北30m、東西26m、高さ2.8mの方墳で、壺形埴輪・土師器等が発掘されていて、推定4?5世紀の建造とのこと。
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天満宮に対する案内はなく、勧請年月・縁起・沿革等は全て不明であるが、境内には石塔群が並べられていた。
そして、街道に復帰して、左に「南仙台駅」を見て先に進んで行く。ここは中田宿で、大正14年の開業当時は「陸前中田駅」と呼んでいたが、仙台の大発展の余波で駅名を変えたのであろう。
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1Kmほど進むと、名取川である。上流方向には、手前に東北本線、向こう側に東北新幹線の鉄橋が見える。東北本線の鉄橋は、先の大震災で傷みが生じたのか、補強工事がなされたように見える。
その先で、小さな流れの旧笊川を渡る。河川敷は草で覆われている。丘陵部の水に依存する笊川は、降雨による水量の変動が大きく、降れば降っただけ流れ、すぐに涸れてしまうので、川名が「ざるがわ」となったとのこと。なお、古くは座留川と書かれていたようである。
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また、1Kmほど進むと2007年開業の新しい駅舎の「太子堂駅」がある。「太子堂」は現存しないが、現在の地名である「太子堂」にちなんで付けられたという。
太子堂駅の脇で東北本線に対して、左側に抜けて進むと、やはり1Kmほどで右側に長町駅が見えてくる。この辺りは、新しく整備され広い歩道で綺麗な通りとなっている。ちょうどお昼時にさしかかったので、ここで昼食をとり、小休止した。
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昼食を済ませて進んでゆくと、広瀬橋の手前の左側に十八夜観音堂がある。名取三観音の一体である裏木観音を安置したもので、観音堂は康平7年(1064)天台宗の般若坊主達によって開かれ、もとは鏡ヶ池の前から大年寺門へ通じる北側で、今も枝垂桜の老樹のある所にあった。現在の堂宇は寛政元年(1789)に建てられたもので、明治に長町に大火があり「これは長町の通りが鬼門に当たっているからだ」といわれて移されたとのこと。
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広瀬橋の左袂に、橋姫明神社がある。昔、この地にはじめて橋を架けることになった時に雨が降り続いて川が氾濫。これを鎮めるために根岸の長者の一人娘・愛姫が人柱になったという悲しい伝説があり、その愛姫を橋姫として祀ったという。明治42年に架けられた橋で日本で最初のコンクリート橋と道路標識に書かれていた。
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広瀬橋から上流を見ると、仙台市街の建物が望見される。
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広瀬橋を渡って最初に入って行くのは河原町で、細い路地のような道路を辿ってゆく。河原町の交差点で、少し広い道路に出て進み、右折して南材木町に入ろうとすると、その角に天明元年(1781)に建てられた旧丸木商店(薬種業)の店蔵がある。仙台最古の建物で、市の景観重要建造物に指定されている。
その先にも、針生(はりう)家の見事ななまこ壁の建物がある。針生は針惣(はりそう)旅館を営んでいて、地主で河原町入り口の木戸の鍵番を務めていたとのこと。
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針惣屋敷隣の金刀比羅宮は、もともと針惣の屋敷神として祀られていたが、明治になって荒廃していた。その後、昭和23年(1948)町内有志により再興されたとのこと。
その先で道路は桝形となって続いて行く。
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桝形を抜けると、穀町(こくまち)に入る。ここの石の標柱には「穀町、畳屋丁」と刻まれていた。真っ直ぐ進んで突き当たったところに、三宝荒神社がある。鍛冶職人の住む南鍛冶町の火伏せの神として建立され、火伏せの樹木としてイチョウが植えられた。現存のイチョウは樹齢320年、樹高21mである。通常公孫樹は雌雄異株だが、ここのイチョウは雄株にもかかわらず実を結ぶと不思議がられていたが、後に雄株に雌株が接木されていたことが分かったのだという。
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三宝荒神社の境内には、耳権現さまがある。説明文によれば、御奉像は、720年前元寇の役に出陣した勇士の慰霊を供養したと思われる正応3年(1291)と刻名のある自然石で出来た卒塔婆で、古くは、荒町の仙性院という修験道場境内に安置されていたものを、後になってここに堂宇を建て遷座された。耳患いで苦慮していた旅の修験者の夢枕に権現様が現れ、言われたまま修行場にあった卒塔婆に祈ったところ見事に完治したので、そのご利益に感涙し、益々修行を積み、人に教え多くの耳患いの人々を助けたとのこと。
南鍛冶町の広い通りを進んでゆくと、右手に泰心院がある。創建は永禄10年(1567)に伊達14世稙宗夫人の菩提を弔う為に、伊達晴宗が米沢に堂宇を建立したのが始まりで、その後、奥州仕置きで政宗が岩出山に移封されると随行し、仙台開府と共に現地へ移された。泰心院の山門は旧藩校養賢堂正門(仙台市指定有形文化財)を移築したものとのこと。
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更に進むと、右側に毘沙門堂がある。「毘沙門堂は、寛永20年(1643)の造営とされているが、唐門の建築年代については、様式手法から江戸時代中期と推定されている。安置されている毘沙門天は藤原秀衡が運慶につくらせたと伝えられてる。
次に道路左側に仏眼寺が現れる。日蓮正宗(しょうしゅう)のお寺で嘉元3年(1305)に創建され、祈祷で政宗の病気を治した功で米沢に呼ばれ,以後岩出山、仙台と移った由である。初め上染師町にあったが寛永13年(1636)に火事で焼け、現在地に移った。3代藩主綱宗の側室,椙原品(すぎはらしな)の墓がある。
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国道4号線を北町交差点で渡り、左折して北目町に入って行くと、右側に二十三夜堂がある。
別当は天台宗北目山賢聖院(けんしょういん)で、延久元年(1069)北目(現在の仙台市太白区郡山)に創建され,その後荒廃したが,康暦2年(1389)北目館主藤原宗房の祈願により中興再建された。その後、慶長年間(166?1615頃)に伊達政宗が当地に移建している。午年生まれの守本尊「勢至菩薩」が祀られている。この二十三夜堂という名称は、月の化現である勢至菩薩の月縁日が23日であり,この夜に人々が集まって飲食をしながら月の出を待つ講(二十三夜講)を行ったことに起因する。
道路の左側を見ると、東北大学片平キャンパスに接して、通りからは玄関の赤い柱がよく目立つユニークな外観の建物がある。仙台の華僑会館である。
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北目町の交差点を直進し、丁字路にぶつかると、大日如来堂がある。柳町通りの名が残るこの辺りは、藩政時代のお茶屋の町で、伊達家が米沢領だった時代からの譜代町であった。
伊達政宗が仙台に城下町を造り出した慶長6年(1601)、大手門近くに町を構えたが、繁華街から離れていた為、都合が悪く、寛永4年(1727)に現在の地に移転。藩から茶の専売権を与えられていたそうである。
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終に、芭蕉の辻の交差点である。交差点の右前方には、日銀の仙台支店のビルがある。
左前方の明治安田生命仙台ビルの前に、芭蕉の辻のモニュメントと奥州街道の里程標が立っている。江戸時代に仙台の城下町の中心であった十字路であり、現在の仙台市青葉区に位置し、宮城県の道路元標(里程元標)が設置されている。
芭蕉の名の由来は、松尾芭蕉とは関係なく、伊達政宗のスパイとして働き、恩賞として辻の四隅の建物を授かった芭蕉という名の虚無僧が住んでいたからと、『封内山海名蹟記』に記されているという。
なお、里程標には、「南 江戸日本橋迄 六十九次九十三里、奥州街道」、「北 津軽三厩迄 四十五次百七里二十二丁」と刻まれていて、日本橋まで約366Km、三厩までは423Kmで、まだまだ先の方が遠いが、ともかく白河から続く仙台街道は歩き終えたことになる。
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仙台街道を歩き終えても、青葉城を訪ねずば、画竜点睛を欠くとばかりに、大町(おおまち)通りを青葉城の大手門に向かって歩いて行った。広瀬川に架かる大橋に達すると、橋の袂の右に林の中に降りる階段があり、降りてゆくと、仙台キリシタン殉教碑が建っていた。
1624(寛永元)年、ポルトガル人宣教師のカルバリオ神父をはじめとする9人のキリシタンが、
2月の厳寒期に広瀬川で、胸まで浸かる姿勢で杭に縛られるという水責めの拷問を受け、殉教した。残酷な歴史に翻弄されたキリシタン達を忘れることのない様に、1971(昭和46)年にこの像が建てられた。写真の真ん中の像がカルバリオ神父で。右の農民像と左の武士像で殉教者たちを象徴したのだそうである。
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下の2枚の写真は、下から見上げた大橋と、大橋から広瀬川の上流方向を写したものである。
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大橋を渡ると右側に、仙台国際センターの名で呼ばれる立派な外観のコンベンションセンターがある。その左手先は、三の丸堀跡である。
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さらに、緩やかな上り坂を登って行くと、再建された脇櫓があり、この先で左折して青葉城跡に進めるはずであったが、東日本大震災で、石垣も一部崩れていて残念ながら立ち入り禁止になっていた。
道路の反対側には、支倉 常長(はせくら つねなが)の銅像が建っていた。
支倉常長は伊達政宗の命を受け、スペイン人のフランシスコ会宣教師ルイス・ソテロ(Luis Sotelo)を正使に自分は副使となり、遣欧使節として通商交渉を目的に180人余を引き連れスペインを経てローマに赴くことになった。石巻で建造したガレオン船サン・フアン・バウティスタ号で慶長18年9月15日(1613年10月28日)に月ノ浦を出帆し、太平洋、メキシコ、大西洋経由で元和元年(1615)にマドリードに到着し、スペイン国王フィリップ3世に謁見、当地でキリスト教の洗礼を受けた人物である。その後ローマで教皇パウロ5世に謁見して、ローマ市民権や貴族の称号を与えられたが、スペインとの通商交渉は成功せず、元和6年8月24日(1620)に帰国した。しかも、支倉 常長が出国の後には、キリスト教環境は悪化して、帰国した2年後に元和8年(1622)に失意の内に52歳の生涯を閉じている。
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まだ、2時過ぎであるが、久々の歩行で疲れ、国際センター前から仙台駅前までバスに乗った。ホテルにチェックインして、シャワーを浴びて生き返り、今晩会うことを約束していた、友人夫婦に電話した。その後は、ご夫婦と午後4時半に仙台駅近くで落ちあい、美味い料理と楽しいおしゃべりの良い時を過ごせました。本当に楽しかった!!

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