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2011.03.31

虎ノ門から武蔵中原駅・・・(旧中原街道)

本日の万歩計38,981(25.3Km)・・・武蔵中原まで

昨年の10月19日に奥州街道の岩沼宿まで歩いて以来の久しぶりの更新である。
あと、2回で仙台市街に着くところであったが、東日本大震災で行くことが叶わなくなった。しかし、医学的な見地からも体を動かすことが求められていることから、大震災の影響も考慮して、あまり遠くの地域は避け、東京の虎ノ門から平塚市中原に至る「中原街道」を歩くことにした。
この道は、伊勢新九郎盛時(北条早雲)に始まる後北条氏が小田原に居城を構え、軍用道路として用いていたとされ、天正18年(1590)徳川家康が関東移封で江戸城へ入城する際利用したといわれている。その後も、駿府との往復や鷹狩に利用され、現在の武蔵中原の地に中原御殿を築いたりしている。
通勤の人々で溢れる地下鉄駅から場違いな服装と思える姿で、虎ノ門の交差点に出て桜田通りを南に向かって歩き始める。
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歩き始めて、少し先の左に「金刀比羅宮」がある。讃岐の西部に位置する丸亀藩(藩主は京極氏)の藩邸内に四国の金刀比羅宮から勧請して創建されたもので、当初藩邸は三田にあったが、延宝7年(1679)に藩邸の移転と共に現在地に移った。参道は完全にビルに取り込まれていて、周囲も高いビルが取り囲んでいる。
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金刀比羅宮を過ぎて進むと、左に愛宕山があるが、高いビルに阻まれてなかなか見えてこない。何時も通る桜田通りの右に並行している古い通りに入ってすすむと、榮閑寺があり、山門の前に「杉田玄白墓」の石碑が立っている。定年前の数年間の職場が、ここからさほど遠くない場所であったが、ここに「解体新書」で名高い「杉田玄白」が眠っているとは知らなかった。山門の中でお掃除をしている、住職の奥様とおぼしき婦人に墓の場所をお聞きし、お参りした。帰りがけに、有名な杉田玄白の墓のあることを、もう少し皆さんに知ってもらうようにしたらと、婦人に話しかけると、なにしろ小さなお寺ですからとおっしゃっていた。
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愛宕山の下を通るトンネルは何度もくぐったことはあるが、愛宕神社にはお参りしたことはなかったので、トンネル手前の細い階段を登って行った。ここが、講談で有名な「曲垣平九郎」が馬で急な階段を上り、将軍家光に手折った梅の枝を献上したところである。境内には、「平九郎手折りの梅」と立て札のある梅の古木もある。正面階段の階段を上から覗き込むと、流石に急である。手すりがないと昇り降りも出来なさそうに見える。
曲垣平九郎が実在の人物であったかどうかは定かでないが、今までに10人の人が騎乗での昇り降りに挑戦しているというから驚きである。なかでも1925年11月8日に、陸軍参謀本部の馬丁であった岩木利夫の挑戦が、放送を開始したばかりのNHKが本邦初の実況中継をして話題になったとのこと。なお、岩木利夫は、かわいがっていた8歳のサラブレッド「平形」が廃馬にされてしまうということを耳にして、「この馬の真価を天下に知らせたい」と石段上りを決行したと言われていて、この話は”美談”として参謀総長から昭和天皇にも伝えられた。結果「平形」は廃用を免れ、騎兵学校の将校用乗馬に転用され天寿を全うしたと伝えられているそうである。
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急峻な正面階段に恐れをなした訳ではないが、NHKの放送博物館も写真に収めておこうと、そちらに歩いて行った。ここで、近くの事務所で仕事を続けている会社の先輩から、ノートPCの調子が悪いので見てくれないかと電話があり、2時間ほど街道歩きを中断した。
街道歩きを再開して進むと、ビルの谷間に東京タワーが見える。大地震で先端部分が折れ曲がっていたが、ワイヤーで引っ張るなどして固定し修復したようである。
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左に進めば、東京タワー、右にはロシア大使館の飯倉交差点を通って、赤羽橋に進む。
2級河川の古川は、新宿御苑から流れて東京湾に注ぐが、姿を表すのは渋谷からである。しかし、上を首都高速が走り存在感の低い河川となっている。渡ったところに、古い親柱が立っていたが、サラリーマン風の紳士と警官が何かを盛んに話し合っていた。
500mほど進むと右手に春日神社の石段が見えてくる。春日神社の由緒は古く、天徳2年(958)武蔵国の国司として藤原正房卿が着任したとき、藤原氏ならびに皇室外戚の氏神の大和国春日社第三殿に祀る天児屋根命(あめのこやねのみこと)の御神霊を勧請したのが始まりという。
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その先に改修した慶応義塾大学の東門が美しい姿を見せている。 三田2丁目の交差点を通り過ぎ、もう一つ先の三田三丁目の信号を右斜めに進むと、だらだらの上り坂となる。聖坂である。中原街道は古代中世の街道で、商人を兼ねた高野山の僧(高野聖)が開いたとも言われ、ここは高野聖達の宿所があったことから聖坂と呼ばれている。この辺りは江戸時代の東海道に平行した台地上にあり、中世には往来が盛んであったという。
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聖坂の途中の右手に小さな「亀塚神社」がある。境内に港区最古(文永3年:1266)の板碑がある。その先には、クェート大使館が偉容を誇るように建っている。
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聖坂を上り詰めると、右側に「幽霊坂」の表示柱が立っている。右折して坂を下って行くと、左手に「玉鳳寺」があり、山門脇に「御化粧延命地蔵」が安置されている。かつて同寺が京橋八丁堀にあったころ中興の住職宗逸が地蔵橋に放置されていた地蔵を修復して化粧したところ和尚の顔のアザが消えたことから、人びとも病気をもつ部分に白粉を塗って祈願するようになったという。なお、「幽霊坂」の呼び名は、江戸時代に坂道の両側にお寺が並び、寂しい雰囲気であったことから名付けられたもので、当時は、江戸に7箇所も幽霊坂と呼ばれる場所があったという。
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幽霊坂を下りて、桜田通りにぶつかり、左折して少し進むと、長松寺があり「史跡 荻生徂徠墓」の石碑が立っている。山門をくぐって、本堂の左側から墓地に入って行くと隷書体で「徂徠物先生之墓」と刻まれている墓石がある。
荻生徂徠(寛文6年:1666 – 享保13年:1728)は、江戸中期の儒学者で柳沢吉保に見出されて仕えたが、吉保失脚の後は、柳沢邸を出て日本橋茅場町に居を移し、そこで私塾蘐園塾を開き徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を形成するに至る。また,享保7年(1722)以後は8代将軍・徳川吉宗の信任を得て、その諮問にあずかった。
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街道に戻って進む。この辺りは伊皿子(いさらご)坂で、伊皿子の交差点を渡って更に進むと、右手に羊羹で有名な「とらや」の古い建物が見えてくる。なお、虎屋は室町年間に京都で創業されていて、御所の御用を承っていた。
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「とらや」から200mほど先の、道路の左側に「承教寺」があり、「英一蝶の墓」と、「二本榎の碑」がある。山門には、お寺にもかかわらず狛犬があるのは、明治維新の神仏分離までは寺と神社が同じ場所にあったことによると思うが、特徴のある風貌を見せている。「英一蝶」は、将軍綱吉の放縦な生活を風刺したために、三宅島に遠島となったといわれているが、本当のところはよくわかっていない。また、俳句にも造詣が深く、芭蕉の弟子達との交流があったという。
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江戸時代に、東海道を日本橋から出発して進むと、品川宿の手前で右側に小高い丘が見えてきて、「高縄手」と呼んでいた。そして、そこのお寺に二本の大木の榎があるのが見え、旅人のよき目印になっていて、誰言うとなく二本榎と呼ばれていたという。その後、木が枯れても二本榎の地名として残ったとのこと。
高輪警察署前の交差点を過ぎると、左側に高野山東京別院がある。江戸時代における高野山学侶方の江戸在番所として慶長年間(1596年?1615年)に浅草日輪寺に寄留して開創された。
その後、明暦元年(1655)に幕府より芝二本榎に土地が下賜され、延宝元年(1673)高野山江戸在番所高野寺として完成したものである。広い境内であるが、地下には東京電力の変電所があるとのこと。
その先の高輪三丁目の交差点で右折して、国道1号線に合流して坂を下って行く。相生坂と呼ばれている坂である。左にビルの中に収まった「雉子神社」がある。文明年間(1469-1487)の創立で、将軍家光がこの地に鷹狩りに来た時、一羽の白雉がこの神社に飛び入ったのを見て「以後雉子宮と称すべし」と神社称号を授けたという。祀神は、 日本武尊(やまとたけるのみこと)、天手力雄命(あめのたちからおのみこと)、大山祗命(おおやまつみのみこと)である。
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「五反田駅」の構内を通りぬけ、目黒川を渡る。川面に映る桜を見られるのももうすぐだ。首都高2号目黒線をくぐって、「ルートイン五反田」の右側から旧道に入って行く。道は緩やかな上り坂となっていて、少し先には道端に「子別れ地蔵」が立っている。説明板によれば、享保12年(1727)に建てられた地蔵で、ここは、かつて桐ヶ谷の火葬場に続く道筋で、子に先立たれた親が、その亡骸を見送った場所であったという。今も桐ヶ谷は、火葬場として知られているそうで、江戸時代からの歴史があることになる。今回の大震災でも、親を失った子供、子供を失った親が思い起こされ、しんみりとした気分にさせられる。
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進むと、左手の小マンションの入り口脇に「品川区指定有形民俗文化財旧中原街道供養塔群-1」がある。地蔵菩薩立像2基と馬頭観世音、聖観音立像が安置されている。
更に進むと、「品川区指定有形民俗文化財旧中原街道供養塔群-2」がある。子育て地蔵、庚申塔など6基が庇の中に安置されている。
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雨が降ってきて、東急大井町線の旗の台あたりで切り上げようかと思いながら、先を急いだ。途中、ビルの軒下で休みながら進むと幸いにも雨は小降りなってきたので、一気に洗足池まで進んだ。洗足池の右横の小道を入って行くと、大田区立洗足池図書館が建っていた。立派な図書館である。
先に進むと、「妙福寺」の山門があり、くぐると本堂の左手、洗足池湖畔に「御袈裟懸松」と刻まれた石標と松がある。弘安5年(1282)9月、日蓮上人が身延山から常陸国に湯治に向かう途中、池上本門寺を訪れる前、千束池の畔で休息し、傍らの松に袈裟を掛け、池の水で足を洗ったと伝えられる。この言い伝えから袈裟掛けの松と称するようになり、洗足池と称されるようになったという。
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更に先に進む。左手は洗足池公園の広場となっていて、遊具も設置されており、子供の遊び場となっていた。その右手には、洗足池を愛し、湖畔に別荘を構えていた勝海舟が西郷隆盛の死を悼み、西郷隆盛の漢詩を建碑、さらに留魂祠を建立している。

獄中感あり」 西郷南洲作
朝に恩遇を蒙り夕に焚.せらる 人生の浮沈は晦明に似たり
縦え光を回らさずとも葵は日に向う 若し運を開く無くとも意は誠を推さむ
洛陽の知己皆鬼となり 南嶼の俘囚独り生を竊む
生死何ぞ疑わむ天の附与なるを 願わくは魂魄を留めて皇城を護らむ

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そして、その右隣には、勝海舟夫妻の墓所もある。昭和28年に改葬されたものとのこと。
たしかに、洗足池は、都会の真ん中にあって広くて、自然が豊かで、落ち着いた憩いの空間となっている。また、毎年5月頃、人間国宝の笛の催し「春宵の響き」が行われるそうである。
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洗足池を後にして、石川台の信号を過ぎた直ぐの「呑川(のみかわ、のみがわ)」に大田区文化財の「石橋供養塔」が建っている。 安永3年(1774)、地元の人が石橋の安奉を祈って建立したものとのことで、既にこの時代に石橋が架けられていたことが分かる。それにしても、橋に供養塔は初めて目にしたが、万物全てに神が宿るという日本の古来からの精神文化を表しているように思える。
その後、東急池上線の「雪が谷大塚駅」の脇を通り、田園調布警察前で環八通りにぶつかり、ここから旧道に入って、多摩川方面に進む。この先は、桜坂の名のかなり急な坂道になっていて、歩道は両側に車道を見下ろすように作られている。
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歩道は途中で終わるが、最後は車道に架かった赤い橋で左右が合わさり、スロープで車道に合流している。橋から眺めると、車道の両側には桜の木が植えられていて、桜の季節は見事な景観となることが想像できる。
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坂を下りきると、多摩川駅と蒲田駅を結ぶ東急多摩川線を「沼部駅」脇で渡り、ようやく多摩川の堤防に到達する。昔は、この辺りに多摩川の渡しがあった筈であるが、今はその面影は無い。
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多摩川対岸には、最近になって急速に高層ビルが立ち始めた小杉駅方面が見える。
そして、少し上流に架かる丸子橋を渡ることになる。歩道も立派である。
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丸子橋を渡り、堤防に沿って下流に50mほど進んで、児童交通公園入口から多摩川に直角に伸びている、旧道を進み、東急東横線のガードをくぐる。
進んでゆくと、右側に旧原家跡がある。本宅の建家は川崎市立日本民家園に移設され、比較的新しい塀と門が残されているようである。
次に現れたのは、名主であった安藤家の重厚な長屋門である。安藤家の先祖は後北条氏の家臣であったという。
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次は「石橋醤油店」である。「石橋醤油店」は明治3年にこの中原の地でキッコー文山の商標で醤油作りを始め、昭和24年に操業を終えるまで大樽を据えた醸造工場や蔵が建ち並び活況を呈したという。
その先では道路が今もクランク型に曲がっている。車に乗っていると腹立たしいと思うが、細くて歩道もない道路で、歩行者にとっても難所である。
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クランクの最初の曲りの角には「徳川将軍小杉御殿跡」の石碑と説明図が立っていた。
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クランクを曲がらずに真っ直ぐ進むと、西明寺である。明治6年に「小杉学舎」が本堂を借りて誕生したところとのこと。
危険なクランク型の道路を通りすぎて進むと、供養塔がある。台座に「東江戸 西中原」と刻まれ、側面には「小杉駅」の文字もあり、小杉が宿駅であったことと中原街道が江戸と中原(平塚)とを結ぶ道であったことを示している。
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歩道もない細い道が続く。府中街道と交わる「小杉十字路」の交差点でようやく、歩道のある道路となった。
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かつて近隣の農地を潤した二ヶ領用水を渡ると「泉沢寺」がある。泉沢寺は吉良氏の菩提寺で、世田谷の烏山にあったのが焼失したため、天文19年(1550)、上小田中(かみこだなか)のこの地に再建されたとのこと。
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後は、ひたすら「武蔵中原駅」を目指す。サラリーマン生活の大半の期間に乗り降りをした駅である。駅も線路が高架になってから全く姿を変えてしまい、付近には多くのお店も開かれることとなった。時計を見ると、時刻は5時15分で、あと30分もすれば通勤客で賑わうはずである。


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