2007.06.02

江尻から藤枝(2)・・・(旧東海道)

丁子屋(ちょうじや)を出て、丸子川を渡ると、直ぐに「高札場」が復元されていた。古い掲示内容と新しく書き直したのを合わせて掲示しているので、賑やかだ。
その後は、民家もまばらな街道を歩いて行くことになるが、こう言う場所にもラブホテルが数軒建っていたのは興ざめだ。やがて国道1号に合流し、その後も部分的に分離したり合流したりを繰り返しながら進んで行く。
やがて、「道の駅」に到達するが、そこからは、国道1号線の上りと下りの2つのトンネルの入り口が見える。
国道は元々は昭和34年に作られたトンネル1本であったが、増大する交通量に対応するため、平成10年にもう一本のトンネルが作られ、下り線専用とし、以前の昭和トンネルは上り専用とした。
mariko_023.jpgmariko_024.jpgmariko_025.jpg 平成と昭和のトンネルの直前で国道から右に逸れる道路があるので、これを進み大きく左にカーブする道なりに進んで行くと、県道と旧東海道が分かれる地点に達する。
ここには、「ようこそ、宇津ノ谷へ」で始まる大きな案内板が建っており、綺麗に整備された旧東海道へ誘ってくれる。
落ち着いた集落の道を上って行くと、秀吉からもらった「羽織」を保存している「御羽織屋」がある。
上がりこんで秀吉の羽織を見せていただいた。相当に歳を取られたおばあさんが、顛末を話してくれる。
既に知っていた話であったのだが、秀吉公から馬の草鞋を所望されて、当家の主人は草鞋を3脚分差し出した。なぜ3脚分かと聞かれて、後はお帰りに差し上げますと申し上げた。帰りを約束するのは勝利を前提にしている。また「あの山は?」と聞かれて「勝ち山」、「あの木は?」と聞かれて「勝栗」と、縁起の良い答えを連発して、秀吉公はいたくお喜びになり、北条との戦に勝利した帰りにもお立ち寄りになり、礼にと着用の陣羽織を拝領した。と言うものであった。
羽織は、ここを通る大名達も着てみたがり、ボロボロになってしまっていたが、博物館に出展したときに修復してくれたのだという。
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集落の道は、最後には階段になっている。ここを上りきると、旧東海道と宇津ノ谷トンネル(明治のトンネル)への分かれ道(丁字路)に行き着く。
ここで、旧東海道を進む前に「明治のトンネル」に寄って見ることにした。
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明治のトンネルは、明治9年に作られたが、その後ガス灯の失火で崩落し、明治34年に再度整備されたものだとのこと。トンネルは内部にはガス灯を擬したライトが点いていて、明るい感じであったが、足を踏み入れるとライトとライトの中間付近では足元も良く見えないほどで、少々緊張する。
mariko_029.jpgmariko_030.jpgmariko_031.jpg明治のトンネルを往復(250m程度の長さ)して、元の分岐点に戻り旧東海道の方に進む。上り口は分岐点から直ぐのところだが、表示矢印の案内板が古く、あまり目立つものでなく見逃しそうになる。
しばらく上って行くと、通り過ぎた集落が下に見え、先ほど立ち寄った明治のトンネルの入り口付近のあずま屋も眺望できる。

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宇津ノ谷峠の山道は、確かに寂しい道で、河竹黙阿弥の傑作と言われる「蔦紅葉宇都谷峠(つたもみじうつのやとうげ)」の舞台となっただけのことはある。しかし、歩き易い道で、進んで行くと音信不通で7,8年ほどにもなり、友人が作ったという、「雁山の墓石」があったり、地蔵堂の跡などがあった。この地蔵堂は、まさに歌舞伎の文弥殺しの舞台となったところと言う。
mariko_034.jpgmariko_035.jpgmariko_036.jpgほどなく、さほど長くは無い峠の登りが過ぎ、下り坂となった。下り坂はかなり急だが、距離は短い。直ぐに国道との合流点に出られた。途中では、明治のトンネルを通って来たと思われる人と出会ったが、旧東海道の山道では誰にも会うことはなかった。
国道に掛かった歩道橋を渡ると、過去から現在に舞い戻った気分になるが、これから岡部の町まで、かなり長い国道沿いの道を歩くことになった。やっと、岡部の町に入り、元旅籠でほとんど昔のままの形で残っている「柏屋」が「歴史資料館」となっているのに遭遇した。上がりこんで色々と見せてもらえるようだが、今日は藤枝駅まで行きたいと思っており、時間的に余裕がないので外から眺めるだけで先を急いだ。
mariko_037.jpgmariko_038.jpgmariko_039.jpg県道から離れたり合流したりを繰り返しながら旧東海道は続くが、途中で「小野小町の姿見の橋」があった。説明板には「小野小町」が晩年に東に下る際、この橋の上で夕日に映える西山の美しさに見とれていたが、ふと目を橋の下の水面に移すと、そこには旅に疲れた自分の姿が映っていた。そして、過ぎし昔の面影を失ってしまった老いの身を嘆き悲しんだという、と書かれていた。それにしても、小さな流れだ。流れの幅は50Cmぐらいか。
徐々に足も疲れてきて、少し休みたいと思っていたら、バス通りで休憩場所が見つかった。ここは「五智如来像」と言うのを祀った場所であり、休憩所も併設されていた。
「五智如来像」の言われは、説明板の画像をクリックしてもらいたが、ここで少し休息を取った。
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岡部町も旧東海道の維持には力を注いでいると見え、松並木で欠けている場所では新たに松を植樹し、大きな岡部宿の石碑を建てていた。特に常夜灯はあちこちで見られたが、なかなか立派なものを建てている。
これ以降は藤枝の宿に入って行くことになる。
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藤枝の宿に入ったが、だいぶ、時間が気になりはじめ、どんどん歩いて行くと、「岩村藩領傍示杭」があり、さらに進むと「田中領の傍示杭」も見つかった。
mariko_044.jpgmariko_045.jpgmariko_046.jpg複雑な6叉路の「仮宿の交差点」で、歩行者に冷たい歩道橋を渡り、どんどん進んで葉梨川沿いの道を進む。八幡橋を渡ると、ほどなく須賀神社に達し、大きな楠がある。楠は大きく育ち易いのか、大きな木を見ることが多いが、ここの楠の巨大さは特別で、大きなうろには入れないように蓋を施していた。
藤枝では「だるま」がお土産に良いと聞いたような気がしていたが、達磨屋さんが見つかった。
最後に、平成になって掛けられた美しい「勝草橋」を渡ると、今日最後の「志太の一里塚跡」の石碑を見ることになった。江戸から数えて50番目の一里塚だと記されている。
ようやく、藤枝駅も近づいてきた。もう一息と「青木の交差点」を目指し、その後、藤枝駅に向かった。
さすがに、今日は少し実力オーバ気味で駅前のコーヒーショップで休息し切符売り場に行くこととした。
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江尻から藤枝(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計54,434(35.92Km)
前回引き上げた草薙駅に7時30分に着き、駅前のベンチでベルトに吊るした飲み水容れの位置を直し、府中(静岡)に向かって歩き始めた。
府中の宿が近づくまでは、遺構もほとんどない道が続くが、JR東海道線で旧東海道は分断されていて、JR東海道線を3回も渡ることになる。しかも、いずれも地下通路での通行となるが、1回目の静鉄 県総合運動場駅の近くは、入り口がひっそりと目立たない感じでうっかりすると通り過ぎてしまう。
mariko_001.jpg実は1回目のJR線渡りで10分ほどロスをしたが、何とか長沼の交差点に達し、旧道を辿って行き、長沼の一里塚を探すことになる。見つかり難いことで評判のようなので慎重に道の左右を見ながら進んで行くと、道の右側に「久應寺」という綺麗なお寺があり、そこから10mほど進んだ道の左側の民家の軒下に石碑が建っていた。なるほど、これは見落としてしまいそうだ。
伝馬町に達して、徳川家康の祖母である源応尼の墓がある華陽院(けよういん)に行こうとした。地図を見ながら探すが案内表示など一切無く、直ぐ近くでも分からなかったが、ようやく目立たない門柱を見つけた。
「源応尼」の墓以外にも家康の五女の「市姫」の墓などもあり、また、家康手植えのみかん、松、柿の木と表示している木もあった。しかし、それらの木はいずれも300年も経ったものとはどうしても見えず、精々が数年程度と思えるのであった。
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いよいよ繁華街に入ってきた。江川町の交差点の手前には、西郷隆盛と山岡鉄平の会談のレリーフがあった。
江川町交差点を地下通路で渡り、御幸通りを南下して直ぐに呉服町通りに曲がると、流石にハイセンスなお店が並ぶ。そして、七間町通りに達して左折するが、ここに「札の辻址」の石碑がある。
七間通りは、道の幅を七間としたことから名づけられたのだが、現在ではともかく、江戸時代では七間幅の道路は、本当に大通りだったことだろう。
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七間通りを南下し、映画館が密集している場所のミラの座が左手に見えるところで右折し、2つ目の通りを左折して南下を続ける。この通りは、もう繁華街の華やかさは無い。やがて、川越町の交番に達するので、その背後にある三角形の緑地を訪れる。ここで最初に見つかったのは「安部川架橋の碑」である。この碑は明治7年に宮崎総五郎が私財を投じて安部川に架橋した顛末を後世に伝えるため明治40年に建てられたとあった。
次に、江戸市中で自害した「由比正雪」の墓石があった。由比の比が、ここでは井になっていた。
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いよいよ、安倍川を渡るが、その前に昔も今も「石部屋(せきべや)」の「安倍川餅」を食べなければならない。
メニュー書きは江戸時代から変わらず、掛け軸のような感じだが、「安倍川餅」と「からみ餅」の2つしかなく、その江戸時代のメニュー書きの値段のところに600円と書いた紙を貼り付けてあった。また、有名人の訪れた記念の短冊ようのものが、ずらりと貼られていた。
お店の奥さんが、お茶をと、しばらくして注文した「安倍川餅」を出してくれた。どうと言うことの無い、小豆あんをまぶしたのと、きな粉をまぶしたのと2種類の小ぶりのお餅であった。家康が感激するほどのものであったのだろうか。それはともかく、丸子の宿で昼食をとるまでの間食として適当なものであった。
おやじさんは硬派で怖い感じと伝えられていたが、仕事が一段落したのか、歩くのに使っている案内地図を見せてと話しかけてきて、なかなか気さくな一面を見せていた。
mariko_008a.jpgmariko_008.jpgmariko_009.jpgそして、安倍川橋を渡った。歩道のある橋で歩き易かった。川では、数人の釣り人が釣りを楽しんでいたが、まだ鮎の解禁には早いので、何が釣れるのか気になった。
安倍川を渡ったところは、鎌倉時代は手越宿と呼ばれたところである。謡曲「千手」で有名な少将井神社があるので、探して訪れた。
小さな神社で、お社(やしろ)はどうと言うことも無いが、左の方に謡曲「千手」の主人公の白拍子「千手の前」の石像が建っていた。謡曲史跡保存会の案内板の内容は少し長いが、以下に引用して書いておく。
源平一の谷の敗戦で捕らえられ、鎌倉で憂愁の日々を過ごす副大将平重衝を慰めるようにと、源頼朝は白拍子千手の前を遣わしました。
 和歌・琴・書に秀でた千手の前の優に優しい世話に、重衝も心を通わせ、互いに想い合う仲になりました。
 先に、東大寺を焼いた重衝を、奈良の荘は思い仏罰だとして引渡しを強要し、再び京都へ護送する途次に殺してしまったのです。嘆き悲しんだ千手の前は、尼となって重衝の菩提を弔いつつ生涯を閉じました。
 少将井神社は、手越長者の館跡と推定され、重衝と千手の前との哀切の情愛を主題とする謡曲「千手」の生誕の地と伝えられています。

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沢渡(さわたり)で国道から別れ、旧道を進んで行くと、「一里塚跡の碑」があり、また「丸子宿本陣跡の碑」も見つかった。
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面白いことに、この辺りでは厚い板に「家の屋号」を書いたものが、掲げられている。どの家にもユニークな屋号が掲げられていて興味深い。
また、由比で紹介した「お七里役所跡の碑」も建てられていたが、3人連れの若いグループが説明書きを読み、「へ?、紀州から・・・」と驚いた声を上げていた。
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丸子の名物、丁子屋(ちょうじや)に到着しました。この丁子屋ほど、安藤広重の「丸子の宿」の画とよくマッチしているのではと思う。もちろん。江戸時代の建物ではないが、どこかで茅葺の家を見つけて移設したようだが、本当に素晴らしい家をよく見つけたものだ。写真に写っている若い女性の服装が江戸風ならもっと良かったのだが。
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建物の右よりのところには、芭蕉の有名な句の「梅若菜、丸子の宿の、とろろ汁」があり、また、「十返舎一九」の丸子の宿での一節が記されていたが、読めない。と思ったら、石碑の左下隅に小さく、現在風の字で書かれていた。下記に記す。
けんくハ(けんか)する夫婦ハ口をとがらせて、鳶(とんび)とろろに、すべりこそすれ
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ここに来たら、とろろ汁と決めていて、途中に感じの良さそうな海鮮料理店もあったが、一目散に丁子屋に行き、メニューの中で一番安い「丸子」を頼んだ。お櫃に入った麦飯にお吸い物と漬物が付き、あとは小型のすり鉢に自然薯(じねんじょ)のとろろ汁が出てくるだけである。これで、1,380円は少し高い気もする。
食べ方は、お茶碗に麦飯を盛り付け、とろろをぶっかけて食べるのだが、意外と美味しい。何か、だし汁が混ぜてあるのだろうが、喉越しが良い。お櫃を空にして満腹になったが、周りで食べている人達も満足そうだ。
冬に来ると、囲炉裏に火が入り一層、おもむきが出るのだろう。
mariko_020.jpgmariko_021.jpgmariko_022.jpg食べ終わって、支払いを済ませ亭内を見学させてもらったら、「一返舎一九」の実物大の像があった。
それ以外にも、徳川家康が使ったお椀など一式や、江戸時代の煙管(きせる)など色々と展示されていた。
さて、丁子屋を後にして「宇津の谷峠」に向かうが、これは新しいエントリーで・・・

2007.05.26

蒲原から江尻(2)・・・(旧東海道)

興津川に出ると「川越遺跡」があり、東海道線の線路を潜って「浦安橋」を渡る。「浦安橋」は欄干の形や傷み具合などから判断すると相当に古い橋のようだ。それにしても橋の傍らには太いパイプが走っているが、送水菅だろうか。
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yui_042.jpg国道を歩いて行くと、宗像神社の道標がある。宗像神社は奥津島比売命(おきつしまのひめのみこと)などの女神が祀られていて、興津の名前もここから来たと言われている。大変古い神で格式は高いが、江戸時代に女神であることから、弁財天信仰との混乱が生じ、神社の森をなまめかしい「女体の森」と呼ぶようになったという。近くの茶屋に美人が居たのも、なんらか期待感を抱かせるのを助長したようである。
やがて、右手に「清見寺」の山門が、ポツリと建っているのが見えてくる。階段を登り、JR東海道線を跨いでいる歩道橋を渡る。すなわち寺域がJR東海道線で分断されているのだ。
「清見寺」の創建は天武天皇とのことで、大層古いが、幾多の戦乱を潜り抜け現在に続いており、徳川家康も今川家への人質の子供時代には良く訪れたと伝えられていて、家康が接木した梅の大木(臥龍梅)もある。
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島崎藤村の「桜の実の熟する時」という小説の最後に出てくるという、五百羅漢の石像もある。この中から、自分の知っている人に似た顔を必ず見付けられると言うが、本当に500個の顔で日本人の全てを表せるかは疑問である。
また、「高山樗牛清見寺鐘声文碑」もあるが、石碑の刻印が浅くほとんど消えていて読めなかった。傍に立て札が立っていたので、文はそちらで読む。(碑をクリックしてください)
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山下清が清見寺を訪れたとき、なかなかに興味深い一文を残している。以下に引用する。
『清見寺スケッチの思い出』より
「清見寺という名だな このお寺は
古っぽしいけど上等に見えるな
お寺の前庭のところを汽車の東海道線が走っているのはどうゆうわけかな
お寺より汽車の方が大事なのでお寺の人はそんしたな
お寺から見える海は うめたて工事であんまりきれいじゃないな
お寺の人はよその人に自分のお寺がきれいと思われるのがいいか
自分のお寺から見る景色がいい方がいいかどっちだろうな」

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清見寺から少し進むと、道路の左手に西園寺公望公の別荘の「坐漁荘」があった。
本物の建物は愛知県の明治村に移設され、興津では跡地は清見潟公園とされて、全く面影もなかったということだが、2004年4月に忠実に復元したものとのこと。無料で公開されていたので、見学させてもらったが、流石に洗練された美を感じさせる建物であった。
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「坐漁荘」を過ぎた後は、国道を淡々と進むのみで、全くうんだりだ。やっと国道から別れられてほっとしたが、相変わらず。楽しいとは言い難い道行だったが、JR清水駅を過ぎて右折すると急に綺麗な通りになった。後で調べると銀座通りと言う通りであった。暫くして、左折して「稚児橋」を渡った。
江尻を流れる巴川に橋が架けられたのは慶長12年(1607)だが、伝説では橋完成の渡り止めに地元の老夫婦を選んでいたが、橋を渡ろうとすると突然 童子が現れ橋を渡った。実はこの童子は河童であったとされ、橋の欄干の飾りとして、4つの河童の像が設けられているのである。
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ひたすら歩いて行くと、「身延山」へ道路が分岐しているところに達し、道標が建っている。
また、そこには元禄8年創業という「追分羊羹」の店があった。お土産に買うと、冷たいお茶とお絞りに羊羹一切れを小さなお盆に載せだしてくれた。お茶は冷たく、羊羹ともよくマッチしておいしかった。暫く休息を取らせてもらって、お礼を言って店を出た。
yui_051.jpgyui_052.jpgyui_053.jpg「追分羊羹」の店から、少し進んだところに、都田吉兵衛の供養等があった。都田吉兵衛は都鳥(みやこどり)という通称で呼ばれていたが、酒好きの「森の石松」が次郎長から酒を止められていたのを、言葉巧みに酒を進めて100両の金を奪う。森の石松は命に関わる傷を負わされているにも拘わらず金を取り返しに行き殺されてしまう。
怒った清水の次郎長は、手下とともに都鳥を石松の仇とばかりに、討ちとった。その当時は誰も都鳥を供養しようとするものは居なかったが、しばらくして里人が憐れに思って供養等を建てたという。日本人の優しさの現われである。
yui_054.jpgまた、ひたすら歩を進めてゆくと、「上原延命子安地蔵」があった。狭い境内を滑り台などの子供の遊具が埋めており、清溢さとは縁のなくなった地蔵尊であるが、ここは徳川家康と穴山梅雪が会談を行ったところである。
yui_055.jpg草薙駅に向かって歩いて行くと、ビル建設工事現場の片隅に比較的大きな一里塚の石碑が建っていた。ビルでも建った後はどのような感じになるのであろうか。
yui_056.jpgやっと、草薙駅の近くまできたが、大きな草薙神社の大鳥居が目に付いた。草薙神社と言えば、日本武尊が賊に襲われ草に火を放たれたが、天叢雲剣(あめのむらぐものつるぎ)を抜き放ち草をなぎ倒したところ、火は賊の方に向かって、難を逃れたとされるのを思い出す。このときより天叢雲剣は草薙の剣と名前が変わったと言う。
ともかく、草薙神社は大鳥居より1.5Kmも先とのことで、今日はここまでにすることにした。
駅前で茶屋(喫茶店)を見つけ、無性にアイスコーヒーを飲みたくなって入った。何時もは健康上の理由で砂糖、ミルクを押さえているが、今日ぐらいはとシロップをいっぱいとミルクも入れて飲んだ。うまかった。

蒲原から江尻(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計42,817(28.25Km)
先週帰宅した蒲原駅にam7:05に到着して、今日は江尻か、あわよくば府中まで行く積りで歩き出した。
yui_001.jpgまず、前回寄れなかったところを見ようと一里塚まで戻り、気になっていた北条新三郎の墓を訪れた。
通りから細い道を登って、森の中に一歩足を踏み入れたところに、ひっそりと墓石が建っているが、北条新三郎の墓と書かれた新しい石碑は、最近になって地元で建てたものだろう。
北条新三郎綱重は北条早雲の3男 幻庵の子で、1千の兵で蒲原城を守っていたが、武田勝頼率いる武田軍に敗退し、城主北条新三郎をはじめ弟長順、北条家の重臣の多くが戦死した。戦国時代の1ページだったのである。
yui_002.jpg蒲原の宿の中心付近に引き返し、歩いて行くと見事な「塗り家造り」の家が建っていた。「塗り家造り」の壁は土蔵より薄いものの優れた防火効果がある。また、「なまこ壁」と言われるコントラストのはっきりした壁が美しい。なお、この家は「佐野屋」という元商家であった。
yui_003.jpg左に折れれば新蒲原駅という地点を過ぎて、小さな流れに沿って左折すると、安藤広重の「雪の蒲原」の記念碑がある。大きな石碑とプレートにした「雪の蒲原」が石に嵌め込まれていた。
30年に1度くらいしか雪の降らない温暖な蒲原で「雪の蒲原」を絵にした「安藤広重」の創作力の勝利だ。
元の街道の通りに戻ると、元は「和泉屋」という旅籠であったが、今は天保年間(1830-1844)の旅籠時代の建物をそのまま使用している「鈴木商店がある」。また、その向かいは本陣であり、中には たたみ1畳より大きな石があり大名の籠を下ろす用いられたと言うが、いまだ個人の住宅として使用されており、屋敷内を見ることは出来なかった。
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大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」は、外観は洋風で内部は和風の建物で内部を見学できるようだが、少し時間が早く、開いていなかった。
やがて、長栄寺の大きな寺名碑を見て左折すると、蒲原の西木戸跡に達する。この角は「茄子屋の辻」とも言われ、かつて「茄子屋」と言う茶屋があったところで、以下のような事件があった。
承応2年(1653)に高松藩の槍の名人 大久保甚太夫が薩摩藩の大名行列に出合い、槍の穂先が触れ合ったと口論となり、散々辱めを受けるがその場は我慢した。しかし、甚太夫は、茄子屋の辻で待ち伏せ、大乱闘となり、70人を倒したが、終に力尽き討たれたと言う。竜雲寺の住職が甚太夫を弔い、槍の穂先は寺宝として保管しているとのことであるが、それにしても1人で70人とはすごい。
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蒲原の西木戸を過ぎて由比に向かって旧国道を進む。車の通りが激しく、早く静かな道を歩きたいと思いながら、ひたすら進んでゆくと、やがて東名高速の下を潜り、すぐに車の通りとは離れほっとする。ほどなく由比の入り口に到着した。道路が鍵型に曲がっている「枡型」の説明板があり、「御七里役所跡」の表示があった。
お七里役所は、写真をクリックして説明文を読んでもらえば分かるが、紀州藩の専用宅急便組織のようで、通常は8日、急げば4日で江戸と紀州を行き来したという。
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直ぐに、由比正雪の生家として有名になった、江戸初期の創業の染物屋の「正雪紺屋」を右側に見る。
yui_012.jpg入って左側の土間には4×4列の染料を入れた甕が埋められていて、往時の様子を伺わせる。
現在でも染物屋は続けていて、和風に染めたハンカチなどをお土産として販売している。

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「正雪紺屋」の向かい側には由比の本陣跡があるが、本陣跡は1,300坪もあって本陣公園として整備され、公開されている。
ともかく、見たいと思っていた「広重美術館」は9時からであり、到着したのが8時40分で、適当に時間を潰すことになったなった。最初に大きく目立ったのは、「東海道由比宿交流館」の建物で、中は由比の風景のスケッチ画などの展示販売、お土産品売り場、旅人の休憩場所などになっていたのでブラブラとしていた。
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やっと、9時になり切符を買って美術館に入館しようとするが、入館料は500円だが、900円出すと御幸亭にも入れるとのことだったので、900円の切符を買い「広重美術館を」見学した。
版画を自分で試して見るコーナー、版画の技法の解説と合わせ「幕末の絵師の競演」と題し、大名の上洛の様子の版画を展示していた。
その後、明治天皇も休憩した御幸亭を復元した建屋に行き、菓子と抹茶を入れて貰い、すっきりと纏まった庭を望みながら上等な時間を過ごした。
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本陣公園で相当時間を費やし、次に進もうと正面の門を出ようとしたら、自転車でやって来たという若い夫婦が、写真を撮ろうとしていたのでシャッターを押してあげ、私も撮ってもらった。
1人旅で、なかなか自分を撮るチャンスには恵まれない。
本陣公園を立ち去ろうとしたら、公園の塀の外に馬の水のみ場として使用された水路があった。大きな亀が1匹いて、清掃姿の中年女性がミミズを餌として与えていた。
yui_016.jpgyui_017.jpgyui_020.jpg由比宿で、もう一つ楽しみにしていたのは「桜海老」料理を食べることであった。
「おもしろ宿場館」というのがあり、入り口には後で述べる「望嶽亭」当主で亡くなられた 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられている。2階が「海の庭」というレストランとなっているが、レストランは10時からで時計を見ると9時45分であった。1階はみやげ物売り場だが、そこのおばさんが少し待てば10時だよと言う。土産物売り場をうろうろしていたら、ハイもう良いですよと言って2階への階段脇にある準備中の札を外した。時間は9時55分であった。早速、2階に上がり「桜海老御膳」と言うのを注文。海が見え、これから向かう「さった峠」も見え景色が良い。
ほどなく、運ばれてきた料理は期待を裏切らなかった。桜海老の佃煮、サラダ、刺身、掻揚げ、お吸い物と桜海老尽くしのような料理。
考えてみれば旧東海道を歩き始めて、初めてまともな食事をした気がした。
yui_018.jpgyui_019.jpgyui_022.jpg蒲原もそうであったが、由比の宿も良く古い雰囲気が残されてい。さらに町のあちこちに旧東海道をアッピールする気持ちが見られる。この橋のたもとの、常夜灯等もその一環であると思える。
通りには「桜海老通り」の表示も多く見られることから、これも観光資源として活用しようとの姿勢がうかがえる。
観光資源としての利用価値も有るであろうが、この桜海老は戦後の町の維持に大いに役立つ産業であったことだろう。働き口としての富士の製紙工場の隆盛もあっただろうか。
通りを左折すると、数十メータで港があるので、寄ってみた。直ぐ前を国道1号が走っており、コンパクトだがなかなかの良港とみた。
また、由比駅に近づいた通りにも、桜海老を象ったゲートがあり、町の特徴を訴えていた。
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後は、さった峠に向かうばかりと、歩いていたら名主の家であった「小池邸」が休憩所として改修されて自由に立ち寄ることが出来るようになっていた。また、その向かい側にも、民家を改修した「東海道あかりの博物館」があったが、本陣公園と食事で時間を取ってしまったのでスキップした。
なお、さった峠の”さ”は薩の字で、”た”は土偏に垂の字を書くが、Windowsでは表示できないので、さった峠と記す。
yui_026.jpgyui_025.jpgyui_027.jpgいよいよ期待感が高まり、富士山も顔を出している。
さった峠への急な上り坂が始まるところに由比の一里塚跡があり、また、「望嶽亭」と呼ばれる家がある。
「望嶽亭」は、室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残していると言われていて、特に江戸時代に入り東海道五十三次の「由比」と「興津」との間宿で脇本陣・お立場・茶亭・網元の「藤屋」として有名になったとのこと。
入り口を入ると「望嶽亭」の書の額が掛かっていたが、静かで誰も居ないように思われたが、玄関には7?8人の靴が脱いであった。勝手に靴を脱いで奥に進むと、右手の方から話し声が聞こえ、進んでゆくと10人ほどの人が思い思いの場所に腰を下ろしているなかで80歳は越したと思われるおばあさんが熱心に何か話しておられる。
おばあさんも私が廊下を進んで来たのに気が付き、どうぞと声を掛けてくれた。
後で分かるのだが、おばあさんは数年前に当主の松永宝蔵氏が亡くなられてからは、娘さんと家を守っている「さだよ夫人」であった。
幕末に府中で西郷隆盛と江戸開城についての話し合いをするために、「さった峠」を越えようとして官軍に追われ「望嶽亭」に逃げ込んできて、隠し階段から逃がした顛末を瑞々しく話すのである。話は30分は続き、貴重な話を伺ったが、それ以外にも山岡鉄州が残していったピストル、宝蔵氏が書き残した顛末記の巻物、文人の残した書などを見せていただいた。
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yui_029.jpgyui_030.jpgyui_032.jpgさだよさんは、帰りには玄関まで見送ってくれたが、松永家はかつては、「さった峠」も含めこの辺の土地は全て持っていて、かつ網元でもあったが、ずいぶん小さな家となってしまったと言っていたが、それでも室町時代に遡る松永家を守るとの気迫は感じさせられた。
「さった峠」への上り坂を登り始めると、東名高速の橋桁が海上になっている場所であるのが良く分かる。やがて上り坂が一段落したと思ったところに、2つの石碑が建っており、大きい方は文字が読めなくなっていたが、小さい方は「さったぢぞうみち」と書かれていた。さった地蔵」とは興津井上町(旧さった村)所在の東勝院の通称で、この先で東海道から分かれて参詣道がつながっているとのこと。
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峠の休憩広場にはトイレも完備されていて、車で駐車場まで上ってきた人達でごったげしていたので、さらに進むと「さった峠の「絶景ポイントの展望台」があり、薄く霞んでいるが、富士山も何とか見えていた。
やはり、くっきりとした富士山を望むなら秋にでも来る必要がありそうだ。
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「さった峠」を通り過ぎると、峠での今川兄弟の戦い、武田と後北条の戦いなどの表示板があり、さらに進むと、中道と上道の分岐点に達するので、中道を選ぶため、左側の道を下って行くと、樹林のトンネルになっているような場所を通って、墓場の真ん中を通る場所にでる。もう峠は通り越して興津の宿ももう直ぐだ。
続きは、新しいエントリーで・・・・

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2007.05.20

沼津から蒲原(2)・・・(旧東海道)

hara_028.jpgやっと吉原に到着した。最初に迎えてくれるのは、毘沙門天妙法寺。かなり疲れた足を引きずって階段を昇ると、日本のお寺とはかなり違う雰囲気の建造物に対面した。ラマ教系のお寺だとのこと。
hara_029.jpg妙法寺を後にして、JR東海道の踏切を渡り、大昭和製紙工場の脇の道を通って北に向かい、河合橋を渡る。海が近いためか、プレジャーボートが沢山係留されていた。ある程度の大きさの川では良く見られる光景である。
hara_030.jpgやがて、左富士神社を通り過ぎ、左富士の碑に到達した。道路が急にカーブしたことにより、富士山が左手に見える地点である。東海道で富士が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の左富士のポイントの2箇所である。
しかし、富士山上空にはしつこく雲がまとわり付いており、富士の姿を見ることは叶わなかった。

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また、ここの左富士の碑の横には静岡県統一の「夢舞台道標」が建っていた。原宿の宿境まで二里九町、富士川町宿境まで一里十七町とある。ほんとうに、よい道標である。
hara_034.jpgさらに進むと、和田川の橋のたもとに「平家越」の碑がある。源氏軍と対峙した平家の大軍が、水鳥の羽音に驚き退却したという、富士川の大戦の記念碑である。
平家軍が陣取ったのは、富士川と浮島ケ原の沼沢地の間のこの辺りだったのであろうが、周りの風景は水鳥が羽を休めていたころと全く違って、製紙工場の乱立である。
hara_035.jpg「平家越」の碑を過ぎ、暫くすると岳南鉄道の「吉原本町駅」近くで踏み切りを渡り、賑やかな商店街に入っていく。お昼の時間も過ぎ昼食を摂るため、適当なレストランを物色しながら歩く。日曜のためか、閉まっている店が多い。やっとそれらしい店を見付けて昼食を摂り、しばらく休息を取った。
昼食の後は、地図と首っ引きで忠実に旧東海道を辿る。「潤井川」を渡って、歩いて行くと、ほどなく民家の前に「鶴芝の碑」があるのに遭遇した。この付近から富士山を見ると富士の中腹に白鶴が舞うように見えたことから、鶴の絵と詩文を加えて「鶴の茶屋」に建てたものとのこと。
この辺りは街道の面影が残っていないことから、貴重な碑であるが、本当に民家の玄関脇で写真でも自転車を停めているのが写っている。なんとか、ならないものだろうか。
「鶴芝の碑」を過ぎて、広い道路と交差する地点(十字路)で、なんと広い道路に中央分離帯があって横断できないようになっているのに出くわした。そして、中央分離帯には「迂回してください」の表示があった。
全く歴史に関心を持たない、馬鹿な役人の仕業だろうと腹が立った。しかし、「迂回してください」の表示板の脇は明らかに通って踏み固められた形跡があるので、このやろうと思いながら渡った御仁がいるのだ。それでは、私もと強引に中央分離帯を突破して渡ってしまった。渡った先には、とても古い型の秋葉常夜灯が道しるべとして待っていてくれた。
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JR身延線の柚木駅を過ぎて、ようやく富士川に到達する。橋の直前の右側に「水神社」があった。水流が早いことで有名だった富士川を静めるための神社であろうか。
いよいよ、富士川橋を渡る。富士川は、いままでで一番水量が多い川である。上流を望むと東名高速の橋が見える。
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富士川橋を渡り、少し上流に向かって歩き、細い階段を登り、間の宿であった岩淵宿の街道に出る。直ぐに「秋葉常夜灯」があり、正しい旧東海道を辿っていることが知れる。
歩いて行くと、「小休本陣」の常磐家住宅に到達した。無料で公開されており、見せていただいた。古いが、やはり立派な家である。最近まで実際に住んでいたとのこと。今となってはとても貴重である。

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hara_044.jpgまた、庭には根回り6mという槙(まき)の大木があった。槙の木は生長が遅く、これほどの大木は珍しい。
常盤家で、富士川町ウォーキングマップをいただき、手持ちの地図と見比べながら歩いて行くと、「岩淵の一里塚」に到達した。左と右の両方が残っている。特に右側は型も崩れておらず、エノキの木も大木に育っている。
大変立派な一里塚だ。
時計を見ると3時30分を過ぎており、「富士川駅」から帰るか、蒲原まで足を伸ばすか迷ったが、蒲原までは一里程度なので、行くことに決めた。

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街道は右に折れ、直ぐに東名高速の下を過ぎる。その後、東名高速と平行している道を歩きながら徐々に高度を増し、最後にかなり急な坂を上って、今度は東名高速の上を過ぎる。
横断橋から高速道路を見ると、我、彼の移動速度の差異にあらためて感じ入る。
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やっと、蒲原に到着。宿の始めの方に一里塚の跡の石碑があり、少し進むと「諏訪神社」のお祭りに遭遇した。かなり、賑やかだ。
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「諏訪神社」の次は、日軽金の発電用送水管だ。直径が4.4mの鉄管が4本だから、壮観だ。驚くほどの存在感をもって迫ってくる。この太いパイプで富士川の水を引いて来ている。
hara_052.jpghara_053.jpghara_054.jpgこの3階建ての土蔵は、渡邊家の土蔵で蒲原宿でも一番古く、四方具(しほうよろい)という、4方の柱が上に行くにしたがって少しづつ狭まる方式で耐震性に優れた建て方とのこと。しかし、さすがに年数を経て修復が必要とされるが、修復には1億かかると言われ、渡邊家では、どうすることも出来ないのだという。この土蔵には貴重な江戸時代の資料が多数保管されていると案内板に記されているのにである。
hara_055.jpg蒲原の宿は海と山に挟まれた細長い土地に作られた小さな宿であり、静かで落ち着いていて、江戸時代の人々の子孫がそのまま住んでいるような感じがして心が休まる。
本当は、蒲原は製塩が盛んで、その作った塩を商いしてあるいたそうで、声が大きく「バラカンもの」と呼ばれ、怖がられたという。
ともかく、ゆっくり見ている体力も尽き、次に訪れたときにゆっくり見学することにして、「新蒲原駅」に向かった。

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