2009.07.11

教来石から金沢(青柳)・・・(甲州街道)

本日の万歩計34,956(22.72Km)

kyoraishi_01.jpg今日も、朝4:40に自宅を出て韮崎に8:28に着き、8:38発のバスで40分掛けて前回歩き終えた下教来石(しもきょうらいし)に着く。韮崎を出発したときは乗客は10人程度であったが、最後は私たち街道歩きの2人のみとなった。
ところで、教来石(きょうらいし)の地名のいわれは、昔 日本武尊が当地を訪れ、村はずれの大石に腰掛けて休み、この石を村人が「経て来石(へてこいし)」と呼び、これを村の名前にしたが、経を教と書き誤りこの名前になったと言うが、ハッキリしない。
ともかく、バスを下り、9:30に出発。直ぐに国道20号の左側に「明治天皇御休憩所址」の碑を発見。通り過ぎて100mほどで国道から右の旧街道に入って行く。200mほどで左側に諏訪神社がある。本殿の中の彫刻は素晴らしかったが、周りに目の細かい網が貼られていて撮影は色々試みたが果たせなかった。
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この辺りは見晴らしが良く、下の方の田園地帯が良く望見できるが、明治天皇が訪れられたときは田植えの季節で、しばし田植えの情景を眺められたという。少し先には「明治天皇田植御通覧之址」の碑が建っていた。
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さらに先には、「御膳水跡」の碑があり、明治天皇がここの水を誉めたと書かれていたが、現在の旅人にはコンビニで水を買うより仕方が無い。とても立派な家も建っていた。
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1.5Kmほど進んで国道に出たところには教慶寺。国道を100mほど進んで再び右に入って行くと上教来石の集落である。街道らしいなまこ壁の蔵がある。旧家らしい豪壮な家であった。
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松の枝を見事に仕立てた家がある。少し先で大目沢橋を渡ると、山口の関所跡である。信州口を見張った国境の口留番所である。説明板には下記の記述があった。
ここがいつ頃から使用されたかは不明であるが、天文十年(1546)の武田信玄の伊那進攻の際設けられたという伝承がある。「甲斐国志(1814)」によれば、番士は二名で近隣の下番の者二名程を使っていた。当時の番士は二宮勘右衛門・名取久吉で名取氏は土着の番士であったが、二宮氏は宝永二年(1705)に本栖の口留番所から移ってきた。
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関所跡を過ぎると、田園風景が1Kmほど続く。植えられた稲も順調に育ち、風が吹くと葉先が美しい波を描く。
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国界橋の手前で国道に出ると、今回の歩行で唯一のコンビニのセブンイレブンがあり、その脇には、「目に青葉 山ほととぎす 初かつお」の教来石出身の山口素堂のとても大きな句碑がある。田中角栄書、世話人 金丸信とある。しばし、当時の政界に思いを馳せる。
コンビニの横の運送会社のサンコーラインの駐車場の中を通って草道になってしまっている旧道を進み、旧国界橋を渡る。この橋を渡ったところには、街道歩きの人達にはすっかり有名になった電撃ネットがある。このネットは猿の侵入を防ぐためであるが、7000ボルトのパルス状の電流を流していて、触れると激しい電撃を受ける。電圧は高くても電流は小さいので触れても生命にかかわることは無いが、やはり恐ろしい。棒の黒い部分を持って開け閉めするように注意書き(我々は予備学習してきた)がなされているが、教来石側からは分からない。写真は渡り終えてからふり返って撮ったものである。公道にもかかわらず恐ろしく感じて、やむなく国道の新国界橋を渡る人も多いようであるので、注意書きは両側に、しかも図入りで親切なものが欲しいと感じた。
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国道に出て100mほどで右に急坂があり、上って行くと「日蓮上人の高座石」と書かれた説明板のある場所がある。説明板によれば日蓮上人が流罪を許され、佐渡から鎌倉に帰り、その後ここ下蔦木に立ち寄ったとき悪疫が流行っていた。そこで、三日三晩この岩上に立って説法と加持祈祷を行い、霊験を表わしたので村人全て日蓮に帰依し、当時真言宗であった真福寺の住職も名を感応から日誘と改め日蓮宗に改宗したと書かれていた。進むと、日蓮宗に改宗したという、真福寺の立派な鐘楼門が見えてきた。境内では紫陽花が涼しげに揺れていた。
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進んで行くと、真下に国道を見ながら進むようになり、応安の古碑と書かれた石碑の建つ場所があった。応安とは北朝時代の1368年からの8年間を指すが、この当時の石碑群を集めたようである。そして、少し先には「古代米の里」とかかれた木の看板が有り、右の土手をのぼると、少し黒っぽい葉を持つ稲が植えられていた。
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国道を真下に見ながら進んで行くと「甲州街道・蔦木宿」の看板があり、ここから蔦木宿に入って行くことになる。小さな川を渡ると、大きな常夜燈を2基配して参道とした石のお堂があった。宿の入口の守り神ででもあったのだろうか。
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100mほど進むと、枡形の説明碑があり道は左に曲がるが、そちらに進む前に「三光寺」に立ち寄ることにした。曹洞宗のお寺で、参道の植木の緑と石畳が美しく、お堂、鐘楼も立派である。
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枡形に戻り、国道を100m進むと、石の鳥居が見えてくる。十五社大明神である。鳥居をくぐって石畳の道を進むと本堂があり、その中には「めどでこ」がある。「めどでこ」とは棒に縄のリングが付いているもので、御柱祭りで大木の先端に角のように付けるものである。この十五社大明神も御柱祭りを行うのである。

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国道に戻って進むと、本陣の門と、その脇に石碑がある。本陣の建物は無くなっていて、門のみが残っている。
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さらに進むと、蔦木宿の大きな案内板があり、この案内板にも描かれている北の枡形に向って歩いて行く。「枡形道路」の石碑があり、分かり良い。
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枡形の出口には沢山の石仏があり、国道に復帰する。700mほど国道を進むと、また左側に外れて、岩田建材の作業用道路のような堤防の道を進む。再び国道に合流するところにも道祖神や庚申塔がある。ちょうど昼時で、ここの木陰で今日の昼食をとることにした。今日はレストランが期待できないものと考え、おにぎり等をコンビニで買込みリュックに入れてきた。
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600mほど国道を進むと、右に逸れて旧道への坂道を上って行き、机の集落に入って行く。美しい家並みを眺めながら進むと、国道に合流して瀬沢大橋を渡る。橋を渡ると直ぐに国道と分かれて左折して進む。
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瀬沢の郵便局を過ぎると、左手方向に石段が続く神社があり、その先には古い様相の「吉見屋」というお店がある。吉見屋の前の自動販売機で冷たい飲み物を買い、飲み干してここから始まる急坂を上って行く。
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急坂は短く、上り終えると道は左にカーブして小さな沢を渡るが、本当の登りはここからであった。民家も無くなり坂道は森の中に入って行く。道祖神が見送っている。登りは辛いが、立ち止まると風が涼しく心地よい。標高もだいぶ高くなってきたようだ。この辺り一体は瀬沢古戦場で、天文11年2月(1543/2)、北から信玄を攻めようとした小笠原・諏訪・木曽・村上の4将は、動きを察知した信玄に奇襲され敗走したところである。
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峠を過ぎると高原の小さな「とちの木」の集落がある。八ケ岳もずいぶんと大きく見えてくる。集落を過ぎて、静かな高原の道が続く。
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街道は、また峠道の雰囲気になり、石仏が旅の無事を願って見送ってくれているようだ。立派な松の木の並びが見えてきたと思ったら「とちの木風除林」の説明板が立っていた。説明板によれば、とちの木では風当たりが強く五穀は実らず、寛政年間(1789?1800)に村では高島藩へ願いを出して、防風林として外風除けを村の上に仕立てた。そのアカマツが、樹齢およそ200年の立派な風除けとして今日に至っているとのこと。
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防風林から少し先には、江戸から四十七里の重修一里塚がある。そして、今日始めての甲州街道コースの立て札がひっそりと立っていた。
街道の両側は高原の別荘地の様相になってきて、三菱マテリアルの私有地にぶつかり、甲州街道は行き止まりにになるので、左折して迂回して進む。広大な土地である。
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三菱マテリアルの敷地を過ぎると、原の茶屋の集落である。500mほど進むと、右側に明治天皇御膳水の碑があり、冷たい水が流れていた。飲んでみたい誘惑に駆られたが、飲んでも良い旨の掲示もなく我慢した。
集落の終わりには、新しい双体の道祖神、庚申塔の石碑などが集められていた。
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原の茶屋の集落を過ぎると、カゴメ富士工場の裏を進む道になる。カゴメの工場を過ぎ、道が下りにさしかかると「御射山神戸(みしゃやまごうどう)」の集落である。この辺りも松の植木の手入れが良く行き届いている。
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道端には多くの石仏が集められているのを見ながら進むと、国道に合流する。合流した国道の右側には「小川平吉先生生誕之地」の大きな石碑があったが、知らない人物である。後で調べたら、政治家・弁護士で長野県生まれで1903年衆議院議員に当選して、司法大臣、鉄道大臣等を歴任したが、1929年の私鉄疑獄事件に連座して入獄した人物であった。大きな石碑に見合った人物か、はなはだ疑問である。
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国道を進んで行くと、御射山神戸(みしゃやまごうどう)の信号が現れ、少し先の「すずらんの里駅」への入口の交差点には八幡神社がある。
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300mほどで、街道は国道より左に分かれる。分岐点には石碑が建っているが、文字は風化が進んでいて読めない。少し先には、馬頭観音の石碑群がある。真新しい石碑が建てられていたのは驚きである。
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馬頭観音を過ぎたあたりから、街道は上り坂になり樹林帯の様相を示し始め、直ぐに欅(けやき)の大木が見えてくる。日本橋から四十八番目の御射山の一里塚である。塚は道の両側にあり、ほぼ完全な形を保っているが、進行方向右側の欅は明治初期に枯れ、左側のみ慶長年間から380年間を生き延び、目通り幹囲6.9m、樹高25mとなっている。またここには標高917mの標柱も立っていて、高原の風は冷たく汗ばんだ体には心地よい。
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林を過ぎて、家並みが現れ始めると、富士見町上水道・神戸第二貯水池と書かれた門柱が建っていた。やがて、エプソンの大きな社員寮が見え始め、国道に合流する。
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国道に出て、青柳駅の方に折り返すと、線路の向こうに「穂屋之木大明神」と「鬼子母神」の像が見える。そして、無人の青柳駅に着く。時刻は午後3時で、30分ほどで高尾行きの電車が来た。
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2009.06.27

韮崎から教来石・・・(甲州街道)

本日の万歩計42,896(32.88Km)

今日は、4:40に自宅を出て、八王子6:35発の松本行きで韮崎には8:28に着く。ずいぶんと、遠くまで来たものだ。韮崎はサッカーの中田英寿の出身地であるためか、駅前広場にはサッカー少年の像があるが、これを横目で見て、ガードをくぐって駅出口と反対方向に進む。ガード内には韮崎高校美術部の生徒が描いた絵が6つある。落書きを防ぐため、先に良い絵を書いておくことにしたという。
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土曜日の早朝で、街道に通じる道は人通りも無くひっそりとしていた。街道に出る直前に右折して雲岸寺に寄る。須玉に海岸寺という寺があるそうだが海抜は1000mで、元来そちらが雲岸寺で、ここが海岸寺となるはずが、京都から命名書を持ってきた僧が間違えたとの言い伝えがあるそうだ。
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雲岸寺そのものは、普通のお寺だが、右側の崖に窟観音という観音堂がある。中は、3部屋に分かれていて、千体仏、次に窟観音本尊聖観世音菩薩、一番奥は弘法大師御尊像が祀られていた。千体仏と観音本尊には、お賽銭を投げ旅の無事を願った。
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観音堂の横には洞穴が口を開けていて、石仏が並んでいる。奥に進むと、反対側に出られ、韮崎駅のホームが見える。下に下りる急な階段もあったが、下りると駅に逆戻りなので引き返した。
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街道に出て歩く。市役所東の交差点までは電信柱のない街並みが美しい。一ツ谷の交差点で国道に合流して歩いて行くと、ますます右の七里岩の威容が迫ってくる。崖の崩落防止の工事は行っているとはいえ、このような崖の下に住むのは勇気が要りそうだ。
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さらに進むと、武田信玄が晴信と名乗っていた若いころに治水工事を行った史跡の「十六石」の史跡が残っていた。大きな石も一つ残っていたが、ずいぶんと大きな石を用いたものだと思う。
やがて、国道から離れ下祖母石の集落に入って行く。街道の面影を思わせる美しい家並みが続いている。
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家並みが切れ、田園風景が目に入ったころ、突然赤みがかった南無阿弥陀仏と刻まれた石仏が現れた。背景の七里岩の緑、田圃のみどりと相まってよく映えている。集落を過ぎて国道に近づくと、九頭竜大神を筆頭に石仏が集められている場所があった。やはり治水を祈るためのであったのだろう。
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国道に合流して、500mほども国道を戻って釜無川に架かる桐沢橋を渡る。対岸から盛んにクレー射撃の銃声が聞こえる。橋の左側には、鮎釣りを楽しむ釣り人が大勢竿を操っていた。
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橋を渡って、右の方に進むと直ぐに「山梨県立韮崎射撃場」の看板があった。釜無川に向って射撃するので、対岸に危険はないのかと心配になるが、クレー射撃では最大到達距離は235mとのこと。しかし、周辺の人家では毎日のように響く銃声が、うるさくないのだろうか。道なりに進んで桐沢に架かる、新しい橋を渡って進んで行くと、道路わきに水量の豊富な水路が現れる。この水路は徳島堰と呼ばれ16Kmも続いていて、これから円野町上円井(まるのちょうかみつぶらい)まで延々と続く。徳島堰については後に詳しい説明板が設置されていた。
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街道は宝蔵寺でしばし県道と別れ、1Kmほどで合流して戸沢を渡る。徳島堰は戸沢の下を暗渠となって跨いでいる。作られた江戸時代には大変な工事であったことだろう。
さて、ここで大変な間違いを犯した。戸沢を渡って進む道を間違え、戸沢に沿って延々と進んでしまい40分ほどロスした。途中には熊に注意の看板があったが、樹林帯の気持ちの良い道でもあり、良い気になって進んでしまい、引き返す羽目に落ちいったのである。ようやく街道に復帰して、下円井(しもつぶらい)の集落に入って行く。街道らしい家並みが現れほっとするが、お昼近くになり、お腹も空いてきた。
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集落を過ぎ、田園地帯に差し掛かると、「かかしの里」の大きな看板があり、風で動く大きなモニュメントが立っていた。残念ながら風は吹いておらず、動く気配は無かった。進んで行くと徳島堰は寺沢と交差して、「寺沢サイフォン」として寺沢の下を潜って続いている。
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やがて、徳島堰に沿って桜並木が現れる。さほど長くは無いが、ほどよい樹齢の桜でお花見に最適と思える並木であった。少し向こうには国道20号が見えてきて、下をくぐる歩行者通路で横断すると、上円井集落である。ここで街道は徳島堰と別れるが、進んで行くと「徳島翁のおはかみち」と書かれた石碑の建っている、細い路が左に現れた。
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60mほどで、妙浄寺というお寺があるが、その上の国道沿いに「なかよし食堂」があるのを調べておいたので、何はともあれ食事をと上っていったが、既に潰れたようであった。仕方が無いので、妙浄寺の鐘楼の下で手持ちの菓子パンで空腹を少し満たして、次に食べられるところを探すこととした。ここのお寺の本堂の左には徳島堰を作った徳島翁と妻の墓が建っている。徳島兵左工門は江戸深川の商人で豊臣家の残党と言われ、堰を建設するに当たりその完成を祈念して深川の法華山浄心寺第二世日通上人の開眼による七面大明神をその守護神とし、この地に安置して建設に励んだ。しかし幕府の圧政にあい、この地を去り、その後を妻である妙浄尼に委ねた。それにより身延山法主日莚上人より妙浄寺の名称を賜り、この寺となったとのこと。徳島堰の完成により、どれだけ多くの水田を作ることができたかを考えると、私財をなげうって堰を作る人をいじめる当時の幕府役人の狭量には腹がたつ思いである。しかし、彼は後世にちゃんと名を残すことはできたのだから良しとするべきであろうか。
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街道に戻り、進んで行く。300mほど進むと、明治天皇の小休所となった内藤家。立派な門から中を覗くと空き地であったが、「明治天皇園野小休憩所」の石碑が見えた。
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上円井(かみつぶらい)の交差点で国道に合流して、小武川を渡る。橋の中ほどには「北杜市」の看板。入って行く宮脇の集落は、静かで小さな集落で食堂を見つけるのが気になって写真も撮らずに通り抜け、再度国道に合流して進み、武川町牧原への入口に来た。「武川村米の郷、武川町農産物直売センター」と看板の出ている建物があり、軽食ぐらいは取れるのではと入ったが、野菜や米の販売のみ。トイレがあるのは街道歩きにはありがたいのだが。しかたが無いので、隣の「山崎デイリーストア」で寿司を買ってきて、厚かましくも直売センター内の椅子に座って食べ、今日の昼食とした。やれやれ。
牧原の集落は800mほどで国道に戻るが、庭の植木の手入れが行き届いていて、風情のある集落だ。どうしてこのような形ができたのだろうと思うような松の木も見ることができた。
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牧原の交差点を過ぎると、大武川を渡る。河原には、大きな石がごろごろとしている。堤防の石積みも大きな石でダイナミックな感じがした。国道から左に分かれて武川町三吹の小さな集落を通り過ぎると、田圃のなかの水車小屋を望見しながら、萬休院への路を上って行く。
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疲れた体にはキツイ急な上りである。登りつめると、京の寺のような石庭があったが、かつて樹齢450年と言われる国の天然記念物の「舞鶴松(まいづるまつ)」がない。ご夫婦で訪れた方にお聞きしたら、松食い虫ににやられて、終に昨年に枯れて切り倒されたとのこと。その後どうなったか1年ぶりに見に来られたとのことであった。
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やむを得ず在りし日の「舞鶴松」を写した説明板を撮り、お寺を後にした。急な坂道を下り、街道に合流するところに、大きな石仏が建てられていて、下諏訪から進んできても良い目印である。
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武川町三吹の集落も街道らしく美しい集落であるが短くて500mほどで終わってしまう。が、尾白川の堤防の道になったところには、「甲州街道一里塚、甲府ヨリ七里ナノデ七里塚トモ云ウ」と書かれた真新しい石碑が立っていた。後で調べたら宮脇の集落を過ぎて国道に合流する地点に「六里塚」があったようだが、見逃した。
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尾白川橋を渡ると、国道の左側に「甲州街道 古道入口、はらぢみち」と書かれた案内の石板が立てられていた。この古道は江戸時代に甲州街道が整備される以前の道で、忘れ去られていたのを地元の人がを通れるように整備し復活したものとのこと。
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草道で少し進むと3体の馬頭観音があり、その側面には「右かうふみち」「左はらぢ通」とある。その後で道は林の中に入って行くように続いていたが、突然葡萄畑の傍らを通るようになり、尾白川が左に沿うようになり、台が原下の交差点に出る。
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国道を横切って進むと「台ケ原宿」で入口には日本の道百選、甲州街道、台ケ原宿とj書かれた看板が立っていた。やはり、綺麗な家並みの通りである。
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樹形の立派な松の木が塀越しに見えていた。本陣は跡のみだが、隣には大きな秋葉常夜燈がある。しかし、この常夜燈は新しいので最近整備されたものかも知れない。
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進んで行くと、台ケ原宿では有名な、造り酒屋の「七賢」がある。天保六年(1865)この酒蔵の母屋を新築の折、高遠城主内藤駿河の守から竹林の七賢人の欄間をいただき、その後七賢の銘柄を冠したとのこと。中に入ると醸造用水が流れていたので、飲んでみたが美味しい水であった。別に湧き水を汲む場所も作られていた。また、試飲、直売コーナーも設けられている。
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七賢を過ぎると直ぐに「問屋場跡」があり、引き続き「明治天皇菅原行在所」の石碑があった。その向かいには、金精軒という和菓子屋がある。有名な信玄餅の元祖を作る店でもあり、店構えが江戸期風を保っている。
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金精軒を過ぎても、素晴らしい家並みが続き、明治24年に作られた登記所跡、田中神社とその境内に遷座した祭神が日本武尊の荒尾神社と説明板、修験智拳寺跡などがある。宿の終わりが近づくと「つるや旅館」、「梅屋旅館」が建っていたが、旅籠時代から綿々と続けているのだろうか。写真左には古い講中札も見える。
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台ケ原宿を過ぎ、白州小学校脇の道を進む。田圃の中を進むと、土手の草を野焼きにしている場所を通った。かなり激しい煙で通り過ぎるには大変な迷惑であった。旧甲州街道といえども天下の公道であり、通行に差し支えある行動はどうかと思うのだが。そして、前沢上の交差点が近づいたころ、道路の左側に草に半分隠れて、玉斎吾七と言う人の石碑があった。新しい石碑だが説明も無く、後にネットで調べたが、どのような人かは不明である。さほどの有名人でもない人の新しい石碑を建て、草に隠されていても誰も気にせず、説明も無いのは不思議である。
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国道の前沢上の交差点に差し掛かり、歩いて行くとサントリーの「白州製樽工場」の看板がある。直ぐに右に旧道の入口に入って行く。夜間照明も付いた立派な白州総合グラウンドを右に見ながら進み、荒田の集落に入って行く。田舎暮らし情報館というリサイクルショップがあり、面白い掘り出し物がありそうに思えたが、疲労に加えて、足も痛くなってきて、マメができる前触れでないかと、気になりだし、とても寄る余裕はない。
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下教来石(しもきょらいし)の集落を、ともかく帰りのバスの停留所に着くことを思いながら進む。写真撮影の頻度も極端に少なくなる。やっとの思いで「下教来石の交差点」にたどり着くが、バスの停留所が見つからない。聞こうと思っても誰も見当たらなかったが、何とか庭に出ている婦人を見つけることが出来、交差点から30mほど韮崎方面に戻ったところであるのを知る。山梨交通の専用のバスが折り返せる広さがある場所があった。時間は16:40でバスは17:33である。ベンチも無く日陰もない場所で1時間以上もひたすら待ち続けることとなったが、韮崎駅には18:13に着き、やっと帰宅の電車に乗ることが出来た。
今日の歩行距離は30Kmを越え、流石に疲労困憊であった。

2009.06.20

石和から韮崎・・・(甲州街道)

本日の万歩計37,874(24.59Km)

もう、梅雨が始まっておりハッキリしない日が続いている。幸いにも今日は晴れ空に恵まれ、午前9時11分に石和温泉駅に着き、早速歩き始めた。石和温泉は1961年果樹園で突如温泉が湧き出し、東京からも近く急速に発展した温泉である。駅前にはショッピングセンターもあり、なかなか賑やかさだ。
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駅から国道に向う途中に、古くは笛吹川であった流れを整備し直した第二平等川があり、河童の石像や笛吹権三郎の像がある。そして、国道に出て右折して、こちらは本当の平等川を渡るが、葦が一面に茂る川となっている。そう言えば、葦簀(よしず)なども最近は目にすることは無くなった。
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街道歩きとしては楽しいとは言い難い国道歩きが続くが、たまには旧家らしい立派な門を持つ屋敷も現れる。そして松原の交差点を過ぎ「南の風 風力3」の目立つ看板のホテルが見えてくると、酒折駅も近い。
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次の交差点の「山崎三叉路交差点」は新宿3丁目で分かれた青梅街道との合流点で、南無妙法蓮華経の大きな供養塔が立っている。この場所は大きな刑場跡でもあり、供養塔は日蓮宗の信者だった法悦が建てたと伝えられる。江戸時代の歌舞伎役者の市川海老蔵は、甲州武士の子孫と言われるが、甲州での興行へは甲州道中を使っていた。しかし、川渡しで法外な金を取られてからはこの青梅街道で甲州へ入ったと伝えられる。
さらに少し進むと、「日本武尊」と書かれた大きな古い石碑がある。これはこの先にある日本武尊を祀った酒折宮への道標とのこと。
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道路の左側には「山梨学院大学」見えてくる。綺麗なキャンパスに釣られて、少し内を歩かせて貰った。箱根駅伝の活躍でも有名で、幼稚園から大学院までの総合的な教育機関として地域の発展にも寄与しているように見える。
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甲府に向って、道は続く。中央線の向こうには「甲斐善光寺」が見える。永禄元年(1558年)、甲斐国国主武田信玄によって創建され、川中島の戦いで戦火が信濃善光寺におよんだときに、信玄は本尊をここに移した。本尊は、さらに織田信長の手で岐阜へ、豊臣秀吉により京の都へ、更に徳川家康の手で尾張へ移されるなど転々としたが、1598年(慶長3年)秀吉の死の前日に信濃へ返されたとのこと。
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身延線のガードをくぐると直ぐに枡形になっていて、左折して40mほどで右折する。右側に重厚な立派な家が現れた。まだ、住居として使用されているようだが、写真では十分に重厚さを示せない。
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天正10年(1582)創業の印傳屋の垢抜けした店舗と印傳博物館があった。印伝とは、インド羊や鹿の皮をなめしたものをいい、細いシボがたくさん有り、染色した皮に漆で模様を描いたものとのこと。なお、家長は代々上原勇七を名乗り、手法は門外不出として口伝で伝承されたという。
NTT甲府支店西の交差点で左折して、最初に交差する通りは銀座通りの名前で、既に七夕を考えたと思われる飾りつけがなされていた、
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問屋街入口で最後の枡形を過ぎると、大きな通りに出て左折する。商工会議所の立派なビルが見えてきて、甲府駅に続くメイン通りの「平和通り」を歩道橋で渡る。甲府駅前には「武田信玄」の銅像もあるが、駅までは1Kmほどあるので、そのまま次に進む。
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大きなビルが林立する市街地であるにもかかわらず、立派な土蔵が残っている。そして、荒川を渡る。この荒川は奥秩父の金峰山に源を発し、有名な昇仙峡を下り、笛吹川へ合流し更に釜無川と合流し富士川となって駿河湾へ注ぐ。江戸に非常事態が起こったとき、家康が駿河に逃れる想定脱出路でもあった。
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続いて貢川(くががわ)という小さな川を渡る。架かっている橋は「貢橋(くがはし)」で昭和6年竣工で時を感じさせた。少し先には、天然記念物の「サイカチ」の木が2本立っていた。「サイカチ」は川に生える木であるので、かつて貢川の流れが、この辺りまでおよんでいたことを窺わせる。川原でサイカチはよく見かけるが、確かにこれだけ太いのは始めてである。
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前田橋南交差点を過ぎると、右側に「クリスタルミュージアム」。興味はあったが、お昼の時間となり、お腹も空いてきてスキップして次に進むことにした。
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直ぐ先には、芸術の森公園があり、県立美術館にはミレーの「種をまく人」、「落穂拾い」などがあることで有名である。「落穂拾い」はパリのオルセー美術館、「種をまく人」はボストン美術館にあるのが有名だが、ミレーは同じ主題の絵を何度か書き直しているので、その内の1つがここにもあるのである。そして、中央高速をくぐって、ようやく今日の昼食予定の「うな竹」に行き着き、浜松から移ってきた主人の作る「うな重」で空腹を満たして、しばし休息した。
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時間は1時で日差しは強く暑い中を出発する。「竜王駅前」の交差点を過ぎると、しばらくして国道と分かれて、街道は右に入って行く。60mほど進むと、右側に大きな丸い石が祀られている。竜王新町下宿道祖神で、神体の直径は45Cmとのこと。丸い道祖神は、珍しいが山梨県に入ってからたまに見かけるようになった。
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時々、立派な白壁の家が見受けられるのは街道らしい雰囲気を醸し出している。中央線の踏切を渡ってから、道は上り坂になり途中には「諏訪神社」がある。
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進んで行くと、右手に「HAL研究所」があり、上り坂の頂上の左側に「山梨県営発電総合制御所」。県内の18の発電所の集中監視制御をしているとのこと。子供用の見学展示室があり、その前には琴川第一発電所で実際に使用していた水車が展示されていて、大月の駒橋発電所を思い出した。坂道を上ってきた暑さを冷やすべく案内の女性が1人いる展示室で少し休憩させて貰った。
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下り坂になって、少しは楽になって進んで行くと、下今井で寺町と呼ばれている地域となり、なまこ壁を配した家が続いていた。街道らしい感じである。そして、植木の手入れがよく、石畳の参道が美しい自性院がある。
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静かな住宅街で、本当に立派な家も現れる。
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下今井の複雑な交差点を抜けて塩崎駅方向に進むと、道路右の土手には子供のレリーフがあり、少し進むと大きな石が見えてくる。「泣石」である。説明板には以下のように書かれていた。
下今井字鳴石のJR中央線と県道との間にあり、現在地より約100m南東にあった。高さ約3.8m、幅約2.7m、奥行き約3.7mで中央部から水が流れ出ていたが、鉄道の開通により水脈が断たれてしまった。天正10年(1582)3月2日、高遠城が落城すると武田勝頼一行は完成したばかりの新府韮崎城に自ら火を放ち、岩殿城に向けて落ちのびて行った。その途中、勝頼夫人はこの地で燃える新府韮崎城を振り返り涙を流したという言い伝えがある。
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「泣石」を過ぎると直ぐに塩崎駅入口で大きな「三界萬霊塔」がある。そして、殊更に立派な家。なまこ壁が延々と続く。一体、どのような方が住んでいるのであろうか。維持していくのも大変であろうと思うのだが。

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ずんぐりした形の鳥居が現れた。舟形神社の鳥居である。説明板によれば、室町期の建造とのこと。現在の若者なら確実に頭をぶつける高さである。
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塩川沿いの道に出て進んで行き「塩川橋」を渡ると、線路ぎわの道を延々と進む。
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下宿(しもじゅく)の交差点には、「鰍沢横丁(かじかざわよこちょう)」の石碑がある。江戸時代には富士川舟運の拠点であった鰍沢河岸が設置され栄えるが、近代には鉄道や道路など交通機関の発達に伴い商業圏の拠点としての役割は低下し、近年は過疎化が進行しているとのこと。
また、この交差点からは、電信柱を廃止して、美しい街並みになっている。
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進むと、「韮崎宿本陣の跡」の石碑のみが残っていた。そして、本町の交差点で「韮崎駅」方面に進み、ガードをくぐて駅の正面に着いた。駅構内の売店で「アイスコーヒー」を飲んで一息つき、15:40分の帰りの電車に乗ることにした。
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駅のホームからは、韮崎名物の「観音像」、反対方向には「八ケ岳」がかすんで見えていた。梅雨の季節だが今日は快晴に恵まれ、暑さがこたえる1日であった。今日の晴天を見越して、行きも帰りも大勢の登山客が電車の座席の大半を占めていた。
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2009.06.07

阿弥陀海(笹子)から石和・・・(甲州街道)

本日の万歩計44,477(28.89Km)

先週に続いて、街道歩きに来ることができた。笹子駅を9時に出発して、直ぐにJR線のガード潜り進んで行く。登山を目指すと思われる人達も5?6人が同じように出発して行く。
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しばらく、進むと頭に厚い笠のようなものを載せた「笠懸地蔵」がある。由来はハッキリしないようだが、領民を襲う大飢饉等の災害や苦渋の救済を心願して作られたものであろうとされている。そして、1Kmほど進むと臨済宗妙心寺派の普明禅院がある。江戸日本橋より25里とある。
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国道から左に別れ、平行した橋を渡り進んで行く。突き当たって道標を見ながら左折し「新田下」のバス停を過ぎて右折する。右折すると甲州街道の道標があるが、これでは入口を示す役には立たない。ともかく、笹子峠越えの旧街道が始まる。
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杉の葉が降り積もった路を1Kmほど進むと舗装道路に出るが、数百メーターで再び樹林間の道への入口がある。
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数百メーター進むと開けた場所に出る。ここは三軒茶屋跡で「明治天皇野立所跡」の碑がある。明治13年6月19日にご巡幸されたと顕彰の記と書かれた金属板に書かれていた。
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明治天皇巡幸碑を過ぎると、急に勾配がキツクなり、普段の運動不足を実感させられながらあえぎながら進んで行くと「矢立の杉」に到着する。「矢立の杉」は昔武将が出陣に際して矢を立てて武運を祈ったとされる杉で、根廻り幹囲14.80メートル、目通り幹囲 9.00メートル、樹高約26.50メートルと書かれている。
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中山道の「大湫の杉」は目通りが11.0m、樹高60mで、「矢立の杉」は大きさでは2番目であるが、木の中が空洞になっていて天が見えるのが特徴である。休憩できる東屋も造られているので、疲れた体を休めるのに都合が良い。健脚を誇る先輩も東屋で流石に疲れた風情だ。
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「矢立の杉」の直ぐ上には真新しい地蔵があるので、何だろうと見てみると、建立は昨年(2008年)で杉良太郎の歌う「矢立の杉」を記念して作ったようで、集まった浄財は「矢立の杉」の保存に役立てるとのことであった。ここで街道歩きは地蔵の前を右に進んで林道を進むのが無難な方法だが、元来の街道は左脇を進む。登山の様相の道で、いささか急峻だが、危険は無いのでゆっくりと進んで行く。「矢立の杉」までの道に比べて通る人が少ないのが、踏跡から見て取れる。
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急な尾根道を登り終えて林道に出て進むと、「笹子遂道」が見えてくる。286,700円掛けて昭和13年に完成したものだという。優美さの感じられる入口のデザインで平成11年には登録有形文化財に指定された。それにしても、3分で通り抜けられるこの遂道の完成以前は、上の峠道を30分ほど掛けて歩いていたとは、大変なことであったろうと思う。もちろん街道歩きとしては、当然トンネルの上の峠道を歩んで行く。なんと熊出没注意の立て札まである。
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峠は色々な方面への分岐点で、賑やかな道標が立っていた。我々は「かいやまと駅」方面に進むことになる。下りてゆくとトンネルを通る林道に出る。
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ふり返るとトンネルの出口が見えている。林道のガードレールが切れていて、林道をショートカットして進む歩行路に入って行く。
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延々と杉林の間の道を下って行く。上質な絨毯のように柔らかく気持ちが良いが、なかなか林道には出られない。お昼までには通り過ぎられると思っていたが、まだまだと思われたので、途中でいただいた「おにぎり」を食べて休憩した。
ようやく林道に出て、長い長い林道を進んで「駒飼宿」に到着した。宿場の面影はほとんど残っていないが、立派な庭木、太く曲がった松の木が僅かに宿場であったことを主張しているように感じる。そして、中央高速の下を潜れば、また国道20号線と再会である。
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国道にぶつかって左折するのが甲州街道だが、右折して「甲斐大和駅」の方に300mほど進んだところにある「うゑのや」という食堂に入って遅い昼食をとる。もう1時だ。
食事を終え1時30分に勝沼方面に出発した。直ぐに「鶴瀬宿」の杭があった。ここが鶴瀬宿の本陣跡である。やがて、国道は洞門とトンネルとなる。
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洞門を過ぎるとトンネルの左側に旧道があり、途中に左に延びる吊り橋がある。かつて集落の交通に利用された長垣の吊橋だが、車社会の到来とともに使われることもなく、今は、もう朽ちて通行は不能である。そして、昨年できたばかりの真新しい洞門が姿を見せた。
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道路の左側に「大和YAMATO」と書かれたモニュメントが見えてきた。ここが大和町と勝沼町の境界である。長い単調な国道歩きも終わりに近づき深沢の交差点を過ぎると、近藤勇の石像が建っていた。ここは、1868年3月6日に近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊300と板垣退助率いる官軍3000が甲州勝沼の戦いとして激突したところである。官軍の圧倒的な火力に甲陽鎮撫隊はたちまち敗走して、近藤勇は江戸に逃げ帰った。その後、さほどの時も置かず、近藤勇は捕らえられ、板橋で露と散ることになった。
それにしても、この近藤勇の石像は漫画チックで、全く重厚さは感じられない。
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直ぐに、道路の左側に大善寺。ぶどう栽培の発祥のお寺という。しかし、境内に入るだけで入場料500円の商魂に嫌気がさして外から本堂を撮影するのみで通り過ぎた。
そして、上行寺前の交差点に到着した。午後3時である。ここから「勝沼ぶどう郷駅」に向い帰宅の途に着くか、先に進むか迷ったが、先に進んで「石和駅」に向うことにした。

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上行寺前から100mほど進んで上町の交差点を過ぎると、勝沼本陣跡の「槍掛けの松」が目に入る。大名や公家が本陣に泊まったときに槍を立てかけた松の木だという。少し進むと、古い2階建てと3階建ての蔵が残っていた。葡萄がもたらした富が窺える。
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明治30年代に勝沼郵便局舎として建てられた当時の洋風建築で、その後大正9年から昭和7年ころまで、山梨田中銀行の社屋として利用された建物に遭遇した。銀行当時のカウンターや時代を経た家具調度類。特にゼンマイ式の蓄音機で鉄の針で「夕焼け小焼け」の童謡が聴けたのは郷愁を誘われるものであった。
いただいた小冊子によれば、第二次世界大戦中は北白川宮が疎開された。平成9年5月に国の登録有形文化財になり、平成10年12月に田中逸策氏より勝沼町に寄贈されたとある。現在は街道を歩く人々の無料休憩所として、ボランティアの方が建物の説明とお茶のサービスを行ってくれる。
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この辺りから、葡萄棚を配した家が多く見られ、ワイナリーも何軒か見掛けられた。特に有名なのが白百合醸造で、工場見学もできるが、今日は先を急ぐ旅で樽や自動車の廃材で作ったロボットのモニュメントを見ながら通り過ぎて行く。
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時間の経過を気にしながら暑い陽射しの中を石和に向って歩き続ける。白百合醸造から2.5Kmほど進んで日川橋を渡り、さらに、2Kmほど川に沿って進む。日川は途中で合流して笛吹川となるが、笛吹川を渡ると、川の堤防に沿ってしばらくは松並木となったところを進む。松並木を過ぎると、笛吹権三郎之像があり、ここで笛吹川と別れ、石和温泉の市街に向うことになる。
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市街への道を進んでいると、「テアトル石和」という昔懐かしい感じの映画館があり、2本立てで日本映画を上映していた。
そして、国道に合流したところに遠妙寺(おんみょうじ)がある。仁王門を備えた寺は珍しい。ずいぶん立派な仁王門だと思っていたら市指定文化財であった。また、この遠妙寺は、謡曲の「鵜飼」発祥で有名とのこと。

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少し進むと、石和本陣跡があった。本陣跡は駐車場となってしまっていたが、蔵が1つだけ残っているのが見受けられた。国道の向こう側には石和小林公園がある。30際のとき富国徴兵保険相互会社(現富国生命)の第一部長、44歳で社長、52歳の時に日本開発銀行初代総裁。その後東南アジア移動大使、インドネシア賠償交渉日本政府代表、アラビア石油社長、海外技術協力事業団初代会長、財政制度審議会会長、外資審議会会長を歴任し、勲一等旭日大綬章を賜った石和の英雄、小林中(あたる)の屋敷跡である。
等身大の銅像の他、足湯があり女性が数人楽しんでいた。
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ようやく、石和温泉駅入口の交差点に着いた。久しぶりの長距離歩行で疲労がつのってふらふらである。ここから、駅までは800mほどだが、無限の遠さに感じられた。それでも午後5時30分に石和駅に着き運よく直ぐの電車に乗ることができた。

2009.05.31

猿橋から笹子・・・(甲州街道)

本日の万歩計27,850(18.1Km)

3月21日に歩いてから、約2ケ月ぶりである。季節としても気持ちの良い4月は2人の都合が合わず、5月になってもなかなか行けず、5月のラストの31日に午後から雨との天気予報であったが、大したことは無いだろうと、出掛けることにした。
猿橋駅では、大勢の自転車の輪行バッグを担いだ大学生と思しき一行と一緒に下りたが、サイクリングに適したルートもあるのだろう。歩き始めると、直ぐに大月の特徴的な山容の岩殿山が見えてくる。
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猿橋駅より少し進んで国道から右に離れ、800mほど進むと右手に東京電力の駒橋発電所の社員住宅がある。ここの発電所は需要が増えた東京の電力が日露戦争による石炭不足で火力発電だけでは不足するようになり、明治42年に作られた由。この遠隔地に水力発電所を建設し、東京の早稲田変電所までの76kmを55,000Vの電圧で送電した。当時はスイス製の水車にドイツ製の発電機を5台設置し15,000kWの電力を生み出したという。現在は、8本あった導水管も2本となり、電力もこの近隣への送電に留まっているとのこと。左側の上り坂を上って行くと、道路下に大きな水車が見えてくる。この水車は、ここの駒橋発電所で使われていたものでなく、旧桂川電力公司の鹿留発電所にあったフランシス水車で1912年製とのこと。
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導水菅を過ぎて細い坂道を上って行くと、第五甲州街道踏切があり、少し進むと国道に合流するが、直ぐに左に分かれて旧道がある。300mほど進むと、厄王大権現があって、旧道は終わる。
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国道を400mほど進み、高月橋入口交差点で右折すると真正面に岩殿山が見える。戦国時代の幕あけのころ大永七年(1527)、郡内領守護小山田越中守信有が築城した山であり、敵が攻めてきたとき、子供の泣き声で発見されるのを避けるために子供を落としたという「稚児落とし」と呼ばれる断崖がある。単なる伝説と思われていたが、最近の調査で幼児の骨が発見されたという。怖い話しである。
そして、古い商店街を進んで大月駅に着いた。
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大月駅から700mほど進み、桂川を渡って、さらに700mほど進むと、国道の左側に下花咲一里塚跡がある。ここは近辺にあった石仏を集めて整備したとのことだが、元の一里塚の面影は無くなっている。
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約500mで、本日のハイライトの下花咲宿の本陣である。この地方の星野家の家屋で、現在の当主は17代目とのことで、まだ部分的に住居として使用されている。
住んでおられる上品な老婦人が、家屋内を案内し、説明してくれた。
お婆さんのご主人は養子で、東海道の島田宿の本陣からこられたとのこと。叔母さんに絵を描く方が居られたと、色々な屏風絵も飾られていた。

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庭の向こうには、星野家は24町歩も保有する豪農でもあって、幾つもの蔵が建っていたそうである。裏側は中央高速の大月インターが直ぐ近くで、庭の一隅には文庫蔵が残っていた。また、お婆さんの祖母が嫁入りに乗ってきたという駕籠も保存されていた。
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中央高速の大月インター入口を過ぎ、笹子川を渡って、真木温泉入口にさしかかる。木が茂っていて国道であることが残念と思う道が続く。
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お昼時間になり、「いなだや食堂」で昼食をとる。地元の人達が4人ほどで酒盛りで歓談していて、何処まで行くのか等話しかけてきた。
食事が終わると、雨が降ってきた。幸い大降りではない。
初狩駅も過ぎ、進むと、「小林本陣」があった。元の家屋はなくなっていたが、僅かに当時を偲ばせる。
延々と国道歩きが続くが1.5kmほど進んで、ようやく旧道に入る。やはり旧道は車の騒音を聞くことから免れられるのが良い。800mほどで、山門が立派な「宝林寺」があり、直ぐに国道に出るが、また旧道が右に分かれる。旧道の終わりが近づくと、「稲村神社」が目印で直ぐに左折して国道に合流する。
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国道で笹子川を渡ると、笹一醸造の酒遊館があり、直径4.8m、長さ4.95mの世界一の太鼓が目を引く。ここでは、お土産のお酒、菓子などが売られている。酒粕を入れた饅頭が評判が良いとのことでお土産に買った。
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まだ、小雨がぱらついている。酒遊館を過ぎると、直ぐに笹子駅が左に見えてくる。駅前には、大きな「笹子墜道記念碑」。そして無人の笹子駅である。ちょうど午後2時である。次回の笹子峠越えを期待しつつ、今日はここで終えることにした。今日歩いた距離は20Kmにも満たないが、久しぶりで足が少々痛んだ。
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