2010.08.22

動物いろいろ内臓料理の会・・・(仲間)

さて、8月21日(土)の夜の、いろいろな動物の内臓料理を食べる会です。メンバーは何時も集まる、音楽好き、色々な話題好きの仲間9人です。江戸東京博物館を見学した女性メンバーの一人は、内臓料理はどうもと不参加で帰りました。
残ったメンバーは、美食家(悪食家?)揃いです。小さなイタリアンレストラン(店名:茂ル木)で、3ケ月毎ぐらいの頻度で集まります。しかし、イタリアンのレストランで「モツ料理」は珍しいのではないでしょうか。
本日のメニューは各席に並べられていて、最初にマスターのメニューの説明がありました。聞きなれない「豚のガツ」とは、胃袋のことです。牛は胃が4つあるが、豚は一つで「ガツ」のみです。子牛マメとは、子牛の腎臓で匂いもきつく超マニアックなもので、マスターも2回しか食べたことはなく、もう二度と食べたくないと、強烈な先制パンチです。我々以外にも訪れていた客も含めて、一同「うゎーーーー」と声が上がります。
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4種類の料理からなるアンティパストが出てきました。特に問題はありません。美味しいです。
次に、牛テールとほほ肉、子牛の骨髄のミネストラ(具たくさんのスープ)が、テーブルが狭いからとナベごと出てきました。これは特に美味しかったです。
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次にニョッキ(この日唯一のパスタ)と牛の4種類の胃の料理です。これも美味しい。皆さん食べ終わってから、パンの追加をもらってお皿をぬぐって、ソースまできれいに食べました。
次は焼きナスに挽肉ようのものを詰め、オクラと細いインゲン豆ようのつき合わせの料理で、全く普通に美味しい一皿です。
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そして、いよいよマスターも二度と食べたくないという子牛マメ(腎臓)のフリット(揚げ物)と牛ハラミのビステッカ(ビフテキ)が出てきました。ビステッカは当然美味しいのですが、子牛マメもマスターの脅しにも拘わらず、美味しいです。拍子抜けでもあり、ホッとした時でもありました。
むしろ、一緒に出てきた牛ハツのカルネクルーダの方が生肉であり、人によっては抵抗があるのではないでしょうか。
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dinner_09.jpg最後に、デザートを食べ、コーヒーを追加注文(グラッパ注文も1人いました)して終わりです。
マスターに子牛のマメのフリットも問題なく、美味しかったと言ったら、腎臓は鮮度で味が劇的に変わるので、今回、ほとんど生きているほどの新しいのを持ってきてくれと注文を付けたのが成功だったのかも知れないと言っていました。また、匂いがきついので、丹念に下ごしらえをやったとのことでした。
さて、7時から初めて、気がつくと終電車を気にする人がいるほどの時刻になっていました。気の合った仲間とおしゃべりしながらの食事は、ほんとうに楽しいものです。帰りがけにマスターが、秋になったら熊を食わせられるかもしれないと言っていました。とても、美味しいとのことでした。


両国界隈と江戸東京博物館・・・(散策)

昨日は、かなりマニアックな「動物いろいろ内臓料理の会」があり、仲間であつまった。始まるのは19時からだが、早めに行って、両国界隈を散策することにした。
両国駅の改札口を出て、細い通りを少し進むと、小さな広場に「芥川龍之介生育の地」と書かれた、説明板が立っていた。「生誕の地」というのは、よくあるが「生育の地」の説明板は初めて見た。調べると、龍之介は明治25年3月1日、京橋区入船町8丁目1(現中央区明石町)に生まれたが、生後7ヶ月で母が病気となり、この地本所区小泉町15番地に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられたとのこと。
次に、両国公園の方に進むと、お祭りの準備か、お神輿が公園前の道路に引き出され、公園内にも大勢の人たちが祭りの姿で集まっていた。
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しかし、暑くて汗が滲んでくる。散策は、切り上げて「江戸東京博物館」に逃げ込むことにした。エントリーの方に歩いてゆくと、亀に乗った徳川家康の銅像が建っていた。後ろは両国中学であるが、なんだかおかしな像である。手には鷹がとまっているので、鷹狩りをあらわしたのか。それにしても何故亀に乗っているのか、なんともおかしな銅像である。
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さて、博物館に入った。涼しい。一気に6階までエレベータで上り、入り口ゲートを通ると、日本橋の北側半分の原寸模型が架かっている。後ほど下から見上げた写真も撮ったが、幅も広く立派である。
限られた場所では許されているが、カメラのフラッシュは禁止で、暗い写真しか撮れないのは仕方がない。
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赤糸威鎧 「あかいとおどしよろい)が飾られていた。東京都、武蔵御獄神社(みたけじんじゃ)に伝わるのものの模造である。本物の製作年代は平安時代で兜、胴、大袖、栴檀板、鳩尾板等大鎧を構成するものが残っており、完全な形で現存する鎧のなかで最古といわれる。
江戸と言えば、「大田道灌」だが、飾られていた坐像は、かわいすぎるようにも見えた。今まで抱いていたイメージは、もっと精悍な感じであったのだが。
そして、何のことはない、今日夜の食事会の仲間とパッタリ顔を合わせた。
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幾つかのジオラマが設置されていたが、江戸期の情景が細かくよくあらわされている。
そして、「松竹梅椿剣酸漿紋蒔絵女乗物」です。スミソニアン博物館所蔵の篤姫の駕籠が立派であると、特別展示などを通じて話題になったが、この駕籠も立派である。酒井家ゆかりの駕籠とのこと。
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28歳の江戸詰武士の一ヶ月の行動と一年間の収支が図示されていて、当時の生活をうかがう上で興味深かった。
年収が179貫937文で、金27両2朱程度と書かれているので、現在の貨幣価値に直すと、180万円ぐらい(1文=1円程度として)である。それでも、食費は20%なので、結構余裕のある生活だったと思える。交際費が16%というのも、妥当なように思える。
各種貨幣も展示されていたが、江戸期は金の小判は、そのまま使うものでなく、小判で文を買い、文を使ったとのこと。海外に旅行したとき、手持ちの円なりドルを現地通貨に換えてから買い物をするようなものである。 これを国内で行うのだから、なんとも厄介なシステムにも思えるのだが、金の小判は大事で、頻繁に流通させるものでなく貯蔵しておくものとの考えがあったのであろう。
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江戸の長屋の様子を示した実物大模型もあり、一階に下りると明治から、先の大戦から現在に至る東京になって以降の展示であった。そうこうするうちに、夜の会食の時間も近づいて来たので、博物館を後にした。
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2010.08.21

カメラの比較・・・(etc)

暑い日が続いて、食料品を買いに行くぐらいしか外出をする気になりません。
そこで、今日の朝は自宅のベランダの花と近くのマンションを撮影して、カメラの表現力の差異を見てみることにしました。
(画像-1)はNIKON-D3000でProgramモード撮影したものですが、絞り優先モードでも試みても、顕著な差は認められませんでした。
(画像-2)はパナソニックのDMC-G1で撮影したもので、(画像-1)に比べると、暗く写っています。そこで、PCに取り込みPaintShopを使って明度を上げたのが(画像-3)ですが、明らかに画質が落ちています。
(画像-4)はDMC-G1で撮影時の明度を上げて(3ステップ)撮影したものですが、(画像-1)に近づき画質も良好です。それでは、DMC-G1では常に明度を上げ気味で撮影すべきかと言うと、そうでもありません。
(画像-5)のD3000の撮影画像に対して、(画像-6)のDMC-G1の画像は明るくて、どちらが良いかは好みの問題でもありますが、遠くの鉄塔の像まで見ると、やはりD3000の方が深みのある画像に思えます。また、(画像-7)は3ステップ明度を上げて撮影したDMC-G1の画像ですが、これは明らかに明る過ぎます。
結論としては、DMC3000の方が、より良質な画像が得られるようですが、カメラの重さにかなり差があるので、場合により使い分けることになると思っています。
(画像-1) D3000でProgramモードで撮影
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(画像-2) DMC-G1でProgramモードで撮影
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(画像-3) DMC-G1で撮影しPCに取り込んでから明るさを上げる処理を行った。
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(画像-4) DMC-G1で明るさを3ステップ上げて撮影
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(画像-5) D3000で撮影
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(画像-6) DMC-G1で撮影
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(画像-7) DMC-G1で明るさを3ステップ上げて撮影
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2010.08.05

朝比奈切通しと鶴岡八幡宮・・・(散策)

暑い日が続きますが、家に閉じこもってばかりというのもどうかと思い、鎌倉の「朝比奈切通し」を訪れました。
初めての経験です。
横浜から京浜急行で「金沢八景駅」に行き、バスで朝比奈の停留所で降りて歩き始めます。
歩き始めると、右側に「イチイ」の大木があり、直ぐに「国史跡 朝夷奈切通」の説明板があります。朝比奈でなく朝夷奈切通(あさいなきりとおし)となっています。
鎌倉幕府は、仁治元年(1240)六浦津との重要交通路として、路改修を議定、翌年4月から工事にかかりました。執権北条泰時自らが監督し、自分の乗馬に土石を運ばせて工事を急がせた。鎌倉七口の中、最も険阻な路とのこと。

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入り口には、庚申塔が並んでいて、古い路を歩く期待感が高まります。 直ぐに「横浜横須賀道路」の下をくぐります。 鎌倉時代の道と、現在の道である自動車専用道路が交わるポイントです。

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市街地から一歩入ったところとは思えないほどうっそうと木が茂っています。進むと、ほどなく「朝比奈切通し」です。

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「切通し」は短い間ですが、これでも鎌倉時代は大変な工事だったのでしょう。
鎌倉時代には、六浦に全国から種々な物資が集められ、これらを切通しの路を通って鎌倉に運び入れたのです。
経済的な価値が高い路であったのですが、一方、防衛上の配慮も十分に施された路でした。

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しばらく樹林の中を進むと、左に「熊野神社」への道が分岐しています。

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少し距離はありますが、熊野神社に参拝することにしました。鳥居の辺りには、一面に藪茗荷(やぶみょうが)が茂っていて、白い花が咲いていました。

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人の気配が全く感じられない山道を進んで辿り着いた熊野神社は、新しい本堂で予想以上に立派なものでした。
二礼二拍手一礼でお参りします。 そして、元の分岐点まで戻って進むと直ぐに峠の頂上で、後は下りです。

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下りに差し掛かると、湧き水で濡れた岩やぬかるんだ道で、歩き難く滑りやすくて、尻餅をつかなかったのが不思議なくらいの道でした。ようやく、樹林の密度も下がり明るくなってきて勾配も緩やかになり、山道も終わりが近づきます。

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母親と二人の息子が川遊びをしていました。今日は特に暑いので、川遊びは楽しいことでしょう。
ここの滝は朝比奈切通しを一夜で切り開いたという伝説の剛力武士、朝比奈三郎に因んで「三郎の滝」と名付けられています。そして、日本語以外にも英語、中国語、ハングルで書かれた「朝夷奈切通」の説明版が立っていました。

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約1時間の旧道歩きを終え、金沢街道にぶつかり、滑川沿いの道を進みます。

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最初は鶴岡八幡宮まで歩く予定でしたが、あまりの暑さに恐れをなして十二所のバス停でバスに乗りました。10分ほどで鶴岡八幡宮に着きました。

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鶴岡八幡宮の大木といえば、今年の春に倒れた大銀杏を思い浮かべますが、入り口の橋を渡ったところにも、樹齢700年の「マキ」の大木があります。参道の両側に細い棒が立ち並んでいるのは、ぼんぼり祭りの準備です。

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鶴岡八幡宮を訪ねた目的は、春に倒れた大銀杏のその後を見るためです。4月13日に訪れたときは残った根からヒコバエが少し芽吹いた程度だったのですが、今回は残った根からも、移した太い幹からも元気に新芽が育っていました。倒れた直後は、芽吹くかどうか心配したものですが、驚くほどの育ち様です。

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とにかく暑い日です。お昼の時間になりました。途中で昼食を取り、帰宅することとしました。
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2010.08.02

東戸塚西口・・・(etc)

今日始めてD3000を使って撮影しました。写りは気にいったのですが、写真の四隅が不適切なレンズフードでケラレが出ています。少し望遠側にして撮れば大丈夫ですが、ワイド端でケラレが出るのが分かりました。早速、正規品を買うべく注文しました。
さて、東戸塚駅の東口は開発されモールもでき、大いに賑わっています。
西口は、東口より遅れた感がありますが、駅前広場のロータリーができ、高層マンションもできて綺麗になってきました。
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