2019.11.09

函館訪問(2019/11/8-9)・・・(旅行)

11月8日から一泊で函館を訪れました。一日目の8日は、飛行機が遅延したこともあり、函館市内のホテルに着いたのは午後4時ころでした。なんとも中途半端な時間ですが、夕食には早すぎるのでホテルの前の開港通りを函館山方面に歩いて行くと、金森赤レンガ倉庫の一端である明治記念館と書かれた赤い蔦で覆われた建物がありました。パリ外国宣教会司祭メルメ・カションが安政6年(1859)に仮聖堂を設けたのに始まり、何度かの増設と消失の後、大正13年(1924)に、高さ百尺(33メートル)の尖塔を持つ鐘楼があるゴシック様式の聖堂として再建され、現在に至っている。

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更に進むと、美しい外観の函館ハリストス正教会が建っていた。安政5年(1859)にロシア領事のゴシケヴィッチが領事館内に聖堂を建てたのが始まりで、初代司祭はすぐに帰国したが、1861年に来日した修道司祭の亜使徒聖ニコライ(ニコライ・カサートキン)によって3人が洗礼を受け、日本正教会の原型となったとの由。日本の正教会の拠点はその後、ニコライにより東京の神田に移されたのであるが、この地の聖堂は明治40年(1907)の函館大火によって全焼の憂き目を見るが、大正5年(1916)に再建されたのが現存している。

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ハリトス正教会を後にすると、ここまでくれば函館山の夜景を見たいと思い、函館山のケーブル山麓駅に向かう。ケーブルカーは、中国からの若いカップルで一杯で、通勤電車並の混雑であった。山頂駅でも大変な混雑ぶりである。それに、とても寒い。皆さんスマホで夜景を撮影している。私も撮ってみたが、スマホではなかなかうまく写せない。このときばかりは、カメラを(一眼レフでないが)持ってきて本当に良かったと思えた。

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一夜明けて、ホテルの窓から外を眺めると函館市青函連絡船記念館摩周丸が見える。昭和63(1988)年3月13日の青函連絡船最後の日まで運航していた摩周丸である。現在は固定され、船内は当時のままで見学できる。
昨夜は、疲れて部屋風呂で済ませたが、朝はホテルの大浴場で温まり、身支度を整え函館駅近くの朝市を見に出かける。朝食には、朝市で海鮮丼と決めていたが、安く新鮮な丼を期待していたが、観光客目当て価格でなかなか高い。比較的安価な店を選んで朝食とした。

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朝食の後は、コーヒーを飲みたいと思っても近くに適当な店もなく、函館駅ビル内のコーヒーショップまで行く羽目となった。
コーヒーの後は、海寄りの道を歩いてホテルに戻った。遠くに函館山のケーブル山頂駅が見えたのでズームアップして撮影してみた。

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ホテルに戻り、休息の後金森赤レンガ倉庫を見に行く。文久3年(1863)に大分県出身の初代渡邉熊四郎が長崎県から箱館(函館)に渡り、明治2年(1869)、大町に金森屋洋物店を開業したのが現在の赤レンガ倉庫の起源で、現在はショッピングモールやビアホール・レストランが入居していて、函館の観光名所となっている。この地域一帯は重要伝統的建造物群保存地区、街並みは北海道遺産に選定されているとのこと。

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hakodate_15.jpg金森赤レンガ倉庫から開港通りに向かうと、日本最古のコンクリート電柱が2本立っている。大正12年(1923)に建てたというから、100年弱経っており、しかも現役で使われているから驚きである。

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函館は多くの坂道が有名らしいが、特に八幡坂は港が見える坂道であることから、映画撮影によく用いられるとのこと。それ以外の坂道も、街路樹が色づき美しい。
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方向を転じて五稜郭に向かう。
安政元年(1854)3月、日米和親条約の締結により箱館開港が決定すると、江戸幕府は松前藩領だった箱館周辺を上置し、同年6月に現在の元町公園の場所に箱館奉行を再置した。しかし、同所は箱館湾内から至近かつ遮るものがなく防御に適さず、亀田方面への移転が決せられ、箱館湾内からの艦砲射撃の射程外に位置する鍛冶村中道に「御役所四方土塁」を築くこととした。これが五稜郭である。木々が紅葉していて美しいが、ともかく寒い。4℃ぐらいであろうか。

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中心に位置する箱館(函館)奉行所のたてものを見て、寒さに耐えきれず、急いで五稜郭タワーに逃げ込むこととなった。タワーから五稜郭を見下ろすと、全体の形状や配置がよく分かる。

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最後に函館で美味しいと評判の「塩ラーメン」を食べ、すっかり暗くなった中で五稜郭ターワーを見上げて、その後函館空港に向かった。


2019.03.08

興国寺・・・(旅行)

醤油の発祥の地の和歌山県の湯浅町を訪れた後は、その醤油のもととなった金山寺味噌の醸造方法を宋より持ち帰った心地覚心(法燈国師)で有名な興国寺に向かった。
 
興国寺に関しては、全く予備知識もなく訪れたが、Wikipediaによると、
安貞元年(1227)、高野山金剛三昧院の願生(俗名・葛山景倫)が主君であった源実朝の菩提を弔うために創建したもので、創建時は真言宗寺院で西方寺と称していた。葛山景倫は承久元年(1219)、実朝の暗殺を機に出家。実朝の生母・北条政子は願生の忠誠心に報い、願生を西方寺のある由良荘の地頭に任命した。願生は親交のあった心地覚心(法燈国師)が宋から帰国すると、正嘉2年1258)に西方寺の住職に迎えて開山とした。覚心は宗旨を真言宗から臨済宗に改め、その後に後醍醐天皇より寺号の興国寺を賜ったとある。
また、国師は宋での修行中に坐禅の呼吸法として尺八を学び、帰国の際には名手4人を伴い帰国した。これが禅と尺八(普化尺八)の結びつきのはじまりで、深編み笠の虚無僧が尺八を奏しながら普化宗を諸国に広め、興国寺は虚無僧の本山として知られるようになった。現在も寺の行事などには必ず虚無僧が尺八を奏し、この伝統を伝えている。加えて、覚心は径山寺味噌(金山寺味噌)の醸造方法も会得して帰国したことは、先に述べた。
 
興国寺に着くと立派な山門が迎えてくれる。山門の先は石畳の上り坂になっており、上ると長い参道が続き途中には、後藤象二郎、伊藤博文、陸奥宗光らと交流し、明治4年(1871)、岩倉具視の欧米使節団に参加した由良守応(ゆらもりまさ)の顕彰碑がある。由良町の名も郷土の偉人としての由良守応にちなんで名付けられたとのこと。

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長い参道を進むと石段が見えてきて、ようやく本堂到達する。本堂は、末寺143カ寺をもつ臨済宗法燈派の大本山として「紀に興国寺あり」と称された名刹の風格が感じられる。しかし、境内には人影は全く無い。

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経済の左には、立派な鐘楼があり、本堂裏には、奥の院の建物がある。

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本堂の左奥には、天狗堂があるが、年に1度の天狗祭りが盛大に行われるとのこと。

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湯浅(醤油の発祥の地)・・・(旅行)

醤油の発祥の地の和歌山県の湯浅町を訪れた。和歌山駅から紀勢線で40分ほどのところで、古い町並みが残っている。
ヤマサ醤油の記述によれば、醤油の元となるものを作ったのは、鎌倉時代、紀州由良(現在の和歌山県日高郡)の興国寺の僧であった覚心だといわれている。覚心が中国で覚えた径山寺味噌(金山寺味噌)の製法を紀州湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」の原型だったとのこと。 ヤマサ醤油を創業した初代濱口儀兵衛は、醤油発祥の地である紀州湯浅の隣りの広村(現広川町)の出身で、濱口家の家長は代々、紀州広村にある本家と銚子を行き来していたという。
 
醤油の発祥の地と言われる湯浅町は、古い家並みが比較的よく残されている。家の軒下には、野口雨情の詩を記した行灯等も配置され、町の風情を温存しようとの意志が見受けられる。

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歩いていると、「甚風呂」という名の幕末から昭和の終わりまで4代に亘り営業していた大衆風呂があった。屋号は「戎湯」というが、経営者の名前から「甚風呂」と呼ばれていたとのこと。中にはレトロな感じの浴槽があり、元の住居部分は、古い道具類の展示館として使用されていた。

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「甚風呂」の近くに湯浅まちなみ交流館があり、中に入ると温かいお茶の無料サービスがあり、冷えた体にはありがたかった。また、色々な情報が聞けて、町の案内図等も頂いた。
伺った情報により、町並みの保存地域に向かうと、天保12年(1841)創業の角長があり、「醤油のふるさと手作り醤油」の大きな看板が掛かっていた。保存地域の北町通りを進むと、「北町ふれあいギャラリー」があり、立派なお雛様が展示されていた。

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北町通りを進んで鍛冶町通りに突き当たるところに、麹屋の屋号で麹の製造販売をしていた津浦家の建物がある。この家屋は明治11年の建築とのこと。

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鍛冶町通りを南に300mほど進むと、左手に「深専寺」があり、その山門横に「大地震津なみ心え之記」と書かれた碑がある。嘉永7年(安政元年・1854年)11月4日(新暦12月24日)の「安政東海地震」(M8.4)とその32時間後の「安政南海地震」(M8.4)が連続して和歌山を襲った。強烈な揺れを繰り返し、ついには、ここ湯浅地区や隣町の広村も大きな津波に襲われた。地震発生2年後、安政三年、深専寺住職善徴上人(承空上人)の代にこの碑が建立された。碑文の概要を記すと、
 
「昔からの言い伝えによると、井戸の水が減ったり、濁ったりすると津波が起こる前兆であるというが、今回(嘉永七年)の地震の時は、井戸の水は減りも濁りもしなかった。  そうであるとすれば、井戸水の増減などにかかわらず、今後万一、地震が起これば、火の用心をして、その上、津波が押し寄せてくるものと考え、絶対に浜辺や川筋に逃げず、この深専寺の門前を通って東へと向い、天神山の方へ逃げること」とある。
 
お寺は、奈良時代には行基の開祖による海雲院という寺院として創建されたとされるが、南北朝時代、寛正3年(南北朝時代、1462年(寛正3年)または1431年(永享3年)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。また永享3年(1431)頃に、荒廃していた海雲院を、赤松則村の曾孫である明秀上人が、浄土宗西山派の教えを持って「深専寺」と改称し再興した。境内には小さいながらも石庭があり、清浄感のあるものであった。
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yuasa_15.jpg道町通りと寺町道りの交差点に立石の道標がある。この道町通りが昔の熊野古道であり、この地点が熊野古道と高野山への道の分岐点であったことを示している。

東面には頭に指で北を指した図が彫られ「きみゐでら」(紀三井寺)の文字。北面には「すぐ熊野道」の文字。「すぐ」というのは「近い」と言う意味ではなく、「まっすぐ」と言う意味である。南面には「いせかうや右」(伊勢・高野山は右へ)の文字がある。


2019.03.07

道成寺・・・(旅行)

和歌山県日高郡日高川町にある道成寺を訪れました。天台宗の寺院で能、歌舞伎、人形浄瑠璃の演目で有名となった「安珍・清姫伝説」のお寺である。
大宝元年(701)、文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として紀大臣道成なる者が建立したという。紀州で一番古く本堂など重要文化財の建造物や、国宝、文化財指定の仏像などがある。空海が高野山を開いたのが弘仁7(816)であるので、それより100年以上古い。
 
駐車場から進むと、石段とその上に仁王門が見えてくる。この石段は、昔から「のぼりやすく、おりやすい」と言われ、旧国鉄の技術者が測量に来たこともあるとのこと。実はこれには秘密があって、左右の土手が平行でなく、逆ハの字に開いているのである。石段自体は平行だが、その左右の斜面が上は広く下がせまく全体として台形の石段になっている。そのために見た目には階段が短く見え、上りやすく感じることを狙ったのである。この石段が台形になっていることは、住職はじめ誰も気づかず、平成15年に石段の前の道がアスファルトから石畳に舗装しなおされた時、工事関係者が気づいたとのこと。たしかに、心なしか楽に上れたように感じた。
 
階段を上って仁王門をくぐると正面に本堂が見えてきた。仁王門とともに国指定重要文化財の建築物である。
 
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doujyouji_03.jpg本堂の右手方向には三重の塔がある。台風が度々上陸する土地柄で戦国時代には「塔は無く、礎石ばかりなり」と記されいたというが、江戸期に入って世情も安定し、元禄十三年(1763)に再建されたもので、県指定重要文化財となっている。この塔には特徴があり、一、二階の屋根は平行垂木(へいこうだるき)で、三階は扇垂木(おうぎだるき)で支えられている。
これについて、不思議な民話が残っている。棟梁が二階まで組み上げて、下に降りて休憩していると、一人の巡礼が通りかかり、扇垂木って知ってるか?もっと美しい塔にできる方法があると話しかけた。
棟梁が巡礼の言う通りに三階を扇垂木にしてみると、見映えが一層良くなった。「ああ、一階も二階も扇垂木としておけば良かった。わしも素人に教わるようでは…」と後悔して、完成後に、三階から鋭いノミを口にくわえて飛び降り自殺をしてしまったという。しかし、話としては面白いが、そんな事実はなく。おそらく、晩酌が過ぎて「飲み」で命を落としたののではと思われるとのこと。
 
本堂の左手方向には「護摩堂」があり、その前方には「入相桜(いりあいざくら)」という桜の植え込みがある。江戸時代には有名な大木で、古今和歌集に能因法師の和歌がある。「山里の 春の夕暮れ 来て見れば 入相の鐘に 花ぞ散りける」

入相桜は和歌山県の天然記念物に指定されていたが、大正年間に台風で幹が折れ、指定は解除された。幹は折れたものの、根本から別の芽が出て、今では再び大木の桜となって枝を広げている。

道成寺では、昭和50年代に境内の発掘調査が行われ、法隆寺を左右逆にした伽藍配置であったことがわかり、法隆寺に今も残る鐘楼の位置を、左右逆にして道成寺にあてはめると、道成寺の初代鐘楼の場所には入相桜の植え込みがある場所と判明した。最近の発掘調査で正に鐘楼のあった場所と特定され、周りから焼けた土も見出された。

安珍・清姫の伝説は、鐘楼が何らかの原因で焼けたことと関連があるのではないだろうか。
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2018.07.11

吹割の滝・・・(旅行)

暑い日が続き、どこか涼しいところと群馬県田沼市にある「吹割の滝」を見に行ってきました。
沼田駅からバスで「吹割の滝」まで行ったのですが、そのまま乗っていれば尾瀬の「鳩待峠」まで行くバスでした。
バス停で降りると、10mほど先に「吹割の滝」の遊歩道への案内板がありました。進むと、歩道脇でお土産品などが並べられていて、その前を降りて行くと木立の間から第一の滝が見えてきます。「鱒飛びの滝」です。

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「鱒飛びの滝」は、鱒が飛んでも上れない滝とのことから、そう呼ばれるようになったとのこと。ロープが張られていて傍には近づけないのですが、確かに涼しさを醸し出してくれています。先に進むと「天狗岩」があります。自然の造形の妙です。

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進んで行くと、この吹割の滝を作り出した渓谷は、比較的柔らかい火砕流堆積物を片品川が削り取って作り出したものであることが良く分かります。そして、いよいよ主役の「吹割の滝」です。

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川底が割れて形成された滝ですが、もう少し水量が多いと迫力も増して良かったのですが。

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上流に向かって進むと、川の中に浮島があり、左右に架った浮島橋が見えてきます。

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橋を渡って浮島に着くと浮島観音堂が建っています。左甚五郎作と伝えられる如意輪観世音菩薩が祀られています。

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観音堂から2つ目の浮島橋を渡って渓谷の向こう側に渡ると、遊歩道が今度は川下に向かって続いています。「詩(うた)のこみち」と名付けられて、俳句を刻んだ石碑が等間隔で並んでいました。しかし、遊歩道は渓谷よりかなり高い場所を通るので、水の流れは3箇所の展望台と名付けられた場所以外では見ることができません。

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時計を見ると、ちょうど一時間で遊歩道を一周できたことが分かりました。


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