2010.09.22

興福寺、薬師寺、唐招提寺・・・(旅行)

奈良に立ち寄る機会があり、興福寺の国宝展、今年秋に解体され修復に10年を要するとされる薬師寺の東塔ならびに唐招提寺を訪れることにしました。
1. 興福寺とその周辺
宿泊に選んだホテルが「猿沢池」の近くでした。着いたのは9月21日でしたが、22日には、采女祭(うねめまつり)とのことで、池の周りには提灯が灯されていました。采女祭は、奈良時代に帝の寵愛が衰えたことを嘆いて猿沢池に身を投げた采女(後宮の女官)の霊を慰めるために行われる祭りです。
池の周りに配置されたベンチでは、若いカップルが提灯の照らす明かりの中の楽しい時間を過ごしています。
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猿沢池からは、ライトアップしている興福寺の五重塔が見えていました。階段を上って行くと、5人ばかりの人が撮影を試みていましたが、三脚を使っている人はともかく、夜間の撮影なのでうまく撮れません。何枚か試みて比較的良好なのが下の写真です。昨日は満月で、今日も丸い月が輝いてよい感じです。この塔は、天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后の建造ですが、その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されたのが現存する塔で、高さは50.1mです。
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一夜明けました。今日は9月22日です。猿沢池も昨日夜とは違った姿を見せています。魚7分に水3分と言われる池です。
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階段を上って興福寺の南円堂の前にでました。創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されたお堂です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぞう)、四天王像が安置されていていずれも国宝です。
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興福寺五重塔と東金堂です。なお、中金堂は、再建中で平成30年落慶予定とのことです。
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9時になり、食堂(じきどう)の跡地に建てられた国宝館の見学です。撮影は一切禁止ですが、高さ5.2mの千手観音の巨像をはじめ、乾漆十大弟子立像、乾漆八部衆立像などなど、おびただしい国宝もしくは重要文化財が展示されていて圧倒されます。特に乾漆八部衆立像の中の阿修羅像はひときわ有名です。これだけでも奈良に来た甲斐がありました。
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興福寺周辺でも、地面に草が生やされているところでは、鹿がのんびりと草を食んでいます。これも奈良を特徴付ける風景です。
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2. 薬師寺
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国宝館での余韻を引きずりながら、ホテルに戻り、チェックアウトして近鉄電車で西ノ京駅に向かい、薬師寺の興楽門に着きました。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い718年に現在地に移されたとのことです。
最初に目に付く大きな建物は、大講堂です。修学旅行と思われる大勢の生徒が訪れていました。大講堂には、重要文化財の弥勒三尊が鎮座しています。また、仏像の裏手の方に回って行くと、国宝で天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石があります。さらに、中村晋也作の釈迦十大弟子が立っていますが、顔は仏像的でなく、アーリア人の骨格や、顔相、その当時の修行の様子などを、すべて現地に出向き、調査研究して、原形態に近付ける努力をしたものとのことでした。

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国宝の大講堂の次には、金堂です。金堂の両側には東塔と西塔が建っていますが、すっかり色が褪せてしまった東塔は、今年の秋には解体され、10年ほど掛けて修理再建されるとのことです。10年間は見られなくなるので、今のうちに見ておきたいと思ったのが訪れた最大の理由です。ともかく、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもので、総高34.1メートル(相輪含む)です。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇るとのことです。

また、金堂の中には、国宝であり、美術史の本などに良く登場する薬師三尊像があります。薬師如来が中心に鎮座し、右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩が屹立しています。ブロンズ作りで黒光りした像で世界でも最高の仏像と云われています。
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nara_15.jpg講堂と金堂、東塔、西塔を見学した後は、少し離れた場所にある玄奘三蔵大伽藍に向かいます。途中、萩の花が咲いていましたが、満開には少し早いようです。
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玄奘三蔵院の回廊に囲まれて中央に八角形の玄奘塔が建っています。薬師寺は法相宗ですが、その始祖である玄奘三蔵の遺骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安し、須弥壇には玄奘三蔵訳経像を祀っています。
また、回廊の裏面に当たるところには、大唐西域壁画殿があり、平山郁夫画伯が30年かけて完成させた玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画が掲げられています。
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3. 唐招提寺

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薬師寺を後にして、唐招提寺に向かいます。狭い道路ですが車の通りが多く注意が必要です。それにしてもまだまだ残暑が厳しくこたえます。途中の蕎麦屋で昼食を取りしばし休憩を取りました。
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)に天武天皇第7皇子の新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅跡を朝廷から譲り受け寺としたもので、晩年を過ごしました。
南大門を入ると、正面に金堂が見えます。世界遺産登録の表示のある大きな寺名碑の前を通り金堂正面に達します。

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金堂には、中央に本尊の盧舎那仏坐像が安置され、右に薬師如来立像、左に千手観音立像が配置されていますが、いずれも国宝で木心乾漆の作りです。
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金堂の諸仏にお参りをして左手に回って行くと、舎利殿とその後方の長い建物の東室・礼堂(らいどう)が見えてきます。
また、金堂の後ろには講堂があり、中央に弥勒菩薩坐像、左右に持国天立像と増長天立像が配置されています。弥勒菩薩は鎌倉時代の作で左右の仏像は8世紀の作で、いずれも重要文化財です。

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東室の北側の旧開山堂の手前に松尾芭蕉の句碑があります。元禄元年(1688)ここで、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」の句が刻まれています。
また、旧開山堂の裏に回ると、北原白秋(1885-1942)が唐招提寺の開祖である鑑真和上像に感動した時に詠んだと云われる歌「水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」の歌碑があります。
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北原白秋の歌碑を過ぎて進むと、左手に鑑真和上の御廟があります。参道は苔が生していて厳かな雰囲気が漂い、一番奥に石造りの廟が建っています。
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鑑真和上の御廟から引き返す途上に土塀に囲まれた、非公開の御影堂があり鑑真和上坐像が安置されています。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、慶安2年(1649年)の建立で、1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築されたもので、重要文化財に指定されています。
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東室・礼堂の裏側に至る道を戻ると、正倉院より古い校倉造(あぜくらづくり)で国宝の宝蔵があります。
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ここから、東室と礼堂の間にある通り抜け通路の馬道(めどう)を通って講堂横に戻りました。
まだまだ暑くて、暑さに弱い家内はまいっています。タクシーで西大寺駅に行き、京都に出て15時32分の新幹線で帰宅しました。


2010.09.12

大内宿と会津の旅(2日目)・・・(旅行)

9月11日です。2日目の朝が明けました。山間の温泉場ということもあり、涼しい朝です。周囲の緑の山々が清々しく、良い気分です。
さて、食事を済ませて出発です。さほど時間も掛からず、若松城(鶴ヶ城)に着きましたが、天守閣は屋根を元の赤瓦に取り替える工事中で、すっぽり覆われています。
会津若松城は、時代ごとに城主が代わり、変遷を重ねてきましたが、1643年(寛永20年)出羽国山形より3代将軍の徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となったものです。
戊辰戦争の1868年(慶応4年)には、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢が薩摩の援軍の助けをかりても遂に城落には至らなかったのです。その後に開城されたが、戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、明治7年(1874)に取り壊されています。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
なお、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれることが多いのですが、これは秀吉からこの地を与えられた蒲生氏郷の幼名の「鶴千代」から来ています。
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工事中も、若松城天守閣郷土博物館としては見学可能ですが、種々の歴史的な遺構は、すべて撮影禁止で、最後に銀色の鯱(しゃちほこ)のみ撮影可能でした。若松城に鯱があったかどうかは、見解がわかれているそうですが、この鯱は、復元工事を担当したハザマの当時の会長より寄贈されたもので、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているとのことです。ハザマは名古屋城天守の復元工事も受け持っており、名古屋城の金鯱と対になるように銀鯱としたそうで、金閣寺、銀閣寺に倣ったとのことです。
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天守閣から干飯櫓、南走り長屋を通って、屋外に出てきます。
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若松城を後にして、七日町通りで車を駐車場にいれ、レオ氏郷南蛮館に行きました。建物は明治時代に建てられた蔵を改造したもので、1階は民芸品を扱うお店で2階が氏郷関係の資料館になっています。レオとはキリスト教に改宗した氏郷の洗礼名で、資料館には氏郷が秀吉から貰った記念の品や、氏郷がキリシタンであったことを物語るマリア像などが展示されています。また復元された天主の間には、色鮮やかな「泰西王侯騎馬屏風図」や呂宋(ルソン)の茶壺が飾られています。
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aidutrip_06.jpg次に「野口英世青春通り」に向かいました。野口英世が書生時代に行き交った通りです。流石に暑くなってきました。レトロな感じの喫茶店があったので、休憩を取りました。注文したアイスコーヒーも美味しかったです。

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隣は、重厚な蔵造りの福西本店で、会津の種々な名品を販売しています。
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さらに、隣の建物脇のガス灯風の街灯も良い感じです。
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次に、大通りの神明通りを横切って、蒲生氏郷の墓所を訪れました。蒲生氏は藤原秀郷の流れをくむ名門でしたが、仕えていた近江の六角氏が信長に滅ぼされ、父の賢秀(かたひで)が信長に臣従するとき、人質として差し出されました。ところが、信長は氏郷の才を見抜いて、娘の冬姫と結婚させ、信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(たださぶろうますひで)と名乗り織田氏の一門として手厚く遇せられました。その後幾多の変遷を経て秀吉時代に会津の地に92万石の大領を与えられましたが、これは秀吉が氏郷の才を恐れ、大領でも都から遠ざけて天下取りに関われないようにとの意図があったと言われています。秀吉の意図を知る氏郷は、涙を流して悔しがったと伝えられています。
40歳で急死し、毒殺説もありましたが現在では、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の残したカルテなどから肝臓癌、もしくは膵臓癌であったと推察されています。また、辞世の歌は、まだまだ働けるのにとの思いを込めた悔いを残こした辞世となっています。辞世の「限りあれば 吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山風」は、花の命は限りがあり、風など吹かなくても自然に散ってしまうのに、春の山風は何と気が短いものよ、とでも訳せばよいのでしょうか。
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また、墓石は空風火水地の五文字を刻した五輪塔です。
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氏郷の墓所を訪れた後は、車で飯盛山に向かいます。かなり長い階段の上りが待ち構えています。女性陣は250円払ってのエスカレーターに対して男性陣は、意地で自分の足で上ります。
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階段を上り詰めると広場になっており、左のほうには白虎隊以外の少年武士慰霊碑と墓石が立っていて、松平容保候の弔歌碑がありました。「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽じとぞ思う」と刻まれています。
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広場の右の方には、ポンペイの廃墟から掘り出した古代宮殿の柱で作ったという、ローマ市寄贈の碑が建っていて、イタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と書かれているとのことです。
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さらに、白虎隊士自刃の地の矢印表示に従い右の小道を進むと、白虎隊士でただ一人の生き残りの飯沼貞吉の墓所があります。15歳で年齢を16と偽って白虎隊に参加しましたが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及びましたが、死に切れず命を救われました。維新後は貞雄と改名して逓信省の通信技師として各地に勤務し、日本の電信・電話の普及に貢献し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えましたが、白虎隊のことは一部の史家にしか話さなかったとのことです。

さらに進んで階段を下りると白虎隊の自刃の地で、自刃の址の碑、隊士の石の像、慰霊碑が建っています。確かに鶴ヶ城が見通せる場所です。そして、燃えている武家屋敷を鶴ヶ城が燃えていると見誤って、自刃を遂げたのです。隊士は16、17歳が中心で、まったく痛ましい出来事です。
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写真中央付近に木立に囲まれた覆いの掛けられた天守閣が見えます。
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飯盛山からの帰り道は階段を通らず、広場から下を見下ろした右側に坂道となって続いている方に進んで行きます。下って行くと、宇賀神のお堂があり白虎隊の自刃の様子を描いた額縁が架かっています。ここに描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれているそうです。
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さらに下りると「さざえ堂」と呼ばれる仏堂があります。中は二重螺旋になっていて、同じ通路を通らず、上って下りてこられるとのことです。中が螺旋にになってることから「さざえ堂」と呼ばれるのでしょう。
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成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)の「天高し ピサの斜塔と サザエ堂」の句碑が建っていましたが、詠み人の心が、どうも理解できなくてスッキリしません。そして、最後は「厳島神社」です。両側に杉の大木が立っていました。
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直ぐ横の「戸ノ口堰洞穴」からは大量の水が流れ出しています。今から400年前の元和年間に猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ、飯盛山の山腹に150mの穴をうがって2,500ヘクタールの田圃に灌漑することができたとのことです。白虎隊士中2番隊は、戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されましたが、戦いに利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞窟で、水を止めれば上半身を丸めて通れる大きさとのことです。
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飯盛山から下りてきて、昼食を取り猪苗代湖湖畔の「野口英世記念館」に向かいました。
博士の生涯を年代順に分け、遺品や参考資料を展示した展示館と、生家が残されています。
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生家の中には、英世が一歳半のとき、運命の火傷をした囲炉裏や上京するとき決意を刻んだ床柱が当時そのままに保存されています。
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記念館をでると、野口英世も子供時代に何時も眺めた、磐梯山が変わらぬ雄姿を見せていました。
その後、磐越自動車道で郡山JCTに向かい、東北自動車道に乗り換えて帰宅の途に着きました。
一度訪れたいと思っていた、大内宿を初めとして楽しい2日間でした。
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大内宿と会津の旅(1日目)・・・(旅行)

今日は、9月10日です。台風が通り過ぎ、大量の雨で被害をもたらしながらも少しは涼しくなりましたが、まだまだ歩いての旅には暑すぎます。
そのためにと言うことではなく、以前から計画していたのですが、妹夫婦と大内宿と会津に一泊旅行に出かけました。二組の夫婦の車による旅です。
妹夫婦の住居の最寄り駅である、東上線鶴ヶ島駅で10時にピックアップしてもらい、加須(かぞ)インターに向かいますが、こんなの初めてという渋滞で、予定時間を1時間も遅れて東北自動車道に乗りました。それで、みんな空腹を訴え「佐野SA」で早速食事です。その後は、順調に進み「白河インター」で下り、甲子道路に入ります。山の緑が美しい道路です。

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途中に「道の駅下郷」があったので、ちょっと休憩です。日差しは強いですが、さほど暑さは感じません。ここの「ソフトクリーム」は濃厚でとても美味しかったです。

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甲子道路は、県道の121号線に突き当たり、右折して福島県の景勝地の一つである「塔のへつり」に向かいます。河食地形の特異例として国の天然記念物に指定されているところです。「へつり」 とは会津方言で、川に迫った険しい断崖のことです。一帯は種類の異なる岩石が互い違いになっており、その軟岩部が長年の歳月による浸食と風化の作用によって形成されたものとのことで、渡り廊下のような、地形が見られます。

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渓谷には、吊り橋が架かっていて、これで対岸に渡ります。

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吊り橋を渡り、急な階段を上ると無限の智恵と慈悲を持つと言われる「虚空菩薩」のお堂があり、高松宮殿下も参拝されたと書かれた札が貼られていました。

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今回の旅行の主目的の「大内宿」に向かいます。大内宿」は、日光今市から会津若松に通じる旧会津西街道に沿った山間の平地にある宿で江戸時代の宿場の雰囲気を良く残しています。宿場町としては長野県の妻籠宿奈良井宿に次いで、全国で3番目に重要伝統的建造物群保存地区に選定されています。
萱葺きの家が、これほど集中して見られるのは、あとは白川郷の合掌造りの郷ぐらいでしょうか。

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写真では、なるべく人が写らないようにして撮影しましたが、かなり大勢訪れています。
宿内では、民芸品や土地の物産を商う家が多く、また蕎麦も有名だそうです。特に箸を用いず、ネギ1本で食べる「ネギ蕎麦」がユニークで人気を呼んでいるようです。食べてみたかったのですが、食事は済ませてしまっていましたので諦めました。

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宿の道路の両側には水路があり、冷たい水が勢い良く流れていて、ビールやジュースを冷やしています。天然の冷蔵庫代わりです。
途中に、「本家扇屋」と書かれた、白い蔵作りの家がありました。茅葺の家ばかりのなかでひときわ目を引きます。民宿を営んでいて人気の宿泊地とのことです。

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宿の中央付近には、高倉神社の鳥居が建っています。参道は真っ直ぐに森に向かっていますが、相当に距離がありそうです。
大内宿には、高倉以仁(もちひと)王(後白河天皇第二皇子)が戦いに敗れ、潜行した村という言い伝えがあり、高倉神社はこの悲劇の王を祭った神社で毎年7月2日には半夏祭と呼ばれる祭りが行われるとのことです。
道の反対側には「大内宿町並み展示館」がありますが、これは本陣の資料を調査して復元した建物と、説明板に記されていました。

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宿を進んでの突き当たりは「浅沼食堂」で、ここで街道は右に続いています。

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浅沼食堂の左脇には急な階段があり、上ると子安観音があります。ここからは、宿全体が鳥瞰図として眺められます。

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宿から駐車場に戻る途中の田圃には、蕎麦の花が一面に咲いていました。
ここから、車で15分ほど走り、今日の宿泊地の「芦ノ牧温泉」に向かいました。

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2010.09.04

東京湾クルーズ・・・(仲間)

大学時代の仲間で10人乗りのボートを持っている人がいて、今日は乗せてもらって東京湾クルーズです。朝10時に三浦半島の付け根の鳥浜にある「横浜ベイサイドマリーナ」に集まり、ボートの持ち主のキャプテンを含めて6人で出発しました。

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最初は横浜のベイブリッジを目指します。昨年は、波が荒く残念したのですが、今年は穏やかな海でした。

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ベイブリッジをくぐると、「みなとみらい地区」です。ベイブリッジの下には、スカイラウンジ見えます。

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左よりの一際高く、よく知られているランドマークタワーは296.33 mで、写真中央部で次に高いのが横浜メディアタワーで253mの高さです。メディアタワーはみなとみらいに建てられたNTTドコモとNTT東日本の神奈川支店のビルの屋上に立てられたアンテナ塔です。

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下の左の写真で、左の方に写っているのは、「くじらのせなか」と愛称が付けられた横浜大桟橋です。
右の写真は、観覧車とインターコンティネンタルホテルですが、観覧車から足下の湾を眺めたことは何回かありますが、今日は逆に海面から観覧車を見上げます。

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何度も眺めた建物も、海から見ると新鮮です。夜景が有名なところですので、夜に湾内から眺めてみたい気がします。

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疾走するボートの動画もどうぞ!!

インターコンティネンタルホテルの特徴のある建物の姿を後にしながら、全速力で「海ほたる」に向かいました。「海ほたる」も海上から見るのは、もちろん初めてです。

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横浜からトンネルをくぐってきた東京湾アクアラインは、ここから千葉の木更津までは、海上の橋で続いています。

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マリーナに引き返す途中で、日本丸?世が停泊していました。帆船は、やはり姿が美しいですね。

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もう昼時間をだいぶ過ぎています。マリーナに戻ってシャワーを浴び食事です。キャプテンの奥様手作りのおにぎりは、本当においしかった。次の行事などを中心に仲間どうしの愉快なおしゃべりで時間が過ぎて行きます。 イャー、楽しい一日でした。


2010.08.27

清里高原バス旅行・・・(旅行)

昨日(木)、日帰りのバス旅行で清里高原に行ってきました。
旅行の前日(水)の夜の8時には、私は行くことになっているとは思っていませんでした。
家内が近所の仲の良い奥さんと行くのだろうと思っていて、明日○○さんと清里に行くのは朝が早いのだろうと話しかけたら、家内があなたと二人で行くのよと言います。
えー、俺も行くのかと私。まぁー、日帰りだし、準備はバッグにタオル地の汗拭きハンカチとカメラを入れるぐらいです。
そんな事情で、主に「ユリとヒマワリ」の花を見るバス旅行に出かけました。
バスは朝の7時50分に横浜の天理ビルの前から出発です。朝食用に横浜地下街の売店でおにぎりなどを買い、天理ビル前への階段を上ってゆくと、人が集まっています。色々なコースのバスが出ます。旅行会社の添乗員が、何人も立っていて、それぞれのコースに分かれてバッチを配り、乗るバスを告げています。
いよいよ出発です。今回のバス旅行では、バスガイドは居ませんが、美人添乗員がいます。

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横浜を出発して、調布インターで中央高速に乗るまで渋滞で手間取りながらも、その後は快適に走ります。小仏峠トンネル、相模湖、上野原と、昨年歩いた甲州街道が頭をよぎります。そして、街道歩きで立ち寄った「談合坂パーキングエリア」が1回目のトイレ休憩でした。パーキングエリアも背面の入り口から入って昼食を取った時と違って見えます。 また、サービスエリアと高速道路を挟んだ反対側の崖下には、いまだに江戸期の雰囲気が漂う野田尻宿がひっそりと佇んでいるのを知る人はほとんどいないことでしょう。
休憩の後は、笹子トンネルを抜けて「小淵沢インター」まで一気に走り、八ケ岳高原ラインを進んで「八ヶ岳チーズケーキ工房」に着きました。入り口で楊枝に刺した小さな試食のチーズケーキをもらい売り場に入って行きトイレで用を足します。

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チーズケーキ工房を後にして、ハイランドパークに向かい、ここで昼食のバイキングです。ここは、冬はスキー場なのでリフトが二本あり、一つはパノラマリフトと呼ばれていて、10分で一気に1900mまで上ります。 天気の良い日は南アルプスから富士山まで一望できるらしいのですが、今日は晴れてはいても雲が多く見ることはできません。 もう一つはフラワーリフトと呼んでいて、片道5分ですが、ユリの花やその他の花々を見ることができます。我々は、フラワーリフトを選んで、ユリの花を撮影してきました。

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最初は、ユリの花など咲いていないではないかと思っていたら、中ごろを過ぎると足下に色とりどりのユリが見えてきました。

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リフトから撮影した動画もどうぞ!!

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暑い日が続いていても確実に季節は巡っていて、駐車場脇にはコスモスの花が風に揺れていました。
2時間ほどハイランドパークで過ごし、次の目的地の「明野のヒマワリ」を見に行きます。日帰り温泉施設もあり、美しく整地されています。

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この辺りは、日本で一番日照時間が多いところといわれ、広いヒマワリ畑があり、映画の場面にもたびたび使われたとのことですが、私は、ソフィアローレンのヒマワリが頭に浮かびました。
残念ながら、ヒマワリは既に盛りを過ぎて、メインの畑はもう花びらを落としていましたが、幾つかのサブの畑はまだ鑑賞することができる状態でした。

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到着して撮られた集合写真を直ちにプリントアウトして、商魂たくましく駐車しているバスのところまで、おじさんが来ています。デジカメで撮ってプリンターで打ち出すので直ぐにできて、直ちに売れるのですね。添乗員さんが、困っているように見えます。

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バス旅行の常として次々と新しいところを求めて駆けまわります。
次は、枝豆の収穫体験です。400gぐらい入るとの小さなビニール袋を貰って、皆で畑で枝豆を摘みます。子供たちには楽しい体験です。

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日もだいぶ傾いてきました。韮崎のインターで中央高速に乗り勝沼まで走って、トイレ休憩を兼ねてワイナリーの「シャトー勝沼」に寄ります。ワインは試飲させてくれますが、皆さん些か疲れ気味です。

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ワイナリーで終わりかと思っていたら、もう一箇所「昇谷」という名のキムチの直売所に寄りました。口上のうまさに思わずキムチを買ってしまいました。

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とっぷりと、日が暮れました。八王子の石川サービスエリアです。あとは新横浜を通って横浜です。
安い料金で一日たっぷり楽しませてくれました。


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