2012.07.05

名越切通し・・・(散策)

急に思い立って、鎌倉駅から名越切通しを通って逗子駅まで歩いてみる事にしました。
鎌倉駅に着いたのが10時50分頃で、東口に出て若宮大路を南に向かい、横須賀線のガードの手前で若宮大路から左に別れて線路沿いに進み、県道鎌倉葉山線にぶつかって左折して進みます。

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進行方向右手にひときわ目に付く上行寺(じょうぎょうじ)があります。日蓮上人の孫弟子にあたる「日範上人」が1313年に開山しました。
「瘡守稲荷(かさもりいなり)」と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られ、癌封じ寺として有名とのことです。このお寺を過ぎると、道は南東方向に曲がり、前方に名越踏切が見えてきます。

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踏切を渡って直ぐに左折して進みますが、この道が名越切通しを越えて三浦に向かう、かつての古道です。
進むと右手に石囲いがあり、石碑と井戸が現れます。日蓮乞水(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つにもなっています。『新編鎌倉誌』に「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。日蓮、安房国より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に湧出けると也。水斗升に過ざれども、大旱にも涸ずと云ふ。甚令水也。」とあります。碑文に建長5年(1253)とあり、当時この前の道が街道であったことを物語っています。

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日蓮乞水を過ぎると直ぐに名越坂踏切があり、踏切を渡って右折します。道標も立っています。

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道なりに進むと、Y字路となり右の急坂を上って行きます。右に細い道が分かれているので、この右方向の道を進みます。直ぐ下にはJR横須賀線が走っています。

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右下に横須賀線のトンネルの入り口が見えると、いよいよ名越切通しへの上り道です。

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石段の道を上って行くと立派な道標が立っていて、この道で良いのかと多少不安を感じながら上ってきたのが、消し飛びます。

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道標を過ぎてもしばらくは石段の道が続きますが、切通しの頂上付近になって堀割道になります。この堀割道が本当の鎌倉の道で、石段の道は近年になり崩れ防止のために手を加えたものと思われます。

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堀割道の真中に大きな置き石がありました。置き石は敵の侵入を妨害するためとの説があるそうですが、それほど有効とも思えず、結局よく分かりません。
終に、切通しの峠に着きました。思ったより短い距離でした。そのまま進めば名越切通しを簡単に通り過ぎてしまうので、左折して法性寺(ほうしょうじ)に向かいます。

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法性寺は日蓮の弟子・日朗が開山したと伝える鎌倉時代の古刹です。
法性寺の墓地が見えてくると、左に石を切り出した跡と思える岸壁があり、その先には洞窟がありました。大勢の白人の子供が活発に動いていたので聞くと、米国ペンシルバニアから2週間の予定で日本を訪れている30人の中学生でした。

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墓地から少し進むと、法性寺の奥の院と祖師堂が建っていました。左の白い鳥居は山王権現社で石段を上ると石祠と石塔があるそうです。

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法性寺の奥の院を見て引き返し、尾根道に戻ったところで右折して展望台の方に向かいました。途中に石廟が2つ建っていました。石廟とは死者を埋葬した地に建てた石造墳墓堂で、珍しい形をしています。

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パノラマ展望台からは、逗子の市街がよく見えます。切通しを過ぎて逗子駅に向かう県道もよく見えています。

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切通しの道に戻り進みます。国指定史跡・名越切通の立派な案内板も立っていて、日本語以外にも、英語、中国語、ハングルで説明が書かれていました。
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
 急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、
切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸:おおきりぎし)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史景観をたいへん良く残しています。

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名越切通しの逗子に近い方は、勾配が緩やかなためか石段にはなっていません。そして、これぞ鎌倉の切通しと写真で良くお目にかかる場所にさしかかりました。進行方向に向かって見ると、右側から岩がせり出して隘路となっています。

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通りすぎて振り返ると、左から「国指定史跡名越切通整備基礎調査」で崩落の危険があると指摘されている大きな岩が見えます。だいぶ亀裂も広がっているようで心配です。

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大きな岩を通り過ぎると、亀ケ岡団地の住宅が見えてきました。坂道を下って県道に出て逗子駅に向かい、駅前のスタバで休憩して帰宅しました。

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2012.07.04

大船フラワーセンター・・・()

2012/7/3 大船のフラワーセンターに行って来ました。
大船駅で降りてフラワーセンターに向かう途中に、「玉縄首塚」があります。由来書きによると、大永6年(1526)11月12日に、南房総の武将里見義弘が鎌倉を攻め落とそうと進軍し、鶴岡八幡宮に火を放ち鎌倉内に乱入しました。このことを知った当時の玉縄城主北條氏時(早雲の孫)は、 大船甘糟と渡内福原の両軍と協力して里見の軍勢をこの戸部川辺にて迎え撃ち、数度の合戦で敵を打ち破り鎌倉を守りました。この合戦において甘糟氏以下35人は戦死し、福原氏は傷を負い、里見軍の死者は数がわからないほどでした。  戦闘が終わった時、城主の氏時は敵と味方の首を互いに交換し、これらを葬り塚を築いて塔を建てました。そして郷里を死守した霊を慰めると共に、怨親(おんしん:敵味方)平等という考え方の例としました。 これを玉縄首塚と呼んでいます。
フラワーセンターに入ると、大勢のお母様方が小さなお子さんを遊ばせています。また庭園内を歩くと、歳を重ねた方々が重そうなマクロレンズを付けたカメラを三脚に乗せ、花を撮影している姿が多く見られました。年配のご婦人(おばあさん)方も大勢撮影をなさっていました。

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最初に行き着く撮影ポイントは、睡蓮の花です。

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バラ園には、多くの種類の薔薇が咲いていました。
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沢山、写真を撮ってきました。続きはこちらを御覧ください。


2012.06.25

袖ヶ浦公園・・・(旅行)

2012/6/24、野島崎灯台を後にして、昼食です。
海の幸いっぱいの食事で、蓋の閉まったお重も中は刺身が乗っかったものでした。
食事のデザートは、枇杷(びわ)の食べ放題で、山盛り枇杷が積まれた大皿が2つ置かれ、少なくなると継ぎ足されました。流石に2回りで皆さん堪能したようです。

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食事を終えて、袖ヶ浦公園に向かいました。花菖蒲を見るのが主目的でしたが、先日の台風でかなり傷んでしまったとのことでした。

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それでも、絣の着物と赤い前掛けのお姉さんの花がら摘みが色を添えます。

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小高い山陰には、紫陽花も植えられていて、風が遮られる地形であったためか、綺麗な写真が撮れました。

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公園内では、花菖蒲、紫陽花の他にも黄色い百合の花、マリーゴールドなどが見られます。

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後は、横浜に帰りましたが、アクアラインはかなり渋滞していました。


野島崎灯台・・・(旅行)

2012/6/24、日運寺で紫陽花の撮影を行った後は、房総半島最南端にある野島崎灯台を訪れました。

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灯台の入口には、明治2年に作られ、震災による被害の改修を大正14年に行った旨のプレートが掲げられていました。
この灯台は開国の歴史を飾る慶応2年にアメリカ、イギリス、フランス、オランダの四ヶ国と結んだ「江戸条約」によって建設を約束された八ヶ所の灯台の一つで、フランス人技師ウェルニーによって設計されたものです。関東大震災で倒壊し、大正14年に再建されたました。

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らせん階段を上って行くと、最上部の電灯室には入れませんが、大きなレンズが透けて見えます。そして、外の回廊に出ると天気の良い日は伊豆七島まで見えるという眺望が広がっています。

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灯台の脇には展示室があり、灯台設計者のフランス人技師ウェルニーの胸像、灯台の心臓部であるレンズ等が展示されていました。

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灯台の手前には、厳島神社がありました。境内には、安房の生んだ幕末の優れた石工の武田石翁(本名:小滝周治)が19歳の時に刻んだという七福神の像がありました。何故か弁財天のみ社殿に入っています。また、子宝に恵まれると、巨大な木造の男根も祀られていました。

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2012.06.24

日運寺・・・(旅行)

南房総の「日運寺」に行って来ました。
寺の由来書きによれば、むかし勝栄坊と称する真言宗の小堂でした。文永元年(1264年)9月頃に日蓮聖人が鎌倉から小湊に帰る途中、この堂に止宿し当時の堂主の行然法印は日蓮聖人の人得と高説に敬服し日蓮宗に改宗した寺です、とあります。
しかし、今回は寺の由来に興味を持ったわけでも何でもなく、単純に「紫陽花」の写真を撮るために訪れました。

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山門を入ると、推定樹齢600年の「カヤの木」が参道に倒れ掛かかっていました。
カヤは雌雄異株で、雌株にのみ実がなり、食用となる。また、カヤの木で作った、碁盤、将棋盤は最高級品です。

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参道のみならず、本堂の裏山にも紫陽花が一面に植えられています。

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