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2011.09.27

築館照越から栗原金成

本日の万歩計26,812(17.4Km)

築館照越から栗原金成の歩行ルート

古川駅前のホテルで一泊して、朝7時5分発のミヤコーバスで、昨日古川駅に戻るために乗車した築館照越の「神田バス停」に向かう。昨日の写真では小さくしか写っていなかったので、荒谷宿の入り口で、バスより斗螢稲荷神社参道入口の看板を撮影した。「剣聖 千葉周作生い立ちの地」の文字も見える。
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神田バス停に着き、100mほど戻って「奥州街道」の道標に従って、高速道路のガードを潜って進む。
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ガードを潜って右に曲がり、坂道を上って行くと、静かな郷の風情である。途中にラブホテルがあるのはいただけないが、ここを過ぎると下り坂となる。
1Kmあまりで三叉路に達すると、また「奥州街道」の道標が導いてくれる。
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三叉路で右に進んで赤沢を赤坂橋で渡り、左折すると右側にまた街道標識があり、細い道路が続いている。
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細い道路を上って行くと、国道4号線に合流し、少し進んで左折し築館薬師地区に入って行く。
左に「双林寺」のある小高い丘が見えてくるので、参道に入って行く。階段脇には寺名碑が立っているが、右に杉林の参道があるので、そちらを進む。
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見事な杉並木の参道で、片側には石仏が並んで配置されていた。
このお寺は、天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍48坊を構える医王山興福寺といわれていた。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになり、天正19年(1591)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になったとのこと。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政年間(1791?1798)の建築とみられるとのこと。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれている。
この薬師堂では、毎年11月3日文化の日に開催される「つきだて薬師まつり」の「藤原一族薬師まいり」のハイライト「御礼の情景(儀式)」が行われるとのこと。
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薬師堂の脇を進むと、現在の双林寺の本堂が建っていた。新しい建築である。
双林寺を後にして、築館の市街を進む。古い町を感じさせる街並みである。
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市街を抜けると、宮城県栗原合同庁舎がある。この先で国道4号線に合流して、一迫川(いちはさまがわ)を留場橋で渡る。一迫川は、栗駒山(1627m)の三つの峡谷の一つを源流としていて、これから二迫川(にのはさまがわ)、三迫川(さんはさまがわ)が現れてくる。
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一迫川を渡ると、しばらく国道歩きが続くが、旧市街の凋落に反して新しいお店が賑やかに並んでいる。日本中で見られる現象である。
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国道を進んで行くと、1Kmほど先で国道は右にカーブしているが、街道は真っ直ぐ進んで宮野郵便局の次の信号で右折して、宮野宿に入って行く。
直ぐに皇太神社がある。赤い鳥居を潜ると、急な石段が続いている。
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階段を上ると、本殿がある。前に停まった車が邪魔だが、よくある光景である。
この神社は、上古時代第三代安寧天皇の第一皇子がこの地に降臨し、村里を開き宮殿を営み、長年居住して郷号を迫として、第五代孝照天皇の丙申年(838)に皇大神社を勧請したと伝えられている。安寧天皇といえば『古事記』『日本書紀』に伝えられる第3代天皇で、即位は紀元前510年とされるので、とても古い歴史の神社である。
宿を進んで行くと、旧家らしい家も建っていた。
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なかなか綺麗な家並みが続く。
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宮野宿の出口には、左手に能持寺がある。参道には石仏も並べられていた。
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直ぐに、国道4号線に合流し、最初の信号で左折して北に向かって進み、城生野(じょうの)地区に入って行く。
あちこちで稲の刈り取り機がエンジン音を上げている田園地帯を進んで行くと、照明禅寺がある。境内に「伊治城(これはるじょう)跡とその出土品」の説明板があり、伊治城の位置、形状、規模は明確でないが、北東に空壕(長さ300m、幅19m、深さ3m)が現存するので、この城生野台地の一角に造営されていたことは確実と書かれていた。
神護景雲元年(767)律令政府が蝦夷(えみし)を治める政策の拠点として造営した城柵である。
また、宝亀11年(780)には蝦夷出身の上治郡の大領伊治呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)が伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大盾(みちしまのおおたて)を殺害するという反乱(宝亀の乱)が起こった。さらに反乱軍は多賀城まで攻め上り略奪し放火した。この事件の後、律令政府は、多くの物と人を使って、「蝦夷討伐」を開始し、延暦21年(801)に蝦夷の阿弖流爲(アテルイ)を降伏させるまで4回の遠征を行っている。
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照明寺を出るとの、築館城生野(つきだてじょうの)の集落である。
やがて、道は緩やかに右にカーブしているが、この辺りが伊治(これはる/これはり)城跡で、広大な伊治城の外郭の北辺に当たるところである。そして、正面には富野小学校が見えてくる。
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富野小学校に突き当たり、街道は左に直角に曲がる。ここからは砂利道で、進むと簡易舗装ではあるが、細い道で歩行者と自転車のみが通行可能と思われるものとなった。
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進むと、芋埣(いもぞね)川にかかる鉄製の橋を渡る。
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さらに進むと、二迫川(にのはさまがわ)に架かる人道橋を渡る。こちらの橋の方が、幅は広いが薄い鉄板を敷き詰めた橋で、歩くと振動音が響く。やはり、人の通行のみ可能な橋である。
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二迫川をわたり進むと、広い田園地帯となる。左の方を眺めると、遠くに栗駒山が望まれ気持ちが良いが、陽射しが強く少々暑くもあった。
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広大な田園地帯を通りぬけ、熊川に架かる根岸下橋を渡る。橋の4つの親柱には牛若丸像が設置されている。2種類の像で各2体づつであるが、奥州街道らしい試みである。
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熊川の流れに沿って下って行くと、左側に「来光宝山 照明寺元墓苑」、「曹洞宗源昌山 常現寺跡」の石柱が立っていた。
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常現寺跡に続く道には、石仏が残っていたが、寺跡は広場になっていて、その奥は墓地であった。なお、ここには、かつて富城があったとのことであるが、ハッキリしない。
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先に進むと、国道4号線を横切り、築館から金成姉歯(かんなりあねは)地区に入って行く。
金成姉歯地区は、史跡が多いところと見えて、道路脇に栗原教育委員会の史跡案内板が立っていた。
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国道に合流して、2Kmほど進むと右に旧道が続いていて、進んで三迫川(さんはさまがわ)を達田橋(たつだばし)で渡る。右の写真は三迫川の下流方面である。栗駒山(1627m)の三つの峡谷を源流として、一迫川、二迫川と続き、この川が最後の三迫川である。下流で合わさって、迫川となり、さらに旧北上川となって海に注ぐ。
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この辺りの三迫川は、ホタルの名所であり、橋の歩道の縁にはホタルの絵が描かれていた。
橋を渡って、右に折れ進むと、旧奥州街道78番目の宿場・沢辺宿である。
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廃線となった「くりはら田園鉄道」のレールが残っていた。元の鉄道の栗原電鉄は、大正10年(1921)に石越 – 沢辺間(8.85km)で開業され、昭和17年(1942)に石越から細倉鉱山までの全線が開通し、旅客輸送と共に、細倉鉱山で採取された鉱石や沿線で収穫された穀物などの貨物輸送を担っていた。その後幾多の変遷を経て、1995年に至り、栗原電鉄はくりはら田園鉄道として第三セクター方式で再出発した。しかし、経営悪化から2007年3月31日をもって廃止されたのである。
左側に栗原市役所金成総合支所の立派な建物が見えてきた。時刻はまだお昼頃であるが、この先は交通の便が悪いためと、久しぶりの歩行で足が痛く、今日はここで打ち切ることとした。
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ここから高速バスが出ているので、くりこま高原駅に向かう積りであるが、13時15分まで1時間ほど間があるので、近くの食堂に入り昼食を摂った。ランチ定食680円の食事である。
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くりこま高原駅の全景である。東北新幹線の単独駅であり、駅前には市街はまだ形成されていない。1日の乗車は約1,000人である。金成で食事をして良かった。ここでは、食堂はもコーヒースタンドもない。
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くりこま高原の駅前は、モニュメント広場となっている。大きな水車は直径10mで「民心豊楽」と書かれており、昭和44年(1965)に知事に当選した「山本壮一郎」が、栗駒地区の農地の整備をし、この地区の町の大々的な開発をしたことが刻まれていた。
また、中型の水車は直径3.5mで、水車小屋付きの小さな水車は直径2mで造られている。
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さらに、駅前広間には栗原郡若柳町生まれの政治家で「くりこま高原駅」誘致に尽力した長谷川 峻(はせがわ たかし)の胸像も設けられていた。しかし、駅前広場は全く手入れをしていないと思われる状態で、草は伸び放題、タイルの目地からも雑草が顔を覗かせていた。
駅に入ると、「ひとめぼれ」の宣伝の人形が立っていた。古川駅は、「こしひかり」の顕彰の銅像であったが、やはりこの地方は米どころである。
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13時57分発のやまびこで東京に向かい帰宅した。