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2008.10.19

愛知川から草津

推定歩行距離37Km

旧中山道を歩く旅は10月19日に草津宿に無事到着し、完了。

彦根のホテルで1泊して、車両1両だけの編成の近江鉄道で「愛知川駅」にやって来た。旧東海道歩きで鈴鹿峠を越えて土山から水口に歩いたのを思い出す、貴生川(きぶかわ)行きの電車であった。中山道に復帰すると、地蔵堂が建っていたが、このような街角に建つ地蔵堂がこれ以降も時々お目にかかることになる。
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朝一番の歩き始めは心地く快適に進む。明治4年に郵便制度が始まったときに用いられたポストが復元して置かれていた。もちろん、普通に葉書、手紙を投函できる。少し先に、何の看板もなく使われていないようだが、立派な建物があった。銀行かなにかの建物だったのだろうか。
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枝振りの良い赤松がある料亭竹平楼があった。昔の旅籠竹の子屋で、創業は宝暦8年(1758年)とのこと。明治天皇も巡幸の時ここで休憩された。
そして、不飲(のまず)川に架かる不飲橋である。欄干には愛知川の伝統工芸の「びん細工手まり」を模した置物が飾られている。伝承によると、この不飲川は源流である不飲池で激戦があり川が血で真っ赤になった。それ以来、忌み嫌ってこの川の水を飲まなくなり「不飲川」と呼ばれるようになったとのこと。
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国道に出てしばらく進むと、愛知川を御幸橋で渡る。川幅の大きな川であるが、水量は僅かである。この辺りは水田が多く慢性的に水不足で農業用灌漑ダムでほとんど全量堰きとめられているためだとのこと。これでは琵琶湖にもほとんど流れ込まない。橋を渡って五個荘宿へと進んで行く。
東嶺禅師御誕生地の碑があった。9歳で出家し、白隠禅師に師事したとのこと。白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われる名僧で晩年は旧東海道で沼津の次の原にある松陰寺で過した。街道は手入れが良く歩き易い道が続いていた。
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五個荘に入ってから、何軒かの茅葺の家が目に付いた。まだ、茅葺を保っているとは驚きだ。それにしても手入れが行き届いていると思っていたら、旧家片山家立場本陣で、大名や公家がここで休憩したという。そして「天秤の里」のモニュメント。近江商人を多く輩出した五個荘に相応しい。流石に、歩いていてもどっしりとした立派な家が多い。
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街道は国道に合流するが直ぐに右に分かれて、清水鼻町に入って行く。直ぐに「清水鼻の名水」がある。現在でも大事にされていて、もちろん美味しい水を飲むことができる。清水鼻の町は短く、直ぐに終わり、国道と新幹線に交差して進むが、その直前に広い田圃一面ににコスモスが咲いていた。地元の人達が大勢あつまり「コスモス祭り」とでも言えばよいのか、大人も子供も花を見ながら楽しもうとしていた。
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地下歩道を通って国道を渡り、200mほど進むと、奥石神社の大きな鳥居がある。神社を囲む森は老蘇(おいそ)の森と呼ばれる。説明板には、「今から約2250年前、孝霊天皇のとき、この地一帯は、地裂け水湧いて、とても人の住むところではなかったが、石辺大連(いしべのおおむらじ)という人が神の助けを得てこの地に松・杉・桧を植えたところ、たちまち大森林になったと伝えられています」とある。参道、拝殿、本殿ともに立派な神社である。
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老蘇町を歩いて行くと、次に出会うのは「武佐宿(むさしゅく)」である。武佐宿に入って直ぐに牟佐神社があった。途中に蕎麦屋ぐらいあるだろうと思いながら歩いてきて、お昼時間もだいぶ過ぎた。食事の出来る処は見つからず、しかたが無いので神社の境内で朝買った、おにぎり、菓子パンで空腹を満たした。
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武佐宿を進むと、武佐町会館の場所に冠木門があり脇本陣跡の表示が出ていた。その次には文化庁の登録有形文化財になっている「旧八幡警察署の武佐分署庁舎」があり、引き続いて武佐本陣の門のみが残っていた。
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近江鉄道の武佐駅の踏切りを渡ると、伊庭貞剛(いばていごう)の屋敷跡がある。伊庭家は、近江守護佐々木家の流れを汲む名家である。近年になって、長屋門を構えた広大な建物は解体され、楠だけが残されたとのこと。
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国道を歩くのは騒音が酷くて辛いので、国道からの分岐点に一刻も早く到着できることを願って、ひたすらに歩く。1.7Kmほどで旧道に復すと、早速綺麗な茅葺屋根の家屋に出会った。静かで良い感じの街並みが続いている。東横関町である。

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街道は日野川にぶつかり、当然渡しは無いので、国道に架かっている「横関橋」に回る。橋を渡ると直ぐに右に曲がって旧街道の方に向かう。誰も通っていない道で心配になるが、国道を進むよりはるかに心地良い。小さな集落を通り過ぎて行く。
西横関と書かれた信号機のところで、一旦国道に合流すると竜王町で、300mほどで間の宿の鏡の集落に入る。江戸時代は間の宿だが、それ以前(東山道)では、ここが宿場であったとのこと。宿は直ぐに終わり再び国道にでると鏡神社がある。この神社は近江源氏佐々木氏の一族鏡氏が守って来た源氏ゆかりの神社だったので、この地で義経も元服し、源氏の再興と武運長久を祈願した。
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境内に鏡山古窯址が鏡山一帯に広がっているとの案内板があり、どうしてだろうと思い神社の縁起板を読むと、鏡神社の祭神は日本書紀による新羅国の王子、天日槍命(あめのひぼこのみこと)で垂仁天皇3年の御世(BC3年)に須恵器の技術者集団を連れて来朝し、この地で亡くなったとのことであった。この辺りの鏡の地名も王子が持ってきた神宝の日鏡をこの地に納めたことから生まれ、その神社は陶物師、医師、薬師、弓削師、鏡作師、鋳物師などの多くの技術者を供にして渡来して文化を伝えた王子を祀る古社なのであった。
進むと、義経元服の池と石碑がある。牛若丸が、藤原秀平配下の金売り吉次と東国に下る途中、ここで元服し、源義経となったところである。平家の追っ手が迫っているのを警戒して、ここの池で前髪を剃って元服することになったのであろう。
余談だが、NHKの大河ドラマでは元服の場所が義朝が殺された、尾張・内海庄になって、ここでは観光で潤うと期待していたのにと怒りの声が上がったらしい。
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またまた、国道歩きである。野洲市に入り進んで行くと、左手に「村田製作所」の広い工場が見えてくる。工場の前を通り抜けると東池と呼ばれる大きな溜池があった。野洲は多数の溜池があり、少し先にも西池の堰堤が延々と続く。水田の灌漑用として作られたのであろうが、歴史は古く、雄略天皇(418?479年)が近江に築いた48池の一つとされているとのこと。広く稲作が広まって行った時代なのであろう。
国道と別れ辻町に入って行く。これ以降は草津まで国道を歩くことはない。やはり旧街道は落ち着いて歩ける。家棟川の橋を渡る。以前は天井川で、川の下をトンネルで潜ったが、今は河川が整備され真新しい橋を渡る。旧東海道の水口から石部の間にも幾つか天井川でトンネルを通ったのを思い出す。
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桜生(さくらばさま)史跡公園がある。知っていないと読めない読み方だ。公園内には、国指定史跡の大岩山古墳群があり、円山古墳、甲山古墳(かぶとやま)古墳と名づけられた古墳がある。銅鐸も多量に出土したそうだ。見学したかったが相当に広く、日も傾き時間も気になり道路から写真撮影だけで通り過ぎた。直ぐ横を新幹線が空気を震わせ通り過ぎて行く。
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小篠原の集落に入ってきた。中山道以前の東山道では篠原宿があった場所だ。何となく古い街の匂いがする気がする。そして、野洲市行畑に着くと、「背くらべ地蔵」がある。鎌倉時代のものとされている。子供達がお地蔵さんと背比べをして、右の小さい方の地蔵と同じくらいの背になれば一人前と言われたという。ここで毎年7月に「行畑地蔵まつり」が行われているそうだ。
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野洲川橋を渡る。水量は少ないが大きな川だ。中山道では一番大きい川ではないだろうか。
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野洲川を渡れば「守山宿」である。南井金物店という昔ながらの金物屋さんがある。今では見ることがなくなった、ハサミ・包丁研ぎを致しますの立て看板もでている。
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甲(かぶと)屋の跡と言うところがあった。甲屋は、全く知らなかったが、仇討の舞台となった宿屋で、謡曲「望月(もちづき)」に出てくるとのこと。謡曲では旅籠となっているが、実際は本陣であったという。中央の四角いものは、昔の防火用井戸である。
歩いて行くと、左は読めないが「右 中山道 美濃路」と書かれた道標があった。
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守山宿の終わりが近づき東門院というお寺があった。最澄が793年に比叡山延暦寺を建てたときに、このお寺も建てたとのこと。比叡三千坊の中の東の端にあったことから東門院と呼ばれるようになった。また、比叡山延暦寺を守る寺と言う意味から守山寺とも言い、守山宿もこれから名付けられた。江戸時代には朝鮮通信使の宿ともなっていた。山門は仁王門となっていたが、中山道沿いのお寺で仁王門を見たのは初めてである。

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左側に今宿の一里塚が現れた。滋賀県では現存する唯一の一里塚で、大きな榎は2代目とのこと。日本橋から草津までは、一里塚は全部で129箇所あり128番目の一里塚である。草津まではあと4Km(1里)であるが、だいぶ日も傾いてきた。急ごうと思うが、疲れたし、足も痛い。
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栗東(りっとう)の町に入ってきた。大宝(だいほう)神社がある。大宝神社は名前の通り大宝年間(701?704年)の創建で、この地の産土(うぶすな)神である。広い境内は大宝公園となっているが、時間が無く通り過ぎる。
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琵琶湖に注ぐ葉山川の支流を渡ると、もう草津である。JR琵琶湖線と草津線の低いガードを潜る。さらに、低いガードもあるらしいが、ここはそれほどでもない。写真は入り口と潜り抜けた出口て振り返って撮影したもの。
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JR線を横切ると、排水溝の蓋の上になっている中山道を通る。目隠しのための薄い生垣の中で洗濯物を取り入れる物音が聞こえる。これも中山道であることに間違いないのは、写真の左上に貼り付けた手作りの「中山道」の道標でもわかる。少し進むと伊砂砂(いささ)神社が左手にある。変わった名前の神社である。明治以前は渋川大将軍社とか天大将軍社と呼ばれていて、渋川の産土神である。祭神が、石長比売命(いしながひめのみこと)と寒川比古命(さむかわひこのみこと)そして、寒川比売命(さむかわひめのみこと)であることから頭の1文字をとって「いささ、伊砂砂」となったとのことである。
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草津駅前を通り過ぎて「サンサン通り」を横切ると中央分離帯に「一里塚跡」の手作りの表示板があった。今宿の一里塚から4Km歩いてきたことになる。旧中山道では、始めての屋根つきアーケ?ドである。「カラーモール夢大路」と名付けられている。東海道でも四日市と水口がアーケードになっていたが、かなり衰退していた。しかしここでは、草津の街の規模であってみれば当然だが、賑やかである。
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既に廃川となっている天井川である草津川の下を抜けると、ようやく中山道と東海道の追分に達する。「左 中山道 美のぢ、右 東海道 いせみち」と書かれた常夜燈がある。
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10mほど先には東海道で既に訪れた草津本陣があるので、そこまで行って中山道の旅を終えることにした。「本日は休館日です」と書かれた札が架かっていた。時刻は午後5時である。草津駅に向い、米原まで新快速のJR琵琶湖線に乗り、新幹線「こだま」に乗り、再度名古屋で「のぞみ」に乗り換え帰路に着いた。最後は少し駆け足のようになってしまったが、ともかく無事に終えた感慨に浸りながら・・・

2008.10.18

醒ヶ井から愛知川

推定歩行距離28Km
9月28日に歩いてから、ようやく歩きに来ることができた。今回は途中で万歩計の電池がなくり、残念ながら歩数はカウントできず、歩行距離もおよその推定となってしまった。
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ともかく、醒ヶ井駅には8時25分に着いた。これが一番早く着く電車である。前回、見逃した了徳寺に寄ろうと前回は通らなかった駅からの道を進んで行く。まだ、この時間だと観光客も歩いおらず、ひっそりした街並みである。
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国登録文化財の旧醒ヶ井郵便局局舎があり、いまは資料館となっているが早朝で、まだ開いていなかった。目的の了徳寺には国の天然記念物の「御葉附銀杏」があり、葉面上に銀杏を実らせるとのこと。沢山の銀杏が落ちており、上を見上げると沢山の実が生っていたが、葉に付着するものは見られなかった。ガッカリ。
本来の中山道に戻り、500mほど進むと国道21号線に合流する。ここに、「一類狐魂等衆の碑」というのがあり、説明板を読むと何とも奇怪な物語が書かれていた。
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『江戸時代後期のある日、東の見附の石垣にもたれて、一人の旅の老人が、「母親の乳がのみたい・・・」とつぶやいていた。人々は相手にしなかったが、乳飲み子を抱いた一人の母親が気の毒に思い「私の乳でよかったら」と、自分の乳房をふくませてやりました。老人は、二口三口おいしそうに飲むと、目に涙を浮かべ「有り難うこざいました、本当の母親に会えたような気がします。懐に七〇両の金があるので、貴女に差し上げます」と言い終わると、母親に抱かれて眠る子のように、安らかに往生をとげました。この母親は、お金は頂くことは出来ないと、老人が埋葬された墓地の傍らに、「一類狐魂等衆」の碑を建て、供養したと伝えられています。』
また、500mほどで国道から右に分かれて旧道に入って行く。ここは樋口立場で、先ほど過ぎた醒ヶ井を思わせるような水路が流れている。空き家の民家を改造して「いっぷく場」と「憩」の字の看板を掲げた、茶屋道館と名付けた旅人の休憩所があった。まだ、開いていなかった。同類の歩行者が説明板を読んでいた。
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国道を横切ると「息郷」の集落で、「敬永寺」の前を通って中山道は進む。それにしても、お寺の山門前にはよく車が駐車している。
進んで北陸自動車道を潜ると、「久禮の一里塚跡」である。一里塚そのものは無くなっているが、石碑を建てたちょっとした広場となっている。江戸から117里目である。
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一里塚跡を過ぎると、楓の木の並木道を歩く。紅葉の季節は綺麗だろうが、緑の楓も涼しげで好きな風情である。やがて「番場宿」の入り口に到着する。手作りの看板が建っている。宿の中も小学生が作った案内板が建っていた。「番場」と言えば長谷川伸作「瞼の母」に登場する「番場の忠太郎」を思い出すが、もちろんフィクションの演劇の人物である。
ここは右に行けば直ぐ米原に出られ、皆な勤めに出ている半農で高度成長期に家を建て替えたところが多く、ほとんど昔の遺構は残っていない。中山道では宿場を前面に出して村おこしをしているところが多いが、そんなことになるとは思いもよらなかったとは地元の言である。
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江戸方見付けには大きな石碑が建っていたが、他の宿の村おこしに刺激されて急遽整備したように思える。ここが本当の宿の入り口であった。
そして、近江が近づき弁柄(ベンガラ)が塗られた家が目に付くようになってきた。立派な家屋の北村家の前には「明治天皇番場小休所」の碑が立っていた。
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左に折れ曲がって200mほど進み名神高速を潜ると聖徳太子が建立して「法隆寺」と呼ばれていたのを鎌倉時代に一向上人が土地の豪族土肥元頼の帰依を受けて再興し時宗一向派の本山とし、その後幾多の変遷を経て現在では浄土宗となっている「蓮華寺」がある。
山門は修復中で撮影できず残念だったが、ここには元弘3年(1333年)、六波羅探題北条仲時が足利尊氏に攻められ、鎌倉へ逃げようとしたが、佐々木道誉らに行く手を阻まれ、この寺で部下ともども432名が自刃したところである。寺には巻物形式の432名の過去帳が残っており、写しを見せていただいた。432名の墓は本堂の右手の樹林を登って行ったところにあり、延々と続く墓石に圧倒される。なお、門前の小さな溝は「血の川」という。街道に戻り進むと高速道路に沿って進むようになり、ついには高速道路がトンネルとなっている上を通って進む。高速道路から離れる地点を過ぎると「摺針峠(すりはりとうげ)・彦根」の石の道標があり、いよいよ峠道となる。
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「摺針峠」は峠とは言っても短い登りで頂上にたどり着く。左に「神明社」の急な階段がある。階段を上った所には昔は「望湖堂」という茶屋があり、琵琶湖が見え繁栄したという。今も再建された建物の前には明治天皇が休憩を取られた石碑がある。そして、待望の「琵琶湖」が望見できた。視界をさえぎる白い塔が邪魔ではあるが。

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「摺針峠」の下りに差し掛かると左側に手すりが見えて樹林の中に入って行く。心細い道であるが、直ぐに舗装道路に戻り、そのまま下って行く。そして、国道にぶつかり左折すると、直ぐに旧街道への入り口があり、なかなかにユニークなモニュメントが立っていた。いよいよ「鳥居本宿」である。
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街道らしい街並みを進むと、茅葺の家が残っており、かなり古いのか屋根には苔がむしていた。
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進んで行くと、屋根の重なりが豪華な家屋が見えてきた。江戸時代から現在に到る300年以上も「赤玉神教丸」という道中薬を作り続けている有川製薬である。右側にある大きな門の前には「明治天皇鳥居本御小休所」の碑がある。本陣、脇本陣があっても、明治天皇はこの有川製薬で休憩したらしい。

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三角形様の変わった形の看板をぶら下げた家があった。「鳥居本宿」は合羽の製造販売でも江戸時代は有名で、その合羽屋の看板である。合羽は和紙を多数重ねて皺くちゃに揉み、柿渋と油を何度も塗り重ねたもので、紙であっても丈夫で雨から身を守るのに有用であった。大正期には17軒の合羽屋があったようだが、昭和17年ころ、滋賀県油紙工業組合は解散し、今はもう合羽を作られることは無くなった。
右方向に向かう道路があったので、覗いてみると近江鉄道の「鳥居本駅」の可愛い駅舎が建っていた。
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少し進むと、また合羽屋の看板が屋根の上に載っていたが「包紙紐荷造材料」と書かれていた。元は合羽屋さんだったのか、それとも鳥居本の伝統であった道中合羽の形を使ったのか・・・。
そして、何故か聖徳太子に縁があり太子堂がある「専宗寺」。
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宿の終わりが近づいたところに、「右彦根道、左中山道・いせ・京」の古い道標が現れた。中山道は彦根を避けて進むが、彦根道は別名「朝鮮人道」と呼ばれ、彦根、安土、近江八幡、野洲間を約10里で結ぶ。一般通行人は彦根を避けさせたが、大事な朝鮮使節団は通行を許容して、彦根城で供応したのであろう。鳥居本宿を過ぎると、中山道は新幹線と名神高速の間を通り、徐々に狭まってくる。新幹線の線路の向こうにある八幡神宮の入り口の常夜燈が建っており、親は野良仕事でもしているのか、女の子が一人で遊んでいた。
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いよいよ新幹線の線路が狭まったところに「小野小町塚」があった。小野小町は全国に20数箇所も、ここが生誕地と主張しているところがあり、秋田県もお米の名前に「秋田こまち」と付けている。
ここで、同じく中山道を歩いているという年配の方に会い、色々と情報交換して楽しかった。とにかく、歩くことが好きだと言っていた。
新幹線のガードを潜って進むと原の町で右側に「原八幡神社」があり、「芭蕉 昼寝塚 祇川 白髪塚」と書かれた真新しい石碑が立っている。神社の方を覗くと綺麗な紅葉が早くも見られた。
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国道と交差して進むと「五百らかん 七丁余」の石碑がある。五百羅漢のある「天寧寺」への道標で、井伊直中(なおなか)が、腰元若竹(わかたけ)の不義をとがめ罰したが、その後相手が自分の息子とわかり、自分の過失を認め、腰元と初孫の菩提を弔うために創建したとのこと。
1Kmほど進んで芹川を大堀橋で渡る。小さな流れだがこの川は琵琶湖に注いでいる。橋を渡ると小さな地蔵堂があり、傍らに30体ほどの石の地蔵が色とりどりな前掛けを着けて並んでいる。
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直ぐに「石清水八幡宮」がある。祀神は16代応神天皇とその母、神功皇后で小さな境内だが、正一位で格式は高い。神社への階段の途中に扇塚がある。井伊藩では能が盛んで江戸から招いた喜多流能の宗家9世の喜多古能(このう)が彦根を去る時に残していった愛用の能の面と扇を弟子達がここに埋め塚を建てたという
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高宮宿をひたすら進んで行くと左側に、高宮神社がある。創建は鎌倉時代末期とのこと。高宮は粗い麻布の主産地で、これを商うため当時は7つの蔵があり、集荷、出荷を年に12回以上行ったという。今でも5つの蔵が残されているとのこと。
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高宮は今でも往時の面影を残しており、多賀神社の門前町として栄え、街道に面して、宿場の中央に大きな鳥居がある。高さ11mもあり、寛永11年(1634年)に建て変えられたものである。ここから多賀神社までは約3Kmで、ここが一の鳥居となっている
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小林家の前に芭蕉の紙子塚があった。紙子とは紙で作った着物で小林家が新しい紙子を芭蕉に贈り、古い紙子を埋めて塚を作ったという。
芭蕉は「たのむぞよ 寝酒なき夜の 古紙子」と詠んだ。
そして、明治天皇も立ち寄った圓照寺。明応7年(1498年)高宮氏の重臣、北川九兵衛が仏堂を建立したのが起源でなかなかに優美な姿を見せている。

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犬上川を渡る無賃橋で、高宮宿は終わりである。この橋は江戸時代から通行料を取らず「無賃橋」と呼ばれて現在に到る。平素は川の水はいたって少ない。
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足利二代将軍の側室が京への帰路、ここで産気づき、男子を出産した。しかしその子は幼くして亡くなり、側室は尼となり、付け人の9名の家臣は生活の糧に竹と藤づるで葛籠を作るようになった。それでここを「葛籠」の地名で呼ぶようになったとのこと。側室の結んだ庵の近くに祀ったのが産の宮である。そして、道路を隔てて向い合わせに建つ了法寺と還相寺。写真は了法寺山門から還相寺を撮ったもの。
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葛籠町を過ぎて松並木を進むと彦根市の終わりで、入り口にあったと同じようなモニュメントがある。荷物を運ぶ人足、旅人、麻の原料を運ぶ女性の像が乗っかている。
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進んで行くと、コスモスの花が畑一面に咲いているところがあった。優しい感じのする秋の花の代表で好ましい。そして、一時旧校舎を建て替える計画に対して、町長と反対派住民が対立して、町長リコールにまで至り、テレビでも報道された「豊郷小学校」があった。設計は神戸女学院大学、関西学院大学などの設計で知られるウィリアム・メレル・ヴォーリズ、施工は竹中工務店が担当し、建設費用、設備費用は当時のお金で合計約60万円で、郷土出身で丸紅商店専務の古川鉄治郎氏が全額まかなったという。60万円は、当時の古川氏の財産の3分の2にあたる。昭和初期の大阪城天守閣の再建費用がが約50万円だったというから大変な金額であったのが分かる。
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豊郷小学校を過ぎると、間の宿石畑である。かつて宿の中心に一里塚があったので「一里塚の郷」と表記した石碑が立っている。八幡神社に小ぶりながら一里塚の復元を試みていた。そして、近江の商家の立派な家屋の街並みが続く。
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伊藤忠商事・丸紅の創業者である伊藤忠兵衛の功績を偲んで建てられた「くれない園」がある。伊藤忠兵衛は安政5年(1858年)17歳で高宮上布の行商から身を起こした。伊藤長兵衛は忠兵衛の兄であり、博多新川端にて「伊藤長兵衛商店」を開業している。長兵衛と忠兵衛の作った商店が合併・分割を繰り返しつつ伊藤忠商事、丸紅商事を形作っていったとのこと。
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伊藤長兵衛が豊郷病院に寄贈した屋敷跡地と伊藤忠兵衛の旧邸がある。
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「金田池」と書かれた井戸のモニュメントがある。かつて50m北で清水が湧いていて旅人の喉を潤したが、枯れてしまったためモニュメントを作り当時を偲んでいるとのこと。
下の右側の写真は「又十屋敷」で、豪商藤野喜兵が、文政(1818?1830年)の頃北海道で漁業や廻船業を営んだときの商号である。その旧宅を、明治百年記念資料館と民芸展示館として整備し公開している。見学したかったが、先を急ぐためスキップした。
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火災に遭い焼失した千樹寺を弘化3年(1846年)に再建して、遷仏供養のとき一般民衆向けの音頭が作られたのが江州音頭の始まりとのこと。江州音頭発祥地の石碑と石の説明板があった。
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石畑の最後は、宇曽川に架かる歌詰橋(うたづめはし)である。この川は昔は水量が多く、水運に大いに利用されており「運槽川」と呼ばれていたのが「宇曽川」になった。
また、天慶3年(940年)、藤原秀郷が平将門を討ち京都に凱旋途中、この橋を渡ろうとした。その時、目を開いた将門の首が追いかけて来たので秀郷は将門の首に対し、歌を一首所望すると歌に詰まった将門の首が橋の上に落ちたという。これで橋が「歌詰橋」と呼ばれるようになったという。
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「歌詰橋」を渡ると「愛知川宿」である。下の左の写真の分岐点で右の道に進むと、直ぐに「愛知川小学校」がある。最近見かけることが無くなった「二宮尊徳」の銅像がここでは健在であった。
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中山道 愛知川宿のアーチが見えてきて、今日はここまでと近江鉄道の愛知川駅に向かう。愛知川駅の駅舎は地域のコミュニティーハウスを兼ねているようで、内部は土産物の販売や地域の芸術家の展示会が開かれていた。30分ほど待って初めて乗る近江鉄道の電車で今日の宿を予約した彦根に向かった。
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