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2008.09.27

加納から垂井

本日の万歩計52,029(34.9Km)
今年の初秋は雨が多いが、この週末は晴れ時々曇りの予想で中山道の旅に出かけることにした。8:12分に岐阜駅に着き駅前の通りを進んで中山道を歩き始めた。休日の朝で岐阜駅前の通りも閑散としている。
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中山道に復帰して進む。この辺りは秋葉神社が多いようであるが、それ以外には歴史的な匂いは希薄となっている。戦争で街が焼けたこととも関係しているのだろう。
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加納宿の西の見附を過ぎると、中山道はJR東海道線のガードを潜って長良川の南側で「鏡島(かがしま)」という地域に入って行く。鏡島の弘法さんと呼ばれる「乙津寺(おっしんじ)」がある。弘法大師が梅の木で作った錫丈を上下逆であったが地面に突き立てたところ、枝が生じ葉が茂ったという、「弘法大師杖の梅」がある。また、「千手観音立像」、「毘沙門立像」、「韋駄天立像」は国指定重要文化財である由。
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乙津寺の裏側には「長良川」が流れていて堤防への階段には「小紅の渡し」の文字が見える。なんとここでは「舟による渡し」があるのだ。旧街道を歩いていて始めての経験である。県道の一部岐阜県道173号文殊茶屋新田線になっていて、岐阜市が岐阜県に代わり運営している。県道であるから当然無料だ。

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「長良川」の堤防に上がると、遠く金華山と山頂の岐阜城が見える。
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長良川の堤防から見た「河渡宿(ごうどじゅく)」である。昔の面影と思われるものは見ることが出来なかった。しばらく行くと天王川にかかる「慶応橋」を渡る。川は水量が豊かで水は澄んでいる。
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その後も歴史を感じさせるものが無い街を進み、糸貫川に架かる「糸貫橋」を渡る。
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さらに進んで「五六橋」を渡ると、美江寺宿である。「五六橋」の名は江戸を1番と数えたときに美江寺は56番目であることによる。
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道路脇に旧中山道の標識が建っていて、曼珠沙華(彼岸花)の花が一面に咲いていた。朱色の花は毒々しく、朝鮮か中国からの帰化植物である。また、球根にはアルカロイドが含まれ毒性がある。
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樽見線の踏み切りを渡り「美江寺宿」の中心部に入って行く。樽見線は旧国鉄時代には国鉄樽見線であったのが、第三セクターの路線となったとのことで、大垣-樽見間を運行している。そして、重厚な構えの今も現役の酒屋の「布屋」があった。
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「美江寺宿」の名前の由来の「美江寺」は元正天皇が養老3年(719)創建した十一面観音を本尊とした寺院で大いに栄えたが、太田道三が稲葉山城(岐阜城)に移設し、地名のみが残ったのだという。なお、このあたりは海から50Kmなのに海抜10mで、とても平坦である。人口582人の小さな宿場で直ぐに終わってしまう。
「美江寺」は無くなったが、旧中山道が左に直角に曲がるところに「美江神社」があり(左の写真)、奥には元の「美江寺」にあった観音堂のみ再建されている。
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また、曲がり角には本陣跡の石碑が建っていた。本陣の家屋は無くなっていたが、直ぐの場所に庄屋の「和田家」の立派な建物は残っていた。
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400mほど進むと今度は右に直角に曲がる。直ぐに「千手観音堂」がある。そして、犀川を渡る。やはり水量が多く、水が綺麗だ。なお、この辺りは「富有柿」の原産地でこれが全国に広まったという。犀川沿いにも多くの柿畑が見られる。
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「美江寺宿」を過ぎると、田園風景が広がり広々とした感じになる。そして「巣南中」の校門前の道路を跨いだところに、中学校校舎で断ち切った中山道に対する申し訳か、中山道のモニュメントの公園があった。また、中山道の道標が2つ並んで、かつての中山道の道幅を表わしていた。
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やがて、「揖斐川」に架かる「鷺田橋」が見えてくる。橋を渡るために相当に離れた信号まで歩いて道路を横切る必要があった。流石に堂々とした一級河川である。
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「鷺田橋」を渡ると、立派な鐘楼のある「良縁寺」があった。そして、左折して進むと「呂久の渡し跡」に和宮記念公園とも言われる「小簾紅園(おずこうえん)」がある。和宮さまが、「呂久の渡し(呂久は現在の揖斐川)」を舟で渡るとき、舟の舷側に馬渕孫右衛門の庭の紅葉の一枝を立ててあり、これを眺めて「おちていく 身と知りながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」と歌を詠まれた。そして、昭和の始めに当地の人々の和宮様を記念したものを作りたいという強い希望でこの公園が作られたという。手入れが行き届き、紅葉の木を多く配した公園であった。
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少し進んで、平野井川に架かる「柳瀬橋」を渡ると大垣市に入る。川の堤防下の道を進んで行くと、「右すのまた宿道 左木曽路」の道標が立っていた。堤防に茂る丈の高い草に半分埋もれて文字が見えにくい。もっとも、この道標を頼りに歩く人も居ないであろうが。
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近鉄養老線の踏切を渡る。直ぐ近くに「東赤坂駅」が見える。さらに、1Kmほど進むと「杭瀬川(くいせがわ)」がある。「くぜがわ」とも呼ばれる。672年に天智天皇の太子大友皇子(おおとものみこ)と皇弟大海人皇子(おおあまのみこ)が争った壬申の乱(じんしんのらん)で、大海人皇子軍が黒地川の戦で疲れきった身を、この川で清めつかれを癒した。すなわち苦癒(くいや)せ川と、そして杭瀬川と転化したという。「苦医瀬(くいせ)川」が転じたという説もある。
また、関が原の闘いの節に、家康の率いる大軍に浮き足立つ西軍の士気回復のため石田光成が自分の禄高の半分を与えて召抱えた島左近が戦を仕掛けて大勝したところでもある。東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が戦死したのもこの闘いである。
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赤坂宿の中心部に向かって進んで行くと、良く目立つ「火の見櫓」が見えてくる。今では本来の役目より赤坂宿のシンボルとなっているのだろう。
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そして、赤坂港跡である。今は川筋が変わってしまい、単なるモニュメントになってしまっているが、かつては「揖斐川」がここを流れていて、明治になっても近くの金生山(きんしょうざん)で採れる石灰の積み出しで出入りする船は500隻にも上ったとのこと。少し先には本陣跡がある。和宮様も宿泊した本陣であったとのこと。
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赤坂宿の中心が近づくと、古い街並みが残っている。本当に街道らしい家並みで街道歩きの気分が高揚してくる。
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脇本陣跡の隣に「宿場の駅 五七処」がある(左の写真)。赤坂宿が江戸日本橋から57番目にあることから五七処の名を付けた。特産品を販売する傍ら赤坂の情報提供を行っている。赤坂宿西外れには兜塚がある。関ヶ原合戦の前日、島左近の仕組んだ杭瀬川の戦いで東軍中村隊の武将野一色頼母(のいっしきたのも)が討死し、その死体と鎧兜を埋めたと伝わっている。
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兜塚を過ぎ、彼岸花に彩られた、西濃鉄道昼飯線の廃線跡を越えると赤坂宿は終わりである。線路向こうには石灰の採掘で山肌を露わにした金生山が覗いている。また、昼飯(ひるい)の前方後円墳がある。
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昼飯(ひるい)の地名であるが、昔仏像を善光寺に運ぶおり、ここで昼飯をとったことによるとのこと。その後「ひるめし」では上品さに欠けるとして、「ひるいい」と呼ばれるようになり、最後は「ひるい」と呼ばれるようになったとのこと。その後JR東海道線のガード下を潜って進むと、青墓と呼ばれる地域に入ってくる。やがて照手姫水汲井戸の道標があり、中山道から外れて左の道路に入って訪れた。伝説では、武蔵・相模の郡代の娘だった照手姫は、愛する小栗判官を殺されたうえに青墓の長者へ売られてしまう不運な女性。遊女として働くことを拒んだため、一度に百頭の馬に餌をやれとか、籠で水を汲んで来い等と無理な仕事を言いつけられこき使われたという。その照手姫が籠で水を汲んだと伝わるのがこの井戸である。
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青墓を過ぎると次の地名は青野で、美濃国分寺があったところである。国分寺跡は、広々とした公園となっている。そして、青野の一里塚跡。一里塚は壊され、常夜燈が建っていた。
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そして、「喜久一九稲荷神社」を過ぎると、相川に架かる「相川橋」を渡る。
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大きな観光案内版があり、この案内を良く見て垂井駅に向かった。新しく綺麗な駅であった。JR東海道線で大垣に戻り宿泊した。
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