2008.07.12
中津川から大湫(おおくて)
本日の万歩計46,553(31.2Km)
梅雨の雨に加えて夏風邪を引いたりして、なかなか歩きに行けず、今週を外すと夏の暑さで9月中旬過ぎまでお休みとなると思い、出かけた。
新横浜6:18分発の「のぞみ1号博多行き」に乗り、中津川には8:49分着であった。これで、中津川駅は3回目である。
前2回では気が付かなかったが、駅前広場には「栗きんとん発祥の碑」があった。
駅前通りを進み中山道に行き着き少し進むと、早速「栗きんとん」本家の「すや」があった。
街道は流石に情緒の残る通りであるが、直ぐに人一人がやっと通れる路地の入り口に「桂小五郎の隠れ家跡」の立て札があった。進むと当時の料亭の「やけ山」ではないが、趣のある古い家があり、説明板が建っていた。桂小五郎と言えば、尊皇攘夷に向かっていた長州藩が佐幕に転向して、藩に帰ることも出来ず幕吏にも追われて逃げ回るが、この中津川で平田一門の助けを得て隠れながら京に向かう藩主毛利慶親を待ち、中津川会議を行って尊王倒幕に向かうことになったとして歴史に記録されている。後の木戸孝允(きどこういん)である。
本陣の建屋はもう残っておらず、単なる説明板だけであったが、さらに進むと「夜明け前」に青山半蔵の友人として出てくる小野三郎兵衛(本名は肥田九郎兵衛通光)という庄屋の家がある。美濃の家屋の特徴である卯建(うだつ)の立派な家である。その後も文化財指定の建屋が続く。
枡形を曲がって突き当たると立派な店構えの日本酒「恵那山」の醸造元の「はざま酒造」があり、これを過ぎると、ほどなく中津川に架かる常夜燈を配した橋がある。そろそろ宿も終わりである。
1Kmほど進むと、「小手ノ木坂」という階段状の坂道がある。坂を上ると男女の2つの頭を持つ「双頭一身道祖神」があるが、この種の道祖神は珍しく中津川市の指定文化財になっている。
やがて、「上宿の一里塚跡」がある。中山道は期待していたより「一里塚」が残っていないと思っていたが、今回の歩行の後半の13峠では次々と「一里塚」を見ることができた。この一里塚がその一つ目である。
その後、中津川のインターを通り抜けて「千旦林」と呼ばれる地域に入って行く。少し進むと「六地蔵」がある。最初、6つの地蔵が並んでいるものと思っていて、説明板を見て内容を読むこと無しにあぜ道を通って道路際の家屋の裏を覗きに行ったが、常夜燈の周りに6つの地蔵が彫られているのを指すことが分かった。いささか拍子抜けであった。
そして、これぞ蔓木であることを示す立派な「ノウゼンカズラ」が咲き誇っていた。梅雨の花とされるそうだが、夏の花としてしてもよいと思える。
本当に、のどかな風景の集落が続く。素晴らしい「格子戸」をみることが出来る。そろそろ。京の影響もあるのだろうか。そして、ここにも「尾州白木改番所」があったことを示す碑が建っていた。
茄子川と呼ばれる地域に達すると、和宮、明治天皇もご休憩されたという茶屋本陣の「篠原家」の建物が残っていた。篠原家は加賀前田家の重臣篠原一孝の子の弥右衛門が17世紀始めに移り住んだとのこと。理由は定かでないが、江戸期は庄屋、村役人等を勤めたという。
岡瀬沢と呼ばれる小さな流れの手前に「中山道・岡瀬澤」と彫られた大きな石碑があり、また常夜燈も建っていた。常夜燈は安永5年81776)に建てられたものである。
向こうに低い峠が見えてきた。甚平坂である。上は公園になっていて、東屋では自転車で訪れた父と小学校低学年の子供が休んでいた。よい休日を過しているのだろう。
なお、甚平坂の甚平とは、頼朝の家臣で信濃の国根津に住む甚平是清の名前に由来するという。
甚平坂を過ぎて、明知鉄道の踏切を渡るといよいよ「大井宿」の中心街に入って行く。大井宿の名は現在では消えて、恵那市となっている。進むと大井宿の本陣の表門がある。昭和22年に本陣は焼けてしまったが、表門の辺りは幸いにも残ったとのこと。説明板には樹齢300年の松があると書いてあったが、枯れてしまったようだ。
枡形の角には、いまも旅館「いち川」として営業している元旅籠の「角屋」があり、その角を曲がって進むと間口27m、奥行き65mの敷地に建つ堂々たる大井村庄屋の古屋家がある。そして、突き当たりは大井宿の氏神様の市神神社で、毎年1月7日に行われる例大祭は大変な賑わいとのこと。
コの字型の枡形を過ぎて、大井橋を渡る。地域の皆様でいろいろと手を加え、花を植えたり、手すりに安藤広重の絵を飾ったりしている。川には色鮮やかで見事な鯉が多数泳いでいた。橋を過ぎても情緒のある古い家が恵那駅への通りを過ぎても続いている。
食事をして続いて歩いて行くと、中野村の庄屋の前に洪水のときに、板をはめ込む溝を掘った石が残っていた。浸水防止策である。道は左に曲がり、直ぐに右に曲がってクランク状に続くが、ここには民家に挟まれて「中野観音堂」が建っていて、古い町を感じさせた。
クランクを過ぎると直ぐに永田川を渡るが、この辺りで宿の賑わった地域も終わり、残念ながら車の通りの激しい道を進む。800mほどで「西行硯水公園」がある。西行は2度目の奥州の旅から帰ってきた文治2年(1186)にこの地に3年間逗留し、ここに湧く泉の水で墨を擦ったという。3年間の逗留費用はどうしたのだろうと、下賎なことを考えてしまう。
西行硯公園を過ぎると、直ぐに県道を右に外れて中央線の踏切を渡り、田圃の中道を進んで中央高速の下を潜ると、すぐに「十三峠」が始まる。13峠と言うが、「13峠におまけが7つ」といわれ正確に数えたという人の話では21箇所と言う話もある。次の大湫宿まで山道が13Kmほど続く難所である。
直ぐに「西行塚」がある。公式には西行の墓は大阪府南河内郡河南町にある、弘川寺にあるものとされているが、この辺りで入寂したとの伝説もありこの塚が作られたのではと言われているようだ。いずれにしろ、墓石は室町時代のものとのこと。
展望台もあり、素晴らしい眺望を楽しみながら休息を取る。「武並駅」から歩いてきたという3人連れのご婦人に出会ったが、武並駅から恵那駅までが、ハイキングコースとして設定されているようだ。
西行塚を過ぎると、しばらくは石畳の道が続き、直ぐに「西行の森」と銘打った桜の木を沢山植えた場所に着く。この辺りはもう石畳は終わっているが平坦で歩き易い。
そして、ほどなく「槙ケ根一里塚」がある。ここも綺麗に原型を留めている。そして、1.5Kmほど進むと「槙ケ根立場跡」で、釜戸から土岐、多治見を経て名古屋に行く道への分岐点でもある。名古屋へは、中山道より18Kmも近く幕府は宿場を守るため荷物の運搬を禁止したが、人気があり商人や伊勢参拝の人々に多く利用されたという。説明板には、この近道は下街道と呼ばれたとある。
800mほど進むと、右側に「姫御殿跡」の大きな石碑があった。この辺りに松の大木があり、松かさ(松の子)が多く付き、子持ち松と呼んだという。そして、この子持ち松の枝越しに馬籠(孫目)が見えるため子孫が続いて縁起がよいとして、お姫様の通行のとき仮御殿を建てて休憩された。そこで、これを姫御殿と呼んだとのこと。
姫御殿跡の斜め前には「首なし地蔵」がある。説明板には、
「昔、二人の中間(ちゅうげん)が、ここを通りかかった。夏のことで汗だくであった。「少し休もうか」と松の木陰で休んでいるうちにいつの間にか二人は眠ってしまった。しばらくして一人が目覚めてみると、もう一人は首を切られて死んでいた。びっくりしてあたりを見回したがそれらしき犯人は見あたらなかった。怒った中間は「黙って見ているとはなにごとだ!」と腰の刀で地蔵様の首を切り落としてしまった。それ以来何人かの人が首をつけようとしたが、どうしてもつかなかったという。」とある。
直ぐに急な下り坂が始まる。 大名行列が乱れ、旅人の息が乱れ、女の人の裾が乱れるほの急坂であるがゆえに「乱れ坂」という。少なくとも上りでなく下りでよかった。
坂を下りると「乱れ橋」と呼ばれる橋が小さな流れに架かっているが、昔は石も流れるほどに急流だったとのこと。いまは、全くその面影はない。
途中にある「四ツ谷」という小さな集落を過ぎ、「平六坂」を上ってゆくと急に開けて、日本の田舎の原風景のようなのどかな場所に達する。「びゃいと茶屋跡」である。びゃいとは「枇杷湯糖」と書き、枇杷(びわ)の葉に薬草を加えて煎じたもので疲労回復剤だったとか。そして、「紅坂の一里塚」である。
一里塚を過ぎて紅坂を下って行く。石畳の片側の半分はアスファルト舗装であった。地元の人が、バイクで通れるようにしたのだろうか。途中には「ぼたん石」と呼ばれる石があり、本当に「ぼたん」か「バラ」の花を思わせる感じではあった。
紅坂を過ぎると、次は「里すくも坂」である。下ると「佐倉宗五郎大明神」があった。佐倉惣五郎は下総(千葉県)の人であるのに、一字違いの名前の大明神は何故だろうと思って調べると、ここでも元禄年間に岩村藩で農民騒動が起こりそうになり、竹折村の庄屋田中氏は将軍に直訴して農民達を救ったが、当時の定めとして直訴は打ち首と決められていたため、首をはねられてしまった。田中氏の名前で神社を作るのは気がひけるので、下総の佐倉惣五郎のケースに似ているので、佐倉宗五郎大明神の名前で、田中氏を祀ったのではと言われている。
さて、ここは中山道から離脱して30分ほどで、JR中央線の武並駅に出られるポイントである。時刻は14:30で次のポイントの大湫宿までは6Kmほどあり、疲労感も強い。途中で飲み水の補給も怠り、残りの水も僅かである。しばし悩んだが、もしここで離脱すると、明日は午前中のみの行動で、それ以降は次のポイントまでの距離から無理となる。結局、2時間で大湫に着けるだろうと強行した。
直ぐに、「深萱立場:ふかがやたてば」で大きな案内板があった。そして、西坂を上って行くと「ばばが茶屋跡」の表示があり、三城峠を越えて下って行くと「中山道」の巨大な石碑があった。
もう、水はほとんど残っていない。疲労は増すばかり。カメラのシャッターを押す頻度が低下する。なんとか水が手に入らないかと、そればかり気になる。やっと「権現山の一里塚」に到着。次いで「中山道ゴルフコース」を横切って進む。時々木立の隙間から芝生が見える。中ほどに、毎年8月1日にだけ、水が湧き出るという「巡礼水」があった。こちらは水が尽きた。気が逸る。
ゴルフ場の中を横切る「びゃいと坂」とそれに続く「曽根松坂」を下って行くと「三十三観音」がある。石室に閉じ込められたようなユニークな観音である。直ぐに「尻冷やし地蔵」がある。旅人が喉を潤す貴重な水場で、湧き出す水が地蔵の尻を冷しているように見えたのだという。
やっと、大湫宿に着いた。時刻は16:40分である。自動販売機がある。思い切り水を飲む。1軒だけある雑貨屋でタクシーを呼べるかたずねる。釜戸駅までタクシーで出て、恵那駅に向い駅前のホテルに投宿した。