2007.06.10

藤枝から掛川(3)

急坂を下りバイパスを潜り、日坂の宿に到着した。大きな秋葉灯篭が歓迎してくれいるようだ。本陣跡は幼稚園になっていて、入り口の門が本陣跡であることを主張している。
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「萬屋」という屋号の江戸時代の旅籠の建物が公開されていた。
中も自由に見学出来るので、ちょっと見せて貰ったが、後ほど大変なことが分かるのであるが、この旅籠は一般大衆が泊まるものであったとのこと。
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直ぐ筋向いには、やはり旅籠で「川崎屋」が公開されていたが、この旅籠は全ての部屋に床の間があり、家具調度品も上等なもので、武士階級の宿泊に供せられたのであろうとのこと。
71歳という、おじさんが案内役として常駐しており、色々と聞かせてもらった。
最近まで実際に人が住んでいて、比較的良好な状態を保ちえたこと。再整備には大変なお金を要したこと。
東海道400年祭のときは1日に800人ほど訪れたが、いまは50人程度などなどであった。
さて、先ほどの「萬屋」を再度案内して貰ったのだが、この旅籠は2階が特殊な部屋の配置になっていて、家の前後に同じ大きさの部屋が4つづつ並んでいて、両方の間には狭い廊下があった。
おそらく、後ろの部屋には遊び女が控えており、前の客の部屋に行く仕掛けだと言う。大学の先生にも来て貰って話しを聞いたが、遊女を置いた旅籠だと言っていたとのこと。
shimada_069.jpgshimada_070.jpgshimada_071.jpg日坂の宿は小さな宿で、直ぐに宿の出口にある、「高札場」に達した。良く復元された高札場で、当時の様子が良く分かる。現在のようにマスコミなど無い時代においては、情報伝達の手段として重要であったのである。
宿の端には、「事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)」がある。
大同二年(807)坂上田村麻呂東征の際、桓武帝の勅を奉じ、旧社地本宮山より現社地へ遷座すと書かれていて、大変古い神社だ。
事任(ことのまま)とは、願い事がそのままで叶うとして付けられたと言うが、本当に人気の高い神社であったようである。境内には楠の木の大木があり、樹勢もすこぶる良好な感じであった。
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「事任八幡宮」からは県道を歩いて掛川を目指すことになった。やがて「伊達の一里塚跡」に到達し、さらに進むと、「馬喰橋」に着き、掛川はもう少しだ。
「馬喰橋」は、その名が示すように、橋の柱は馬をデザインしたものだ。昔は馬の良し悪しを見分け、馬の売買の仲立ちをする専門職としての馬喰が居たが、馬喰と言う言葉も死語になりつつある。
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馬喰橋を渡ると直ぐに葛川の一里塚があり、ほどなく掛川の七曲の入り口に達する。
七回も曲がって進む必要があり、城下町に特有な形態が完全に残っているのである。
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七曲の道を辿って行くと、秋葉灯篭があり、正しく進んでいることが分かる。しかも蝋燭の代わりに電灯を入れて火を点している。
さらに、進むと「塩の道の道標」があった。この道は長野方面に塩を運ぶ街道の起点に近い部分でもあったのだ。
東海道の夢舞台道標と似た道標だが、塩街道を歩く人もいることから、建てているようだ。
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七曲の丁寧な説明板もあり、終に通り抜けたが、抜けたところに葛を用いた菓子などを売る「丁葛」と看板を掲げた古風な感じの店があった。お土産を買おうと入ったら、親切な若女将が葛湯を入れてくれた。私の住んでいる横浜からこちらに嫁いできたと話していた。
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掛川市街の中心部まで進むと、昔の商家を擬したデザインの清水銀行の本店があった。しかも、横の壁には大きな山内一豊と千代のレリーフがあった。歴史を大切にし、誇りにしているのだろう。
shimada_082.jpgshimada_083.jpgshimada_084.jpg今日は、朝は雨に降られたが、大井川を渡り、小夜の中山も通り充実したものであった。
掛川駅は、やはり雰囲気を大事にするためか、少し古風な感じであった。これから、横浜までの長い列車の旅がある・・・。

2007.06.16

掛川から見附(磐田)

本日の万歩計34,986(23.09Km)
今日は先週にたどり着いた掛川駅に8時30分ごろ到着した。ずいぶんと時間がかかるようになったものだ。
それにしても、先週の雨模様の天気とはうって変わって、快晴だ。梅雨入り宣言が出た直後とは思えない。
さっそく、先週に東海道から離脱した清水銀行本店のある交差点に進むと、変わらず一豊、千代のレリーフが迎えてくれる。方向を西にとり、進んで行くと直ぐに「円満寺」の山門が目に付く。説明板によれば、
この門は掛川城の門で蕗(富貴)の門といい、廃城と共に明治五年西町の円満寺山門として移築された。門柱に下部を切り捨てて低くしてある。と書かれている。
瓦の桔梗紋は太田道灌の子孫といわれる掛川城最後の城主の太田氏の家紋で、キキョウは掛川市の市章や市の花にもなっている。
kakegawa_001.jpgkakegawa_002.jpgkakegawa_003.jpgさらに進んで、道路が右に大きくカーブするところに、「十九首塚1Km」の道標があり、その後矢印に導かれて、住宅地に入ってゆくと、十九首公民館の前を通り、平将門以下19人を祀った首塚があった。
由来の説明文が郵便受けのような箱に入っていて、自由にお持ちくださいとある。説明文は長いものだが、簡単に記すと。
関東一円を制覇した桓武天皇の5代目の子孫の平将門は、天慶(てんぎょう)3年2月14日、平貞盛、藤原秀郷連合軍に討伐されるが、ここ掛川の地に都からの検死の勅使が到着して、後に「血洗川」と呼ばれる川で首を洗い、橋の欄干に掛けて、検死を行った。首実検の後は十九の首は無残にも路傍に棄てさられようとしていたが、秀郷が「将門の罪重しと雖も今や亡びてなし、その屍を鞭打つは非道なり」と言い、地元住民とともに十九の首を別々に埋葬し、懇ろに供養した。時に天慶3年8月15日であった。
当時19箇所あった首塚は土地の開墾等で段々と少なくなり、ついに将門の塚のみとなっていたので、平成13年3月、家臣18人の供養等も建てて祀ることにした。
掛川の地名は橋の欄干に首を掛けたことからとも言われているという。この辺の地名は、当初、十九箇所の首塚で、十九所(じゅうくしょ)と呼んでいたのが、いつのまにか、読みはじゅうくしょのままだが、十九首が地名になったという。しかし、地名に「十九首」とは凄い。
kakegawa_004.jpg旧東海道は、天竜浜名湖鉄道の下を西掛川駅のそばで通過し、国道に吸収され、また分離して進むが、車の通行も多く、あまり歩き易くは無い。
大池という地に到着すると、交差点に接している蓮祐寺の塀の外の角に、大池一里塚跡と書かれた夢舞台道標があった。本当の一里塚は失われて久しいのだろう。
kakegawa_005.jpg旧東海道は、国道や東名高速と交差してその下を潜るようにして進むが、だいぶ車の通りも少なくなってきて、垂木川に掛かる善光寺橋を渡ると、仲道寺と書かれた大きな寺名碑が目に付いた。
寺に入る階段を昇ると、左に「善光寺」、右に「仲道寺」があり、2つの寺がくっ付いている珍しいところだ。
説明板には、その昔江戸から京都までの道を測量した所、この寺が丁度東海道の真中で仲道寺と寺号がついたと言われております、とある。
現在の距離測定では、見附と浜松の間あたりが中間点だが、元の東海道が無くなっていたりしているから、当時と違うのだろうか。
しかし、善光寺は、坂上田村麿と百済王とが東に下った途中この村に来た頃、兵が難病にかかり徒行することが出来なくなり、この地にとまり病養せしめ、その一体の阿弥陀仏に願いをかけ、そのため兵の悪病の難を逃れたと云われ、ここに善光寺堂を建立されたとあるので、こちらの方が本家のような気もする。手前の橋の名前も「善光寺橋」だった。
左「善光寺」、右「仲道寺」
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近くに建っていた夢舞台道標の最上部に付いている、現在地を示す表示も江戸と京の真ん中のように見える。
少しすすむと、この辺は原川という間の宿であることを示す表示があったが、住宅ばかりでその痕跡がないとと思っていたら、「金西寺」というお寺があり、原川薬師と呼ばれていたと書かれていた。
それにしても、原川薬師はアルミサッシに銅板の屋根となってしまっている。
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また、国道にぶつかり、同心橋を渡って、直ぐに左に折れると、「花茣蓙(はなござ)公園」と呼ばれる小公園があり、秋葉山常夜燈が建っていた。少し休んでから進んで行くと左手に「大和ハウス」の巨大な敷地の工場があり、その一角に朱塗りの鮮やかな鳥居がある。見ると、富士浅間神社の文字。おそらく、ここが浅間神社の参道入り口で、参道が続いていたのが、大和ハウスの工場建設で参道がなくなり、鳥居だけがぽつりと残されたのだろう。横道の案内板には、浅間神社へ800mと記されているので、国道を越えた向こうに神社があるのが分かる。
この辺りの道は松並木が良く保存されていて、しかも松並木の外側に歩道が設けられているので、車の走る道路とは遮断されていて歩き易く、気持ちが良い。
さらに、進むと「妙日寺」というお寺があり、日蓮上人の両親の墓があると書かれていた。
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「妙日寺」から直ぐのところに、袋井東小学校があり、校庭の道路に面したところに、一里塚があった。大きさは本来の一里塚の半分ぐらいで、一里塚跡と表示されているが、単なる石碑よりよい感じである。
そして、校門には「東海道五十三次どまん中東小学校」の大きな看板がある。
kakegawa_011.jpgkakegawa_012.jpgkakegawa_013.jpgそれにしても、校庭の緑が綺麗だ。これほどの庭を持っていて、手入れが行き届いている小学校は珍しいのではなかろうか。 そして、後で分かるが、この「どまん中・・・」という文字をあちこちで見ることになる。
kakegawa_013a.jpgこの辺りも松並木がかなり残っていたが、先ほどからかなり年配の人達が大勢で歩いているのに遭遇した。しかも、かなりな速さで歩いていて、ついて行けないほどだ。後で分かるのだが、地元の年配の方たちがルートを決めて、この辺りを皆で歩いているのだった。道は一度国道に出て直ぐに住宅街の道に入ってゆくが、その入り口に「どまん中茶屋」というのがあり、袋井市の運営と思うが、旅人にお茶のサービスなどをしている。休みたかたっが、先ほどの年配歩行グループの人達であふれ返っていて、入れそうに無く次に進んだ。

静かな住宅街の道に入って行くと、すぐに、とても立派な秋葉山常夜灯に遭遇した。今まで見た中で一番立派で、装飾彫りもなかなかのものである。人通りも稀な静かな住宅街といった趣の道だが、旧東海道であったことがはっきりする。 そして、「これより袋井宿」の大きな石碑が突然姿を現した。
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進むと本陣跡が小公園になっていて、門柱のみが建てられていた。その前には、「東海道五十三次・どまん中ふくろい」の統一マークが飾られている。
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kakegawa_016a.jpg本陣跡の向かい側にも小公園があり、歩行団体はここで終わりで次々に公園に吸い込まれてゆく。年配の歩行グループは、好ましい人達と思うが、写真を撮るには、はなはだ具合がわるく、被写体に入ってしまうので、やれやれと言う気がした。ここで、道路を左折すると600mほどでJRの袋井駅に出るが、そのまま直進する。
そして、「高札場」も復元されていた。先ほどから、小さな小公園が連続しているが、これも旧東海道を材料にしての町起こしだろう。ともかく、「雪隠」と古風な名前で書かれたトイレもあり助かった。
いよいよ袋井の宿から離れようとする地点に袋井西小学校があり、ここでも「東海道どまん中・・・」の看板が校門に掛かっていた。袋井市は”どまんなか”をとことん使う積りらしい。
kakegawa_018.jpgkakegawa_019.jpgkakegawa_020.jpgしばらく、何の変哲も無い車の走行がうるさい道を辿るが、やっと木原の集落に達し、道は別れて静かな通りに入って行く。すぐに、木原の一里塚があるが、これも新たに造り直された一里塚である。どうせ造り直すなら、石垣で囲んだ、江戸幕府通達の仕様どおりにして欲しい。
kakegawa_021.jpg一里塚を過ぎると、右側に許禰(こね)神社がある。入り口の左側に御神木にもなっているクスノキの巨木があった。許禰神社は木原権現社とも呼ばれていて、紀州熊野権現とも関係が深いとのこと。
神社入口左の案内板によると、許禰神社は木原畷(なわて)と呼ばれる古戦場であり、武田軍がこの地に砦を築き、袋井の北部の久野城に立て籠もる久野氏と一戦を交えた。これが、家康が惨敗した有名な三方ヶ原の戦いの前哨戦であった、とのこと。
kakegawa_022.jpg kakegawa_023.jpgkakegawa_024.jpg旧東海道は大田川に達し、袋井バイパスの高架下で左折して静かな通りに入って行く。松並木も良く保存されていて気持ちが良い道であったが、突然急な上り坂となる。この坂を三ヶ野坂と言うそうだが、ここには鎌倉・江戸・明治・大正・昭和・平成及び抜け道の7つ道が複雑に越え、現在も残る珍しい坂である。
当然、江戸の古道の石碑のある道に入って行く。綺麗に舗装されているが、急坂で森の中の道である。涼しくて気持ちが良いが、直ぐに終わってしまい、上りきったところに7つの道の案内図があった。
kakegawa_025.jpgkakegawa_026.jpgkakegawa_027.jpg三ケ野の集落から途中国道を跨いで見附に向かって歩き続けると、やがて民家の軒に「遠州見附宿 木戸跡」の木の碑があった。磐田市も見附宿として東海道のアッピールを行っているのなら、木戸跡の表示ももう少し、考えるべきだと思うのだが。
これは、後で気がついたのだが、三ケ野の集落から国道に飛び出したとき、旧東海道は国道を横切って続いているので、早く渡ることばかり考えていて、国道の右側にある「遠州の鈴が森」を訪れるのを飛ばしてしまった。
kakegawa_028.jpgさて、磐田市の市街地に入ってくると、「大見寺」がある。案内板によれば、中世に今川氏により築かれた城があったところで、江戸時代にグライダーで空を飛んだ、岡山出身の鳥人 幸吉の墓もあるとのこと。
すぐに、磐田市の一番の自慢の「旧見附学校」があり、案内板によると、「旧見付学校」は、学制発布後まもない明治八年(1875年)に落成した現存する日本最古の洋風木造小学校校舎です。当初は四階建てでしたが、明治十六年に増築されて今の五階建てとなりました、とある。
明治8年では、まだ洋式の建物などほとんど無い時代であったと思うが、良い学校を作ろうとの熱意が感じられる。
無料で内部も見学でき、1階には教室が当時のまま整備されていて、椅子に座り、当時の教科書を見て、石版に字を書くことも出来た。さらに、2階には当時の子供の姿の人形があり、最上階に上ると、磐田市街が良く見え、見晴らしが良い。この最上階には、太鼓が置かれて、時報を知らせるために鳴らされ、学校だけでなく町の人達にも役立ったとのこと。
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脇本陣跡も整備されていて、入り口の門が建てられていた。
旧東海道は左折して天平通り入り、南に向かうが、うっかりと、そのまま真っ直ぐに進んでしまった。直ぐに気がついて引き返したが、道の感じは東海道が続いているように見えたのである。後で調べたら、この直進する道は「姫街道」と呼ばれ、浜名湖を渡ったところにある「新居の関」を避けるために女性が好んで通った街道で、北に大きく回り、浜名湖を避ける道であった。どうりで、旧道が続いていると感じたのもうなずける。
岩田駅に向かう天平通りを進むと、加茂川に掛かる橋を渡り、そこに木戸のモニュメントがあった。、これで昔の宿から離れることになる。
kakegawa_031.jpgkakegawa_032.jpgkakegawa_033.jpgひたすら南下して、磐田駅に到着すると、駅前に大きなクスノキがあった。樹勢もすこぶる良く、枝も大きく広がり、葉っぱも良く茂っていた。
時間は午後2時30分で、天竜川を渡る積りであったが、なんだか今日はファイトがでない。
どうするか、駅の喫茶店に入り休憩して考えるが、今日はここまでで帰ることにした。歩いた距離は23Kmで、歩き始めて最初の2回を除けば一番短いが、こういう日もあってよいだろう。
そして、磐田駅から掛川駅に行き、掛川駅から、東海道を歩き始めて始めての新幹線で帰ることにした。

2007.06.23

見附(磐田)から新居

本日の万歩計49,558(32.7Km)
今日は、2、3日前までは梅雨で雨になるとの天気予報で、諦めていたが、昨日の予報では曇りとなっていたので、歩くことにした。途中で雨がぱらつくこともあったが、傘をさすほどではなく快適に歩くことが出来た。先週は快晴で暑さのためか、途中でリタイアとなったが、曇りは本当に歩き易い。
磐田に着いたのは、8時45分ぐらいで、駅にある喫茶店でホットコーヒーを飲み出発した。最初に、先週も撮影した駅前の大楠を撮ったが、枝ぶりも、葉も茂っていて、本当に樹勢が良い。旧東海道は、典型的な住宅街を通る様相で続いている。
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ほどなく、中泉公民館の前に夢舞台道標が建っていて、旧東海道に間違いないことを実感する。
そして、立派な秋葉常夜灯に遭遇する。この常夜灯と同じタイプの秋葉常夜灯を舞坂の宿の終わりまでの間に頻々と見ることになる。おそらく、大火に襲われ、火伏せの神で有名だった秋葉神社を祀る意味合いがあったのだろう。また、この辺りに宮之一色の一里塚があるはずで、注意していたのだが、見つからなかった。後で調べると階段で上る小さな山が作られていて、その上とのことだったが、石碑があるものと思い込んで歩いていたので見逃したようだ。
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宮之一色には、高砂香料(たかさごこうりょう)という文字通り香料を作っている大きな会社があり、北に1Kmほど進むと、「行興寺」という藤の花で有名なお寺があるそうで、そのための「藤と香りの道」という散策道もあるのか、その道標が建っていた。
もう、藤の季節は終わっているし、旧東海道から外れるので「行興寺」見学はスキップして進んでいると、後ろから同じように旧東海道を歩いている人が迫ってきた。なんだか、後ろをつけられているようで嫌なので、道端の何でもない風景を撮影して時間稼ぎをして先に行って貰うこととした。
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mitsuke_007.jpg歩いて行くと、若宮八幡宮があり、ここには石垣で囲んだ丸い台地のようなものがある。石碑には西之島学校跡と書かれていた。調べると、明治5年の学制発布に伴い、翌六年にこの地に西之島学校が設立されたが、その後、西之島学校は森下村に校舎を新設し移され、井通小学校、豊田南小学校と改称されて受け継がれているという。この八幡宮には学校跡のみでのみでなく、相撲の土俵も併設されていた。
若宮八幡宮から500mほど進むと、「長森立場」の夢舞台道標があり、「長森立場」の表示の横に「長森かうやく」の字があった。横には説明板が建っていたので、詳細は説明板の写真をクリックして直接お読みいただきたい。
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やっと、天竜川の堤防が見えるところに達した。天竜橋跡の碑があり、説明板よれば、明治9年に全長646間(1,163m)、幅2間(3.6m)の木橋が完成したが、昭和8年に現在の鉄橋が出来、廃止されたとある。
そして、いよいよ天竜川を渡る。以前は、天竜川に掛かっていた2つの橋には、いずれも歩道は無く、歩いて渡るのは注意を要すると言われていた。橋の手前でバスに乗り、向こう側でバスを降りるようにすると書かれてい案内書もあったそうだ。今は新しい橋が完成(2007年2月)し、広い歩道を独り占め状態であったが、天竜川も向こう岸は遠かった。
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天竜川を渡り、川に沿って下る方向に少し進むと、「六所神社」があり、その傍に明治天皇の立ち寄られた記念碑が建っていた。また、舟橋跡と木橋跡の標識が建っていが、文字が消えかかっている。せめて石碑に出来ないのだろうか。
mitsuke_012.jpgmitsuke_013.jpgmitsuke_014.jpg天竜川から1Kmほど進むと、金原明善の生家とその向かい側に記念館が建っていた。何をした人か知らなかったのだが、記念館を見学して、大地主の家に生まれ、明治の初めに私財を投じて天竜川の治水に力を注いだ。また、小学校にも自家を寄贈した、この地域の名士であったのが分かった。
mitsuke_015.jpgさらに進んで、浜松バイパスを潜ると松並木が残っていて、ほっとしたが、写真のように倒れた松の木に支えをほどこし、安全のために金網を設けて大事にしているところがあった。粗末に切り取られる松がある反面、大事にされているところもあるものだ。
mitsuke_016.jpgその後、単調な道を歩む。浜松のシンボルのアクトタワーは遠くから見えるのだが、なかなか近づかない。
だいぶ市街地が近づいてきて、この辺に馬込の一里塚跡があるはずだと、注意しながら進んで行くのだが、地図で見て通り過ぎたと思っても見つからない。あまり一里塚跡にこだわる積りもないのだが、なんとなく癪に障って、少し戻って探したら、歩道の植え込みに木の標識の杭が建っていた。しかも、消火器の傍であり、これでは見つけるのが大変な訳だ。
浜松に入って、浜松は旧東海道に対する扱いが冷淡ではと思っていたのだが、天竜川の橋跡の碑も貧弱であったし、この後に見つけた地蔵堂跡の標識も木の杭で、しかも肉眼では何とか読めるが、写真には写らないほどに消えていた。浜松は旧東海道でも最も大きな宿であったはずだが、戦争で完全に破壊され、歴史的な遺構が残っていないからと言う人もいたが、それだけではなく、市の姿勢の問題のような気がする。
やっと、アクトタワーも近くに見える、市街の中央付近に達した。ちょうど、お昼の時間で先ほどから、食事をしたい気も高まって来ている。浜松と言えば「うなぎ」と私の旧東海道歩きを知っている人は言うので、あらかじめ良さそうなお店をネットで調べておいたので迷わず「曳馬野(ひくまの」に直行した。小さなお店であった。もちろん美味しかった。
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待望の浜松のうなぎの昼食に満足し、神明町の交差点を左折し南下すると、直ぐに「佐藤本陣跡」の表示板があった。道路右側にも「高札場」や「杉浦本陣跡」、「川口本陣跡」があるようだが、左側の歩道を歩いていて見られなかった。
右の歩道に移って、暫く行くと、「浜納豆」の看板の古いお店があった。「浜納豆」は食べたことはないが、普通に売っている納豆とも甘納豆とも違い、塩辛くて味噌に近い味で、戦国武将の携帯食として好まれたという。
mitsuke_019.jpgmitsuke_020.jpgmitsuke_021.jpg道路をどんどん南下してJRの東海道線と新幹線のガード下を潜り、道路が右にカーブするところに、「馬頭観音」、「高札場跡」、「二つ御堂」と3つの表示杭が建っていてた。どうも、だいたいこの辺にあったものと言うので集めたのだろうが、杭の表示も貧弱だ。それより、お堂が大事で、道の反対側にも同じお堂が建っていて、「二つ御堂」と呼ばれるそうだが、片側は撮影を忘れてしまった。
この二つのお堂は、20歳の藤原秀衡が学ぶために京都にいたとき、藤原秀衡の愛妾が秀衡を訪ねてこの地まで来たとき、誤報で秀衛が死んだと聞かされ、弔うためにここにお堂を建てたという。その後、気落ちしたためか病に罹り死んでしまったが、そこに秀衛が故郷に帰るべく馬で通りかかり、ここで愛妾が死んだのを知り、同じお堂を建てたのだという。情報網の発達していなかった時代には、こういうこともあったのだろう。20歳の秀衛も故郷に帰ればあの子に会えると胸を高ぶらせて帰省の途についたに違いない。なんとも、可哀想なことである。
また単調な道が続く。たまには、写真のような格子戸の古い家があり、旧東海道の雰囲気もあるのだが、狭い道路の住宅街となっているのに、車の通りも多い。車の見えない写真は、かなりタイミングを狙ってやっと撮ったものだ。
mitsuke_022.jpgmitsuke_024.jpg
浜松の宿から舞坂の宿は、思った以上に遠く感じた。やっと、舞坂駅の近くの春日神社に着き、少し休もうとしたが、境内にあるベンチはどれも鳥の糞で汚れていて、座る気がせず少し先の喫茶店に入った。
アイスコーヒーを頼んだら若い女将が出してくれ、浜名湖まであと2Kmぐらいですかと尋ねたら、そうですと答え、私の持っている地図を、ちょっとと声を掛けながら覗き込み、私が歩くルートを緑のサインペンで塗ってあるのを見て、このコースで良いです。この道は本当に歩くのに良い道ですと教えてくれた。
女将の言ったとおり、直ぐに綺麗な松並木が始まった。立派な大きな石の説明板によると、昭和13年に現在のように、歩道を松並木の外側に設ける整備を行い、700mで330本の松が残っているとのこと。それに、一定の間隔で、干支にちなんだ石の像が配置されていて、例えばうさぎなら、「卯 卯の刻 午前五時から午前七時」などと書いてある。順番に見てゆくと、なかなか楽しい。
mitsuke_026.jpgmitsuke_025.jpgmitsuke_027.jpg松並木は国道1号をよぎるまで続いていたが、その交差点の三角地帯は、ちょっとした広場になっていて、「浪小僧」という面白い像が建っていた。説明には、「むかし、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていました。魚がとれない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり小僧を殺そうとすると、小僧は「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助けください。その代わり、ご恩返しに、海が荒れたり、風が強くなったりする時は、海の底で太鼓をたたいてお知らせします」と言うので、海にもどしてやりました。それ以来、天気の変わる時、波の音がするようになったと伝えられています。(遠州七不思議より)とあった。
お手洗いもあり、使わせて貰ったが、全自動で綺麗なトイレであった。
どうも、浜松の宿から舞坂に入ってきて、旧東海道に対する扱いが格段に良くなったように感じた。
mitsuke_028.jpg国道を横切ってから、車の通りもほとんどなくなり、良い感じで歩いて行くと、見附の石垣も残されていて、説明板も整備されていた。さらに進むと、一里塚跡も綺麗に整備されていて、立派な秋葉常夜灯篭も設置されていた。説明板によれば、秋葉灯篭は、文化6年(1809)に大きな火事があり、宿場の大半を焼き、人々の秋葉信仰の高まりで造られたとのこと。
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さらに、脇本陣の建物も再整備して公開していた。公開は午後4時までで、着いたのは3時50分であったが、年配の女性が丁寧に案内してくれた。日坂でも旅籠屋を見学させてもらったと言ったら、即座に「川崎屋」さんでしょうと答えた。お互いに連絡があるのか、想像だが日坂の「川崎屋」を再整備するとき、参考にここに見学に来たのだろう。
今日は、どこまでと聞かれたので、弁天島あたりで終わりにしようと思っていると答えたら、それが良い、新居までは少し遠いし、関所の見学時間は午後4時までなので、次回に弁天島から歩き関所を見学して、白須賀(しらすか)に向かうのがお勧めとのこと。そして、白須賀は電車も無く、バスも無いところだから、その日は二川まで歩く必要があり、午前中に新居を出発する必要があると教えてくれた。
mitsuke_031.jpgmitsuke_032.jpg
お殿様専用のトイレまであった。使用禁止と書かれていた。
mitsuke_033.jpgmitsuke_034.jpg
直ぐに、浜名湖畔に着いた。ここまでやっと来たかと少々感激である。
しばらく、湖を眺めてから道を右に取り、弁天橋を渡り始めた。
mitsuke_035.jpgmitsuke_036.jpgmitsuke_037.jpg遠く、左手には浜名湖の海に向かっての開口部に掛かる「浜名バイパス」のアーチ橋が見え、右手の方にはJRの弁天島駅が見えてきた。この第一の島は、大規模なホテルが多く、なかなかに壮観である。

mitsuke_038.jpgmitsuke_039.jpg
先ほどの脇本陣のおばさんには、弁天島で終えると答えたが、今日は朝から曇り空で体力の消耗が少なく済んだのか、まだまだ余力があるので、次の島に向かって歩き始めた。歩道は花が植えられていて、橋の上とは感じられず、まるでどこかの綺麗な散歩道を歩いている感じであった。
しかし、確かに橋の上で、釣りを楽しんでいた子供に出会った。釣れた?と聞くと、一匹だけと答え、「ぼら」と思える魚を見せてくれた。それと、子供の「一匹だけ」と答えたイントネーションから、関西風の影響が感じられ、つくづく遠くまで来たものだとの思いを新たにした。
mitsuke_040.jpgmitsuke_041.jpgmitsuke_042.jpgそれにしても、新幹線の車両がひっきりなしに、高速で通り過ぎて行く。何度となく、それこそ数え切れないくらい新幹線の車両から、浜名湖のこの場所を見たと思うが、こちらから新幹線を見るのは始めての経験であった。
第二の弁天島も通り過ぎ、新居に向かって進み、終に新居町駅に到着した。
やっと、今日の旅を終えることにし、浜松までJRの電車で戻り、その後新幹線で横浜に戻った。

2007.06.30

新居から吉田(豊橋)

本日の万歩計47,141(31.1Km)
arai_001.jpg旧東海道歩きも浜松を越え、出発地まで時間が掛かるようになってきた。
色々と調べて、三島まで在来線で行き、そこから新幹線で浜松、また乗り換えて「新居町」が一番早く着けることが分かり、その方法を取った。
新居町には、8時15分ころに着いたが、新居の関所が開くのは9時なのだ。関所を通過しなくても旅は続けられるが、やはり見学したいので、コーヒーでも飲んで時間を潰そうと思ったが、コーヒーを飲めるようなところは無く、結局、うろうろしながら時間の経過を待つことになった。8時30分に、財布の中身が乏しいのでATMで金をおろそうとして、遠州信金に行ったが、私の使っている銀行はダメだった。
ともかく、関所の方に歩いて行くと「浜名橋」があり、今では水路に掛かった橋になっているが、この橋の左の方には舟溜りがあった。
arai_002.jpg新居の関所は大地震で大破して安政2年(1854)に建て替えられ比較的新しかった故か、残っていたのを修復整備したもの。箱根の関所などとは違い、唯一、本物の関所の建物が見られるので、大変貴重である。
江戸時代には、浜名湖を舟で渡ると、船着場の上陸地点が関所で、そのまま取調べが行われた。
その船着場の様子が分かるように、堀のようなものが作られていた。

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arai_005.jpg関所の中に入ると、当然だが、横にづらっと長い建物になっていて、この障子を開けると、番頭(ばんがしら)、給人(きゅうにん)、下改(したあらため)などの役人が並んでいる。
しかし、この体制で1日に何人の人を裁くことが出来たのだろうか。入国審査のパスポートチェックなみのスピーディーさとは行かなかっただろうと思う。せいぜい、百人程度だろうか。
怪しい女性の場合は役人の内儀もしくは母親が勤める「あらため女」が厳しくチェックしたそうで、女性にとって、屈辱的な取調べもなされたようである。
ともかく、ここの関所は建物の外側からの見学だけでなく、靴を脱いで建物に上がり、全て見られるのがよい。関所内の検分役にでもなった積りで回ることが出来る。しかも、1番乗りで誰も見学者はおらず、独占して見ることが出来た。
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arai_008.jpg関所を後にして、しばらく行くと「無人島漂流者不屈の精神を伝える」と書かれた立派な石碑が建っていた。
説明板によれば、筒山五兵衛船が、享保3年(1718)に浜名湖の今切を出航して銚子沖で嵐にあって遭難し、鳥島に漂着した。乗組員12人の内9人が死亡したが、残る3人は21年間も無人島で生き抜き、元文4年(1739)に救出された。八代将軍吉宗が江戸に招いて、話しを聞きその後、褒美を取らせて籠で故郷に送り届けた。
地元でも藩主松平伊豆守が、手厚い保護を与えて安泰に暮らしたとのこと。
直ぐ近くに、「紀伊国屋」という旅籠も整備され、公開されていた。紀伊国屋という名前で分かる通り、紀州から移り住んだ「疋田弥左衛門」が始めた旅籠であったが、紀州藩主の御用宿になっていたというから、格式の高い宿だったと思われる。
入り口を入ると福助人形が迎えてくれるのはお愛嬌だが、2階にあがると、枕なども展示されていた。
それと、「水琴窟」を始めて聞いたが、本当に良い音だ。竹筒に耳を近づけると、澄んだ音が聞こえてくる。
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旅籠の「紀伊国屋」はあったが、本陣はもうなくなっていて、「本陣跡」の石碑だけが建っていた。
本陣跡で左折して南下して行くと、「棒鼻跡」の碑があった。棒鼻とは籠のかつぎ棒の先端を言うとのことだが、「棒鼻跡」はここで行列の隊列を整えなおしたのだという。大名行列も常に綺麗に列を組んで進んでいたわけでなく、かなり乱れたりして、宿に入る前に隊列を整え直したようである。
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一度国道に出た後、直ぐに旧浜名街道を西に進むが、しばらく行くと「紅葉寺跡」という夢舞台道標が現れる。
民家の脇を入ると、石段が現れ、説明板が建っていた。説明には、紅葉山本学寺は通称「紅葉(もみじ)寺」と言う。延久元年(1190)に高野山より毘沙門天立像を勧請して建てたと言われている。室町幕府六代将軍 足利義教(よしのり)公が、永宝4年(1432)の富士遊行のとき立ち寄って紅葉を愛でたので紅葉寺と呼ぶ・・、後は文字が消えていて読めなかった。
石段をあがると、木のベンチが置かれたちょっとした広場になっていた。周りを見回すと、紅葉寺というだけあって、紅葉の木が沢山植えられているようであった。
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旧浜名街道は、西へ西へと続くが、道路の片側だけ松が植えられている。かつて、立派な松並木であったが、松くい虫で全滅して昭和62年に再植樹されたものとのこと。
そういえば、かなり立派に育っているが、舞坂の松並木のように古い松の木ではない。でも、枯れてしまった松並木は、植樹すれば、いずれ再生するので絶対やるべきだと思う。
しかし、歩道を松並木の外に作ったために、枝ぶりの茂ったところは、歩道も日陰が作られるが、そうでもないところでは、車道に日陰を作る並木になっていたのは、癪に触った。
松並木の途中には、前大納言為家と阿佛尼夫婦の大きな歌碑が建っていた。
風わたる 濱名の夕しほに さされてのぼる あまの釣舟  為家
わがためや 浪も高しの 浜ならん 袖の港の 浪はやすまで  阿佛尼
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進んで行くと、やはり古い街道であったことを思わせる、立派な連子格子(れんじこうし)の家が建っている。相当に進んだと思ったころ「火鎮(ほずめ)神社」があり、立ち寄ると2人の男性が、しめ縄を張り直していた。聞くと、今日の午後から「大払式」と「夏越祭」があるのだという。年嵩の方と、しばし話し込んだ。
arai_019.jpgarai_020.jpgarai_021.jpgやっと、「白須賀(しらすか)」への分岐点が近づき「蔵法時」に行き着く。ここで、道を間違え「蔵法寺」の横の道を上って、ほとんど上り詰めたあたりで間違えに気づき引き返した。30分程度のロスをしてしまった。「白須賀」への分岐点には立派な夢舞台道標が建っていたのだが、先走ってしまって失敗した。
「潮見坂」という急坂を上り、振り返ると海が見えた。これが「潮見坂」の名前の由来であるが、海のみでなく、富士山も見えたという。この日は晴れてはいても、とても富士の見える状態ではなかった。
急だが短い坂を上ると、「おんやど白須賀」という休憩所があった。あまりにも暑いので、避難させてもらおうと入ったのだが、冷房は利いていなくて、人は良さそうだが気の利かないおじさんが一人で、冷たいお茶を出されることも無く、早々に退散した。ズボンの中の足まで汗が流れているのを感じる。
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休憩所を出ると、直ぐに「潮見坂公園跡」の碑があった。なんとか跡公園というのは多いが、公園跡の碑は珍しい。織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、信長をもてなした所で、大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられたが、現在は、公園敷地に中学校が建てられているとのこと。明治天皇碑のみは残っている。
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arai_026.jpg問屋場跡に「夏目甕麿(なつめみかまろ)邸址 加納諸平生誕地」の石碑があった。甕麿は本居宣長の門に名を連ねた国学者で諸平(もろひら)は甕麿の長子とのことであるが、よく知らない。
「白須賀」の何と言うこともない、町並みが続くが、「白須賀」は最初はもっと海沿いにあったのが、度重なる津波の被害にあい、坂の上に引っ越した。しかし、今度は風通しが良く、火事に見舞われ、その対策として家の境界に火災に強い「槙の木」を植えたのだという。その名残もところどころで見ることができる。
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「白須賀」の通りには、食事が出来るような店は無く、国道に出たところに、「吾妻屋」という食堂が1軒のみあるのを調べておいたし、先ほどの「おんやど白須賀」のおじさんにも確かめておいたのだが、行ってみると、今日は貸切でお休みであった。1軒しかない食堂がお休みでは困るのだが、こうなると次の宿の「二川」まで行くしかない。
「白須賀」の宿を過ぎると、県道と思える車の通りの多い道に出て、境川を越える。ここは現在でも静岡県と愛知県の県境だが、何とも小さな川である。掲示板には川の管理は愛知県の管轄と書かれていたが。
その後、「二川」までは、国道1号線を歩くしかないのだが、周りにはお店もなく、畑の中の1本道がどこまでも続く。とても暑い日で、木陰一つ無く、休息も取れず、日が照りつける道を歩いてゆくのは、相当に辛かった。国道は大型車両が引っ切りなしに通り、騒音も相当なものなのも辛い。やっと、国道から分岐して新幹線のガードを潜ると、レストランがあり、やっと食事にありつけた。2時であった。
食事を済ませて、しばらく休憩し、汗が引くのを待って出発し、今日の白眉の「二川の本陣」に着いた。
本陣で現存するのは、ここと大津の2ケ所のみだと言う。
さすが、大きな建物で部屋数も大変多い。直ぐ横の駐車場から撮影しても建物の規模の大きさが分かる。内部の豪華さも格別で当時の本陣の中がどうなっていたのかを知るには大変貴重な遺構である。
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本陣を後にして進んで行くと、格式も高かったといわれる「大岩の神明社」があった。ここもお祭りの準備か、数人の方が、何か準備中のようであった。
その後、「火打ち坂」を上り、岩屋緑地を回りこむように進んで行くと、途中に1本だけ残った立派な松の木が終に枯れて、その跡の表示のみになっていた。
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やっと豊橋市街に入ってきたが、瓦町の交差点に鶴松山壽泉禅寺というお寺があった。山門が、普通のお寺と違って珍しい。
それと、今では珍しくなった、路面電車が豊橋では走っている。
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東八町の複雑な交差点で、立派な秋葉常夜灯を見て、その後は、曲尺手(かねんて)と呼ばれる、複雑に右折、左折を繰り返す道を辿ることになった。やっと「松葉公園」までたどり着き、ここで今日は打ち切ることにした。
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今日も暑くて、結構きつい歩行であった。子供連れの母親に豊橋駅の方向を聞き、駅にたどり着き、新幹線で東戸塚に戻ったが、「ひかり」では1日掛かりで歩いた今日の行程をわずか5分ほどで通過した。

2007.07.07

吉田(豊橋)から藤川

本日の万歩計48,108(31.75Km)
今日は朝から曇り空で、少し雨がぱらつくかも知れないが、先週の快晴の暑さの中で歩くより疲労感は少ないだろうとの期待のもとに出かけることにした。
先週と同じく、三島まで鈍行で行き、三島から豊橋までは新幹線を利用したが、窓から見ると小雨が降っていた。豊橋には8時13分に着き、駅の喫茶店でモーニングセットを食べながら今日の行動を頭で反復する。
yoshida_001.jpg豊橋駅を8時半ころ出発して、前回離脱した松葉公園に向かうが、持っている地図は旧東海道が分かる地図で豊橋駅が地図からはみ出しているため、大体の見当で歩いたら、通りを間違えて大きくロスしてしまった。ともかく、松葉公園に到着して、道標を見ると「江戸まで73里、京まで52里」と書いてあった。ずいぶん遠くまで来て、京の方が近くなったのかと、しばし思いに耽る。
豊川に向かって歩いて行くと、豊橋の手前に湊町公園があり、築嶋弁天のお堂が池の中に作られた島にあり、その傍らに芭蕉の「寒けれど 二人旅ねぞ たのもしき」の句碑が建っていた。吉田の宿に泊まったときの句とのことだが、こちらは気楽な一人歩きだ。
yoshida_002.jpgyoshida_003.jpgyoshida_005.jpg豊川の土手道には芭蕉門下の太田白雪の「白魚の 城下までや 波の皺」の大きな句碑が建っていた。芭蕉の句碑より立派だ。
そして、豊川の堤防では花火大会でもあるのか、見物席と思われるのを長い距離に渡って構築していた。昔、今川に架かる橋で「今橋」と呼ばれていたのを「今橋」は「忌まわしい」に通じ縁起が悪いと、池田輝政が「吉田」と改名し、明治になって再度「豊橋」に改名されたが、大河ではないが風格のある川に見える。橋が鉄の橋に変わり、堤防がコンクリートで保護工事が行われたことを除けば、江戸時代ともあまり風景は変わっていないのではなかろうか。
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豊川を渡り、直ぐに左折して街道を進むと、最初に豊川稲荷の遥拝所があった。たしかにお稲荷さんと言えば、豊川稲荷だが、ここでお祈りすれば、豊川に行かなくても良いということなのだろう。
次には「聖眼寺」があり、中には松葉塚と名づけられた松尾芭蕉とその句碑が建っていた。説明板には、芭蕉が歿して50年を記念して、芭蕉の墓の墳土を譲り受けて作ったと書かれていた。碑の土台が亀なのは浦島寺と言われる神奈川の「慶運寺」と同じだ。
句碑の文字は消えていて、読めないが「ごを焚いて 手拭あぶる 寒さ哉」と彫られていたとのことである。「ご」とは三河地方の方言で松葉を集めて燃料にしたものとのことだが、凍りついた手拭をあぶることで、手をあぶるより、より一層、寒さを強調したのだという。
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まったく、目立たない「下地の一里塚跡」は、あまりにも素っ気無い碑である。街路樹の植え込み場所のわずかに土が露出している場所を利用して建てられていたが、気が付かず通り過ぎ、戻って探して見つけた。74番目の一里塚で「江戸日本橋より七四里」と書かれていた。
写真のような蔵付きの立派な塀を廻らした家もあり、連子格子の家も残っているのだが・・・
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yoshida_012.jpgやがて、「鹿菅(しかすが)橋」を渡るが、ここは清少納言が「枕草子」で第十七段に「渡(わたり)は、しかすがの渡、‥‥‥」とその先頭に挙げている場所で、歌枕にも多く用いられている有名な場所であったという。古い時代には「志香須賀」の字も当てられたようだが、豊川放水路が出来て水の流れが変わり、かつては舟で渡っていたのが、いまは短い橋が架かるのみとなった。そのような有名な場所であったことを知る人もこの辺りにはいないのだろうか、橋の名前もほとんど消えて読めなくなっていた。
yoshida_013.jpgこの辺りは、弥生時代の遺跡が多く分布するらしく、鹿菅橋から川の堤防に沿って150mほどの所に、「瓜郷遺跡」があるので東海道とは関係ないが、見学した。写真は復元された弥生時代の「竪穴住居」であるが、稲作が始まったころのものと解説されていた。
鹿菅橋を過ぎて、豊川放水路に架かる「高橋」に向かって進み橋に近づくと、交通量は多いのに道路幅は狭く歩道も無く、道路の側端の白線すら引かれていない、とても怖い状態になる。
歩く人がいないので、放置されているのだろうが、何と言っても東海道なのである。何とかしないと、いずれ事故が起こるだろう。橋はともかく、橋に至る道路も狭いので、何とか拡張するか、せめて大型車両の通行を制限すべきではなかろうか。誇張ではなく、本当に怖かった。
やっとのことで、橋を渡り、最初の交差点脇にある小さな広場には「子だか橋」にまつわる碑が建っていて、説明板の文字は消えかかっていたが、以下のような悲し話しが書かれていた。
この先の菟足神社(うたりじんじゃ)にはおよそ一千年前、人身御供があり、春の大祭の初日にこの街道を最初に通る若い女性を生贄にする慣習があったと伝えられている。 ある年のこと、贄狩に奉仕する平井村の人の前を、若い女性が故郷の祭礼と父母に逢う楽しさを胸に秘めて、暁の街道を足早に通りかかり橋の上まで来た。見ればわが子である。「ああ、いかにすべきか」と苦しんだが、神の威光の尊さに「子だが止むを得ん」と、遂に生贄にして神に奉った。
現在、菟足神社では、十二羽の雀を贄に替えて行われていると書かれているので、人身御供は本当にあったことなのだろう。秦の始皇帝が、徐福に命じて不老長寿の霊薬を求めて日本に行かせたというが、その伝説にまつわる言い伝えも「菟足神社」にあるようなので、渡来人の生贄の風習として行われたのかも知れない。怖い話しである。
yoshida_014.jpgyoshida_015.jpgyoshida_016.jpg先に1Kmばかり進むと、伊奈村立場茶屋の加藤家の屋敷跡に到達し、2つの句碑がある。加藤家当主で俳人であった烏巣(うそう)は芭蕉とも親交があり、芭蕉がこの地へ宿泊したときの句だという。芭蕉の句は、馳走に対する御礼の挨拶句として読んだのだろう。
かくさぬそ 宿は菜汁に 唐が羅し  芭蕉
ももの花 さかひしまらぬ かきね哉  烏巣
yoshida_017.jpg伊奈一里塚跡を気を付けながら進むと、太鼓を扱う珍しい店があり、その角に石碑が建っていた。江戸より75里の記述があった。太鼓店は始めてお目にかかるが、中を覗き込むと作りかけの大きな太鼓なども見ることが出来た。本当は断って中に入って見学させてもらうのが良かったのかもしれないが・・・
「村社 速須佐之男神社」と書かれた神社があり、境内には寄進された色々な種類の灯篭が建っていた。
また、砂利を敷き詰めたちょっとした広場には、冷泉為村の歌碑が作られていたが、為村はここに掲げた1首のみ、この伊那村で読んだのだと言う。
散り残る 花もあるとさくら村 青葉の木かげ 立ちぞ やすらふ  為村
東海道400年祭のとき、為村が伊那村で読んだ歌が見つかり、取って付けたように作った碑のように思える。
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国府(こう)の市街の入り口あたりで、良さそうな「うなぎ屋」が見つかり、昼食にしようかと思ったが、まだ11時20分で、もう少し後でと思いスキップしたが、その後は食事をするところがなかなか見つからず、困った思いをした。街道歩きでは食べられるときに食べておけとは、本当だ。
さて、市街に入ると「薬師如来」の小さなお堂があったが、縁起には、相次いで父母をなくして悲嘆にくれていた二人の娘が、たまたま止宿された行基菩薩に頼んで薬師如来像を刻んでもらい、朝暮礼拝供養したのがはじまりで、それゆえ「二子寺」と呼ばれている、と書かれている。
行基は天智7年(668)に渡来人の子供として生まれているが、もし ここに書かれている縁起が本当なら、始まりは奈良時代にまで遡ることになる。
そして、少し先には「御油の一里塚跡」の石碑があった。
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その後、食事を摂るところには遭遇せず、向こうに大きな目立つ灯篭が見えてきた。
秋葉山への道標だが、ここは「姫街道」への分岐点にもなっている。「姫街道」はここから、見附宿に通じていて、浜名湖の渡しを避けて旅をすることが出来、女性がこの道を選ぶことが多く、「姫街道」と呼ばれた由である。
yoshida_023.jpgyoshida_024.jpgyoshida_026.jpgこの追分(分岐点)には、「ベルツ花夫人」が晩年過ごした建物跡の立て札が建っていた。
明治政府の招聘で明治9年に日本に到着したベルツ博士は、日本の近代医学の構築に多大な貢献をし、また、当時「あかぎれ」に苦しむ日本女性のために、植物油から作ったグリセリンと日本酒を用いて「ベルツ水」を作った。荒井花子は明治21年にベルツ博士と結婚し、一男一女を設け、明治38年夫とドイツに渡るが、夫の死後帰国して、祖父が旅籠を営んでいた御油で晩年を過ごしたという。今では、多くの日本女性が、国際社会で活躍しているが、彼女はその先駆けとなった人物であろう。
yoshida_025.jpg御油橋を渡って進んで行くと、浄瑠璃姫が持っていた念持仏があるという「東林寺」があったが、空腹と疲労も蓄積してきているのでスキップし、国の天然記念物に指定されている御油の松並木に向かう。
松並木の入り口には、説明板や碑が建っていた。もう東海道の松並木が残っているところはほとんど無いので、本当に貴重だ。
それにしても、細い道路にもかかわらず車の通りが激しい。歩くのも注意しないと危険である。車が見えない瞬間を捉えて写真を撮るのも大変である。狙ってもシャッターを押す瞬間には視界に入っていることが多い。
是非とも、車の通行の制限を考えて貰いたいものである。高速道路並みの国道1号線が平行して走っているが、豊橋から感じていたことであるが、車の通りが多すぎるように感じる。これも自動車大国の愛知県なればこそだろうか。
yoshida_027.jpgyoshida_028.jpgyoshida_029.jpg松並木を抜けると、赤坂の見附跡の掲示板が建っていた。静岡県から愛知県に入って旧東海道の扱いが、淡白で○×跡の表示板も素っ気無いものが多かったが、ここ赤坂の表示はそれなりに配慮されたデザインになっているように感じた。
そして、やっと食事の出来る店にめぐり合った。時計を見ると12時半を回っていた。古い民家を改修して、地元の婦人部の方が運営している店のようで、地元の婦人客も多く、賑やかであった。また、食事以外にも手作りのジャムなども販売していた。
そして、写真の食事でなんと700円なのである。食後に頼んだコーヒーがお菓子付だったが300円は、食べ物と較べると高い感じになってしまった。
yoshida_030.jpgyoshida_031.jpgyoshida_032.jpg赤坂宿は、旧東海道に少し気合が入っていると感じていたが、なんと本陣跡に門まで復元していた。全く残っていない本陣を門だけとは言え復元するのは珍しい。直ぐ後に出てくるが、「よらまいかん」の名前の無料休憩所まで建てている。
名鉄の「名電赤坂駅」の近くには、最近まで営業していたという旅籠の「大橋屋」がある。
土間からの上がりかぶちにお賽銭箱のような心付けを入れる箱があり、適当にお金を入れて見学させていただく。奥のほうはまだ、住居として使われているようで、入り口に近いほうの2階に上ると当時の宿泊の部屋を見ることが出来る。
ここで、宮から歩いてきたという40代半ばぐらいのご夫婦に出合い、少し言葉を交わしたが、私とは逆に江戸に向かって歩いているという。一人旅をしていると、自分の写真は撮り難いので、写真を撮ってあげましょうとの言葉に甘えて、撮っていただいた。
少し行くと、休憩所「よらまいかん」があった。無人だが綺麗な休憩所であり、色々な写真などが展示されていた。中では小学生の女の子2人が、ゲーム機に興じていたが、親にうるさく言われることもなく、絶好の場所なのだろう。
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赤坂宿の最後は杉森八幡宮で、その境内には2本の楠の木の根株が一体化してしまったような大木があり、夫婦楠と呼ばれているそうだ。確かに立派な大木である。
yoshida_035.jpgyoshida_036.jpgyoshida_037.jpgこの杉森八幡宮には、境内に回り舞台がある。説明板には、
当舞台は、心棒の先を支点として盆が回るように仕組んだ皿回し式の回り舞台である。奈落はなく、舞台上で回した。 赤坂宿では、江戸時代には人間浄瑠璃、明治以降は歌舞伎が演じられていた。
現在の舞台は、赤坂の芝居愛好者が中心となって、近隣の同好者に建設を呼びかけ、明治五年七月に舞台開きをしたと伝えられている。 平成十二年に改修復元した
、とある。
音羽町の市街を抜けて、長沢という地名の町にすすむ。この辺りは立場(たてば)だが、素っ気無い「長沢の一里塚跡」の杭が建っていた。
時々は、美しい連子格子の家もあり、秋葉灯篭もたびたび見られたが、神社名の碑が建っているのに神社がどこか分からないところも多かった。恐らく、国道、名鉄の線路を越えた向こうの山際にあるのだろうが、国道、近鉄、東名高速の建設が重なり、消滅した神社もあるのかも知れない。
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長沢を町を過ぎると、旧東海道は国道1号線に吸収されてしまい、国道の歩道を歩くことになる。全く面白くなく、旧東海道を歩くというノルマとして歩くのみである。
2Km弱歩くと、間の宿である本宿(もとじゅく)の入り口の碑と、冠木門(かぶきもん)を建てた宿への導入路に到達する。
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本宿に入ってゆくと直ぐに、松平家の菩提寺で家康とも関係の深い「法蔵寺」がある。
松平家がまだ、三河の小さな田舎大名であったころの菩提寺で、さほど大きなお寺ではないが、狭い山門前には、3台もの観光バスが駐車していた。三河地方の名所廻りのコースに入っているのだろう。
常夜灯を左右に配し、階段を上った上には独特な山門が建っている。階段の下の左脇には、家康も手習いのすずり水を汲んだという「賀勝水」という泉があったが、水面は汚れていた。常に汲み出せば綺麗になるのではと思われる。
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また。「法蔵寺」には、近藤勇の首塚もある。同志230 人を救うべく単身板橋に出頭して逮捕され 4月25日板橋で斬首され、4 月27日までさらしものにされた後, 京都まで運ばれ,京の三条河原でも3日間 再びさらしものにされる。ところが、誰か首を盗み出した者がおり、この「法蔵寺」に運んで埋葬したのだという。近年出てきた石碑の基盤の記述から本物の近藤勇の供養碑と分かり、あらためて胸像を造り供養したという。
しかし、近藤勇の首塚は京にもあり、どちらが本物か不明だという。江戸時代以前ならいざ知らず、幕末の出来事でもうはっきりしなくなっているのである。
また、門前には家康手植えの御草紙掛松がある。家康が幼少のころ、この寺で学び手習いの草紙を掛けた松だという。しかし、枯れてしまって今の松は4代目とのこと。
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本宿には、「法蔵寺」以外は見るべきものも無く、通り抜けるとまた国道に出て歩くようになるが、直ぐに国道から外れ名鉄と国道に挟まれた特徴の乏しい道を歩く。1Kmほどでまた、国道に合流するが、その合流点の舞木町西の交差点から田んぼの中に大きな秋葉灯篭が見えた。いままで見た中では一番大きいのに引かれて、国道を離れて行くと、右手の小山に赤い鳥居が見える。山中八幡宮の大きな石碑も見え、大きな秋葉灯篭は八幡宮への誘導目印であるのが分かる。
ここは、三河で一揆が起こったときに家康が逃げ込んだ洞窟があるところで、洞窟から鳩が飛び出し、追っ手は人のいるところに鳩はいないだろうと立ち去り、命拾いをしたところとのこと。
本殿は、山の上に階段が続いていて疲れた身には辛かったが、上ってみた。本殿の横には竹の植込みがあり、命拾いした家康が、持っていた矢を地面に挿したら、芽が出てきて竹が生え「御開運竹」と呼ぶようになったと書かれていた。まだまだ、奥の院に道が続いていて、この奥に家康の隠れた洞窟跡でもあるのかも知れないが、体力的に行く気にはなれなかった。
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国道に戻り、1Kmほど行くと、藤川宿に到達した。従是西藤川宿(これより西、藤川宿)と書かれた傍示杭が復元されていて、木戸らしい石垣も作られていた。東棒鼻跡である。
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藤川の市街を歩いて行くと、お城の櫓のような建物の「人形処」と書かれた立派なお店があった。近づくと「製造卸粟生人形」と書かれていたので、人形を作っているお店だと分かった。「粟生」には「あおう」と仮名が振ってあった。雛人形などの高級な人形を作っているのだろう。藤川宿は小さく、途中本陣跡などもあったが、寄ろうと思っていた藤川資料館は閉まっていて、すぐに藤川小学校の前にある西棒鼻跡に到達した。ここには、安藤広重の師匠の歌川豊広の歌碑があり、
藤川のしゅくのほうばなみわたせば 杉のしるしとうでたこのあし
藤川宿の棒鼻をみわたすと杉の木で造った表示杭が立っており、付近の店には西浦吉良等から持ってきた“うでたこ”を売っており、たこのあしがぶらさがっている、と説明板に書かれていた。
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時間は4時半で、ここで打ち切りにするか、もう少し進むかベンチに座り考えたが、雨も少しぱらついて来て、次の岡崎の宿は遠いし、途中も名鉄の駅に出るのに都合の良い場所は無いので、ここで引き上げることにした。
最後に、道路の向かい側にある「十王堂」を見ることにし、格子戸を通して内部を撮影した。
藤川宿まちづくり研究会の案内板によると、
十王堂  「十王堂」は十人の王を祀る堂で、その「十王」とは、冥土で亡者の罪を裁く10人の判官をいう。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・太山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称であると、あるので、下の段の左側のひときわ厳しいのがおそらく閻魔大王であろうと知れる。
yoshida_052.jpgyoshida_053.jpgyoshida_051a.jpg藤川駅で生まれて初めて名鉄に乗り豊橋に戻るのだが、自動販売機で切符を買って下りのホームに入ったら、上りのホームに行く手段が無いのである。無人駅でどうしようと思い、改札口を通ろうとしていた地元の女性に聞いたら、無人駅だし一旦(強引に)駅を出て、向こうに回ればと言うのである。向こうのホームに行くには駅を出て、駅の入り口から数十メータのところにある踏切を渡り、向こう側にある駅舎に入って、また改札口を強引に通る必要があるのだ。なんとか、上りホームに行き着いたが、時刻表を見ると、電車は1時間に2本しかない。そんな馬鹿な、歩いているときに、名鉄の電車がしょっちゅう走るのを見たのにと思った。そして分かったのは、電車は頻々と通るが、各駅停車は1時間に2本だということである。数分単位で通過する電車を見ながら20分ほど我慢強くベンチに座ることを余儀なくされた。やれやれ・・・
三河に対する印象は、まだ途中であり早いかもしれないが、御油、赤坂、藤川と明治に国鉄を通すことを拒否し、発展することから取り残され、後で名鉄が通ることになったが、元の繁栄を到底取り返せなかった街が並んでいる感じであった。もっとも、昔は山間の静かなたたずまいの街道筋の町並みであり、鉄道を拒否した気持ちは分からなくもない。
そして、狭い隘路に名鉄、国道、東名高速とひしめき合い、旧東海道の細い道路すら車が頻繁に通るのを許容せざるを得なくなっているように思えるのである。

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