2008.04.27

和田から下諏訪

本日の万歩計43,122(28.9Km)
昨日の夜は民宿主人手作りの食事を取り、お風呂に入ってストーブで温まった部屋で早く寝付いた。朝6時に起き窓から眺めると、山には霧が掛かっていたが、テレビの天気予報では晴れてくるようだ。7時から食事を取り、頼んでおいた「おにぎり」を受け取り、また若主人に和田宿の本亭前まで車で送って貰う。和田宿の周りを取り囲む山々も霧に霞んでいたが、若主人は上の方は晴れているでしょうと言う。ともかく峠方面に向かって歩き始める。
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ほどなく、国道142号線との交差点に差し掛かると、鍛治足の一里塚がある。日本橋からちょうど50里の一里塚だ。交差点を渡って旧道を進んで再び国道に合流すると道祖神があり、この辺りは昔は「牛宿」と呼ばれたところで、木曽桧を江戸まで運ぶ牛を泊める宿があったところである。
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歩道の無い怖い国道を歩いて、左手に和田の発電所、2軒のドライブイン、そして東洋パーライトの工場、扉峠への分岐点を過ぎて「古中山道」への入り口に達する。江戸時代の中山道は国道で消されてしまい、代わりに「古中山道」を自然遊歩道として整備したようである。しかし、入り口にゴミ収集のボックスがあるのがいただけない。
途中には木の橋もあり、林の中を行く気持ちの良い道である。800mほどで唐沢の一里塚に着く。江戸から51里で、中心の樹木は失われているが、ほぼ完全な形で両側に残っている。中山道のルートが変わって江戸時代の終わり頃には街道から外れていたと書かれていたが、このために良い形で残ったのだろう。
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一里塚を過ぎると直ぐに国道に合流するが、国道を600mほど進むと新和田トンネルを通る新道への分岐に達する。ここで右の旧道の方に進む。
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旧道を進むと100mほどで、旧中山道入り口の「男女倉口(おめぐらぐち)」に達する。そして観音坂を上ると、直ぐに休憩小屋と「三十三体観音」がある。かつて、この山の中腹にあった熊野権現の前に並んでいた石像であり、旧道の退廃とともに荒れるにまかせていたが、昭和48年(1973)の調査発掘により、29体が確認されここ旧道沿いに安置された。2体は石仏の種類(千住観音、馬頭観音等)が不明で、4体は未発見と書かれていた。
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次のポイントの接待までは1.6Kmほどだが、比較的緩やかな上りで道の状態も良く、歩き易かった。国道に出ると接待茶屋「永代人馬施行所」が復元されている。江戸の呉服商の豪商かせや与兵衛が旅の難儀を救う為に金千両を幕府に寄付して、年間利子100両を碓氷峠とここで50両づつに分け、11月から3月までここを越える人に粥を牛馬に煮麦を施したという。茶屋の子孫が向いの旧愁之茶屋を経営しているらしいが、まだ閉まっていた。そして、ここで名水が汲めるようになっていて、車にポリタンクを積んで汲みに来ている。接待茶屋の写真の端に写っている車も水汲みで、次々とポリタンを出してなかなか立ち去らなかった。
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また、歩き易い道で沢をいくつか渡って進んで行くと「近藤谷一郎巡査殉職の地」の新しい碑が建っていた。これは明治中頃、22歳の近藤巡査が窃盗犯を下諏訪に護送する途中のこの地で用を足したいと犯人が言うのを聞き入れ両手を縛っていた縄をほどいてあげたら、突然後ろから石で頭を殴られ殉職したのだという。
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近藤巡査の碑を過ぎて進むと、避難小屋があり、その脇では水が盛んに噴出していた。飲めそうだと判断して、魔法瓶にも補給した。そして、この地点を過ぎてしばらくは石畳道だが、土が流されてしまっているためか、たいへん歩き難い道であった。
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左手に沢の音を聞きながら進んで行き、流石に疲れが蓄積してきたと思っていたら、急に開けて日本橋から52里の広原の一里塚があった。ここからは道も緩やかになり、広い石畳で歩き易く、左側は大きく開けてきたと思っていたら、キャンプ場で炊飯のかまども用意されていた。
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石畳の道を進んで行くと、ようやく「東餅屋」にある黒曜石、力餅と書かれた看板を掲げたドライブインが見えてくる。昔は5軒の茶屋があり、名物の力餅を売っており、また1店あたり1人扶持(1日に玄米5合)が幕府から与えられ難渋する旅人の救助にもあたっていた。幕末には大名の休息のための茶屋本陣も出来、土屋氏が勤めていたとある。
少し休憩しようと、客が1人も居ないドライブインで力餅を注文した。あんこを餅で包んだもので美味しかった。店のオヤジさんの話では昨日は、雨に雪が混じる寒い日であった。やっと一昨日から店を開いたばかりとのことであった。
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旧国道は大きく蛇行して進むが、旧中山道はショートカットで進む。
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2回目の横断は国道下の沢の流れのトンネルと共用になっている。水が流れ、片側が歩道になっている。
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4回国道を横断すると、後はひたすら進む。道標も小さいが新しいのが設置されている。
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やっと、古峠に到着。風化した小さな地蔵がある。石碑が建っている。下諏訪側はガレ場で賽の河原と呼ばれている。標高1,600mで、ともかく風が冷たく、とても長く居る気にはなれない。
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少し下って、賽の河原を眺めて、その後にそこから伸びたガレ場を横切る。
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和田宿側に比べると、道は勾配も急で道幅も狭く、大小の石がごろごろしていて一時も気が抜けない。下ってゆくと、「水呑場」と標識のある場所に付く。竹筒のようなものが突き出していたが僅かに水が滴っているような状態。昨日の雨で沢の水なども増しているのに、以前から水場として尊重されていた湧き水も終に枯れかかっているのだろうか。古い時代から水が湧き出していたであろうことは、生した苔で明らかで、地蔵らしき像も苔で覆われている。水が枯れて苔がなくなるのが心配だ。
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ひたすら下って、国道にぶつかると、向こうのガードレールの切れ目に「中山道」の道標が見え、引き続き下って行く。
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国道を2回過ぎると「西の餅屋」と呼ばれるところに着く。ここには茶屋本陣を含め4軒の茶屋があったと説明板に書かれていた。ここから国道を横切り、ガードレールの切れ目から進めるようになっているが、少し前まで山登りのベテラン以外の人は危険なので国道を進むように言われていた。和田宿で何人かの人に聞いても通行の可否はハッキリしなかったが、途中で下から上ってきた夫婦連れの方に聞いたら問題なく通れたとのことであった。
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踏み込んで、少し進むと立派な一里塚碑。江戸から53里の西餅屋一里塚跡である。ここは風にも吹かれず暖かいし、お昼の時刻も過ぎたので民宿で作ってもらった「おにぎり」を食べて昼食とした。梅干を入れただけの単純なおにぎりが、本当に美味しい。その前を夫婦連れが通り過ぎて行く。
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以前、通るのが困難であった崩落した道は木材で補修されており、普通に通れるようになったが、基本的にガレ場であり、大きな石がごろごろしている場所もあって、注意は必要である。
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しかし、ガレ場の道は長くは続かず、やがて歩きよい道となり、国道と合流する。ここで山道は終わりで後は国道の歩道を歩いて行くこととなる。
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国道を1.5Kmほど歩くと、左に小道が別れ、国道の下を潜って行くと水戸の浪士の天狗党の「浪士塚」がある。元治元年(1864)に京を目指す水戸の浪士1,000人と松本・諏訪高島藩の連合軍1,000人が戦い、水戸の浪士10人、松本藩4人、高島藩6人が戦死した。水戸の浪士は戦没者をここに埋めて行ったが、その後高島藩で塚を築いて弔った。水戸藩に問い合わせ名前の分かった6柱については碑に名前を刻んだという。幕末に起こった勤王派と佐幕派の激突の1つである。しかし、まだ期は熟しておらず、最後は加賀前田藩に行き着き全員が首を刎ねられた。
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wada_46.jpg再度国道の下を潜って進むと、右側にペット専用墓地があり直ぐに国道に合流すると、「桶橋茶屋本陣跡」がある。茶屋本陣小松嘉兵衛を中心に数軒の茶屋があったとのこと。
淡々と、国道を3Kmほど歩いて、左の小道に分かれ坂道を上ってゆくと、「天下の木落し坂」と書かれた大きな石碑のある、諏訪大社の7年毎の御柱(おんばしら)の木を落とす急な斜面の上の小広場に行き着く。それにしても恐ろしいほどの急斜面だ。命知らずの若者が御柱にまたがり急斜面を滑り降り、大概は途中で跳ね飛ばされ一緒に転がり落ちる。
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御柱を見た後は、下諏訪で最重要な諏訪大社を訪ねるべく歩を進める。3Kmほどの道を歩いて、ようやく春宮に到着。流石に全国にある諏訪神社の本宮だけのことはあり、拝殿を備えた勇壮な本殿が、日本で最古の神社の1つと言われる社格を示している。
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諏訪大社の春宮の近くには岡本太郎が絶賛したという、万治の石仏がある。説明板によれば、諏訪大社の春宮に石の鳥居を作るのにこの石を使おうとしてノミを入れたら、血が流れ出した。石工が恐れをなして仕事をやめたが、その夜夢で上原山(茅野市)に良い石材があると告げられた。かくして鳥居は完成したが、石工はこの石に阿弥陀如来を祀って記念としたとある。
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中山道に戻ると、諏訪の市街と諏訪湖が眺望できた。そして歩いて行くと家の軒に中山道の丸い道標が下がっていた。
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そして、これも家の軒に一里塚跡の碑があった。江戸から55里の一里塚だが、埃まみれで何ともわびしい。
そして、今井邦子文学記念館があったが、寡聞にして良く知らないし、なにより入って見学する余裕を無くしていた。
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下諏訪の本陣がある。和宮様が休憩を取られた。見学できるとあるが今日は表からの写真撮影で済ませてしまう。道路の敷石には江戸までの距離が中山道では55里7丁、甲州街道では53里11丁となっている。あまり違わないのが不思議だ。
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最後に諏訪大社の秋宮にもお参りして、下諏訪駅に向い「スーパあずさ」で帰宅することにした。やはり和田峠越えは中山道のメインイベントであり、ハードであったが、得られた満足感も大きいものであった。
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2008.05.04

下諏訪から本山(もとやま)

本日の万歩計42,835(28.7Km)
5月3日は天気が悪そうだったので、連休でもあり、4日に出かけけ1泊して歩くことにした。何とか宿泊のホテルも確保できスーパーあずさ1号で上諏訪に向い、ここで乗り換えて下諏訪には9:25に着いた。
早速、前回中山道から離脱した甲州街道との分岐点に行き、ここから歩き始める。丁字路に建つ「まるや旅館」の外観もこの地に相応しいものであり、その斜め前には「歴史民族資料館」がある。資料館も、元は旅籠の建物であり江戸期の生活用品などが展示されていた。そして、国道20号線との合流点には「御柱のモニュメント」。綱の太さが半端でない。
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20号線から離れて旧道に入ると、直ぐに「魁塚(さきがけづか)」がある。これは「赤報隊」の「相楽総三(さがらそうぞう)」他隊士の合同墓碑を建てて弔ったものである。慶応4年(1868年)1月、戊辰戦争が勃発すると先発隊として中山道を「年貢半減」などの唱えながら東進したが、新政府軍の方針変更によって赤報隊が偽官軍とされ、相楽は捕縛され、下諏訪で処刑される。明らかに新政府の卑怯な策謀である。前年の戊辰戦争を引き起こす挑発行為として、江戸市中で放火や,掠奪・暴行などの蛮行を行ったことの、後始末としての犠牲であったのであろう。後に孫の木村亀太郎の努力により名誉が回復され、昭和3年(1928)に正五位が贈られている。砥川に掛かる富士見橋を渡ると、岡谷市に入り住宅街の道が続く。
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途中には「右中仙道、左いだ(飯田)道」と書かれた道標があり、ここが分岐点であったことがわかる。そして、「東堀」の交差点で20号線を横切ると直ぐに江戸から56里の「東堀の一里塚跡」の碑がある。
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いよいよ塩尻峠への上り口に達すると、今井家の茶屋本陣がある。和宮様をはじめ多くの大名、貴人がここで休憩を取った。建物は何度か建て直し、現在も住居として使用されているが、有形文化財に指定され堂々たる家屋である。
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中央高速の岡谷インターの横を回り込むように進み、本格的な上りに差し掛かると、「石舟観音」があり、急で長い階段の上に鎮座している。階段下には金命水と言う清水があり、昔も今もここを通る人の喉を潤す。おいしい水であった。
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塩尻峠に上ってゆくと諏訪湖と取り巻く市街が見えてくる。そして突然大きな石。江戸時代にも「大石」として有名で高さ3丈(6m)横幅2間余と記されており、盗人がこの石に隠れていて旅人を襲ったという。それにしても、大地震があれば転がりそうだが、江戸時代からここにある。案外地下に深く入っているのかも知れない。
益々、諏訪湖の眺望が開けてくるが、上りの勾配も厳しく、階段を昇っているような感覚である。
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やっと、塩尻峠に到達。ここにも「熊出没注意」の看板。石碑には「大帝の龍駕の峠さくらそう」とでも読むのか、大きな石碑。右手に少し上ると展望台の建物があり、上ると諏訪湖とその周辺、富士山、南アルプスの山々が見える。北側からは、遠くに北アルプスの峰々が輝いている。
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峠から急な坂道を下りると、峠の茶屋があった場所だが今は普通の民家となっている。明治天皇も立ち寄られたようで、「御膳水」の石碑と今は使われていない「井戸」が残っていた。少し進むと林の中に柔和なお顔の地蔵2体と、「伝説・夜通道(よとうみち)」の標識が建っていて、「美しい娘が岡谷の男に会うため毎夜この道を通った」と書かれていた。
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さらに進むと「東山の一里塚」が残っていた。もう、染井吉野ような早咲きの桜は散ってしまったが、今が盛りの八重桜とともに、桜草が可憐に民家の庭先を染めている。
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柿沢の集落に入ると、この辺りから塩山宿に到る地方独特の伝統のある民家が見えてくる。屋根の棟と直角な面が正面となり(妻入り様式)、正面の頂上には「雀おどし」がある。そして「長野自動車道」を渡る。「みどり湖」パーキングエリアが見えていた。
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道は塩尻宿の中心に向かって進んで行き、八重桜の見事な花がある。この辺りは生垣も手入れが行き届いている。
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ようやく、塩尻宿に入り国重要文化財指定の「小野家住宅」と「本陣跡」の大きな看板を見る。小野家住宅は宿場時代の現存する遺構で重要であるとのこと。
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少し先の陣屋跡には、笑亀酒造の重々しい建物と、大きな「杉玉」。そして「鍵の手」を右側に入って進んで行くと右側に「阿禮神社」があり、350mほどで本棟造りの建物としては頂点と書かれている「堀内家」の家がある。見学は事前に申し込んでおけば可能とのことであった。

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宿を過ぎて、中央線のガード下を潜って、昭和電工の700mもの長さの脇を通ると、「平出の一里塚」。塚の中央は松の木であるが、ここは武田信玄の軍師山本勘助が赤子を拾った伝説から「勘助子育ての松」と言われるとのこと。また、ここの松の葉を煎じて服用すると乳の出がよくなるとか。さらに、少し進むと平出の遺跡がある。発掘は今も進めているとのこと。
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この辺りは「葡萄畑」が多い。その田園地帯を通って、JR中央線の名古屋方面への踏切を渡る。通り過ぎて、踏み切りの警報機が鳴ったので振り返って特急列車の「ワイドビューしなの」の通過をカメラに納めた。ほどなく、国道に合流して進み、平出歴史公園の交差点で国道と分かれて旧道に入ってゆくと、ようやく「洗馬宿」である。少し行くと、「細川幽斎肱懸松」があり、細川幽斎が「」肱懸けてしばし憩える松陰にたもと涼しく通う風」と読んだと書かれていた。
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さらに少し進むと「善光寺道の分去れ」になる。写真は振り返って撮影したものだが、「右 中山道 左 北国往還 善光寺道」の表示碑が建っている。そして、狭い住宅脇の小道を入って行くと「邂逅(あふた)の清水」がある。義仲の忠臣今井四郎兼平が義仲の馬を洗ってやったのがここの清水で、これから「洗馬(せば)」の地名が起こったと言われている。
ともかく、「ふるさとの水20選」に選ばれている名水だというので、一口飲んでみたら美味しかった。しかし、直ぐ上には人家もあり水質には疑念も生じるのを排除できない。
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今日の目標到達地点の「洗馬駅」に着いた。無人駅で人の気配が無い。時計を見ると、まだ2時半で、塩山方面への電車の時刻までは1時間以上ある。ここで決心して、もう一駅進むこととした。街道に戻って「万福寺」の赤い山門が見えてくると、宿も終わりである。
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道はJR中央線の下を潜って進み、緩い坂道を上り始めると「牧野の一里塚跡」があり、江戸へ60里、京へ72里と書いてある。この辺りまで来ると、両方の山が近づいてきて、木曽路に向かう雰囲気が感じられるようになる。
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その後国道に合流し、700mほど進んで再び旧道が右に分かれて行くと「本山宿」である。道祖神などの石仏が多数並んでいる。これ以降の中山道でも一箇所に石仏が固まって並んでいる場所が度々出てくるが、これは鉄道や国道を作った際に、狭い谷筋にあって旧街道上に作らざるを得ないところが多く、そのときに取り払った石仏を1ケ所に集めたものと思われる。そういえば明日は5月5日で端午の節句だ。こいのぼりが上がっているのも当然である。
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宿には歴史的な遺構はほとんど残っていないが、街道らしい家屋が多少は並んでいるのを見ることが出来る。家は道路に対して少し斜めに建っており、斜交屋敷と呼ばれる。これは、真っ直ぐな街道にあって軍事上の配慮で建物の陰に隠れるためと言われている。何はともあれ、現在は家の前に車を停める良いスペースになっている。また、本山宿は「そば切り」の発祥の地として有名で、それ以前は蕎麦はそばがきなどの形で食べていた。宿の最後で旧街道が国道に吸収されるところに「本山神社」があり、この手前にも多数の石仏が見られた。
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その後、国道を1.5Kmほど進むと、左に分かれて線路を横切り旧道に入って行く。しばらく進むと「日出塩の一里塚跡」があり、江戸より61里、京へ71里とある。直ぐに「日出塩駅」に着くが、ここも無人駅である。人気の無い駅舎で電車を待っていると、やっと時間になって電車が来た。ホームにはワンマンカーを待つ場所の記述があり、電車が止まるとドアを開くボタンを押して整理券を取って電車に乗り込む。ワンマンバスと同じシステムだが、電車では始めての経験であった。
ともかく、今日は暑い1日であった。これで、塩尻に戻り1泊する。
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2008.05.05

本山から薮原

本日の万歩計41,5435(27.8Km)
今日は朝からどんより曇った天気で、天気予報でも今日一日雨が降らずに済むかどうかが定かでない。塩尻から名古屋方面に向かう電車は非常に少なく午前中では6:54、8:10、10:50の3本だけである。ともかく6:54分発の電車で「日出塩駅」に向かい、7:02分着で歩き始める。
歩き始めて、しばらく行くと旧道は国道の下を潜って直ぐに合流し、1Kmほど進むと右手に「是より南 木曽路」の大きな石碑。松本領と尾張領との境界であったところだ。いよいよ木曽かと少し感じ入る。
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道路の左手を見ると、道路壁に進行方向に対して戻る感じで斜めに上る小道があり、ここから旧道に入って行く。途中には落石防止のネットもあり、直ぐ下に国道がちらちらと見える歩き易い道であった。
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直ぐに旧道は終わってしまうが、終わりのところには屋根付きの千手観音像。これ以降は、しばらくは国道を歩くが、1.5Kmほど進むと国道の上の方に「若神子の一里塚」がある。下ばかり向いて歩いていたら気が付かない位置だ。もともと旧道は少し高いところを通っていたのが分かる。
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その後、直ぐに「若神子」の集落を通る旧道への入り口があり、国道から分かれる。
途中で国道への分岐が何度かあり、贄川駅のごく近くまで辿ってゆける。国道、JR中央線が直ぐ下に見え、見晴らしが良く気持ちが良い。谷が狭まって耕作可能な土地がほとんどなくなってきたのが分かる。
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贄川駅に着いたが、やはり無人駅であった。通り過ぎて直ぐに線路を跨ぐ橋が2つ平行していて、新しい橋が車の通行用に完成したので古い橋は整備して歩行専用としたようだ。手すりには金属の筒がぶら下がっていて、備え付けてある小さな木槌で順番に叩くと「木曽節」が奏でられる。やってみたが、あまりうまくは響かない。
贄川は温泉が出て「熱川」の字をあてていたが後に温泉が枯渇し、また諏訪大社の神事の贄として、ここで獲れた魚を献じていたことから、この贄の字が当てられたという。橋を渡ると直ぐ左に「贄川の関所」が復元されていた。関所と言えば「木曽福島」の関が有名だが、秀吉の時代に木曽五木の持ち出しを取り締まる材木番所として設けられたのに始まり、後に四大関所の一つとなる福島関所が設置されると、その副関としての役割を担ったという。時計を見ると8時44分で9時にならないと見学できず、関所に付随して設けられている資料館も見学できない。
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narai_12.jpg諦めて、歩き始めると直ぐに水場があり、何とその前がゴミの収集場所になっていて、おばさんたちがゴミ袋を持って集まってくる。大概はゴミを捨てて直ぐに帰るが、2人が残って盛んに、おしゃべりをしている。飲み水を補給したいと思っていたところだったので、この水が飲めるかどうかを聞きたいのだが、おしゃべりが途切れない。しばらく待って我慢できず「この水飲めますか」と聞いたら2人から同時に「飲めます」と返事が返ってきた。冷たく美味い水であった。振り返ったら、2人とも居なかった。
贄川も歴史的な遺構は多くは無いが、国重要文化財の「深澤家の住宅」が残っており(下右)、家並みも何となく街道の様相である。
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贄川の宿は短く直ぐに終わるが、宿を過ぎると古い国道の廃トンネルが見える。最初に見えた方は土で塞がれていた。
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narai_17.jpg一度国道に合流し、また左に分かれて長瀬の集落を歩いて行く。ここも生垣が綺麗だ。また国道と合流して進んで行くと、道の駅の「木曽ならかわ」がある。ここでは木曽の木製品も売られているが工業製品と職人の手作業の製品の価格差を実感する。漆器など手が出ないほど高価だ。コーヒーでも飲んで休んで行こうとしたが、注文したコーヒーが待てど暮らせど出てこない。ざる蕎麦を頼んだ人は食べて出てゆくのを見て、頭にきて、もう要らないと断って歩き始めた。これも、国土交通省の天下り会社の経営のせいではなかろうか。
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進んで行くと、「平沢」の街に入って行く。「平沢」は今や最大の漆器の街である。漆器は当初、木曽福島で始まり奈良井に伝わり「平沢」は、その下請け的存在だったが、明治になり錆土という下地材が有ったため、主役に躍り出たのだという。立派な構えの漆器製造所、漆器店が続き、ここも斜交屋敷の建て方である。そして、ここほど狭い道路でも斜交によって生じる駐車スペースの便利さを感じている場所は無いように思える。
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平沢宿が終わると、道は線路を横切り直ぐに右折して奈良井川の堤防を歩く。川の流れの向こう側に江戸から64里の「橋戸の一里塚」が見える。川の反対側には「楢川小学校」があり、 外壁はさわら、ランチルームはひのき、廊下は楢の木、体育館はカラ松、給食の食器は漆器だという。
そして、奈良井大橋を渡ると点々と奈良井宿に向かう観光客が見える。
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奈良井は、流石に無人駅でなく、駅員さんが1人いた。しかし、電車の本数からして暇をもてあますのではなかろうか。駅前には5月連休とあって交通整理のおじさんも立っている。そして、宿に入ってゆくと観光客が大勢歩いている。ここは観光地だ。食事でも喫茶でも多くの店がある。
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街並みはタイムスリップしたような雰囲気であるが、歩いていて感じたのはテーマパークとして作られた街のように思ったことである。建物も「平沢」の方が本物であると思う。もちろん、訪れて損は無い場所ではあるのだが・・・
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屋敷は昔と同じく、間口は狭くても奥行きは深い。
そして、短気で道の駅で飲み損ねたコーヒーを飲もうと、古い様相のお店に入って、五平餅とコーヒーのセットを注文する。
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コーヒーに切干大根とたくあんが着いて来るのが面白い。五平餅は櫛に刺して焼いたものと思っていたが、出てきたのは丸めてたれを載せたものだ。胡桃とゴマの味がして美味しかった。まだ、11時だったので、店の女将さんに、これから「鳥居峠」を越そうと思うが、どれほどかかると聞くと2時間ぐらいでしょうとのこと。また、主人は先日皆で道路の草刈などしたから、歩き易くなっていると言う。ゆっくりといただき、店を出るとすぐに鍵の手があり、長い街も終わりが近づいてきた。
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それにしても長い街である。木曽では一番長く1Kmもある。江戸期は漆器の街として栄え、奈良井千軒といわれるまでに栄えた。約160年前の天保14年の調査では家数409軒、人口2155人と信濃、木曽の26宿で最大である。それに対して平成13年末人口は993人に過ぎない。今も減り続けているこの数字の持つ厳しい現実がある。
そして、最後は「鎮神社(しずじんじゃ)」で終わりとなる。
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「鎮神社」を過ぎると、直ぐに右側に石の階段のような坂道がある。階段を上って林の中の道を進むと、直ぐに一旦舗装道路に出る。ここで右に曲がって上って行くと右に分かれてまた、右に入って行く細い道がある。
もう観光客は1人も居ない。実は、ここで舗装道路を左に曲がり下っていって間違いに気が付いて引き返したが30分ほどロスしてしまった。
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石畳の道が続く。普通石畳の道は歩き難いと思っていたが、ここは石の間に土が詰まっていて歩き易い。奈良井宿で降り始めた雨が、この頃から本格的な降りになってきて、やむを得ず傘を取り出した。途中、木の桟を設けたところも何箇所もある。
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石畳は途中で終わるが、その後も歩き易い道が続く。そして「中の茶屋」と言う小屋に到着する。かなり汚れていて感じが良くない。そして直ぐ傍には「葬沢」がある。ここでは天正10年(1582)に木曽義昌が武田勝頼の二千の軍を迎撃して武田軍は500余名の戦死者を出して大敗し、この谷が死者で埋もれたといわれ、戦死者を葬った沢であることから、「葬沢(ほうむりさわ)」と言われると説明板にある。また、菊池寛の「恩讐の彼方に」でお弓が市九郎を恐ろしい計画に誘い込む場所でもある。一人で長居をしたくは無い場所である。
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また、木の橋を渡り、急坂を上ってゆくと、やっと「峰の茶屋」に着く。この小屋は新しく、内部も非常に綺麗である。湧き水も豊富に流れていて、飲み水を補給できる。どこかで、熊除けの鈴を着けなければと思っていたので、ここで雨を避けながら鈴を取り出し、ぶら下げた。
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直ぐ横には広い道が通っているが、左の旧道を上り進んで行くとやがて「熊除けの鐘」が吊るされていた。鳴らすとビックリするぐらい大きな音がした。このような鐘は全部で5箇所ほどある。
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「熊除けの鐘」を過ぎると、木祖村天然記念物の「鳥居峠のトチノキ群」があり、その中に「子産の栃」と呼ばれている、大きな洞のある栃の木がある。説明板によると、この洞に捨てられていた子を拾って育てたところ、孝養を尽くし幸福になったという。子産の栃の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるという。
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やっと、峠に着く。「木曽御岳山」の遥拝所がある。天気が良いと「木曽御岳山」が見えるとのことだが、今日は雨で無理だ。それにしてもあまりにも多い石仏群。林を通して薮原宿が見える。そして、ここが千曲川となる奈良井川と木曽川の分水嶺で「伊勢に流そか 越後にやろか 鳥居峠のたちしょんべん」というざれ歌があるそうだ。
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少し下ると、手洗い水。飲料可能かどうかは定かでない。少し林の中へ上ると「義仲の硯水」。木曽義仲が北国攻めでの戦勝を祈願して願書を御岳山に奉納したときの硯の水とのことだが、湧き水は枯れ、単なる水溜りになっていて、落ち葉なども浮いている。
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ひたすら、薮原に向かって下ってゆくと、JR中央線の直ぐ上のところに、薮原御鷹匠役所跡がある。説明板には、毎年五?六月になると尾張藩鷹匠方の役人が出張し捕らえてきた鷹のひなを飼育した。木曽谷のうちでも味噌川からおろす子鷹は特に優秀であったと言われる。ここを今でもお鷹城と呼んでいると書かれていた。
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そして、線路を跨いで薮原の街を進んで行くと、本陣跡は杭のみが建っていた。そして、昔の旅籠の建屋のままで旅館を営んでいる「米屋」がある。
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進んで行くと、「防火高塀」の一部が残っていた。また、薮原名物の「お六櫛」の問屋があった。お六櫛とは、持病の頭痛に悩んでいた村娘お六が、治癒を祈って御嶽山に願いをかけたところ、ミネバリで櫛を作り、髪をとかしなさいというお告げを受けた。お告げのとおりに櫛を作り髪を梳いたところ、これが治った。ミネバリの櫛の名は広まり、作り続けられることになったという伝説がある。
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薮原駅の入り口は、歩いてきた道路から線路を越した反対側である。線路を横切る地下通路があった。写真は駅入り口側を撮ったものである。
そして、薮原駅に着いた。時間は2時30分で、鳥居峠越えに途中の30ほどのロスを含め3時間ほどを要した。しかし、塩尻行きの次の電車は15:52分。1時間20分ほどの待ち時間である。ご夫婦で歩いておられる方が到着したが、話してみると今日は私と同じく「日出塩」からの出発だったと言う。既にご夫婦で東海道、奥州街道、日光街道、甲州街道を歩き終わったという。大ベテランである。
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塩山に着いて、16時41分発の「あずさ」で帰宅についた。

2008.06.07

薮原から木曽福島

本日の万歩計31,683(21.2Km)
5月は雨が多く、また仲間の集まりなどもあり、一月ぶりの歩行である。
木曽は各駅停車の列車の本数が極端に少なく、塩尻に9:30分に着いても10:50まで木曽方面の列車が無いはずであったが、ラッキーなことに9:46分に薮原行きの臨時列車があった。奈良井の漆器祭りのお蔭だ。途中、特急の待ち合わせがあったりしたが、10:30に薮原に着き歩き始めた。
中山道は駅の出口と逆方向なので、前回線路を潜った通路を逆に通って、歩き始めると木祖村民センターがあり、一里塚跡の碑とD51の蒸気機関車が飾られていた。しばらくは国道の歩道を歩かざるを得ないが、狭い谷あいで緑が美しいのが救いだ。
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さらに進むと、谷は益々狭まり国道は「吉田洞門」へ。車の通りは激しいが、歩道は木曽川に面して歩き易い。
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10分ほど進むと、国道は「山吹トンネル」に入るが、トンネルを迂回するように走っている旧国道を進む。江戸時代に大勢の通行で賑わった旧中山道も、国道だ出来て忘れられ消え去ったところも多いが、その国道もより高速通行を図るためトンネルを穿ち、部分的に放棄された場所もある。そして、このような場所では自然が元の姿を回復すべく直ちに活動を開始しているのを見ることができる。そのせめぎあいを木曽川が横目で眺めながら滔々と流れて行く。
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少し進むと、ようやく国道から離れ「宮ノ越宿」の方に進む。車の騒音から逃れられてほっとする。電車の線路を上に見て進むと、直ぐに「巴淵」に着く。水が巴状に渦巻いていたから「巴淵」と呼ぶようなったとか、「巴御前」がよく水浴びをしていたからとも言われているそうだが、「巴御前」はこの淵に住む龍神の化身だというものまであるそうだ。大して大きな淵でもなく、少し木曽川の流れが澱んで青く見えるだけである。淵の上の山は「山吹山」であるが、「山吹」も「巴」も木曽義仲の愛妾なので、二人の名前を付けたかったからと言うのが、本当のところではなかろうか。
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「巴渕」を過ぎて「徳音寺」と言う集落に入って行く。お寺の「徳音寺」と同じ名前の集落だが、お寺までの1Kmほどの道は、国道を歩くのに比べると極楽だ。のどかで本当によい道で、もちろん車は通らない。
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ほどなく、お寺の「徳音寺」に着く。木曽義仲、母小枝御前、愛妾巴御前、樋口兼光、今井兼平の墓があり、また義仲の霊廟もある。木曽義仲の墓は東海道歩きで大津で義仲寺(ぎちゅうじ)でもお目にかかった。巴御前の馬上の像も建っていたが、顔が可愛すぎるように思えた。
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「徳音寺」を出ると、ふるさと創生事業の一環として平成4年に建てられた義仲館。入館せずに、建物正面の義仲と巴御前の像を見て、「宮の越宿」に入って行く。本陣跡には明治16年の大火以降に建てられた村上家の家が残っているが、今では住む人も無く、荒廃している。
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そして、江戸時代に掘られた井戸で名水とされた「御膳水」。明治天皇が行幸の際に飲まれたので「御膳水」と名付けられたものであろう。「宮の越宿は」今は静かな集落と化してしまい、疎らな家の並びの中を街道は進んで行く。
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やがて、街道は間の宿の「原野」に入って行く。木曽を歩いて感じたのだが、お墓が多く、かつ立派だということである。お墓の入り口には、多くの石仏を配したものも多い。そして、山の中腹には「明星岩」と呼ばれる三角形の岩が飛び出して見える。相当に大きな岩であるようだ。
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左を向くと「木曽駒ケ岳」が望まれ、なんと「中山道中間点」の立て札があった。江戸、京都 双方に67里38町(268Km)とのこと。もう、半分歩いたかと思うし、まだ半分かとも思う。
中間点を過ぎると直ぐに、小沢の集落でかすかに踏み跡が感じられるような道を進むことになる。直ぐに川沿いに出て草原を進み、農家の方が田圃に行くのに通る、メッシュで川面が見える鉄の橋を渡って進む。大きく立派な蕗が茂った家があり、街道らしい家並みが続いている。栗本の集落である。
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yabuhara_26.jpgyabuhara_27.jpgyabuhara_28.jpg進んで行くと、中原兼遠が木曽義仲の学問成就を願って京の北の天満宮を勧請して作った「手習い天神」がある。急な階段を上ると、小さな境内だが、相撲の土俵もあった。江戸時代には、参勤交代の大名もお参りしたという、小さいながらも古社としての風格がある。
yabuhara_29.jpg「手習い天神」を過ぎると、直ぐに国道に合流して長い道のりを進むが、やっと、大きな関所の門が見えてきて「木曽福島関跡」に到着する。復元された関所を見学するが、陳列されていた、ジオラマが当時の様子を良く表しているのでなかろうか。
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関所を過ぎると、島崎藤村の姉の園が嫁いだ「高瀬家」がある。代々木曽福島の関所番を勤め、藤原氏の流れをくむという名門である。江戸時代には公方さんにも献上したという「奇応丸(きおうがん)」も有名であったとか。展示館を作って色々なものを展示していたが、やはり島崎藤村に関係するものが多い気がした。そして、そこから下の道路に降りる、九十九折の坂道は「初恋の小径」と粋な名前が付いていて、初恋を歌った句が頻々と表示されている。
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「初恋の小径」を下りて、本町の商店街を進み「上ノ段」の方に曲がると「高札場」があり、古い町並みが見られる。距離は短くて10軒ほども続かないほどだが、格式を感じる家が並んでいる。
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木曽川は、音を立てて滔々と流れている。橋を渡って「山村代官」の屋敷跡に進む。
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ちょうど「ほうば祭り」が行われており、代官の屋敷跡の前の広場は、屋台なども出て、大賑わいだ。祭りの期間は代官屋敷見学は無料開放で見学できるとのこと。早速、入って、綺麗な庭園、使用されていた食器、鎖帷子などが展示されているのを見学した。
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yabuhara_43.jpg代官屋敷を見学して帰ろうとしたら、地元の人に中山道歩きですかと呼び止められ、そうなら木曽福島駅前の観光案内所で手作りの素晴らしい地図が貰えると教えてくれた。早速、駅に行き「素晴らしい地図」を貰って、今日の宿泊旅館の「さらしなや」に向かった。

2008.06.08

木曽福島から須原

本日の万歩計38,074(25.5Km)
木曽福島で一泊して朝が来た。夜の間に雨が降ったようで、道路は濡れていて、しかも今にも降りそうな雰囲気。テレビの天気予報では木曽地方は曇りと言うのを信じて、7:30amに宿を出発して、今日の起点の木曽福島駅に向かう。
駅から路地のような細い道に入って行くと、木曽町役場にぶつかり右に回り込むような感じで進み、木曽福島の街並みが一望できる場所を通り、なお木立の中の小道を進む。
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小道を抜けて進んで行くと、右手に「木曽取水ダム」が見える。雨が多かったためもあり、豊かな水量である。
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一度県道に出るが、直ぐに静かな道を上って行き国道の下をくぐると、ぽっかりと口を空けたトンネルが見える。明治43年にJR中央線のために作られたトンネルだが、今は使われておらず、このトンネルを通り抜ける。あまり長いトンネルではないが、照明はあっても、中央部はかなり暗い。
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そして、神戸(こうど)の集落に進んで行くと鳥居峠とここの2ケ所の御岳山の遥拝所がある。そして、草の茂った道を通って行くと「沓掛馬頭観音」のお堂である。木曽義仲が名馬の死を悼み建立したと書かれていた。
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国道を進むと、有名な「木曽の桟(かけはし)」がある。今は、建設技術の進歩で大型トラックが激しく走ってもビクともしないが、昔は難所であったとのこと。桟道(さんどう)と言えば三国志に出てくる蜀の桟道(しょくのさんどう)が有名であるが、ここも同じく難所であったが、尾張藩の工事でずいぶんと改善されたらしい。下の右側の写真は、木曽川を渡ったところにある、桟温泉(かけはしおんせん)である。
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木曽の桟を過ぎて、長い国道あるきが続くが木曽川沿いであるので、流れる水を見ながら歩くと、気持ちも安らぐ。途中、釣りを行っている人も居た。
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やっと、国道19号から右に分かれて「上松宿(あげまつしゅく)」に進んで行く。宿場らしい街並みで、カーブしているのは鍵の手であろうか。
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上松の街の中心部は、あまり歴史的な遺構は残っていないが寺坂という細い坂道を上って行き上松小学校で茂吉の歌碑、藤村の文学碑を見て寝覚めの集落に達する。ここには、江戸期に茶屋本陣であった「田瀬屋(たせや)」、十返舎一九の「道中膝栗毛」にも登場する蕎麦屋の「越前屋」がある。浦島太郎が目覚めたとの伝説の「寝覚の床」は、この有名な2軒の間を下って行く。話しが前後するが、「寝覚の床」を見学して坂道を上がってきたら、家の石垣の上の草むしりをしていた、「田瀬屋」のおばあさんが、歩いているの?、よって行きませんかと声を掛けてくれた。「田瀬屋」は今では「民宿」を営んでいるようだが、江戸時代の建物が今に続く貴重なもので、釘が1本も使われていないとのこと。おばあさんいわく、私が嫁に来た時から建物の様子は全く変わっていないとのこと。長い江戸時代にここで、休んだ大名の記帳簿が何冊も残っていて、名前の知れた大名の名前が続いていた。話し好きのおばあさんで、ずいぶんと色々お話を伺った。
さて、「寝覚の床」である。坂道を下って、国道を渡ると「臨川寺」があり、入場料200円を払う。寺に入らなくても川に下りてゆけるが、大きく迂回する必要があるので200円払った方が便利だし、上から真下に見るのも趣がある。それに、何と言っても浦島太郎の「釣竿」が見られるのが面白い。誰も信じていなくても見たくなるものだ。
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他にも「臨川寺」には、尾張藩の4代藩主の徳川吉通が母堂の長寿を祈って建てた弁天堂や、浦島太郎が自分の姿を映した「姿見の池」がある。

kfuku_17.jpg kfuku_19.jpg水の流れが花崗岩を長い時間を掛けて削り、作り出した「寝覚の床」は、水の緑と花崗岩の白の対比が美しく、木曽で一番の景勝地と言われるのもうなずける。

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元の中山道に復帰して、進むと「上松町」で一番大きい「桂の木」。胴回りが4.1mもある。道は最後には草道になって、上松宿から離れて行く。
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国道に出てしばらく歩くと、広重・英泉 合作の中山道69次の浮世絵にも描かれた「小野の滝」がある。いまは、JR中央線の鉄橋が上に架かり、目の前には大型トラックがうなりを上げて通り過ぎる国道がある。それでも、かつては名所の1つであったことを十分に窺わせる風情が感じられる。
この辺りは、国道の開通で断ち切られた旧街道がポツポツと国道の両側に残っていて、小野の滝を過ぎると荻原の集落があり、少し進むと国道に出て次に4軒ほどの家が残っている宮戸の集落で草道を通って、再び国道に出る。
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またまた、国道を離れて立場のあった立町に入ると、なんと木曽川に架かる吊橋があらわれた。橋の中央あたりまで進んでみたが、ワイヤーが錆付き、かなり老朽化している。もう少し古くなったら修復するのだろうか、それとも朽ちるのにまかせるのか。
kfuku_28.jpgkfuku_29.jpgkfuku_30.jpgようやく、「倉本駅」に到る。鉄道により旧街道は完全に分断されており、駅を大きく迂回して、線路の反対側に出て残っている旧街道を進む。小さな集落が残っているだけだが、最後に国道に復帰するところは、感じのよい草道であった。本来、これが歩く道なのであることを感じさせてくれる。草の軟らかい感触が靴を通しても伝わってきて心地よい。そして、車のためであっても人のためでない道へと進んで行く。
単調な道が続き、何か変化のあることを期待していたら、何と踏み切りでもないところで、線路を跨ぐことになった。細い道が線路の両方にまで伸びてきているのだが、肝心の線路に踏切がないのである。「危険につき線路横断禁止。近くの踏み切り等を通行してください」の立て札がある。そんなこと言ったって1km以内には踏み切りは無い。責任を果たしたという免罪符としての立て札だろう。
渡ると、養魚池があり、ほどなくまた、同じ立て札のある場所で線路を跨ぎ国道に復帰する。
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国道脇に素晴らしい枝垂桜の木がそびえていた。花の季節は見事なものであるに違いない。やっと、今日の最終目標地の須原の駅に着いた。幸田露伴の文学碑があった。時刻は14時50分で、電車は15時17分だ。まだ早い時刻なので次の駅まで歩きたいが、15時17分の電車を逃すと、18時近くまで電車がない。これでは家に着くのが真夜中で遅すぎる。恐ろしいほどの不便さだ。今日はここで諦めて、帰宅することにした。
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