2012.05.23

渋民から摺糠(奥中山高原駅)

本日の万歩計44,027(28.6Km)

渋民から摺糠(奥中山高原駅)の歩行ルート

「竹乃家」で目覚め朝食を済ませて、7時に民宿を出発した。今日は、上空に冷たい空気がやってきて、にわか雨も予想されている。気温は寒くはないが、かなり低い。しばらくは国道4号線を進むことになる。
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3Kmほど進むと、「好摩駅」への入り口の交差点がある。この好摩駅は啄木が東京に旅立った駅である。その少し先には、右側に新塚の一里塚があった。岩手県指定文化財新塚一里塚である。
ふと見ると、現在の気温は11℃であった。5月23日としては低い気温である。止まると寒いが、歩いているとちょうど良い感じであった。
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500mほど進んで、街道は国道から右に分かれる。車の騒音から逃れられやれやれである。
直ぐに、左手に大きな石塔が並んでいた。小雨が降ってきたが、ウインドウブレーカーを着ていて傘をささずに歩いて行く。
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進んで行くと、「昔、このあたりに飛脚便(江戸時代)中継点があった」と手書きされた立て札が立っていた。教育委員会が標柱を立てることに期待したい。
そして、再び国道と合流すると直ぐに、祠があり中に地蔵尊、庚申塔があった。庚申塔には、寛延4年(1751)と刻まれていた。
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進むと、巻堀地区に入って行く。国道左の民家の庭に「明治天皇駐蹕之處」と書かれた碑が立っていた。その先の右側には、巻堀神社の鳥居が見えてきた。
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鳥居をくぐって進むと、女陰と男根をかたどった手水鉢がある。巻堀神社は、長禄3年(1459)創建の由緒ある神社で、祀神は伊邪那岐命・猿田彦命である。慶応2年(1866)に火災に遭い、焼失したが、その後、明治3年(1870)現在の巻堀神社に改称され、巻堀・馬場・永井三村の村社に官許された。ご神体は高さ60Cmほどの金勢大明神(男性のシンボル)である。古くから、縁結び・安産の守護神として信仰を集めている。なお、無明舎出版の奥州街道には、ユニークな縁起伝承が紹介されている。
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進んで次の信号手前の左側に「一字一石一礼供養塔」がある。江戸時代は、元禄、宝暦、天明、天保年間に大飢饉があり、大勢の人が餓死、病死したが、これらの死者を弔うため岩手町川口の明円寺14代住職の実秀和尚が、基底部の土中に法華経典を1つの石に1字づつ書写した小石を多数埋め安永7年(1778)に供養塔を建立したものである。
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1.5Kmほど進むと、盛岡市から岩手郡岩手町になる。直ぐの右側に「二ツ森一里塚跡」の標柱が立っていた。標柱の文字が消えそうだ、ここも教育委員会の奮起を期待したい。
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ここで、旧道は国道から右に分かれて進む。県道158号線である。進むと、左手に岩手町働く婦人の家があり、銅像がみえたので近寄ってみると、「女優・園井恵子」の名が書かれていた。川口小学校3年生ころから夢見た宝塚音楽歌劇学校に入学し、その後大女優への道を歩み始めたが、戦時中、広島に慰問巡演中、昭和20年8月6日原爆の被害にあって、一旦神戸の知人宅に逃れ、母宛の手紙を書き、これが絶筆となって、8月21日、32歳の生涯を閉じるとある。なんとも、不幸なことであった。
その先の右側には、長い板塀の広い屋敷が目に付いた。旧家なのであろう。
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川口町の中心に入って行く。通り抜けて進み、町の出口を過ぎ古舘川を渡ると右手に川口城跡がある。説明板によれば、城主は「川村四郎秀清」で文治5年(1189)頼朝公より岩手郡の内下給、川口古舘に居住、命により在名をに改むとあり、川口氏の祖で子孫の居城である、と記されていた。近世では、南部氏より領地安堵され、九戸の乱にも参陣している。その後、川口与十郎秀寛の代になり、寛文5年(665)八戸南部藩主直房公に従い八戸に移り四百石を賜り、後に家老となる、と記されていた。
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直ぐに、IGRいわて銀河鉄道の陸橋を渡り、右折する。300mほど先には左手に「御小休之趾」の大きな碑が立っていた。明治9年と14年の巡幸の際にお休みになったことを記念して大正4年に建立されたとのこと。
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先で、国道4号線に合流して進むと、丹藤川を渡る。北上川の支流であるが、IGRいわて銀河鉄道の鉄橋が架かるが、徐々に美しい流れを見せるようになってきた。この先で、右折して丹藤街道踏切を渡って進む。
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進む道が2つに分岐していて「芦田内一里塚入口」と書かれた白い標柱が立っていて標柱に従い左に進むと、細い流れにぶつかり行き止まりであった。流れの向こうに、こんもりしたふくらみが見え、これが一里塚かと思ったがはっきりしない。
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さて、向こう側に渡りたいと思い、強引に流れの下流方向に少し進むと、飛び石が見えたので、何とか川べりまで降りて、渡河を試みた。何とか渡れると見たのだが、左足だけ流れに足首まで突っ込んでしまった。渡ると、芦田内・番屋・跡地の標柱が立っていた。ここで、リュックからビニール袋を取り出し、小雨に濡れた草むらに敷き、その上に腰を下ろして濡れたソックスを履き替えた。何とか、細い橋でも架けてもらえないものだろうかとも思った。
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田圃の中の道を進み、芦田内踏切を渡る。国道を1.5Kmほど進むと沼宮内南の信号機があり、国道を左に分けて、沼宮内駅への道を進む。
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分岐点から、1Kmほど進むと、いわて沼宮内駅がある。IGRいわて銀河鉄道と東北新幹線の駅である。ここで朝から無性に飲みたいと思っていたコーヒーを飲み、一休みすることができた。
一息入れ進むと、街道は右折して陸橋を渡る。陸橋からは、これから歩く沼宮内の町並みが望まれる。
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沼宮内の町は、どことなく古い宿場の雰囲気を感じさせられる町並みが続き、その古い町並みに1908年開業で老舗の「上路旅館」があった。しかし、看板も外されており、営業を停止したように見える。通りかかった老婦人に聞いたら、良い旅館だったがホッケーの試合があるときだけ開くようになったのではと、おっしゃっていた。
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「上路旅館」を過ぎると、急に整備され町並みとなり、銀行なども軒を並べている町となる。
500mほど進んで右折して沼宮内小学校へと進むと、沼宮内尋常高等小学校の石碑と沼宮内代官所跡の説明板が立っていた。ここは、慶安4年(1651)から明治2年(1869)まで南部藩の代官所が置かれた場所で、半年交代の代官が2人、下役2人、物書2人の他、牛馬役、馬肝入、検断(警察事務)、同心数人がおかれていたとのこと。
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代官所跡の説明板を過ぎ、その先で左折して進むと沼福寺があり、その境内に明治天皇御料馬「瀧澤号」の墓がある。明治14年の明治天皇東北巡幸の折、御⾺が沼宮内駅付近で倒れ、短い間に亡くなり、当時の県知事⽯井省⼀郎の命で⼿厚く葬ったという。
街道に復帰して進むと直ぐに北上川に行き当たる。北上川もこの辺りに来ると、とても大河とは言えず、並な小川に見える。ここで、川に架かる橋を渡らず手前で右折して進む。
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右折して川沿いに進むと、直ぐに右側に大きな石塔群があった。奥には金比羅宮がある。
しばらく、旧道を進んで、国道4号線に合流し北上川を渡ると、向こうにライオンズクラブが建てた「岩手町北緯40°線」のモニュメントが見えてきた。
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やっと右手に「御堂駅」が見えてきた。今日はここまでと思っていたが、まだ午後1時である。進むことにした。700mほど進むと、右側に地蔵尊と念仏供養塔と刻まれた石塔が建っていた。
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地蔵尊より、2Kmも歩いたであろうか、ようやく前方に「北上川源流公園」の大きな看板が見えてきて、右の旧道に入って行く。しばらく北上川に沿う道となり、その後上り坂となる。
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坂道を上り詰めると、道標が立っていた。御堂新田の滝も訪れて見たいが、2Kmもあると往復で1時間もかかるので諦め、左のより急となった坂道を上って行く。
上って行くと、右側に「岩手町 川の駅」と名づけられた親水公園があり、左側には御堂観世音がある。
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御堂観音は、正式には「天台宗北上山新通法寺正覚院」で、寺伝によれば大同2年(807)坂上田村麻呂が立木十一面観音を自ら刻んで安置して草創したといわれ、また八幡太郎義家が前九年の役の際にこの地に仏堂を建立し観音を安置したと伝えられている。この地が北上川の源にあたり、清水が湧出しているところから、古く人々が清水を守る神々を祀り、そこに仏堂が建立されて、観音像が安置されたものと思われる。平安時代に蝦夷地の開拓に際して、天台宗の僧侶などが下って開いたものと思われ、平安時代にはすでに堂が建てられ、堂守が住んでいた模様である。宝暦8年(1758)、この堂が焼失すると、八幡太郎義家に由緒のある堂と言うことで、源氏の流れの藩主が復興を作事奉行に命じて行わしめている。しかし、その堂も昭和43年(1968)の雷火により焼失し、現在の堂は昭和45年(1970)に再建されたものである。
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境内には、「明治天皇叡覧之地」と書かれた石碑があり、また枯れているが、樹齢1,200年といわれる杉の大木がある。
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本堂右奥には「弓弭(ゆはず)の泉」があり、天喜5年(1057)前九年の役で源頼義、義家父子がこの地に進軍した時に、義家が矢を放った所を弓の端で堀り出すと清水がこんこんと湧き出し、猛暑にあえぐ兵の喉を潤したといわれている。まさにその場所がここで、岩の隙間から滲みだすように湧き出し、北上川の源流として現在でも健在である。
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御堂観音を後にして、坂道を上ると白樺も見られるようになり、御堂・馬羽松(みどうまはまつ)一里塚がある。
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一里塚を過ぎると、林が途絶えて大きく開けてくる。酪農の牧草地のようである。そして、進むと「擦糠(すりぬか)」の地名の標柱が立っていた。
「芦田内一里塚入口」のところで濡れた足で十分に乾かす間もなくソックスを履いたのが影響したのか、左足にマメができたようであること、また15:06分になっていたので、今日はここまでとして「奥中山高原駅」に向かうこととした。2Km強の道のりである。
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駅に着いたのが15:35分で次の盛岡行きの電車は16:09分であった。
徐々に集まってきた乗客のほとんどは地元の高校生のようであった。また、5月23日でも待合室にはストーブが燃やされていた。
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マメができて、最後はかなり辛い歩行であったが、盛岡駅前のホテルで宿泊して英気を養い明日に備えることとなった。

2012.05.24

摺糠(すりぬか)から一戸

本日の万歩計36,749(23.9Km)

摺糠(すりぬか)から一戸の歩行ルート

奥中山高原には温泉があり宿泊出来るとは知らず、盛岡駅前のホテルで宿泊し、7:32盛岡発のIGRいわて銀河鉄道で奥中山高原駅には、8:16に到着した。駅前に1台のタクシーが停まっていたので、昨日歩いた2kmをまた歩く気にもなれず、時間も節約したいと考え、タクシーを利用した。
昨日駅に向かった十字路から進むと、階段が続く神社のある丁字路に突き当たり右折して進む。
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またもや、摺糠(すりぬか)の標柱があり、100mほど進むと、民家の庭先を通る感じで左に旧街道の上り口がある。
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舗装されていない道を1Kmほど進むと、左の林を背にして「明治天皇御休憩之跡」の碑が立っていた。
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明治天皇碑より3000mほど進むと、突然に広い幅の舗装道路に出て、少し先には「奥州街道最高地点 標高484m」の標柱が立っていた。最高地点といってもそれほどの高地ではない。
進んで行くと、畑の向こうに「中山一里塚」が見えてくる。畑を開墾して街道の位置が変わってしまい、塚の片側もなくなってしまったのである。
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一里塚の横を通る道路に突き当たり、一里塚に近づいてみた。国指定の史跡だが、所有者(中嶋孫彦)が居る。
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一里塚から500mほどで、集落が見えて来る。旧中山集落である。入り口の左側には「青面金剛像塔」が建っている。説明板によると、安永4年(1775)と記銘され、一戸町で最も古い青面金剛像塔で、庚申塔として建てられたもの。庚申塔は、集落の入り口や分岐点に建てられることが多いと記されていた。
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2Kmほど進むと、火行(ひぎょう)の集落で、集落の中ほどに「火行伝馬所」の説明板が立っていた。
集落を抜けると十字路があり、直進する道が「ヨノ坂」である。火行と小繋の2つの集落を結ぶ坂道で、奥州街道でもかなりな難所で、山あいの沢に沿って進む1.5Kmほどの道である。
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奥州街道の歩行で初めて、熊よけの鈴を取り出しリュックにぶら下げて歩くことにした。倒木も多く、なかなか歩きにくい。下り坂でも昨日マメを作った足にはかなり堪える歩行となった。
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1Kmほど下って行くと、「小繋一里塚」が左側にある。片側のみ残っていて、盛岡から12番目の一里塚である。
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長い「ヨノ坂」を抜けて小繋の集落に入ると、直ぐの左側に「小繋御番所跡」の説明板が立っていた。盛岡以北で最初の御番所で、材木、馬、漆、蝋などの物資のほか女性の移動も監視したとのこと。
街道は集落を真直ぐ貫き丁字路にぶつかり右折する。
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丁字路を右折すると、長楽寺がある。説明板によれば、天台宗のお寺で桓武天皇の御代に坂上田村麻呂が大同2年(807)に東征の折、当地に地蔵堂を建立して鎮撫祈願をしたのが始まりで、嘉祥年中(850年頃)慈覚大師が、諸国巡錫の途上に当地に至り6尺5寸の延命地蔵尊を彫刻して授けたと伝えられている。南部藩主入国以来尊崇すること厚く隆盛を極めたが、度重なる火災でついに地蔵堂のみ残すことになった、と記されていた。 寺の脇には、「明治天皇御昼飯跡」と書かれた標柱も立っていた。
進むと下平踏切で、ここを渡って国道4号線に合流する。
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国道を2kMほど進むと、600mの長さの笹目子(ささめこ)トンネルである。国道のトンネルを歩いて通るのは初めてである。騒音が激しく、特に重量級のトラックが連続して走ると恐怖を覚えるほどである。
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トンネルを抜けると、右側に「笹目子トンネル」の大きな看板とともに「川底一里塚入口」
の手作りの道標が立っていた。
道標に沿って進むと、トンネルの外側を少し戻る感じになっていて、その後旧街道への細い取り付き道となって上って行くようになっている。
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旧街道に達すると、本来の道が左に続いているが、鉄道により遮断され通行できない旨の立て札が立っていた。右に進むのが一里塚への方向であり、下草刈りを行った歩きよい道が連なっている。先程通ってきたトンネルの上を通過して進む。
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200mも進むと。川底の一里塚である。この一里塚も国指定史跡だが、個人所有である。
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一里塚から600mほどで気持ちの良い旧街道の道は終わり、舗装道路に合流する。
舗装道路に出て進むと「上の井戸」がある。高地にある「高屋敷」の集落では、水の確保に貴重で重要な井戸であった。
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少し進むと「高屋敷」の民家が見えてきて、「中の井戸」がある。また。道端には「高屋敷」の標柱が立てられていた。
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そして、「下の井戸」を過ぎると、小さな集落はもう終わりである。
ちょうどお昼である。今日は食事をする食堂などはないところを歩くことが分かっていたので、コンビニで買っておいた、おにぎりを道の脇に積まれた材木に腰を落として食事とした。
坂道を小型トラックで上ってきた方に呼び止められ、先週50人の団体が通ったこと、小鳥谷駅までは3Km程度であることなどを伺い、奥州街道のこの辺りの案内パンフレットをいただいた。
集落から山道を下り2Kmほど進むと、左側に五月舘の追分石と呼ばれる石があり、「右ハ山道 左ハもり岡」と刻まれている。説明板には、追分石は街道を歩く人の目印となるよう造られ多くの道の分岐点に設置されている。「五月舘の追分石」は、南北に伸びる奥州街道と南西の尾根へと向かう道の分岐点に設置された、と記されていた。
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山道を抜けて小鳥谷(こずや)バイパスのガードをくぐり進む。左側に立派な建物と「明治天皇御小休所跡」の標柱が立っていた。この建物は、小鳥谷村長をされていた庄屋さんの住居だったとのこと。
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小鳥谷小学校の方に進むと、その先に国指定天然記念物の藤島のフジがある。樹齢は数百年で日本一大きいフジとして知られてるとのこと。元々はすぐ隣のカツラの木に巻き付いていたが、重みでカツラの枝が折れて、現在は鉄骨のヤグラと支柱で支えられている。この地は、古くから仁昌寺の境内に相当し、天正19年(1591)九戸政実の乱の際には豊臣秀吉軍の蒲生氏郷が姉帯城攻略のため陣を張った場所とも伝えられている。当時、フジのあるところは周囲三方に掘りが巡り、あたかも島のように見えたことから藤島の呼び名がおこったようである。
すぐ近くの観音堂の敷地の端に「観音堂の藤」がある。こちらも随分大きく立派である。
地元の人の話では、あと3日ぐらいで相当に花が開き見ごたえのある様になるであろうとのことであった。
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街道に戻り進むと、小鳥谷駅がある。写真は駅前通りである。さらに進むと、木で作った人形が庭の藤棚でチェーンを使ったブランコに乗っていた。兄と弟を表したのか、可愛いものである。
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真っ直ぐ進んで国道4号線を横切り、馬渕川に沿うように進む。やがて道は右に折れて急な坂道となる。上り切ると小性堂の集落である。
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小さな集落で、通りすぎて進むと左側に「明治天皇御野立所の碑」がある。明治9年と明治14年の巡幸記念の碑であるようだ。
ドンドン坂道を下って行くと、左側に「雷電神社」があり、その先は丁字路となっている。
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丁字路には「女鹿口」の標柱が立っていて、ここで左折すると、直ぐに橋を渡って進み、舗装道路から右に別れて荷坂と呼ばれる急な山道を上って行く。
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荷坂の坂道を上り詰めたところに、老ヶ舘(おいがたて)の標柱がある。この先で道が2つに分かれているが、事前学習により右の道を下りて行く。少し下ると「国指定史跡 奥州街道 白子坂」の標柱があり、正しい道であることが分かる。
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白子坂を下ってゆくと、「百姓一揆終結の地」の石碑と説明板が立っていた。
説明板によれば、天保7年(1838)、連年の凶作と重税、高利貸しの悪徳商法で困窮を極めた農民が窮状を代官に訴えることとしたが、血気にはやって町内になだれ込み、商店を壊し、果ては御番所にまで乱入した。その結果多くの農民が捕らえられ訴えは失敗に終わった。そして、1年後、女鹿の大工・佐吉は首謀者として関屋川原で打首となり、他の主だった人達は遠隔地に追放された、とある。
直ぐ先で、IGRいわて銀河鉄道のガードを潜ると、馬渕川沿いの広い道路に出る。左折して一戸駅に向かって進む。
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1Kmほど進むと、一戸中学校への馬渕川に架かる立派な橋があり、男女の学生像のモニュメントが配されていた。
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ようやく、一戸駅にたどり着いた。3日目の歩行で疲労も溜り、なにより足のマメが痛むので、今日はここで切り上げることとしたが、二戸に向かう列車が直ぐに来るタイミングであったので、急いで切符を買い、一戸駅の写真を撮る間もなく、二戸に向かった。
しかし、二戸では15:10分の新幹線がちょうど出た直後で、次は16:40で1時間30分も待つ事となってしまった。時間があるので、駅の周りをウロウロしたが、下の写真は二戸駅の西口側である。
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続いて二戸駅の東口である。町はこちらの方が賑やかな側である。
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街道を歩き始めて2泊3日の歩行は初めてであったが、2日目に足にマメを作ってしまったのが悔やまれる。いずれにしろ、3日連続の歩行は、私にとってかなりハードと感じられるが、こなせないことはないと自信を持った。

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