2011.09.26

古川から築館照越

本日の万歩計40,003(26Km)

古川から築館照越の歩行ルート

暑さ寒さも彼岸までとは、よく言ったもので何時まで暑さが続くのかと思っていた今年の夏もお彼岸が近づくと急に涼しくなってきた。そこで、暑い夏の間お休みしていた街道あるきを始めることとした。
東京駅6時4分発の「やまびこ51」に乗り古川駅には8時14分に着く。駅から表にでると正面に「ササニシキ」をたたえる親子の像が目についた。稲束を捧げる子供と母親の像である。
振り返って見る「古川駅」は、大正2年に陸羽東線の「陸前古川駅」として作られ、昭和57年の東北新幹線開通に伴って「古川駅」となった。
なお、陸羽東線(りくうとうせん)は、宮城県遠田郡美里町の小牛田駅(こごたえき)から山形県新庄市の新庄駅までを結ぶJR東日本の鉄道路線で、2両編成のディーデルカーが走っていて「奥の細道湯けむりライン」の愛称が付けられている。
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前回、奥州街道より離脱した十日市の交差点に向かい、北に向かう街道に復帰する。歩道も広く気持ち良い道路であるが、歩道のタイルがところどころ持ち上がって乱れており、3.11の大震災の影響が残っていた。
300mほど進んで北町の交差点を過ぎると、歩道も狭くなり中心街を離れて行く感じとなる。
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進んで家並みが途絶えたところの左側に「明治天皇観農遺蹟碑」が立っていた。明治9年の巡幸記念だが、「観農遺蹟」は、初めて見た。
さらに進むと、道路の右側の(株)ムラタ工務店の駐車スペースの片隅に「三峰神社」と額にかかれた神社があった。小ぶりだが立派なお社である。先祖が宮大工だったというのも頷かされる。左には安全を祈願する同社のモニュメントがある。
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すぐ先の交差点の左には赤い鳥居の八幡神社がある。源義家が前九年の役に凱旋したときこの境内に騎馬を留め、護持していた石清水八幡の神符を納めて勧請したものと伝えられている神社である。
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江合川に架かる江合橋を渡る。江合川は、大崎市の荒雄岳東部に源流があり、鳴子ダムを経て平野部へ流入、美里町、涌谷町を経て石巻市に入り、そこで旧北上川に合流しているが、江戸時代の河川改修以前は、北上川と合流せず広淵沼を経て定川に入り、石巻湾に流出していた。
橋を渡って左折し、500mほど進んで右折する。県道1号線を渡ると新幹線にぶつかり、道路は直角に左に曲がっている。
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少し進むと、左の新幹線のガードをくぐったところに春日神社がある。赤い鳥居を潜って進んでみたが、簡素な社があるだけだった。
先に進むと、左に進む道路が分岐していて、「聖骨傳真居士」と刻まれた石碑が立っていた。
裏はブロック塀が邪魔して見えなかったが「東田尻、西古川、北荒谷」と刻まれていて、追分石を兼ねていたという。ここが休塚の追分で左に歩を進めて行く。
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閑散とした道を進むと、左に天満宮がある。赤い鳥居は昭和53年の宮城県沖地震の時に倒壊したのが再建されたとのことだが、今度の3.11の大震災では、石の鳥居の上部が崩落している。
進んで国道4号線を斜めに横断すると、荒谷宿に入って行く。
道路の左端に、「剣聖千葉周作おいたちの地 斗瑩(とけい)神社参道入口」の看板が見える。
社伝によると、文治3年(1187)、源義経が奥州平泉へ下向の際、北陸路を通り鳴子を経て荒谷に至り吉野の山によく似た斗瑩山に立ち寄り、静御前遺愛の鼓の調べに聞き入っていた時どこからともなく白狐が現れ”鼓は自分の亡き母の皮でつくったもの。ぜひ返して頂きたいと、涙ながらに申し出て、斗瑩山の岩穴に入り込んだので義経は弁慶に命じ祭壇を築かせ鼓を捧げ、一向の武運長久を祈願したとある。 この白狐こそが左衛門尉四郎忠信に姿を変じ、義経公東下りの先達を務めた狐忠信であり、「義経千本桜」の歌舞伎で有名である。
なお、境内に千葉周作の屋敷跡があり、幕末に北辰一刀流を創始した周作が幼少時代を過ごしたところである。
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荒谷宿を歩いて、斗瑩稲荷への道の交差点に来たが、目印らしいものは何も見当たらなかった。予習では、この交差点に高橋歯科診療所があり、その軒先に看板があるはずであったが、診療所は移転したようである。
右の写真が斗瑩稲荷への交差点で、通り過ぎて振り返って撮影した。写真で右方向に進めば神社であるが、街道から離れているので、寄らずに通り過ぎた。
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荒谷宿の出口付近には「田尻川」が流れている。上流にはかつて自然湖の化女沼(けじょぬま)があったが、現在は、整備されて化女沼ダムとなり治水と、流域農地への利水に利用されているとのこと。なお、平成20年(2008)10月30日にラムサール条約登録湿地となったとの由。
さて、化女沼といういわく有りげな名前であるが、伝説では長者の娘が沼に顔を映して化粧をしていて、化粧沼と呼ばれていたのが、娘に恋をした蛇の子を娘が生んだことから、化女沼と変わったようである。何ともおどろおどろしい伝説ではある。
少し先で国道4号線に合流し、ほんの少し先で右に別れて高清水町に入って行くが、合流点には彩りも鮮やかに花壇が作られていた。
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また、合流点のすぐ左には、羽黒山公園の名の小山があり、上って行くと「恵水不尽」碑と、左側に「忠魂碑」があった。「恵水不尽」碑によると、元禄年間(1688?1704)、伊達藩の新田開発政策として小野地区の千枝の湖を干拓し、約百ヘクタールの水田が造成されたとのこと。
左側の「忠魂碑」の揮毫(きごう)は、陸軍大将鈴木荘六の筆によるもので、見事である。元治2年(1865)生まれの軍人で、退役後は帝国陸軍の帝国在郷軍人会会長、大日本武徳会会長を歴任し、学校、神社など公共の建物のために扁額など多くの揮毫を残したという。
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なお、この公園は、春の桜と、秋の彼岸花の名所で、多くのカメラを構えた人達が撮影しており、彼岸花写真のコンクールも開かれるとのことであった。
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羽黒山公園を後にして、国道を渡り右側の旧道に入って行く。古川小野の白山地区である。旧道らしい静かな道であった。
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ほどなく国道4号線に合流して進んで行く。ところどころ、国道の両脇に旧道が取り残されたように残っている。国道では、車にはねられて命を亡くした「たぬきの死骸」が横たわっていた。
1Kmほど国道を進むと、中蝦沢で左側に大きな溜池があり、水鳥が浮かんでいた。
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国道を歩いて進んでいると、大きなレストランが左に現れた。時刻は11時10分でお昼には少し早いが、昼食を摂った。500mほど先で市境の看板があり、大崎市から栗原市となった。
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栗原市に入ってさらに1kmほどで、右に別れて県道1号線を進む。高清水(たかしみず)の中の茎(なかのくき)である。高清水の地名は、高台に泉が湧き、その水質の良さと水量の豊富さから名付けられたものだという。道は、萩の花が咲き乱れる気持ちの良い道であった。
高清水台町の交差点の手前には、右側に溜池が見られた。
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歩いて行くと、右側に動物の木彫り彫刻が飾られていた。何かのお店でもあったのだろうか。
家並みは、旧街道らしいものとなっているが、車の通りが激しく歩道もないのが気になった。
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進んで、透川(すかしがわ)を渡ると、高清水台町から下町地区である。
下町地区も台町の延長のような家並みである。
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道路左側に、福現寺がある。仙台藩重臣で高清水に居を構えた石母田氏の菩提寺であった。
さらに1Kmほど進むと、左に愛宕山公園が見えてくる。斜面には、多くの石碑、石仏が集められている。
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ここには、かつて日本三善光寺の一つとして、信州と甲州の善光寺と並ぶ奥州善光寺があったところであるが、現在では、阿弥陀如来堂のみ残っている。この阿弥陀如来像は、保安年間(1120?24)に、平泉の藤原基衡が父清衡の供養のために、信州の善光寺の分身像を造ってこの地に遷座したものとのこと。なお、基衡と阿部宗任の娘の間に生まれたのが、藤原秀衡である。
丘の上から振り返ると、歩いてきた街並みがよく見える。
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高清水地区も終わりに近づき、南沢川にかかる善光寺橋を渡る。上流方向を撮影したが、小さな流れである。
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進んで行くと、稲が稔って刈り入れ直前の様相の田んぼが広がり、伊藤ハムの大きな工場が見える。国道4号線に合流すると、右手は伊藤ハムの正門で、通り過ぎて進むと、右手にファミリーマートの看板が見えてくる。
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ファミリーマートの敷地を過ぎたところに右に入る道路があり、「奥州街道」の道標が立っていた。小さな道標だが、安心して進んで行けるのはありがたい。
道路は大きく左にカーブしながらの上り坂であるが、上り詰めると先は下りとなり八重壁川に架かる前田橋がある。
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前田橋を過ぎると、また上り坂となり途中で左に有限会社への道路が別れて続いている。そして、右に民家が見えてくると、左側にまた「奥州街道」と書かれた小さな道標が見えてくる。
ここからは草道となっていて、おそらく奥州街道の原型に近い道路が残っているところであろう。
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歩きやすい道で、ところどころに奥州街道と書かれた石の道標が立っている。最初の道標には八重壁と力石と刻まれていた。八重壁は、ここから少し手前の高清水にある字名であり、力石はこれから向かう先にある。
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木立に挟まれ、涼しく本当に気持ちが良い。地図には載っておらず、人が通った形跡にも乏しいが、石の道標で間違える恐れはない道である。
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1Kmあまり進むと、左側が開けてきて、小さなため池が左側にあり、右側に「三迫百姓一揆旧蹟碑」が立っていた。慶応2年(1856年)、高清水城主石母田氏が、約5000人の百姓一揆勢を、ここで鎮撫した記念碑とのこと。
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草道の街道は舗装道路に突き当たり、その左側の溜池の角に「旧奥州街道力石」と刻まれた石碑がある。その右にあるのが力石で、右端は山神碑である。
力石は、1083年から1087年の後三年の役の際、源義家の家来、鎌倉源五郎景政が二つあった大石の一つを谷底に投げ込んで、味方を力づけたと伝えられている。
舗装された車道をまたぐと、また「奥州街道」の道標が立っていて、そのまま真っすぐ進む。
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草の刈込みも行われていない道である。最初右のコンクリートの道を進むのかと思ったが、これは民家の取り付き道路で、真ん中の草深い道が街道であった。
進むと、益々草が深くなり、道筋も定かではなくなるが、基本的には真っ直ぐ進めば良い。しかし、草の生えている地面はぬかるんでいて、凹凸があり歩きにくいことこの上ない。たまには、草の刈込みを行って欲しいものである。
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草深い道は、長くは続かず、直に農作業のために踏み固められた道になり、歩き易くなる。
途中で、左に分かれる道路も現れるが、舗装道路に合流するまで真っ直ぐに進む。
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ようやく舗装道路に突き当たり、趣のあった街道は終焉する。合流点を振り返ると、「奥州街道」と刻まれた石の道標が立っていて、矢印はいま歩いてきた方向を指していた。
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進むと、明治天皇行幸記念碑が、道路の右側に立っていた。そして、右手に築館育苗センターの看板と「奥州街道」の道標が立っていて、右に小道が続いていた。しかし予め調べた限りでは、途中で深い藪に蔽われ、道が判別し難いとのことであったので広い道を進むことにした。
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国道に合流すると、東京から410Km 一関まで31Kmの標識が立っていた。一関ももう少しだ。
国道を2Kmほど進むと、築館インターの入り口である。道は三筋に別れ、一番右は国道4号線が続いていて、真ん中が築館インターへの入り口であり、一番左は、これから進む一般道である。
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築館インターへの道路の下を潜り進む。静かな道路である。高速道路に突き当たって右折し「照越のバス停」を通り越して500mほど進むと、左側に分かれる道路の角に「奥州街道」の道標が立っていた。
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今日は、ここまでと100mほど真っ直ぐ進んだところにある神田バス停から古川駅前に戻ることとした。古川駅前で一泊して、明日はここから出発である。
バスは1時間ほども待つことになるので、近くにある「くりはら直販売館よさこい」で、休憩を取って時間を潰した。

2011.09.27

築館照越から栗原金成

本日の万歩計26,812(17.4Km)

築館照越から栗原金成の歩行ルート

古川駅前のホテルで一泊して、朝7時5分発のミヤコーバスで、昨日古川駅に戻るために乗車した築館照越の「神田バス停」に向かう。昨日の写真では小さくしか写っていなかったので、荒谷宿の入り口で、バスより斗螢稲荷神社参道入口の看板を撮影した。「剣聖 千葉周作生い立ちの地」の文字も見える。
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神田バス停に着き、100mほど戻って「奥州街道」の道標に従って、高速道路のガードを潜って進む。
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ガードを潜って右に曲がり、坂道を上って行くと、静かな郷の風情である。途中にラブホテルがあるのはいただけないが、ここを過ぎると下り坂となる。
1Kmあまりで三叉路に達すると、また「奥州街道」の道標が導いてくれる。
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三叉路で右に進んで赤沢を赤坂橋で渡り、左折すると右側にまた街道標識があり、細い道路が続いている。
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細い道路を上って行くと、国道4号線に合流し、少し進んで左折し築館薬師地区に入って行く。
左に「双林寺」のある小高い丘が見えてくるので、参道に入って行く。階段脇には寺名碑が立っているが、右に杉林の参道があるので、そちらを進む。
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見事な杉並木の参道で、片側には石仏が並んで配置されていた。
このお寺は、天平宝字4年(760年)に孝謙天皇の勅命で開創され、天台宗の伽藍48坊を構える医王山興福寺といわれていた。その後、度重なる火災で一堂を残すだけになり、天正19年(1591)に再建されて「双林寺」と改称、宗派も曹洞宗になったとのこと。
現在の建物は蛙股造り方八間の堂で、釘を一本も使わず、くさびでしめている寛政年間(1791?1798)の建築とみられるとのこと。石越村(現在の宮城県登米市石越町)の大工・菅原卯八師の建造といわれている。
この薬師堂では、毎年11月3日文化の日に開催される「つきだて薬師まつり」の「藤原一族薬師まいり」のハイライト「御礼の情景(儀式)」が行われるとのこと。
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薬師堂の脇を進むと、現在の双林寺の本堂が建っていた。新しい建築である。
双林寺を後にして、築館の市街を進む。古い町を感じさせる街並みである。
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市街を抜けると、宮城県栗原合同庁舎がある。この先で国道4号線に合流して、一迫川(いちはさまがわ)を留場橋で渡る。一迫川は、栗駒山(1627m)の三つの峡谷の一つを源流としていて、これから二迫川(にのはさまがわ)、三迫川(さんはさまがわ)が現れてくる。
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一迫川を渡ると、しばらく国道歩きが続くが、旧市街の凋落に反して新しいお店が賑やかに並んでいる。日本中で見られる現象である。
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国道を進んで行くと、1Kmほど先で国道は右にカーブしているが、街道は真っ直ぐ進んで宮野郵便局の次の信号で右折して、宮野宿に入って行く。
直ぐに皇太神社がある。赤い鳥居を潜ると、急な石段が続いている。
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階段を上ると、本殿がある。前に停まった車が邪魔だが、よくある光景である。
この神社は、上古時代第三代安寧天皇の第一皇子がこの地に降臨し、村里を開き宮殿を営み、長年居住して郷号を迫として、第五代孝照天皇の丙申年(838)に皇大神社を勧請したと伝えられている。安寧天皇といえば『古事記』『日本書紀』に伝えられる第3代天皇で、即位は紀元前510年とされるので、とても古い歴史の神社である。
宿を進んで行くと、旧家らしい家も建っていた。
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なかなか綺麗な家並みが続く。
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宮野宿の出口には、左手に能持寺がある。参道には石仏も並べられていた。
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直ぐに、国道4号線に合流し、最初の信号で左折して北に向かって進み、城生野(じょうの)地区に入って行く。
あちこちで稲の刈り取り機がエンジン音を上げている田園地帯を進んで行くと、照明禅寺がある。境内に「伊治城(これはるじょう)跡とその出土品」の説明板があり、伊治城の位置、形状、規模は明確でないが、北東に空壕(長さ300m、幅19m、深さ3m)が現存するので、この城生野台地の一角に造営されていたことは確実と書かれていた。
神護景雲元年(767)律令政府が蝦夷(えみし)を治める政策の拠点として造営した城柵である。
また、宝亀11年(780)には蝦夷出身の上治郡の大領伊治呰麻呂(これはり/これはる の あざまろ)が伊治城で按察使の紀広純と牡鹿郡大領の道嶋大盾(みちしまのおおたて)を殺害するという反乱(宝亀の乱)が起こった。さらに反乱軍は多賀城まで攻め上り略奪し放火した。この事件の後、律令政府は、多くの物と人を使って、「蝦夷討伐」を開始し、延暦21年(801)に蝦夷の阿弖流爲(アテルイ)を降伏させるまで4回の遠征を行っている。
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照明寺を出るとの、築館城生野(つきだてじょうの)の集落である。
やがて、道は緩やかに右にカーブしているが、この辺りが伊治(これはる/これはり)城跡で、広大な伊治城の外郭の北辺に当たるところである。そして、正面には富野小学校が見えてくる。
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富野小学校に突き当たり、街道は左に直角に曲がる。ここからは砂利道で、進むと簡易舗装ではあるが、細い道で歩行者と自転車のみが通行可能と思われるものとなった。
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進むと、芋埣(いもぞね)川にかかる鉄製の橋を渡る。
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さらに進むと、二迫川(にのはさまがわ)に架かる人道橋を渡る。こちらの橋の方が、幅は広いが薄い鉄板を敷き詰めた橋で、歩くと振動音が響く。やはり、人の通行のみ可能な橋である。
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二迫川をわたり進むと、広い田園地帯となる。左の方を眺めると、遠くに栗駒山が望まれ気持ちが良いが、陽射しが強く少々暑くもあった。
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広大な田園地帯を通りぬけ、熊川に架かる根岸下橋を渡る。橋の4つの親柱には牛若丸像が設置されている。2種類の像で各2体づつであるが、奥州街道らしい試みである。
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熊川の流れに沿って下って行くと、左側に「来光宝山 照明寺元墓苑」、「曹洞宗源昌山 常現寺跡」の石柱が立っていた。
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常現寺跡に続く道には、石仏が残っていたが、寺跡は広場になっていて、その奥は墓地であった。なお、ここには、かつて富城があったとのことであるが、ハッキリしない。
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先に進むと、国道4号線を横切り、築館から金成姉歯(かんなりあねは)地区に入って行く。
金成姉歯地区は、史跡が多いところと見えて、道路脇に栗原教育委員会の史跡案内板が立っていた。
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国道に合流して、2Kmほど進むと右に旧道が続いていて、進んで三迫川(さんはさまがわ)を達田橋(たつだばし)で渡る。右の写真は三迫川の下流方面である。栗駒山(1627m)の三つの峡谷を源流として、一迫川、二迫川と続き、この川が最後の三迫川である。下流で合わさって、迫川となり、さらに旧北上川となって海に注ぐ。
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この辺りの三迫川は、ホタルの名所であり、橋の歩道の縁にはホタルの絵が描かれていた。
橋を渡って、右に折れ進むと、旧奥州街道78番目の宿場・沢辺宿である。
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廃線となった「くりはら田園鉄道」のレールが残っていた。元の鉄道の栗原電鉄は、大正10年(1921)に石越 – 沢辺間(8.85km)で開業され、昭和17年(1942)に石越から細倉鉱山までの全線が開通し、旅客輸送と共に、細倉鉱山で採取された鉱石や沿線で収穫された穀物などの貨物輸送を担っていた。その後幾多の変遷を経て、1995年に至り、栗原電鉄はくりはら田園鉄道として第三セクター方式で再出発した。しかし、経営悪化から2007年3月31日をもって廃止されたのである。
左側に栗原市役所金成総合支所の立派な建物が見えてきた。時刻はまだお昼頃であるが、この先は交通の便が悪いためと、久しぶりの歩行で足が痛く、今日はここで打ち切ることとした。
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ここから高速バスが出ているので、くりこま高原駅に向かう積りであるが、13時15分まで1時間ほど間があるので、近くの食堂に入り昼食を摂った。ランチ定食680円の食事である。
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くりこま高原駅の全景である。東北新幹線の単独駅であり、駅前には市街はまだ形成されていない。1日の乗車は約1,000人である。金成で食事をして良かった。ここでは、食堂はもコーヒースタンドもない。
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くりこま高原の駅前は、モニュメント広場となっている。大きな水車は直径10mで「民心豊楽」と書かれており、昭和44年(1965)に知事に当選した「山本壮一郎」が、栗駒地区の農地の整備をし、この地区の町の大々的な開発をしたことが刻まれていた。
また、中型の水車は直径3.5mで、水車小屋付きの小さな水車は直径2mで造られている。
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さらに、駅前広間には栗原郡若柳町生まれの政治家で「くりこま高原駅」誘致に尽力した長谷川 峻(はせがわ たかし)の胸像も設けられていた。しかし、駅前広場は全く手入れをしていないと思われる状態で、草は伸び放題、タイルの目地からも雑草が顔を覗かせていた。
駅に入ると、「ひとめぼれ」の宣伝の人形が立っていた。古川駅は、「こしひかり」の顕彰の銅像であったが、やはりこの地方は米どころである。
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13時57分発のやまびこで東京に向かい帰宅した。

2011.10.11

金成から一関

本日の万歩計37,616(24.5Km)

金成から一関の歩行ルート

くりこま高原駅に8時25分に到着した。これが我が家からの一番早い到着である。
金成総合支所行のバスは、9時20分であるので、一時間弱待つことになる。コーヒースタンドすら無い駅で時間を潰すのに苦労するが、街道歩きではよくあることである。待っている間に、鴈の群れが飛んで行くのが何度か目に留まった。最近は、鴈が飛んで行くのを見かけなくなったと思っていたが、この辺りでは度々見かけるようである。バスで金成に向かう途中も見かけたし、取り入れの済んだ田んぼで鴈の群れが羽を休めているのも何度か見かけた。
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バスは、仙台からくりこま高原駅を経由して金成行きで、高速バス仕様で快適です。しかし、乗っていたのは、金成の手前で降りた人と私の2人のみ。10分ほどで金成総合支所に着き、歩き始めた。
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300mほどで国道4号線を横切ると、いよいよ金成宿に入って行く。右手の民家の前に「鈴木文治ここに生きる」と書かれた大きな石碑が建っていた。鈴木文治は、明治18年、酒造業の長男として生まれ、地元金成小、古川中学校、そして東京帝国大学を出て、大正昭和期の労働運動家の草分け的存在で、日本労働総同盟の会長を務め、最初の普通選挙(1928)で衆院議員当選。戦後は、日本社会党結成に参加して顧問となった人である。
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進むと、風情のある連子格子の「なべや呉服店」が目に付いた。ここで、左の方の小道を進むと「金成ハリストス正教会」の高さ7メートルを誇るの鐘楼が見えてくる。
慶応4年(1868)に金成町上町の医師酒井篤礼が土佐の藩士澤辺琢磨らと共に函館で聖ニコライから洗礼を受け明治2年になって布教を始めたが、明治5年仙台と函館で起こった教会への弾圧のため捕らえられて郷里に送られ、親戚らに預けられ禁足処分となる。
何度か仮会堂を建設したが、破壊されたたり焼失したりした後、篤礼の甥・川股松太郎宅を仮祈祷所とし、明治38年(1905)に教会を建立。昭和9年(1934)に現聖堂を献堂したものである。平成12年(2000)には全面的修復が施され、10月にセラフィム辻永主教座下ご臨席のもと成聖式が行われたとのこと。
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教会のとなりには、「けやき会館」がある。333席の大ホールの他、研修室、会議室、娯楽室等がある。ここは、仙台藩の代官所があったところで、金成代官所は三迫と三迫29カ村流郷(花泉、永井、涌津、奈良坂)を管轄していていたとのこと。庭には、栗原市の指定文化財のケヤキの大木が立っていた。
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また、敷地内に「明治大帝行在所御遺址」の碑が立っていた。
けやき会館の奥には、宮城県指定有形文化財の明治20(1887)に建造された旧金成小学校がある。正面玄関上のバルコニー等、洋風建築の要素を取り入れた木造2階建の校舎で昭和50年代までは金成小学校の校舎として現役で使用されていた。現在は金成歴史民俗資料館として
一般公開されているが、残念ながら休館日であった。
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歴史民俗資料館の右手方向に進むと日枝神社がある。創建は不詳だが案内板によれば、元は山王神社とも称されていて、拝殿は入母屋の瓦葺きで、正面に大きな千鳥破風の向拝を設け、さらに唐破風が付き、細部意匠の点から江戸末期の建造と推定されるとのこと。また、県指定文化財となっている。ながい参道を逆にたどると、旧街道に出るので、進むと左手に金成公民館があり、その前に「金成宿本陣跡」の案内板が立っていた。代々菅原家が本陣を勤め、十貫文(百石)以上の土地を持ち、苗字帯刀をゆるされて大肝入(郡長)を勤めていた。なお、本陣の大きさは有壁宿の本陣の660平方米より大きく1,071平方米であったとのこと。
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街道を進んで、左側に金成小学校の大きな看板が見えてくると、その先で「奥州街道」の小さな道標がある。ここで右折して、国道4号線を横切り、新町大橋を渡る。
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橋を渡って左折し、川に沿う感じで進む。やがて道は大きく右折して、徐々に上り坂となる。民家の側には石仏が並んでいるのが見える。この坂道は夜盗坂(よとうざか)と呼ばれていた坂道である。
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進んでゆくと、左側に牛舎があり、20頭ほどの牛がのんびりと過ごしていた。その後、上り坂が終わりに近づいたところに、「奥州街道」の道標が立っていて、右側の草道を指していた。
事前の予習では、旧街道は途中で消えているとのことであったので、その後有志の方々が整備された可能性を感じながらも、今日は朝の出発は10時近くと遅く、一関までの行程を考えると、あまり余裕はないので安全サイドを取って舗装道路を進むことにした。
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夜盗坂を過ぎると、左側の見晴らしが開けて、栗駒山が見えてくる。更に、進むと東北自動車道が眼下に見える。
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その後、坂道を下って東北自動車道を潜り金成末野集落が近づくと、道の両側に「奥州街道」の道標が立っていた。夜盗坂の頂上付近に立っていた「奥州街道」の道標に従って進めば、この地点に繋がっていたのではとも考えられる。今となっては致し方なく、左側の道標に従って進むと「新鹿野一里塚」の説明板が立っていた。
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のどかな集落を緩やかに下って行くと、金流川が流れていて大橋を渡る。
その先の「JA栗っこ金成種子センター」が建っている十字路には、右方向を指す「奥州街道」の道標があるが、ここも予習に従い安全サイドと、右折せず真っ直ぐ進む。
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進むと、上り坂となり本来の街道筋とは、異なるが「十万坂」である。十万坂は、源義家が衣川柵の阿部貞任を攻略した前九年の駅の時、ここで10万張の弓矢を作り、衣川に向かったことから、この地名となったとのこと。
お昼時間になったが、当然食堂など望むべくもない場所である。コンビニで買っておいた おにぎり、菓子パンで道端の草むらに座り込んで食事とする。
食事を済ませて進むと、金成簡易水道の設備があり、両側に木々が茂る、道路が続いていた。
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道端には、アケビが実っていた。そして進むと、右側に「明治天皇東北御巡幸御野立休憩所」の表示杭が立っていた。
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表示杭脇の簡素な階段を上ると、3.11の大震災のためか表示部分が落下した石碑がその姿を晒していた。また、ここは旧田村藩と旧伊達藩の鏡界であったことを示す表示板が立てられていて、丸太とコンクリートブロックを利用したベンチが作られていた。訪れる人がいるのだろうか。
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ようやく、道の両側の林の木々も薄まってきたところで、特長のある分岐に差し掛かった。真ん中に道標があり、左の道を進む。少し下ると、左の林の中に幾つかの石仏・石碑が見受けられた。
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金成からの長い長い山中の歩行を重ねて、ようやく有壁宿の入り口に達した。坂を下ると、東北本線の踏切である。
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踏切からは、左側に有壁駅が見える。踏切を渡って左折して駅に向かう。小さな無人駅である。
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駅から駅前通りを見ると、左側に「佐藤旅館」の看板と、建家が目についた。佐藤旅館の看板の下には「河北新報」の看板も見える。新聞取次も兼ねているのだろうか。
なお、河北新報は、明治維新の際に薩長から「白河以北一山百文」(白河の関より北は、山ひとつ100文の価値しか持たないの意)と蔑まれた東北の意地を見せるべく元の「東北日報」から「河北」と改題して明治30年(1897)1月17日に創刊したという。
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元の街道に戻り、県道187号線との十字路の左側に、萩野酒造店がある。日輪田(ひわた)と萩の鶴の銘柄の酒を主銘柄として、出荷しているとのこと。創業は1840年頃で本陣の分家にあたり、脇本陣も勤めていたという。レンガ作りの高い煙突が目立つ酒造である。
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少し進むと有馬川が流れており、渡ると右側に有壁宿の本陣がある。現在の建物は、延享元年(1774)に改築したもので、街道には、軒の高さが異なる木造2階建て切妻平入りの長屋が2棟、隣接して御成門がある。御成門は通常は開門されず、大名や皇室など身分が高い人のみが利用され、門を潜ると本陣の玄関が張り出し車寄せのようになっていて、入母屋の屋根が格式の高さを現している。貴重な遺構として昭和46年(1971)に国指定史跡に指定され、宮城県重要文化財にもなっている。
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本陣の御成門入口脇には「明治天皇有壁御小休所」と「明治大帝御駐輦所蹟」と刻まれた石柱が建っていた。明治9年と明治14年の奥羽巡幸の際に、ここで休憩されたとのこと。
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有壁本陣は、今も佐藤鐵太郎氏が戸主として同一敷地内の住居に住んでおられ、日曜日のみ公開されているようである。本陣以外にも、旧有壁宿の家屋は、皆大きく立派である。
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有壁宿の出口に付近に真新しい鳥居と並んでその右に曹洞宗円通山観音寺がある。大同2年(807)に坂上田村麻呂が三上大明神本地観音を建立し、伝教大師が別当有壁山円通院として開山したと伝えられている。一時は坊舎が24坊を数える大寺院であったが衰退し、中世一帯を支配した菅原長尚が弘治3年(1557)に中興開山したとある。
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少し進むと、年配の婦人が何処に行くのかと尋ねてきたので、山を越えて一関に向かうと答えたら、本当に山は越えられるのか、私達も山を越えて行ったことはないと話してくれた。
本当にダメそうなら引き返しますと答えて進むと、今度は年配の男性が、話しかけてきて山越えで一関に向かうとの話を聞いて、マムシが出る可能性もあるので注意して行きなさいと、恐ろしいことを言う。礼を言って進むと、右に道が別れるところに「奥州街道」の道標があり、真っ直ぐ進むことが示されていた。民家の右脇には、溜池があり鴨が泳いでいた。
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少し進むと、伊勢堂林道の表示杭が立っていて、ここからは舗装道路ではなくなる。更に先に進むと、「甲州街道」の見慣れた道標があり、左の林の中に入って行く。市乃関方面・奥州街道と赤字でかかれた道標も立っていた。
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進むと、落ち葉の降り積もった柔らかい道の上り坂で、肘曲り坂と名が付いている。さらに、少し進んで坂道の勾配が緩やかになった辺りからは、草道となる。
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林を抜けると、田圃があり、その向こうに農作業小屋がある。予習しておいた通りである。
小屋の前を通って進むと、また林の中の道となる。
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上って行くと、左側が少し開けて明るくなるが、進むと「奥州街道」の道標とともに「県行林」の標柱が立っていた。この辺りが宮城県と岩手県の県境のようである。
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この県境で道が丁字路になっていて、道標に従って左に進むが、ここからは特に人の通った形跡が薄い感じで、先程聞かされたマムシに気を付けろが現実味を帯びてくる。
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進むと、岩手県の県行造林、水源かん養保安林、ゴミの不法投棄の禁止などの表示板がまとめて立っていて、ここからは車の轍のあとが見える様になったが、道路はぬかるみ加減で、相変わらず歩き難い。
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まだ、10月の中旬に差し掛かったところであるが、山肌は多少色づき始めており、また名は知らないが赤い実を付けた木があったりで、緊張した気持ちを和らげてくれる。
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前方の視界が開け、左側に(株)ミチノクの一関営業所が見えてきた。この辺りは、一関真柴祈祷地区である。
県道に突き当たり、県道を進むと、「鬼死骸」と書かれたバス停があった。地名としては恐ろしげな名前であるが、坂上田村麻呂が、ここで鬼退治をして、その死骸を埋めたという伝説があり、それが村名となったという。かつての磐井郡鬼死骸村のあったところである。
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田村麻呂が退治した鬼とは、大武丸の一党で、ここに追い詰めて成敗した時に、その死骸を埋めた上に置いたと伝えられる巨石が右の田んぼの中にある。
少し先で、左折して東北本線を横切り線路を右に見る道を進むと、左側に「明治天皇小次遺趾」碑が立っていた。
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1Kmほど進んで、東北本線のガードを潜り、県道に合流して進むと、豊吉の墓がある。
天明5年(1785)に斬罪に処された豊吉の遺体を解剖した一関藩医らが、その由来を刻して解剖の事績とし、豊吉の霊をとむらったもの。大槻玄沢に代表される一関藩領の蘭学の浸透を伝える貴重な歴史資料と評価され、県有形文化財に指定されている。
1.5Kmほど進んで、新山川を渡ると、左に東北本線を潜るガードがあり、県道から左に逸れて進むと、瑞川寺の階段が見えてくる。
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階段の途中に、「残菊に 日当たると見て 家に入る」という佐知子句碑が建っていた。佐知子は本名横山幸子で、大正12年に東京で生まれるが、父の急逝で昭和2年に一関に戻り、後に再び東京に出て結婚、俳人として活躍していたが、昭和61年1月5日に癌のため亡くなり、生前の本人の希望により、父母の眠るここ瑞川寺に分骨埋葬されたとのこと。
同じく境内に衣関順庵(きぬどめじゅんあん)先生顕彰碑がある。一関生まれの江戸中期の眼科医で、江戸の渡辺立軒に就いて眼科を修めたが、漢方眼科に疑問を抱き、動物眼のちには人眼を剖検して研究し、プレンキ原著の蘭訳眼科書を読んで『眼目明弁』(1810)を著し、また紙製の眼球模型を作って門弟に眼科を教えたという。
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階段を上りきると瑞川寺の本堂である。
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県道に戻り進んで吸川を渡ると、祥雲寺の階段が左に現れる。祥雲寺は、仙台・伊達藩の内分分知分家の一関・田村藩の菩提寺である。
南無観世音菩薩の幟が参道の両側に立っていた。上って行くと途中で細い道路を横切るが、これが旧奥州街道であったとのこと。
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更に階段を上った境内に、一関藩に仕えた医師の建部(たてべ)清庵の顕彰碑が立っていた。
享保15年(1730)19歳で仙台に遊学しその後藩主に学費を賜り、江戸に遊学する。寛延元年(1748)37歳で家督を継ぐが、この頃飢饉が続き、有害な草木を食して死亡したものもあり、これを嘆き悲しみ施薬調合の良法を研究し、「民間備荒禄」と食用植物を分り易く示した「備荒草木図」を著したことが、説明板に記されていた。正面の本堂も小振りながら凛とした趣がある。
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境内を左に進むと、鐘楼があり、その先に保性院殿廟がある。廟の中には保性院の木像が安置されている。保性院は、伊達兵部宗勝の母で寛文9年(1669)に没し、先に宗勝が開基した豊谷寺に葬られ、後にお霊屋を建立し厨子を造って坐像を安置し供養したものである。
文政10年(1827)3月豊谷寺は火災にあい、明治維新に際し廃寺となった後、ここ祥雲寺に移されたものである。
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更にその先には、祥雲寺一切経蔵がある。天明8年(1788)当寺第8世陵霄和尚の開基になり第10世亀山和尚の代文政11年(1828)に完成した。内陣中央に八角形の転輪経蔵を据え、鞘堂は軸組、小屋組を二重の構架にし厚い土壁をまわしているのが特徴である。
一切経蔵脇にも幕末に和算に優れ、藩主から御下賜金と門人の寄付金で算学道場を創設して和算の興隆に勤めた千葉胤秀の顕彰碑が建っていた。
祥雲寺の裏手の山は一関藩主、田村家代々の墓所となっていて、石の階段が続いている。
寛文11年(1671)の伊達騒動により伊達兵部宗勝が失脚し一関藩は改易されたが、その後、天和2年(1682)に田村建顕が陸奥岩沼より移り、再び一関藩を形成した。田村家は、仙台藩2代藩主伊達忠宗がその子宗良に母・愛姫の実家である田村氏を再興させたのに始まる。以降一関藩は、明治維新まで190年続く。
境内を一番左に進んだところに、長谷観音堂が建っている。田村建顕が一関藩主として岩沼から一関に移封されたとき、岩沼の長谷山大慈寺から移したもので、西磐井三十三観音の十番札所として江戸時代から庶民の崇敬を受けてきたという。階段両側の幟旗もこの観音のためであった。
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伊達兵部宗勝が、菩提寺として寛永18年(1641)に豊谷寺を建立したが、伊達騒動で兵部が土佐に配流されてからは衰退の一途をたどり、明治に至り廃寺となった。
祥雲寺16世は、廃寺に放置されていた兵部一族や家臣、住職などの墓石の状態を憂え墓石を引き取り供養塔として配置したものである。塔の中央部分が3.11の大震災で崩落している。
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祥雲寺の次は願成寺である。山門が立派である。水沢の正法寺二世月泉大和尚九番目の弟子、梅栄元香大和尚によって至徳2年(1385)4月8日に開山された。境内には、伊達騒動で知られる伊達兵部宗勝とその一族の墓の他、一関藩校教成館初代学頭の関養軒、豪商の菅原、磐根家、熊文家、俳諧の金森家、第九代横綱秀ノ山などの墓がある。
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県道を進むと、八幡宮の石の鳥居が左側に建っている。康平4年(1061)源頼義が安部貞任征伐のため篠見山に出陣、合戦の勝利を祈祷し八幡宮を勧請したのを寛文2年(1662)伊達兵部宗勝が現在地に遷座したものである。鳥居を潜ると、かつて一関城があった釣山の山麓を上る長い参道があり、本殿に至る。残念ながら本殿の撮影が失敗して、ここに載せられない・・・
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八幡宮の本殿脇を通って進むと、釣山公園の方に進むことが出来る。一関の市街が良く見える。
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今は市民の憩いの場として整備されているが、公園の頂上が一関城址である。
なお、釣山は坂上田村麻呂の東征に際し陣を張ったと言われ、その後天喜年間(1053-1057)に安倍貞任の弟磐井五郎家任が砦を築く。さらに源頼義、義家親子も陣を張ったと言われていている。時代は進んで伊達政宗の十男宗勝が伊達藩から独立し一関藩三万石となるが、その後、一関藩主になった田村氏は一関城に入らず、その麓の現在裁判所のある辺りに陣屋を築く。旧一関城一帯は田村氏の陣屋の背後にある為、一般の人は入る事が許されなかったそうである。
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ようやく、今日の行程を終え、一ノ関駅前に到着した。時刻は16:44分であった。
今晩の宿は、駅前のサンルート一関を予約してある。食事を済ませ風呂に入って、サッカーのタジキスタン戦を見ることにする。

2011.10.12

一関から平泉

本日の万歩計41,963(27.3Km)・・・一関から前沢までの歩数と距離

朝の7時の一ノ関駅である。寒い。薄い霧がかかっている。駅前交差点から大町通りに進む。ところで、地名の一関は”ノ”が入らないのに駅は一と関の間に”ノ”が入るのが不思議である。
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まだ、早い朝なので最も賑やかと言われる大町通りもひっそりしていて、当然だがお店も開いていない。古い宿場町の雰囲気を考慮した作りのお店も並んでいる。
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地主町角交差点で左折して進む。地主町の商店街である。ここも静かである。
磐井橋の手前で、左折して田村町に入って行く。直ぐに右手に世嬉の一酒造がある。
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島崎藤村も逗留した一関の豪商「熊文」の後を受け、佐藤徳蔵が大正7年「横屋酒造店」を設立したのが前身である。当時三千数百石の仕込み量を誇ったが、昭和18年の国策による企業合同により、この地方の14社の酒造会社と合併し、両磐酒造が生まれたが、昭和32年に再び分離独立し、現在に至っている。酒蔵は大正7年に造られた東北最大の蔵を中心に昭和初期にかけて多くの蔵が建てられ、中には一層目を石造りとし、アーチ状の窓やレリーフ、曲線の方立てなど洋風建築の要素を入れ込んだものもあり、バラェティーに富んでいる。一時映画館などに利用されていたが現在は資料館やレストランなどに利用され国登録有形文化財に指定されている。
世嬉の一の社名は、大正時代、戦前の宮家の一つで「髭の宮さま」として知られた閑院宮載仁親王(かんいんのみや ことひとしんのう)殿下が当所へお越しになり、その際「世の人々が喜ぶ酒を造りなさい」ということで命名されたものとのことだが、一関を逆にしたのではと思われてならない。
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一関藩の家老職を勤めた沼田家の住居である。磐井川の幾度かの氾濫にも耐え、約300年の歴史がある。一関藩は3万石となっているが、実際は2万3千石程度で財政面では常に逼迫した状態にあり、家老職を務めた住宅であっても破風付な玄関など華美な装飾がなく極めて質素な形態を取っている。藩政時代を偲ぶ貴重な遺構で一関市指定有形文化財となっている。
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街道に戻り進むと、岩井橋の手前に「明治天皇一関行在所」碑が立っており、直ぐ側に「松尾芭蕉二夜庵跡」の看板が立っていた。松尾芭蕉が元禄2年(1689)5月12日の夕刻に到着して金森邸に泊まり、翌日平泉を巡り、再び宿泊したので「二夜庵」と呼ぶようになったと言われている。
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磐井橋を渡る。上流側を見ると、遠くに一関城のあった釣山公園が見える。磐井川は県境の栗駒山北麓を源とし、この先で北上川に流入している。
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磐井橋を渡り右折して振り返ると、橋の向こうに市街が望めたが、NTT一関ビル屋上のアンテナは霧のために霞んで見えた。川の堤防の道から中央町に入って行くと、文字はほとんど消えているものの「俳聖松尾芭蕉紀行の道」碑が建っていて、元禄2年5月13日紀行と書かれていた。
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次に、「29代横綱出生地 宮城山福松」の碑が建っていた。本名を佐藤福松といい、明治28年この地で生まれ、明治43年16歳で出羽の海部屋に入門して岩手山を名乗り、後に宮城山と改めた。その後大阪相撲高田川部屋に移り、大正11年に横綱に昇進した。昭和6年に引退して年寄役芝田山として後輩の指導にあたり昭和18年49歳で他界した。墓は円満寺にある。
この後、旧街道を思わせる街並みが続く。
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進むと、五代川を渡り、宮前町に入って行く。道の左側に配志和(はいしわ)神社の鳥居が建っていた。この神社は延喜式神名帳にも記載されている所謂「式内社」である。創建は日本武尊が蝦夷征伐の際、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)、木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメノミコト)の三神を祀り戦勝祈願した事から始まり、当初は山頂に祠を建て火石輪神社と称していたが中世に入り現在地に遷座した。
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配志和神社鳥居の反対側には、金比羅大権現と彫られた古い石塔と小さな祠が建っていた。ここから宮下町から山目町に変わり、旧奥州街道82番目の宿場・山目(やまのめ)宿となる。
進むと、旧家らしい古い家屋も見られ、問屋場の表示杭も立っていた。
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進むと、右側に中央公民館があり、その前に照井堰改修の先覚者、柏原清左衛門末裔屋敷跡」と書かれた標柱が立っていた。「照井堰用水」は、藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が、この地に用水路を完成させ下流の水田を美田としたので、その姓を取って「照井堰用水」と名付けられた。毛越寺浄土庭園にも「遣水(やりみず)」として疎水されている。
その後も幾多の先人が私財を投じて、堰の改修に取り組んだが、柏原清左衛門もその一人であった。
少し先の左手に、「胡風荘 経世の政治家棚瀬軍之佐(さくらいぐんのすけ)先生邸宅」と書かれた石碑が建っていた。
棚瀬軍之佐は原敬全盛時代にもその配下・政友会に入党せず立憲改進党、憲政会、民生党と政敵を貫き通した政治家で明治40年から昭和2年まで当地から衆議院議員に立候補、6回の当選を得ている。また、大正14年、加藤高明内閣で高橋是清商工大臣の下で政務次官を務めた人物である。以前は立派な立派な門構えを見せていたが、最近取り払われたようである。
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300mほど進むと、左側に龍澤寺(りゅうたくじ)がある。龍澤寺は文治2年(1186)藤原秀衡公の3男泉三郎忠衡が建立し、天台宗のお寺であったが、その後幾多の変遷を経て、寛永元年(1624)、水沢市黒石の正法寺17世格翁良逸大和尚を住職に招き中興開山として、曹洞宗里中山龍澤寺とした。
また、境内には、豪商で鉱山師の阿部随波の墓がある。
阿部随波は鉱山王と呼ばれ鹿角の白根・尾去沢鉱山を長年にわたって経営した。一関の中里出身で安倍一族の末裔とも伝わるが、藩主伊達綱村に1000両を献じて士分となり、やがて江戸の大火では石巻より材木を運んで巨萬の富を得、宝永7年(1710)には伊達吉村に1万5000両を献じている。さらに重貞の二代目重頼と共に親子で伊達藩に65万両を寄進している。
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山門の両脇には、奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)が鎮座している。奪衣婆は、三途の川で死者の衣を剥ぐ役目があり、その衣を懸衣翁に渡し、懸衣翁が側の衣領樹の枝にかけると、その枝のしなり具合で死者の罪状がわかることになっているという。何とも、恐ろしげで、初めて見る像である。
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龍澤寺本堂である。
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街道右側に、JR東北本線の山ノ目駅がある。昭和3年に開業した無人駅である。
ほとんど人影のない駅前通りである。朝夕の通勤、通学時間帯のみ賑わう駅であろうか。
山ノ目駅入り口から300mほど進むと、左側に「少名彦神社(すくなひこじんじゃ)」がある。
祭神は少名彦命(すくなひこのみこと)である。
参道を進むと、右手に拝殿がある。天明年間(1781?89年)の創立と伝わる。鳥居脇の石の社標と本殿の社額は「少彦」の表記になっている。
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進んで新町に入ると、左手に八雲神社と刻まれた石柱が建っている。史跡標柱には「五穀豊穣平安の八雲神社」と記されていた。祭神は牛頭天王・スサノオノミコトで、社名は日本神話においてスサノオが詠んだ歌「八雲立つ出雲八重垣妻籠に八重垣作るその八重垣を」の八雲に因むものである。総本社は京都の八坂神社である。 その先で、いよいよ平泉町となる。
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川屋敷分岐である。旧街道は県道から右に別れて進む。静かな佐野地区の街道歩きである。車の騒音がなくなると本当に有難い。
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1Kmほどで、国道4号線と交差して、祇園地区に入って行く。祇園地区を400mほど進むと「八坂神社」がある。長治元年(1104)の創建で、吾妻鏡によれば、当時、平泉の五方鎮守の神として、中央に惣社を、東に日吉白山、南に祇園社、王子諸社、西に北野天神金峯山、北に今熊野稲荷などの社をまつったと記されおり、この神社は記事中の祇園社にあたっている。
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現在の社殿は寛文6年(1666)の造営と伝えられる。江戸時代までを祇園宮と称し、明治8年(1885)の改革に伴い八坂神社と改称し村社となる。大正11年(1922)10月、内務省告示第27号により史跡指定を受け、更に昭和27年(1952)11月、特別史跡となり今日に至る。また、境内には、雷神社の社殿の他、八幡宮、金華山の大きな石塔も鎮座していた。
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八坂神社から1Kmほど進んで太田川を渡ると、平泉の市街が近づいてくる。国道4号線で東京から448Kmの地点である。
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毛越寺入り口交差店で左折して進む。歩道、家並みも含めて美しい通りである。流石に世界遺産の街である。
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300mほど進むと、観自在王院跡がある。国の特別史跡に指定されいて、案内板によると「観自在王院は、「吾妻鏡」に奥州藤原氏二代基衡の妻(阿部宗任の娘)が建立した寺院と記されている。西隣に毛越寺庭園、舞鶴が池の北方には金鶏山、南隣には高屋と推定される倉町遺跡がある。舞鶴が池は修復整備され、大阿弥陀堂・小阿弥陀堂・鐘楼・普賢堂跡の礎石が往時の伽藍を今に伝えている。発掘調査で西辺土塁・西門・南門が発見され、伽藍は東西120m・南北240mの土塁で囲まれていたと推定される。また、観自在王院西辺南北土塁と毛越寺東辺南北土塁の間は全面玉敷きで、牛車を止めた車宿跡も見つかっている。昭和48年から53年度にかけて史跡の修復整備が行われ、現在の姿が再現された。日本庭園史上でも価値が高く「旧観自在王院庭園」として名勝に指定された。」とある。
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観自在王院跡を過ぎて進むと、毛越寺の入口になる。ここで入場料を払い境内に入って行く。
毛越寺(もうつうじ)は、近年になって復興された岩手県西磐井郡平泉町にある天台宗の寺院。開山は慈覚大師円仁。現在の本尊は薬師如来、脇侍は日光菩薩・月光菩薩である。嘉祥3年(850)、中尊寺と同年に円仁が創建。その後、大火で焼失して荒廃したが、奥州藤原氏第2代藤原基衡夫妻、および、子の第3代藤原秀衡が壮大な伽藍を建立した。中世の歴史書『吾妻鏡』によれば、「堂塔四十余宇、禅房五百余宇」があり、円隆寺と号せられる金堂・講堂・常行堂・二階惣門・鐘楼・経蔵があり、嘉祥寺その他の堂宇もあって、当時は中尊寺をしのぐ規模だったという。
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正面に本堂がある。内部に入って内部拝観と阿弥陀如来にお参りすることもできる。
本堂の右に進むと、大泉が池がある。島・洲浜・築山・遣水(やりみず)などがあり、平安時代の典型的な浄土式庭園遺構となっている。
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大泉が池を時計回りに進む。杉並木の道を歩いて行くと築山と名付けられ、水辺にせまる岩山の姿を造り出した情景が見えてくる。「枯山水の様」の実例といわれているとのこと。
その先には、毛越寺を開かれた慈覚大師円仁(794-864)をお祀りする開山堂がある。在唐9年間の紀行「入唐求法巡礼行記」はマルコポーロの「東方見聞録」、玄奘三蔵の「西域記」とともに、三大旅行記として高く評価されているとのこと。
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歩いて行くと、既に姿を消してしまったお堂などが、標柱として表されている。
まず、嘉祥寺跡があり、次に講堂跡、金堂円隆寺跡、鐘楼跡と続き、現存するものとして常行堂があった。本尊は宝冠阿弥陀如来で奥伝に秘仏の摩多羅神をまつる。毎年正月20日に国指定の重要無形民族文化財の「延年の舞」が奉納される。現在の常行堂は享保17年(1732)に再建されたものとのこと。
鑓水(やりみず)は、池に水を取り入れる水路であるが、平安期の「作庭記」の様式を余すところ無く伝えており、浄土庭園に風雅な趣を添えている。鑓水の遺構は、奈良の宮跡庭園を除いて例がなく、平安期の遺構としては唯一のものとのこと。
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鐘楼堂である。昭和50年(1975)に人間国宝に指定されている香取正彦によって再建され、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれている。姿形は平等院の物に似ているという。
そして、あまりにも有名な大泉が池の出島石組と池中立石である。池の東南に出島が作られ、その先端の飛島には約2.5mの景石が立てられ、荒磯の風情を表現したものである。
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池の向こう側の山の稜線も、美しい曲線を描いている。
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境内には、萩の木が沢山植えられているが、萩の花が最も美しい時期は既に過ぎ去っているが、多少の余韻は残している。
毛越寺の見学を終え、平泉駅に着きここで食事と休憩を取って、午後の旅を進めることとする。観光バスによる団体客が多く、電車の乗降は比較的少ないようだ。
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平泉から前沢宿

平泉駅前広場から北に向かう旧街道を進むと、100mほどで東北本線の踏切を渡り、さらに100mほど進むと、伽羅御所(きゃらごしょ)跡の標柱が立っていた。伽羅御所は、藤原氏3代秀衡に至って隆盛を極め、秀衡は鎮守府将軍および陸奥守に任じられ柳之御所が藤原氏の政庁として機能するようになったため、新たに柳之御所の南側堀を隔て西南隣接地に居館として伽羅の御所を設けたものである。秀衡の居館に加えて4代泰衡ならびに子息たちの屋敷も周囲に並んでいた。
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旧街道の雰囲気の中を進むと、直ぐに「柳の御所跡入口」の標柱があるので右折する。
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進むと、広大な「柳の御所跡」である。奥州藤原氏の政庁「平泉館(ひらいずみのたち)」跡であり、広さは東京ドームの約2.5個分にあたる11.2万平方メートルの広さがある。現在は、約半分が柳之御所史跡公園として整備され、池、堀、道路などが復元されている。今後は建物も復元整備される予定である。
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「柳の御所」の東側には北上川(古名は日高見川)が流れ、その向こうには束稲山(たばしねやま)があり、”大”の字が薄く見える。今年も、8月16日には、被災地で倒壊した家屋の木材などを使用して「大文字送り火」が行われた。
柳の御所から、北西方向に細い道を高舘(たかだち)跡に向かう。右側に木の階段が見えてきて上って行く。
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木の階段を上ると、高館義経堂(たかだちぎけいどう)の入り口があり、入場料を払って石の階段を上って行く。上って左に曲がれば義経堂だが、先に右方向にある芭蕉句碑を見ることにした。
三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたにあり。秀衡が跡は田野になりて金鶏山のみ形を残す。先ず高館に上れば北上川南部より流るる大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落ち入る。泰衡等が旧跡は衣ヶ関を隔てて南部口を差し固め夷を防ぐと見えたり。さても義臣すぐってこの城にこもり巧名一時の叢となる。「国破れて山河あり 城春にして草青みたり」と笠うち敷きて時の移るまで涙を落とし侍りぬ。
 夏草や  兵共が 夢の跡

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この場所から、北上川が良く眺望出来る。その向こうには、桜の名所として知られた束稲山(たばしねやま)が望まれる。吾妻鏡によると、安倍頼時が桜一万本を植えたと記されている。
西行も69歳での勧進の旅で奥州をを訪れ、次の歌を残している。
ききもせず 束稲山の桜花 よしののほかに かかるべしとは
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高館義経堂の方に向かうと、頼三樹三郎の詩碑が建っている。頼三樹三郎は頼三陽の三男で詩文に優れ、弘化3年(1846)、ここを訪れ「平泉落日」の感傷を詠んだものである。藤原と鎌倉、義経と頼朝の悲しい関係等を折り込み、歴史の浮き沈みの儚さと、自然の美しさを詩にしている。なお、三樹三郎は母が存命している間は自重していたが、やがて母も没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込み、のちの安政の大獄(1858年)で捉えられ、江戸小塚原刑場で斬首されている。
義経堂への最後の階段の脇に「資料館」があり、入ると正面に木製のコミカルとも思える仁王像が立っていた。また、藤原氏系図、源氏系図や藤原三代の時代の詳細年表などが展示されていた。
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階段を上ると、義経堂が建っていた。天和3年(1683)、仙台藩主第4代伊達綱村が義経を偲んで建てたもので、中には義経の木像が祀られている。また、義経堂右奥には、昭和61年、義経公主従最期の地であるこの高館に、藤原秀衡公、源義経公、武蔵坊弁慶八百年の御遠忌を期して、供養のために宝篋印搭(ほうきょいんとう)が建てられた。
文治5年(1189)閏4月30日、鎌倉の圧力に屈して、「義経の指図を仰げ」という父の遺言を破り、500騎の兵をもって10数騎の義経主従を藤原基成の衣川館に襲った。義経の郎党たちは防戦したが、ことごとく討たれた。館を平泉の兵に囲まれた義経は、一切戦うことをせず持仏堂に篭り、まず正妻の郷御前と4歳の女子を殺害した後、自害して果てた。享年31であった。 また、弁慶が矢を射られて死んでも寺を守った、と言う伝説もある。
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高館から下ってゆくと、東北本線の線路が見えてきて、踏切を渡る手前に、卯の花清水がある。新しく造られた碑文には、以下が刻まれていた。
文治5年(1189)、高舘落城のとき、主君義経とその妻子の悲しい最後を見届け、死力を尽くして奮闘し、敵将共燃え盛る火炎の中に飛び込んで消え去った白髪の老臣、兼房、年66歳。
元禄2年、芭蕉が、門人曽良とこの地を訪れ、「夏草」と「卯の花」の2句の残した。
白く白く卯の花が咲いている。ああ、老臣兼房奮戦の面影が、ほうふつと目に浮かぶ。
古来、ここに霊水がこんこんとわき、里人、いつしか、卯の花清水と名付けて愛用してきた。
行き交う旅人よ、この、妙水をくんで、心身を清め、渇をいやし、そこ「卯の花」の句碑の前にたたずんで、花に涙をそそぎ、しばし興亡夢の跡をしのぼう

右の写真の丸い石碑は曽良の句で「卯の花に 兼房みゆる 白毛かな」と刻まれている。卯の花清水の名前は、この句よりきているとのこと。
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東北本線の踏切を渡って進むと、国道4号線に突き当たる。中尊寺のバス停がある。国道から左折して中尊寺入り口に進む。団体で訪れる人が多そうだ。なるべく人の流れが途絶えた瞬間を捉えて写真撮影することにした。
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中尊寺の参道は、月見坂といい、江戸期に伊達藩により杉の木の植樹が行われ、今では樹齢300年を超える大木が茂っている。また、ここは北に向かう街道でもあり、中尊寺本堂を過ぎた所から衣川の方に向かう道が続いていた。
ともかく、月見坂を上って行くと最初に出会うのが、八幡堂である。八幡堂の創建は天喜5年(1057)当時鎮守府将軍であった源頼義と子の義家が俘囚の長である安倍氏を討つ(前9年の役)為、この地で戦勝祈願した事が始まりとされている。「吾妻鏡」でも中尊寺の年中行事の中で八幡神社で法会が行われた事が書かれている。
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急な月見坂を上ってゆくと、参道の両側に黒い門柱が建っており、この先左に弁慶堂がある。弁慶堂は入母屋の金属板葺きの屋根でかなり細かい彫刻が施されている。案内板によると「この堂は文政9年(1826)の再建。藤原時代五方鎮守のため火伏の神として本尊勝軍地蔵菩薩を祀り愛宕宮と称した。傍らに義経公と弁慶の木像を安置。弁慶像は文治5年(1189)4月高館落城と共に主君のため最期まで奮戦し衣川中の瀬に立往生悲憤の姿であり、更に宝物として国宝の磬及び安宅の関勧進帳、義経主従が背負った笈がある」とのこと。
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次は、地蔵堂である。堂内に安置されているのは、もちろん地蔵菩薩である。
続いて、薬師堂がある。案内板によると「藤原清衡公が中尊寺境内に堂塔40余字建立の一字であった。その旧跡は他の場所であったが、明暦3年(1657)に現在地に建立された。堂内には慈覚大師作と伝えられる薬師如来が安置され脇仏として日光菩薩、月光菩薩が安置されている。
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参道は平坦な道になり、舗装され整備の行き届いたものとなる。そこで、現れたお堂は「観音堂」である。観音は一般的には観音さまと呼ばれ、日本で一番信仰を集めていて衆生の苦しみや救いの声を聞きつけて馳せ参じてくださる仏様で 性別は女性でも男性でもないとされ、必要に応じて刹那刹那にあらゆる姿に変化される「かたよりのない存在」といわれている。
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漸く、中尊寺山門の前に来た。この山門は、一関藩主「伊達兵部宗勝」の居城であった一関城から万治2年(1659)に移築された。通常の寺院の門の造りとは異なり、前面のひさしが深く、脇門のある薬医門であることからも、その出自を窺い知る事が出来る。
山門を潜ると、中尊寺本堂である。明治42年(1909)の再建で、ご本尊は阿弥陀如来で両脇には、天台宗総本山比叡山延暦寺から分けられた「不滅の法燈」がある。最澄が灯して以来消えたことのないと伝わる法燈であり今も護られている。
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中尊寺本堂を出て金堂の方に向かうと、不動堂がある。ご本尊の不動明王は、右手に宝剣を持ち、どんな邪悪をも断ち切る。しかし、左手の羂索(けんさく)は救いを求める人を搦めてすくい上げてくださる、そういう姿を示している。この世に生きる私たちの過ちを直し、苦悩を取り除いてくれるご尊体である。
参道の右側には、峯薬師堂がある。案内板によると、もと経塚山(金色堂の南方)の下にあったが、天正年間(1573?1591)に荒廃、のち元禄2年(1689)現在の地に再建された。御本尊は丈六(約2.7m)の薬師如来の座像でカツラ材の寄木造り、金色に漆を塗り金箔をおいたもので、藤原末期の作で重要文化財である。ひらがなの「め」と書かれた絵馬が沢山懸けられていて、特に目の疾患にご利益があるようである。
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次は、大日堂である。文字通りご本尊は大日如来である。
そして、進むと阿弥陀堂がある。ご本尊は阿弥陀仏であるが、阿弥陀如来とも呼ばれる。人々が死後行 くという西方極楽浄土の教主で、極楽往生を 願って南無阿弥陀仏と唱えれば必ず極楽へ行けると説いた、浄土宗、浄土真宗の本尊として祀られている。
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いよいよ金色堂を見る。金色堂そのものは撮影はできないので、覆堂を撮影することになる。
金色堂は国宝に指定されていて、天治元年(1124)の建造である。奥州藤原文化の数少ない建物の遺構の一つである。初代藤原清衡により建立され、当時の技術の粋を集められている。一辺が3間(5.46m)の宝形造り、木瓦葺の小堂で、柱、壁、床、天井、扉など総漆塗りの上に布を張りさらにその上に金箔を張っている。屋根を支える4本の柱には一本当り4体の仏が3段、合計12体、金色堂全体では48体が漆の蒔絵として描かれている。須弥壇内部には中央に初代清衡公、左に二代基衡公、右に三代秀衡公の御遺体(四代の泰衡公の首級も共に)が安置されている。内陣内部には中央に御本尊である阿弥陀如来を安置し、観音菩薩、勢至菩薩、地蔵菩薩、持国天、増長天などの仏像が並び当時の文化の高さを感じさせる。
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金色堂の見学を終え、外に出ると芭蕉の句碑が建っていた。
五月雨の 降残してや 光堂
次は経蔵である。間口3間、屋根は宝形、金属板葺き建物である。当時の文化を伝える数少ない建物の一つで、彩色などは剥げ落ち、平屋建てにするなどの改修がされている。現在の建物は平安時代の古材を使って鎌倉時代に造られたものとされ、案内板によると「創建時の経蔵は、「供養願文」には「2階瓦葺」とある。建武4年(1337)の火災で上層部を焼失したと伝えられてきたが、古材をもって再建されたものである。国重要文化財に指定されている。
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進むと、旅姿の松尾芭蕉の銅像が建っていた。そして、古い金色堂の覆堂である。旧覆堂は、現在の覆堂になるまで金色堂を覆い、雨風から金色堂を守っていた建築物である。現在の覆堂が建設された為、ここに移築された。室町時代中頃建設され、約500年間金色堂を守っていたそうである。松尾芭蕉がこの地を訪れた際には、この旧覆堂の中にある金色堂を見たはずである。
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旧覆堂の次は、大長寿院である。この寺は、歴史ある中尊寺の中でも、最初院と呼ばれる多宝塔の次に古いもので、初代清衡公が嘉承3年(1107)に建立したとされる。この本堂の奥には、あの頼朝を驚かせたという阿弥陀堂(二階大堂と称される)という高さ15m(5丈)にも及ぶ巨大な伽藍が天に向かってそびえていた。当時、そこには何と9m(3丈)もあるという巨大な阿弥陀仏が安置され、周囲には、4.8m(1.6丈6尺)の脇侍が九体控えるという壮大なものだった。余りの荘厳ぶりと巨大さに、奥州に侵攻した頼朝は、腰を抜かさんばかりに、驚いたという。もちろん今は焼失して存在しない。
大長寿院から、白山神社に向かう。案内板によると「仁明天皇の御代嘉祥3年(850)中尊寺の開祖である慈覚大師が加賀の白山をこの地に勧請し自らは十一面観音を作って中尊寺の鎮守白山権現と号された。配佛としては、橋爪五郎秀衡の持佛で運慶作の正観音と源義経の持佛で毘沙門天が配案されていたが、嘉永2年正月8日(1849)の火災で焼失した。現在ある能舞台は嘉永6年(1853)伊達藩主伊達慶邦から再建奉納されたものである。明治9年秋には、明治天皇が御東巡の折りに当社に御臨幸あらせられ、古式及び能舞を天覧あらせられました。」とある。
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芭蕉句碑の他にも、下記の句を刻んだ句碑が建っていた。
眼にうれし こころに寒し 光堂」福地直哉
なな重八重の 霞をもれて 光堂」伊藤雅休
金色堂の向かい側に池があり、中央に小島があって、茅葺の寄棟造りの弁財天を祀っている。案内板によると「当堂は宝永2年伊達家寄進の堂宇にて弁財天十五童子像を安置す。弁財天はインドの薩羅我底河より生じたる神にて水に縁深く池、河の辺に祀られる。」とある。
色づき始めた紅葉に囲まれ、池の水にも映え美しい。
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中尊寺の西側にある、細い急な坂道を衣川の方に向かう。途中には、「茅葺屋根の家」と「お寺の庫裏」ではと思える家屋が建っていた。いずれも中尊寺に関連のある建物であろうか。
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更に下ると、左側に中尊寺墓地がある。道は益々急になる。人影は全くない。
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坂道を下りきると、そこは衣川の堤防の下で、常夜灯を両脇に備えた地蔵尊が立っていた。旧街道は、この辺りで衣川を渡っていた。目の前の堤防には、斜面を上る簡単な階段が切られていて、堤防に上り下流方向を見ると、国道4号線の衣川橋が見え、その向こうには見えるのは束稲山である。
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下の写真は、衣川上流方向である。上流には阿部の一族が造った衣川柵があり、阿倍貞任が防御を固めていた。前9年の役では、阿部貞任、藤原経清の率いる兵と源頼義、義家の兵が死闘を繰り広げたところである。
一男八幡太郎義家、衣川に追ひたて攻め伏せて、「きたなくも、後ろをば見するものかな。しばし引き返せ。もの言はむ。」と言はれたりければ、貞任見返りたりけるに、「衣のたて(館)はほころびにけり」と(下の句を)言へりけり。貞任くつばみをやすらへ、しころを振り向けて、「年を経し糸の乱れの苦しさに」と(上の句を)付けたりけり。その時義家、はげたる矢をさしはづして帰りにけり。さばかりの戦ひの中に、やさしかりけることかな。・・・古今著聞集
hiraizumi_52.jpg衣川橋を渡り、1Kmほど進み国道から左に外れて、衣川区瀬原地区に入って行く。静かな街並みで国道を歩くよりは感じが良い。瀬原郵便局を過ぎると、道は上り坂となり左手には、民宿姫乃屋の看板も見える。
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坂を上りきり、下って行くと東北自動車道の平泉前沢インターチェンジで、旧街道はなくなっている。このために大きく左に進んで自動車道のガードを潜る。ガードを潜って向こう側に出ると、自動車部品製造の(株)フジタの大きな工場がある。
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工場の前の新しい道路を下って行き、徳沢川を渡ると100mほどで左折して進むことになる。
また、この辺りから先ほど歩いてきた上り坂の頂上付近にあった、お城のような衣川懐徳館(資料館)、国民宿舎のサンホテル衣川荘が見える。
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進んで行くと、「奥州道中」の案内板が立っていたが、この辺りは工業団地として、再開発されたところと思われ、旧街道は全く残っていないし、歴史的な遺構も見られなかった。インターチェンジと合わせて旧街道がほぼ完全に破壊されたしまったようである。
そして、白鳥川を渡って、ようやく旧街道の雰囲気が感じられる街に入って行く。
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左に白鳥神社の階段が見えてきた。由緒書きによると、白鳥神社は第50代桓武天皇の延暦20年(801)に坂上田村麻呂の蝦夷平定に際し日本武尊を鎮祭した神社とある。
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白鳥神社を後にして細い道路を進む。広い通り出たところのバス停は「丁切」であった。
「前沢牛オガタ本店」の看板を掲げた立派な建物が建っていた。前沢牛と小形牧場牛の販売ならびにレストランである。
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300mほど進むと、左に西岩寺の長い階段が見えてきた。文化2年(1805)西岩寺9世唯峯不白和尚が勧請建立した五百羅漢と十六羅漢がある。五百羅漢は、昭和24年(1949)の火災で477体を焼失し、現存するもの28体、極彩色の木製坐像である。現在は境内に設立された収蔵庫に保管されている。見上げると本堂は、3.11の大災害の被害を受けたためか、新たに建造中であった。街道に戻り進むと、五十人町の枡形がある。クランク型のまま残っている。
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枡形から200mほど進むと三日町で、右側に佐藤屋旅館がある。玄関前に「明治天皇前澤行在所」碑があった。ここで宿泊したのであろうか。
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佐藤屋旅館の反対側には(株)三清商店がある。最近はこのように古い佇まいの店を見ることは珍しい。進むと、2つ目の枡形がある。前沢駅への道路を右方向に作ったので、単純なクランクではなくなっている。ともかく、今日の歩行は前沢駅までと決めていたので、右折して駅に向かう。
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駅への途中で、とても古い作りの薬局があった。一階のお店の内装は今風にしているようではあった。前沢駅は、駅員1人の小さな駅であったが、新幹線の特急券の買える自動販売機もあり、駅員がいる窓口では、「大人の休日倶楽部」の割引で横浜市内までの乗車券と、新幹線の座席指定特急券を買うことができた。
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