2009.10.01

日本橋から草加・・・(旧日光街道)

本日の万歩計40,581(26.4Km)

先日来、雨の日が続いていて、なかなか日光街道のスタートが切れなくてイライラしていたが、今日は曇りの予想で10月1日で日にちも良し、さればと歩き始めた。
もう、5回目のスタートを切る日本橋である。今回はもう8時を過ぎており、道路元標を真上から撮ることは危険なので、歩道から斜めに撮影した(赤い矢印)。そして、お定まりの角度からの撮影。鳩が沢山群れていて、逃げない。
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そして、日本橋のシンボルとも言える三越日本橋店である。延宝元年(1673)に呉服店「越後屋」として創業し、戦前の三井財閥の基礎を作った三越も業績悪化に苦しんでいるようだ。なんとか、頑張って今後も続けて行って欲しいものである。
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重厚な三井信託銀行のビルを過ぎて、右折して大伝馬町通りに入って行く。職場に急ぐ人々を見て、少し後ろめたい気がする。
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ホテルギンモンド東京の前に「旧日光街道本通」の石碑を見て、次の角を左折して、伝馬町牢屋敷跡である「十思公園」に向う。寛永8年(1711)に鋳造され、都の重要文化財である「時の鐘」がある。伝馬町で処刑が行われる時はこの鐘の音が合図になったそうで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。
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「十思公園」内には、「松陰先生終焉の地」の石碑がある。吉田松陰は渡米を企て、精々が島流しと誰もが思っていたが、井伊大老の一言で断首に処せられたのである。
元の街道に戻って大伝馬町を過ぎると馬喰町で、衣料の問屋街である。「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多い。
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衣料の問屋街を抜けると、浅草橋である。屋形船が多く係留されている。江戸期は新吉原へ向かう猪牙船(ちょきぶね)がここから出船して、遊興客が集い船宿や料亭が建ち並んで大いに賑わったとのこと。
進んで、総武線のガードをくぐると、有名な人形の「秀月」、「久月」がある。早朝でまだ閉まっていた。
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厨橋に寄り道すると、吾妻橋の脇にある特徴的なアサヒビールのビルが見える。「炎のオブジェ」が屋上に乗っているが、口の悪い人は「○んこビル」と呼ぶ。
元の街道に戻ると、駒形町で、創業は1801年の「駒形どぜう」がある。徳川11代将軍、家斉公の時代である。「どじょう」は当時は「どぢやう」と書くのが普通であったが、文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらった。これが、評判を呼び、店は大繁盛したとのこと。
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浅草寺の雷門に到着した。日光街道とは外れるが、仲見世通りを通って進んで行く。聞こえて来る話し声は、中国語ばっかりである。恐らく80%程度は中国からの旅行者ではないだろうか。
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「宝蔵門」をくぐれば、浅草寺の本堂である。
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本堂は修復中で、シートで覆われていて、全貌は見えない。本堂から右に出て、五重塔を眺めて、隅田公園の方に進む。
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進むと「花川戸公園」があり「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
隅田公園を進んで川の堤防に上ると「言問橋」で、船が波を立てながら進んでいた。
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滝廉太郎作詞の「花」の歌碑が建っていた。ホームレスの人々もチラホラ見える。「待乳山聖天(まつちやましょうぜん)」が近づく。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。
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入口には「子育て地蔵」として伝承されている「歓喜地蔵」もあり、年配のご婦人が熱心にお祈りしていたのは、孫のためだろうか。
少し先で、今は埋められてしまった「山谷掘」を横切る。吉野橋の名の橋柱が残っている。「山谷掘」は、江戸期は「新吉原」に通う舟で賑わったというが、今は公園になっている。

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東浅草交番前の信号を過ぎて、次の信号を左に入ると「東禅寺」があり、江戸六地蔵の一つの大きな地蔵が鎮座している。左側には「木村安兵衛夫妻銅像」がある。木村安兵衛は、日本のパン作りの元祖で、明治2年木村安兵衛が東京芝日陰町に「文英堂」を開業し酒種あんぱんを考案した。店は現在に伝わり今も、銀座の木村屋総本店の他随所に店を開いている。
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1Kmほど進むと「泪橋」の交差点である。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、JR常磐線の貨物線のレールを跨ぐと、史跡小塚原刑場跡、延命寺と書かれた看板があり、中には刑死者を弔うため寛永元年(1741)に建造された石造りの大きな首切り地蔵と称する地蔵があった。
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さらに、JR常磐線をのガードをくぐると、回向院がある。刑死者、行路病者の菩提を弔うために寛文7年(1667年)に建てられた寺とのことであるが、入口には「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。
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最も奥まったところに「松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石があり、入口近くには226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓もある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。
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鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高い。
勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。
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また、1Kmほど進むと、この辺り一帯の総鎮守である「素盞雄(すさのお)神社」がある。境内には芭蕉の「行く春や、鳥啼き、魚の目に涙」の句碑がある。
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この神社の「獅子」は、なかなかの造りで立派である。
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千住大橋を渡る。渡ると左側に小広場があり、「おくのほそみち矢立初めの碑」と書かれた石碑がある。
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川べりに下りられるようになっていて、堤防には「おくのほそみち旅立ちの地」の表示と絵が描かれている。石碑の側には大きな「おくのほそみち行程図」が掛かっている。将来の辿る可能性も考えカメラのシャッターを押した。
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千住大橋の少し先で、国道から旧日光街道が分かれるが、その入口に設けられているのが、「千住宿奥の細道プチテラス」と称するモニュメント。この千住宿で松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちに際して初の句を詠んだのである。
そして、「やっちゃ場南詰」は見逃したが、「やっちゃ場北詰」の看板があった。「やっちゃ場」とは、セリの掛け声が「やっちゃやっちゃ」と聞こえたところから呼ばれたという。戦国末期からの青果市場で多くの店が街道沿いに並んでいたとのこと。
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道路が美しい、千住仲町商店街の通りに入って行く。ちょうどお昼時であったので、近くの蕎麦屋に入り昼食とする。食べ終わり歩き始めると、「千住ほんちょう公園」で高札場の説明板があった。
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進むと、江戸期の商家の様子を今に残す、横山家。NTTの工事車両が止まっているのが腹立たしい。さらに、印鑑を商う「御福堂」も古くて街道らしい建物だ。
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千住新橋で荒川を渡る。流石に水量の多い大河である。橋を渡って左折し、善立寺を過ぎて右折して200mほど進むと、石不動尊のお堂があった。側に子育八彦尊道の石碑とお地蔵さんも祀られている。お地蔵さんは白い外套風のものをまとっている。
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1Kmほど進むと、東武伊勢崎線の梅島駅である。その後1.5Kmほど進んで、島根二丁目の信号を左に入って行くと、「国土安穏寺」がある。開基は応永17年(1401)だが、秀忠、家光が、当地巡遊の折の御膳所となり寛永元年(1624)に現在の寺号を賜り、徳川家祈願所、位牌安置所となり、以後「葵御紋」の使用が許されたという。
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街道に戻り400mほど進むと、鷲神社がある。酉の市、島根神代神楽、島根ばやしで有名とのこと。若い女性がお参りして、鳥居まで戻って再び深々とお礼をしているのを見かけた。このような丁寧なお参りをする人は珍しい。私もつられて2礼2拍手1礼。
その後の3Kmほどは、特に珍しいものも歴史的な遺構もなく、ただ歩を進めて行く。小さな流れの毛長川(けなががわ)を水神橋で渡ると、ここから埼玉県である。
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2Kmほど進むと、「火焙り地蔵」がある。奉公に出ていた孝行娘が大病の母親にも会わせてもらえないので放火したら会えると思い放火して火焙りの刑に処されたという。後に放火の理由を知った村人たちが、そんな娘を哀れんで地蔵を置き弔ったと伝わっている。草加への道が続く。
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1Kmほど進むと、草加市役所があり、その片隅に地蔵堂がある。江戸の豪商・浅古氏が子育て地蔵尊として祀った石造りの地蔵菩薩立像を安置したのだという。少し先には、やはり古い趣の家屋が見える。
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まだ、午後3時であったが、今日はここまでと決めて、東武伊勢崎線の「草加駅」に向い、以前に何時乗ったか定かでない伊勢崎線で帰宅の途についた。
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2009.09.26

新河岸から川越・・・(川越街道)

本日の万歩計24,516(15.9Km)

川越街道を歩く旅は3回で9月26日に川越に到着し、完了。

川越街道も今日で3日目、新河岸からの開始で川越は近く、最後の歩行である。新河岸駅を8:30に出発。歩き始めて直ぐに、左手に入り地蔵院を訪れるが、ほとんどが墓地と化していて見るべきものは無い。
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さらに進むと、小さな春日神社があり、不老川を渡る。不老川は昔は「としとらずがわ」と呼んだそうだ。名前のわりには、大した言い伝えもなさそうだ。
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街道らしい家が現れた。小江戸川越の古い民家をお年寄りの介護保険施設に利用していると説明板に書かれていた。歴史的な価値はあっても、古い家屋は老人の施設には利用し難いと思うのだが。
そして、烏頭(うとう)坂に差し掛かる。今は、緩い坂道であるが、当時は新河岸に川舟で着いた荷物を川越の問屋街に運ぶのに越さねばならない難所であったとのこと。また、この鳥頭坂は川越でもっとも早くから知られている地名のひとつで、文明18年(1486)の書き出しで始まる道興准后の「廻国雑記」に、これより武士の館へまかりける道にうとう坂といえる所にてよめるとある。
 うとう坂こえて苦しき行末を
 やすかたとなく鳥の音もかな

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烏頭坂から階段を上ると、熊野神社が鎮座していた。街道に戻ると、その先で国道254号線と合流し、直ぐに国道16号と交差する。さらに、JR川越線と東部東上線を跨げば川越の市街に入って行く。
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菅原道真の山車と書かれた、山車の収納庫と菅原道真神社があった。10月の祭りにはここからも賑やかに山車が繰り出されるのだろう。
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川越駅の観光案内所に寄り、案内図を貰って元の街道に復帰して進むと、川越の枡形がある。今は、車の通行に便利なように緩やかなカーブを描く道になっている。この先の信号で右の小道に入って行き「喜多院」を訪れる。平安初期の天長7年(830年)、淳和天皇の命で円仁(慈覚大師)が建立し、当初は無量寿寺と号したが、江戸時代はじめに川越大火があり寺の多くの建物が焼失し、再建された中院に天正16年(1588年)、徳川家の尊崇が厚かった天海が入寺し、寺号が喜多院と改められた。
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境内には五百羅漢もあり、少し離れて東照宮もある。東照宮は、元和3年(1617)家康の遺骸を久能山から日光に移葬する途中喜多院に4日間逗留して天海僧正が大法要を営んだ因縁で寛永10年(1633)に創建したもので、国の重要文化財に指定されている。日光、久能山とともに、三大東照宮と言われているそうである。
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街道に戻り、進むと天皇皇后両陛下に献上した芋のお菓子を売る「芋十」の古い建物が見えてきて、その先には国登録有形文化財の「佐久間旅館」がある。道の右側のキリスト教会は修復中で青いシートで全面覆われていた。
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いよいよ終点が近づき、蕎麦屋の「百丈」がある。昭和初期の建物で、「看板作り」という様式でこれも国登録有形文化財である。江戸期の商家などは軒が大きく張り出していたが、関東大震災以降に道路拡張で軒を張り出す余地がなくなり、前面が平面的な造りになり、これを看板様式と呼んだのだという。
川越市役所に到着し、川越城を創建した太田道灌の銅像に対面である。川越城大手門跡の碑も建っている。3日間の歩行であったが、これで川越街道は終わりである。
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ここからは、付録であるが、東武東上線沿線に住んでいる私の妹が、会いにきてくれて、一緒に蔵造りの街並みを散策する。NHKの朝のドラマの「つばさ」が川越が舞台であることから、大勢の人が訪れている。
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酒井忠勝が建てた「時の鐘」である。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたものとのこと。
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横道に入ってもなかなか情緒がある。国・登録有形文化財の元の埼玉銀行本店のビルがある。埼玉銀行は、その後協和埼玉銀行となり「あさひ銀行」と商号変更してさらに大和銀行が合併して「りそな銀行」となった。それで、今は「りそな銀行川越支店ビル」となっている。
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蔵造りの中央通りを駅の方に進むと、開基は1549年の蓮馨寺がある。北条の家臣で川越城主の大道寺駿河守政繁の母、蓮馨大姉が仏教をひろめ民衆にこころのより所を与えたいと考え建てた寺で、以後、庶民の寺として親しまれてきたという。
ここで、駅方面への商店の並ぶ通りに移って、駅前で例によりコーヒーを飲んで休憩の後、川越駅から東武東上線で帰宅した。
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2009.09.23

成増から新河岸・・・(川越街道)

今日は、不覚にも万歩計を忘れてきた。何歩歩いて何キロか分からない。地図上で大雑把にみると、前回とほぼ同じくらいか。
ともかく、約束の8時に東武東上線の「成増駅」に着き、早速駅前にある「うたの時計台」の前に立った。成増駅から少進むと「白子宿」で元々白子は「新羅」の転訛で、渡来人らが開いた土地とのことだが、童謡の作詞者の「清水かつら」が晩年を過したことから、それににちなんだ時計台である。
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いまでも、「叱られて」は歌える人は多いと思うが、「緑のそよ風」となると出てこない人が多いのではなかろうか。
みどりのそよ風 いい日だね
蝶蝶(ちょうちょ)もひらひら 豆のはな
七色畑に 妹の
つまみ菜摘む手が かわいいな

国道沿いの繁華街が過ぎた頃、切り通しの下り坂となる。昔はかなりな急坂であったのを緩和するための切通しであろう。坂を下りると、道端に「八坂神社」のこじんまりとした社殿が建っていた。やはり京都の八坂神社を勧請したものとのことである。
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東埼橋の交差点で国道と別れ、その先の白子郵便局のある信号を右折して、白子鎮守の熊野神社を訪れた。熊野神社の横には、日露戦争への出陣を前に乃木希典が参籠した清龍寺不動院がある。また、心願成就を願い修行をおこなった龍神の口から流れ落ちる不動の瀧があった。桂太郎首相も時期は違うが、ここで参籠し、滝に打たれ、「神龍山」と大書した扁額を奉納している。
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さらに、清龍寺不動院の左側に、開運巡り洞窟の案内版があったので進むと、小さな洞窟があり、入口には電灯を点けるスイッチがあり、くぐり抜けられるようになっていた。くぐって行く途中で横浜にある「田谷の洞窟」を思い出した。
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元の交差点に戻り、県道を横切り進むと、大坂通りと呼ばれる急坂で途中には、「大坂ふれあいの森」と書かれた小広場がった。広場の入口の階段の小鳥を配したゲートが面白い。
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大坂の急坂を過ぎると、静かな住宅街の中の道が続く。再び県道に合流して歩道橋で東京外環状道路を渡り、東部東上線の和光市駅への交差点を過ぎ、朝霧警察署を過ぎると、右手に重厚な檜皮葺(ひわだぶき)の建物があった。膝折宿旧脇本陣村田屋である。おばあさんが1人で落ち葉を拾い集めていた。脇本陣である石碑も痛んでほとんど読めなくなっていた。教育委員会で本陣跡の碑の建立と合わせて何とかして欲しいものである。
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膝折町内会館の交差点を左折して進むと、黒目川を渡る。水は綺麗で鯉が二匹泳いでいるのが見えた。そして、直ぐに変則的な膝折3丁目の交差点に遭遇したが、旧川越街道は庚申塔の左側であったが、間違えて戻る羽目に陥った。
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再び交通量の多い道路に合流して、進むと、野火止大門の交差点で、平林寺と彫られた大きな石柱が建っていた。平林寺までは1kmほどあるのでスキップし進むと、武蔵野線のガードをくぐり、やがて右手に、神明神社が見えてくる。昭和の初期までは、境内横を流れる野火止用水が水車を回し、旱魃には雨乞いの行事も行われたという。
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さらに進むと、大和田郵便局の隣に荒れ果てた観音堂があり、お地蔵さんのみが凛とした姿で立っていた。そして、柳瀬川に架かる英(はなぶさ)橋を渡って浦和所沢バイパスの英インターを横切って行く。
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インターをすぎると、跡見学園女子大学のキャンパスがあり、そろそろ昼食の時刻にさしかかる。直ぐに雰囲気の良さそうなレストランを見つけて食事を取る。食べ終わって外に出ようとして驚いた。入口のレジカウンター前は、大勢の人でごった返ししている。とても人気があるレストランのようだ。
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昼食を済ませ、満足して進み資料館入口の信号の先に「川越街道」と書かれた大きな石碑があり、中央分離帯にはケヤキを植えられた美しい道が続く。
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道路の左側の歩道を歩いていたが、反対側に由緒のありそうな神社が見えてきたが、容易には道路を渡れない。ズームで写真を撮って済ませたが、後で調べたら寛文元年(1661)の建立の木宮稲荷神社とのこと。
ケヤキ並木の終わりにも「川越街道」の石碑があり、その先には広源寺。寛永16年に竜国呑海和尚の開基とのこと。仁王様は山門にあると思っていたが、ここでは本堂前に堂々たる姿を見せている。確かに大きすぎて本堂前の空の下に建立するより方法はなかったように思える。
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しばらくすると、今度は松を主体とした並木道となり、その最後には最も大きい「川越街道」の石碑があり、少し先には大井氏の城館跡につくられたという徳性寺がある。
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東入間警察署入口の信号を過ぎると、大井小学校があり、その校庭脇に国登録有形文化財の「旧大井村役場」が建っている。国の登録とするほどの建物には見えないのだが。
少し先で、国道から右に旧道が分かれて行き、大井総合支所庁舎に向う道路との交差点に「角の常夜燈」と言われる古い常夜燈が建っていた。ここは、川越街道と大山詣での道の交差点であったとのこと。
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さらに、先には正和3年(1314)の開基という古刹の地蔵院がある。ここでは仁王様が山門の前に配置されている。昭和27年火災により本尊と山門のみ焼け残ったのだという。
さらに、境内には樹齢350年の「しだれ桜」があり、説明板には「しだれ桜」の寿命は300年前後といわれており、平成10年に樹勢回復の措置がとられたと書かれていた。
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そして、国道との合流点には神明神社があり、上福岡駅への交差点を過ぎると、再び旧川越街道は国道から左に分かれ、進む。やがて左に東光寺が見えてくる。法事でもあるのか、何人かの人が境内で見かけられた。
時刻は3時30分で、今日はここまでと、その先で新河岸駅への道に右折して、駅前の喫茶店で休憩して帰宅した。
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2009.09.19

日本橋から成増(白子)・・・(川越街道)

本日の万歩計39,777(25.9Km)

9月も中旬を過ぎ、気候も良くなってきたら日光街道を歩こうと思っていた。ところが、元の職場の同僚のM氏から、スポーツクラブのウォーキングマシーンでの歩行には飽きたとメールがあったので、2人で川越街道でを歩いてみようと誘い、今日、日本橋を7時30分にスタートした。
板橋を過ぎるまでは、中山道と共通で、これ以降の記述も中山道と重複するが、あえて簡単に記述しておくことにした。
東海道、中山道、甲州街道に続いて4回目の日本橋である。車が危険で、日本橋の橋のど真ん中にある「道路評元標」の撮影を避けて、橋のたもとにあるレプリカで済ませていたが、今回は車の途切れたのを見定めて本物の撮影に成功した。
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何時見ても、日本橋の上を塞ぐ高速道路が煩わしい。これが無ければ、ずいぶんと雰囲気も違ってくるのだが・・・。早朝で三越もひっそりしているが、この5連休での人出が気になるところであろう。
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「三浦按針」の屋敷跡の碑を探して、狭い通りに入って探したが見つからず、諦めて中央通りを真っ直ぐ神田駅のガードに向って進む。ガード下には、以前にも撮影した田中昭氏作の「健やかに」銅像があり、相変わらず汚れているのが気になる。
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やがて、中央通とも離れてなおも直進すると、JR中央線にぶつかり、右方向に曲がって進み「昌平橋」を渡る。JR中央線のレンガが美しい。橋の反対側では、何かテレビドラマか何かの撮影をしていた。
「昌平橋」を渡って左折して、最初信号を右折して「本郷通り」に出て進むと、道路の左側には「湯島聖堂」の長い塀が続いている。まだ時間が早く、門が閉まっていて、中には入れない。
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「湯島聖堂」を見学できないので、それではと「本郷通り」の反対側に出て、「神田明神」を訪れる。江戸鎮守の神社で、立派な本殿があり、その左には千代田区指定有形文化財の「石獅子」がる。江戸時代の珍しい石の建造物とのこと。
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神社の鳥居前には、まだ、開いていなかったが、あまざけを飲ませる風情のある茶店もある。
進んで、本郷三丁目の交差点にさしかかると、江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたという、ビルの名前にその名を残す「かねやす」がるあ。詳しくは中山道歩きで紹介したので、こちらをご覧頂きたい。
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本郷三丁目の交差点を過ぎると、しばらくして東大の赤門が見えてきて、その後も延々と東大の前の通りを進む。
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東大の農学部前の信号を左折するが、ここが「日光御成道」との追分である。そして、ここが中山道の最初の一里塚があった場所で、一里塚跡の案内板がひっそりと建てられていた。
ここからは、旧白山通りで進んで行って、白山一丁目の信号で、左の急坂を下って「円乗寺」に「八百屋お七」の墓を訪れる。井原西鶴の「好色五人女」で有名になったが、八百屋お七は寺小姓佐兵衛に会いたさに、火付けをして、鈴が森の刑場の露と消えたのは、中山道の道中記でも記したとおり。
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「白山上」の信号を過ぎると、同行のM氏の奥様が通われた「東洋大学」のキャンバスが見えてきて、大きな通りの現在の白山通りに合流する。そして、この通りを1Kmほど進むと、巣鴨駅である。
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おばあさんの原宿の呼び名で有名になった巣鴨の商店街の入口の左手には「真性寺」があり、江戸六地蔵の大きな地蔵さんが鎮座している筈が、以前の記憶と比べてずいぶんと小さいと思ったら、本物は京都で修復中とのこと。本物の写真と詳細説明は中山道の記述を参照されたい。
以前に訪れたときは店が開こうとしている最中であったが、今回は全ての店が開いていて、これから徐々に賑わいを見せると思われる状況であった。
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「とげぬき地蔵」として、すっかり有名になった「高岩寺」の山門には托鉢姿の僧が二人立っていた。
巣鴨の商店街が過ぎると、江戸時代は茶店も多く賑わったといわれる「庚申塚」。いまも、祀られている「猿田彦大神」にポツポツとお参りに人が訪れていた。
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直ぐに、都電・荒川線の線路にぶつかる。荒川区の三ノ輪と早稲田を結ぶ、東京では唯一つ残る路面電車である。まだ、乗ったことはないので、一度乗りたいと思っている。
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都電・荒川線の踏切を渡ると、商店街も急に静かになり、1Kmほどで埼京線にぶつかる。板橋駅の駅前にはこの地で処刑された近藤勇の銅像と、永倉新八が建立した「近藤勇と土方歳三」の大きな石碑がある。石碑を建立した永倉新八の石碑も、また後日建立されたようである。
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板橋駅を過ぎて、700mほどで国道と化した中山道にぶつかる。その上を首都高中央環状線が覆っている。国道を渡って東光寺に「宇喜田秀家」の墓を訪れる。
秀家は、関が原の戦いで破れた西軍の副将で、何とか前田利家らのとりなしで死罪はまぬがれ、八丈島に流されるが、子孫は命脈を保って明治になり、前田家を頼って、ここ前田家の菩提寺の東光寺に墓を建立する。宇喜田秀家の正室は前田利家の娘の豪姫であった縁で前田家を頼ったのであろう。なお、宇喜田家の子孫は明治になり東京に戻ったが、その後再び八丈島に移り、現在も秀家、豪姫の墓を守っているとのこと。
東光寺から元の国道に戻ると、ここが旧中山道と川越街道の追分で、右に行くのが中山道であり、川越街道は直進する。
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首都高から左に分かれて300mほど進み山手通りを過ぎると、「遊座大山商店街」に入ってゆく。約600mほどで東部東上線の踏み切りを渡ると、ハッピーロード大山のより一層賑やかなアーケードの商店街に入って行く。いまどき、これほどの賑わいを見せる商店街は珍しいのではなかろうか。
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ハッピーロードのアーケードを過ぎて、国道254号線に出て、150mほどで、また右に分かれて進むと、「下頭橋」があり、その手前の右側には、下頭橋の六地蔵も祀られている。「下頭橋」の名は参勤交代で川越城主を家来がここで送り迎えをして頭を下げたためとも、乞食の六蔵が死んで残したお金で橋が造られ、永年頭を地につけて貰い貯めたお金のおかげだと橋の名にしたとも言われている。
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「下頭橋」を渡って、左方向の道を進み国道254号線を1Kmほど進み、上板橋駅が近づいたところで、旧道は右に入って行く。上板橋駅の駅前の方向に進んで昼食をとる。ゆっくりと休憩して、旧川越街道に戻り、1Kmほどす進むと、浅間神社があり、富士山の溶岩を集めた富士塚がある。さらに進んで、東武練馬駅への分岐点の三角地帯には新しく整備されたらしい「北町観音堂」があった。
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1.5Kmほど進んで国道に合流して、ひたすら歩く。「地下鉄赤塚駅」手前には小さな武者の銅像があり、「鎌倉古道 至かまくら 至はやせ」と書かれていた。かつて存在した鎌倉への街道の断片なのであろう。さらに、1Kmほど国道を進むと、東部東上線の「成増駅」入口に達したので、時刻は14:30分であったが、歩き始めの初日でもあり、今日はここまでとして、駅ビルでコーヒを飲み休憩してから帰路に着いた。
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2009.07.19

金沢(青柳)から下諏訪・・・(甲州街道)

本日の万歩計37,879(24.62Km)

甲州街道を歩く旅は7月19日に下諏訪に無事到着し、完了。

今日は、3連休の真ん中であるが、小雨がパラつく天気予報である。
あと1回で甲州街道は歩き終えるが、今日を外すと夏の暑さが迫ってきているので、秋まで持ち越しになるとの思いもあり、決行を決意した。
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前回と同じ八王子発6:35の松本行きに乗り、9:24に青柳駅に着いた。早速国道となってしまった甲州街道に復帰して金沢宿を歩き始める。金沢宿は宿を国道が貫いたため、ほとんど昔の雰囲気が残っておらず、道路わきに時々街道風の建物が残っているに過ぎない。
国道を進んで行くと、旧家とおぼしき家が建っていて、庭先に大きな石があり、その前に穴の開いた馬繋ぎ石が置かれていた。かつての賑わいを想像させる。
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1kmほど国道を進んで宮川を金沢橋で渡り、直ぐ右に曲がり、もと枡形であった道を進む。元の国道に復帰するところに「権現の森」と石碑の建っている場所がある。説明板によると、この権現の森の由来は文化二年(1805)に金沢宿より幕府に提出した「御分間御絵図御用宿方明細書上帳」の中に「宿持鎮守 除地 拾六間四方 金山権現森壱ヶ所石御祠御座候 但江戸ヨリ右之方往還ニ御座候」とあり、この権現の森と石祠が報告されている。その祠は今でも鳥居の正面に鎮座し、また、その左側には、奉納された御嶽座王大権現、不動明王、摩利支天、牛頭天王などの石仏が並んでいる。
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「権現の森」を過ぎると、また国道歩きが続き1Kmほどで左にセブン・イレブンを見て進むと、左前方にピンク色をした虹色のメルヘンというホテルとともに、こんもりした森が見えてくる。木船の一里塚である。大きくホテルの裏側を通って迂回する以外には一里塚には辿り着けない。やむなく、遠くから写真を撮って先に進む。
一里塚を過ぎても国道歩きは続くが、突然民家の前に大きな布袋さんが現れた。他には、道祖神などのかすかな当時の残り香を残すのみ。進んで行くと、ようやく「木船(きぶね)」の交差点に着き、ここからは木船の集落が始まる。
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ようやく長い国道歩きも終わり、右にターンして国道を離れ、急な坂道を上って行くと、大きな石碑が建っていたが、風化していて文字は読めない。小さいながらも御柱らしきものも立っている。そして前方には東洋バルブ茅野工場へと向かう立派な橋が見える。
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東洋バルブへの橋を潜ると、宮川に沿った静かな道になる。腕を振り振りウォーキングを行っている女性に出会い、お互いに挨拶をして通り過ぎる。約1Kmほどのぞかな道が続くと、右側から県道の197号線が合流して、さほど広い道路ではないのに車の通りが激しくなる。抜け道として利用されているのだろうか。歩道もなく歩き難い。1Kmほどで宮川坂室の交差点で合流するが、その交差点脇には古い石仏群があった。
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宮川坂室交差点を過ぎると、直ぐに「弓振川」を「建倉橋」で渡る。川の名も橋の名も歴史を感じさせる名前である。少し進むと、向こうに中央高速が見えてくる。茅野の町も近づいた。
中央高速の高架が近づくと、諏訪のインターが近いせいか交通量が増え、狭い歩道は歩き難い。ようやく高速道路をくぐって宮川の交差点に着く。ここで国道から右に分かれて進むと、三輪神社がある。同じ境内に「鈿女神社(うずめじんじゃ)」もある。鈿女神社の祭神は古事記や日本書紀に書かれている天照大神が天岩戸に隠れたとき岩戸の前で舞を舞った「天鈿女命(あまのうずめ)」で後には猿田彦神と共に「道祖神」として祭られるようになり、「天鈿女命」の面は狂言の面としていわゆる「おかめ面」となった。境内の片隅には「明治天皇御小休所」の碑もある。
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上川橋を渡ると、そろそろお昼時になり、手ごろな食堂を探しながら進む。茅野駅が近づいてきて、うなぎを焼くにおいも漂ってくる。今日は「どようの丑」でもある。一軒「うなぎ」と書かれた旗の立った店を見つけ、入ったが蒲焼を売る店で、奥様連中が買いに来ている。残念ながら食堂ではない。やむなく茅野駅の方に進み、「蕎麦屋」を見つけて、昼食をとった。うなぎは逃したが、なかなか美味しい蕎麦であった。
昼食を終えて街道に戻り進んで行くと、国道に再び合流し奇妙な形のコンクリートの建造物を発見する。中央高速の諏訪インターで降りた車が、蓼科・白樺湖方面へ向かうのに茅野市街地を避けるためのバイパスを造り、この街道の下を「あけぼの隧道」と言うトンネルで通っている。そのトンネルの換気口である。
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この後、国道を2Kmほど進むことになるが、上原頼岳寺の交差点に達すると、柿澤翁、土橋翁の筆塚がある。次の交差点は信号も無い小さな交差点だが、ここを右折すると、真っ直ぐにJR中央線のガードに向う道になる。
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ガードをくぐると、急な上り坂になり、左にカーブして上って行くと大門街道追分で、常夜燈、石碑が建っている、写真で右側が上ってきた甲州街道で、左は旧大門街道で白樺湖を経て中山道の落合まで続く。進むと、右の山の斜面には村社姫宮神社の急な階段が見えていた。
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少し先には、神戸公民館。あまりにも立派過ぎて街道のイメージには合わない気がする。そして、直ぐ先の右側に「頼重院」がある。諏訪頼重は武田信玄に攻められ、桑原城で破れ、甲府で切腹させられた。墓は甲府の東光寺にあるが、ここにも菩提寺として頼重院が建てられたのである。頼重を最後に諏訪氏は滅亡するが、娘の諏訪御料人(NKK大河ドラマでは由布姫)が信玄との間に勝頼を儲けた。
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静かな良い感じの道が続き、高台で住み心地の良さそうな住宅街とも言える。神戸の一里塚は、もう石碑だけになってしまっていたが、江戸から51番目の一里塚であり、甲州街道ではあと2つを残すのみになった。
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「雀おどり」の付いた蔵が建っていた。中山道の塩尻あたりには雀「おどり」の飾りの付いた屋根が多く見られるが、この辺りでは珍しいのではなかろうか。そして、旧国道への合流点の手前には秋葉山の石柱とともに双体の道祖神が建っていた。
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旧国道に入ると、古い様式を残した呉服屋があり、また高原はちみつの店がショーウインドウでミツバチの巣箱の構造を見せていた。
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現在の国道に合流して1Kmほど進むと、元町の交差点で街道は国道から右に別れてゆくが、その分岐点に宮坂醸造眞澄工場がある。中はお土産用のお酒の販売所になっていて、利き酒もできるコーナーも確保されている。
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元町の交差点を過ぎると、右手に浄土宗の「貞松院」。そして手長神社の長い参道が見えてくる。
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次に、形の良い松の木が見えてくる。諏訪市天然記念物の「吉田のマツ」で、推定樹齢270?300年と書かれている。説明板には、高島藩士吉田式部彦衛門が大阪城守備の任務から帰ったときに持ち帰ったと伝えられ代々吉田家の庭にあったものを昭和の初めにこの地へ移したもので、市内最年長寿と書かれている。それでは、江戸時代の旅人は観られなかったことになる。
上り坂を登って、進んで行くと「先宮神社」がある。先宮神社は古くは鷺宮神社と言っていて諏訪大社より古く、諏訪大社がこの地にやってきたとき、抵抗したが終には服従を余儀なくされ、他の場所へ移ることを許されず、境内前の小川には橋も架けられなかったと伝えられている。その後はまた、静かな街道が続いて行く。
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進んで行って、武居商店の脇には大きなケヤキの木が立っていた。注連縄まで貼られた大きな木であるが、裏に廻るとほとんどが損なわれていて、道路側の僅かな部分のみで生きていることが分かった。そして、裏側の狭い空き地には複数の石碑が建っていた。やはり、何か特別な場所ででもあったのだろうか。
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武居商店を過ぎて、坂道を下ると家の脇からちらちら見えていた諏訪湖の眺望が一気に広がる。江戸期の旅人も、諏訪湖の眺望で晴れやかな気分になったこととであろう。まだまだ、街道は続いているが両側にも立派な住居が並ぶ。
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街道の左側に、とても立派な家が見えてきた。前に突き出た灯篭も立派である。隣の庭にいた若い婦人に、どのようなお家なのかたずねたが、嫁いで来たばかりで良く分からないとのことであった。後に調べたら旧家の橋本家で、古くにはここに茶屋があったとのことであった。
右の土手には「明治天皇駐車址」の碑が、青竹の茂みに隠れそうになっていた。
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江戸から53番目の一里塚が現れた。52番目の一里塚は見逃して、この53番目の一里塚は甲州街道では最後の一里塚である。そして小さな川を渡ったら、「承知川の記」と書かれた説明板と石垣として埋め込まれた大きな石板があった。説明版には、
この一枚岩は長く甲州道中の承知川にかかっていた橋石である。
輝石安山岩 重量約拾参屯伝説によると永禄四年武田信玄が川中島の戦いの砌、諏訪大明神と千手観音に戦勝祈願を約し社殿の建替と千手堂に三重の塔の建立を約して出陣したと言う、しかし戦に利あらず帰途この橋を通過せんとしたが乗馬は頑として動かず信玄ふと先の約定を思い出され馬上より下りて跪き「神のお告げ承知仕り候」と申上げ帰国したという。爾来承知川と呼びこの一枚岩の橋を承知橋と呼ばれるようになったと伝えられている。
この一枚岩の煉瓦模様は防滑とも又信玄の埋蔵金の隠し図とも言われて来た。表面がこのように滑らかになったのは人馬など交通が頻繁であったことを物語っている。この度新橋掛替に当たってこの橋石を永久に此処に保存する
とある。
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突然に諏訪大社の秋宮まえに飛び出した。突然にオルゴールが鳴り出し、時計を見ると午後3:00であった。甲州街道もあと、百メーターで終わりである。その前に無事の旅を感謝して諏訪大社にお参りする。記念撮影も行った。鳥居の前で写っているの一緒に歩いた先輩で、大注連縄の前が小生である。本殿の両側には御柱が建っている。

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諏訪大社を後にして、最後の100mを中山道との合流点に進む。ここで甲州街道はお終いである。これで、東海道、中山道に続き甲州街道を完歩した。
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前2回は一人旅であったが、今回は会社の先輩と二人旅で、今までとは違った雰囲気も味わえた。無事に終わった感激に浸りながらも疲れた体に鞭打って、下諏訪駅に進む。途中でお土産の「塩羊羹」を買い、下諏訪駅には15:45に到着し、16:10発の特急あずさで帰宅の途についた。

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