2009.10.01
日本橋から草加・・・(旧日光街道)
本日の万歩計40,581(26.4Km)
先日来、雨の日が続いていて、なかなか日光街道のスタートが切れなくてイライラしていたが、今日は曇りの予想で10月1日で日にちも良し、さればと歩き始めた。
もう、5回目のスタートを切る日本橋である。今回はもう8時を過ぎており、道路元標を真上から撮ることは危険なので、歩道から斜めに撮影した(赤い矢印)。そして、お定まりの角度からの撮影。鳩が沢山群れていて、逃げない。
そして、日本橋のシンボルとも言える三越日本橋店である。延宝元年(1673)に呉服店「越後屋」として創業し、戦前の三井財閥の基礎を作った三越も業績悪化に苦しんでいるようだ。なんとか、頑張って今後も続けて行って欲しいものである。
重厚な三井信託銀行のビルを過ぎて、右折して大伝馬町通りに入って行く。職場に急ぐ人々を見て、少し後ろめたい気がする。
ホテルギンモンド東京の前に「旧日光街道本通」の石碑を見て、次の角を左折して、伝馬町牢屋敷跡である「十思公園」に向う。寛永8年(1711)に鋳造され、都の重要文化財である「時の鐘」がある。伝馬町で処刑が行われる時はこの鐘の音が合図になったそうで、鐘撞(かねつ)きの辻源七という男はそんな時、わざと遅らせて鐘を撞いたという。
「十思公園」内には、「松陰先生終焉の地」の石碑がある。吉田松陰は渡米を企て、精々が島流しと誰もが思っていたが、井伊大老の一言で断首に処せられたのである。
元の街道に戻って大伝馬町を過ぎると馬喰町で、衣料の問屋街である。「小売お断り」と書いた貼り紙の店も多い。
衣料の問屋街を抜けると、浅草橋である。屋形船が多く係留されている。江戸期は新吉原へ向かう猪牙船(ちょきぶね)がここから出船して、遊興客が集い船宿や料亭が建ち並んで大いに賑わったとのこと。
進んで、総武線のガードをくぐると、有名な人形の「秀月」、「久月」がある。早朝でまだ閉まっていた。
厨橋に寄り道すると、吾妻橋の脇にある特徴的なアサヒビールのビルが見える。「炎のオブジェ」が屋上に乗っているが、口の悪い人は「○んこビル」と呼ぶ。
元の街道に戻ると、駒形町で、創業は1801年の「駒形どぜう」がある。徳川11代将軍、家斉公の時代である。「どじょう」は当時は「どぢやう」と書くのが普通であったが、文化3年(1806年)の江戸の大火によって店が類焼した際に、「どぢやう」の四文字では縁起が悪いと当時の有名な看板書き「撞木屋仙吉」に頼み込み、奇数文字の「どぜう」と書いてもらった。これが、評判を呼び、店は大繁盛したとのこと。
浅草寺の雷門に到着した。日光街道とは外れるが、仲見世通りを通って進んで行く。聞こえて来る話し声は、中国語ばっかりである。恐らく80%程度は中国からの旅行者ではないだろうか。
「宝蔵門」をくぐれば、浅草寺の本堂である。
本堂は修復中で、シートで覆われていて、全貌は見えない。本堂から右に出て、五重塔を眺めて、隅田公園の方に進む。
進むと「花川戸公園」があり「姥ヶ池」の碑が建っていた。この辺りは、浅茅が原とよばれていて、その中の一軒家に老女と若い娘が住んでいた。旅人に宿を貸しては深夜になって旅人を殺し、金品を剥ぎ取っていたが、殺された人が 999人になったとき浅草観音は若者に変装して老女のところに泊まった。老女はいつもように若者を殺して、明かりをつけてビックリ、殺した相手は旅人ではなくて自分の娘だった。老女は大いに嘆き、仏眼を開いて悔い、大きな竜となって池の中へ消えていったという。
隅田公園を進んで川の堤防に上ると「言問橋」で、船が波を立てながら進んでいた。
滝廉太郎作詞の「花」の歌碑が建っていた。ホームレスの人々もチラホラ見える。「待乳山聖天(まつちやましょうぜん)」が近づく。聖天の立地は10m程度の低い山上であるが、周りが平坦なため、江戸時代にはここから見る隅田川の眺望が良く江戸名所の一つであったとのこと。良縁成就、夫婦円満、そして商売繁盛のご利益があるとして広く信仰を集めてきたというが、現在でもお乳の出るように祈る女性が多いとのこと。
入口には「子育て地蔵」として伝承されている「歓喜地蔵」もあり、年配のご婦人が熱心にお祈りしていたのは、孫のためだろうか。
少し先で、今は埋められてしまった「山谷掘」を横切る。吉野橋の名の橋柱が残っている。「山谷掘」は、江戸期は「新吉原」に通う舟で賑わったというが、今は公園になっている。
東浅草交番前の信号を過ぎて、次の信号を左に入ると「東禅寺」があり、江戸六地蔵の一つの大きな地蔵が鎮座している。左側には「木村安兵衛夫妻銅像」がある。木村安兵衛は、日本のパン作りの元祖で、明治2年木村安兵衛が東京芝日陰町に「文英堂」を開業し酒種あんぱんを考案した。店は現在に伝わり今も、銀座の木村屋総本店の他随所に店を開いている。
1Kmほど進むと「泪橋」の交差点である。昔はここには思川(おもいがわ)が流れていたが、今は暗渠になり交差点の名前として橋の名前が残っている。品川も鈴が森の刑場が近づいたところに、「泪橋(現在では浜川橋)」があったが、ここでも小塚原刑場を控えて家族が涙で見送ったのだろう。
少し先で、JR常磐線の貨物線のレールを跨ぐと、史跡小塚原刑場跡、延命寺と書かれた看板があり、中には刑死者を弔うため寛永元年(1741)に建造された石造りの大きな首切り地蔵と称する地蔵があった。
さらに、JR常磐線をのガードをくぐると、回向院がある。刑死者、行路病者の菩提を弔うために寛文7年(1667年)に建てられた寺とのことであるが、入口には「吉展ちゃん誘拐事件」で亡くなった吉展ちゃんを弔うため、ご両親が建てた「吉展地蔵尊」がある。日本で始めての身代金誘拐事件で、大きな反響を呼んだ。
最も奥まったところに「松陰二十一回猛士墓」と書かれた、吉田松陰の墓がある。二十一回猛士とは「生きてるうちに二十一回の猛を発する」という意味で松陰が自分で名づけたという。松陰の墓に到る通路の両側には安政の大獄で刑死した多くの尊王の志士の墓石があり、入口近くには226事件で銃殺刑となった磯部浅一とその妻登美子の墓もある。磯辺は吉田松陰を尊敬しており、松陰の近くに弔って欲しいと言っていたという。
鼠小僧次郎吉、片岡直二郎、高橋お伝、腕の吉三郎の墓も並んでいる。いずれも名うての悪人として名高い。
勤皇の志士を弔う大きな石碑も建てられている。
また、1Kmほど進むと、この辺り一帯の総鎮守である「素盞雄(すさのお)神社」がある。境内には芭蕉の「行く春や、鳥啼き、魚の目に涙」の句碑がある。
この神社の「獅子」は、なかなかの造りで立派である。
千住大橋を渡る。渡ると左側に小広場があり、「おくのほそみち矢立初めの碑」と書かれた石碑がある。
川べりに下りられるようになっていて、堤防には「おくのほそみち旅立ちの地」の表示と絵が描かれている。石碑の側には大きな「おくのほそみち行程図」が掛かっている。将来の辿る可能性も考えカメラのシャッターを押した。
千住大橋の少し先で、国道から旧日光街道が分かれるが、その入口に設けられているのが、「千住宿奥の細道プチテラス」と称するモニュメント。この千住宿で松尾芭蕉が奥の細道への旅立ちに際して初の句を詠んだのである。
そして、「やっちゃ場南詰」は見逃したが、「やっちゃ場北詰」の看板があった。「やっちゃ場」とは、セリの掛け声が「やっちゃやっちゃ」と聞こえたところから呼ばれたという。戦国末期からの青果市場で多くの店が街道沿いに並んでいたとのこと。
道路が美しい、千住仲町商店街の通りに入って行く。ちょうどお昼時であったので、近くの蕎麦屋に入り昼食とする。食べ終わり歩き始めると、「千住ほんちょう公園」で高札場の説明板があった。
進むと、江戸期の商家の様子を今に残す、横山家。NTTの工事車両が止まっているのが腹立たしい。さらに、印鑑を商う「御福堂」も古くて街道らしい建物だ。
千住新橋で荒川を渡る。流石に水量の多い大河である。橋を渡って左折し、善立寺を過ぎて右折して200mほど進むと、石不動尊のお堂があった。側に子育八彦尊道の石碑とお地蔵さんも祀られている。お地蔵さんは白い外套風のものをまとっている。
1Kmほど進むと、東武伊勢崎線の梅島駅である。その後1.5Kmほど進んで、島根二丁目の信号を左に入って行くと、「国土安穏寺」がある。開基は応永17年(1401)だが、秀忠、家光が、当地巡遊の折の御膳所となり寛永元年(1624)に現在の寺号を賜り、徳川家祈願所、位牌安置所となり、以後「葵御紋」の使用が許されたという。
街道に戻り400mほど進むと、鷲神社がある。酉の市、島根神代神楽、島根ばやしで有名とのこと。若い女性がお参りして、鳥居まで戻って再び深々とお礼をしているのを見かけた。このような丁寧なお参りをする人は珍しい。私もつられて2礼2拍手1礼。
その後の3Kmほどは、特に珍しいものも歴史的な遺構もなく、ただ歩を進めて行く。小さな流れの毛長川(けなががわ)を水神橋で渡ると、ここから埼玉県である。
2Kmほど進むと、「火焙り地蔵」がある。奉公に出ていた孝行娘が大病の母親にも会わせてもらえないので放火したら会えると思い放火して火焙りの刑に処されたという。後に放火の理由を知った村人たちが、そんな娘を哀れんで地蔵を置き弔ったと伝わっている。草加への道が続く。
1Kmほど進むと、草加市役所があり、その片隅に地蔵堂がある。江戸の豪商・浅古氏が子育て地蔵尊として祀った石造りの地蔵菩薩立像を安置したのだという。少し先には、やはり古い趣の家屋が見える。
まだ、午後3時であったが、今日はここまでと決めて、東武伊勢崎線の「草加駅」に向い、以前に何時乗ったか定かでない伊勢崎線で帰宅の途についた。