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2011.04.13

三ツ境から寒川

本日の万歩計29,335(19.1Km)・・・寒川まで

もう40年近く前になるが、三ツ境は、結婚して家内と住み始めたところである。もちろん、駅とその周辺も様変わりで、駅舎も洒落た形のビルになっている。
中原街道が、地下で相鉄線の下をくぐっている地点に向かい街道に復帰する。小学生の通学時間帯であるようだ。
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進んで「二ツ上橋」の交差点には、三つの古い石碑と「二ツ橋地名由来碑」が建っていた。由来碑には、「二ツ橋」の地名の由来となった2つの歌が書かれている。
相模野の 流れも わかぬ川水を 掛けならべたる 二ツ橋かな
                  道光親王 文明十六甲辰年十一月詠
しみじみと 清き流れの清水川 かけ渡したる 二ツ橋かな
                  徳川家康 慶長十八癸丑年十二月詠
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さらには、中原街道碑も立っていて、右 八王子往来 左 神奈川往来と書かれている。
中原街道は車の通行の激しい通りとして続いている。 
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1.5Kmほど進んで、下瀬谷二の交差点を過ぎると、右側に「宗川寺(そうせんじ)」がある。「寛永2年(1625)に富士重須本門寺第12世日賢上人開山、石川宗川開基」とある。山門をくぐったところに二本の銀杏があり、「夫婦銀杏」として昔から安産祈願の信仰を受けている」とのことだが、今は桜が目立つ季節である。その先で、境川を新道大橋で渡る。
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境川を渡ると、大和市である。進んで小田急江ノ島線の踏切を渡ると、左手に十一面観音像がある。昭和11年10月、深谷村の秋祭りと大和村小学校の運動会の帰途、村人の乗ったオート三輪と江ノ島行き電車が接触し11名即死2名重傷の大惨事となった。冥福と安全を願い、有志の浄財により十一面観音像が建立されたとのこと。
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引地川を渡ると、ここの川べりも桜が満開であった。その後は、厚木基地で旧中原街道は分断されている。それで、基地の柵に沿って進むことになる。
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よく晴れ渡った日で富士山もよく見える。綾瀬大橋入口交差点で左折して厚木基地と別れ、1Kmほど進むと、左に「大法寺」があり、深谷の交差点を渡る。
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その先の深谷交番前交差点脇に庚申塔群があり、不動明王像も安置されている。
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3Kmほどひたすら進むと、東海道新幹線のガードをくぐる。単調な道が続くが、時々は桜の花が彩りを添えている。
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用田の交差点には、不動明王が乗っている古い道標がある。風化が進んで刻印された文字は全く消えてしまっている。
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開発しつくされて、歴史的な遺構も失くなってしまった道を進むが、ときには下左の写真のように、植木屋さんの面白い塀に出くわしたり、右の写真のような老舗らしい和菓子の店があったりする。
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木蓮の花が青い空に映える。そして岡田西の交差点で、新しく整備された道に出会うこととなった。時間は早いがここで切り上げることにして、相模線寒川駅に向かった。改札口は線路を跨ぐ駅舎にあり、幸いにも5分ほどで茅ヶ崎行きの電車が入ってきた。
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2011.04.04

武蔵中原から三ツ境

本日の万歩計42,756(27.8Km)・・・武蔵中原まで

nakahara_01.jpg福島原発は、次々に新しい問題が発生して安定化に向けた作業が、遅々として進まない。
早く何とかならないかと、テレビにかじりついている訳にも行かず、中原街道歩きにでかけることとした。今日は、長年通い慣れた武蔵中原からである。もうリタイアした身にはあまり関係ないが、横須賀線の武蔵小杉駅ができ(南武線との乗り換えに歩く距離は長いが)自宅から楽に行けるようになった。
ともかく、南武線が高架になってから、駅の施設も全て上にあがり、外観からは駅としての主張は感じられなくなった。
街道に復帰して進むと、右側に大戸神社がある。祭神は手力雄命で1504年?1521年に創建したと伝えられる。狛犬が砲弾を抱いた姿で、神社の狛犬としては異色である。日露戦争を記念したものとのこと。
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武蔵中原駅に急ぎ足で向かう通勤の人々と逆方向に向かって、1Kmほど歩くと千年の交差点で、ここで右に上ってゆく旧道が残っている。旧道は300mほどで終わり車の往来の激しい新道に合流するが、また左に旧道が顔を出している。そして、道端に天照皇大神の大きな石碑と石仏が立っていて、古い街道を感じさせる。
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その後、また1Kmほど進むと久末(ひさすえ)の交差点で、ここから左に300mほど街道から離れて、妙法寺を訪ねた。天台宗の寺院で永禄5年(1562)開山。境内に元禄6年(1693年)重い年貢に耐えかねて久末村に起きた門訴事件の犠牲者供養のための久末の義民地蔵が安置され、毎年7月24日の地蔵盆の日に追善供養が行われている。
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街道に復帰して進み、第三京浜を潜ると、左手に「鎌田堂」が建っている。 由来碑によれば、堂の背後は鎌田兵衛正清の館跡でこの名がある。もとは観音像を安置していたが盗まれ、寛文13年(1673)に地蔵を建立した。寛永から安政(1624?1859)の頃には念仏道場として繁栄し、「道場坂」の名を残した。
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鎌田堂を過ぎ、向坂の交差点で右の旧道に入って行く。300mほど進むと、右手の石垣に階段があり、上に「のちめ不動尊」がある。ご本尊は不動明王像で、口伝によると甲州武田家の守り神であった由緒あるもので、修復時に天保2年卯月(1831)志村又右衛門源貞口「甲州出身の領主」の銘が発見されているという。文久4年のちめ城山の住人が八王子(武田遺臣居住地)から背負って勧誘したと言われていつとのこと。
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旧道は、車があまり通らないので大通りより、歩いていて気持ちが良い。しかし、700mほどで新道に合流すると、直ぐ右手に山田神社の真新しい石の鳥居が建っている。
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山田神社は、平安時代の創建と書かれていたが、由緒はあまりハッキリしないようだ。先の鎌田堂の鎌田兵衛正清の居城跡らしいとのことで、とにかく参道が長い。なお、鎌田兵衛は源義朝の家臣であったようだ。
下の右の写真は少し先にある「清林寺」で、境内の「シラカシ」が横浜市の名木古木に指定されている。
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早瀬川を勝田橋で渡り、200mほど進むと道は二股に分かれていて右側が旧道であるが、旧道は少し先で港北ニュータウンの造成で途切れているので左の新道を進む。
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少し進むと、右側に国の重要文化財に指定されている関家住宅がある。関家は後北条氏に仕えた地侍で、徳川時代は代々名主を務め、江戸末期には代官も兼ねたという。そして、22代当主の関恒三郎氏が今も居住されている。住居は非公開だが、年に一度は公開されているとのことである。
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本宅内部の詳細は分からないが、長屋門も立派で、使用人の居住に使われていたらしく、玄関まで付いている。
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関住宅を過ぎると、港北ニュータウンを初め、新しく開発された近代的な住宅ビル群が続く。この後、横浜市営地下鉄のガードを潜り(地下鉄の線路が郊外では高架になっている)、向原と、大塚原の交差点を通って進んで行く。ここから佐江戸の交差点までは、道路はほぼ真っ直ぐで、アップダウンしながら続いている。ベッドタウンとして開発されつくされたためか、歴史的な遺構も残っていない。
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4Kmほどひたすら歩いて、佐江戸の交差点の到達直前で右手に、東漸寺が現れた。お寺の立地数が少ないように感じる。佐江戸の交差点を通り過ぎて、地蔵堂前の信号に突き当たり右折して進むことになるが、ちょうどお昼時で、この近くのレストランで昼食を摂った。その後進むと、看板屋さんの前に東日本大災害の大きな応援看板が建てられていた。
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いよいよ落合橋で鶴見川を渡る。鶴見川は、この辺りでもあまり綺麗な流れとは言い難い状況である。
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少し進むと、横浜線を跨ぐ。宮の下の交差点を過ぎると坂道になり、上って行く。左に広々とした長坂谷公園があった。
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坂を上り詰めると、左にショッピングセンターもあり、賑やかな通りになる。進んでゆくと、右には四季の森公園があり、横浜動物園ズーラシアにつながる動物園入り口の信号もある。
そして、都岡町の交差点を過ぎると左に三蔦神社があり、参拝した。神社境内の桜は、まだ2分咲ていどであったが、街道に戻って先に進むと、花が小ぶりで種類が違うが美しく咲いているのも見られた。
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保土ヶ谷バイパスを潜ると、左に旧道への階段がある。予習してあったので、直ぐに分かったが、立て札もなく階段上も放置された道路の感じである。せめて案内板を設置するよう横浜市の教育委員会にはお願いしたいと思う。
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くねくねと続く旧道は、歩きよい道であるが特に撮影対象も見当たらず、西武病院入口の信号で新道に復帰する。進むと、車道、歩道ともに相鉄線をくぐって進んでいる。
まだ、二時半だが、今日はここまでと左折して線路際の道路を三ツ境駅に進み帰宅した。
コブシの花が、青い空に映えて美しく咲いていた。