2009.03.21
藤野から猿橋
本日の万歩計43,839(28.5Km)
昨年の12月13日からの久しぶり歩行である。3月に入ったら再開と考えていたが、週末は雨が多く、やっと歩くことが出来た。
藤野駅には8:22分着の電車で、先輩と待ち合わせ、8:30の出発となった。
出発して直ぐに左手の山の中腹に、前回よりも間近に「緑のラブレター」のモニュメントが見える。
今日は、空には雲ひとつ無い快晴で青い空が広がっている。
しばらく進んで、JR中央線を横断橋で横切り中央高速の下に設けられた歩道を過ぎると、増珠寺があったが早朝のためか境内への入口は閉じられていた。ここには寛政11年(1799年)当地関野に生まれた、力士追手風喜太郎が五具足・燭台などを寄贈した寺との案内板が建っていた。追手風は土俵を退いてからも年寄となり相撲会所の要職に着き、その部屋は現在まで続いていて 元立浪部屋の力士、大翔山が1998年から追手風親方として部屋を構えている。
増珠寺から600mほど進んで、名倉入口の信号機を見て国道20号線から右に離れ急な坂道を下りて行くと、境沢に架かった境沢橋がある。どうと言うことも無い橋だが、ここがかつての相模の国と甲斐の国の国境であったところである。少し進むと、相模湖の湖尻に架かる境川橋があり、ここが現在では神奈川県と山梨県の県境となっている。橋の上には「わかさぎ」釣りの人達が糸を垂れていた。「橋上での釣り禁止」の警告板が幾つもぶら下がっているのにである。
甲州街道は、この境川橋を渡らず、右にUターンして九十九折の急坂を上って行く。坂の終わりに近づいたところに、「甲州街道史跡案内図」があり、道路の反対側には「諏訪番所跡」の碑が建っていた。
街道としての面影はまるで残っていない道を進むと、諏訪神社があり、杉の大木が歴史を感じさせてくれた。少し進むと、右手に旧甲州街道の巨大な石碑があったが、「あいさつをかわす思いやりの道」とはいかにも現在の世相を反映した言葉に見える。
中央高速を下に見て陸橋を渡ると、「疱瘡神社」がある。ここは「塚場の一里塚跡」でもあり、江戸から17番目とのこと。疱瘡は今では死語になった感があるが、主に天然痘を指し、私の子供の頃は予防接種を受け、そのあとが上腕部に残っている。
この神社を過ぎると、上の原の市街地に入って行くが、ここも街道の雰囲気はほとんど残っておらず、本陣跡は「ホテルルートイン」とのことだが、何の表示も無い。しかし、上野原は「酒まんじゅう」が名物らしく何軒かの店があったので1軒の店で1つ買って食べながら歩いた。なかなか美味しかった。
さほど大きくない上野原の市街地区は直ぐに過ぎて、国道20号と分かれて500mほど進み、再び20号線と出会って、その上を陸橋で渡る。陸橋の上からはこれから進む「鶴川宿」がパノラマとなって望むことが出来る。
国道20号線を渡って、鶴川への道路を進み、大きくカーブしているところは、歩行者だけのショートカット通路を進み、鶴川橋に向かって進む。
鶴川橋を渡ると、「鶴川宿」の碑が建っており、ここから立派な家屋の多い静かな家並みが続く。
300mほどで街並みは終わるが、本陣跡も分からない。火災で宿が全て焼けたからだろう。家並みを過ぎて左に曲がり急坂を上る。さらに家屋がまばらになるが、石作りの立派な蔵があった。家の疎らな集落を700mほど進むと、中央高速にぶつかり、陸橋を渡って、大椚宿(おおくぬぎしゅく)に入って行く。
直ぐに、真新しい「大椚一里塚」の碑があり、静かな集落が続く。また、このあたりは、大きな敷地の片隅に、「二十三夜」や「馬頭観音」の石塔を多く見かけ、紛れも無くかつての街道を思わせてくれる。
少し進むと、右側に古い祠と石碑が現れ、椚宿発祥の地と書かれていた。「椚宿」は鶴川宿と野尻宿の間の宿かと思っていたが、距離的に間の宿を置く必要もない場所であることから、江戸期以前の古いの宿であったのであろうとのことである。少し進むと、「吾妻神社」があり、大きな杉の木が見えてきた。
吾妻神社には街道歩きにはありがたい公衆トイレもあり、階段をで上の台地に上ると、真新しいお堂が建っていた。まだ、賽銭箱もなく開眼の儀式もまだなのではと思われた。
この神社を過ぎると。道路の左側は広大な「オリンピックゴルフ場」が続き、500mほど進んだところに、「長峰砦跡」の碑があった。
武田信玄の家臣の加藤丹後守が、北条の侵入に備えるために砦を築いた場所であるが、中央高速の建設で、ことごとく損なわれたため、せめてもの思いで石碑を建てたとのこと。
長峰砦跡から500mほどで「野田尻宿」への高速を横切る陸橋がある。しかし、ここでは渡らず、そのまま500mほど進んだところの、中央高速のサービスエリアで昼食をとることにした。三連休の真ん中の快晴で、サービスエリアは大変混雑していた。昼食をとった後は、元の横断橋に戻り野田尻宿の方に進む。しかし、往復1Kmで途中は小峠を越えるような地形で体力の消耗も無視しえず、良い選択ではなかったと、いささか後悔するはめになった。
野田尻宿も静かな街並みで、歴史的な遺構は残っていない。明治天皇御小休所址の碑は、ここに本陣があったのだろうか。そして、鶴川宿と同じデザインの野田尻宿の碑が建っていた。
小さな宿で、直ぐに終わりになり、街道は左に曲がって進む。直ぐそばに「談合坂サービスエリア」があるが、隔絶され静かな時間がゆるやかに流れているように感じる。最後は「長嶋神社」で宿は終わる。
街道の道なりに左に曲がって行くと、西光寺の門前に「お玉ケ井」の碑がある。伝説に語られる女性はいつも美女であるが、「旅籠の恵比寿屋の美しい女中、実は竜が、長峰の池の主である竜神との念願の恋を実らせたお礼にと、水不足で悩む野尻宿の一角に、澄んだ水をこんこんと湧き出させた」という。正面にある「西光寺」は裕福なお寺と見え、立派な建物が林立している。
西光寺を右側に回りこんで行くと、高速道路に沿って急な上り坂になり、上りきったところに、石畳風の高速道路を跨ぐ歩道橋がある。渡って進むと、舗装の無い道路となり、杉林の中の進む道となるが、直ぐに県道30号に合流する。
県道に出て右折すると、向こうからご夫婦で歩いている方に出合い、何処まで行くのかお聞きすると、我々が出発した藤野までだという。右手の石垣の上には「荻野一里塚跡」の説明板があた。そして、また中央高速を横断橋で渡る。
渡ると直ぐに右に上って行く道があり、これが旧甲州街道である。入口には「矢坪坂の古戦場跡」の説明版が立っている。
細い上り坂を上って行くと、武甕槌(たけみかづち)神社入口の立派な鳥居前に到達する。既に上ってきた方が鳥居の根元で休んでいて、盛んに神社まで行って来ることを勧めるが、神社はかなり上のようであり、久しぶりの歩行で疲労も蓄積してきたのを感じていたので、寄らずに甲州街道を進むことにした。
神社を過ぎると、道は細く片側は崖になっていて、手すりがないと怖いと感じる道になる。「座頭転がし」の立て札もある。このような危険な場所にはよく「座頭ころがし」の名前が付いている。
細く険しい道が突然終わり、舗装道路に出ると、犬目宿の看板があった。犬目宿も山間の静かな宿で、上野原市の共通デザインの「犬目宿」の碑が、犬目宿直売所の前に設置されいた。何を売っているのかと覗くと、野菜、果物などで、休んで行ってとの声を聞き流しながら先に進む。
少し先には、犬目の兵助の生家の説明板があった。天保4年の飢饉に続いて天保7年(1836)の大飢饉がやってきて、各村の代表者は救済を代官所に願い出ても、聞き届けてもらえず、米穀商に穀借りの交渉をしても効き目はないので、犬目村の兵助と下和田村(大月市)の武七を頭取とした一団が、熊野堂村(東山梨郡春日居町)の米穀商、小川奥右衛門に対して実力行使に出た。一揆後、兵助は逃亡の旅に出るが、その『逃亡日誌』が残っていて、埼玉の秩父に向かい、巡礼姿になって長野を経由して、四国にまで渡り、更に伊勢を経ている。この間の人々の善意の宿や、野宿を重ねた1年余りの苦しい旅のようすが伺えるという。晩年は、こっそり犬目村に帰り、役人の目を逃れて隠れ住み、慶応3年に71歳で没してるとのこと。
そして、犬目宿の枡形になって直角に右折するところに、「龍澤山寶勝寺」がある。
直ぐ横には「空」と書かれた大きな球形のオブジェがあった。そして、進むと「君恋の一里塚」。ほぼ完全に残っているようで貴重だ。以前伝えられた裏側の崩落は、防止工事がなされていた。
急坂の下りで、膝や関節に痛みを感じるようになって、途中で休憩を取りながら下って行き、中央高速を潜ると、ようやく国道20号線にぶつかり、歩いて行くと「鳥沢駅」入口で、一里塚、鳥沢の表示杭が見つかった。
ここで、帰ることも考えたが、まだ3時であり、今日は何とか猿橋が見たいということと、次回の予定も考慮して、進むことにした。少し進んで国道20号線から右に分かれると、かなり古いと見られる水路の橋が見える。後で調べたら東京電力の水力発電所の放水路のようであった。
重い足を引きずり、2Kmほど国道を進み、ようやく右に逸れて「猿橋」にたどり着く。説明板があるが、7世紀に建てられたのではないかと推察されていて、当時、日本に渡来した百済の職人が、猿が藤蔓を伝って川を渡るのを見て作ったと言われ、戦国時代は戦略の要所であり、江戸時代に至っては文人墨客がここで杖を止めて多くの作品を残したと書かれている。現在の橋は昭和59年8月に架け替えが完了したもので、橋の長さは30.9m、橋の幅3.3m、川面まで30mで、総工費3億8千3百万円だったとのこと。紅葉の季節は渓谷美が殊更に彩られるという。
最後は、猿橋駅に向かって歩き、「三嶋大明神」の鳥居を右に見て、もう一歩も歩くのは嫌だとの感じで駅にたどり着く。
長いブランクの後の歩行で、かつ甲州街道を歩き始めて最も長距離の歩行で、厳しかったが、楽しい一日でもあった。