2007.09.15
藤川から池鯉鮒(知立)
本日の万歩計40,437(26.68Km)
前回の7月7日から約2ケ月半ほど経っての再開である。
今までは全て日帰りの歩行であったが、距離が遠くなったこと、3連休でもあることから途中1泊して宮の渡しまで行き、一気に愛知県を済ませてしまうことを計画した。
最も早く前回に終えた藤川の駅に到着する方法として、朝一番の電車で三島まで行き、三島から新幹線で豊橋、名鉄に乗り換えて藤川に9時ころに着いた。
豊橋からの名鉄が不便で時間が掛かる。快速特急、特急、快速急行などと、あまりにも種類の多い電車を走らせながら、各駅停車の普通の本数の少ないこと。
ともかく、無人の藤川駅に着き、地元の中学生5、6名と電車を降りて、前回離脱した十王堂の横で大きな芭蕉の句碑に遭遇した。
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と読むのだそうだが、寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものとのこと。 たしかに、藤川は紫麦で有名だったようで、今も見ることが出来るそうだが、見落としてしまった。
しばらく、行くと「吉良」への分岐(追分)に達する。左が「吉良」への道である。
「吉良」と言えば、忠臣蔵の吉良上野介の領地であったところであるが、職場で吉良出身者がいて、聞いたところ、吉良では吉良上野介は良いお殿様で、忠臣蔵の映画は地元では上映禁止だと言っていた。
吉良への追分を過ぎると、しばらくして藤川の松並木がある。岡崎市指定文化財とのことだが、なかなか良い感じの松並木だ。 そして、その後もこま切れではあるが、点々と松並木に遭遇する。
多少の松並木を残しながらも、とりたてて特徴の無い「美合」の町を過ぎ、「岡崎源氏蛍発生地」と言われる「乙川」に達する。発生地の碑があるとのことであったが、見つからなかった。
また、「乙川」は普段は川に設けられた木の板で渡れるようだが、雨が続いて増水していて、写真のようにとても渡れる状態でなく、国道に掛かる大平橋を渡ることとなった。
「乙川」を過ぎると、もう「岡崎」が近づく。 少し先には、「大岡越前守陣屋跡」があった。
大岡裁きで有名だが、ここ三河に1万石の領地をもらい大名となったが、江戸住まいで、この地に来ることはなかったとのこと。 門と塀は立派に復元されていたが、中は空き地であった。
直ぐに「大平の一里塚」があり、道路の反対側には立派な「常夜灯」が建っていた。こちらは昭和3年の道路工事で壊され、そのあとに「常夜灯」を設置したとのこと。
やがて、岡崎の27曲がりの入り口に達した。
冠木門と立派な石の案内板がある。 とても複雑に折れ曲がっている。これから地図と首っ引きでたどって行くことになる。
この27曲がりは、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が、入城して間もなく工事にとりかかったが、その理由は「家康の攻めに備えて」だったという。秀吉によって江戸という関東の田舎に追いやられてしまった家康の後釜に座ったので、家康にとっては恨みつらみもあり、田中吉政にしてみれば単身敵地に乗り込んだようなもので、いつ家康が攻めて来るかと気が気ではなかったのだろう。
27曲がりは、地元の努力もあって複雑なようでも、石碑が建っているところも多く、それほど悩むこともなく辿って行ける。途中で目だったものは、大正6年建造の「岡崎信用金庫資料館」。龍田総門跡などである。
27曲がりを辿って、やっと通り抜けたらお腹が空いて食事にした。これで、¥750-。安いわりにはボリュームたっぷりで満足である。 そして食事の注文が出てくる間に地図を眺めていて気が付いたのだが、27曲がりは「岡崎城」に近づけず、見ることもさせないで、通過させることを意図していることである。もう、岡崎城を見るために戻る気にもなれないが ・・・。
ともかく、食事を終えて、進むと「八丁味噌」の工場群があり、そのなかでも「カクキュー」は売店とともに工場見学をさせてくれる。売店は少し覗いたが、見学は1時間毎のようでスキップした。
「八丁味噌」の工場群を過ぎると、「矢作橋(やはぎがわ)」を渡ることになるが、工事中で橋手前の横断歩道も渡れなかった。また、写真で分かる通り架け替えの新しい橋桁が出来つつあり、コミカルな「蜂須賀小六」と「秀吉」の「出合之像」も移設されていて見られない。
矢作橋を過ぎて、5?600m進むと、乙川に身を投げた浄瑠璃姫(矢作の長者の娘)が眠る誓願寺があった。
浄瑠璃姫は、奥州に下る義経と結ばれるが、その後、義経から音沙汰が無いのを悲しみ身投げしたという。この物語が、独特の節回しの人形劇となり、この形の人形劇が浄瑠璃と呼ばれるようになったとのこと。
そして道路沿いの十王堂の内部は、十王の像より、背後の壁画の極彩色が素晴らしい。
うっかり通り過ぎてから、引き返し(100mほど)「永安寺の雲竜の松」を見に訪れた。
この松は「県指定天然記念物」とのことなので、「永安寺」も立派なお寺と思っていたのだが、本堂も鐘楼もほとんど崩れかけていて、放置されたお寺の感じであった。もう再興する意志もないのであろうか。
やはり、一月半のブランクは大きく、足が言うことを聞かない感じで、「来迎寺公園」の芝生に寝そべってしばらく休み、また気を取り直して歩き始めると、「来迎寺一里塚」があった。あとから、修復した一里塚であろうが、綺麗な一里塚だ。
ようやく、知立の松並木に達した。知立の並木の特徴は、松並木の外側にも通路があることで、これは馬を繋ぐためであったとか。また、双体のかわいい道祖神があった。
松並木の途中には、馬市の碑があり、裏に歌が刻まれていた。また、万葉の句碑もあった。
馬市句碑:
かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく
蝶つばめ 馬市たてし あととめて (麦人)
万葉の歌碑:
引馬野に にほふはりはら いりみだれ
衣にほはせ たびのしるしに
この辺りの地名は昔は、「引馬野」と呼ばれたという。
今日は、鳴海あたりまでと考えていたが、とにかく疲れる、ファイトが出ない、ペースが上がらない。知立で切り上げることにして、知立駅に向い、名鉄で今日の宿泊地の名古屋に向かった。