2007.09.15

藤川から池鯉鮒(知立)

本日の万歩計40,437(26.68Km)
前回の7月7日から約2ケ月半ほど経っての再開である。
今までは全て日帰りの歩行であったが、距離が遠くなったこと、3連休でもあることから途中1泊して宮の渡しまで行き、一気に愛知県を済ませてしまうことを計画した。
最も早く前回に終えた藤川の駅に到着する方法として、朝一番の電車で三島まで行き、三島から新幹線で豊橋、名鉄に乗り換えて藤川に9時ころに着いた。
豊橋からの名鉄が不便で時間が掛かる。快速特急、特急、快速急行などと、あまりにも種類の多い電車を走らせながら、各駅停車の普通の本数の少ないこと。
fujikawa_01.jpgともかく、無人の藤川駅に着き、地元の中学生5、6名と電車を降りて、前回離脱した十王堂の横で大きな芭蕉の句碑に遭遇した。
「ここも三河 むらさき麦の かきつばた」と読むのだそうだが、寛政五年(1793)に西三河の俳人が再建したものとのこと。 たしかに、藤川は紫麦で有名だったようで、今も見ることが出来るそうだが、見落としてしまった。
fujikawa_02.jpgしばらく、行くと「吉良」への分岐(追分)に達する。左が「吉良」への道である。
「吉良」と言えば、忠臣蔵の吉良上野介の領地であったところであるが、職場で吉良出身者がいて、聞いたところ、吉良では吉良上野介は良いお殿様で、忠臣蔵の映画は地元では上映禁止だと言っていた。
fujikawa_03.jpg吉良への追分を過ぎると、しばらくして藤川の松並木がある。岡崎市指定文化財とのことだが、なかなか良い感じの松並木だ。 そして、その後もこま切れではあるが、点々と松並木に遭遇する。
fujikawa_04.jpg多少の松並木を残しながらも、とりたてて特徴の無い「美合」の町を過ぎ、「岡崎源氏蛍発生地」と言われる「乙川」に達する。発生地の碑があるとのことであったが、見つからなかった。
また、「乙川」は普段は川に設けられた木の板で渡れるようだが、雨が続いて増水していて、写真のようにとても渡れる状態でなく、国道に掛かる大平橋を渡ることとなった。
fujikawa_05.jpg「乙川」を過ぎると、もう「岡崎」が近づく。 少し先には、「大岡越前守陣屋跡」があった。
大岡裁きで有名だが、ここ三河に1万石の領地をもらい大名となったが、江戸住まいで、この地に来ることはなかったとのこと。 門と塀は立派に復元されていたが、中は空き地であった。
直ぐに「大平の一里塚」があり、道路の反対側には立派な「常夜灯」が建っていた。こちらは昭和3年の道路工事で壊され、そのあとに「常夜灯」を設置したとのこと。
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やがて、岡崎の27曲がりの入り口に達した。
冠木門と立派な石の案内板がある。 とても複雑に折れ曲がっている。これから地図と首っ引きでたどって行くことになる。
この27曲がりは、豊臣秀吉の家臣の田中吉政が、入城して間もなく工事にとりかかったが、その理由は「家康の攻めに備えて」だったという。秀吉によって江戸という関東の田舎に追いやられてしまった家康の後釜に座ったので、家康にとっては恨みつらみもあり、田中吉政にしてみれば単身敵地に乗り込んだようなもので、いつ家康が攻めて来るかと気が気ではなかったのだろう。
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27曲がりは、地元の努力もあって複雑なようでも、石碑が建っているところも多く、それほど悩むこともなく辿って行ける。途中で目だったものは、大正6年建造の「岡崎信用金庫資料館」。龍田総門跡などである。
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27曲がりを辿って、やっと通り抜けたらお腹が空いて食事にした。これで、¥750-。安いわりにはボリュームたっぷりで満足である。 そして食事の注文が出てくる間に地図を眺めていて気が付いたのだが、27曲がりは「岡崎城」に近づけず、見ることもさせないで、通過させることを意図していることである。もう、岡崎城を見るために戻る気にもなれないが ・・・。
ともかく、食事を終えて、進むと「八丁味噌」の工場群があり、そのなかでも「カクキュー」は売店とともに工場見学をさせてくれる。売店は少し覗いたが、見学は1時間毎のようでスキップした。
fujikawa_12.jpgfujikawa_13.jpgfujikawa_14.jpg「八丁味噌」の工場群を過ぎると、「矢作橋(やはぎがわ)」を渡ることになるが、工事中で橋手前の横断歩道も渡れなかった。また、写真で分かる通り架け替えの新しい橋桁が出来つつあり、コミカルな「蜂須賀小六」と「秀吉」の「出合之像」も移設されていて見られない。
矢作橋を過ぎて、5?600m進むと、乙川に身を投げた浄瑠璃姫(矢作の長者の娘)が眠る誓願寺があった。
浄瑠璃姫は、奥州に下る義経と結ばれるが、その後、義経から音沙汰が無いのを悲しみ身投げしたという。この物語が、独特の節回しの人形劇となり、この形の人形劇が浄瑠璃と呼ばれるようになったとのこと。
そして道路沿いの十王堂の内部は、十王の像より、背後の壁画の極彩色が素晴らしい。
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うっかり通り過ぎてから、引き返し(100mほど)「永安寺の雲竜の松」を見に訪れた。
この松は「県指定天然記念物」とのことなので、「永安寺」も立派なお寺と思っていたのだが、本堂も鐘楼もほとんど崩れかけていて、放置されたお寺の感じであった。もう再興する意志もないのであろうか。
やはり、一月半のブランクは大きく、足が言うことを聞かない感じで、「来迎寺公園」の芝生に寝そべってしばらく休み、また気を取り直して歩き始めると、「来迎寺一里塚」があった。あとから、修復した一里塚であろうが、綺麗な一里塚だ。
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ようやく、知立の松並木に達した。知立の並木の特徴は、松並木の外側にも通路があることで、これは馬を繋ぐためであったとか。また、双体のかわいい道祖神があった。
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松並木の途中には、馬市の碑があり、裏に歌が刻まれていた。また、万葉の句碑もあった。
馬市句碑:
    かきつばた 名に八ツ橋の なつかしく
       蝶つばめ 馬市たてし あととめて
   (麦人)
万葉の歌碑:
    引馬野に にほふはりはら いりみだれ 
              衣にほはせ たびのしるしに

この辺りの地名は昔は、「引馬野」と呼ばれたという。
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今日は、鳴海あたりまでと考えていたが、とにかく疲れる、ファイトが出ない、ペースが上がらない。知立で切り上げることにして、知立駅に向い、名鉄で今日の宿泊地の名古屋に向かった。

2007.09.16

池鯉鮒(知立)から宮

本日の万歩計41,630(27.43Km)
昨日は疲れて、9時頃には寝たので、5時に目覚め5時30分にホテルを出て、名古屋の金山駅に向かうと、駅に着く直前で激しく雨が降ってきて、今日の多難を予感させた。ともかくコーヒーで簡単な朝食をとり、名鉄で知立に向かうが、知立駅に着いたときは、今にも降りそうな空模様だが、ともかく雨は止んでいた。
歩き始めに雨が降っていると気勢をそがれるので、まずは良かった。
最初に出くわしたのは、知立城跡。いまは子供の遊び場の小公園になっている。そして、突き当たりに、了運寺。階上が鐘楼になった門が珍しい。
chiryu_01.jpgchiryu_02.jpgchiryu_03.jpg知立神社に立ち寄ろうとして、横道にそれて行くと、知立公園があり、明治神宮からいただいたという「花菖蒲」が一面に植えられていた。明治天皇ならびに昭憲皇太后御遺愛の名品種が60種類あるとのこと。開花期にはさどかし綺麗だろうと思われる。
chiryu_05.jpgそして、知立神社。当日の午後3時からお祭りのようで、鉢巻を締めた若衆が大勢詰め掛けていた。
多宝塔も、美しい曲線を見せ、「池鯉鮒」の語源となった太鼓橋の架かった池が見える。水が富栄養化しているためか、黄緑色に濁っていて池の鯉が可哀想だ。何とかする必要があるのではなかろうか。
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次に家康の側室の「お万の方」の生誕地といわれる「総持寺」があった。境内には「水子地蔵」があり、地蔵に水を掛けると、「水琴窟」になっていて、綺麗な音がかすかに聞こえるようになっていた。
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そして、「逢妻橋」を渡ると、しばらくして国指定史跡の「阿野一里塚」。
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阿野の一里塚を過ぎて以降は、尾張と三河の境に架けられた「境橋」以外は、さしたるイベントもなく、ひたすら「中京競馬場駅」に向かって歩き続ける。
駅に近づくと「桶狭間の古戦場」があり、小公園になっていて「今川義元の墓」もある。
今川義元の墓というと、「鳴海城」に陣取って頑張っていた今川家臣の岡部元信が信長に城を明け渡して首を返してもらい、駿河に持ち帰り、雪斎が住職であった、今川家菩提寺の臨済寺に葬ったので、こちらが本当の墓所で桶狭間は、残された首の無い胴体を葬ったのであろうと思っていた。
しかし、義元の胴体は家来が持ち帰ろうとしたが、腐敗が進み三河国宝飯郡(愛知県豊川市牛久保町)の大聖寺に胴塚として埋葬され、いまも胴塚は存在する。
また、墓所も豊明市の高徳院、東京都杉並区の観泉寺にもある。この古戦場、臨済寺と合わせると4ケ所となり訳がわからない。
chiryu_10.jpgchiryu_11.jpgchiryu_12.jpg古戦場跡の公園の隣には「高徳院」と言うお寺があり、こちらも今川義元本陣跡、古戦場跡と宣伝されていた。
このお寺は弘法大師の建立とのことだが、国道には派手な案内板、山門の派手さからあまり良い印象をもてなかったが、境内に入ってみると落ち着いた雰囲気のお寺であった。

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桶狭間を過ぎて、しばらくして国道を過ぎり、有松に入って行く。鳴海の宿の手前1里の有松村は尾張藩の保護を受けた有松絞りで栄えたところで、立派な構えの家が多く、町並みの保存地区でもある。
この、絞りは現在にも続いていて、今も絞りで作った衣料品を扱う店があり、問屋も存在する。また、軒先に「ありまつ」の暖簾を掛けることを統一して行っているようだ。
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有松を過ぎて進んで行き、扇川に架かる中島橋を渡って鳴海の宿に入る。
まず最初に、みごとな建築の瑞泉寺。そして、芭蕉供養等のある誓願寺。
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瑞泉寺の前を通って少し坂道を上った右側に鳴海城跡がある。今は、鳴海城の守り神であった天神社となっている。ここにも芭蕉の「京までは まだ中空や 雪の雲」の句碑があった。
chiryu_23.jpgchiryu_24.jpgchiryu_25.jpgその後、しばらく特徴の無い町並みを進み、「本笠寺」が近づいたとき「笠寺一里塚」に出会った。
とても立派な一里塚であった。中心に植えられた榎の木はうろが出来、元気がなくなっていたのを地元で200万円掛けて、穴をふさぐ施術を行い、蘇ったのだという。確かに樹勢も強く、一杯に葉を茂らせている。
しばらく進むと、まず正面に多宝塔が見えてきたが、玉照姫で有名な笠寺観音である。当日はお祭りで境内には屋台も出て賑わっていた。
寺の由来を簡単に紹介すると、笠寺観音はもと小松寺といい、天平五年(733)浜に流れ着いた霊木に僧禅光が十一面観音像を刻み、小堂を建てて安置したことに始まる。その後荒廃し、観音像が雨露にさらされているのを見た土地の娘が自らの笠をかぶせた。このとき、通りかかった藤原兼平が雨に濡れて立っている美しい娘を見て、訳を聞きその優しさに心を打たれて都に連れ帰り妻とする。この後、彼女は玉照姫と呼ばれるようになる。
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笠寺観音には、本堂以外に美しい多宝塔、藤原兼平、玉照姫夫婦のお堂などなど沢山のお堂があり、宮元武蔵の碑まである。
それにしても、関白藤原基経の息子の兼平が、名も無い娘であった玉照姫の付属品扱いなのが面白い。
chiryu_29.jpgchiryu_28.jpgchiryu_30.jpgさすがに、お腹が空いてきた。今日の食事は¥980-の蕎麦、天婦羅定食だ。やはり、この値段でこのボリュームはお値打ちだ。味もなかなか美味しかった。
chiryu_31.jpg いよいよ名古屋市街に入ってきた。伝馬町のアーチ状の飾りにも旧東海道の文字が入っていて、ここが、かつての東海道のメインストリートであることを主張している。それにしても車の走る大通りと較べて、なんと静かなことか。雨が激しく降ってきたが、10分ほどで止んだ。
そして、終に「七里の渡し跡」に到着した。常夜灯と時の鐘の鐘楼が建っている。時間は午後3時近くだった。
東屋のような休憩所も建っていて、街道歩きの人達が5人ほどが、たどり着いた感想などを述べながら歓談していた。残念ながら「七里の渡し跡」がある「堀川」は、汚染が酷く少し匂う。
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日本橋を出発して、やっとここまで来た。京がぐっと近づいた感じがした。
しかし、先にも述べたが2ケ月半のブランクと2日連続の歩行は厳しいものがあった。お昼には着けると思っていたが、だいぶ遅れた。もう、駅の階段の上り下りも辛い状態であった。 なんとか地下鉄で名古屋駅に辿り着き、新幹線の新横浜停車の「のぞみ」16:04発で帰宅の途についた。

2007.09.22

桑名から庄野

今日の歩行距離(32Km:万歩計を忘れ推計値)
今週も3連休なため、旧東海道歩きに出かけることにし、新横浜6:13分の新幹線「のぞみ」で名古屋に向い、その後、関西本線で桑名に向かって8時10分に桑名に到着する。
桑名には、明治に日本一の地主王となった諸戸清六氏が自宅、庭園を市に寄贈した「六華苑」があり、以前同じ職場に諸戸で[清]の字まで受け継いだ知人がいたので、訪れることにした。
しかし、まだ、8時30分で開園していなかったが、入り口のくぐり戸を押すと、開いたので、そっと鹿鳴館の設計者で著名な英国人ジョサイア・コンドル氏の設計による洋館を写してきた。
kuwana_001.jpgkuwana_002.jpgkuwana_003.jpg長良川の堤防に出ると、長良川河口堰が銀色の輝きを見せ、空も快晴で、今日も暑くなることが予感される。
堤防を南に進むと、「七里の渡し跡」に行き着く。宮の「七里の渡し跡」よりずいぶんと小さいが、かつては伊勢参りの旅人も到着して、大いに賑わったのであろう。
ちなみに、ここの鳥居は伊勢神宮の一の鳥居である。

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少し進むと、「諏訪神社」の青銅の鳥居がある。当初鳥居は木造であったが、大風で倒壊し、寛文七年(1667)、松平定重によって再建された。桑名は江戸時代から鋳物業が盛んで、この鳥居も町内の鋳物師の辻内善右衛門に命じて建立された。慶長金で250両掛かったと言う。高さ6.9m、柱の回り57.5cm、街道脇にあって街道随一の青銅の鳥居として旅ゆく人々にその威容を誇っていた。
その後も再三災難に会い、伊勢湾台風でも船が衝突し倒壊した。その疵は今も残っている。その度に辻内家で何時も修復しているとのこと。
また、「勢州桑名に過ぎたるものは銅の鳥居に二朱の女郎」と脇本陣の石碑に刻まれていたという。
鳥居の左側には、「志類べ以志」と刻まれた石標が立っていて、右側にに「たづぬるかた」、左側には「おしゆるかた」と刻まれている。
「しるべいし」は「迷い児石」とも呼ばれ、迷子や行方不明の人を捜すための掲示板の代わりをした石標である。「たづぬるかた」面に尋ね人の特徴を書いた紙を貼りだし、心当たりのある人が「おしゆるかた」面へ、その旨を記した紙を貼るようにしたとのこと。
道路の右手の三之丸堀沿いには、東海道53次を模した小公園があり、写真は日本橋を模したものである。
突き当たって左折すると、「桑名市博物館」があり、見学したかったが、まだ開園していなかった。
大きい通りを渡り一つ先の通りを南に向かって進むと、寺町という通りがあり、その名の通り分譲宅地をお寺さんの団体が買い占めたかと思いたくなるほど寺が並んでいる。主な寺を次に示すが、左から右に、上から下に向かって、
「教宗寺」、「光徳寺」、「十念寺」、「壽量寺」、「天武天皇社」(これは寺ではなく神社)、「善西寺」である。
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ようやく、寺町を抜けて「員弁川(いなべがわ)」に架かる「町谷橋」を渡る。その後進んで、近鉄名古屋線を「伊勢朝日駅」のそばでよぎり、東芝の三重工場前を通り過ぎたところに「浄泉坊」と言う名のお寺があった。
立派な門構えと思ったら、徳川家に縁のある桑名藩の奥方の菩提寺であったという。山門や瓦に三つ葉葵の紋が入っており、参勤交代で表を通る大名もこの門前で駕籠から降りて一礼をしたといわれている。
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その後、特に特徴の無い街道を進み、朝明川を渡って、山峡鉄道とJR関西本線の交差点を通過し、再び近鉄名古屋線のガードを潜ると、「富田の一里塚跡」があった。石碑のみが、ぽつんと建っていた。
その後も、取り立てて特徴の無い町並みを進むが、近鉄「阿倉川駅」の近くで国道に合流する手前で、とても立派な常夜灯があり、今も電球が付けられ機能しているようであった。
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四日市の市街への入り口の海蔵橋を渡る手前に、三ツ谷の一里塚跡の立派な石碑がった。そして、海蔵橋を渡る。
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空腹を感じるようになり、道端の食堂に入り天婦羅蕎麦定食を頼むが、今日ははずれであった。天婦羅も蕎麦もいまいち。 相当に空腹でも、美味しいと感じなかった。まぁー、こう言うときもあるだろう。
そして、いよいよ、三滝橋を渡る。広重の描く三滝橋は、板を並べただけの粗末な橋だが、今は広重もびっくりの綺麗で立派な橋だ。
kuwana_021.jpgkuwana_022.jpgkuwana_023.jpg四日市と言えば、「諏訪神社」が一番大きな神社。大きい神社ではあったが、あまりしっくりしない気がした。これほど大きな神社でもお参りに訪れるひとは多くないのであろうか。
そして、その神社脇から続く旧東海道がアーケードになっているのには驚いた。

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kuwana_026.jpg鹿北橋を渡ると、いいよ日永の追分が近づく。橋を渡ると、天照大御神を祀る「大宮神明社」がある。天照大御神を伊勢の地にお遷しする際にこのお社に一時お留まりになったという伝えもあるとか。
kuwana_027.jpgそして、いよいよ日永の追分が見えてきた。この追分では今でも神水と言われる水が豊富に湧き出しており、近所の方がポリタンクを持って汲みに来ている。水質検査でも飲料水として全く問題ないとのこと。実は、この少し前で飲み水が無くなり、スポーツ飲料でも140円ぐらいなのに、単なる水で150円とは、ぼり過ぎだと思いながらも、買ったところであった。こういうことなら買うのではなかったと思った。水を汲みに来たおじさんが、とにかく飲んでみろと言うので、飲んでみると軟らかい感じの良い水であった。
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内部橋を渡って「采女(うぬめ)」という地名に入って行く。「采女」とは元来、豪族の娘などで天皇に食事を出すなどの世話をする女性で地位は低いが、美人であることが要求されたという。三重県は美人が多かったのであろうか。地位が低いとは言っても、才識兼備で気に入られて、高い位に上る例もあったとのこと。
kuwana_030.jpgそれはさておき、「采女」では、日本武尊が、あまりの急坂で剣を杖の代わりにしたという「杖衝坂」という急坂がある。芭蕉もここを馬に乗って通りかかったとき、鞍ごと落馬して、
「歩行(かち)ならば 杖突坂を 落馬哉」の句を読み、石碑が残っている。芭蕉の句で季語の無い句として有名である。

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「杖衝坂」は急でも短い坂で、上りきったところに「血塚社」という小さな神社がある。ここは日本武尊が怪我をした足の血止めをした場所と言われる。その後、旧街道は国道1号線に合流し、しばらくして分岐して「石薬師」の宿に至る。
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「石薬師」はそれほど大きな宿ではない。静かな宿の通りを進んで行くと、「石薬師小学校」の校庭の隅に「佐佐木信綱」の記念碑が建っていた。佐佐木信綱と言えば、「夏は来ぬ」、
うの花のにおう垣根に、時鳥(ほととぎす) 
早もきなきて、忍音(しのびね)もらす 夏は来ぬ

・・・・ 懐かしい。
なお、苗字は本来「佐々木」と記したが、信綱が訪中の折、中国には「々」の字が存在しないことを知ったため、それ以後は「佐佐木」と改めたとのこと。
写真の後ろの建物は、信綱が還暦の記念に「石薬師文庫」として寄贈したものである。
小学校の校庭の隅の記念碑、石薬師文庫と並んで信綱の生家および佐佐木信綱記念館があり、色々な遺稿や信綱が愛用した道具類を見ることが出来る。
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静かな通りが続くが、街の終わり近くに「石薬師宿」の呼び名の元になった、「石薬師寺」がある。庭の手入れが行き届いており、清々しい感じの良いお寺であった。
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いよいよ、「石薬師の宿」から離れるが、石薬師の一里塚跡があり、植えられた木が既に大きく育っていて、すずめの鳴き声が喧しく聞こえていた。
そして、合流した国道1号線を通って、また別れて旧街道に入ってゆくと、「庄野の宿」の案内の石碑が建っていた。
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「庄野」は本当に小さな宿で、入ってゆくとすぐに本陣跡の碑。
今日はここまでとして、鈴鹿川を渡って、予約したホテルに向かって痛い足を引きずるようにして歩いて行った。
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2007.09.23

庄野から土山

今日の歩行距離(31Km:万歩計を忘れ地図を使った計測値)
suzuka_001.jpg23日の朝食は、ホテルのバイキングで済ませ、7時過ぎに出発した。鈴鹿川の河川敷では熱気球の愛好家たちが、既に活動していた。空は曇りで、昨日よりは涼しいであろうと期待された。
suzuka_003.jpg歩き始めて、昨日離脱した庄野の本陣跡に向い、その後バイパスと国道1号線で分断された街道を複雑に進んで、中富田に達すると、ブナ科の「スダジイ」と呼ぶ珍しい木の大木があった。幹の周り5mとのこと。
suzuka_005a.jpg進んで行き、人家の絶えるあたりに、「従是東神戸領」の境界石と大きな石碑があった。
石碑の字は読めないが、以下のような言い伝えが残っている。
 
 鈴鹿川と安楽川の合流するあたりの左岸、汲川原ではしばしば水害に見舞われ、人命が失われることも多かった。村人たちは堤防を築くことを神戸藩に願い出たが、堤防を造ると対岸の城下町が水害に見舞われるようになるとして許可しなかった。「禁を破った者は打ち首」という。「男たちが打ち首になったのでは村が全滅する」と、村の女性たちが立ち上り、200人余の女性たちだけで工事をはじめた。6年かかって堤防は完成したが、やがて藩主の耳に入った。処刑者を出すところであったが、家老が身をもって諌めたため、女性たちに逆に金一封を送り功績を称えた。この堤防を人々は「女人堤防」と言い伝えた。今から180年ほど前の出来事である。

しかし、6年もかかって、その間藩主の殿様が気がつかなっかた筈がなく、村人が困っているのを承知していたが、対岸の手前もあり、表立って許可する訳にも行かなかったが、出来てしまったものは仕方が無いと、家老が身をもって諌めるという芝居をうったのではなかろうか。
そうでなければ、許したとしても金一封を送る訳がないと思うのである。
やがて、中富田に入ると「中富田一里塚跡」。
和泉橋を渡り、さらに進んで行くと、旧東海道を歩いているとよく目に付く「ひげのお題目」がある。
これは、日蓮宗の信者 谷口法春の子法悦が願主となり、「東海道刑場供養塔」として建てられたもので、天長地久、国土安穏を祈願したものとのこと。
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和田町に進むと、「和田一里塚」があるが、明らかに近年に作り直したもの。それでも、植えた木は、かなり大きく成長している。そして、しばらく進んで道の左側に国内市場占有率5割の「カメヤマローソク」の工場。
伊勢神宮の宮大工の棟梁だった初代社長 谷川兵三郎氏が引退後も何か神様につながる仕事をしたいと願い、ローソク会社を興したという。
初めは神仏用の洋ローソクの会社だったが、昭和12年にアートキャンドルを始め、海外へも輸出、世界にカメヤマキャンドルの名を広めた。結婚式などでお馴染みのスパイラル型のキャンドルなどはこの頃この会社で開発されたものだという。引退後の仕事で世界的な企業になってしまうというのもすごい。
suzuka_009.jpgsuzuka_010.jpgsuzuka_011.jpg亀山の宿に入ると、各戸の家の前に、江戸時代に何の商売を行っていたかを示す木札が付けられている。個人の家にも公共の建物にも付けられている。これは、亀山の宿を過ぎて「関宿」に入っても続いている。
何とか、江戸時代の情緒を出したいとの努力の現れであろうか。
道路の作りも整備されていて、訪れた旅人が歩くのに良い雰囲気に浸れるように気を使っている。
そして、梅厳寺は写真では明らかでないが、寺の左が落ち込んだ地形になっていて、安藤広重が描いた場所といわれている。
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「亀山の宿」の街並みは、まだまだ続くが、やがて「野村の一里塚」がある。ここのエノキの木は立派である。これほど立派なのは、他には富士川の一里塚ぐらいではなかろうか。
suzuka_015.jpgsuzuka_016.jpgsuzuka_017.jpgそして、参道の長い「布気皇館太神社」。
その後、関西本線を跨いで越し、国道1号線と東名阪神のガードを潜って、鈴鹿川の堤防をたどる道を延々と歩く。再び関西本線にぶつかり、踏切を渡って、左折し「関宿」の入り口に達する。
関宿の入り口を入って、直ぐに「関の小萬のもたれ松」の案内板があった。案内板によれば、
江戸も中頃、九州久留米藩士牧藤左衛門の妻は良人の仇を討とうと志し、旅を続けて関宿山田屋に止宿、一女小萬を産んだ後病没した。
小萬は母の遺言により、成長して三年程亀山城下で武術を修業し、天明三年(1783)見事、仇敵軍太夫を討つことができた。
この場所には、当時亀山通いの小萬が若者のたわむれを避けるために、姿をかくしてもたれたと伝えられる松があったところから「小萬のもたれ松」とよばれるようになった。

とあった。
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古い街並みがよく保存されていて、観光客も多い道を歩いて行くと、「関宿」の守り神の「関神社」があった。
空腹を感じ、やはり古い感じの建屋の食事処で食事をした。
歩いて行くと、郵便局の前が高札場で、郵便局そのものも街の雰囲気を壊さない装いの建物であった。
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途中の休憩所に立ち寄ると、2階から街を眺められるところがあり、また違った視点で興味深かった。
郵便局の向い側は、和菓子屋さんの深川屋、服部家があり、瓦屋根の付いた立派な看板が出ている。こういう看板を「庵看板」というのだそうだが、看板の文字は江戸側は「関の戸」、京側は「関能戸」と書き分けられている。旅人が向う方向を間違わないための工夫という。
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観光客の多い、賑やかな通りも終わりに近づいたころ、「福蔵寺」があり、関宿の東の入口に「関の小萬のもたれ松」の案内板があったが、その小萬のお墓がこのお寺にある。
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大きな神社仏閣の最後は、「関の地蔵に振袖着せて奈良の大仏婿に取ろ」の俗謡で名高い「地蔵院」である。
天平13(741)年、奈良東大寺で知られる行基菩薩が、諸国に流行した天然痘から人々を救うため、この関の地に地蔵菩薩を安置したと伝えられる。日本最古の地蔵菩薩で、関に暮らす人々に加え、東海道を旅する人々の信仰も集め、全国の数あるお地蔵様の中でも最も敬愛されていると言われている。境内の本堂、鐘楼、愛染道の3棟の建物は国の重要文化財に指定。ここを過ぎると、観光客は激減するが立派な街並みは、まだまだ続く。
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鈴鹿峠への道を進んで行き、国道と合流し、再度分岐して進むと、鈴鹿川を渡るが、この辺りでは、庄野辺りの広い河川敷が嘘のような小川になっている。そして、常夜灯が旧東海道であることを示してくれているようで心強い。

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suzuka_034.jpg国道を歩いていると、突然有名な「筆捨山」の看板があった。見ると、何のことは無い山に見えるが、
「東海道名所図会」には次のように記されているそうだ。
一の瀬川の辺にあり。海道の左の方は、麓に八十瀬川を帯びて、山頭まで所々に巌あり。その間々みな古松にして、枝葉屈曲にして作り松のごとし。本名は岩根山という。里諺にいわく、狩野古法眼(狩野元信)東国通行の時、この山の風景を画にうつしてやと筆をとるに、こころに逮(およ)ばず、山間に筆を捨てしとぞ。
いまは、木が茂り岩が隠れて平凡な山に見えるようになったとのことだが、これほど期待外れの山も珍しい。
suzuka_036.jpgやがて、鈴鹿馬子唄会館に到着。案内板によると鈴鹿馬子唄は、
坂は照る照る鈴鹿は曇る
あいの土山雨が降る
馬がものいうた鈴鹿の坂で
お参女郎(上臈)なら乗しょというた

と続く。
ここに、到着するまでは今日はここでバスを待ち引き返すか、坂下まで足を伸ばして引き返すかと考えていた。
実は、昨日から左右の足に豆が出来、手当てしたが相当痛く、特に休んだ後で、歩き始めると、しばらく馴染むまではゆっくりしか歩行できない状態で相当酷い。
ところが、馬子唄会館のおじさんと話していて、まだ、これからなら鈴鹿峠を越えられる。越えて土山に着けば「貴生川」へのバスもあると言うのを聞き、その気になった。時刻は、2時8分であり、2時間半ほどで行けるでしょうと言われ、ゆっくり行っても着けると考え出発した。
鈴鹿馬子唄会館の右側に急坂が続いていて、日本橋から京都三条大橋までの各宿場名の書かれた杭が道端に建てられている。
suzuka_037.jpgほどなく、「坂下の宿」に着く。江戸時代は難所の鈴鹿峠をひかえ、一息入れる大名行列や、旅人達で賑わったという「坂下宿」も今では戸数も減り、何でもない寒村の状態にまで後退してしまっている。これも時代の流れであろう。
坂下宿を通り抜けて国道と合流する地点に岩屋観音がある。鉄の扉が設置されているが、鍵は掛けられていないので自由に中に入れる。中は別世界で樹木に覆われ、お堂の左には滝も流れていて、とても涼しい。
お堂は、旅人の道中安全を祈願し、高さ18メートルの巨岩に石室を作り、阿弥陀如来・十一面観音・延命地蔵の三体が安置されてるとのこと。
滝からパイプで水が引かれている。飲んでみると、美味しい水で鈴鹿峠を越すための水を補給するには最適であった。
suzuka_038.jpgsuzuka_039.jpgsuzuka_040.jpg騒音のけたたましい国道から早く逃れたいと思いながら歩き、「片山神社」の石碑がある分岐点に達した。
直ちにコンクリートで舗装されているが、樹林帯の涼しく清々しい道になる。

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suzuka_043.jpgほどなく、片山神社に到着するが、本堂はさらに急な階段の上で、足の痛みもありスキップすることにして、写真で本堂の方を写して、左の方の道を進むが、これが後ほど大間違いであったことが分かる。
滑り止めの切れ目を入れたコンクリートの急坂を上ると、直ぐに国道1号線に出たが、次にどう進んで良いか分からない。地図を良く見ると、先ほどの片山神社を通り抜けて進めばもう少し上のほうで国道を横切り歩道が続いているようである。 引き返す元気も出ないので国道に沿って上って行き、片山神社からの道が国道と交差する地点を目指す。しかし、歩道は国道の下を潜っていて、国道から降りる手段がない。
国道の向こう側を見ると小広場になっていて、そこからさらに上るようになっているようだが、国道を渡るための信号がないのは当然としても、国道はガードレールで歩道からは閉じられている。
考えても仕方が無いので、リスクを冒すことにして、ガードレールの継ぎ目の隙間から、車の途絶えるのを見計らって一気に駆け抜けた。
小広場には芭蕉の句碑もあり、
「ほっしんの 初(はじめ)に越える 鈴鹿山」   芭蕉
とあった。
suzuka_044a.jpgルート案内板もあったが、東海道遊歩道と書かれており、これから上るルートが赤い線で描かれているが、鈴鹿峠から先は大きく右にカーブして切れているような描き方で、この道で良いのかと不安を感じたが、他に歩道はないので、ともかく進むことにした。
上り始めると、いきなり急な道で、少し上ると馬の水のみ場の水槽のようなものもあった。その後もまるで山道のようで、最近の雨で道が相当に荒れている場所もあった。

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suzuka_046.jpg15分ほどで平らなところに達し、鏡岩への道標があった。鏡岩には、霧でも出れば確実に迷子になりそうな杉林の中を進むと150mほどで到着する。
鏡岩は、盗賊が旅人の姿が岩に写るのを見て、襲ったと言われているが、表面が荒れた唯の岩で、どうして姿が映るのかと思った。昔は輝いていたが、風化して現在の姿になったのであろうか。
後に調べたら、山火事でこういう姿になってしまったとのことであった。
峠道を抜けて開けた場所に、また道標があり国道との合流点まで1Kmとありほっとした。案内板のルートは、ここで右に分かれて辿る道を示したものであった。そして、茶畑が広がり不思議な服装でちょと可愛い絵の道標もあった。この絵の道標は土山に向かって歩く途中でも時々見かけた。
数百メータほどで、大きな常夜灯がありさらに安心感が高まったのは昔も同じであっただろう。
それにしても、これほどの大きな岩をどうやって運んだのだろう。
suzuka_047a.jpgsuzuka_047.jpgsuzuka_048.jpg国道に合流して歩いて行くと、山中というところに、鈴鹿馬子唄の歌碑やモニュメントがあった。最近作られた新しいもので、国道を車で通る人は立ち寄ることも無く、旧東海道歩きにとっても歴史的遺構でもなく、休憩場所にもなりそうに無いもので、作った意図が分からない。
さらに進むと、一里塚公園と書かれた小公園があり、また鈴鹿馬子唄の歌碑が設けられていた。馬と馬子のモニュメントも作られていたが、ベンチは無かった。
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そして、終に土山の入り口に達し、「田村神社」に至る「街道橋」に到着。この橋を渡ると、長い参道の「田村神社」がある。田村神社は、征夷大将軍として蝦夷を平定したことで有名な坂上田村麻呂を祀った神社であるが、流石に正一位の田村麻呂を祀った神社だけのことはあり、広大な広さの杉の大木の境内のなかに燐として建っていた。付属建築物も立派なものだ。
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神社を出ると、「あいの土山道の駅」があり、今日はここまでとバス時刻を見ると17:01で腕時計は16時57分。
1時間に1本のバスが直ぐに来るとは、全く運が良い。待つまもなくバスが来てJR草津線の「貴生川駅」まで行き着いた。
電車は30分ほど待つ必要があるが、やむを得ないと思っていたら、前の電車が車両故障で遅れており、直ぐに乗ることが出来、1時間ほどで京都駅に着き。またまた運のよい事に発車2分前の「のぞみ」の切符を買って駆け込み新横浜へと帰途についた。

2007.10.06

土山から水口

本日の万歩計36,042(24.14Km)
今週も3連休。旧東海道歩きに行かない訳には行かないと出かけた。
tsuchiyama_01.jpg前回に終えた土山宿入り口の「あいの土山道の駅」に行くには、貴生川からバスで40分ほどかかる。貴生川には9時29分着が最も早く行ける方法だが、貴生川発のバスは9時20分で、その次は10時50分だ。しかたがないので、6時53分新横浜発で米原、草津経由で貴生川に10時15分に着く列車を選んだ。ところが、10月から9時55分発のバスができていて、ちょっと損した気分になったが、ともかく10時50分のバスに乗った。道の駅は麺類しかなかったので、「天婦羅うどん」を食べて出発する。まともに食事を取る場所が無いことが分かっていたので、コンビニの「おにぎり」もリュックに入っている。時刻は11時50分であった。
今までで、一番遅い歩き初めだが、ここが私の自宅から時間的に一番遠い場所だ。土山宿の始まりはこの石碑から始まるが、宿場町としての街並みの維持には並々ならぬ努力が払われていて、各戸の玄関には、江戸時代の屋号を示す板の看板を付けていた。「土山の街並みを愛する会」というのがあり、活動しているようだ。
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古い街道の雰囲気の街並みが続き、途中にある「来見橋」の欄干も和風で安藤広重の絵を模したものが描かれていた。
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旅籠があったあたりには石碑を建て、森鴎外が泊まった旅籠の「平野屋」の前には説明板があった。
説明板には、「森家は代々津和野藩亀井家の典医として仕えた家柄である。白仙は長崎や江戸で漢学・蘭医学を修めた篤学家であった。参勤交代に従って江戸の藩邸より旅を続けるうち, この井筒屋で病のため息をひきとったのである。 のちに白仙の妻清子、 一女峰子の遺灰も, 白仙の眠る常明寺に葬られた。」とあった。
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宿の途中に「伝馬館」という、古い旧家を改修して「資料館」としたところがあった。
中には、伝馬制の説明をはじめ、土山宿の模型、東海道53次の全ての宿の安藤広重の絵に対応した粘土細工があり、また100個の人形による大名行列もあった。
おじさんが居て、とても詳細に宿の歴史などを説明してくれ、てっきり、この「伝馬館」の説明員と思っていたら、説明が終わると帰っていった。あとには、それほど詳しくない女性職員が残った。どうもおじさんは、土山の町おこし活動の役員かなにかの方だったようである。
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さすがに、本陣は石碑のみで家屋は残っていない。そして、先ほどの説明のおじさんが訪れることを勧めた、「常明寺」。森鴎外の祖父の森白仙が井筒屋で病死して、田村川のほとりの墓に埋葬されたが、鴎外が明治13年(1900)に当地を訪れ、墓がひどく荒れているのを見て常明寺の境内に移した。その供養等があるとのことであったが、見つからなかった。現在も土山の人々の多くの墓石が立っていて、人の墓地を探し回るのも気が引けたからでもある。
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土山の家並みも途絶え、水口の宿に向かう途中に「歌声橋」という、人と自転車専用の橋があった。映画の「マジソン郡の橋」で屋根つきの橋を見たが、実際に屋根つきの橋は始めて見た。
そして、川の下には「野洲川」の清らかな流れが見える。
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しばらく行くと、「垂水の斎王の頓宮跡」がある。旧街道から国道に出て国道を横切る必要があったが、信号も無く苦労した。ときの天皇が内親王の1人を「伊勢神宮」に差し出す風習が南北朝時代まで続いたそうだが、このときの伊勢路に宿泊所として作られたのを「頓宮」という。昔は田, 甲賀, 土山( 垂水),鈴鹿, 一志の5 ケ所あったが、いまはっきりと「頓宮跡」として残っているのはこの土山だけだという。
頓宮が使われるのは何年かに一度だが、内親王が特別な役目を負って泊まる特別な場所であるため、とても立派なものであったという。入り口は茶畑への入り口にもなっていて、草が茂りこれが貴重な史跡への入り口とは思えない。土山宿の人達も街並みのみに気を使っていて、「頓宮跡」には、全く無関心であるのが残念である。
斎王といえば、3年間の勤めを終えて16歳で無事都に帰ってきた三条帝の皇女,当子内親王がいたが、匂うばかりの美しさであったという。自然の成り行きで当時26才だった三位中将藤原道雅が彼女に近づき、ふたりは恋仲となったが、一度「斎王」となって神に仕えた身は一生一人で過すのが慣わしであった。
三条帝の知るところとなって、引き裂かれ道雅は、全ての職務を取り上げられ「いまはただ 思い絶えなんとばかりを 人づてならで
      言うよしもがな」
の歌を百人一首に残している。
一方の当子も23歳で失意の内に没している。悲恋物語である。
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さらに少し進むと、東海道反野畷碑がある。これは水害に悩まされた住民が願い出て、1699(元禄12)年から4年間かけて野洲川へ流す延長504間、川幅4間の排水路を掘割した跡である。
また、その後に距離は短いが、松並木が見られた。
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歩いて行くと面白いものを見つけた。酒屋さんの店先に大きな酒樽に窓を開け、屋根を付けたのが置いてある。
覗き込むと、中には何種類かのお酒の容器とおぼしきものがあり、道行く人にコップ酒でも販売しているのだろうか。そして、ようやく水口が近づき、今郷の一里塚に対面した。江戸期の一里塚は壊され、最近になって作り直したもので、方形に石で囲われ、土の盛り方も少なめである。なにより植えられた木がまだ若木の様相であるが、年輪を重ね立派になってくることだろう。
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やっと、水口宿の江戸方見付けのモニュメントに達した。そして市街地の入り口には仕掛け人形が動く時計台がある。市街地の出口にも別の型の時計台があった。
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水口の市街地を通ってゆくと、途中から旧東海道がアーケードになっていた。旧東海道がアーケードになっているのを見るのは、四日市の諏訪神社脇から続くのに続いて2回目である。
旧東海道は「近江鉄道」の「水口石橋駅」の直ぐ傍を通っているが、その名前の元となった「石橋」があった。しかし、流れの幅は1mぐらいで、注意していなければ見過ごしてしまうほどのものであった。かつては、立派な流れが、水路の変更などで小さくなったのであろう。
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水口の市街地を抜けて田園地帯を歩いているとき、5体ほどの道祖神がまとめて祀られている場所があった。その1体を写したのだが、前掛けの図柄が面白い。周りを見れば、家々の庭にはコスモスの花が、風にそよいで、秋の彩を演出していた。
tsuchiyama_25.jpgtsuchiyama_26.jpgtsuchiyama_27.jpg少し日も傾いてきた。急がねばと思っていたら柏木公民館前に半鐘を鳴らす鐘楼の模型なのか、実物大ではと思える銅像があった。公民館そのものも凝った造りで、何故それほど経済的余裕があるのか不思議に思った。
いよいよ、野洲川の「横田の渡し跡」が近づいて来た。野洲川の方に曲がると、「泉の一里塚」があったが、これも、近年に作り直したもので、「今郷の一里塚」と同じつくりである。作った時期も同じであろう。
そして、「横田渡し跡の常夜灯」である。高さ10.5m, 笠石2.3m四方で火袋は人が通れる大きさで、周囲17.3m の玉垣もあり、街道一の大きさと説明板に書かれていた。江戸時代には、夜でも渡る人が絶えず、水流の激しい川で方向を失って亡くなる人も多くいたので、常夜灯を設置した。これで事故はなくなったという。
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さて、今日の予定は全て済ませ、あとは予約した三雲のホテルに向かうだけだ。かなりくたびれたが、足の状態は前回よりずいぶんと良くなった。

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