2007.05.12

箱根から沼津(1)

本日の万歩計31,984(21.1Km)

5月の連休の後半は田舎での高校同窓会参加のため、旧東海道を歩く旅はお休みで、2週間ぶりの歩行となった。
前回は箱根の関所を越えたところで打ち切ったので、まず、その場所にバスで行き、歩き始めた。最初は箱根駅伝の広場である。 素晴らしいブロンズ像が建っていて、嬉しいことに今日は快晴で富士山も顔を覗かせている。
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mishima_002.jpg歩いてゆくと、ほどなく駒形神社方面と書かれた分岐点に達し、大通りから別れ湖面方面に進む。 直ぐに駒形神社を左に見て、旧東海道の入り口に達するが、右に曲がると芦ノ湖の遊歩道である。ちょっと迷うところであるが、道標が出ているし、旧東海道に入ると直ぐに石仏群がある。
旧東海道に入ると直ぐに石畳の道となるが、最初は道の左側に水路を兼ねて作ったのか、歩き易い部分があった。
しかし、これは数10mでなくなり、本来の石畳道となる。そして、200mほど進むと国道の下を潜り抜けるポイントに達した。
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さらに進んでゆくと、石畳の石も苔が生しており、歩き難いが良い感じである。数百mほどで箱根峠近くの国道に飛び出すが、箱根新道との合流点でもあるので道路が複雑に入り組んでいる。間違えないように注意し、また横断歩道もないので道路の横断にも注意を要する。そして、箱根峠に向かうべく、ゴルフ場への取り付き道路の方に向かったら、突然に富士が顔を出した。 やはり嬉しい。

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mishima_007.jpg箱根峠には長距離トラックなどが休憩するための広い駐車場があり、その隅に女性の有名人が言葉を記したモニュメントがあった。以下に記すと
橋本聖子「細心大胆」、宮城まり子「私は彼らと共に泣き また笑った 彼らは、ただ私と共にあり、私はただ彼らと共にあった。」、橋田寿賀子「おしん 辛抱」、黒柳徹子「花見る人はみなきれい」、穐吉敏子「道は段々 険しく」、向井千秋「夢に向かってもう一歩」、桜井よしこ「花は色なり 人は心なり 勇気なり」
源実朝「箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪のよる見ゆ」
源実朝の歌は有名なので別として、他の有名女性陣のは、どうも、あまり心に響かなかった。

mishima_008.jpg休憩用駐車場では、オートバイツーリングの若い一団も休んでいた。 彼らの移動速度は歩くのとは格段の差だ。
mishima_009.jpg箱根峠から右方向のゴルフ場への道を進むと、300mほどで旧東海道への入り口に達する。
入り口には旧東海道の案内板のほか、江戸へ25里、京に100里の石碑も建っていた。 ここに行く前は旧東海道への入り口が分かり難いのではと危惧したが、杞憂であった。

旧東海道に踏み入ると直ぐに休憩のための綺麗な「あずまや」がある。静岡県は旧東海道の宿の数も一番多く、大変に力を入れているそうだ。そして、横に入ったところに、井上靖の「北斗欄干」と書かれた碑がある。碑全体が指の形をしており、北極星を指し示している形だという。
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最初の下り坂は「甲石(かぶといし)坂」という。道の両側から「篠竹(しのだけ)」が垂れ下がってきて、トンネルのようで良い感じ。石畳も竹の枯葉が積り、かなり覆われている。
「兜石跡の碑」が見つかった。 以前はここにあったそうだが、国道の拡張工事で邪魔になると移動させたという。しかし、国道を走る車の音も聞こえないほど離れているのに、何故邪魔だったのだろう?
mishima_012.jpgmishima_013.jpgmishima_014.jpg500m程度であろうか、旧東海道は国道と交差する。旧東海道は国道を横切ったところから続いているが、今は通れないので右方向に国道に沿って進むと、ほどなくまた、旧街道の入り口がある。この入り口には写真ような特色のある道標が建っている。静岡県ではこの統一されたスタイルの道標を市街地域にまで建てている。
なかなか感じが良く旧街道を紹介するのに適した重みもあるように思う。一番上には東海道で、どの位置にあるかを示す里程表示があり、その下に、富士山を示すのかデザインされた”M”の字様のものが書かれている。さらにその下に、「夢舞台東海道」と書かれているが、読みは「夢ステージ東海道」というのだそうだ。
直ぐに「兜石」に対面する。先ほどの「甲坂」から移したものらしい。兜の形をした石なので「兜石」と呼んだのであろうが、秀吉が小田原攻めのときに、兜をこの石にのせたからとの説もある。しかし、それはないだろう。関白となっていた、秀吉はもう兜などかぶらないと思うのだ。
このあたりは、勾配が緩やかで石畳でない道も多いが、石畳に比べて歩き易いし、直接地面なら歩いたときの衝撃も小さいので、とても楽だ。
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石原坂と言われる坂道を下ってゆくと「念仏石」と呼ばれる大きな石がある。さらに、大枯木坂というところを下って行くと、突然民家の庭先に飛び出す。
写真中央のやや右よりに見えるのが辿ってきた旧東海道であるが、右の方ではおじさんが木の刈り込みを行っている。旧東海道に接して家を作ったので、時々旅人が庭先を横切ってゆくはやむを得ないのだろう。
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民家の庭先を過ぎると、一度国道に出て直ぐに「小枯木坂」という坂道に入る。横断歩道がないので、国道を渡るタイミングを見計らっていた若い女性が会釈を返してくれた。
まだまだ、石畳の道は続くが、道幅は広くなっている。 乗用車は無理だが小型トラックなら無理をすれば登って来れるようで、軽トラックを1台見かけた。 また、落ち葉が沢山積もっているところもあり、歩き易いが滑り易い道でもあった。下手をすれば尻餅をつきそうだ。
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「小枯木坂」の終わりで国道と合流する直前に「雲助徳利の墓」がある。杯と徳利が浮き彫りになったユニークなものだ。 最近では楽器をデザインした墓石などもあるが、デザイン墓石のはしりだろうか。
謂れと詳しい解説の掲示板が建っていたので、詳細はそちらをクリックしてお読みください。
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しばらく国道を歩くことになる。直ぐに右手に樹齢500年の赤樫で有名な「駒形諏訪神社」があり、やがて右手に「宋閑寺」が見えてくる。このお寺では山中城での戦いで戦死した、北条軍、豊臣軍の両武将が静かに眠っている。
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次に「山中城址」を見学する。 この城は石垣を使わず土地に起伏をつけて作られたユニークなお城である。整備されて、とても美しいが山城であり城域も大きいため、とても全部を見る余裕はなく、ほどほどで退散した。
秀吉の小田原攻めに対する防御のために作られた城であるが、4000の守りに対し3万5000を擁する大軍の前に半日で陥落したとのこと。
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国道と旧街道が一緒になったり、離れたりを繰り返すが、旧街道に入って「芝切地蔵」を右手に見て、再び国道を歩いた後、「山中新田」の石畳を歩いてゆくと、突然に富士山が感動的な姿で見られるようになる。国道を過ぎるポイントには「霧しぐれ、富士を見ぬ日ぞ、面白き」と書かれた芭蕉の大きな句碑がある。芭蕉がここを訪れたときは、霧で一面 真っ白で全く富士を見ることが出来なかったのだ。さぞや、悔しかったことだろう。
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芭蕉の句碑を見て国道を渡り、旧東海道を歩き、旧街道が再び国道と接する場所に来た。「笹原新田」と言う場所だ。
そして、国道と離れる場所に達して驚いた。こんなところにラブホテルだ。ホテルの屋上の看板は、壊れているが入り口の感じからすると営業しているようだ。 直ぐ右側には旧東海道の石畳が続いているのにである。これも、過去と現在の交差点だろうか。
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次に国道をよぎると、道路は舗装されているが、勾配がとても急なところにきた。「こわめし坂」という。
背中に背負ったもち米が汗で、おこわが出来るくらいだというところから付いた名で、箱根西坂で一番の難所だったという。舗装されていても、とて急で足の指先が痛く感じるくらいで、石畳の江戸時代ではもっと大変だったと想像するに難くない。掲示板も建っていたので合わせてご覧いただきたい。
mishima_031.jpgmishima_032.jpgmishima_033.jpg「こわめし坂」を過ぎて、「三ツ谷新田」という地域に入り、県道だろうか、バスも1時間に1本ぐらい走っている道を進む。しばらくして、明治天皇も休憩を取られた「松雲寺」が右手に現れる。参勤交代の大名もこの寺で休憩をとることが多かったという。
この辺でハッキリと足の疲労を感じるようになってきた。また、旧街道に入って「臼転坂」を下って行く。旧街道は当然 石畳の道だ。
その後も延々と県道を歩くのが続き、「塚原新田」で塚原バイパスに合流する。 完全に町に下りてきた感じだ。しかし、これから続く「初音ケ原」と呼ばれる場所の「塚原バイパス」の歩道は松並木となっていて、歩道は石畳なのである。石畳とは言っても石をコンクリートで固めているが、やはり歩き難い。旧東海道の石畳に近い形を取るなら意味があると思うのだが、コンクリートで完全に固めても歩き難い石畳を配することの意義はあるのであろうか。また、歩道の途中には一里塚も復元されていた。
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mishima_036.jpg長い石畳の道をくたびれた足で歩き、ようやく「塚原バイパス」と別れ、旧街道に戻って「愛宕坂」を下る。
坂を下りきるとJR東海道本線の踏切を渡り、「愛宕橋」を渡って市街に進む。まだ、富士は大きく存在感を見せ付けている。
今回の箱根西坂の旅で東坂と根本的に違ったのは、山中の石畳道では誰にも遭遇しなかったことである。車の走る道路以外では、ほんとうに人の気配がないのである。道標が完備されているので山中にても不安を感じることはなかったが、東坂とは対照的であった。
三島市内から沼津は次のエントリーで・・・

箱根から沼津(2)

mishima_037.jpg三島市街に入って、まず、「三島大社」を訪れた。鳥居をくぐると、最初に大きな「たたり石」に遭遇する。「たたり」とは、元来 糸のもつれを防ぐの意味があり、最初旧東海道の道の真ん中にあったという。行き来する人が増え、取り除こうとすると、災いが起こり「祟り」の意味に転じたという。その後、大正3年の道路工事でやっと取り除かれ三島大社の境内に運び込まれたと掲示板は述べる。そして、今では交通安全の霊石として信仰されているそうだ。
mishima_038.jpg右の写真は三島大社の本殿である。三島大社は伊豆国の総社として建立されたが、大きく発展したのは源頼朝が旗揚げに際し戦勝を祈願し、勝利を修めたことから、手厚く保護したからである。鎌倉時代から武家の奉納した甲冑が多く保存されていて、源義経が奉納した「国宝・赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)・大袖付」もある。

mishima_039.jpgまた、境内には日本一の「金木犀」の木がある。秋の開花時期には10km離れても香りがたなびくと言われている。
三島大社を離れ「白滝公園」の方に桜川に沿って進んで行く。綺麗な湧き水の流れが民家の前を流れ、散歩道となっているが、その通り道に文学碑が建っている。 文は写真をクリックしてご覧いただきたいが、撮影した私の姿が映っている。司馬遼太郎の書き出しは柳の枝が邪魔して見えないが「この湧水というのが・・・」と続く。
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mishima_046.jpg「白滝公園」の入り口には「富士の白雪朝日に溶けて、三島女郎衆の化粧水」と「農兵節」の一節が書かれた碑が建っている。農兵節というと、富士の白雪ノーへ,富士の白雪ノーへ,富士のサイサイ,白雪や朝日に溶ける溶けて流れてノーヘと延々と続くが、昔はあんな歌を歌って宴会をやっていたとは、いまから思うと不思議だ。近年まで歌われて大いに流行した歌だと思うのだが、流行歌辞典などには載っていないそうだ。明治政府からすると賊軍の教練で歌われた歌など、リストから抹殺しろとなったのであろうか。

mishima_046a.jpg次に「楽寿園」を訪れた。旧小松宮別邸で名園とされる。残念ながら、昔は豊富であった湧き水が細り、池の水が干上がっている。池を主体に設計された庭園であるだけに、なんとかならないものかと思う。
mishima_046b.jpgmishima_046c.jpgmishima_046d.jpg気がつくと午後2時になっていた、朝コンビニで買っておいた「おにぎり」を「山中城跡」で食べたが、さすがに腹が減ってきた。本町の交差点に戻りながら、「蕎麦屋」があれば入ろうと見渡しながら歩くのだが、「ラーメン屋」ばっかりだ。どうも旧東海道を歩いていて中華は食べる気がしない。やはり和食系にしたい。
本町の交差点に戻ったが、もう本陣跡の形跡は損なわれていて、わずかに店先に飾られた「世古本陣跡」の薄っぺらな石板が目に付いたぐらいである。
mishima_046e.jpg伊豆箱根鉄道の「三島広小路」を過ぎて、数百m進むと「千貫樋」の掲示板があった。表示にもあるが、これが今川家へ養子に出す氏真の結婚の引き出物だったとは・・・。懐柔策としては良いアイデアであったのだろう。
やがて、宝池寺の境内に復活された一里塚があった(左の写真)が、道路を隔てた向こう側の「玉井寺」にも一里塚の表示があった。確かに一里塚は道路の両側あるものなので、2つあっても可笑しくはないが、お互いに張り合ってるようで良い感じではない。寺の境内そのものも、墓地分譲のいわば不動産屋が本業のようにも思えてくる。
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宝池寺で国道1号線の方に曲がり、少し三島方向に戻る感じで「柿田川」の源流の「柿田川公園」に向かった。
結局、蕎麦屋は見つからなかったが、さすがに何か食べねばと公園の前の「すかいらーく」に飛び込み遅い昼食を摂り少し休憩することにした。
下の10枚の写真は全て「柿田川公園」で撮影したものだが、テレビなどで良く見る もやもやと川底の砂が動いて、水が湧き出しているところや、とうとうと流れる柿田川、子供用の水遊びの浅い湧水池などがある。
湧水量は1日に100万トンとのことだが、町の中でいきなり大量の水が湧き出し、かなりの水量の川が突然始まるのだから驚く。そして柿田川は僅か1.2Kmで「狩野川」に合流するのである。
公園は柿田側の源流地域として樹木も含め大事にされているようで、清々しい空間を見せている。が、10数年前には、近くの製紙工場の廃液が柿田川に流され、酷い状態だったという。10年に亙るボランティアの根強い製紙工場への働きかけなどを通じ、いまの美しい柿田川が復活したとのこと。
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mishima_059.jpgだいぶ日も傾いてきたので、少し急いで沼津に向かって歩き始めた。それほどの距離ではないと思っていたが、やはり足の疲れがかなりなレベルに達しているため、遠く感じた。
まず、「八幡神社」に到達した。参道は鶴岡八幡宮の段蔓のように、桜並木が続いている。本殿近くにもう一つ鳥居があり、本殿の左横の奥の方に「義経」が奥州で「頼朝」挙兵の報に接し、駆けつけて対面したと伝えられる向かい合わせの石があった。 頼朝の座ったとされる石の傍に絡み合うように生えた2本の柿の木があるが、これは「頼朝」が食べた柿が渋柿だったので、ねじって捨てたところ2本の柿が芽を出し、幹をねじりあいながら立派な木になったと掲示板に書いてあった。
そんなアホな。鎌倉時代が始まる時代に生えた柿が現在まで生きているはずがないし、見たところ歳を重ねた木とも見えなかった。
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沼津が近づいてきて「狩野川」に掛かる「黒瀬橋」を過ぎると直ぐに、日本三大仇討ちの一つと言われる平作ゆかりの平作地蔵尊がある。
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少し進むと、今から千数百年前に玉を磨くのに使ったという「玉砥石」が2個置かれている。見た目にはただの普通の石に見えるのだが、考古学的には貴重なものとのこと。また、砥石が並べられている広場には「一里塚」も復元されていた。
mishima_064.jpgmishima_063.jpgmishima_065.jpg沼津の狩野川沿いの旧東海道は「川郭通り」と呼ばれていて、町並みは、もう昔の面影は損なわれているが、綺麗に敷石舗装が施されている。箱根の石畳と比ぶべくもないが、本当に綺麗で歩き易く気持ちの良い道だ。
ともかく、今日はここまでとしてJR沼津駅に急いだ。もうJR東日本の領域を外れ、SUICAも使えない。しかも、帰りは熱海、戸塚と2回も乗換えが必要だ。

2007.05.20

沼津から蒲原(1)

本日の万歩計55,203(36.4Km)
今日は電車を2回乗り換え(戸塚、熱海)沼津に到着しての歩行である。
hara_001.jpg前回に見落としたところを拾うつもりで、沼津駅から歩き始め、最初に城岡神社を訪れた。
ここは、大政奉還後の混乱のなかで、藩としての再生を模索する一環として旧幕臣達が洋式の陸軍士官の養成を目指し「沼津兵学校」を設立した場所で、石碑のみが境内に残っている。廃藩置県後に陸軍兵学校に吸収されるが、短期間ではあったが多くの人材を養成したとのこと。
hara_002.jpg沼津の「さんさん通り」を歩いて行くと、ビルの壁に「三枚橋城の石垣」が再生されていた。
三枚橋城は武田が築城したものだが、織田信長の台頭により駿河から撤退を余儀なくされ、その後徳川の配下となったが、終には廃城となった。近年のビルの工事で埋もれていた石垣が発見され、再生したとのこと。
hara_003.jpg海岸に広がる「千本松公園」に向かって進んで行くと、「乗運寺」があり、「若山牧水」の墓がある。
この「乗運寺」の開祖は増誉上人である。
千本松公園の入り口には増誉上人の像がある。増誉上人が松の植林をするに至った経緯は掲示板の写真をクリックして、読んでいただきたい。

hara_009.jpghara_010.jpghara_004.jpgそれにしても、大変な松の木の本数である。千本松と言うが、このような状態の松林が「吉原」の近くまで続くのである。千本どころではなく、もっとはるかに多いと思う。
hara_005.jpg千本松公園には「井上靖」の歌碑があり、また「若山牧水」の歌碑もあった。
若山牧水の「幾山河越え、さりゆかば・・・」は名調子で、ちゃんと記憶に残っていた。
hara_006.jpghara_008.jpghara_007.jpg公園を海の方に抜け、堤防に上ると、大勢の人が釣りを楽しんでおり、また遠くまで松林が続いているのが望見された。遥かに遠くまで歩く必要があるのが実感される。
再び松並木に戻り歩いて行くと、鳩に遭遇した。やはり木が多いと鳥も多く集まるのだろう。
少し歩いて、千本松街道に出て「六代松の碑」を訪れた。平維盛(たいらのこれもり)の長子で、平家最後の嫡流の六代は、関東に送られ斬られようとしていたが、文覚上人(もんがくしょうにん)に一度は救われた。しかし、結局は処刑され、この地に首が埋められたという。
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続いて八幡神宮にある、「榜示杭」を見学した。この「榜示杭」は沼津と原の宿の境界線である。
その後、また直ぐに松林に戻ったが、この辺は松の木が主であるが、他の種類の木も混じり、これはこれで良い感じである。江戸時代の街道は、こんな感じではなかったのだろうか。とても歩き易い。
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hara_015.jpg片浜駅が近づいてくると、「神明塚」と呼ばれる5?6世紀ころの豪族の前方後円墳がある。全長54mで沼津市では最大のものであるとのことだが、相当に形が崩れていて、住民の無関心さも影響しているのか手入れもなされているようには見えなかった。
hara_016.jpgやっと、原宿の中心地に近づいてきた。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と言われる白隠禅師が再興した、松陰寺を訪れる。
白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われたが、生まれ故郷に帰って松陰寺を再興した。世に聞こえた名僧であり、参勤交代の大名も立ち寄ることが多かったが、特に備前の池田氏とは懇意であったようだ。あるとき、小坊主が「すり鉢」を割ってしまい、藩主池田継政から備前焼きの「すり鉢」を贈られたが、大風で折れた松の枝の雨よけに、「すり鉢」を被せたのだという。その後松の木は「すり鉢」を載せたまま大きくなり、やっと今から20ほど前に白隠禅師生誕300年を祝い、白隠禅師の松の枝に被せた「すり鉢」を京焼きのものに交換し、元の「すり鉢」は大事に保存することにしたのだそうだ。
下の写真で左側は「すり鉢松」全体を写したものであり、右側は乗かっている「すり鉢」を写したものである。
hara_018.jpghara_017.jpghara_019.jpg原駅を過ぎて少し行ったところに、「地酒 白隠正宗」の高嶋酒造があり、醸造用に使用している富士山の霊水が旅人にも飲めるようにしてあった。近くの住人が切れ目なく水を容器に入れに来ていた。
hara_020.jpg東田子の浦駅が近づいてきたころ、JR東海道線の線路脇に「庚申塚」という1500年ほど前の豪族の古墳がある。
この古墳を訪れるには、JR東海道線を横切るのが手っ取り早いが、踏み切りでもないところを渡るのはスリルがある。危険だから渡るなとの注意書きがあったが、線路に下りるための階段もあり、そもそも注意書きがあること自体が、渡る人がいるからだろう。そして今渡らなければ一生JR東海道の線路を渡ることは無いと、変な気を起こして、思い切って渡ってしまった。古墳から戻ろうとしたら、20mほど離れている踏切の信号機が鳴り出したので、これはいかんと、戻りは踏み切りの方に回わることとした。
hara_021.jpg「東田子の浦駅前」には「六王子神社」があるが、この神社には悲しい話が伝わっている。
昔、原宿一帯がまだ、沼地であったころは、海の潮が満ちてくると沼地で潮が吹き上がることがあったという。
これは、龍神のしわざだと、毎年15歳の少女を生贄に捧げていたが、適当な少女がいなくなって困っているときに、7人の巫女さんが通ったので無理やりくじを引かせ、当たった一人を生贄とした。ところが、村の若者が1人のみ生贄では残った6人と較べ不公平だと、6人を強姦してしまったのだという。全く、勝手な理屈だ。巫女は処女性が絶対条件で、強姦されては巫女を続けられなくなる。それで、6人は世をはかなんで沼に身を投げ、後日不憫に思った村人が6人を祭る神社を作ったとのこと。
説明板にも、この話が書かれているが強姦されたくだりが伏せられており、何故沼に身を投げたのかが、よく理解できない。
なお、生贄になった少女の名前は「おあじ」と言ったそうだが、おあじは別途「阿宇神社」に祀られているとのこと。
東田子の浦駅を過ぎて少し進むと、「望嶽碑」で有名な「立圓寺」がある。尾張藩の侍医、柴田景浩が碑を建てたとのこと。詳細は説明板をクリックのこと。
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hara_022.jpgまた。境内にはインドネシア船籍のグラテック号が昭和54年台風で遭難して、そのときの船の錨が2人の慰霊碑とともに飾られていた。
やがて「昭和放水路」に行き着き、放水路建造の先駆者の増田平四郎の像に対面する。浮島ケ原と呼ばれた沼沢地を干拓して農地を造るのは大変な努力を要したであろう。
なお、「原宿」は「浮島ケ原」が省略されて原と呼ばれるのが定着して「原宿」となったとのこと。
hara_025.jpghara_026.jpghara_027.jpgようやく、吉原に近づいてきて向こうの方に吉原(富士市)の主力産業である、製紙工場の煙突の煙が見えてきた。もうすぐ、吉原の宿だが、この続きは新しいエントリーで・・・

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沼津から蒲原(2)

hara_028.jpgやっと吉原に到着した。最初に迎えてくれるのは、毘沙門天妙法寺。かなり疲れた足を引きずって階段を昇ると、日本のお寺とはかなり違う雰囲気の建造物に対面した。ラマ教系のお寺だとのこと。
hara_029.jpg妙法寺を後にして、JR東海道の踏切を渡り、大昭和製紙工場の脇の道を通って北に向かい、河合橋を渡る。海が近いためか、プレジャーボートが沢山係留されていた。ある程度の大きさの川では良く見られる光景である。
hara_030.jpgやがて、左富士神社を通り過ぎ、左富士の碑に到達した。道路が急にカーブしたことにより、富士山が左手に見える地点である。東海道で富士が左に見えるのは、ここと茅ヶ崎の左富士のポイントの2箇所である。
しかし、富士山上空にはしつこく雲がまとわり付いており、富士の姿を見ることは叶わなかった。

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また、ここの左富士の碑の横には静岡県統一の「夢舞台道標」が建っていた。原宿の宿境まで二里九町、富士川町宿境まで一里十七町とある。ほんとうに、よい道標である。
hara_034.jpgさらに進むと、和田川の橋のたもとに「平家越」の碑がある。源氏軍と対峙した平家の大軍が、水鳥の羽音に驚き退却したという、富士川の大戦の記念碑である。
平家軍が陣取ったのは、富士川と浮島ケ原の沼沢地の間のこの辺りだったのであろうが、周りの風景は水鳥が羽を休めていたころと全く違って、製紙工場の乱立である。
hara_035.jpg「平家越」の碑を過ぎ、暫くすると岳南鉄道の「吉原本町駅」近くで踏み切りを渡り、賑やかな商店街に入っていく。お昼の時間も過ぎ昼食を摂るため、適当なレストランを物色しながら歩く。日曜のためか、閉まっている店が多い。やっとそれらしい店を見付けて昼食を摂り、しばらく休息を取った。
昼食の後は、地図と首っ引きで忠実に旧東海道を辿る。「潤井川」を渡って、歩いて行くと、ほどなく民家の前に「鶴芝の碑」があるのに遭遇した。この付近から富士山を見ると富士の中腹に白鶴が舞うように見えたことから、鶴の絵と詩文を加えて「鶴の茶屋」に建てたものとのこと。
この辺りは街道の面影が残っていないことから、貴重な碑であるが、本当に民家の玄関脇で写真でも自転車を停めているのが写っている。なんとか、ならないものだろうか。
「鶴芝の碑」を過ぎて、広い道路と交差する地点(十字路)で、なんと広い道路に中央分離帯があって横断できないようになっているのに出くわした。そして、中央分離帯には「迂回してください」の表示があった。
全く歴史に関心を持たない、馬鹿な役人の仕業だろうと腹が立った。しかし、「迂回してください」の表示板の脇は明らかに通って踏み固められた形跡があるので、このやろうと思いながら渡った御仁がいるのだ。それでは、私もと強引に中央分離帯を突破して渡ってしまった。渡った先には、とても古い型の秋葉常夜灯が道しるべとして待っていてくれた。
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JR身延線の柚木駅を過ぎて、ようやく富士川に到達する。橋の直前の右側に「水神社」があった。水流が早いことで有名だった富士川を静めるための神社であろうか。
いよいよ、富士川橋を渡る。富士川は、いままでで一番水量が多い川である。上流を望むと東名高速の橋が見える。
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富士川橋を渡り、少し上流に向かって歩き、細い階段を登り、間の宿であった岩淵宿の街道に出る。直ぐに「秋葉常夜灯」があり、正しい旧東海道を辿っていることが知れる。
歩いて行くと、「小休本陣」の常磐家住宅に到達した。無料で公開されており、見せていただいた。古いが、やはり立派な家である。最近まで実際に住んでいたとのこと。今となってはとても貴重である。

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hara_044.jpgまた、庭には根回り6mという槙(まき)の大木があった。槙の木は生長が遅く、これほどの大木は珍しい。
常盤家で、富士川町ウォーキングマップをいただき、手持ちの地図と見比べながら歩いて行くと、「岩淵の一里塚」に到達した。左と右の両方が残っている。特に右側は型も崩れておらず、エノキの木も大木に育っている。
大変立派な一里塚だ。
時計を見ると3時30分を過ぎており、「富士川駅」から帰るか、蒲原まで足を伸ばすか迷ったが、蒲原までは一里程度なので、行くことに決めた。

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街道は右に折れ、直ぐに東名高速の下を過ぎる。その後、東名高速と平行している道を歩きながら徐々に高度を増し、最後にかなり急な坂を上って、今度は東名高速の上を過ぎる。
横断橋から高速道路を見ると、我、彼の移動速度の差異にあらためて感じ入る。
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やっと、蒲原に到着。宿の始めの方に一里塚の跡の石碑があり、少し進むと「諏訪神社」のお祭りに遭遇した。かなり、賑やかだ。
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「諏訪神社」の次は、日軽金の発電用送水管だ。直径が4.4mの鉄管が4本だから、壮観だ。驚くほどの存在感をもって迫ってくる。この太いパイプで富士川の水を引いて来ている。
hara_052.jpghara_053.jpghara_054.jpgこの3階建ての土蔵は、渡邊家の土蔵で蒲原宿でも一番古く、四方具(しほうよろい)という、4方の柱が上に行くにしたがって少しづつ狭まる方式で耐震性に優れた建て方とのこと。しかし、さすがに年数を経て修復が必要とされるが、修復には1億かかると言われ、渡邊家では、どうすることも出来ないのだという。この土蔵には貴重な江戸時代の資料が多数保管されていると案内板に記されているのにである。
hara_055.jpg蒲原の宿は海と山に挟まれた細長い土地に作られた小さな宿であり、静かで落ち着いていて、江戸時代の人々の子孫がそのまま住んでいるような感じがして心が休まる。
本当は、蒲原は製塩が盛んで、その作った塩を商いしてあるいたそうで、声が大きく「バラカンもの」と呼ばれ、怖がられたという。
ともかく、ゆっくり見ている体力も尽き、次に訪れたときにゆっくり見学することにして、「新蒲原駅」に向かった。

2007.05.26

蒲原から江尻(1)

本日の万歩計42,817(28.25Km)
先週帰宅した蒲原駅にam7:05に到着して、今日は江尻か、あわよくば府中まで行く積りで歩き出した。
yui_001.jpgまず、前回寄れなかったところを見ようと一里塚まで戻り、気になっていた北条新三郎の墓を訪れた。
通りから細い道を登って、森の中に一歩足を踏み入れたところに、ひっそりと墓石が建っているが、北条新三郎の墓と書かれた新しい石碑は、最近になって地元で建てたものだろう。
北条新三郎綱重は北条早雲の3男 幻庵の子で、1千の兵で蒲原城を守っていたが、武田勝頼率いる武田軍に敗退し、城主北条新三郎をはじめ弟長順、北条家の重臣の多くが戦死した。戦国時代の1ページだったのである。
yui_002.jpg蒲原の宿の中心付近に引き返し、歩いて行くと見事な「塗り家造り」の家が建っていた。「塗り家造り」の壁は土蔵より薄いものの優れた防火効果がある。また、「なまこ壁」と言われるコントラストのはっきりした壁が美しい。なお、この家は「佐野屋」という元商家であった。
yui_003.jpg左に折れれば新蒲原駅という地点を過ぎて、小さな流れに沿って左折すると、安藤広重の「雪の蒲原」の記念碑がある。大きな石碑とプレートにした「雪の蒲原」が石に嵌め込まれていた。
30年に1度くらいしか雪の降らない温暖な蒲原で「雪の蒲原」を絵にした「安藤広重」の創作力の勝利だ。
元の街道の通りに戻ると、元は「和泉屋」という旅籠であったが、今は天保年間(1830-1844)の旅籠時代の建物をそのまま使用している「鈴木商店がある」。また、その向かいは本陣であり、中には たたみ1畳より大きな石があり大名の籠を下ろす用いられたと言うが、いまだ個人の住宅として使用されており、屋敷内を見ることは出来なかった。
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大正時代の洋館の「旧五十嵐歯科医院」は、外観は洋風で内部は和風の建物で内部を見学できるようだが、少し時間が早く、開いていなかった。
やがて、長栄寺の大きな寺名碑を見て左折すると、蒲原の西木戸跡に達する。この角は「茄子屋の辻」とも言われ、かつて「茄子屋」と言う茶屋があったところで、以下のような事件があった。
承応2年(1653)に高松藩の槍の名人 大久保甚太夫が薩摩藩の大名行列に出合い、槍の穂先が触れ合ったと口論となり、散々辱めを受けるがその場は我慢した。しかし、甚太夫は、茄子屋の辻で待ち伏せ、大乱闘となり、70人を倒したが、終に力尽き討たれたと言う。竜雲寺の住職が甚太夫を弔い、槍の穂先は寺宝として保管しているとのことであるが、それにしても1人で70人とはすごい。
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蒲原の西木戸を過ぎて由比に向かって旧国道を進む。車の通りが激しく、早く静かな道を歩きたいと思いながら、ひたすら進んでゆくと、やがて東名高速の下を潜り、すぐに車の通りとは離れほっとする。ほどなく由比の入り口に到着した。道路が鍵型に曲がっている「枡型」の説明板があり、「御七里役所跡」の表示があった。
お七里役所は、写真をクリックして説明文を読んでもらえば分かるが、紀州藩の専用宅急便組織のようで、通常は8日、急げば4日で江戸と紀州を行き来したという。
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直ぐに、由比正雪の生家として有名になった、江戸初期の創業の染物屋の「正雪紺屋」を右側に見る。
yui_012.jpg入って左側の土間には4×4列の染料を入れた甕が埋められていて、往時の様子を伺わせる。
現在でも染物屋は続けていて、和風に染めたハンカチなどをお土産として販売している。

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「正雪紺屋」の向かい側には由比の本陣跡があるが、本陣跡は1,300坪もあって本陣公園として整備され、公開されている。
ともかく、見たいと思っていた「広重美術館」は9時からであり、到着したのが8時40分で、適当に時間を潰すことになったなった。最初に大きく目立ったのは、「東海道由比宿交流館」の建物で、中は由比の風景のスケッチ画などの展示販売、お土産品売り場、旅人の休憩場所などになっていたのでブラブラとしていた。
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やっと、9時になり切符を買って美術館に入館しようとするが、入館料は500円だが、900円出すと御幸亭にも入れるとのことだったので、900円の切符を買い「広重美術館を」見学した。
版画を自分で試して見るコーナー、版画の技法の解説と合わせ「幕末の絵師の競演」と題し、大名の上洛の様子の版画を展示していた。
その後、明治天皇も休憩した御幸亭を復元した建屋に行き、菓子と抹茶を入れて貰い、すっきりと纏まった庭を望みながら上等な時間を過ごした。
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本陣公園で相当時間を費やし、次に進もうと正面の門を出ようとしたら、自転車でやって来たという若い夫婦が、写真を撮ろうとしていたのでシャッターを押してあげ、私も撮ってもらった。
1人旅で、なかなか自分を撮るチャンスには恵まれない。
本陣公園を立ち去ろうとしたら、公園の塀の外に馬の水のみ場として使用された水路があった。大きな亀が1匹いて、清掃姿の中年女性がミミズを餌として与えていた。
yui_016.jpgyui_017.jpgyui_020.jpg由比宿で、もう一つ楽しみにしていたのは「桜海老」料理を食べることであった。
「おもしろ宿場館」というのがあり、入り口には後で述べる「望嶽亭」当主で亡くなられた 松永宝蔵氏の弥次喜多の絵の等身大の人形が据えられている。2階が「海の庭」というレストランとなっているが、レストランは10時からで時計を見ると9時45分であった。1階はみやげ物売り場だが、そこのおばさんが少し待てば10時だよと言う。土産物売り場をうろうろしていたら、ハイもう良いですよと言って2階への階段脇にある準備中の札を外した。時間は9時55分であった。早速、2階に上がり「桜海老御膳」と言うのを注文。海が見え、これから向かう「さった峠」も見え景色が良い。
ほどなく、運ばれてきた料理は期待を裏切らなかった。桜海老の佃煮、サラダ、刺身、掻揚げ、お吸い物と桜海老尽くしのような料理。
考えてみれば旧東海道を歩き始めて、初めてまともな食事をした気がした。
yui_018.jpgyui_019.jpgyui_022.jpg蒲原もそうであったが、由比の宿も良く古い雰囲気が残されてい。さらに町のあちこちに旧東海道をアッピールする気持ちが見られる。この橋のたもとの、常夜灯等もその一環であると思える。
通りには「桜海老通り」の表示も多く見られることから、これも観光資源として活用しようとの姿勢がうかがえる。
観光資源としての利用価値も有るであろうが、この桜海老は戦後の町の維持に大いに役立つ産業であったことだろう。働き口としての富士の製紙工場の隆盛もあっただろうか。
通りを左折すると、数十メータで港があるので、寄ってみた。直ぐ前を国道1号が走っており、コンパクトだがなかなかの良港とみた。
また、由比駅に近づいた通りにも、桜海老を象ったゲートがあり、町の特徴を訴えていた。
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後は、さった峠に向かうばかりと、歩いていたら名主の家であった「小池邸」が休憩所として改修されて自由に立ち寄ることが出来るようになっていた。また、その向かい側にも、民家を改修した「東海道あかりの博物館」があったが、本陣公園と食事で時間を取ってしまったのでスキップした。
なお、さった峠の”さ”は薩の字で、”た”は土偏に垂の字を書くが、Windowsでは表示できないので、さった峠と記す。
yui_026.jpgyui_025.jpgyui_027.jpgいよいよ期待感が高まり、富士山も顔を出している。
さった峠への急な上り坂が始まるところに由比の一里塚跡があり、また、「望嶽亭」と呼ばれる家がある。
「望嶽亭」は、室町時代末期、すでに名所図会にもその名を残していると言われていて、特に江戸時代に入り東海道五十三次の「由比」と「興津」との間宿で脇本陣・お立場・茶亭・網元の「藤屋」として有名になったとのこと。
入り口を入ると「望嶽亭」の書の額が掛かっていたが、静かで誰も居ないように思われたが、玄関には7?8人の靴が脱いであった。勝手に靴を脱いで奥に進むと、右手の方から話し声が聞こえ、進んでゆくと10人ほどの人が思い思いの場所に腰を下ろしているなかで80歳は越したと思われるおばあさんが熱心に何か話しておられる。
おばあさんも私が廊下を進んで来たのに気が付き、どうぞと声を掛けてくれた。
後で分かるのだが、おばあさんは数年前に当主の松永宝蔵氏が亡くなられてからは、娘さんと家を守っている「さだよ夫人」であった。
幕末に府中で西郷隆盛と江戸開城についての話し合いをするために、「さった峠」を越えようとして官軍に追われ「望嶽亭」に逃げ込んできて、隠し階段から逃がした顛末を瑞々しく話すのである。話は30分は続き、貴重な話を伺ったが、それ以外にも山岡鉄州が残していったピストル、宝蔵氏が書き残した顛末記の巻物、文人の残した書などを見せていただいた。
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yui_029.jpgyui_030.jpgyui_032.jpgさだよさんは、帰りには玄関まで見送ってくれたが、松永家はかつては、「さった峠」も含めこの辺の土地は全て持っていて、かつ網元でもあったが、ずいぶん小さな家となってしまったと言っていたが、それでも室町時代に遡る松永家を守るとの気迫は感じさせられた。
「さった峠」への上り坂を登り始めると、東名高速の橋桁が海上になっている場所であるのが良く分かる。やがて上り坂が一段落したと思ったところに、2つの石碑が建っており、大きい方は文字が読めなくなっていたが、小さい方は「さったぢぞうみち」と書かれていた。さった地蔵」とは興津井上町(旧さった村)所在の東勝院の通称で、この先で東海道から分かれて参詣道がつながっているとのこと。
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峠の休憩広場にはトイレも完備されていて、車で駐車場まで上ってきた人達でごったげしていたので、さらに進むと「さった峠の「絶景ポイントの展望台」があり、薄く霞んでいるが、富士山も何とか見えていた。
やはり、くっきりとした富士山を望むなら秋にでも来る必要がありそうだ。
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「さった峠」を通り過ぎると、峠での今川兄弟の戦い、武田と後北条の戦いなどの表示板があり、さらに進むと、中道と上道の分岐点に達するので、中道を選ぶため、左側の道を下って行くと、樹林のトンネルになっているような場所を通って、墓場の真ん中を通る場所にでる。もう峠は通り越して興津の宿ももう直ぐだ。
続きは、新しいエントリーで・・・・

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