2008.03.22

安中から横川

本日の万歩計35,349(23.7Km)
5:32発の横須賀線で東京駅に向い6:24発の長野新幹線で高崎まで乗車して、碓氷峠越えが廃線になって、すっかりローカル線となってしまったJR信越本線で安中に7:42に着く。大勢の高校生が駅から吐き出されてきて、直ぐ右に向かうので、釣られて道を間違えそうになって、からくも国道18号で碓氷川に掛かる「久芳橋」を渡る。
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橋の上からは、独特な景観を示す「妙義山」の山々とまだ白い雪をまとった「浅間山」が良く見える。
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下の左側の写真は国道にかかる横断歩道橋の上から撮ったものであるが、遠くに「妙義山」と「浅間山」が見える。左斜めの道が「安中市街」への道で、進むとところどころに古い建物を残した静かな街が続く。
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「伝馬町」と書かれた交差点を右に曲がり、坂道を上ってゆくと突き当たりに「碓氷郡役所」の建物がある。明治11年に行政単位を郡とするための郡区町村編成法が制定されたのを受けて明治12年に建設された。左隣には日本キリスト教団安中教会がある。同志社大を設立した新島譲の祈念会堂が教会の中心部分を成す。新島譲は安中藩祐筆の長男であったとは今回始めて知ったが、元治元年(1864年)に国禁を犯しアメリカに渡り帰国後、この安中に戻り両親と再会したとのこと。近くに「新島譲旧宅」も残っている。
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少し進むと、安中郡奉行の役宅があった。まだ9時には時間があり、中に入れず外からの写真撮影のみだ。明治初期の郡を行政単位としたときの名残だが、ずいぶんと権威があったのだろうか。(下の左の写真)
さて、その次は復元された安中藩の武家長屋である。4軒長屋であるが、武家でも長屋に入っていたとは知らなかった。公務員の宿舎みたいなものだろう。
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annaka_011.jpg安中の宿も終わりに近づいたところで、中山道の街道からは少し離れているが「新島譲の旧宅」を見に行くことにした。ここも見学は9時からで、おじさんが掃除機でお掃除中。同志社大学の創始者であるため、関西からの訪問者が多いそうだが、最近は海外からの見学者も増えているとのこと。
annaka_012.jpg国道18号を跨いで進んで行くと、右側に大きな上水道の給水タンクがあり、「安政の遠足(とおあし)」の絵が描かれていた。「安政の遠足」とは、安政2年(1855)に安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりという。昭和50年から同じコースで毎年現在の遠足(とおあし)が行われているとのことだが、距離は28Kmほどでも山道だからフルマラソンの42Kmと比べても大変ではなかろうか。
すぐに、安中と松井田の「間の宿」の原市の杉並木が始まる。かつては700本ほどもあったそうだが、いまは多くは残っておらず、しかも近年に植えられた若い木も多い。
杉並木を過ぎると、原市の茶屋本陣跡があり、「明治天皇御小休所」の碑が建っていた。
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古い町並みが延々と続き、妙義山の姿も近づいてきたようにも見えるが、電信柱が邪魔をしてカメラのシャッターを押すのはためらわれる状態が続く。
やがて、右手に「八本木延命地蔵尊」と左手に「八本木立場茶屋跡」がある。地蔵尊は安中市の重要文化財指定であり、大永5年(1525)に城主安中忠清が生まれ故郷の越後から勧請して創建したもので、日本3地蔵(新八田、八本木、壬生)とされ善男善女の崇拝を集めたという。特に江戸時代に高崎城の2代城主酒井家次が深く帰依し、また参勤交代の大名も下乗、下馬して参拝したという。
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「すずめのお宿」として名高い「磯辺温泉」には一度は行って見たいと思いながら、左折すれば「磯辺温泉」への道という交差点を通り越して、安中市郷原に入って行く。しばらく進むと「村社日枝神社」があり、ご多聞にもれず、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難いが境内の石灯籠はよい感じであった。「浅間山」も頭を見せて街道は続く。
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時刻は10時30分だが、お昼には早いのにやけにお腹が空く。幸いにも松井田バイパスとの合流点にセブン・イレブンがあり、菓子パンを買ってかじりながら歩く。バイパスの直ぐ横は碓氷川に向かって崖となって落ち込んでおり、遮るもの無く「妙義山」と「碓氷川」が良く見える。直ぐに旧街道はバイパスと別れ、松井田の市街に入って行く
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松井田市街を抜けたころ、右手に「補陀寺(ほだいじ)」がある。禅宗で凛とした感じで、後北条氏の宿老であった大道寺政繁の眠る寺である。豊臣秀吉の小田原攻めのとき松井田城を守っていた正繁は前田利家の軍に破れ、降伏して豊臣軍に加えられたが、後に自らの主城の川越城で切腹させられた。その後、加賀・前田家の行列が寺の前を通るたびに墓は悔しい「汗」を流したという。
街道は松井田警察署のところで、より細い旧道に入って行き、上信越自動車道を潜って、新堀という在所を通り、さらに進んで五料に至る。
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五料には茶屋本陣があり、しかも「お西」と「お東」と呼ばれる2つの建屋がある。それで、少なくとも2組の貴人の食事、休憩などが可能であったが、碓氷の関所の待機場としての必要性だったのだろうか。下の写真は「お西」の建屋全景とその前庭である。
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annaka_026.jpg3月3日のお雛さまが過ぎて久しいが、何故か「お西」の中では「お雛様」が展示されていた。それも、座敷のみならず廊下にまでおびただしい数のお雛様が並んでいた。2階は資料展示室になっていて、種々雑多なものが多数集められていたが、記録に残す価値があるものは見当たらなかった。
一方、「お東は」静かでゆっくりと屋敷内部を観察できる雰囲気であった。下の右写真は建屋全景と「上段の間」である。

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annaka_030.jpg国道にぶつかるところに、先ほどの茶屋本陣とは何ら関係の無い「茶屋本陣」と名乗る食事処があり、もう時刻は1時近くでやっと食事にありつけた。本陣御膳と言うのをたのんだが、値段の割には内容、味ともにいまいち。厨房を覗いたら年配のご婦人が1人で調理していた。
annaka_031.jpgともかく、お腹を満たすことが出来、上越本線の踏切を渡って五料の峠の丸山坂を登って行く。道の傍らには古い石碑、石仏が多く、なかには土の中にほとんど埋もれたようなのも見られる。写真で4つ並んでいる石仏で一番右は夜泣き地蔵と呼ばれているもので、その前には茶釜石がある。茶釜石をたたくと、明らかに石とは違う、カーンカーンと言うような音がする。中が空洞になっているのだろうか。説明板には、
「この奇石は,もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石を叩いて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。五料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石音打(値打ち)を聞いて通る旅人この石を叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。人々は,この石を叩いてその不思議な音色を懐かしんでいます。五料の七不思議の一つに数えられています」とある。
annaka_032.jpg進んで行くと、碓氷郷の一宮である碓氷神社があり、そこで踏み切りを渡り国道に沿って進んで行く。800mほど進んで再び踏み切りを右に渡るが、この辺は鉄道と国道で旧中山道はほとんど壊され、ところどころ断片的に残っているだけのようだ。

本当に今日は良く晴れて暖かい。4月下旬の陽気だ。シャツのみで歩いていても汗ばむほどだ。崖の斜面には、名は知らないが一面に黄色い花が咲き乱れ、土筆も顔をだしていた。待ちかねた春が来たのを実感する。
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annaka_035.jpgともあれ、やっと横川駅に到着した。駅前には明治十八年創業で、駅弁の始まりをなした「おぎのや」が店を開いている。かつては、碓氷峠を越えるために列車の後ろにも機関車を連結したが、そのために停車時間が長いので駅のホームでの弁当販売に都合がよかった。碓氷峠を越えるJR信越本線が廃線になり、どうなることかと思っていたら、いまでは直営のドライブインを5ケ所に開き、他社経営のドライブインでも「釜飯」を販売する体制を築き、以前にもまして繁栄しているのではと思われる。
annaka_036.jpg時計を見ると2時6分で、次の高崎行きの電車は2時56分だ。時間がありすぎるので、碓氷の関所跡を見に行くことにした。もう門のみしか残されていないが、江戸時代は箱根の関所と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。有吉佐和子の「和宮様御留」の一場面を思い出す。
「女改めというのはなんのことやろ」
「改め婆というのが居て、眼鏡をかけてみるのやそうにございます」
「何をえ」
「男と違うかどうか」
「どないして」
「さあ、前を開けるよりほかにありまへんやろ」
「それを眼鏡で」
「はい、改め婆が」

線路の向こうには「碓氷峠鉄道文化村」というのが出来ており、碓氷峠で活躍した列車が並んでいた。入場料を払って中に入ると、より詳しく色々と見られるのだろう。
駅に戻ると、駅前にもこの峠を登るのに活躍したEF63-3という電気機関車の動輪が飾られていた。
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2008.03.29

坂本(横川)から軽井沢

本日の万歩計33,528(22.5Km)
今日は、中山道歩きでも和田峠と並んで最大の難所で、熊の危険もあるという「碓氷峠」越えである。途中、高崎で新幹線から信越線に乗り換え8時02分に「横川駅」に到着。早速、朝8時から営業している「おぎのや」に寄り、先週食べ損ねた「峠の釜飯」を「お味噌汁」付きでいただく。美味しかった。以前はそれほどと思っていなかったが、久しぶりで美味しいのか、腹が空いていたからか、「おぎのや」の調理方法の進歩か、とにかく美味しかった。お昼用に1つ買って(重いのが玉にきずだが)リュックに詰め歩き始める。
まずは、先週も訪れた「碓氷の関所跡」に行き、気を引き締めて歩き始める。真っ直ぐ進むと、「薬師坂」と書かれた大きな石碑があり、ここで旧国道は左に分かれて大きく迂回するが、歩く道は直進する。
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急坂の途中に、旅の平穏を願う薬師堂が建っている。斜面に建てたためか、柱で支えたお堂であるのが珍しい。直ぐに国道に合流して「坂本宿」に進んで行く。やがて「坂本宿」の大きな表示杭が現れ、真っ直ぐ向こうには「刎石山」が立ちはだかっている。
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「坂本宿」は人口732人、家数162軒、本陣2、脇本陣2、旅籠40軒で前後に碓氷関と碓氷峠の難所が控え宿場の規模のわりに旅籠の数が多い。下の写真(左側)は、佐藤本陣または上の本陣と呼ばれていた本陣跡である。佐藤本陣は明治8年には小学校として使用され、佐藤家はその後他所に移り、明治34年に分家であった「小竹家」が建てたのが現在の建物とのことであるが、やはり立派である。
道路際には、「中山道坂本宿屋号一覧」という看板があり、当時の屋号が記載されていた。
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当時の代表的な旅籠の雰囲気を良く表している「かぎや」の屋号の旅籠があった。説明板には、370年前、高崎藩の納戸役鍵番をしていた武井家の祖先が坂本に移住し、旅籠に役職にちなんだ名をつけたとあった。さて、いよいよ「刎石山」が大きく迫ってきた。
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「坂本宿」も終わりに近づき、「刎石山」から移した「芭蕉句碑」があった。 「ひとつ脱いで うしろに負ひぬ 衣かへ」 と書いてあるそうだが、字が難しくて読めない。
そして、最後は「八幡宮」で、宿は終わる。
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国道18号が右に大きくカーブするところで、旧中山道は大きな貯水タンクの横を進み、暗渠の蓋になっている道を進む。
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真っ直ぐ進んで、突き当たったら左に曲がり、階段状の道を上る。以前、この上り口が分かり辛いとされていて、注意深く見つけるようにと書かれていたものもあったが、小さいながらも「中山道」の道標があった。
しかし、この上りは元の中山道であるはずがなく、国道を作って途切れた中山道を繋ぐ苦肉の策であったのだろう。
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階段状の道を上ると直ぐに国道を横切り、向こう側に「中山道」の上り口が、「碓氷小屋」と書かれた休憩所とともに見えてくる。この休憩場所で「熊除けの鈴」をリュックに取り付け、いよいよ峠越えに挑む。いきなり急な上りが続く。
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「安政遠足(とおあし)」と書かれた立て札があるが、これは安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりで、現在も復活して毎年行われているものである。それで、立て札が碓氷峠の熊野神社まで頻々と立てられていて心強い。そして、関所抜けを見張った堂峰番所の跡。建物の土石、石垣などが残っていると書かれていたが、分からなかった。
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その後、坂道は河原のように、しかし角張った石がゴロゴロしている急坂を上る。息が切れて、苦しい上りである。この辺りが難所の「碓氷峠」でも特に厳しい場所で、「刎石坂」の名前の付いている坂である。激しい運動で暑くて汗が滲み出してきて、芭蕉ではないが、着ていたジャンバーを脱ぎうしろのリュックに縛り付ける。途中、柱状節理の見事な壁があり、火山により形成された山であることが分かる。本当に難所であり、石仏群も配置されている。坂本宿に移設された「芭蕉の句碑」も元はここにあったとのこと。確かに、ここに在ったのでは見る人はとても少ないので、移したのだろう。
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苦しい上り道が右に曲がって、突然通って来た「坂本宿」のみならず、安中の街並みまで望見できる「覗き」と呼ばれる場所に着き、一息入れる。一茶が「坂本や袂の下の夕ひばり」と詠んだところである。
その後、少し進むと大きな「馬頭観音」があり、これを過ぎると坂道は緩やかになり、だいぶ楽になる。
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溶岩の裂け目から湿った空気が噴出す「風穴」がある。「刎石山」には3ケ所ほど「風穴」があるそうだが、湿った空気が常時噴出すため、岩の周りの苔もひときわ濃くなっている。U字型に掘れた道が延々と続く。
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刎石茶屋には水がなく、ここに井戸を掘ればよいと、弘法大師が教えたと伝えられている「弘法の井戸」がある。覗き込むと綺麗な水が湛えられており、長い柄の付いた柄杓が置かれていた。山頂に近い場所で水が湧くのは珍しいが、山体が大きいと、多くの水を蓄えられるということであろうか。そして、「熊出没注意」の表示。
坂を上って平らな場所に出ると、4軒茶屋跡の立て札があった。今は木が茂って茶屋があったなどとは思えないが、石垣などが残っているのを見ることが出来た。
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平坦な道が続いて、菅原道真が右大臣についた昌泰2年(899年)に関所を作った跡と言われている場所に着いた。当時坂東で跋扈した盗賊を取り締まるたであったという。現在では綺麗な休憩所が建てられていて、旅の思い出を綴るノートも置かれている。私も早速書いてみる。
平坦でずいぶんと楽で歩き易い尾根道を進んで行くと、北条家の宿老であった大道寺政繁が秀吉勢の前田利家軍を迎え撃つため、道を狭くそぎ落としたという、「堀切」に着く。距離は数メータほどで、これで効果があったのかと思えるほどであった。
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道の危険な場所にはよく馬頭観音が置かれる。見逃したが、まず南の馬頭観音があり、右側が崖になっている場所に北の観音あった。一里塚があったとの立て札もあったが、こんな山の中でどこが一里塚か分からない。
さらに、進んで行くと、「座頭ころがし」と呼ばれる急な坂道となる。急坂とは言っても、刎石坂に比べればはるかに歩き易いところと思えるのだが、赤土で湿っていて、滑り易すかったのだという。稜線に出ると信州側から吹き付ける風が強く、冷たい。おそらく零度に近い。慌ててジャンバーを着る。木がこすれあって不気味な音を立てる。
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中山道を歩いた記事で必ずと言ってよいほど、登場する遺棄された車である。バカなと思うとともに、よくここまで車を運転してきたものだと感心する。どう見ても通れないような山道で、よほどアクロバティックな運転技術を備えた者の仕業だろうか。
そして、栗が原と呼ばれる、明治天皇御巡幸道路と中山道の別れる場所に着く。少し広々した場所で、明治8年群馬県で最初の「見回り方屯所」が作られた。これが交番の始まりという。
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進んで行くと「入道くぼ」と書かれた立て札があり、その後ろに線刻の馬頭観音。
そして、「山中茶屋跡」に着く。説明板には、寛文2年(1662年)には13軒の立場茶屋や寺、茶屋本陣が置かれ集落を形成した。明治期には学校もでき、明治11年(1878)明治天皇御巡幸の際には、児童が25人いたので25円の下附があったとある。
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ずいぶんと、道も広くなりこれなら車も走れる感じだが、急な上り坂の「山中坂」で、別名「飯喰らい坂」とも言うとのこと。「坂本宿から登ってきた旅人は、空腹ではとても駄目なので、手前の山中茶屋で飯を喰って登った」とある。そして、「陣場が原」に着くが、ここは武田信玄と上杉謙信の「碓氷峠の合戦跡」とのこと。真っ直ぐ進めば、和宮様降嫁の際に新たに作った「和宮道」であるが、左に見える細い道が旧道である。旧道を進むことに決めていたが、旧道への説明が何も無く、本当にここを入ってよいのか、地図を見て慎重に検討せざるを得なかった。不親切である。
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旧道を歩いて行くと、水の枯れた小さな沢に「化粧水」と書かれた立て札があり、旅人がここで、姿、髪を直したりしたとあるが、今は何の変哲もない場所であった。次に沢の水音が聞こえてきた。人馬施行所跡である。立て札には、「笹沢のほとりに、文政11年江戸呉服屋の与兵衛、安中藩から間口17間、奥行き20間を借りて人馬が休み家をつくった」とある。碓氷峠唯一の水場であり、ゆっくりと休憩を取りたいところだが、水場には熊なども水を飲みに来るので遭遇のチャンスも多く、早く通り過ぎるべきであるらしい。
水場の後も、辛い上り道が延々と続き、相当にへばったころ、ようやく平坦で歩き易い道になり、「和宮道」と合流し、そこに「」仁王門跡」と「思婦石(おもふいし)」がある。
「思婦石」の説明板には、群馬郡室田の国学者関橋守の作で安政4年(1857)の建立である。 
「ありし代に かえりみしてふ 碓氷山 今も恋しき 吾妻路のそら」

とある。日本武尊が妻を恋い偲んだことを詠んだものと言われている。
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「思婦石」の傍らには「野生動物生息地域」の看板があった。この看板は、「弘法の井戸」にあった単に「熊出没注意」に比べ具体的に対策等も書かれていた。私の持ってきた鈴は音が小さく、あまり役に立ったとは思えないが、幸いにも熊には出くわさなかった。
そして、ようやく「碓氷峠」の茶店の看板が見えてきたが、まだ何処も開いていない。
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熊野神社に到着。祀神は伊邪那美命(いざなみのみこと)と、日本武尊(やまとたけるのみこと)。神社の真ん中が長野県と群馬県の県境になっている。降った雨もここで、日本海側に流れるか、太平洋側に流れるかが決まる。
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階段の上り口には、室町時代中期の作というかなり風化の進んだ胴の長い狛犬がある。向かって右側で口を開いているには雄」で阿(あ)で、左側は雌で叫(うん)で対をなしていると書かれていた。
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石段の上の両側に軽井沢の問屋佐藤市右衛門が家紋の源氏車を刻んで奉納した石車がある。「碓氷峠のあの風車、たれを待つやらくるくると」の追分節で知られた「石の風車」であると言われるが、追分節を知らない。
それにしても、お賽銭箱まで長野側と群馬側に分かれているのは驚く。宮司さんも一人のようだが・・・。
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熊野神社を過ぎて、見晴台を訪れようと歩いて行くと、1軒だけ営業している食堂があり、名物の「力餅」を食べることができた。ここでは、車で登ってくる観光客も多く、かなり賑わっていた。ストーブが焚かれ、人が集まってきていて、ここではまだ冬の様相であった。
見晴台では、最初にインドの詩人タゴールの胸像が目に付く。アジアで初めてノーベル文学賞を受けたタゴールは大正5年(1916)に日本女子大学長成瀬仁蔵の招きで軽井沢を訪れ、毎朝真珠のような詩を女子大生に聞かせたとあった。
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見晴台からの眺望は素晴らしいもので、折り重なる上州の山々、また、雄大な浅間山の眺めは、安中で見たものに比し、一段と雄大なものであった。
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近くの山でひときわ特徴的なのが、離山(はなれやま)。2万2600年前に浅間山の溶岩ドームが形成され、離山となった。標高は1,256mで、その形からテーブルマウンテンとも呼ばれる。
見晴台を離れ、中山道の旧道は崩落が激しく危険とのことで、ほぼ旧道に近い形で作られた遊歩道を下る。入り口には「熊の生息地域」の注意看板があり、山道には違いないが歩く易い道で、40分ほど下って吊橋に到達する。この吊橋を渡ると道は広くなり、別荘が目に付くようになる。
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やがて、旅人が飯盛女と名残りを惜しんだという「二手橋」を渡ると、軽井沢で別荘1号で有名な英国人宣教師「アレキサンダー・クロフト・ショウ」の胸像とショーの記念礼拝堂がある。明治19年に布教のため軽井沢を訪れた「ショー」が旅籠「つるや」の廃材をもらって、2年後に築いたのが別荘1号と言われており、内外に避暑地として紹介して、現在の軽井沢の隆盛をもたらした。写真右は復元されたショーハウスと呼ばれる彼の別荘である。
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少し行くと、大きな「芭蕉の句碑」があり、
馬をさえ ながむる雪の あした哉
と書かれている。 流石に軽井沢だけあって、英訳も書かれていて、
In the morning, the snow lies thick on the ground. Not only people, but horses seems to be elegant.
と書かれていた。うまく訳すものだと感心する。
昔の軽井沢の面影は全く残っておらず、わずかに江戸時代の茶屋「つるや」が、その後ホテルとして営業して名前のみを残している。
そして、旧軽井沢の街並みは大勢の若者で今日も賑わっており、しゃれた店が立ち並ぶ。「坂本の宿」を出てから、熊野神社までの碓氷峠越えで、僅かに2組、3人の人に会っただけとは大きい違いである。
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遅い昼食をとり、軽井沢駅に向かう。新幹線が開通してからの新しい駅舎と、その右側に保存された旧駅舎である。
ちょうど3時21分発の新幹線に乗ることが出来、東京駅に向かって帰宅の途に着いた。
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2008.04.05

軽井沢から岩村田

本日の万歩計40,595(27.2Km)
新幹線のおかげで朝の7:30に到着して先週に中山道より離脱した六本辻に向かう。しかし、軽井沢の朝は寒く、この季節でも3?4度と言ったところ。六本辻を通る道路は、「離山(はなれやま)道路」と呼ばれていて、樹林帯の中を貫いている。しばらく行くと、道路の名前の由来の「離山(はなれやま)」の丸い山体が冬枯れた樹林の間に顔を出す。新緑の季節には、また鮮やかな装いを凝らすのだろう。
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やがて、左手に見える軽井沢高校を通り過ぎると、ここだけ樹林帯も途切れて「軽井沢ロンギングハウス」と書かれた洒落たホテルがある。軽井沢はホテルでもレストランでも洒落た感じの建物が多い。
次に、現れたのは「市村記念館」である。なぜか4月は建屋はオープンしないと書かれていたが、外から見ることは出来た。大正15年に近衛文麿公が建てた洋式の別荘で、その後、親交のあった市村今朝蔵氏が購入して長年使用していたが、平成9年に遺族の旧姓市村信江、令子姉妹が軽井沢町に寄贈したものとのこと。
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今日は、良く晴れていて終日「浅間山」を見ることができた。流石に、碓氷峠で見るより近くに迫ってきて、肉眼では噴煙も微かにみることが出来た。
oiwake_005.jpgoiwake_006.jpgoiwake_007.jpg軽井沢中学校前で「しなの鉄道」の踏切を渡って、500mほどで「中軽井沢駅」に着く。おそらく鉄道の建設で中山道が壊されたためであろうか、駅の裏の現在は墓地になっているところの片隅に「一里塚」の石碑がある。中山道で、まともな一里塚は稀にしか見られない。
進む道は、線路の下を潜って、国道18号にぶつかるが、国道を渡ると直ぐに横を流れる「湯川」に橋が架かっていて「長倉神社」に参拝できる。境内は広いが社殿は荒れている。広い境内で川に面して一段低くなった部分は、子供の遊び場となっていて遊具も備え付けられているが、そこに「沓掛時次郎」の大きな石碑があり、「千両万両枉げない意地も 人情からめば弱くなる 浅間三筋の煙の下で 男 沓掛時次郎」と書かれている。長谷川伸の原作で映画化されて一世を風靡したそうだが、架空の人物でも石碑が建つのは面白い。東海道の戸塚宿の「お軽勘平 戸塚山中道行の場」の石碑と同じだが、日本人はつくづく石碑を建てるのが好きらしい。
oiwake_008.jpgoiwake_009.jpgoiwake_010.jpg軽井沢は別荘地として富裕層、文人達の間で人気が高まったが、これにあやかろうと沓掛宿は「中軽井沢」と名前を変えた。昔の遺構も残っていない。民家の表札に「本陣」の字が見えるとの事だったが、見つけられなかった。結局、ここが沓掛であることを示すものは、架空の人物とは言え沓掛時次郎の石碑ぐらいだろうか。500mほどで国道と別れ「古宿」と呼ばれる集落に入って行くと、道端に馬頭観音を主とする石碑群が多く見られる。かつて中馬と呼ばれる陸上輸送に携わる人達の宿として栄えたことを示している。
「古宿」を抜け一旦国道に合流後に直ぐに離れて「借宿」と呼ばれる地域に入って行く。「古宿」同様、小さな集落でここにも「馬頭観音」の石碑が随所に見られる。集落にある「遠近(おちこち)神社も、かつての繁栄の名残かも知れない。家の軒に立派で小さな屋根をもう一つ設けてた家があった。始めてみる形である。折りたたみ自転車に乗った父子が傍らを通り過ぎてゆく。
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再び国道に合流して500mほど進むと、国道の両側に「一里塚」がある。「一里塚」が道路の両側に残っているのは珍しい。そして、進路は国道から右に分かれて「追分宿」に入って行く。
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直ぐに、右側に「浅間神社(あさま)」があり、境内に芭蕉句碑(左の写真)と追分節の発祥の地の碑があった。芭蕉句碑は、大きくて「吹き飛ばす 石も浅間の 野分け哉」とある。追分節は、馬子唄として歌われていたものが、三味線付きで歌われて洗練して追分節となる。その後、この追分節は北国街道を北上して、越後から北海道までの関東以北にまで広まったという。その中でも江差追分は、有名だ。
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堀辰雄の文学記念館がある。入り口の門は本陣の門を移設したもの。
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門を入って進んで行くと、右手に受付があり入場券を買って、展示物を鑑賞する。右の写真は、堀辰雄の旧邸である。別に夫人が昭和45年に建てた新しい家屋もある。
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堀辰雄が楽しみにしていて死の10日前に完成した書庫の建屋。蔵書の並べ方まで夫人に色々と病床から指示していたが、本の並びを見ることなく夫人に看取られながら息を引き取った。結核に苦しみながらも、「風たちぬ」、「菜穂子」、「聖家族」など多くの作品を残し、軽井沢を愛した50歳の人生であった。展示物の中には佐藤春夫、室生犀星などの弔辞の自筆文も並べられていた。
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堀辰雄文学記念館を出ると直ぐに脇本陣であった「油屋」が、今も高級旅館として運営していた。そして、復元したのか立派な高札場がある。
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短い「追分宿」が終わりに近づくと「泉洞寺」がある。元三河武士の心庵宗祥禅師が開祖であるが、長篠の戦いで多くの死傷者を目の当たりにし、無常を感じ出家して後に開創したという。門前にも多くの石仏が集められており、境内の裏手には堀辰雄が愛した半跏思惟の石仏があるとのことだが、見逃した。
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時計を見ると11時になっていたので、先に進むと食事をする場所に困ると、近くの店に入ったが、食事は12時からという。まぁーしょうがないと、コーヒーを頼んで休息を取る。なかなか美味しいコーヒーだった。
結局、国道に合流するところでラーメン屋に入り(なかなか美味しかった)昼食を摂った。少し進んで「分去れ(わかされ)」に到着。常夜燈、石碑、石仏と色々なものが建っている。「さらしなは右 みよしのハ左にて 月と花とを追分の宿」とある。右側は北国街道で月の名所の更科へ、左は桜の花で名高い吉野方面と言う歌であろう。国道には骨董品の店があったが、追分宿の中にある骨董品屋がここに出てきたのだろうか。
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国道から左に分かれて「御代田」に向かう。まだまだ、樹木が多い道で、緩やかな下り道である。御代田の町に入ろうとするところに、「千ヶ滝湯川用水温水路」がある。浅間山の湧水、雪解け水を農業用水に活用するため、慶安3年(1650)、柏木小石衛門が開削したもので、水温を上げるための設備である。広い水面だが、水深は数センチぐらいと浅い。
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まだまだ、浅間山は良く見える。御代田駅の少し手前には、御代田の一里塚がある。道路が横に移動したため、民家の裏の方にある。2つの内、一方は立派な枝垂桜の木が植えられているが、まだ蕾も見えない。開花時期には見事であろう。
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御代田駅の横で線路を地下道で潜る。まだまだ緩やかな下り坂は続いていて、御代田町荒町では、沓掛宿の標高が940mに対し、この辺で790mとのこと。旧家の塀の下り坂に合わせた作りが面白い。
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やがて、「小田井宿」に着く。本陣1、脇本陣1、旅籠5軒の小さい宿であったが、古い家並みが良く保存されている。また、追分宿の飯盛女を嫌って、皇女和宮をはじめ29人もの姫君が休憩を取った宿で別名「姫の宿」とも呼ばれたという。
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最初に真言宗の「宝珠院」に寄る。入り口付近にあるとても大きな馬頭観音の石碑。山門を入って直ぐにあるアカマツは2本を寄席植えしたものとのことだが、2つが完全に融合した感じで見事な枝振りである。また、奥のほうには樹齢300年と言われる枝垂桜の木。貫禄がある。
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茅葺で趣のある鐘楼を眺めながら街道に戻ると、今も安川家が住宅として使用している本陣跡がある。いつまでも残して欲しい。
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下図も左は、安川家の持ち物の「問屋場」である。そして右は旅籠であるが、現在は学習塾として使われているようだ。
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宿の終わりが近づいたところで、屋根を瓦で葺いた見事なバス停の待合場所があった。これなら本でも読みながら、少々長い時間でも待てそうだ。そして最後にもう一つの「問屋場」。小さい宿だが「問屋場」は2ケ所あったのである。
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広い道路に合流して岩村田に向かう。道の左側に鵜縄沢端(うなざわはし)一里塚の説明板が立っていたが、雑木林のようになっていて良く分からずスキップする。まだ浅間はよく見える。道端には大きな千手観世音の石碑。そして、住吉神社に寄ると、樹齢400年の大きな欅(けやき)の木。内部は空洞になっていたが、まだ大丈夫そうだ。




次に、「龍雲寺」を訪れる。大井氏が開いた曹洞宗のお寺であるが、武田信玄が大井氏を破った後に再建した。見事な山門である。右の方の渡り廊下を潜って進むと、武田信玄の廟がある。この前で信玄の遺骨も発見され、そこにも大きな五輪塔が建てられた。
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武田信玄廟(左)と五輪塔(右)
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岩村田宿の中心部はアーケード付きの商店街だが、ご多聞に漏れず、活気がなくシャッターを閉めた店も多い。岩村田宿は本陣、脇本陣は無く、旅籠が8軒のみであったが、むしろ米穀の集積地として栄えたという。相生町の信号で右に直角に曲がり旧街道を進むと、直ぐに石仏群があり、小海線の踏切を渡る。
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岩村田高校を右に見て進み、浅間総合病院を過ぎたところに「相生の松」がある。雌雄二株の松がくっ付けて植えられており、和宮降嫁の折には見事な景観を示していて、ここで野点が行われたという。その松も昭和40年に寿命が尽き、今は新たに若木が植えられている。
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「相生の松」を過ぎて、「佐久平駅」に向かうために田圃の中の道を進む。相変わらず、浅間山が見守っている。
大きなジャスコのショッピングセンターの前を通り「佐久平駅」に到着する。新幹線が出来たおかげで、1時間30分ほどで東京駅に着くことができる。8日間に渡って歩いた距離を1時間30分なのである。
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2008.04.19

岩村田から芦田

本日の万歩計31,473(21.1Km)
先週同様長野新幹線で佐久平に向い、7時41分着。
今日の天気は最新の予報では、曇りだが2日前までは曇り時々雨。現状はどんより曇った空模様で雨がパラつくぐらいのことは覚悟して歩き出した。まず、前回の中山道からの離脱点に向かって、田圃のなかの一本道を歩く。
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この辺りは水田地帯だが、中山道に復帰して歩き始めるとリンゴ畑も見られ、敷物にするロール状に束ねた藁が置かれていた。少し進んで平塚と呼ばれる集落に入って行くと、枝垂れ桜が満開で迎えてくれた。
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平塚では、やはり街道らしい建物も見られ、次の集落の下塚原に向かう途上には大きな石碑も見られた。定かでないが、庚申塔とその講の記念碑のようである。
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下塚原の集落を過ぎると、文明18年(1486年)の建立の「駒形神社」がある。一間社流れ造りの小さな社だが、騎乗男女2神が安置されており、御料牧場の「望月の牧」の東を守護した神社と推定されている。源頼朝が乗馬のままで神社に拝礼せず通ろうとして落馬した伝説があるらしい。東海道の相模川橋でも源頼朝が落馬したとの伝説があったが、征夷大将軍になって以降の頼朝の不人気を現しているのだろう。
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しばらくして、「塩名田宿」に入って行く。酒屋さんの建物は、さすがに白壁の立派な建物だが、歴史的な建物はほとんど無く、本陣も「跡」だけであった。そして、最後は「千曲川」にぶつかって宿は終わる。
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今は水量も少なくなった千曲川だが、江戸時代から明治期までは荒れ狂う「千曲川」に通行手段を確保するのに大変な苦労を強いられたようである。明治6年(1873)から木橋が架けられた明治25年までは、9艘の舟を繋いで、その上に板を渡した「船橋」が用いられた。そのための綱を張る「舟つなぎ石」が河原に残されていて、綱を結わえた穴が穿たれていた。
現在は鉄の立派な橋(中津橋)となっていて、しかも休憩のためのベンチなども設けられた歩道橋も平行して設けられている。また、東京では葉桜となっているが、ここでは染井吉野も満開であった。
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「中津橋」を渡ると「御馬寄(みまよせ)」の集落で、道は上り坂となる。「御馬寄」は望月牧の貢馬(こうば)をここで寄せ集めたことから付いた地名である。坂を登りつめると、右手にはすっかり中山道のアイドル的存在と化した「大日如来像」が浅間山をバックに鎮座していた。ハッキリしないが、300年ほど前の建立らしい。
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大日如来像の傍らには芭蕉句碑があり、「涼しさや すぐに野松の 枝のなり」とある。「野生の松のような枝振りが、かえって涼しさを感じさせてくれる」ということか。進んで、直ぐに一里塚跡があった。
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やがて、「八幡宿」の入り口にある「八幡神社」に着く。創建年は不詳だが、貞観元年(895年)創建と言われているとのこと。大変古い神社であるが、随神門、本殿の彫刻に格式の高さが伺え、重要文化財指定である。
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境内は広くは無いが、欅の巨木も見事である。街に入ってゆくと本陣の門だけが残されていた。
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街道の面影を残す街並みを辿りながら、やがて右の小道に分かれて百沢の集落に入って行く。百沢の方が古い街道の雰囲気が濃厚であり(右側の写真)、道の両側からは用水を流れる水音が絶え間なく聞こえてきた。
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百沢の集落が終わるとしばらく国道を歩くことになるが、やがて「望月城」の看板があり、右手の小道に入って行く。全くと言って良いほど車が通らない。もちろん、人も通らない静かな道だ。天気も晴れてきた。途中に江戸から45里目の一里塚跡の碑があり、さほど険しくない峠の切り通しを越すと大きな「瓜生坂」の石碑と「念仏塔」がある。昔の街道はこの辺りから、真っ直ぐ左に下りていったと説明板が建っていたが、今は道が消えているのでくねくねとした舗装道路を下りてゆく。この峠で初めて出会った人が自転車で下りてきて、追い抜きざまに「良い天気になりましたね」と声を掛けて嫉妬を感じる速度で追い抜いて行く。
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国道と合流して下ってゆくと「望月橋」があり、橋を渡る手前に岩場にへばり付くように建てられた「弁天窟」がある。室町時代末期の永正年中、近江の竹生島の弁才天を勧請したものと説明板にある。老朽化したためか、弁天窟への通路は立ち入り禁止となっていた。また、弁天窟の崖の上には「蟠龍窟(ばんりゅうくつ)」があり、急な階段が作られている。上ってみたが、あまりにも急で上りより下りが怖かった。
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iwamurata_29.jpg橋を渡って直ぐに右方向の道を行くと「望月宿」である。平安朝の初期から天皇が毎年8月15日、満月の日にここの御牧から献上される馬をご覧になる儀式があったので、望月の地名が起こったという。古い町の雰囲気はあまり残されていないが、「大和屋呉服店」のような伝統を誇る店は見ることが出来る。
短い「望月宿」を通り抜けると、道は大きくカーブしながら坂道を上って行き、バイパスの下を潜ってなおも上って行くと、昨年度閉校されたが今は一面に桜が咲き誇っている「本牧小学校」の前を通る。さらに進んで行くと眼下に間の宿である「茂田井宿」が見えるようになり、右手の細い道に分かれて下って行けば「茂田井宿」である。「武重本家酒造」と「大澤酒造」の建物を中心として重厚な白壁の家が続き、「たそがれ清兵衛」の撮影オープンセットが作られたのもなるほどと頷かされる宿である。大きな通りから離れていたからとは言え、良くこのようなところが残っていたと感心する。やはり、2つの酒屋の力が大きかったのであろう。
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とても大きく、少し傾いだ「馬頭観音碑」を見ると、間の宿である「茂田井宿」が終わりに近づき、とんでもない急坂を上って、「芦田宿」に向かう。およそ2Kmの道を進んで、やっと「芦田宿」の入り口に差し掛かる。
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yokoya01.jpg今日は、ここまでで埼玉に嫁いだ妹とその息子に落ち合うため、中山道から離脱して、待ち合わせ場所の国道筋のセブン・イレブンに向かう。今日は蓼科で1泊して明日帰宅の予定である。 ちなみに、左の写真は「蓼科」でのものである。

2008.04.26

芦田から和田

<本日の万歩計27,045(18.1Km)
今回の中山道の旅は、1泊して下諏訪まで行く計画を立てた。すっかり、慣れ親しんだ長野新幹線も今回が最後となる。今日も途中での食事処の心配で東京駅で弁当を買い込み佐久平駅には8時20分着。駅を降りて、あまりの寒さにビックリ。特に風が冷たい。何とか暖かくなってくれないかと願いながら8時56分発のバスを待ち、芦田に向かうが、乗客は途中で高齢の女性が無料パスを見せて乗り込んできて、しばらくして下車した他は私1人だけの乗車であった。芦田宿にある立科町役場前の道路には芦田宿を示す灯篭が飾られていた。
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直ぐに、今も残っている芦田宿の本陣があり、内部の見学は出来なかったが、門の中には1800年築の客殿も残っている。
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芦田宿には昔の旅籠の建物のままで今も営業している「金丸土屋旅館」がある。この旅館を通り過ぎると、短い芦田の宿も終わりで、最後のかなり風化の進んだ道祖神が旅の安全を願って見送ってくれる。
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いよいよ、笠取峠の松並木にさしかかる。東海道の御油の松並木に比べると、古い松の木は少ないが、石畳で車も通らなく良い感じである。桜も見事に咲いている。
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松並木を過ぎて国道を進むと、左側に日本橋から44里の笠取峠の一里塚がある。そして、笠取峠に達し、何も無いと思っていたら通り過ぎて少し下ったところに「峠乃茶屋」があった。寒くてコーヒーでもと思ったが、まだ準備中であった。
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そして、現在の常夜燈があり、ここから「長久保宿」である。街道歩きを始めて、灯が点っている常夜燈を初めて見ることができた。そして、国道から右側に分かれて旧国道を進んで行く。この道でも満開の桜を見ることが出来た。
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以前は、峠道の路傍に立っていたのだろうか、古い石仏が残されていた。旧国道は今はめったに車は通らなくて歩きよいが、やはり本当の旧中山道も歩きたいと思っていたら、林の中を進む道も距離は短いながら残っていた。
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長久保の街に近づいてきたところに「松尾神社」がある。京都市右京区松尾町の「松尾神社」が本社で酒造の神とのこと。小さな神社であるが、見事な建築美の本殿である。
寒い上に雨も降ってきた。街に入ってゆくと「一服処濱屋」と書かれた休憩所があった。明治初期に旅籠として作られたが、中山道の交通量が減り開業を残念したもので、持ち主の福永さんと黒沢さんの寄贈を受けて地域住民の語らいの場、旅人の休憩所として整備したとのこと。無人で無料だが、ポットで熱いお湯が用意されており、自分でお茶も入れられるようになっていた。寒くて、買ってきたお弁当をどこで食べようかと思っていたが、ちょうどお昼の時間であり、これ幸いとお茶を入れて、ここで食事とした。2階は江戸期のさまざまな生活用品などの展示場となっていた。
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少し進むと、石合家の本陣がある。門の中を覗くと本陣の建屋は既に無く、現在風の建屋にして住まわれている様子であった。「長久保」は最初「長窪」と書かれていたが、商業が発達してきて「窪」の字はよろしくないと「久保」と字を変えたとのこと。そして、街も大きくなり途中で直角に折曲がって和田宿方向に家屋が立ち並ぶようになったのである。
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「長久保」の街を過ぎると、大きく「和田宿」方向に向かって開けてくる。そして青原と呼ばれる「和田宿」の入り口には水明の里と名付けられた公園の広場があり、道路工事で集められたのか馬頭観音などが建っていた。雨は完全に本降りになった。街道歩きで、これほど本格的な雨の中を歩くのも初めてだ。
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「和田宿」に入ってバスの停留所が全て家屋風になっているのに感心した。冬が寒くて家になっていなければ、とても立って待っていられないのだろうか。雨の日でも問題ないし、文庫本の1冊も持っていれば、バスが遅れてきても平気だろうし、本当に良く出来ている。ここの画像のもの以外にも数種類ある。
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少し行くと「ミミズの双体道祖神」があった。平成5年に「ふるさとは美しく運動」というのがあり、優勝した作品とか。直ぐ横には土壌改良におけるミミズの働きなどを解説した説明板が置かれていた。それにしても、何ともユーモラスである。
さらに、進むと「水のみ場」があり、コーヒーを飲みつくして空になった魔法瓶を満たすことが出来た。
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淡々とした退屈な道であろうと思っていたが、時々見ものを提供してくれる。またまた集められた馬頭観音などの石碑があったと思ったら、「若宮八幡神社」があり、その一隅に和田郷を支配していた大井信定親子の首塚があった。信定は天文22年(1551)武田信玄に討ち取られ、これ以降は和田郷は武田氏の支配する土地となった。
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この「若宮八幡宮」の横には地下式の横断歩道がある。下の左の写真で、左に見えるのが入り口で、もう一方が右の向こうに見える。今は天気が良ければ、道路でバトミントンぐらいして遊べそうな道で地下歩道とは不思議な感じがしたが、以前はここが国道で交通量も多かったのであろう。
そして、木工品の手作り工房の「ゼペット」の看板の前を通る。ふくろうの像が面白い。
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長いアプローチ道路もようやく終わりとなり「和田小学校」に到着。桜が咲いていて、校舎も明るく瀟洒な感じであり、小学校時代を懐かしく思い出すに足りる印象であった。建っていた案内板を見て、おおよその訪問予定を考える。
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最初に、元旅籠の河内屋(かわちや)に行く。これで、しばし雨から逃れられると入って行くと誰もおらず、呼鈴を鳴らせと書いてある。呼鈴は小さな音で、一向に誰も出てくる気配が無い。「ごめんください」と声を掛けたら、やっと おじさんが出てきて300円の入場料を払って見学する。河内屋は大きな旅籠で上段の間もあるところからすると、大名、公卿クラスは本陣に泊まるが、文人、学者などが泊まったのではと思われる。
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次に訪れたのは信定寺。名前の通り、武田信玄に討たれた大井信定を弔うために建てられたお寺で、天文22年(1551)に建立。その後江戸時代に入って例幣使日光参詣のさい和田宿に泊まりで京都二条城祈願寺となり、諸大名が参詣するようになったとある。鐘楼を兼ねた山門に桜が掛かり、美しい景観である。
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次は本陣である。和田宿は和宮様降嫁の年の文久元年(1861)の3月に大火があり、宿のほとんどが消失して和宮様の宿泊所辞退を申し出たが聞き入れられず、幕府が900万両の拝借金を出し、突貫工事で再建した。これで10月の和宮様の宿泊を無事勤め終えたが、本陣長井家では明治になってから新政府から強引とも言える返済取立てで困窮して、上段の間などがある客殿は上田市の曹洞宗龍顔寺に売却し、その他の金目のものもことごとく売却して返済に充てたとのこと。そのため、いま残っているのは居住棟だけであるが、それでも部屋数も多い豪壮なものである。
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2階は展示室になっていて、当時の駕籠が並べられていた。
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少し戻って、大黒屋を撮影。長い間空き家になっていたのを改修中で公開はまだのようであった。また、進んで行くと「みどり川」と屋号が書かれた脇本陣があった。
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庄屋の長井家が、昔の建物をそのままに営業している「本亭旅館」は、和田宿唯一の宿泊施設であるが、残念ながら満杯で泊まれなかった。
和田宿はまだまだ続くが、明日を楽しみに今日の宿泊先の5Kmほど離れた「民宿みや」に電話して本亭前まで車で迎えを頼む。10分ほどで3歳の娘を乗せて若い父親が車で到着した。
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