2008.03.22
安中から横川
本日の万歩計35,349(23.7Km)
5:32発の横須賀線で東京駅に向い6:24発の長野新幹線で高崎まで乗車して、碓氷峠越えが廃線になって、すっかりローカル線となってしまったJR信越本線で安中に7:42に着く。大勢の高校生が駅から吐き出されてきて、直ぐ右に向かうので、釣られて道を間違えそうになって、からくも国道18号で碓氷川に掛かる「久芳橋」を渡る。
橋の上からは、独特な景観を示す「妙義山」の山々とまだ白い雪をまとった「浅間山」が良く見える。
下の左側の写真は国道にかかる横断歩道橋の上から撮ったものであるが、遠くに「妙義山」と「浅間山」が見える。左斜めの道が「安中市街」への道で、進むとところどころに古い建物を残した静かな街が続く。
「伝馬町」と書かれた交差点を右に曲がり、坂道を上ってゆくと突き当たりに「碓氷郡役所」の建物がある。明治11年に行政単位を郡とするための郡区町村編成法が制定されたのを受けて明治12年に建設された。左隣には日本キリスト教団安中教会がある。同志社大を設立した新島譲の祈念会堂が教会の中心部分を成す。新島譲は安中藩祐筆の長男であったとは今回始めて知ったが、元治元年(1864年)に国禁を犯しアメリカに渡り帰国後、この安中に戻り両親と再会したとのこと。近くに「新島譲旧宅」も残っている。
少し進むと、安中郡奉行の役宅があった。まだ9時には時間があり、中に入れず外からの写真撮影のみだ。明治初期の郡を行政単位としたときの名残だが、ずいぶんと権威があったのだろうか。(下の左の写真)
さて、その次は復元された安中藩の武家長屋である。4軒長屋であるが、武家でも長屋に入っていたとは知らなかった。公務員の宿舎みたいなものだろう。
安中の宿も終わりに近づいたところで、中山道の街道からは少し離れているが「新島譲の旧宅」を見に行くことにした。ここも見学は9時からで、おじさんが掃除機でお掃除中。同志社大学の創始者であるため、関西からの訪問者が多いそうだが、最近は海外からの見学者も増えているとのこと。
国道18号を跨いで進んで行くと、右側に大きな上水道の給水タンクがあり、「安政の遠足(とおあし)」の絵が描かれていた。「安政の遠足」とは、安政2年(1855)に安中藩主板倉勝明が藩士の心身鍛錬を目的に安中城内より碓氷峠の熊野権現まで7里あまりの中山道を走らせたのが始まりという。昭和50年から同じコースで毎年現在の遠足(とおあし)が行われているとのことだが、距離は28Kmほどでも山道だからフルマラソンの42Kmと比べても大変ではなかろうか。
すぐに、安中と松井田の「間の宿」の原市の杉並木が始まる。かつては700本ほどもあったそうだが、いまは多くは残っておらず、しかも近年に植えられた若い木も多い。
杉並木を過ぎると、原市の茶屋本陣跡があり、「明治天皇御小休所」の碑が建っていた。
古い町並みが延々と続き、妙義山の姿も近づいてきたようにも見えるが、電信柱が邪魔をしてカメラのシャッターを押すのはためらわれる状態が続く。
やがて、右手に「八本木延命地蔵尊」と左手に「八本木立場茶屋跡」がある。地蔵尊は安中市の重要文化財指定であり、大永5年(1525)に城主安中忠清が生まれ故郷の越後から勧請して創建したもので、日本3地蔵(新八田、八本木、壬生)とされ善男善女の崇拝を集めたという。特に江戸時代に高崎城の2代城主酒井家次が深く帰依し、また参勤交代の大名も下乗、下馬して参拝したという。
「すずめのお宿」として名高い「磯辺温泉」には一度は行って見たいと思いながら、左折すれば「磯辺温泉」への道という交差点を通り越して、安中市郷原に入って行く。しばらく進むと「村社日枝神社」があり、ご多聞にもれず、お世辞にも手入れが行き届いているとは言い難いが境内の石灯籠はよい感じであった。「浅間山」も頭を見せて街道は続く。
時刻は10時30分だが、お昼には早いのにやけにお腹が空く。幸いにも松井田バイパスとの合流点にセブン・イレブンがあり、菓子パンを買ってかじりながら歩く。バイパスの直ぐ横は碓氷川に向かって崖となって落ち込んでおり、遮るもの無く「妙義山」と「碓氷川」が良く見える。直ぐに旧街道はバイパスと別れ、松井田の市街に入って行く
松井田市街を抜けたころ、右手に「補陀寺(ほだいじ)」がある。禅宗で凛とした感じで、後北条氏の宿老であった大道寺政繁の眠る寺である。豊臣秀吉の小田原攻めのとき松井田城を守っていた正繁は前田利家の軍に破れ、降伏して豊臣軍に加えられたが、後に自らの主城の川越城で切腹させられた。その後、加賀・前田家の行列が寺の前を通るたびに墓は悔しい「汗」を流したという。
街道は松井田警察署のところで、より細い旧道に入って行き、上信越自動車道を潜って、新堀という在所を通り、さらに進んで五料に至る。
五料には茶屋本陣があり、しかも「お西」と「お東」と呼ばれる2つの建屋がある。それで、少なくとも2組の貴人の食事、休憩などが可能であったが、碓氷の関所の待機場としての必要性だったのだろうか。下の写真は「お西」の建屋全景とその前庭である。
3月3日のお雛さまが過ぎて久しいが、何故か「お西」の中では「お雛様」が展示されていた。それも、座敷のみならず廊下にまでおびただしい数のお雛様が並んでいた。2階は資料展示室になっていて、種々雑多なものが多数集められていたが、記録に残す価値があるものは見当たらなかった。
一方、「お東は」静かでゆっくりと屋敷内部を観察できる雰囲気であった。下の右写真は建屋全景と「上段の間」である。
国道にぶつかるところに、先ほどの茶屋本陣とは何ら関係の無い「茶屋本陣」と名乗る食事処があり、もう時刻は1時近くでやっと食事にありつけた。本陣御膳と言うのをたのんだが、値段の割には内容、味ともにいまいち。厨房を覗いたら年配のご婦人が1人で調理していた。
ともかく、お腹を満たすことが出来、上越本線の踏切を渡って五料の峠の丸山坂を登って行く。道の傍らには古い石碑、石仏が多く、なかには土の中にほとんど埋もれたようなのも見られる。写真で4つ並んでいる石仏で一番右は夜泣き地蔵と呼ばれているもので、その前には茶釜石がある。茶釜石をたたくと、明らかに石とは違う、カーンカーンと言うような音がする。中が空洞になっているのだろうか。説明板には、
「この奇石は,もと旧中山道丸山坂の上にあったものです。たまたまここを通った蜀山人は、この石を叩いて珍しい音色に、早速次の狂歌を作ったといいます。五料(五両)では、あんまり高い(位置が高い)茶釜石音打(値打ち)を聞いて通る旅人この石を叩くと空の茶釜のような音がするのでその名がある。人々は,この石を叩いてその不思議な音色を懐かしんでいます。五料の七不思議の一つに数えられています」とある。
進んで行くと、碓氷郷の一宮である碓氷神社があり、そこで踏み切りを渡り国道に沿って進んで行く。800mほど進んで再び踏み切りを右に渡るが、この辺は鉄道と国道で旧中山道はほとんど壊され、ところどころ断片的に残っているだけのようだ。
本当に今日は良く晴れて暖かい。4月下旬の陽気だ。シャツのみで歩いていても汗ばむほどだ。崖の斜面には、名は知らないが一面に黄色い花が咲き乱れ、土筆も顔をだしていた。待ちかねた春が来たのを実感する。
ともあれ、やっと横川駅に到着した。駅前には明治十八年創業で、駅弁の始まりをなした「おぎのや」が店を開いている。かつては、碓氷峠を越えるために列車の後ろにも機関車を連結したが、そのために停車時間が長いので駅のホームでの弁当販売に都合がよかった。碓氷峠を越えるJR信越本線が廃線になり、どうなることかと思っていたら、いまでは直営のドライブインを5ケ所に開き、他社経営のドライブインでも「釜飯」を販売する体制を築き、以前にもまして繁栄しているのではと思われる。
時計を見ると2時6分で、次の高崎行きの電車は2時56分だ。時間がありすぎるので、碓氷の関所跡を見に行くことにした。もう門のみしか残されていないが、江戸時代は箱根の関所と同じく「入り鉄砲と出女」を厳しく取り締まった。有吉佐和子の「和宮様御留」の一場面を思い出す。
「女改めというのはなんのことやろ」
「改め婆というのが居て、眼鏡をかけてみるのやそうにございます」
「何をえ」
「男と違うかどうか」
「どないして」
「さあ、前を開けるよりほかにありまへんやろ」
「それを眼鏡で」
「はい、改め婆が」
線路の向こうには「碓氷峠鉄道文化村」というのが出来ており、碓氷峠で活躍した列車が並んでいた。入場料を払って中に入ると、より詳しく色々と見られるのだろう。
駅に戻ると、駅前にもこの峠を登るのに活躍したEF63-3という電気機関車の動輪が飾られていた。