2009.10.19

石橋から宇都宮

本日の万歩計46,6821(30.3Km)

今回は、前回より早く家を出て、石橋駅には8:10に着く。自宅のドアを出てから3時間だ。だいぶ遠くなってきた。
石橋町は、グリム兄弟の出身地であるドイツのヘッセン州ディーツヘルツタール(元シュタインブリュッケン(Steinbrücken)=英語ならStonebridge=石橋)と姉妹都市であるため、「グリムの里」として町おこしを進めたそうで、駅前にもグリム童話にちなんだ時計塔が立っている。駅前通りからふり返っても良く目に付く。
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下野(しもつけ)は「かんぴょう」が名産で、その看板を掲げたお店も何軒か目に付いた。国道4号線に出て、右折すると、直ぐに右手に「開雲寺」がある。天応1年(781)に東光寺として開山、文亀2年(1502)に開雲寺と寺号を変え、江戸期は将軍家の休憩所として境内に御殿が作られ、慶長9年(1604)には幕府より寺領7石を賜っている。
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境内には観音像が新設されていたが、山門には江戸期に設けられた丸や四角の銃眼や矢狭間が今も残っている。
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2Kmほど進むと、左手に「ジャンジャン、バンバン、ドンドン」と看板を掲げたパチンコ屋が目に付く。その少し先で、下古山の交差点を過ぎると、今度は「BIG MARCH」の看板を掲げた大きなパチンコ店。「BIG MARCH」の向い側は「下野警察署」だが、パチンコ店の方が堂々としている。本当にパチンコ店が多いのが、嘆かわしい。
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少し先には、甲冑を着た大きな武将像がある。韓国料理店で屋号「家康本陣」であったが、潰れたようだ。それにしても、派手で目につく建物だ。
目に付くといえば、ここにも大谷石作りの見事な蔵が建っていた。流石に大家石の産地の近くである。
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左手にこの地域名の元となった「鞘堂(さやどう)」がある。南北朝時代の1380年、南朝方となった小山義政が宇都宮基綱を破った時に、戦死者の鞘を集めて此処に埋めお堂を建てたという。この時には、基綱の一族三百騎余が全員討ち死にという壮絶な戦いであったとのこと。
その先の左側に小さな森があり、中に鞘堂の産土神の「星宮」神社が、ひっそりと建っていた。
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北関東自動車道を潜り次の信号を過ぎると、下野市から宇都宮市に入って行く。左側には陸上自衛隊の宇都宮駐屯所がある。昭和25年、旧軍需工場、関東工業?の跡地に創設されたもので中央即応連隊、第12特科隊、第5対艦ミサイル連隊等が駐屯しているとのこと。
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自衛隊駐屯地を過ぎたところに宇都宮社会保険病院があるが、その前には松が植えられれ松並木の様相を呈している。徐々に街道沿いに増やせればと思う。雀宮駅が近づくと、左側に脇本陣跡芦屋家がある。黒門は往時のままとのこと。
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雀宮駅への通りを右に見ながら、雀宮駅前の信号を通り過ぎると、右手に大きな馬頭観音があった。
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そして、雀宮地区の産土神の「雀宮神社」。長徳3年(997)、八幡太郎義家の創建。正徳3年(1713)に東山天皇から金文字で「雀宮」と書かれた勅許額が下賜され、今でも社殿に保管されているとのこと。お祭りの後なのか、地域の氏子の皆さんがハッピを着て、のぼり旗を下ろして後片付けをしていた。また、雀宮の謂れは「鎮めの宮」が転訛したとの説が有力らしい。
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宮の内二丁目の交差点を過ぎると、左側には自衛隊の北宇都宮駐屯地が始まる。この駐屯地には滑走路もある。航空機は飛ばないが、ヘリコプターが盛んに飛んでいる。大きな駐屯地が尽きる辺りの右手に菅原神社がある。菅原道真を祀った神社だが、境内のほとんどを地域の集会所に占領されている。
そして、1.5Kmほど進むと「一里」の交差点があり、ここは江曽島一里塚のあったところだが、遺構は何も残っていない。交叉点の名と、近くの酒店のIchiriyaに、その名残を残すのみ。
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「一里」の交差点を過ぎてしばらくすると、道幅が広くなり、やがて国道4号線が右に分かれて行き、直進している道路は国道119号線となる。地図には何故か東京街道と書かれている。119号線は宇都宮の大通りを過ぎると、日光街道の表記に戻っているので不思議である。そして、JR日光線を跨ぐ。単線である。
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不動前の交差点で119号線からも左に分かれて進むと、東武宇都宮線のガードを潜る。この辺りが、かつての宇都宮宿の木戸があったところである。直ぐ右手に蒲生君平勅旌碑(がもうくんぺいちょくせいひ)がある。君平は明和5年(1768)に宇都宮で生まれた学者・尊王家で前方後円墳の名付け親でもあったとのこと。明治天皇の命で、明治2年に宇都宮藩知事、戸田忠友奉行が、ここに勅旌碑を建立した。

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左からの道路が合流する三叉路を過ぎると、「蓬莱大黒通り」で細い道路沿いに寺の多い一画となる。三叉路から3つ目の信号で左に入ると「一向寺」がある。1276年宇都宮景綱が開基で重要文化財の本尊汗かき阿弥陀は、西隣の長楽寺(明治二年廃寺)にあったもの。宇都宮家に凶変がある時は仏体に汗が流れるという伝えがあったという。境内は墓地で埋め尽くされている感じであった。
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さらにその奥には、1639年宇都宮藩主奥平家昌の正室法明院が開山して、創建当時のままといわれる珍しい茅葺きの山門を持つ「報恩寺」がある。境内に戊辰戦争の官軍戦死者を弔った石碑が建っているが、お寺の中に堂々と鳥居が立っているのも珍しい。

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少し先には、小さな枡形があり、ここを過ぎると通りは材木町通りとなり、広く立派な道路となる。進んで行くと、右手にはユニオン通りの始まりが見える。お昼どきなのでユニオン通りに入っていって昼食をとった。
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材木町通りに戻ると直ぐに大きな丁字路になり、右折して進む。次の信号で左折するが、ここが日光街道と奥州街道の追分で、説明板が立っていた。せめて石碑にならないだろうかと思う。
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追分で左折すると清住町通りで、直ぐ右側に上野本家がある。江戸時代には油売業としてスタートし、その後副産物の油粕を肥料として農家に販売しながら肥料店として基盤を固めてきたようである。現在は株式会社上野の看板を掲げている。
この辺りは駐車場が多く、右方向にある延命院への道が分からず、うろついた。延命院の山門前には「蒲生君平先生少年時代修学の寺」と刻まれた石碑があり、中に入ると延命地蔵堂がある。享保年間(1716?35)の建立で、宇都宮市最古の木造建築物の一つとのこと。本堂の方に廻ると、黒色の犬が鎖に繋がれていて、激しく吼えられたが、誰も出てくる気配は無かった。
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街道に戻ると、左側には住居に挟まれて三峰神社があった。少し先は、また小さな枡形になっていて、右側に「琴平神社」と「桂林寺」が並んでいた。向って右側が四国の金比羅山を勧請した「琴平神社」である。
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左側は蒲生君平の墓や戊辰戦争戦死者の墓がある桂林寺の山門で、入って行くと端正な本堂があり、六角堂が配置されていた。蒲生君平の墓もあるとのことであったが、案内板がハッキリせず見つけられなかった。

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進むと、古くて立派な旧家の建物が建っていた。「食と空間の創造する店・たまき」の看板を掲げている。大きく「最中」の文字も見える。器と工芸品の店で、新しく出した最中も評判とのこと。道は松原二丁目で新里街道の追分となる。新里街道は左方向で、宇都宮から今市方面へ向かう道で、日光街道の杉並木を通らないバイパス的な道である。
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さらに進むと、松原三丁目の交差点である。少し複雑な交差点だ。写真は跨道橋の上から眺めたところである。ここから、また国道119号線を進んで行くことになる。進むと、ここにも立派な大谷石の蔵が建っていた。
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3Km近く日照りの厳しい国道を進んで宮環上戸祭町の信号に到達する。ここから先は桜並木となっていて歩道が一段高く遊歩道のようになっていて楽しくなる。基本的には桜並木であるが、もみじ、檜なども混じっている。
1Kmほど進むと、左側に「文星芸術大」のキャンパスが見えてくる。学校の創設は明治44年の私立宇都宮実用英語簿記学校創立に遡るが、大学としては平成11年開学で新しい。

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1.5Kmほど進むと桜並木が途絶え、釜川(かまがわ)の小さな流れを渡るが、ここで上戸祭から野沢町に入って行くことになる。野沢町に入って1Kmほど進むと左側に「光明寺」がある。江戸期は将軍の日光参拝時の休息所でもあったところである。
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創建は鎌倉時代で、源義経を慕う静御前が当地を訪れ納めた守本尊の薬師如来が、今でも安置されているという。立派な竜宮門があり、通ると自動でご詠歌が鳴り出したのにはビックリした。境内は植木の枝払いの最中であったが、「ぼけ封じ観音霊場」の表示があるのが、現在風でおかしかった。しかし、他人事とは言っておられない。
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光明寺を過ぎると、再び並木道だが、今度は檜が多く、徐々に杉も目立つようになってきた。そして、1Kmほど進むと「東北自動車道」と交差する。下を潜って進むことになる。
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だんだん、並木の植木も密度をまし、益々気持ちの良い道になってきた。信号を2つ通り越すと、ようやく徳次郎町に入った。時計を見ると3時を過ぎていたので、今日はここまでと「上金井」と書かれたバス停で宇都宮駅行きを待った。10分ほどでバスがやって来た。
20分ほどで、宇都宮の市街に戻ってきた。二荒山神社を訪れようと「裁判所前」でバスから下り、歩き始める。左下の写真は大通りの「本町交差点」である。駅のほうに歩いて行くと、左手に大きな真新しい鳥居が建っていた。延喜式内社で、下野国一宮である。
宇都宮の語源となった神社である。いちのみやが転訛して宇都宮となった説と中世の奥州攻めの時、武将がここで祈願したことから、討つの宮が宇都宮になったとの説があるようだ。
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長い階段が続いている。途中の踊り場から一層傾斜が急になる。上り終えて、旅の無事を祈る。二礼二拍手一礼。
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階段の上から眺めると改めて高さが感じられる。大通りに戻って、駅に向う。既に日も傾き、夕暮れも近い。だいぶ日が短くなったものだ。
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駅が近づき、田川のほとりにある宝蔵寺の特徴のある鐘楼門が見えて来た。鐘は宇都宮氏の寄進と伝えられており、「およりの鐘」と呼ばれていて、市の指定文化財と成っている。身分の高い人が訪れた際に、鐘をつくことからおより(お寄り)の鐘と呼ばれるようになったとのこと。
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宇都宮駅前の田川に架かる「宮の橋」を渡る。橋から田川を見ると、両側にサイクリングロードが設けられていて、夕暮れ近い川面には薄っすらと街の建物を映し出していた。
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ようやくJR宇都宮駅である。時刻は16:25であるが、駅前のモニュメントは、既にシルエットを写すのみである。
駅で列車の時刻を見ると、湘南新宿ラインの厨子行きが16:57で30分ほどあるが、乗ればゆっくり寝て帰れると、待つことにした。

2009.10.29

宇都宮から今市

本日の万歩計34,502(22.4Km)

前回の歩行以降、仲間の集まりがあったり歯医者に通ったりで10日ぶりの街道歩きとなった。宇都宮着は8:42で、駅前のモニュメントも輝いている。前回引き返したところまで行くために、9:10発のバスに乗る。
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前回引き返した「上金井」に着く。時刻は9:45である。日光街道歩きで自宅からもっとも時間が掛かる地点だ。道路は119号線であるが、両側の歩道が遊歩道になっており、気持ちよく歩ける。
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しばらく進むと、東北自動車道の下をくぐる。100mほど進んだ右側に、「第六接合井」がある。日光街道にほぼ並行にして敷設された延長26Km、標高差240mの送水管にかかる水圧を弱めるために標高30m毎に全部で6箇所作られたが、昭和24年の今市地震で倒壊してこの「第六接合井」だけが残っているとのこと。造られたのは大正4年で、西洋城郭風の八角形の煉瓦造りとなっていて、宇都宮市近代化水道施設の遺構の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。
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さらに、200mほど進んで信号を渡った左側に、大谷道と彫られた古い道標が生垣に囲われて立っていた。この追分を過ぎると、日光道中18番目の宿場徳次郎(とくじら)宿となる。
1Km進んだ次の信号の左側には、薬師堂がある。お堂はかなり荒れていて、墓地の中に建っている感じで、傍らには3体の石仏が立っていた。お堂に向う入口の民家には大谷石造りの立派な蔵が建っている。
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500mほど進むと、「徳次郎」の大きな交差点である。地名の「徳次郎」であるが、奈良時代に、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒神社より分霊し、智賀都神社を創建した時に日光の久次郎に対し、外久次郎(そとくじら)と称したのが始まりで後に、徳次郎(とくじら)と転訛したようである。しかし、県道路公社では、最近「とくじら」から「とくじろう」と呼び名を変え、交差点の名前も「徳次郎(Tokujiro)」となっている。「徳次郎」の交差点を左折し少し先で右側の小道を進むと、直ぐに「痣(あざ)地蔵堂」がある。願をかければあざやいぼが治るという霊験がある お地蔵さんである。
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街道に戻って、1Kmほど進むと右側に「智賀都神社」がある。徳次郎町6郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守であり、宝亀9年(778)日光二荒神社を勧請して千勝森(ちかつのもり)に祀ったという。この千勝から智賀都(ちかつ)となったという。参道入り口の両側にある2本のケヤキは、樹齢700年という大木で県の天然記念物に指定されていて、「長寿の夫婦欅」と命名されている。
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少し先には、道路の真ん中に「徳次郎六本杉」の標札があり、六本の杉が植わっている。バス停の名前にもなっていて有名だったのだろうが、今は代替わりして小さい杉の木である。道路わきの民家の庭からは「かりん」の果実がのぞいていた。良い秋晴れである。
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1Kmほど進んで、また国道119号線の左側の遊歩道を歩いて行くと、県道77号線との交差点で右手に六本木の一里塚がある。日本橋より30里。右手の塚だけが残る。一里塚を過ぎると、天保11年(1840)と刻まれた十九夜塔の如意輪観音が立っていた。
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道路の右手に「第五接合井」が見えてくるが、これは地震での崩壊の後に、改修されたものである。そして、進むとリンゴ園の側を通り、見事に実ったリンゴを見ることになった。田川を渡る「田川大橋」の手前に「りんご」直売所があり、年配のおばさんが一人で営業していた。たまらず一つ買って、店先の空き箱に腰掛けてかぶりついたが、甘くてとても美味しかった。
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田川大橋から100mほど先には八坂神社があり、また遊歩道が始まり、200mほど先には国道の向こう側(右側)に「地蔵堂」が見えた。
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国道を右下に見ながら気持ちの良い歩道が2Kmほど進む。杉の木の幹には赤く色づいた蔦が絡み付いている。
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左手に、赤い布で巻かれた地蔵さんが鎮座している。「うらない地蔵」である。地蔵の前に3個の石が置かれているが、そのいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うといわれているそうだ。あまりに過大な願い事をすると石が重くなるのだろう。
次の信号を過ぎると、右側に新渡(にわたり)神社がある。新渡神社を過ぎると、宇都宮市から旧今市市(現日光市)となる。次は日光道中19番目の大沢宿である。
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2Km近く特にイベントも無い道を歩くと山口交差点に着き、その先で旧道は、国道と分かれて右側に入って行く。鬱蒼と茂った杉並木に入って行くと、左手に杉並木寄進碑がある。杉並木は武州川越城主だった、松平正綱・信綱父子が寛永2年(1625)から20数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37Kmにわたって植えたものである。この寄進碑は、日光神領との境界にあったので境石(さかいいし)とも呼ばれており、ほかに日光神橋の前、今市市の大桑、文挟にも建てられている。
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大沢の交差点で杉並木は途絶えるが、信号を過ぎるとしばらくして、また、杉並木が始まる。十分な歩道も無い国道から杉並木と遊歩道が始まると、本当にほっとする。杉並木は明治になったときに、経済的な苦境の助けとして伐採する話しが持ち上がったが、イギリス公使パークスの進言で止めたというが、本当によかったと思う。第二次世界大戦でも木材として使うため伐採の計画が持ち上がったが、反対の声が上がり2本のみの伐採で済んだ。
進んで、水無の交差点に向うと、歩道部が高くはなっていても畑が続いている感じで歩き難い。畑として有効利用されている気配も無いので、遊歩道として整備できればと思う。車道の左側は少しだけ広い歩行スペースとなっているので、途中からそちらを歩くことにした。直ぐ側を高速で通過する大型車に多少の恐怖を感じながらも・・・。
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水無の交差点の少し手前には、水無の一里塚がある。日本橋より32里目の一里塚である。杉並木の中なので、表示板が無ければ気がつかない様子である。
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水無の交差点から2Kmほど進んで森友の交差点に達すると、杉並木は途絶えるが、500mほど進んだ次の信号から、また見事な杉並木が始まる。車は一方通行で、時たま向こうからやってくる。直ぐ横が国道なので、この辺りの居住者以外の車は禁止すべきだと思う。
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気持ちの良い杉並木を1Kmほど進むと、右側に七本桜の一里塚がある。塚上の大杉の根元は大人4人程も入れる空洞で「並木ホテル」という名が付いている。空洞の中は真っ黒で、昔地元民がたき火をしたためといわれている。七本桜の地名のいわれは不明だが、七本の桜の木があったのだろうか。
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少し先には、七本桜の信号があり、その先には東武日光線が杉並木を横切って走っている。ようやく下今市の小倉町交差点にでる。日光例幣使街道追分である。左手には高さ2m程の大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)がある。東日本有数の巨像で、日光市教育委員会の説明板によると制作年代は不祥であるが、8代将軍吉宗の日光社参の時にはすでに、この地にあったと記録されている。
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お地蔵さんに手を合わせた後は、時刻は14時40分であったが、今日はここまでとして、東武日光線の下今市駅に向った。15時20分発の快速浅草行きに乗り帰宅の途についた。電車内は日光を訪れた中年女性でいっぱいで喧しく、寝ることもままならず。

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2009.11.04

今市から東照宮

歩行距離は推定15Km

日光街道を歩く旅は11月4日に東照宮に着き、完了。

今日は、日光街道最後の日である。東武日光線の時刻表を見誤り、新栃木駅での乗り継ぎで30分も待たされるなどの失敗もあり、下今市駅に着いたのは、10時であった。
しかも、万歩計の電池が切れていて、距離も測れない事態であった。しかし、今日の歩行距離は、日光までは10Km以下で問題なしと元気に歩き始めた。まず、前回の街道からの離脱ポイントの日光例幣使街道追分に着く。
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例幣使街道の方を見ると、こちらも立派な杉並木である。そちらに進めば、中山道で訪れた倉賀野の追分に行けるはずである。ふり返って小倉町交差点の先を見ると、対照的に現在の今市の市街が広がっている。
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少し先には、「二宮尊徳翁の墓」の標識が立っていて、右折して「二宮尊徳神社」を訪れる。二宮尊徳は小田原の百姓の生まれだが、奉公先の小田原藩家老の服部家で財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて名前が知られるようになり、晩年は日光山領の農業振興を行い、下野国今市村(現在の栃木県日光市)で安政3年10月20日(1856年11月17日)に没し、ここに葬られたのである。二宮報徳神社の鳥居をくぐると、まず、「至誠勤労 分度に推譲 報徳教えは 今市の宝」と刻まれた今市田植歌の碑が目に付いた。
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それにしても、身分制度の厳しい江戸期にあって、百姓出身でありながら、小田原、日光市今市、栃木県芳賀郡二宮町の三箇所で報徳二宮神社を造り、祀られるのは並みの才能ではなっかたであろう。以前には小学校の校庭で良く見られた柴を背負った「二宮金次郎像」も、ここにはもちろん立っていた。「人学ばざれば生まれざると同じ・・・」の考えが教育には大切と考えられていたのであろう。
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神社の裏に回ると、二宮尊徳のリアルな銅像があり、墓がある。また、「ちちははも、その父母も、我が身なり、我を愛せよ、われを敬せよ」と刻まれた碑も立っていた。
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報徳二宮神社の西隣には、室町時代中期の創建の浄土宗の如来寺がある。
寛永9年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営の時ここに壮大な御殿を建設し逗留した。また、二宮尊徳の葬儀も、このお寺で執り行われたとのこと。
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街道に復帰して、進んで行くと「今市宿」の大きな表示杭が立っていて、観光案内所と大きな駐車場があった。片隅には「明治天皇小休止蹟」の碑があり、美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場もある。
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少し進んで、右手には、は戦国時代の元亀3年(1572)創建の浄泉寺。薬師如来が祀られていて、脇侍として運慶作と伝えられる日光月光十二神将が配置されているとのこと。そして、次の交差点では「瀧尾神社」の鳥居が見えてくる。
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由来の案内板には、天応2年(782)勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るとある。祭神は大己貴命 田心姫命 味耜郄彦根命とのこと。拝殿前左側には、大己貴命・田心姫命・事代主命の三神像があったが、なぜ味耜郄彦根命でなく事代主命なのかは不明である。 参道の両側には、カラフルなかざぐるまがあり、よく見ると、軸の部分には、いろいろな願い事がくくりつけられていた。
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交差点には、国道119号線と分かれて右側に杉並木の入口が見えている。当然、杉並木に入って行く。
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杉並木で以前より気になっていたのだが、立派な杉の木には名札の掛かったものがある。これは、杉並木オーナー制度で、1本1,000万円でオーナーになってもらい、そのお金の運用益で、年間100本も倒れるという杉並木の保護事業に役立てるというものである。立派なことだとは思うが、軽く1,000万円出せる人が羨ましい。そして、江戸から34里の瀬川の一里塚の説明板が立っていたが、どこが塚の部分だったかは分からなくなっていた。
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民家があり杉並木が短い間途絶え再び始まると、江戸期の原型に近いと思われる雰囲気の杉並木となった。そして、進むと「砲弾打込み杉」の説明板があった。「戊辰戦争時、ここ「十文字」に旧幕府軍の陣地があり、激しい攻防戦が行われた。その時、官軍が撃った砲弾が杉に命中し、今でも傷痕が残っている」とある。杉の木を見上げると、確かに窪みがある(下の右の写真)。

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進むと、並木道の右側には、野口薬師堂があり、釣鐘の形をした大きな石が置かれている。昔ここには青雲山蔵寺という寺があったが、資力の乏しい寺のため金属製の釣り鐘を造ることが出来ず、日光廟造営にたずさわった石工に頼んで造らせたものであるという説と、明和5年(1770)村人たちが太郎山の月山大権現に銅の釣り鐘を奉納し、同時に地元の山王権現には石の釣り鐘をおさめたところ、竜頭が鐘の重みで壊れてしまった。村人たちは後難をおそれ、この失敗を口にすることを嫌い、薬師堂に放置されたままにしてあるという伝承もあるそうだ。
国道と分かれていた杉並木が国道と合流すると、歩道スペースも無いところが多く緊張を強いられる歩行となる。しばらく進むと、「並木太郎」の説明板が立っていた。日光杉並木の中で一番大きな杉で、周囲5.3m、樹高38mで、高さでは他の杉と比べて同じように見えるが形が美しく、端正な姿が並木太郎と呼ぶに相応しいと書かれている。そして、右の写真は、銀杏の葉のように根っこが広がっていて、「銀杏杉」と呼んでいるものである。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりで無く大丈夫と言うことで「人生杉」とも呼ばれていると書かれている。全く歩道の無い国道で、写真撮影も命がけである。
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杉並木が切れたと思ったら、明治天皇七里御小休所跡である。そして、「宝殿(ほうでん)」の交差点を過ぎると、短い区間だが杉並木は国道から左に分かれ、直ぐ先に、「異人石」がある。「明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。その外人はこの石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を眺めていたので異人石と呼ばれている」とある。夏の夕涼みぐらいなら分かるが、日がな一日座っていたとは考え難い。
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200mほどで国道に合流し、JR日光線のガードを潜り進むと、右側に「JR日光駅」がある。ようやく、ここまで来たかの思いを強くする。時刻は12時を回っており、何はともあれと駅前の蕎麦屋に飛び込んだ。もう石油ストーブに火が点いており、直ぐ側の席を勧めてくれる。聞くと、昨日は雪が舞ったとのこと。
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食事を終えて山の方を眺めると、日光連山がそびえているのがくっきりと見える。左の写真は、男体山(2484m)。
「男体山の影を湖面に映す中禅寺湖」という教科書で習った一節が、突然頭に浮かぶ。
下の写真の左は、大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)で、右側は、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)である。

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100mちょっと進むと今度は「東武日光駅」である。こちらの方が、乗降客も多く駅前広場も賑やかで華やいでいる。ここに来て、日光が観光地であることを改めて知らされた感じである。駅を過ぎると、日光街道の最後の宿の「鉢石宿」である。ここも、電線を地下に埋めてスッキリとした街並みとなっている。
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まだ、整備途上なのか、途中から電線が復活する。家並みの向こうには、男体山が益々大きく見えてきた。右手の奥には、頼朝の信頼が篤かった畠山重忠の三男重慶の開基と言われる、天台宗の龍蔵寺がある。
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少し進むと、右手の奥には旧家が見え、さらに先には「ひしや」の看板の羊羹屋がある。明治元年創業で、一本1,500円の竹皮包みの羊羹一種類のみの商品である。店構えも古く重々しく、冷やかしの客など寄せ付けない威厳を保っている。興味を持ちながらも恐れをなして通り過ぎたのが残念である。
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大谷(だいや)川に架かる、日光橋が見えてくると、家康のブレーンとして知られた天海大僧正の銅像がある。東照宮の創建に尽くした「日光山中興の恩人」と説明にあるが、私には黒幕的イメージがあり、高僧には似つかわしくない思いで好きになれない人物である。日光橋の上流には、神橋(しんきょう)が架かっている。神橋は山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と合わせ日本三大奇橋の一つに数えられていて、国の重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より) 10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなったとのこと。
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日光橋を渡って、歩行者用信号が変わるのを待っていると、道路の向こう側に「杉並木街道寄進碑」が立っていた。いよいよ神域で、この日光は、現在では東照宮、二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺を合わせて日光二社一寺と言われているそうだ。しかし、これは明治4年の神仏分離令により分離されたからで、それ以前は神仏習合により一体で日光山と総称されていたのである。道路を左に進みたいが歩道も無く危険を感じて、道路を渡って階段を上り、直ぐに左への階段を通って行き、輪王寺への坂道を上って行く。途中の楓は、綺麗に色づいていた。
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坂道を上り詰めると、日光を開いた勝道(しょうどう)上人の堂々たる銅像が迎えてくれる。ここでも、真っ赤に色づいた紅葉が美しい。
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下の左の写真は国重要文化財の輪王寺の三仏堂(本堂)である。本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音であり、日光山内では一番大きい木製の建物とのこと。
右の写真は、明治4年に本坊が消失したときに、唯一焼け残った門跡寺の格式を持つ黒塗りの門で、黒門とも呼ばれている。これも重要文化財指定である。
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東照宮への参道を進んで行くと、正面に大鳥居が見える。この鳥居は高さ9m、柱の太さは3.6mと大変大きく、国の重要文化財に指定されている。そして、右の写真は仁王門である。総門とか楼門とも言われ、ここで身を清め、草履に履き替えたという。ここから先に進むには拝観料1,300円が必要である。
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仁王門をくぐると、色彩鮮やかな三神庫(さんじんこ)があり、神厩舎(しんきゅうしゃ)の長押(なげし)に彫られた御馴染みの三猿があり、カメラを構えた人々でごった返している。昔から猿は馬の病気を守るとされていたことによるとのこと。
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そして、あまりにも有名な「陽明門」である。絢爛豪華な門で、彫刻も多彩で眺めていると、日が暮れるほどであるので、日暮門とも呼ばれていた。また、陰陽道(おんみょうどう)の影響で、鳥居とこの陽明門の中心を結んだ上に、北極星があり、真南に伸ばせば江戸へ着くように配置されているとのこと。向って右手には、鐘楼が配置されており、左には、ほぼ同じ造りの「鼓楼」がある。
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門をくぐって、陽明門をふり返ると、こちらから見たほうが、色彩は鮮やかに感じる。日射量の違いであろうか。
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正面の「唐門」は改修中のようである。右手に回ると、回廊の坂下門に、これもまた、あまりにも有名な左甚五郎作の眠り猫がある。思ったよりも小さな猫である。
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坂下門をくぐると、奥社参道で、207段の急な石段を上ることになる。疲れた足には、相当堪える。ようやく上りつめ鳥居をくぐると、右手に外部全体を青銅で包んだ「御宝蔵」があり、朝廷から贈られた文書などが収められたという。
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そして、最後の数段を上ると拝殿があり、拝殿の先には、慶安3年(1650)に屋根、柱、扉等を唐銅で鋳造して組み立てた鋳抜(ちゅうばつ)門がある。
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特別公開で、鋳抜門の前を右に進んで、東照宮の奥宮御宝塔を一周できるようになっていた。ここは紳域で、以前は未公開であったが、350年弐年大祭記念で公開されている。御宝塔は始め木造であったが、やがて高さ15mにも及ぶ巨大な大石造の宝塔となり、天和の地震(1683)に倒壊したので、五代将軍綱吉の時、現在の唐銅製に改造した。
この宝塔こそが、家康の墓であり、棺が収められており、日光道中の終点である。<br clear="all".
東照宮を終えて、仁王門を出て右折して「二荒山神社」の方に歩いて行く。正一位勲一等の額がかかる門をくぐって、境内に入って行く。右の写真は、拝殿で拝殿の奥にある本殿と共に国の重要文化財に指定されている。
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二荒山神社を鳥居から退出して右折し、さらに大猷(だいゆう)院に向う。大猷院とは家光の諡号(しごう)で、祖父家康を崇敬していた家光の遺言で造られた家光の霊廟である。しかし、東照宮より大きく造ってはならないとも遺言していたという。階段を上り、重要文化財で世界遺産の仁王門をくぐる。先には、ここでも「もみじ」が真っ赤に色づいていた。
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仁王門を潜って左に折れると、やはり重要文化財で世界遺産の二天門を仰ぎ見る。この門は下層正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門と呼ばれているが、背面にも風神・雷神の二神が配置されている。二天門の階段は途中で左りに直角に曲がり、そこが踊り場となっていて、見下ろすと、灯篭が並ぶ趣のある庭園がある。そして二天門を潜ると、立派な鐘楼と鼓楼が左右に配置されている。

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二天門の次は、夜叉門(下の左の写真)である。もちろん重要文化財で世界遺産である。この門をくぐると、拝殿に通じる唐門である。
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唐門をくぐると、右の方に回りこむ通路が用意されており、拝殿、本殿が側面から見学できるようになっていた。ここは国宝で世界遺産である。
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さらにその奥には皇嘉門(こうかもん) があり、家光公の御廟への入口となっている。中国、明朝の建築様式を取り入れたその形から、一名「竜宮門」とも呼ばれてるが、ここからは流石に入れてもらえない。ぐると回って、夜叉門の方に引き返す。取り囲んでいる塀にも意匠が凝らされている。
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夜叉門のところまで戻って配置された灯篭を眺めても見事としか言いようが無い。
風神、雷神像を見ながら二天門を出て、改めて階段の上から眺めると、踊り場まででもかなり高い。疲れた足で慎重に下りる。
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大猷院を訪れ、何だか東照宮より充実した感じがした。観光客が少ないのもありがたかったが、訪れた人は異口同音に「来てよかった」と話していた。
これで、全ての予定を済ませて、また紅葉を愛でながら日光山を後にした。
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途中で看板に誘われてコーヒーを一杯飲んで休憩し、バス停のある通りに出た。時刻は14:30であった。その後、バスで東武日光駅に着き、帰宅の途についた。
延べ7日間の歩行の旅であった。

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