2010.03.01

海老名から大山(バスの終点)まで・・・(大山街道)

本日の万歩計37,526(24.8Km)

朝の8時に海老名駅で友人と待ち合わせる。 改札口は通勤客で賑わっていたが、これから街道歩きに行く身としては、申し訳なさそうな感じもするし、リタイアしたことの実感もわいてくる。
海老名駅も駅前は若者向けの商業施設ができ、昼間は賑やかだろうが、まだ店は開いておらず静かである。早速、厚木街道に出て進むと、ほどなく相模線の踏切を渡ることになる。
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その後、相模川に出るまでは街道はハッキリせず、細かく折れ曲がりながら進むが、風化の進んだ道標に「大山道」の文字をかろうじて読み取り、歩行ルートの正当性を喜びながら進んで行く。ようやく相模川岸に出ても、昔の渡し跡もなく400mほど下流に見える「あゆみ橋」に向うことになる。
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「あゆみ橋」を渡り、川の堤防上の道を上流に向って進んで行く。車の通りは激しいが、歩道もなく恐い道だ。 300mほどで、「厚木の渡船場跡」がある。江戸期は5艘の舟が備えられていて。旅人を渡していたとのことだが、冬の渇水期は土橋が設けられていたと説明板に書かれていた。
渡船場跡で左にUターンして折れ曲がって進むと、まだ閉まっているお店のシャッターには、それぞれの商う商品に即応した江戸時代の情緒を感じさせる絵が書かれていた。町興しを狙ったのか、落書き防止策か、絵が描かれたシャッターの通りが続くのは面白い。
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東町郵便局前の交差点を過ぎると、左手に「厚木神社」がある。円融天皇(969-984)の時代の創建で祀神は「須佐之男の命」であり、那須与一も眼病平癒祈願をしたと言い伝えられているとのこと。
なお、厚木神社の呼称は明治以降で以前は牛頭天王と称し、今でも、お天王さまと呼び習わされていて、例祭には大いに賑わうという。
通りに戻ると「渡辺崋山滞留の地」の新しい石碑が建っていた。
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700mほど南下して、ソニーの厚木工場が見えてくると右手に上杉氏建立の最勝時がある。一般公開していないのか、正門は鉄格子の門で閉じられていた。
その後、1.5Kmほど進み東名高速が見えてくると、左手に「三島神社」がある。東海道の三島大社を勧請した神社で村の鎮守であったようだ。
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東名高速をくぐって、1Kmほど進み左折して小田急の「愛甲石田駅」方面に進む。
駅を過ぎてしばらく進むと、右手に今は珍しい茅葺の山門の「浄心寺」がある。天正2年(1574)相誉上人周貞が開山で本尊は南北朝時代の作の美しい阿弥陀如来を中尊とする三尊像であるとのこと。
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大山街道も、人口増加に伴う宅地開発などで旧道がハッキリしなくなっているが、ところどころ道祖神が残っていて、大切に保存されているのを今でも見ることが出来る。そして、なんと最近になって作られた双体の道祖神もある。
成瀬小学校を過ぎて、1Kmほど進むと左に100mほど入ったところに太田道灌の菩提寺の「大慈寺」があり、立ち寄った。また、寺から道路を跨いで少し進むと、太田道灌の首塚があった。最近整備されたようだ。


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大慈寺から街道に戻り、100mほど進むと、右手に茅葺の屋根が珍しい「高部屋神社」がある。境内にある銅鐘には至徳3年(1386)の銘があり、神奈川県指定重要文化財となっている。
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その後、2Kmほどは、特別なトピックスもない住宅街のなかの道を進む。東名高速をくぐると、道祖神と兼ねた古い道標があり、ようやく大山に近づいた気分が高まってくる。ここからは、流石に大山詣での参道の雰囲気が強くなってきて、江戸時代の人々も胸の高まりを覚えながら歩いたのだろうと思いながら歩を進めて行く。
太田道灌の菩提寺の「大慈寺」には首塚があったが、地図を見ると太田道灌の墓所があったので、寄ることにした。墓所は、木立に囲まれて大事に保存されていた。
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石倉橋の交差点を過ぎると、坂道の勾配も増し1Kmほどで「比々多神社」が左手に見えてくる。木花咲耶姫命が祀神で安産の神として崇拝を集めているという。
少し先には、いよいよ大山阿夫利神社の一の鳥居が見えてくる。
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徐々に宿坊も増えてきた。傍らを流れる渓谷は「鈴川」で、進んで「加寿美橋」を渡り、自動車道から離れると、益々宿坊の密度が増してくる。垣の石柱には寄進者の名前が赤く刻まれている。
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再び自動車道に「愛宕橋」で合流して、益々急になる道を上って、ようやく伊勢原駅からのバスの終点のロータリーにたどり着く。時刻は14時50分である。次回は最後となる阿夫利神社への登頂を思いながら、今日はここまでとすることとして、15時5分発の伊勢原駅行きのバスで帰宅することとした。
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2010.02.22

江田から海老名・・・(大山街道)

本日の万歩計41,788(27.6Km)

2月に入って寒い日が続いたが、雨水(うすい)を過ぎ、ようやく寒さも緩んできた。 昨年11月21日から日にちを明けての歩行である。朝の8時に江田駅前のマクドナルドで待ち合わせ、軽くエネルギーを補給して歩き始めた。
246号線を少し進み、電車のガードをくぐって線路脇の道路のを800mほど進み、右の住宅街の中を進むと、600mmほどで「市ヶ尾の竹下地蔵堂」がある。統誉上人が病に罹り入定したとの伝承があり、境内に宝暦元年(1751)と刻まれた墓碑もある。
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地蔵堂下の信号を過ぎて左折すると、猿田坂と呼ばれる坂道を下り、十字路にぶつかると、左前方に旧旅籠「綿屋」の建物が残っている。大山街道で古い旅籠の建物が残っているのは珍しく、長く保存して欲しいと思うが、重要文化財指定にもなっていないので危惧されるところである。
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進んで行くと、鶴見川を川間橋で渡るが、昔は、今よりも少し下流に橋があり、利用者から三文の渡り賃を取ったので、「三文橋」とも呼ばれていたという。橋を渡って、400mほど進んだ柿の木台の交差点には、田中屋マートがあるが、ここは三代将軍徳川家光を治療したと伝えるマムシ治療薬を販売していた田中屋の跡だとのこと。
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さらに、300mほど進むと、医王山薬王院東光寺(真言宗)が明治初年改宗されたという「医薬神社」がある。その後、くねくねと曲がる道を進んで、青葉台駅前の交差点に達した。
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国道246は、殊更に車の流れが激しく、極力歩くのは避けたいところである。幸いにも同行のMさんは青葉台在住であり、この辺りの土地勘があるので、国道より一筋入った道路を進んで恩田川に架かる恩田大橋で国道に合流した。
500mほど進んだ、片町の交差点で、再び国道から右に分かれ、1Kmほど進むと、長津田駅南口入口で、その南方向に「大林寺」がある。山門、本堂ともに最近建替えられたのか真新しい。山門の両側には仁王様が睨みを効かせていたが、かなり格のあるお寺なのであろう。
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交差点から300mほど進むと、大石神社参道の女坂と呼ばれる坂道が右側に現れ、上ると天保14年(1843)長津田宿内の秋葉講中が建立した上宿の常夜燈がある。その奥には長津田鎮守の大石神社がある。由緒はつまびらかでないとのことだが、祀神は在原業平と伝えられるという。
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長津田小学校の方に進んで、その手前で左に進むと、竹薮と右手の斜面に挟まれた未舗装の道路となる。この道が旧大山街道とは思えないが、ふっと一息つけるような道である。246に合流して、すずかけ台駅の手前で右に分かれると、展望が開け街並みが望見され気持ちが良い。
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直ぐに国道246に合流して、町田市辻の交差点で左に外れ、大和バイパスを横切り進むと、右手に「円成寺」がある。町田市指定文化財で室町時代後期の作の木造聖徳太子像があるとのことだが、本堂は、鉄筋コンクリート造りとなっている。246に突き当たり、くぐり抜けると「観音寺」がある。 武相卯歳観音第1番札所として名高く、高野山真言宗で山号を鶴間山東照院観音寺と称する。拝殿にある厨子は、大和市指定文化財とのこと。 ここも本堂は鉄筋コンクリートである。
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少し先には、大山阿夫利神社御分霊社が赤い鳥居とともに現れる。その傍らには「南朝忠臣新田氏縁の家」高下家の説明碑や、「新田義貞軍鎌倉進撃路」の説明板がある。また、相州鶴間村宿の石碑も建てられている。
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相州鶴間村宿の石碑を過ぎると、立派な門構えの家が現れる。塀の意匠も趣のあるものであり、名家の家と思うのだが、なにも分からない。そして、その先で信号のある交差点を渡ると、下鶴間宿に入る。十字路の角に旧家小倉家と高札場跡が復元されている。また、ここは旧家小倉家を利用した「下鶴間ふるさと館」となっているが、月曜日は休館で見学は出来なかった。

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100mほど先には「鶴林寺」がある。宗派は浄土宗で山号を宝亀山寿翁院鶴林寺である。開山は永禄12年(1569)以前といわれ、境内には、即身仏となった瀬沼嵩信を弔う地蔵や鶴間学校跡、不動明王座像などがあるとのこと。
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少し先には江戸期に「まんじゅう屋」の屋号の旅籠跡がある。まんじゅうも商う旅籠で渡辺崋山が泊まったことで有名とのこと。
現地の案内板には「江戸時代後期の洋学者で、画家として知られる渡辺崋山は、第十代田原藩主三宅康明の弟友信の命により、高座郡早川村(綾瀬市)に住む友信生母お銀の消息を尋ねるため、天保2年(1831)九月二十日、弟子の高木梧庵といっしょに江戸の青山を立ちました。その日は都筑郡荏田村(横浜市緑区)に泊まりましたが、翌二十一日には矢倉沢往還下鶴間宿に着き、俗に”まんじゅうや”(土屋家)といわれる旅籠屋に一泊しました。」とある。
屋敷跡の角には古い道標も建っていたが、読めなかった。
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進むと、右側に地蔵尊があり、さらに進んで滝山街道と交わるところには、日枝神社がある。鳥居の脇には、古い石碑が建っていたが、風化が激しく文字などは全く読めなかった。

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この辺りは、「矢倉沢往還」の真新しい石碑が、ところどころ建っている。歴史街道をアッピールする意欲が感じられ、好感が持てる。その後、鶴間駅の近くで昼食をとり、しばし休息の後に歩き始めたが、これと言ったトピックもなく、6Kmほど進んで相模国分寺跡の石碑に遭遇した。古い石碑も4つほど建っていた。国分寺跡は、広場となっていて説明板のみが建っていた。
そして、少し先には、現在の国分寺への入口があり、エノキの古木が建っていた。
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国分寺の境内に入って行くと、薬師堂と鐘楼があり、鐘楼の銅鐘は国指定重要文化財となっている。
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ようやく、今日の目的地の「海老名駅」に到着した。ショッピングビルが駅前広場を囲んで建っている。コーヒーを飲みながら休憩し、次回の楽しみに思いを馳せながら、各自帰宅の途についた。

2009.11.21

赤坂見附から荏田・・・(大山街道)

本日の万歩計42,425(28.0Km)

11月4日に日光街道を歩き終えて、その後ハッキリしない天気が続いたりして大山街道を、なかなか始められなかった。ようやく、今日、友人と二人で歩き始められることとなり、7:22amに赤坂見附を出発した。大山街道は、現在の通りでは青山通り(国道246号線)に進んで行く。300mほどで左に入る小道があり、進むと直ぐに牛鳴坂の表示杭が立っている。説明には、「赤坂から青山へ抜ける厚木道で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだため名づけられた。さいかち坂ともいう」とある。近くに大きなサイカチの木があったことによるとのこと。また、大山街道のことを厚木道とも呼んだという。
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国道から一歩入ると静かな通りとなるが、400mほどで再び国道に合流する。国道の向こう側には、皇太子殿下の住まわれる東宮御所を初めとして、秋篠宮邸、高円宮邸などの皇族方のお住まいのある、赤坂御用地が見える。
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少し先の左側には、高橋是清の記念公園がある。総理大臣経験の後に大蔵大臣になり、「だるま宰相」とか「日本のケインズ」とか呼ばれた人物だが、二・二六事件でここにあった自宅で青年将校達に暗殺され83歳の生涯を閉じた。1998年に小渕内閣が発足して、深刻な経済不況に対処するため宮沢元総理が大蔵大臣就任を要請され、「平成の高橋是清」と呼ばれたが、この元祖の人物である。
さらに、進むと青山一丁目の交差点があり、ここから青山地区に入って行く。やがて、左側に「梅窓院」の超近代的な建屋が現れるが、この「梅窓院」は郡上藩青山家の菩提寺である。 また、この辺りは青山藩の江戸屋敷のあったところで、地名の青山の由来となっている。
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さらに進むと、伊予西条藩松平左京大夫上屋敷跡を購入して創設した「青山学院大学」があり、通り過ぎて宮益坂の交差点で国道246号線から右に分かれて進むと、渋谷駅が近づいてくる。土曜日の早朝で、人通りは多くは無い。
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渋谷の東急デパートが見えてきて、山手線のガードをくぐり、ハチ公前広場を左に見ながら、道玄坂の方向に進んで行く。人通りは少ないが、10時近くにでもなれば、若者で賑わうことだろう。
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道玄坂の一帯を過ぎ、また国道に合流して、神泉町の交差点を過ぎると、左側に「大坂の表示杭」が立っていた。大山街道の中で一番の急坂で「大坂」と呼ばれた由である。隣に立つ消火器の赤い箱が無粋である。少し先には、「上目黒氷川神社」があり、急な石段が続いている。神社名から大宮の氷川神社を勧請したものと思ったが、説明板には甲州上野原の産土神を上目黒村の鎮守として迎えたと書かれていた。
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国道246号線は、いつの間にか「玉川通り」となっており、池尻大橋の交差点を過ぎて頭の上を首都高速で覆われながら1Kmほど進むと、「三軒茶屋」に到着する。田園都市線の階段脇に頭に金剛像を頂いた古い道標が立っていた。正面には「大山道」と大書してあり、右側には「右富士、世田谷/登戸 道」と書かれている。左側には「此方 二子通」とある。三軒茶屋に残る数少ない歴史的な遺構で、貴重である。
300mほど進んで、左の旧道に入って行くと、正一位伊勢丸稲荷神社がある。小さな祠程度の稲荷だが、正一位とはと不思議に思ったが、稲荷神社では勧請元が正一位だと勧請した方も正一位を名乗るのが一般的らしい。
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国道に復帰すると、直ぐに上馬の交差点で、直ぐ先には曹洞宗の「八幡山宗円寺」がある。鎌倉時代後期に北条左近太郎入道成願により開基されたといわれる。駒留八幡神社の別当寺であったとのこと。
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進むと、駅伝で有名な駒沢大学があり、さらに進んで駒沢の交差点を過ぎると、右側には、コンクリートブロックで囲われて屋根付きの庚申様がある。新町庚申講の表示もあるが、現在でも庚申講が続いているのであろうか。
新町の交差点に着くと、ここで街道は国道から別れて右に進む。200mほどで左側に久富稲荷神社の鳥居が続いているのが見える。参道は長く、250mもあるとのこと。
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さらに先には「桜神社」がある。明治16年に神田に創建され、大正8年に神託によりこの地に移転されて、関東大地震からも先の大戦の空襲からも逃れられたとして「災難除け」として崇敬されるとのこと。ともかく、新しい創建の神社である。
さらに2つ先の信号には、長谷川町子美術館のサザエさんの顔を画いた道標が立っていて、左に商店街の通りが見える。長谷川町子さんが住んでいたのにちなんで「サザエさん通り」と呼ばれている。
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進んで、田中橋の交差点を通り抜け、さらに進んで瀬田の交差点に到る。瀬田の信号は、環八と246号、427号が交わる六叉路の大きな交差点である。ここでは、歩道橋を渡って斜め左に進んで行く。交差点から300mほど進むと、左に入る旧道が現れるので、入って行くと「光善寺」がある。門前の説明板には「開基は長崎伊予守重光。江戸時代から玉川八景として有名であり。将軍も遊覧の折、しばしば立ち寄った」とある。
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山門を入って行くと、本堂は立派だが、コンクリート造りでいささかがっかりしていたら、お寺の雑務を行っている方が姿を見せて、「裏に回ると薄っすらですが富士山が見えます」という。言にしたがって裏に回ると、展望が開け、なるほど江戸時代は見晴らしの良い場所であったとうなずける。そして、富士山が写真撮影では無理だが、かすかに姿を見せていた。
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寺を出て続く坂道は行善寺坂で、西に向かって眺めがよいことから、「瀬田夕日坂」と呼ばれているという。旧街道の情緒が感じられる道である。少し進んで左に曲がると、坂はより急になり「行火坂」と書かれた石碑が立っていた。ここを下って渡る橋の下の流れは六郷用水で、多摩郡和泉村(現在の東京都狛江市元和泉)の多摩川を水源とし、世田谷領と六郷領、つまり現在の狛江市から世田谷区を通り大田区に至る延長は23kmの用水路である。
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進んで、多摩川の土手に出た。土手道を右に進んで田園都市線の二子玉川駅のガードをくぐり、二子橋への階段を上って、長い橋を渡る。川原では大勢の家族連れがバーベキューをして楽しんでいる。友人の話では、東京から大勢の人が訪れゴミを残して行き、川崎市ではその処理費用が嵩むとして大変不満であるとのことであった。野外でのバーベキューは特に子供にとって、楽しいことなので、何かうまい解決策はないものかと考えてしまう。
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二子橋から右の方を眺めれば、この辺りでは厚木道路と呼ばれている国道246号線の新二子橋が見える。ともかく、大山街道で唯一の大きな流れを渡る橋である。二子橋を渡って、すぐの左手に、大正14年に完成した二子橋の親柱が安置されている。この橋の完成によって二子の渡しが役割を終えたのである。六郷の渡しは、明治6年に六郷橋が出来廃止されているのに比べると、ずいぶんと遅かったものである。
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二子の市街に入って行くと、右手に「村社二子神社」の鳥居があり、通り過ぎようとしたが、「かの子碑」の記述が目に入ったので、鳥居をくぐって進むと、神社の本殿の右の塚の上に、岡本かの子の息子の岡本太郎作の「誇り」という彫刻が建てられていた。説明板によれば、岡本かの子は、二子の旧家大貫家の長女として、明治22年に生まれた。歌碑には「としとしに わが悲しみの深くして いよよ華やぐいのちなりけり」と自筆で刻まれていると書かれていた。
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200mほど進んだ、右手には「光明寺」がある。慶長6年(1601)に二子本村に創建され、寛永18年(1641)から矢倉沢往還筋に移ってきた。「二子村名主大貫家の菩提寺で、岡本かの子の兄大貫雪之助もここに眠る。
高津交差点を横切り進むと、大石橋という情緒たっぷりの石造りの橋があり、二ケ領用水を渡る。

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以下5枚の画像は、カメラのモード切替があらぬ場所になっていたのに気が付かず、撮影して情けないものとなってしまった。
左の写真は溝口神社で、もとは赤城社と呼ばれ、溝口村総鎮守で、明治の廃仏毀釈で宗隆寺と分かれ、名前も溝口神社となったとのこと。
時刻は11:45で、ちょうど昼食時なので溝の口駅近くで、昼食をとり休憩した。
その後、街道に復帰して栄橋の交差点に戻ると、さかえ橋の親柱が建っていた。かつて栄橋は、平瀬川と根方堀(ニヶ領用水)が交差したこの場所にあり、橋の親柱が発見され、ここに保存したとのこと。そして、進むと益子焼に高い芸術性を与えた陶芸家で、我国最初の人間国宝浜田庄司の生家跡を記念する碑が建っている。碑には「巧匠不留跡」と書かれている。
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直ぐ先に溝の口の庚申塔があり、左側面に「江戸道」、右側面に「大山道」と刻まれている。その後、緩やかに上り坂で右に曲がって行くが、途中から左に曲がり、勾配も急になる。「ねもじり坂」と呼ばれ、登りつめると、左手に立派な地蔵堂がある。もともとは、子育て地蔵と呼ばれていたが、江戸の住人が四国巡礼から帰る途中で、ここの地蔵にお参りしたら、子供を授かったとして、お礼にお堂を寄進したのだという。そしてその後は、子供を授かるのにもご利益があるとされたとのこと。
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その先の左手に道標を兼ねた身代り不動尊がある。「右大山道」「左やうがすじ道」(用賀筋道)と書かれている。ここで気が付いたが、先ほどから道路のアスファルト舗装に白と、水色の小片を混ぜてある。中山道を歩いたときも馬籠から中津川で白い小片が混ぜられた道が旧街道で、迷うことなく安心して歩けたが、ここも大山街道を示す積りなのであろうか。
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その後、梶ヶ谷の交差点を過ぎ、宮前平駅も通り過ぎて、静かだが特にイベントの無い住宅地を通り抜け、鷺沼駅入口交差点にでる。さらに、国道246号線に出て、鷺沼二丁目の信号を左折すると、馬頭観音像が建っていて、道標を兼ねており、隣に建つ石板の説明書きによれば、右側面に「王禅寺道」、左側面に「大山道」と彫られているとのこと。
馬頭観音を過ぎると住宅街で、元の街道は損なわれてしまっているが、4?500mほど進むと、見晴らしの良いポイントに達し、その後は左右にうねりがあることで旧街道と知れる道になる。道の左の斜面には、造園業を営んでいる皆川家が育てている形の良い沢山の植木が見える。皆川家は、江戸期は溝口と荏田の間の立場であったとのこと。立場というのは江戸時代の荷物を運ぶ人足の休憩場のことで、景色のよい峠などに設けられることが多かったのである。もちろん、人足のみならず、一般の旅人も休憩を取ることが多かった。 皆川園の建屋は、流石に旧家を思わせる趣のある造りであった。
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車の通行が激しい道路を信号の無い場所で、 こわごわ渡り(車が止まってくれた)進むと、横浜市営地下鉄のガードをくぐり(この辺りでは地下鉄か高架)、その先には老馬鍛治山不動尊の霊泉の滝がある。竹筒から水が流れ出しており、アルミのカップがぶら下げられていた。そして、昔から、喘息、百日咳、風引きなどお水を戴きながらお願いすると必ず治癒したと書かれていた。病に対する効能はともかく、起伏の激しい大山街道を歩いてきた旅人にとっては甘露の水であったであろう。友人も一口飲んで、あまり冷たくは無いが、軟らかい感じの水だと言っていた。
先に進むと、早淵川に突き当たり、橋を渡って、川に沿って左に進む。
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突き当たって右折すると、荏田下宿庚申塔がある。説明板には寛政5年(1793)徳川時代中期に荏田村下宿の婦人達により建てられたとある。また、続けてここは昔栄えた大山街道の道筋で江戸を発った旅人の一日目の宿場の入口でもあり、道標としても親しまれてきたとも書かれている。
我々も、荏田宿、いや江田駅で切り上げることとして、先を急ぎ無事江田駅に到着した。駅の周辺はひっそりとしていて、コーヒーの飲める唯一のところとして、マクドナルドに入って休憩の後、田園都市線で友人は藤が丘で降り、私は長津田経由で帰宅の途に着いた。

2009.11.04

今市から東照宮・・・(旧日光街道)

歩行距離は推定15Km

日光街道を歩く旅は11月4日に東照宮に着き、完了。

今日は、日光街道最後の日である。東武日光線の時刻表を見誤り、新栃木駅での乗り継ぎで30分も待たされるなどの失敗もあり、下今市駅に着いたのは、10時であった。
しかも、万歩計の電池が切れていて、距離も測れない事態であった。しかし、今日の歩行距離は、日光までは10Km以下で問題なしと元気に歩き始めた。まず、前回の街道からの離脱ポイントの日光例幣使街道追分に着く。
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例幣使街道の方を見ると、こちらも立派な杉並木である。そちらに進めば、中山道で訪れた倉賀野の追分に行けるはずである。ふり返って小倉町交差点の先を見ると、対照的に現在の今市の市街が広がっている。
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少し先には、「二宮尊徳翁の墓」の標識が立っていて、右折して「二宮尊徳神社」を訪れる。二宮尊徳は小田原の百姓の生まれだが、奉公先の小田原藩家老の服部家で財政建て直しを頼まれ、見事に成功させて名前が知られるようになり、晩年は日光山領の農業振興を行い、下野国今市村(現在の栃木県日光市)で安政3年10月20日(1856年11月17日)に没し、ここに葬られたのである。二宮報徳神社の鳥居をくぐると、まず、「至誠勤労 分度に推譲 報徳教えは 今市の宝」と刻まれた今市田植歌の碑が目に付いた。
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それにしても、身分制度の厳しい江戸期にあって、百姓出身でありながら、小田原、日光市今市、栃木県芳賀郡二宮町の三箇所で報徳二宮神社を造り、祀られるのは並みの才能ではなっかたであろう。以前には小学校の校庭で良く見られた柴を背負った「二宮金次郎像」も、ここにはもちろん立っていた。「人学ばざれば生まれざると同じ・・・」の考えが教育には大切と考えられていたのであろう。
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神社の裏に回ると、二宮尊徳のリアルな銅像があり、墓がある。また、「ちちははも、その父母も、我が身なり、我を愛せよ、われを敬せよ」と刻まれた碑も立っていた。
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報徳二宮神社の西隣には、室町時代中期の創建の浄土宗の如来寺がある。
寛永9年(1632)、三代将軍家光が東照宮造営の時ここに壮大な御殿を建設し逗留した。また、二宮尊徳の葬儀も、このお寺で執り行われたとのこと。
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街道に復帰して、進んで行くと「今市宿」の大きな表示杭が立っていて、観光案内所と大きな駐車場があった。片隅には「明治天皇小休止蹟」の碑があり、美味しい「いまいちの水」(伏流水)と表記された水飲み場もある。
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少し進んで、右手には、は戦国時代の元亀3年(1572)創建の浄泉寺。薬師如来が祀られていて、脇侍として運慶作と伝えられる日光月光十二神将が配置されているとのこと。そして、次の交差点では「瀧尾神社」の鳥居が見えてくる。
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由来の案内板には、天応2年(782)勝道上人 日光二荒山(男体山)上に 二荒山大神を 祀ると同時に 当所 琵琶ヶ窪 笄の森に 之を祀るとある。祭神は大己貴命 田心姫命 味耜郄彦根命とのこと。拝殿前左側には、大己貴命・田心姫命・事代主命の三神像があったが、なぜ味耜郄彦根命でなく事代主命なのかは不明である。 参道の両側には、カラフルなかざぐるまがあり、よく見ると、軸の部分には、いろいろな願い事がくくりつけられていた。
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交差点には、国道119号線と分かれて右側に杉並木の入口が見えている。当然、杉並木に入って行く。
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杉並木で以前より気になっていたのだが、立派な杉の木には名札の掛かったものがある。これは、杉並木オーナー制度で、1本1,000万円でオーナーになってもらい、そのお金の運用益で、年間100本も倒れるという杉並木の保護事業に役立てるというものである。立派なことだとは思うが、軽く1,000万円出せる人が羨ましい。そして、江戸から34里の瀬川の一里塚の説明板が立っていたが、どこが塚の部分だったかは分からなくなっていた。
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民家があり杉並木が短い間途絶え再び始まると、江戸期の原型に近いと思われる雰囲気の杉並木となった。そして、進むと「砲弾打込み杉」の説明板があった。「戊辰戦争時、ここ「十文字」に旧幕府軍の陣地があり、激しい攻防戦が行われた。その時、官軍が撃った砲弾が杉に命中し、今でも傷痕が残っている」とある。杉の木を見上げると、確かに窪みがある(下の右の写真)。

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進むと、並木道の右側には、野口薬師堂があり、釣鐘の形をした大きな石が置かれている。昔ここには青雲山蔵寺という寺があったが、資力の乏しい寺のため金属製の釣り鐘を造ることが出来ず、日光廟造営にたずさわった石工に頼んで造らせたものであるという説と、明和5年(1770)村人たちが太郎山の月山大権現に銅の釣り鐘を奉納し、同時に地元の山王権現には石の釣り鐘をおさめたところ、竜頭が鐘の重みで壊れてしまった。村人たちは後難をおそれ、この失敗を口にすることを嫌い、薬師堂に放置されたままにしてあるという伝承もあるそうだ。
国道と分かれていた杉並木が国道と合流すると、歩道スペースも無いところが多く緊張を強いられる歩行となる。しばらく進むと、「並木太郎」の説明板が立っていた。日光杉並木の中で一番大きな杉で、周囲5.3m、樹高38mで、高さでは他の杉と比べて同じように見えるが形が美しく、端正な姿が並木太郎と呼ぶに相応しいと書かれている。そして、右の写真は、銀杏の葉のように根っこが広がっていて、「銀杏杉」と呼んでいるものである。この雄大な根張りがあれば樹木ばかりで無く大丈夫と言うことで「人生杉」とも呼ばれていると書かれている。全く歩道の無い国道で、写真撮影も命がけである。
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杉並木が切れたと思ったら、明治天皇七里御小休所跡である。そして、「宝殿(ほうでん)」の交差点を過ぎると、短い区間だが杉並木は国道から左に分かれ、直ぐ先に、「異人石」がある。「明治の頃、杉並木を愛した一人の外人がいた。その外人はこの石を石屋に頼んで座りやすくしてもらい、毎日ここで並木を眺めていたので異人石と呼ばれている」とある。夏の夕涼みぐらいなら分かるが、日がな一日座っていたとは考え難い。
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200mほどで国道に合流し、JR日光線のガードを潜り進むと、右側に「JR日光駅」がある。ようやく、ここまで来たかの思いを強くする。時刻は12時を回っており、何はともあれと駅前の蕎麦屋に飛び込んだ。もう石油ストーブに火が点いており、直ぐ側の席を勧めてくれる。聞くと、昨日は雪が舞ったとのこと。
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食事を終えて山の方を眺めると、日光連山がそびえているのがくっきりと見える。左の写真は、男体山(2484m)。
「男体山の影を湖面に映す中禅寺湖」という教科書で習った一節が、突然頭に浮かぶ。
下の写真の左は、大真名子山(2375m)、小真名子山(2323m)で、右側は、女峰山(2483m)、赤薙山(2010m)である。

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100mちょっと進むと今度は「東武日光駅」である。こちらの方が、乗降客も多く駅前広場も賑やかで華やいでいる。ここに来て、日光が観光地であることを改めて知らされた感じである。駅を過ぎると、日光街道の最後の宿の「鉢石宿」である。ここも、電線を地下に埋めてスッキリとした街並みとなっている。
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まだ、整備途上なのか、途中から電線が復活する。家並みの向こうには、男体山が益々大きく見えてきた。右手の奥には、頼朝の信頼が篤かった畠山重忠の三男重慶の開基と言われる、天台宗の龍蔵寺がある。
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少し進むと、右手の奥には旧家が見え、さらに先には「ひしや」の看板の羊羹屋がある。明治元年創業で、一本1,500円の竹皮包みの羊羹一種類のみの商品である。店構えも古く重々しく、冷やかしの客など寄せ付けない威厳を保っている。興味を持ちながらも恐れをなして通り過ぎたのが残念である。
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大谷(だいや)川に架かる、日光橋が見えてくると、家康のブレーンとして知られた天海大僧正の銅像がある。東照宮の創建に尽くした「日光山中興の恩人」と説明にあるが、私には黒幕的イメージがあり、高僧には似つかわしくない思いで好きになれない人物である。日光橋の上流には、神橋(しんきょう)が架かっている。神橋は山口県の錦帯橋、山梨県の猿橋と合わせ日本三大奇橋の一つに数えられていて、国の重要文化財に指定され、世界遺産にも登録されている。橋の長さは28m、巾7.4m、高さ(水面より) 10.6mあり、高欄には親柱10本を建て、それぞれに擬宝珠が飾られ(乳の木)と橋板の裏は黒漆塗で、その他は朱に塗られている。奈良時代の末に、神秘的な伝承によって架けられたこの橋は神聖な橋として尊ばれ、寛永13年に現在のような神橋に造り替えられてから、もっぱら神事・将軍社参・勅使・幣帛供進使などが参向のときのみ使用され、一般の通行は下流に仮橋(日光橋)を架けて通行することとなったとのこと。
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日光橋を渡って、歩行者用信号が変わるのを待っていると、道路の向こう側に「杉並木街道寄進碑」が立っていた。いよいよ神域で、この日光は、現在では東照宮、二荒山(ふたらさん)神社、輪王寺を合わせて日光二社一寺と言われているそうだ。しかし、これは明治4年の神仏分離令により分離されたからで、それ以前は神仏習合により一体で日光山と総称されていたのである。道路を左に進みたいが歩道も無く危険を感じて、道路を渡って階段を上り、直ぐに左への階段を通って行き、輪王寺への坂道を上って行く。途中の楓は、綺麗に色づいていた。
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坂道を上り詰めると、日光を開いた勝道(しょうどう)上人の堂々たる銅像が迎えてくれる。ここでも、真っ赤に色づいた紅葉が美しい。
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下の左の写真は国重要文化財の輪王寺の三仏堂(本堂)である。本尊は阿弥陀如来、千手観音、馬頭観音であり、日光山内では一番大きい木製の建物とのこと。
右の写真は、明治4年に本坊が消失したときに、唯一焼け残った門跡寺の格式を持つ黒塗りの門で、黒門とも呼ばれている。これも重要文化財指定である。
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東照宮への参道を進んで行くと、正面に大鳥居が見える。この鳥居は高さ9m、柱の太さは3.6mと大変大きく、国の重要文化財に指定されている。そして、右の写真は仁王門である。総門とか楼門とも言われ、ここで身を清め、草履に履き替えたという。ここから先に進むには拝観料1,300円が必要である。
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仁王門をくぐると、色彩鮮やかな三神庫(さんじんこ)があり、神厩舎(しんきゅうしゃ)の長押(なげし)に彫られた御馴染みの三猿があり、カメラを構えた人々でごった返している。昔から猿は馬の病気を守るとされていたことによるとのこと。
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そして、あまりにも有名な「陽明門」である。絢爛豪華な門で、彫刻も多彩で眺めていると、日が暮れるほどであるので、日暮門とも呼ばれていた。また、陰陽道(おんみょうどう)の影響で、鳥居とこの陽明門の中心を結んだ上に、北極星があり、真南に伸ばせば江戸へ着くように配置されているとのこと。向って右手には、鐘楼が配置されており、左には、ほぼ同じ造りの「鼓楼」がある。
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門をくぐって、陽明門をふり返ると、こちらから見たほうが、色彩は鮮やかに感じる。日射量の違いであろうか。
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正面の「唐門」は改修中のようである。右手に回ると、回廊の坂下門に、これもまた、あまりにも有名な左甚五郎作の眠り猫がある。思ったよりも小さな猫である。
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坂下門をくぐると、奥社参道で、207段の急な石段を上ることになる。疲れた足には、相当堪える。ようやく上りつめ鳥居をくぐると、右手に外部全体を青銅で包んだ「御宝蔵」があり、朝廷から贈られた文書などが収められたという。
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そして、最後の数段を上ると拝殿があり、拝殿の先には、慶安3年(1650)に屋根、柱、扉等を唐銅で鋳造して組み立てた鋳抜(ちゅうばつ)門がある。
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特別公開で、鋳抜門の前を右に進んで、東照宮の奥宮御宝塔を一周できるようになっていた。ここは紳域で、以前は未公開であったが、350年弐年大祭記念で公開されている。御宝塔は始め木造であったが、やがて高さ15mにも及ぶ巨大な大石造の宝塔となり、天和の地震(1683)に倒壊したので、五代将軍綱吉の時、現在の唐銅製に改造した。
この宝塔こそが、家康の墓であり、棺が収められており、日光道中の終点である。<br clear="all".
東照宮を終えて、仁王門を出て右折して「二荒山神社」の方に歩いて行く。正一位勲一等の額がかかる門をくぐって、境内に入って行く。右の写真は、拝殿で拝殿の奥にある本殿と共に国の重要文化財に指定されている。
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二荒山神社を鳥居から退出して右折し、さらに大猷(だいゆう)院に向う。大猷院とは家光の諡号(しごう)で、祖父家康を崇敬していた家光の遺言で造られた家光の霊廟である。しかし、東照宮より大きく造ってはならないとも遺言していたという。階段を上り、重要文化財で世界遺産の仁王門をくぐる。先には、ここでも「もみじ」が真っ赤に色づいていた。
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仁王門を潜って左に折れると、やはり重要文化財で世界遺産の二天門を仰ぎ見る。この門は下層正面左右に、持国天、広目天の二天を安置していることから二天門と呼ばれているが、背面にも風神・雷神の二神が配置されている。二天門の階段は途中で左りに直角に曲がり、そこが踊り場となっていて、見下ろすと、灯篭が並ぶ趣のある庭園がある。そして二天門を潜ると、立派な鐘楼と鼓楼が左右に配置されている。

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二天門の次は、夜叉門(下の左の写真)である。もちろん重要文化財で世界遺産である。この門をくぐると、拝殿に通じる唐門である。
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唐門をくぐると、右の方に回りこむ通路が用意されており、拝殿、本殿が側面から見学できるようになっていた。ここは国宝で世界遺産である。
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さらにその奥には皇嘉門(こうかもん) があり、家光公の御廟への入口となっている。中国、明朝の建築様式を取り入れたその形から、一名「竜宮門」とも呼ばれてるが、ここからは流石に入れてもらえない。ぐると回って、夜叉門の方に引き返す。取り囲んでいる塀にも意匠が凝らされている。
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夜叉門のところまで戻って配置された灯篭を眺めても見事としか言いようが無い。
風神、雷神像を見ながら二天門を出て、改めて階段の上から眺めると、踊り場まででもかなり高い。疲れた足で慎重に下りる。
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大猷院を訪れ、何だか東照宮より充実した感じがした。観光客が少ないのもありがたかったが、訪れた人は異口同音に「来てよかった」と話していた。
これで、全ての予定を済ませて、また紅葉を愛でながら日光山を後にした。
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途中で看板に誘われてコーヒーを一杯飲んで休憩し、バス停のある通りに出た。時刻は14:30であった。その後、バスで東武日光駅に着き、帰宅の途についた。
延べ7日間の歩行の旅であった。

2009.10.29

宇都宮から今市・・・(旧日光街道)

本日の万歩計34,502(22.4Km)

前回の歩行以降、仲間の集まりがあったり歯医者に通ったりで10日ぶりの街道歩きとなった。宇都宮着は8:42で、駅前のモニュメントも輝いている。前回引き返したところまで行くために、9:10発のバスに乗る。
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前回引き返した「上金井」に着く。時刻は9:45である。日光街道歩きで自宅からもっとも時間が掛かる地点だ。道路は119号線であるが、両側の歩道が遊歩道になっており、気持ちよく歩ける。
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しばらく進むと、東北自動車道の下をくぐる。100mほど進んだ右側に、「第六接合井」がある。日光街道にほぼ並行にして敷設された延長26Km、標高差240mの送水管にかかる水圧を弱めるために標高30m毎に全部で6箇所作られたが、昭和24年の今市地震で倒壊してこの「第六接合井」だけが残っているとのこと。造られたのは大正4年で、西洋城郭風の八角形の煉瓦造りとなっていて、宇都宮市近代化水道施設の遺構の一つで、国の登録有形文化財に指定されている。
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さらに、200mほど進んで信号を渡った左側に、大谷道と彫られた古い道標が生垣に囲われて立っていた。この追分を過ぎると、日光道中18番目の宿場徳次郎(とくじら)宿となる。
1Km進んだ次の信号の左側には、薬師堂がある。お堂はかなり荒れていて、墓地の中に建っている感じで、傍らには3体の石仏が立っていた。お堂に向う入口の民家には大谷石造りの立派な蔵が建っている。
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500mほど進むと、「徳次郎」の大きな交差点である。地名の「徳次郎」であるが、奈良時代に、日光に勢力を持つ久次郎(くじら)一族が日光二荒神社より分霊し、智賀都神社を創建した時に日光の久次郎に対し、外久次郎(そとくじら)と称したのが始まりで後に、徳次郎(とくじら)と転訛したようである。しかし、県道路公社では、最近「とくじら」から「とくじろう」と呼び名を変え、交差点の名前も「徳次郎(Tokujiro)」となっている。「徳次郎」の交差点を左折し少し先で右側の小道を進むと、直ぐに「痣(あざ)地蔵堂」がある。願をかければあざやいぼが治るという霊験がある お地蔵さんである。
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街道に戻って、1Kmほど進むと右側に「智賀都神社」がある。徳次郎町6郷(西根・門前・田中・上町・下町・中町)の鎮守であり、宝亀9年(778)日光二荒神社を勧請して千勝森(ちかつのもり)に祀ったという。この千勝から智賀都(ちかつ)となったという。参道入り口の両側にある2本のケヤキは、樹齢700年という大木で県の天然記念物に指定されていて、「長寿の夫婦欅」と命名されている。
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少し先には、道路の真ん中に「徳次郎六本杉」の標札があり、六本の杉が植わっている。バス停の名前にもなっていて有名だったのだろうが、今は代替わりして小さい杉の木である。道路わきの民家の庭からは「かりん」の果実がのぞいていた。良い秋晴れである。
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1Kmほど進んで、また国道119号線の左側の遊歩道を歩いて行くと、県道77号線との交差点で右手に六本木の一里塚がある。日本橋より30里。右手の塚だけが残る。一里塚を過ぎると、天保11年(1840)と刻まれた十九夜塔の如意輪観音が立っていた。
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道路の右手に「第五接合井」が見えてくるが、これは地震での崩壊の後に、改修されたものである。そして、進むとリンゴ園の側を通り、見事に実ったリンゴを見ることになった。田川を渡る「田川大橋」の手前に「りんご」直売所があり、年配のおばさんが一人で営業していた。たまらず一つ買って、店先の空き箱に腰掛けてかぶりついたが、甘くてとても美味しかった。
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田川大橋から100mほど先には八坂神社があり、また遊歩道が始まり、200mほど先には国道の向こう側(右側)に「地蔵堂」が見えた。
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国道を右下に見ながら気持ちの良い歩道が2Kmほど進む。杉の木の幹には赤く色づいた蔦が絡み付いている。
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左手に、赤い布で巻かれた地蔵さんが鎮座している。「うらない地蔵」である。地蔵の前に3個の石が置かれているが、そのいずれかを持ち上げて軽く感じれば願いが叶うといわれているそうだ。あまりに過大な願い事をすると石が重くなるのだろう。
次の信号を過ぎると、右側に新渡(にわたり)神社がある。新渡神社を過ぎると、宇都宮市から旧今市市(現日光市)となる。次は日光道中19番目の大沢宿である。
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2Km近く特にイベントも無い道を歩くと山口交差点に着き、その先で旧道は、国道と分かれて右側に入って行く。鬱蒼と茂った杉並木に入って行くと、左手に杉並木寄進碑がある。杉並木は武州川越城主だった、松平正綱・信綱父子が寛永2年(1625)から20数年をかけて紀州熊野から取り寄せた20万本余りの杉苗を、日光道中・壬生道・会津西街道の三街道の両側に延長37Kmにわたって植えたものである。この寄進碑は、日光神領との境界にあったので境石(さかいいし)とも呼ばれており、ほかに日光神橋の前、今市市の大桑、文挟にも建てられている。
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大沢の交差点で杉並木は途絶えるが、信号を過ぎるとしばらくして、また、杉並木が始まる。十分な歩道も無い国道から杉並木と遊歩道が始まると、本当にほっとする。杉並木は明治になったときに、経済的な苦境の助けとして伐採する話しが持ち上がったが、イギリス公使パークスの進言で止めたというが、本当によかったと思う。第二次世界大戦でも木材として使うため伐採の計画が持ち上がったが、反対の声が上がり2本のみの伐採で済んだ。
進んで、水無の交差点に向うと、歩道部が高くはなっていても畑が続いている感じで歩き難い。畑として有効利用されている気配も無いので、遊歩道として整備できればと思う。車道の左側は少しだけ広い歩行スペースとなっているので、途中からそちらを歩くことにした。直ぐ側を高速で通過する大型車に多少の恐怖を感じながらも・・・。
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水無の交差点の少し手前には、水無の一里塚がある。日本橋より32里目の一里塚である。杉並木の中なので、表示板が無ければ気がつかない様子である。
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水無の交差点から2Kmほど進んで森友の交差点に達すると、杉並木は途絶えるが、500mほど進んだ次の信号から、また見事な杉並木が始まる。車は一方通行で、時たま向こうからやってくる。直ぐ横が国道なので、この辺りの居住者以外の車は禁止すべきだと思う。
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気持ちの良い杉並木を1Kmほど進むと、右側に七本桜の一里塚がある。塚上の大杉の根元は大人4人程も入れる空洞で「並木ホテル」という名が付いている。空洞の中は真っ黒で、昔地元民がたき火をしたためといわれている。七本桜の地名のいわれは不明だが、七本の桜の木があったのだろうか。
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少し先には、七本桜の信号があり、その先には東武日光線が杉並木を横切って走っている。ようやく下今市の小倉町交差点にでる。日光例幣使街道追分である。左手には高さ2m程の大きな追分地蔵尊(石造地蔵菩薩坐像)がある。東日本有数の巨像で、日光市教育委員会の説明板によると制作年代は不祥であるが、8代将軍吉宗の日光社参の時にはすでに、この地にあったと記録されている。
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お地蔵さんに手を合わせた後は、時刻は14時40分であったが、今日はここまでとして、東武日光線の下今市駅に向った。15時20分発の快速浅草行きに乗り帰宅の途についた。電車内は日光を訪れた中年女性でいっぱいで喧しく、寝ることもままならず。

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