2007.05.20

沼津から蒲原(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計55,203(36.4Km)
今日は電車を2回乗り換え(戸塚、熱海)沼津に到着しての歩行である。
hara_001.jpg前回に見落としたところを拾うつもりで、沼津駅から歩き始め、最初に城岡神社を訪れた。
ここは、大政奉還後の混乱のなかで、藩としての再生を模索する一環として旧幕臣達が洋式の陸軍士官の養成を目指し「沼津兵学校」を設立した場所で、石碑のみが境内に残っている。廃藩置県後に陸軍兵学校に吸収されるが、短期間ではあったが多くの人材を養成したとのこと。
hara_002.jpg沼津の「さんさん通り」を歩いて行くと、ビルの壁に「三枚橋城の石垣」が再生されていた。
三枚橋城は武田が築城したものだが、織田信長の台頭により駿河から撤退を余儀なくされ、その後徳川の配下となったが、終には廃城となった。近年のビルの工事で埋もれていた石垣が発見され、再生したとのこと。
hara_003.jpg海岸に広がる「千本松公園」に向かって進んで行くと、「乗運寺」があり、「若山牧水」の墓がある。
この「乗運寺」の開祖は増誉上人である。
千本松公園の入り口には増誉上人の像がある。増誉上人が松の植林をするに至った経緯は掲示板の写真をクリックして、読んでいただきたい。

hara_009.jpghara_010.jpghara_004.jpgそれにしても、大変な松の木の本数である。千本松と言うが、このような状態の松林が「吉原」の近くまで続くのである。千本どころではなく、もっとはるかに多いと思う。
hara_005.jpg千本松公園には「井上靖」の歌碑があり、また「若山牧水」の歌碑もあった。
若山牧水の「幾山河越え、さりゆかば・・・」は名調子で、ちゃんと記憶に残っていた。
hara_006.jpghara_008.jpghara_007.jpg公園を海の方に抜け、堤防に上ると、大勢の人が釣りを楽しんでおり、また遠くまで松林が続いているのが望見された。遥かに遠くまで歩く必要があるのが実感される。
再び松並木に戻り歩いて行くと、鳩に遭遇した。やはり木が多いと鳥も多く集まるのだろう。
少し歩いて、千本松街道に出て「六代松の碑」を訪れた。平維盛(たいらのこれもり)の長子で、平家最後の嫡流の六代は、関東に送られ斬られようとしていたが、文覚上人(もんがくしょうにん)に一度は救われた。しかし、結局は処刑され、この地に首が埋められたという。
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続いて八幡神宮にある、「榜示杭」を見学した。この「榜示杭」は沼津と原の宿の境界線である。
その後、また直ぐに松林に戻ったが、この辺は松の木が主であるが、他の種類の木も混じり、これはこれで良い感じである。江戸時代の街道は、こんな感じではなかったのだろうか。とても歩き易い。
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hara_015.jpg片浜駅が近づいてくると、「神明塚」と呼ばれる5?6世紀ころの豪族の前方後円墳がある。全長54mで沼津市では最大のものであるとのことだが、相当に形が崩れていて、住民の無関心さも影響しているのか手入れもなされているようには見えなかった。
hara_016.jpgやっと、原宿の中心地に近づいてきた。「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」と言われる白隠禅師が再興した、松陰寺を訪れる。
白隠禅師は臨済宗の中興の祖と言われたが、生まれ故郷に帰って松陰寺を再興した。世に聞こえた名僧であり、参勤交代の大名も立ち寄ることが多かったが、特に備前の池田氏とは懇意であったようだ。あるとき、小坊主が「すり鉢」を割ってしまい、藩主池田継政から備前焼きの「すり鉢」を贈られたが、大風で折れた松の枝の雨よけに、「すり鉢」を被せたのだという。その後松の木は「すり鉢」を載せたまま大きくなり、やっと今から20ほど前に白隠禅師生誕300年を祝い、白隠禅師の松の枝に被せた「すり鉢」を京焼きのものに交換し、元の「すり鉢」は大事に保存することにしたのだそうだ。
下の写真で左側は「すり鉢松」全体を写したものであり、右側は乗かっている「すり鉢」を写したものである。
hara_018.jpghara_017.jpghara_019.jpg原駅を過ぎて少し行ったところに、「地酒 白隠正宗」の高嶋酒造があり、醸造用に使用している富士山の霊水が旅人にも飲めるようにしてあった。近くの住人が切れ目なく水を容器に入れに来ていた。
hara_020.jpg東田子の浦駅が近づいてきたころ、JR東海道線の線路脇に「庚申塚」という1500年ほど前の豪族の古墳がある。
この古墳を訪れるには、JR東海道線を横切るのが手っ取り早いが、踏み切りでもないところを渡るのはスリルがある。危険だから渡るなとの注意書きがあったが、線路に下りるための階段もあり、そもそも注意書きがあること自体が、渡る人がいるからだろう。そして今渡らなければ一生JR東海道の線路を渡ることは無いと、変な気を起こして、思い切って渡ってしまった。古墳から戻ろうとしたら、20mほど離れている踏切の信号機が鳴り出したので、これはいかんと、戻りは踏み切りの方に回わることとした。
hara_021.jpg「東田子の浦駅前」には「六王子神社」があるが、この神社には悲しい話が伝わっている。
昔、原宿一帯がまだ、沼地であったころは、海の潮が満ちてくると沼地で潮が吹き上がることがあったという。
これは、龍神のしわざだと、毎年15歳の少女を生贄に捧げていたが、適当な少女がいなくなって困っているときに、7人の巫女さんが通ったので無理やりくじを引かせ、当たった一人を生贄とした。ところが、村の若者が1人のみ生贄では残った6人と較べ不公平だと、6人を強姦してしまったのだという。全く、勝手な理屈だ。巫女は処女性が絶対条件で、強姦されては巫女を続けられなくなる。それで、6人は世をはかなんで沼に身を投げ、後日不憫に思った村人が6人を祭る神社を作ったとのこと。
説明板にも、この話が書かれているが強姦されたくだりが伏せられており、何故沼に身を投げたのかが、よく理解できない。
なお、生贄になった少女の名前は「おあじ」と言ったそうだが、おあじは別途「阿宇神社」に祀られているとのこと。
東田子の浦駅を過ぎて少し進むと、「望嶽碑」で有名な「立圓寺」がある。尾張藩の侍医、柴田景浩が碑を建てたとのこと。詳細は説明板をクリックのこと。
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hara_022.jpgまた。境内にはインドネシア船籍のグラテック号が昭和54年台風で遭難して、そのときの船の錨が2人の慰霊碑とともに飾られていた。
やがて「昭和放水路」に行き着き、放水路建造の先駆者の増田平四郎の像に対面する。浮島ケ原と呼ばれた沼沢地を干拓して農地を造るのは大変な努力を要したであろう。
なお、「原宿」は「浮島ケ原」が省略されて原と呼ばれるのが定着して「原宿」となったとのこと。
hara_025.jpghara_026.jpghara_027.jpgようやく、吉原に近づいてきて向こうの方に吉原(富士市)の主力産業である、製紙工場の煙突の煙が見えてきた。もうすぐ、吉原の宿だが、この続きは新しいエントリーで・・・

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2007.05.12

箱根から沼津(2)・・・(旧東海道)

mishima_037.jpg三島市街に入って、まず、「三島大社」を訪れた。鳥居をくぐると、最初に大きな「たたり石」に遭遇する。「たたり」とは、元来 糸のもつれを防ぐの意味があり、最初旧東海道の道の真ん中にあったという。行き来する人が増え、取り除こうとすると、災いが起こり「祟り」の意味に転じたという。その後、大正3年の道路工事でやっと取り除かれ三島大社の境内に運び込まれたと掲示板は述べる。そして、今では交通安全の霊石として信仰されているそうだ。
mishima_038.jpg右の写真は三島大社の本殿である。三島大社は伊豆国の総社として建立されたが、大きく発展したのは源頼朝が旗揚げに際し戦勝を祈願し、勝利を修めたことから、手厚く保護したからである。鎌倉時代から武家の奉納した甲冑が多く保存されていて、源義経が奉納した「国宝・赤絲威鎧(あかいとおどしよろい)・大袖付」もある。

mishima_039.jpgまた、境内には日本一の「金木犀」の木がある。秋の開花時期には10km離れても香りがたなびくと言われている。
三島大社を離れ「白滝公園」の方に桜川に沿って進んで行く。綺麗な湧き水の流れが民家の前を流れ、散歩道となっているが、その通り道に文学碑が建っている。 文は写真をクリックしてご覧いただきたいが、撮影した私の姿が映っている。司馬遼太郎の書き出しは柳の枝が邪魔して見えないが「この湧水というのが・・・」と続く。
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mishima_046.jpg「白滝公園」の入り口には「富士の白雪朝日に溶けて、三島女郎衆の化粧水」と「農兵節」の一節が書かれた碑が建っている。農兵節というと、富士の白雪ノーへ,富士の白雪ノーへ,富士のサイサイ,白雪や朝日に溶ける溶けて流れてノーヘと延々と続くが、昔はあんな歌を歌って宴会をやっていたとは、いまから思うと不思議だ。近年まで歌われて大いに流行した歌だと思うのだが、流行歌辞典などには載っていないそうだ。明治政府からすると賊軍の教練で歌われた歌など、リストから抹殺しろとなったのであろうか。

mishima_046a.jpg次に「楽寿園」を訪れた。旧小松宮別邸で名園とされる。残念ながら、昔は豊富であった湧き水が細り、池の水が干上がっている。池を主体に設計された庭園であるだけに、なんとかならないものかと思う。
mishima_046b.jpgmishima_046c.jpgmishima_046d.jpg気がつくと午後2時になっていた、朝コンビニで買っておいた「おにぎり」を「山中城跡」で食べたが、さすがに腹が減ってきた。本町の交差点に戻りながら、「蕎麦屋」があれば入ろうと見渡しながら歩くのだが、「ラーメン屋」ばっかりだ。どうも旧東海道を歩いていて中華は食べる気がしない。やはり和食系にしたい。
本町の交差点に戻ったが、もう本陣跡の形跡は損なわれていて、わずかに店先に飾られた「世古本陣跡」の薄っぺらな石板が目に付いたぐらいである。
mishima_046e.jpg伊豆箱根鉄道の「三島広小路」を過ぎて、数百m進むと「千貫樋」の掲示板があった。表示にもあるが、これが今川家へ養子に出す氏真の結婚の引き出物だったとは・・・。懐柔策としては良いアイデアであったのだろう。
やがて、宝池寺の境内に復活された一里塚があった(左の写真)が、道路を隔てた向こう側の「玉井寺」にも一里塚の表示があった。確かに一里塚は道路の両側あるものなので、2つあっても可笑しくはないが、お互いに張り合ってるようで良い感じではない。寺の境内そのものも、墓地分譲のいわば不動産屋が本業のようにも思えてくる。
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宝池寺で国道1号線の方に曲がり、少し三島方向に戻る感じで「柿田川」の源流の「柿田川公園」に向かった。
結局、蕎麦屋は見つからなかったが、さすがに何か食べねばと公園の前の「すかいらーく」に飛び込み遅い昼食を摂り少し休憩することにした。
下の10枚の写真は全て「柿田川公園」で撮影したものだが、テレビなどで良く見る もやもやと川底の砂が動いて、水が湧き出しているところや、とうとうと流れる柿田川、子供用の水遊びの浅い湧水池などがある。
湧水量は1日に100万トンとのことだが、町の中でいきなり大量の水が湧き出し、かなりの水量の川が突然始まるのだから驚く。そして柿田川は僅か1.2Kmで「狩野川」に合流するのである。
公園は柿田側の源流地域として樹木も含め大事にされているようで、清々しい空間を見せている。が、10数年前には、近くの製紙工場の廃液が柿田川に流され、酷い状態だったという。10年に亙るボランティアの根強い製紙工場への働きかけなどを通じ、いまの美しい柿田川が復活したとのこと。
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mishima_059.jpgだいぶ日も傾いてきたので、少し急いで沼津に向かって歩き始めた。それほどの距離ではないと思っていたが、やはり足の疲れがかなりなレベルに達しているため、遠く感じた。
まず、「八幡神社」に到達した。参道は鶴岡八幡宮の段蔓のように、桜並木が続いている。本殿近くにもう一つ鳥居があり、本殿の左横の奥の方に「義経」が奥州で「頼朝」挙兵の報に接し、駆けつけて対面したと伝えられる向かい合わせの石があった。 頼朝の座ったとされる石の傍に絡み合うように生えた2本の柿の木があるが、これは「頼朝」が食べた柿が渋柿だったので、ねじって捨てたところ2本の柿が芽を出し、幹をねじりあいながら立派な木になったと掲示板に書いてあった。
そんなアホな。鎌倉時代が始まる時代に生えた柿が現在まで生きているはずがないし、見たところ歳を重ねた木とも見えなかった。
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沼津が近づいてきて「狩野川」に掛かる「黒瀬橋」を過ぎると直ぐに、日本三大仇討ちの一つと言われる平作ゆかりの平作地蔵尊がある。
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少し進むと、今から千数百年前に玉を磨くのに使ったという「玉砥石」が2個置かれている。見た目にはただの普通の石に見えるのだが、考古学的には貴重なものとのこと。また、砥石が並べられている広場には「一里塚」も復元されていた。
mishima_064.jpgmishima_063.jpgmishima_065.jpg沼津の狩野川沿いの旧東海道は「川郭通り」と呼ばれていて、町並みは、もう昔の面影は損なわれているが、綺麗に敷石舗装が施されている。箱根の石畳と比ぶべくもないが、本当に綺麗で歩き易く気持ちの良い道だ。
ともかく、今日はここまでとしてJR沼津駅に急いだ。もうJR東日本の領域を外れ、SUICAも使えない。しかも、帰りは熱海、戸塚と2回も乗換えが必要だ。

箱根から沼津(1)・・・(旧東海道)

本日の万歩計31,984(21.1Km)

5月の連休の後半は田舎での高校同窓会参加のため、旧東海道を歩く旅はお休みで、2週間ぶりの歩行となった。
前回は箱根の関所を越えたところで打ち切ったので、まず、その場所にバスで行き、歩き始めた。最初は箱根駅伝の広場である。 素晴らしいブロンズ像が建っていて、嬉しいことに今日は快晴で富士山も顔を覗かせている。
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mishima_002.jpg歩いてゆくと、ほどなく駒形神社方面と書かれた分岐点に達し、大通りから別れ湖面方面に進む。 直ぐに駒形神社を左に見て、旧東海道の入り口に達するが、右に曲がると芦ノ湖の遊歩道である。ちょっと迷うところであるが、道標が出ているし、旧東海道に入ると直ぐに石仏群がある。
旧東海道に入ると直ぐに石畳の道となるが、最初は道の左側に水路を兼ねて作ったのか、歩き易い部分があった。
しかし、これは数10mでなくなり、本来の石畳道となる。そして、200mほど進むと国道の下を潜り抜けるポイントに達した。
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さらに進んでゆくと、石畳の石も苔が生しており、歩き難いが良い感じである。数百mほどで箱根峠近くの国道に飛び出すが、箱根新道との合流点でもあるので道路が複雑に入り組んでいる。間違えないように注意し、また横断歩道もないので道路の横断にも注意を要する。そして、箱根峠に向かうべく、ゴルフ場への取り付き道路の方に向かったら、突然に富士が顔を出した。 やはり嬉しい。

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mishima_007.jpg箱根峠には長距離トラックなどが休憩するための広い駐車場があり、その隅に女性の有名人が言葉を記したモニュメントがあった。以下に記すと
橋本聖子「細心大胆」、宮城まり子「私は彼らと共に泣き また笑った 彼らは、ただ私と共にあり、私はただ彼らと共にあった。」、橋田寿賀子「おしん 辛抱」、黒柳徹子「花見る人はみなきれい」、穐吉敏子「道は段々 険しく」、向井千秋「夢に向かってもう一歩」、桜井よしこ「花は色なり 人は心なり 勇気なり」
源実朝「箱根路を 我が越え来れば 伊豆の海や 沖の小島に浪のよる見ゆ」
源実朝の歌は有名なので別として、他の有名女性陣のは、どうも、あまり心に響かなかった。

mishima_008.jpg休憩用駐車場では、オートバイツーリングの若い一団も休んでいた。 彼らの移動速度は歩くのとは格段の差だ。
mishima_009.jpg箱根峠から右方向のゴルフ場への道を進むと、300mほどで旧東海道への入り口に達する。
入り口には旧東海道の案内板のほか、江戸へ25里、京に100里の石碑も建っていた。 ここに行く前は旧東海道への入り口が分かり難いのではと危惧したが、杞憂であった。

旧東海道に踏み入ると直ぐに休憩のための綺麗な「あずまや」がある。静岡県は旧東海道の宿の数も一番多く、大変に力を入れているそうだ。そして、横に入ったところに、井上靖の「北斗欄干」と書かれた碑がある。碑全体が指の形をしており、北極星を指し示している形だという。
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最初の下り坂は「甲石(かぶといし)坂」という。道の両側から「篠竹(しのだけ)」が垂れ下がってきて、トンネルのようで良い感じ。石畳も竹の枯葉が積り、かなり覆われている。
「兜石跡の碑」が見つかった。 以前はここにあったそうだが、国道の拡張工事で邪魔になると移動させたという。しかし、国道を走る車の音も聞こえないほど離れているのに、何故邪魔だったのだろう?
mishima_012.jpgmishima_013.jpgmishima_014.jpg500m程度であろうか、旧東海道は国道と交差する。旧東海道は国道を横切ったところから続いているが、今は通れないので右方向に国道に沿って進むと、ほどなくまた、旧街道の入り口がある。この入り口には写真ような特色のある道標が建っている。静岡県ではこの統一されたスタイルの道標を市街地域にまで建てている。
なかなか感じが良く旧街道を紹介するのに適した重みもあるように思う。一番上には東海道で、どの位置にあるかを示す里程表示があり、その下に、富士山を示すのかデザインされた”M”の字様のものが書かれている。さらにその下に、「夢舞台東海道」と書かれているが、読みは「夢ステージ東海道」というのだそうだ。
直ぐに「兜石」に対面する。先ほどの「甲坂」から移したものらしい。兜の形をした石なので「兜石」と呼んだのであろうが、秀吉が小田原攻めのときに、兜をこの石にのせたからとの説もある。しかし、それはないだろう。関白となっていた、秀吉はもう兜などかぶらないと思うのだ。
このあたりは、勾配が緩やかで石畳でない道も多いが、石畳に比べて歩き易いし、直接地面なら歩いたときの衝撃も小さいので、とても楽だ。
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石原坂と言われる坂道を下ってゆくと「念仏石」と呼ばれる大きな石がある。さらに、大枯木坂というところを下って行くと、突然民家の庭先に飛び出す。
写真中央のやや右よりに見えるのが辿ってきた旧東海道であるが、右の方ではおじさんが木の刈り込みを行っている。旧東海道に接して家を作ったので、時々旅人が庭先を横切ってゆくはやむを得ないのだろう。
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民家の庭先を過ぎると、一度国道に出て直ぐに「小枯木坂」という坂道に入る。横断歩道がないので、国道を渡るタイミングを見計らっていた若い女性が会釈を返してくれた。
まだまだ、石畳の道は続くが、道幅は広くなっている。 乗用車は無理だが小型トラックなら無理をすれば登って来れるようで、軽トラックを1台見かけた。 また、落ち葉が沢山積もっているところもあり、歩き易いが滑り易い道でもあった。下手をすれば尻餅をつきそうだ。
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「小枯木坂」の終わりで国道と合流する直前に「雲助徳利の墓」がある。杯と徳利が浮き彫りになったユニークなものだ。 最近では楽器をデザインした墓石などもあるが、デザイン墓石のはしりだろうか。
謂れと詳しい解説の掲示板が建っていたので、詳細はそちらをクリックしてお読みください。
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しばらく国道を歩くことになる。直ぐに右手に樹齢500年の赤樫で有名な「駒形諏訪神社」があり、やがて右手に「宋閑寺」が見えてくる。このお寺では山中城での戦いで戦死した、北条軍、豊臣軍の両武将が静かに眠っている。
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次に「山中城址」を見学する。 この城は石垣を使わず土地に起伏をつけて作られたユニークなお城である。整備されて、とても美しいが山城であり城域も大きいため、とても全部を見る余裕はなく、ほどほどで退散した。
秀吉の小田原攻めに対する防御のために作られた城であるが、4000の守りに対し3万5000を擁する大軍の前に半日で陥落したとのこと。
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国道と旧街道が一緒になったり、離れたりを繰り返すが、旧街道に入って「芝切地蔵」を右手に見て、再び国道を歩いた後、「山中新田」の石畳を歩いてゆくと、突然に富士山が感動的な姿で見られるようになる。国道を過ぎるポイントには「霧しぐれ、富士を見ぬ日ぞ、面白き」と書かれた芭蕉の大きな句碑がある。芭蕉がここを訪れたときは、霧で一面 真っ白で全く富士を見ることが出来なかったのだ。さぞや、悔しかったことだろう。
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芭蕉の句碑を見て国道を渡り、旧東海道を歩き、旧街道が再び国道と接する場所に来た。「笹原新田」と言う場所だ。
そして、国道と離れる場所に達して驚いた。こんなところにラブホテルだ。ホテルの屋上の看板は、壊れているが入り口の感じからすると営業しているようだ。 直ぐ右側には旧東海道の石畳が続いているのにである。これも、過去と現在の交差点だろうか。
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次に国道をよぎると、道路は舗装されているが、勾配がとても急なところにきた。「こわめし坂」という。
背中に背負ったもち米が汗で、おこわが出来るくらいだというところから付いた名で、箱根西坂で一番の難所だったという。舗装されていても、とて急で足の指先が痛く感じるくらいで、石畳の江戸時代ではもっと大変だったと想像するに難くない。掲示板も建っていたので合わせてご覧いただきたい。
mishima_031.jpgmishima_032.jpgmishima_033.jpg「こわめし坂」を過ぎて、「三ツ谷新田」という地域に入り、県道だろうか、バスも1時間に1本ぐらい走っている道を進む。しばらくして、明治天皇も休憩を取られた「松雲寺」が右手に現れる。参勤交代の大名もこの寺で休憩をとることが多かったという。
この辺でハッキリと足の疲労を感じるようになってきた。また、旧街道に入って「臼転坂」を下って行く。旧街道は当然 石畳の道だ。
その後も延々と県道を歩くのが続き、「塚原新田」で塚原バイパスに合流する。 完全に町に下りてきた感じだ。しかし、これから続く「初音ケ原」と呼ばれる場所の「塚原バイパス」の歩道は松並木となっていて、歩道は石畳なのである。石畳とは言っても石をコンクリートで固めているが、やはり歩き難い。旧東海道の石畳に近い形を取るなら意味があると思うのだが、コンクリートで完全に固めても歩き難い石畳を配することの意義はあるのであろうか。また、歩道の途中には一里塚も復元されていた。
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mishima_036.jpg長い石畳の道をくたびれた足で歩き、ようやく「塚原バイパス」と別れ、旧街道に戻って「愛宕坂」を下る。
坂を下りきるとJR東海道本線の踏切を渡り、「愛宕橋」を渡って市街に進む。まだ、富士は大きく存在感を見せ付けている。
今回の箱根西坂の旅で東坂と根本的に違ったのは、山中の石畳道では誰にも遭遇しなかったことである。車の走る道路以外では、ほんとうに人の気配がないのである。道標が完備されているので山中にても不安を感じることはなかったが、東坂とは対照的であった。
三島市内から沼津は次のエントリーで・・・

2007.04.29

小田原から箱根・・・(旧東海道)

本日の万歩計36,816(24.3Km)
今日は東海道53次で一番の難関と言われていた、箱根の攻略である。
とにかく、朝早くの出発を心がけて東戸塚をam5:33の電車にのり、戸塚駅で東海道に乗り換え小田原にはam6:21に着く。
hakone_001.jpgまず、前回立ち寄った小田原市運営の無償の休憩所のある、本町の交差点に向かった。なかなか、趣のある建物だが、大正12年の関東大震災に被害を受けた網問屋の建物を昭和7年に再建したものとのこと。 これを整備して使っているが、「出桁造り(だしげたつくり)」という典型的な当時の商家のつくりだという。
本町の交差点から一路箱根方面に向かって歩き始めると、ほどなく右手に「ういらう(ういろう)本舗」のお城のような壮麗な建物が見えてくる。「ういろう)」というとお菓子の「ういろう」の方が一般に知られるようになったが、ここでは「透頂香(とうちんこう)」という万能薬も売っている。 
「ういろう」についての詳細はこちらをご覧ください。 最近では名古屋が「ういろう」の本家のような様相だが、やはり小田原が本家らしい。
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hakone_004.jpg小田原の市街を離れて箱根路への旧市街の路は、辻毎に道祖神が祭られている。一礼して通り過ぎる。やがて「板橋地蔵尊」に行き着く。縁日には賑わうそうだが、普段はひっそりとしている。大きな大黒像がユーモラスにも見える。

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入生田の郷に入ると長興山招太寺がある。 参道を入ると直ぐ左手に寺名碑が建っている。ここを入れば、珍しい茅葺屋根の本堂がある。
三代将軍家光の乳母の「春日の局」は後の小田原城主の稲葉正成の後妻であり、招太寺には稲葉一族と「春日の局」の墓があるはずである。
しかし、私はここで大失敗をした。 最初、本堂はもっと奥の方と思い、どんどん参道を進んでいったが、階段と石畳の連続で700mも進んで、広いみかん畑と主要伽藍の建設跡地という表示板に行き着いただけであった。
とにかく、階段も自然石を加工はしているが綺麗にそろったものではなく、石畳ともとにかく歩きにくい。急坂でもあり、700mの往復でかなりスタミナを消費してしまい、後々まで体調に影響するほどのものであった。 しかも、残念なことに「稲葉一族」の墓も「春日の局」の墓も見付けられなかった。
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さらに進むと、「福沢諭吉」の提言で作られた「日本初の有料道路の表示板」がある。カメラをかまえる腕の影が写っているのがご愛嬌。
国道から一段高く「箱根登山鉄道」との間に歩道が作られているところがあり、単純な歩道を歩くより面白い。
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若い夫婦は、自転車で箱根登山のようだ。 若者の団体で相当な急坂も自転車で登って行くのも見かけた。
そして、いよいよ箱根への入り口の「三枚橋」を渡る。 いよいよ箱根に登る気分がたかまってくる。
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「三枚橋」で国道1号線と別れて、県道を歩いてゆくと道路の直ぐ右に後北条氏の菩提寺の「早雲寺」がある。北条早雲の遺命で、その子の氏綱が建立した。
曹洞宗のお寺で、大きなお寺ではないが境内は掃除が行き届いており、植木なども綺麗だ。 このようなお寺は入っただけで気持ちが清々しくなる。そして、右手の墓地の奥まったところに、後北条氏の5代の墓が並んでいる。 高野山にある秀吉のひときわ大きい五輪塔の墓と比べて対照的だが、こちらの方が清々しい。
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やっとの思いで、最初の石畳道の入り口に到着する。後で、もう石畳などコリゴリと言う気分にさせられるのだが、このときは期待感が高まった。 写真で見るとどこかの民家の方に入ってゆく道に見えるが、奥の車の駐車しているのが見える左側に入り口がある。 表示も写真の左の方に見える細い表示柱だけで、もう少しで見逃して通り過ぎるところであった。
hakone_013.jpghakone_014.jpghakone_015.jpg石畳を降りきったところに「さるはし」と書かれた橋があるが、その上には「箱根湯元ホテル」の本館と別館との間の渡り廊下が掛かっている。 廊下を通る宿泊客の足音が聞こえ、ちょっと興醒め。そして、この石畳道に住みついているらしい、猫に出会った。
hakone_016.jpgしばらく行くと、道路の右側に「天聖院」と書かれた、やたら派手なお寺が建っていた。箱根大天狗山神社の別院とのことだが、覗いて見える本殿も金ぴかだし、釣鐘まで金色なのは尋常とは思えない。いったい、どういうお寺なのだろう。
県道をひたすら歩いて、初花の瀑布の碑を過ぎると、「鎖雲寺(さうんじ)」が左手にあり「勝五郎」と「初花」の比翼の塚と呼ばれる墓がある。
初花と勝五郎の話は、「箱根霊験躄仇討(はこねれいげんいだりのあだうち)」に出てくる話である(詳細はこちらを参照)が、初花は現代でも通用する名前であるため、これを冠したものはホテル以外にも多くのお店で見られる。
hakone_013a.jpghakone_013b.jpghakone_018.jpg「鎖雲寺」を過ぎ、また県道を離れた道路歩きを味わえる地点に来た。旧街道は県道が大きく右にカーブして「須雲川」を渡ったところから始まる「女転坂」と言われるところだが、現在は通行不能である。
それで、橋の手前の「須雲川自然探索歩道」に入る。歩きよい歩道で最後に沢に渡された板の橋を渡る。当然雨が降った後の増水時は通行不能で、そのための大きな字で書かれた注意の掲示板が建っていた。

hakone_019.jpghakone_020.jpghakone_021.jpg板橋を渡って(水が少ないと、板橋がなくても石を選んで歩を進めれば渡れる)、上ってゆくと県道に飛び出すが、しばらくして右側に、また石畳道の入り口があり、割石坂の碑が建っている。 これは曽我十郎が刀の切れ味をみるため、石を切ったところから名づけられたのだという。
ともかく、ここの石畳は江戸時代に作られた石畳と近代に子供の通学路として補修された部分が交互に出てきて、違いを見ることができるようになっている。 たしかに石の組み方も異なるし、近代の方がわずかだが歩き易い。
一度県道に出て、また直ぐに左側に「国指定史跡箱根旧街道」の立派な標識が目に入る。 ここは江戸時代の石畳がよく残っているところで、石畳の石も苔むしていて、歴史を感じながら歩く。入り口から急な坂を下ると「大沢」と呼ばれる小さな沢を渡り、「座頭転ばし坂」と呼ばれる急坂を登るが、坂を登りきると突然に県道に飛びだす。
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県道に戻ると、直ぐに畑宿本陣跡がある。畑宿は宿場でなく立場(宿と宿の間の休憩場所)だが、長い登りの疲れを癒すのに良い場所にあり、1856年に初代総領事として来日したハリスも休んだとのこと。
進んで行くと、県道は右に逸れて行くが、直進して旧道にはいると江戸から23番目の一里塚が修復されてほぼ完全な形で見ることが出来る。
道の両側に丸く盛り土をして石垣で囲み、中央に植樹したものである。 箱根のような樹林帯のなかの道では、江戸から何里と知れる以外はあまりご利益はないが、田んぼの中の1本道のようなところでは植えられた樹木が作る木陰で休息して、一息入れる場所であった。
hakone_024.jpghakone_025.jpghakone_026a.jpg
途中で石畳の道が箱根新道を跨いでいるが、歩いていると全く気がつかないようにされていて驚いた。車の音が大きく聞こえるので雑木の間から覗き込むと、下に全く対照的な道路があり高速で車が走っていた。旧街道を極力残そうとの粋な計らいで、過去と現在の交差点だ。
県道に飛び出すと、県道も傾斜の強い道路となっていて七曲と呼ばれる車にとっても最も厳しい上り坂にさしかかる。勾配が10.1%とあったので、100mで10.1mの上りなのだろう。歩行者の歩道は途中でショートカットの階段もあるが、相当に苦しい登りで、途中で休息を取ることを余儀なくされた。
七曲の県道を何ターンかしたところで、左側に「橿(かしの)木坂」の表示とともに、箱根路で最大の難所と言われる195段もの階段に差し掛かる。東海道の名所日記にも「橿の木の、坂をこゆれば苦しくて、どんぐりほどの涙こぼる」と読んだ男がいたとの記述があるというのだから、尋常でない。どんぐりほどの涙はこぼれなかったが、階段は整備されたものになっていても足が上に上がらなくなり、途中で何度も休まなければ、登れなかった。
しかも、気がつくと飲み水もなっくなっていた。畑宿で補充すべきだったのだが、買い忘れた。
水がないと分かると、精神的にも打撃である。 時間を見ると11時半で、お腹も空いてきた。見ると、街道の途中に作られたベンチでどこかの夫婦が、コンビニで買ってきた弁当を広げている。こちらは、水もなく、ましてや弁当もなく一人歩きだ。 なんとか、甘酒茶屋まで我慢して歩き続けるしかないが、肉体的にも相当へばってきた。
やっとの思いで県道に飛び出し、道路を跨ぐと、「猿滑坂」の石碑があり、立て札には「猿侯といえども、たやすく登り得ず、よりて名とす」と記載されている。やれやれ・・・
hakone_026.jpghakone_027.jpghakone_028.jpg何とか、県道に復帰し、へばった体を騙し騙し、歩いていると親鸞聖人が弟子と別れた「笈の平(おいのたいら)」と呼ばれるところに到着した。とても大きな石碑があった。笈とは仏像をはじめとして、お香やお供物、経文、お札など、修行に必要なものを納め背負う箱で、ここで親鸞が愛用の笈を関東に残る弟子の「性信房」に与えたので「笈の平」と呼ばれるようになったという。ともかく、この世では二度と会うことが叶わぬ師の姿が、樹林に消えてゆくのを滂沱の涙とともに見送ったのであろう。
「笈の平」からは甘酒茶屋は直ぐである。何か食べて休息しようと思ったが、飲み物は甘酒とお茶くらいで、食べ物も「あべかわ餅」、「いそべ巻き」ていどで、とてもちゃんとした食事は無理と分かった。それで、飲料水だけ自動販売機で補給して直ぐに出発した。大勢の人が訪れていたことを考えると、もう少し出し物を豊富にしてもと思ったが、5月の連休中なので混雑していたが、平素の状況からはこの程度が精一杯なのかも知れない。
空腹を満たすには先を急ぐ必要があることになったので、やむを得ず歩きにくい石畳を急いでいると、やっと登り坂が終わりになり、「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と刻まれた大きな碑があった。この辺りは元箱根から来る人もあり、何組かのカップルが碑をバックに写真を撮りあっていたが、こちらは一人だ。 早々に坂道を下って、現世界への入り口の「杉並木歩道橋」を渡る。
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杉並木歩道橋をわたると、箱根の自然を残すのに功績のあった、ドイツ人のケンペルとオランダ人のバーニーの碑があり、終に芦ノ湖湖畔に出た。
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時刻は12時30分。いそいで、近くの蕎麦屋に入り「天ぷら蕎麦」を注文して、携帯電話を見ると着信の信号が出ている。
みると、妻からで「箱根神社」に来ているという。 食事を終えて「芦ノ湖遊覧船」の発着所で落ち合い、「賽の河原」を見て、杉並木を歩く。 東海道は松並木が普通だが、ここでは杉並木だ。 最初、松を植えたがうまく育たなかったのだという。 それにしても、杉はまっすぐ伸びて巨木の連続だ。
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杉並木を終えて、恩賜公園の入り口に来ると、「瀧廉太郎」作曲、「鳥居忱(とりいまこと)」作詞の中学唱歌箱根八里(箱根の山は 天下の険 函谷関も物ならず・・・)の大きな碑がある。 荒れていて読みづらい。
最後は、関所資料館を見学し、現在の再現された関所を通って、帰宅のバスを待った。
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今日は良く晴れていて、箱根に着く前の電車の窓から富士山が見えていたが、箱根の旧街道を上る間は見ることは無かった。 帰りのバスの窓から見えたので、すかさず撮影して最後の写真とした。しかし、帰りのバスは渋滞で小田原まで2時間も掛かってしまった。
hakone_037.jpg小田原から箱根に歩いての感想は、やはり箱根は天下の険であり、厳しかったということである。箱根に着いたのが12時30分で、時刻としては三島に下れる時刻であったが、とても三島に出発する気にはなれなかったし、疲労度からも、とうてい無理であったと思う。

2007.04.22

茅ヶ崎から小田原(2)・・・(旧東海道)

大磯から小田原まで・・・
chigasaki_024.jpg大磯市街に到着して、最初に地福寺を訪れた。 地福寺は「島崎藤村」と妻の静子の墓がある。
どちらの墓もシンプルでモダンな感じであり、墓碑にも戒名などはなく、島崎藤村墓、島崎静子墓と書かれている。 境内には芽吹いたばかりの梅の木があり、その配置もよく、美しいお寺である。
島崎藤村といえば「小諸なる古城のほとり、雲白く遊子哀しむ」という「千曲川旅情の歌」を思い出した。
chigasaki_025.jpgchigasaki_026.jpgchigasaki_027.jpg島崎藤村の墓のある地福寺を訪問してから、虎御石のある延台寺を通り越したことに気が付き、少し戻って(100m程度)見学することにした。虎御石とは、高麗山麓に住んでいた山下長者が子宝祈願をして、小石を授けられ虎御前が生まれたが、小石は虎御前とともに大きくなったとのこと。あるとき曽我十郎を狙って遠矢を放ったものがいたが、矢はこの石に当たって命拾いしたとの伝承もある。この石がお堂に納められているが、もちろん覗き込むことは出来ない。
それにしても、山下長者は自分の娘を遊女である白拍子にしたとは思えないのだが、大勢の遊女を抱えていたようで、自然に自分の娘もその方向に進んでいったのであろうか。
chigasaki_028.jpg大磯はかつては、大勢の名士が別荘を構えていたところであるが、この写真のような、大変古いと思われるお店も残っているのが面白い。
また、大磯は海水浴の発祥の地でもあり、湘南の発祥の地でもある。 その石碑も建っている。

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大磯での圧巻は、西行法師で名高い「鴫立澤の庵」が残っていることである。
第一国道の直ぐ脇にあって、わずか2m程の階段を降りると、そこは別世界で国道の騒音も頭の上を越えていくのか以外に静かだ。 それだけではない、沢の水音も聞こえる。見ると、残念ながら生活排水が混じっている水ではあるが、そこそこに綺麗な水が流れている。
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小田原の崇雪が「鴫立澤」の標石を建てて、草庵を結んだのが始まりとのことであるが、京都の落柿舎、滋賀の無名庵とあわせ日本三大俳諧道場と称されるだけあって、草葺の庵の風情はもう和歌の世界である。
鴫立澤と言うと、高校時代に習った古文の授業での西行法師の歌の「心なき、身にもあわれは知られけり、鴫立つ澤の秋の夕暮れ」を思い出す。
理科系の人間の常として、国語、古文などは苦手なのであるが、古文の先生の授業がうまかったのか、とてもしんみりと心に響く気がしたのを思い出す。 大げさかもしれないが、日本人に生まれてよかったと思う瞬間でもあった。
chigasaki_033.jpgchigasaki_034.jpgchigasaki_035.jpgchigasaki_036.jpg
一服の清涼剤の「鴫立庵」を後にして、まだ心は惹かれるようだ。鴫立つ澤の秋の夕暮れの歌は、新古今集の三夕の歌として名高いが、あとの2つはと考えて、藤原定家の「ふりむけば、花も紅葉もなかりけり、裏のとまやの秋の夕暮れ」を思い出したが、もう一首が思い出せない。 後で調べたら、もう一首は寂連の「寂しさは、その色としもなかりけり、槙立つ山の秋の夕暮れ」だった。
しかし、私はやはり西行の一首が一番好きで、和歌としても群を抜いているように思える。
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余韻を引きずりながら歩き、島崎藤村の旧宅を見るのを飛ばしてしまった。周りを見ると、見事な松並木でもう、戻るには遠すぎる。それにしても、一番大きな木は太さ4.3mもある。
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やがて、伊藤博文公の別荘跡(別荘は既に中華料理屋になっている)の前を通り、吉田茂氏の別荘前に達する。
吉田茂邸は立ち入りは許可されないが、大きく海岸側に回ると、吉田茂翁の銅像だけは見ることが出来るように開放されている。 戦後の政治体制の基礎のほとんどを吉田内閣で作った功績は大としたい。
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吉田茂の銅像を見た後は、城山公園への旧道分岐まで戻り歩き始める。
ところどころ、国道と別れて旧道となっているところもあるが、基本的には単調な道を辿ることになる。 
そろそろ、お昼の時刻になったので、どこかで食事にしようと適当なお店がないかと探しながらあるく。一軒の蕎麦屋が見つかったので、入って「天ざる蕎麦」を注文する。ふと見ると火気取り締まり責任者の名前は女性だったので、女性の板前さんかと思ったが、帰りに厨房を覗き込むと、中東から来たと思われる人が調理していた。
こういう店にも、外国人労働者かと、少し考えてしまった。
食事の終え歩き続けると、ほどなく二宮に到着した。二宮では駅前に建つ、「ガラスのうさぎ」の像を見る。 空襲で父を失った戦争体験を描いた「ガラスのうさぎ」の記念碑とのこと。 直ぐ後ろには、駅の開設に尽くした「伊達時」の顕彰碑が建っている。
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二宮駅の海と反対側には「吾妻山公園」があり、上ると富士山を見る絶好の場所だが、以前に菜の花の咲くのを見に訪れていたので今回はスキップすることにした。
なお、吾妻山神社は、三浦半島から海路上総に向かう日本武尊が海神の怒りに触れ暴風雨にあったとき、妻の弟橘媛(おとたちばなひめ)が自ら海に身を投げ海神の怒りを静めたとの言い伝えがあり、やがて海岸に打ち上げられた櫛を埋めたところに、神社を築いたものだという。
当時としては海が荒れたのを鎮めるには、若い女の人身御供以外に方法はなかったのであろうが、弟橘媛はこの地方で勢力を誇った豪族の娘との説もある。
ともかく、吾妻神社は今は縁結びの神として崇拝されているとのこと。
chigasaki_043.jpgやがて、旧道との分岐点に押切坂の一里塚跡の碑が現れる。 うっかりすると見落としそうな目立たない場所にひっそりと建っていた。
さらに、海岸に近づく国道を歩いていると、国府津を過ぎた頃「小八幡の一里塚跡」に達する。 全く一里塚跡は残っていなかったが、記録をしらべてこの辺りと決定したとのこと。

chigasaki_044.jpgchigasaki_045.jpgchigasaki_046.jpgそして、いよいよ「酒匂川」を渡る。日本橋を出発してから多摩川に次ぐ大きな川であるが、何故か「二級河川」だ。また、「酒匂川」と言うと、東名高速での高い高い橋げたが印象に残っているが、この辺りの川は海に近いので様相は大きく異なる。 また昔の酒匂川は夏は徒渡りで冬だけは仮橋を架けたそうだ。

chigasaki_047.jpg実際の渡しは、現在の橋より上流に70mほどの地点で、そこから国道を跨いでから左折するのが旧街道だが、その旧街道の左折するところに、「新田義貞の首塚」の案内が出ている。
もう1本海側の細い通りだが、小さな広場のような公園の脇に通路があり、首塚に行けるようになっている。義経の首塚同様、あまり関心を払われたものには見えないが、塚の隣には小田原市長鈴木十郎書と刻まれた、立派な新しい碑が建っている。
酒匂川を渡って、しばらく進むと小さな山王橋に行き着く。これを渡り、250m程進んだ浜町歩道橋のところに、「江戸口見附跡」があるが、説明板の前にはデーンと選挙のポスターの掲示板が設置されており、説明を読むことが全く出来なかった。
chigasaki_048.jpg江戸見付跡の標識と説明の掲示は旅行者用に設け、より一層訪れる人を誘う積りと思うが、選挙期間中であり、選挙ポスターの掲示場所を確保するのが難しかったのであろうと思うが、残念である。
新宿(しんしゅく:濁らない)の交差点で、左折して最初の4つ角で右折して、「かまぼこ横丁」と呼ばれる通りを進む。 ここで、左手側に見えてくる「古清水旅館」はかつては脇本陣であった場所であり、明治天皇行在所の碑のある場所は「清水金左衛門本陣」のあったところである。
chigasaki_049.jpgchigasaki_050.jpg
本町の信号までたどり着いて、小田原市がサービスしている無料休憩所に入り、お茶をいただいた。
お茶を出してくれたおばさんは、時々京まで歩くという人も訪れると話していた。
お茶をいただいて、今日はこれで切り上げる積りであったが、小田原駅近くの「おしゃれ横丁」にある北条氏政、氏照の墓を訪れることにした。「おしゃれ横丁は」細い路地のような通りで、若者で賑やかなところであり、こういうところの一角に墓があるのも、何だか場違いな感じであった。
墓は武士らしく五輪塔の形を成している。しかし、豊臣秀吉との戦いに敗れてのこととは言え、関東一円を支配した後北条家の武将の墓としては、あまりにも小さな墓石である。右側の比較的大きな五輪塔は氏政夫人の墓と説明板に記されているが、氏政、氏照の墓は夫人より軽いあつかいだったのだろうか。
この辺に秀吉の人間としての度量を見る思いがする。
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chigasaki_053.jpg最後に小田原駅に飾られている、大きな小田原提灯をカメラに収め、今日の旅を終えることにした。
いよいよ、天下の瞼、箱根越えに向かうところまで来た。 昔も今も難所であるらしいので、周到に用意しようと思う。
そういえば、昔は箱根の関が開くのは6時から夜の6時までだったので、急ぎの旅人は暗いなかを歩いて、朝に関が開き次第通過したのだという。そのため、夜道を歩く提灯は必需品で、小田原で歩行に便利な提灯として、後に「小田原提灯」と呼ばれるのが売られたのであろう。

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