2007.11.17
日本橋から浦和・・・(中山道)
本日の万歩計46,761(31.3Km)
10月27日に京都三条大橋に到着し東海道を歩くことは達成出来たので、次は中山道と考えていたが何かと引っ掛かりが生じ体が空かなかった。
やっと、空いたので本格的なアッタクは来春としても、市街地脱出はぐらい開始しておこうと出発した。
日本橋からのスタートなら、それほど早く出かける必要もないと思っていたが、何だか早く目が覚めて6時を少し回ったところで日本橋に到着した。さすがに、冬は夜が明けるのが遅く橋の欄干のライトが点っていた。
再びレプリカの道路元標を見て、歩き始めると左側に三越本店があり、既にクリスマスの飾り付けであった。この辺りは伊勢、近江などの江戸店(えどだな)が軒を並べていたところである。
本物の道路元標はこちら。
17号線を進んで行くと、しばらくして神田駅に着きJR線のガードを潜るが、ガード下に田中昭作の「健やかに」のブロンズ像があった。さらに進んで、JR中央線に接しようとするところに交通博物館がある。学生時代に秋葉原に通った折に何度か入ったことがあるが、2006年5月14日に閉館となり今は取り壊し中のようであった。
なお、後継施設として鉄道博物館が2007年10月14日に埼玉県さいたま市大宮区・北区大成町に開館したとのこと。
神田川を昌平橋で渡ろうとしたら、この辺りでもカモメが飛んでいるのには驚いた。早朝で人通りも無く、のんびりとした時間を過しているのだろうか。昌平橋の名前の由来は、将軍綱吉が湯島に聖堂を建設したとき、相生橋(芋洗橋)と呼ばれていたのを、孔子誕生地の昌平にちなみ昌平橋と改名したという。
そして、江戸時代の朱子学の学問所の「湯島聖堂」。早朝で一部しか見られなかったが、豪壮な建物であり、今でも論語素読、易経講義、孟子講読などの予定表が掛かっている。
「湯島聖堂」と中山道を挟んで反対側に「神田明神」がある。天平2年(730)の創建で、大手町の将門塚あたりあったのを、徳川家康が現在の位置に移し、その後は「江戸総鎮守」として今に至るも隆盛を極めている。
また、神田祭は天下一の祭礼としてつとに有名である。
東京医科歯科大の裏を通って本郷3丁目に達すると、その交差点に「かねやすビル」が道路の左側にある。写真は道路の右側から交差点を通り過ぎて対角線のような感じで振り返って撮影したものである。江戸の川柳に「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」と詠まれたというが、内口中医師(今の歯科医)兼康裕悦がここで乳香散という歯磨き粉を売り出したら江戸中の評判になったところである。また、火災を警戒して町奉行より本郷までは塗屋、土蔵造りを勧め、屋根は茅葺を禁止し瓦葺とした。その境目がこの「かねやす」で、現在もビルとなってその名を留めている。
本郷3丁目の交差点を過ぎると、しばらくして、有名な東大の赤門。説明板には、11代将軍家斉の娘溶姫(やすひめ)が加賀藩に嫁ぐ時に前田家で建造したもので、正式には御守殿門といい、重要文化財に指定されている、とある。そして、本郷追分で分かれるまで、700mほども続く長い東大の塀。また、追分には最初の一里塚があったとのこと。
東大から分かれて700mほど進み、白山1丁目の交差点で左折して細い坂道を下ってゆくと、直ぐに円乗寺の入り口がある。小さくて本堂のみで境内もほとんど無いようなお寺だが、「八百屋お七の墓」があることで有名である。井原西鶴の「好色五人女」で有名になったが、八百屋お七は寺小姓佐兵衛に会いたさに、火付けをして、鈴が森の刑場の露と消えた。
巣鴨までは2kmほどの距離である。巣鴨駅を過ぎると直ぐに、左側に真性寺があり、笠を被った大きなお地蔵さんがある。江戸六地蔵の一つで正徳4年(1714年)に建立されたものであり、以前は巣鴨の地蔵と言えば、この地蔵を指したが、最近は「とげぬき地蔵」の方が有名になった。
あまり、広くない境内には芭蕉の句碑もあり、「白露もこぼれぬ萩のうねりかな」と書かれていた。
おばあさんの原宿と言われる「巣鴨の地蔵通り」に進んで行く。朝の9時で、まだ閉まっていて開店の準備を始めたばかりの様相であった。しばらく進むと、「とげぬき地蔵」で有名になった、高岩寺がある。明治24年に下谷屏風坂(現上野駅付近)からこの地に移設されたお寺であり、昼間は行列ができるほどの賑わいというが、まだ閑散としていた。ちなみに、本尊は延命地蔵尊であるが、秘仏で非公開である。
長い「巣鴨の地蔵通り」を進んで「都営荒川線」の庚申塚駅に向かう。踏み切りに達する少し手前に、「巣鴨の庚申塚」がある。江戸時代は名所として賑わったという。そして、懐かしい、今でも残っている路面電車の「都営荒川線」を見る。
板橋に到着した。駅前には生き残った「永倉新八」が作った「近藤勇」と「土方歳三」の墓がある。もちろん、「永倉新八」の墓もある。旧東海道歩きで本宿(赤坂と藤川の間)の宝蔵寺でも近藤勇の墓(首塚?)があったが・・・
また、駅前広場には、北村治禧(きたむらはるよし)という人の「麗新」と題したブロンズ像もあった。
JR板橋駅は東口から西口に行くには、踏み切りを跨いで回り込む必要がある。西口駅前広場には「むすびのけやき」と名付けられた立派な「けやきの木」があった。後に出てくる「縁切榎」と対照されて面白い。
旧道を歩いて首都高速にぶつかり、その下を走る17号線を渡り、そのまま進むと「宇喜田秀家の墓」のある「東光寺」がある。「宇喜田秀家」は秀吉の時代は5大老と言われるまでになったが、関が原の戦いで副大将として奮戦したことが災いして、改易され、その後、島津、前田の懇願で死罪は免れるが八丈島に流される。しかし、長男と次男の子孫が八丈島で血脈を伝え、明治になり、この東光寺に墓を作ったという。
旧道を進んで行くと、「板橋宿」の名前の由来となった、「板橋」がある。現在はコンクリートの橋であるが、板の雰囲気を保とうとはしているようだ。それにしても、橋の左側に車が3台も停められているのはいただけない。さらに、進むと、この木の下を嫁入り、婿入りの行列が通ると不縁になるという「縁切榎」がる。和宮様の降嫁のときも迂回路をとり、ここは通らなかったという。菰でこの木を包んだとする説もあるが、これは不浄なものは菰で包むようにとの伝達からの誤りとのこと。
いずれにしろ、JR板橋駅前の「むすびのけやき」に比べ、小さな木であり植えられている土地も小さいものである。やはり「縁結び」に比べ「縁切り」は歓迎されないものなのであろう。
再び17号線に合流して進み、志村に達すると、「志村の一里塚」がある。写真の左側は、道路の左側の一里塚である。一里塚は土砂の崩れを防ぐため、四方を石垣で囲んでいるが、ほぼ原型のままの一里塚が都内でしかも道の両側に残っているのは、素晴らしい。
一里塚は幕末以降に管理がなされず、荒れはてたので明治9年に取り除くべく通達が出て、多くが破壊されたとのこと。残念なことである。
志村坂上の交差点で交番の横から細い道路に入って行く。舗装が綺麗な道で中山道であることを主張しているようだ。歩いて行くと民家の玄関先に庚申塔と書かれた古い石碑があり、旧道であることが分かる。また、清水坂と書かれた石碑があるが、この清水坂が中山道で最初の難所であり、急に曲がることから富士山が右に見える名所であったとのこと。東海道では茅ヶ崎と吉原宿で左富士の名所があったが、中山道では右富士だ。
17号線に戻り、志村橋を渡り、直ぐに荒川橋に掛かる戸田橋を渡る。戸田橋は大きな橋で、右側には東北・上越新幹線の鉄橋が見え、ひっきりなしに列車が通るが、防音壁のため総2階建て列車の2階部分以外は、まるで見えない。
戸田橋を渡り2kmほど進むと、17号線から旧道に入り、「蕨宿」となる。下の写真の左側は、織物買継商の家を整備した歴史資料館別館であり、左は昭和初期の木の看板であるが、ずいぶんと立派である。
少し進み、道路の右側に入ると「三学院」という真言宗のお寺がある。江戸時代は寺領20石を与えられ、関東七ヶ寺の役寺として格式の高い寺であったという。境内には目疾(めやみ)地蔵と呼ばれる地蔵があり、目に味噌を塗り、願いをかけると目の病が治るという。3重の塔も立派に見える。
17号線を横切って進むと、少し古い雰囲気の家も見られるようになり、緩やかに曲がっている旧道を進むと外環状線の下を潜ることになる。やがて再び17号線を横切って進むと、急な上り坂があり「焼米坂」の石碑が建っていた。かつて、ここに「焼米」を売る茶店があったという。ここを過ぎると「浦和宿」になる。
浦和宿に入ると、右側に「調神社(つきじんじゃ)」がある。調神社の調は「租庸調」の調である。社伝によれば開化天皇3年(紀元前156年)に創建されたとされ、非常に古い。崇神天皇の時代に伊勢神宮の斎主・倭姫命が参向し、境内に神宮に献る調を納めるための倉を建て、武蔵・総国の調の集積所と定めたという。物資の出し入れのため、鳥居は設けなかった。
調を「つき」と読んで月に通じるところから、手洗い水を吐き出しているのはうさぎで、狛犬も犬ではなく狛兎である。
今は7,5,3の季節とあって、着飾った女の子と、両親、祖父母等の一団を多く見かけた。「調神社」から出て、今日はここで終わることにして、左折して「浦和駅」に向かった。
今日は記念すべき中山道の第一日目であったが、順調に30Kmほどを歩くことができた。