2011.10.27
2011.10.25
江戸城・・・(散策)
江戸城と言っても今は皇居ですが、二重橋の前には修学旅行以来何度か訪れたましたが、もう50年近く何時でも行ける場所に住んでいながら、恥ずかしながら大手門から中に入ったことはありませんでした。皇居として用いられているところは、申請なしでは入れないですが、すでに開放されて、北の丸公園となっているところは当然として、本丸、二の丸等があった江戸城の中心付近も開放されています。それで、今日は遅ればせながら行ってみることにしました。
江戸城は、慶応4年4月4日(1868:明治元年)に明治新政府に明け渡され、明治2年より皇居として使用されていますが、現在は主に元の西の丸の領域のみの使用となっています。
東京駅の丸の内口から出て、真っ直ぐ進んで和田倉門にぶつかり右折して大手門の方に歩いて行きました。3.11の地震の影響で白壁が一部剥がれ落ちています。お堀では、1羽の白鳥が優雅に泳いでいました。
大手門は枡形門で、一の門を入ると直角に曲がって二の門があります。敵が一の門を破って入ってきても正面と横から弓矢、鉄砲で攻撃でき、二の門を破るのは容易でない備えであったのでしょう。その一の門と二の門の間に旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)が置いてありました。 昭和20年(1945)4月の戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に、明暦三丁酉と刻まれています。明暦の大火(1657)で消失した後、再建時に製作されたものです。右の写真は、二の門を通った中から撮影したものですが、渡櫓は昭和43年(1968)に再建されたものです。
大手門の二の門を潜ると、右手に尚蔵館(しょうぞうかん)が建っています。尚蔵館は皇室に代々受け継がれた絵画、書、工芸品等が平成元年、国に寄贈されたのを機に、保存、管理、調査、研究を行う施設として、また一般に展示公開することを目的に建てられたものです。無料で見学できます。
先に進むと、江戸時代の同心番所が残されています。ここには同心が詰めていて、主に登城する大名の供の者の監視に当たっていました。
同心番所の先には、三の門の石垣が残っていて、その先に百人番所がありました。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代でここに詰めていて、各組には同心が100人ずつ配属されていました。本丸につながる中の門を前にしての警護です。右の写真は、中門の石垣です。
中の門を入ると、大番所があります。他の番所より位の高い与力、同心によって警備されていました。その前は、美しく整備された小広場の感じです。
両側を石垣に囲まれた緩やかな坂道を上って行くと、広く開けた芝生で覆われた本丸跡があります。本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前から順に本丸表、中奥、大奥になっていました。本丸表は儀式、政務の場で、役人の詰所や政務を執る部屋、そして諸大名の詰めの間などがありました。中奥は将軍の公邸にあたり、ここで日常の起居や政務を見ていました。大奥は将軍の私邸で、御台所(正室)を中心に、将軍の子女やその世話をする女中達が生活していました。なお、将軍世嗣や大御所の居住場所は、西の丸でした。今の皇居はこの西の丸にあり、参観には申請が必要です。
広場を左のほうに進むと、富士見櫓があります。江戸城で唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657)で、消失した天守閣の代用としても使われたました。かつて、江戸城には19の櫓がありましたが、現在はこの富士見櫓を含め3つしか残っておりません。この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)で、今は当然、この先は公開されておりません。 元の本丸跡に戻り、本丸の左側を進んで行くと、赤穂浪士の討ち入りにつながったことで知られる、松の大廊下跡があります。浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなが)への刃傷事件(元禄14年:1701)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来で江戸城で2番目に長い廊下だったそうです。
本丸跡に午砲台跡の石碑がありました。明治4年よりここで、陸軍近衛師団が空砲による報時を開始したところです。この空砲の音は「ドン」と呼ばれ親しまれていて、今でも半ドンと言う言葉が残っています。正午の大砲の「ドン」という音より、一日の半分が休みなので「半ドン」と呼ばれるようになったのです。
石室がありました。抜け穴とか金蔵とかの説もあったそうですが、大奥御納戸の脇と言う位置から、非常の際の大奥用の調度などを納めていたところと考えられています。伊豆石で作られた堅牢なものです。
本丸跡の北側には天守台があります。かつての天守閣跡です。ここは本丸最奥部で、本丸台地の最高部(標高25m)で、慶長11年(1606)に天守台が造られ、翌年に五層の天守閣が完成しました。しかし、明暦3年(1657)の大火でこの天守閣も消失してしまいました。その後は、徳川家光の異母弟の保科正之(初代会津藩主)が天守は無駄である、と再建反対を唱えそのままとなっています。それにしても、振袖火事とも呼ばれる明暦の火事では、通説では死者10万7千人といいますから、もしそうなら、関東大地震を凌ぐほどになります。
天守台からは、本丸跡の広い台地がよく見えます。東の方を見ると、桃華(とうか)楽堂があります。香淳皇后の還暦を記念して建てられたもので、昭和41年に完成したものです。
八角形の建物で、屋根はテッセンの花弁を模っています。八つある壁面は大きく羽ばたく鳥を中心に、日、月、星や松竹梅、楽の音等をイメージした図柄が陶片で描かれています。桃華楽堂の呼び名は、香淳皇后のお印である「桃」に因んで命名されたとのことです。
天守台の北側に回ると北桔橋(きたはねばし)門があります。本来は、枡形門形式であったのですが、現在は一の門の高麗門だけが復元されています。ここは本丸の搦手にあたり、北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて敵を遮断できる構造になっていました。門を出ると、水をたたえたお堀が残っています。重機もない時代に、よく造ったものだと思います。
北桔橋門から引き返し、今度は二の丸跡の方に進みます。本丸から二の丸に向かう坂道を梅林坂と呼んでいます。文明10年(1478)、太田道潅が天神社を祀り、数百株の梅を植えたので梅林坂と名が付いたといわれています。現在は、約50本の紅白の梅が植えられています。
梅林坂を下ると、諏訪の茶屋があります。江戸時代は吹上御苑にありましたが、明治45年に再建されたもので、明治期の茶屋風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備にあたりここに移されました。この先には、全国「都道府県の木」が植えられていました。
二の丸には、小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治以降は荒廃していました。現在の二の丸庭園は、昭和43年(1968)に、家光による再建当時の「二之丸御絵図」を参考にして、築山泉水式の回遊庭園が復元されたものです。二の丸池には、コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水性植物が植えられています。
84種もの菖蒲を植えた、菖蒲園もありました。皇居正門の石橋旧飾電燈もありました。
後は、入門した大手門から退出して帰りました。
2011.10.17
三渓園・・・(散策)
久しぶりに三渓園に行って見ました。何十年かぶりです。
入場券の販売は、自動販売機です。お寺は、まだ自動の入場券販売機はみかけませんね。雰囲気が壊れると思っているのでしょうか。
三渓を造ったのは、原 三渓ですが、原 三溪(本名富太郎)【慶応4年(1868)-昭和14年(1939)】は、岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県柳津町)で庄屋の青木家の長男として生まれ、幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学、政治・法律を学び、明治21年(1888)に跡見女学校の助教授になり、その後、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍します。長男を入婿に出した青木家はどうなったのかわかりませんが、原家の家業を継ぐと、経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として大成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、明治39年(1906)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行ったといいます。
三渓園で、まず最初に目に飛び込んでくるのは、大きな池です。この池を中心に色々な建家が集められていると言えます。大勢の方が、池の周りの思い思いの場所で写生をしています。
順路に従い歩いてゆくと、最初に鶴翔閣(旧原家住宅)横浜市指定有形文化財があります。明治35年(1902))三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった家屋で、上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、”鶴翔閣”と名づけられました。 現在は、フォーマルな宴会の会場などとして貸出を行なっています。
手入れの行き届いた順路を進むと、三重の塔が目に入ってきます。この三重の塔は、今は廃寺となった京都の燈明寺から大正3年(1914)に移築されとのことです。
大池の小島にある涵花亭とそこに渡る観心橋が見えます。観心橋では、結婚式場のパンフレットに使うためか、和装の2人の写真を撮影していました。
内苑に入る御門をくぐると、大正9年(1920)建築され、三渓が家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした隠居所の白雲邸があります。ここも横浜市指定有形文化財で、貸出施設となっています。
次にあるのは、三渓園でも最も重要な家屋の臨春閣です。紀州初代藩主徳川頼宣が慶安2年(1649)に、夏の別荘巖出御殿(いわでごてん)として和歌山県岩出市の紀の川沿いに建築したものと言われています。8大将軍吉宗は、子供の頃、祖父のこの別荘で川に張り出した座敷から川に飛び込み遊んだそうです。数寄屋風書院造りで、桂離宮と我が国別荘史上の双璧とされ、重要文化財指定です。三渓園には大正6年(1917)に移築されました。
建屋内部も庭からですが見学できます。亭樹と名付けられた、途中に屋根付きの休憩所のある、小さな橋を渡って、臨春閣を横に見ながら進みます。
一番奥まで進むと、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂の天授院があります。大正5年(1916)に移築され、三溪園では原家の持仏堂とされていました。慶安4年(1651)建築で、重要文化財です。
天授院の横には、月華殿があります。徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。 大正7年(1918)に春草廬(茶室)と共に移築されました。三溪が建てた小さな茶室の金毛窟とつながっています。慶長8年(1603)の建築で重要文化財です。右の写真は、金毛窟です。
内苑から出て、また大池のほとりに出ます。入り口とは、反対側です。鴨が泳いでいました。
大池から少し西に入ると、横笛庵があります。建築年不明ですが、草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 平安末期に横笛と呼ばれる、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性がおりましたが、横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られており、建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われたのは、まことに残念です。2人の悲恋話については、高山樗牛による”滝口入道”という小説が有名とのことですが、まだ読んだことはありません。
横笛庵の先には、鎌倉の東慶寺にあった旧東慶寺仏殿があります。明治40年(1907)に移築された禅宗様の特色を色濃く残す建物です。
更に奥に進むと、旧矢箆原(やのはら)家住宅があります。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、昭和35年(1960)に移築されました。 大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家です。1750年頃宝暦年間の建築で、重要文化財となっています。
時期的には、萩の花がほぼ終わり、紅葉には早い時期で撮影には恵まれていたとは、言えない時期でした。是非、紅葉の最盛期に再訪したいと思いました。
2011.10.06
誕生日・・・(etc)
今日は、家内の誕生日である。還暦を過ぎて誕生日のお祝いでもあるまいと思うのだが、自分でさっさとレストランのお昼を予約していた。
場所は、原宿と言っても東京の渋谷区の原宿でなく、横浜新道と大船に通じる道路が交わる交差点近くで、横浜では有名な崎陽軒である。
中庭には噴水があり、入り口を入るとソファーのある部屋に通され、準備が整い次第テーブルに案内される。
流石に落ち着いた雰囲気で、中庭も眺められる。頼んだコースは、誕生日に相応しく「アニバーサリーコース」である。
4種盛り合わせから始まって、デザートを含めて8種類の料理で、フカヒレスープはおかわり自由ときた。大満足であったが、お腹いっぱい、夕食は食べられないのではとつぶやきながら崎陽軒を後にした。
2011.09.22
紀伊国分寺跡・・・(散策)
お彼岸で帰省しました。昨日に戻る積りが台風15号が浜松付近に上陸して飛行機は途中で引き返すこともあるとのことであり、新幹線も不通で帰れませんでした。もう一泊して、紀伊国分寺跡を見に行きました。初めてです。以前は国の史跡に指定(昭和3年:1928)されていても人の口先にも上ることはなかった史跡ですが、最近になり改めて整備されたものです。
天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔により、造営が開始され、天平勝宝8年(756)に主要伽藍が完成したもので、南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧坊を置かれていた。塔は金堂の東前方に、鐘楼と経楼は金堂の東西後方に配置されていたとのこと。回廊は中門から塔を囲み、講堂につながっていて、東側は雑舎に当てられたものと推測されている。塔跡は一辺16.4メートルの瓦積み基壇上に三間塔婆の礎石が旧位置に残っている。
創建当時の境内は不明だが、講堂跡を中心に2町(約218m)四方が境内の名残を示しているとのこと。元慶3年(879)2月22日に火災で伽藍が全焼し、金堂と僧坊が再建されたが、その他は再建されなかった。その後、14世紀初めに本堂が講堂跡に再建された。また、根来寺の末寺になった。この根来寺の末寺になったことが災いして、天正13年(1585)の秀吉の紀州征伐で根来寺とともに焼き討ちされ、伽藍を再び焼失したが、元禄年間になって本堂が再建された。
昭和3年(1928)2月7日、国の史跡に指定され、その後昭和48年(1973)から昭和50年(1970)の発掘調査により、寺域が二町四方と判明し、伽藍配置・規模が確認され、昭和60年(1985)国の史跡に追加指定された。
なお、国分寺は、全国で約70寺建造され、今も史跡もしくは現存する寺院として残っている。