2012.10.31
キバッて写真を撮ろうとするときは、一眼レフをかついで行くが、仲間で集まってチョット一杯やって食事する等の時は、一眼レフを振り回すのも気が引ける。そこで、コンデジを持って行くこととなるが、そこそこ画質にもこだわりたいのでコンデジの中でも上位機種が欲しくなる。
5年ぐらい前であろうか、当時のCANONのフラグシップ機のPowerShot G9を買って長い間使ってきた。
PowerShot G9は写りは良いが、焦点距離が35-200mm(35mm版換算)で、最近のコンデジが広角端が28mmであるのと比べると、狭い場所での撮影に難があった。まぁ5年も使ったことだし、新しい機種に切り替えたいと思い、NIKON COOLPIX P7000をオークションで手に入れた。

CANONのPowerShot G12にしようかと迷ったが、一眼レフはニコンなので同じニコンが良いだろうと思ったし、ネットで調べると評判が良かった。このシリーズの最新機種はP7700だが、どうしてもと言うときは一眼レフを持ち出せば良いのでそれほどお金を掛けたくなかったし、ファインダーが無いのも気に入らなかった。それにP7000のバッテリーが現在使用の一眼レフのD5100と同じなのも気に入った。一眼レフを持って出かけるときもサブカメラとしてP7000をもって行けば、バッテリー切れにも安心である。 あとは、P7000を使い慣れることである。 早速2枚撮影してみた。


2012.10.17
仙台の青葉城は昨年の6月に訪れたときは、3.11の大震災のため石垣を修復中で大手門から入れなかったが、今回もまだ修復は終わっておらず入れなかった。
東北大の前を通り、大きく回りこむと青葉城址に行けるのでタクシーで行ってみた。大きな鳥居を潜って最初に訪れたのは、宮城県護国神社です。
日清戦争後の明治31年(1898)に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の明治37年(1904)8月27日、現在地に「招魂社」を建立し、大日本帝国陸軍・第二師団管下(仙台師管区:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とし、昭和14年(1939)の内務省令により内務大臣指定護国神社となり、「宮城縣護國神社」に改称しました。明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱の英霊を祀っています。


次には、やはり伊達政宗の騎馬像です。大手門口に修復された櫓が建つのみで、在りし日の青葉城をうかがわせるものは何もないので、騎馬像とその前の広場から仙台市街を見ると、もう終わりです。
奥州で最も覇を競った伊達藩のお城であるが、拍子抜けするぐらい何もなかったです。おみやげ屋やレストランはあり、賑わっていましたが。


実は、青葉城には10/15にタクシーで訪れ、16日に秋保温泉で一泊し、17日に仙台市観光の「るーぷる仙台」と称するバスに乗り、市街観光しました。
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最初に訪れたのは、明治4年(1871)生まれで、詩人、英文学者の土井晩翠が晩年を過ごした、「晩翠草堂」です。イーリアス、オヂュッセーアの翻訳の他「荒城の月」の作詞者としても有名で、島崎藤村とともに「晩藤時代」と称され、大きな足跡を残しました。
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次に訪れたのは、伊達家の菩提寺の瑞鳳寺です。瑞鳳寺(ずいほうじ)は、臨済宗妙心寺派の仏教寺院で山号は正宗山です。開山は清岳、開基は伊達忠宗、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像で江戸時代初期の寛永14年(1637)、仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって、藩祖・伊達政宗廟「瑞鳳殿」が造営された際に香華院として創建されました。


瑞鳳寺の山門前を通って進むと、進路は階段となり、伊達政宗公の霊廟の「瑞鳳殿」があります。政宗公は、この霊廟の地下に眠っているとのことです。本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並んでいます。


瑞鳳殿を後にして進路にしたがって進むと、二代藩主忠宗の霊廟の感仙殿があります。
本殿両脇には、殉死した家臣12名および陪臣4名の宝篋印塔が並びます。
また、その右隣には、三代藩主綱宗の霊廟の善応殿があります。三代藩主の頃には殉死は禁止されていたので、替わって14名の家臣が剃髪して百日間の弔いを行い、うち1人が出家し、没後に遺骸が善応殿の南側に埋葬されたとのことです。


最後は、お世話になった「るーぷるバス」です。東北大学前を走っています。

2012.10.16
仙台駅から旅館の迎えのバスで約30分で仙台の奥座敷秋保温泉に着きます。
秋保温泉は古い温泉で、第29代・欽明天皇(531年?539年)が、小瘡(皮膚病)を患った時、秋保から運ばせた湯で湯浴みしたところ、それが完治したと云われている温泉です。
温泉のあたりで、名取川が急に狭くなり、磊々峡(らいらいきょう)と呼ばれる石英安山岩質・凝灰角礫岩の見事な峡谷があります。


畑山崇一の歌の石版(右の写真)





更にバスで30分ほど上流に向かうと、西光寺(秋保不動尊)と秋保大滝があります。
秋保不動尊の縁起は平安時代初期に慈覚大師が山形県の山寺へ行く途中、秋保大滝を眺めたとき、比例なき霊地と定め、1体の不動明王を安置し山寺の奥の院とした事が始まりだとされています。
また、秋保大滝は、落差55m、幅6mで「日本の滝百選」に選ばれています。



2012.08.02
妹夫婦が、いままでに尾瀬に行ったことがないので一度は行きたいと誘われ、2012/7/31に日帰りのバス旅行で尾瀬ヶ原に行って来ました。
私は、1965年とその4年後に訪れています。当時は便利なバスツアーもなく、テント、シュラフ、食料を担いで電車とバスを乗り継いでの旅でした。今は、出発して3時間ほどで鳩待峠まで一気にバスで到着です。

下のモノクロ写真は1965年の時のものですが、鳩待峠の標高は1615mとなっていて、現在の標識の1591mと異なります。表示板の立っている場所が少し移動されたのでしょうか。


出発して石畳の階段樣の道を下ると、直ぐに尾瀬のシンボルとも言える木道が現れ、山の鼻に向かって進みます。下り坂で樹林帯の中を通る道は、涼しく気持ちが良いです。名前は知らないが、可愛い花も咲いていました。


鐘が立っていました。「ご通行の皆様へ クマと出会わないために、人が通ることを知らせて鐘を鳴らしてください。」と書かれていました。今日はかなり大勢の人が訪れているので大丈夫でしょう。そして、澄んだ沢の水には魚が泳いでいました。ヤマメでしょうか。


1時間ほどで「山の鼻」に着きました。ここには、ビジターセンター、国民宿舎、キャンプ場があります。ちょうどお昼です。バスの中で配られたお弁当を食べ出発しました。少し進んで振り返ると「至仏山」が美しい山体を見せていました。


進行方向には「燧ケ岳」が見えます。歩行の木道を1965年当時と比べると、上下区分のない一般道が中央分離帯のある高速道路に変わったように思えます。


尾瀬ヶ原に点在する池には浮島が浮かび、スイレン科の「ヒツジグサ」が咲いていました。
なお、ヒツジグサの名は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)頃に咲くから名付けられたとのことです。


尾瀬は、本当に癒される景色です。もう咲き終わった「ニッコウキスゲ」もわずかに残っていました。


竜宮小屋に到着して、休憩を取りました。午後1時を過ぎたので、ここから引き返すことにしました。鳩待峠の駐車場に15時40分までに帰る必要があります。
山の鼻には、14:10分に着き、14:30分まで休憩の後、無事15:40分には鳩待峠に帰って来ました。最後の10分の石畳の階段の上りは、かなり堪えました。歳は争えません。
16時にバスは出発して、途中ホテルでお風呂に入り、サッパリして帰りました。なかなかに充実した一日でした。