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2011.10.25

江戸城・・・(散策)

江戸城と言っても今は皇居ですが、二重橋の前には修学旅行以来何度か訪れたましたが、もう50年近く何時でも行ける場所に住んでいながら、恥ずかしながら大手門から中に入ったことはありませんでした。皇居として用いられているところは、申請なしでは入れないですが、すでに開放されて、北の丸公園となっているところは当然として、本丸、二の丸等があった江戸城の中心付近も開放されています。それで、今日は遅ればせながら行ってみることにしました。
江戸城は、慶応4年4月4日(1868:明治元年)に明治新政府に明け渡され、明治2年より皇居として使用されていますが、現在は主に元の西の丸の領域のみの使用となっています。
東京駅の丸の内口から出て、真っ直ぐ進んで和田倉門にぶつかり右折して大手門の方に歩いて行きました。3.11の地震の影響で白壁が一部剥がれ落ちています。お堀では、1羽の白鳥が優雅に泳いでいました。
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大手門は枡形門で、一の門を入ると直角に曲がって二の門があります。敵が一の門を破って入ってきても正面と横から弓矢、鉄砲で攻撃でき、二の門を破るのは容易でない備えであったのでしょう。その一の門と二の門の間に旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)が置いてありました。  昭和20年(1945)4月の戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に、明暦三丁酉と刻まれています。明暦の大火(1657)で消失した後、再建時に製作されたものです。右の写真は、二の門を通った中から撮影したものですが、渡櫓は昭和43年(1968)に再建されたものです。
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大手門の二の門を潜ると、右手に尚蔵館(しょうぞうかん)が建っています。尚蔵館は皇室に代々受け継がれた絵画、書、工芸品等が平成元年、国に寄贈されたのを機に、保存、管理、調査、研究を行う施設として、また一般に展示公開することを目的に建てられたものです。無料で見学できます。
先に進むと、江戸時代の同心番所が残されています。ここには同心が詰めていて、主に登城する大名の供の者の監視に当たっていました。
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同心番所の先には、三の門の石垣が残っていて、その先に百人番所がありました。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代でここに詰めていて、各組には同心が100人ずつ配属されていました。本丸につながる中の門を前にしての警護です。右の写真は、中門の石垣です。
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中の門を入ると、大番所があります。他の番所より位の高い与力、同心によって警備されていました。その前は、美しく整備された小広場の感じです。
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両側を石垣に囲まれた緩やかな坂道を上って行くと、広く開けた芝生で覆われた本丸跡があります。本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前から順に本丸表、中奥、大奥になっていました。本丸表は儀式、政務の場で、役人の詰所や政務を執る部屋、そして諸大名の詰めの間などがありました。中奥は将軍の公邸にあたり、ここで日常の起居や政務を見ていました。大奥は将軍の私邸で、御台所(正室)を中心に、将軍の子女やその世話をする女中達が生活していました。なお、将軍世嗣や大御所の居住場所は、西の丸でした。今の皇居はこの西の丸にあり、参観には申請が必要です。
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広場を左のほうに進むと、富士見櫓があります。江戸城で唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657)で、消失した天守閣の代用としても使われたました。かつて、江戸城には19の櫓がありましたが、現在はこの富士見櫓を含め3つしか残っておりません。この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)で、今は当然、この先は公開されておりません。 元の本丸跡に戻り、本丸の左側を進んで行くと、赤穂浪士の討ち入りにつながったことで知られる、松の大廊下跡があります。浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなが)への刃傷事件(元禄14年:1701)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来で江戸城で2番目に長い廊下だったそうです。 
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本丸跡に午砲台跡の石碑がありました。明治4年よりここで、陸軍近衛師団が空砲による報時を開始したところです。この空砲の音は「ドン」と呼ばれ親しまれていて、今でも半ドンと言う言葉が残っています。正午の大砲の「ドン」という音より、一日の半分が休みなので「半ドン」と呼ばれるようになったのです。

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edojyo_17.jpg石室がありました。抜け穴とか金蔵とかの説もあったそうですが、大奥御納戸の脇と言う位置から、非常の際の大奥用の調度などを納めていたところと考えられています。伊豆石で作られた堅牢なものです。

本丸跡の北側には天守台があります。かつての天守閣跡です。ここは本丸最奥部で、本丸台地の最高部(標高25m)で、慶長11年(1606)に天守台が造られ、翌年に五層の天守閣が完成しました。しかし、明暦3年(1657)の大火でこの天守閣も消失してしまいました。その後は、徳川家光の異母弟の保科正之(初代会津藩主)が天守は無駄である、と再建反対を唱えそのままとなっています。それにしても、振袖火事とも呼ばれる明暦の火事では、通説では死者10万7千人といいますから、もしそうなら、関東大地震を凌ぐほどになります。
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天守台からは、本丸跡の広い台地がよく見えます。東の方を見ると、桃華(とうか)楽堂があります。香淳皇后の還暦を記念して建てられたもので、昭和41年に完成したものです。
八角形の建物で、屋根はテッセンの花弁を模っています。八つある壁面は大きく羽ばたく鳥を中心に、日、月、星や松竹梅、楽の音等をイメージした図柄が陶片で描かれています。桃華楽堂の呼び名は、香淳皇后のお印である「桃」に因んで命名されたとのことです。
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天守台の北側に回ると北桔橋(きたはねばし)門があります。本来は、枡形門形式であったのですが、現在は一の門の高麗門だけが復元されています。ここは本丸の搦手にあたり、北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて敵を遮断できる構造になっていました。門を出ると、水をたたえたお堀が残っています。重機もない時代に、よく造ったものだと思います。
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北桔橋門から引き返し、今度は二の丸跡の方に進みます。本丸から二の丸に向かう坂道を梅林坂と呼んでいます。文明10年(1478)、太田道潅が天神社を祀り、数百株の梅を植えたので梅林坂と名が付いたといわれています。現在は、約50本の紅白の梅が植えられています。
梅林坂を下ると、諏訪の茶屋があります。江戸時代は吹上御苑にありましたが、明治45年に再建されたもので、明治期の茶屋風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備にあたりここに移されました。この先には、全国「都道府県の木」が植えられていました。
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二の丸には、小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治以降は荒廃していました。現在の二の丸庭園は、昭和43年(1968)に、家光による再建当時の「二之丸御絵図」を参考にして、築山泉水式の回遊庭園が復元されたものです。二の丸池には、コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水性植物が植えられています。
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84種もの菖蒲を植えた、菖蒲園もありました。皇居正門の石橋旧飾電燈もありました。
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後は、入門した大手門から退出して帰りました。


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