2017.06.30
北松戸から我孫子
本日の万歩計28,549(18.6Km)
今回は、水戸街道を歩くため日本橋から出発して3回目である。
今日は小雨も予想されたが朝8時半に北松戸駅につき、早速国道6号線(現在の水戸街道)を歩き始めた。
1Kmほど歩いて中根立体入口の交差点で左に10mほどのところに旧道への入口があり、長津川に架かる馬橋がある。かつて、この橋は大雨のたびに流された。萬満寺と縁のあった良観上人が、馬の鞍の形をした橋を架けさせたところ、それ以後流されることはなくなった。以来、この橋は「馬橋」と呼ばれるようになり、馬橋という地名の元になったとのこと。
そして、進んで馬橋駅に近づくと、正面に特徴のある萬満寺(まんまんじ)山門が見えてくる。なお、左の小振りな建物は、鐘楼である。
建長8年(1256)に小金城首・千葉介頼胤が、鎌倉極楽寺の良観房忍性を招いて、真言宗の大日寺を開いたのがはじまりと伝えられている。現在の萬満寺(臨済宗)となったのは、千葉介頼胤の時代の康暦3年(1379)、満胤は鎌倉の端泉寺にいた夢想国師の高弟古天周誓を招いて中興開山し、関東管領足利氏満の字をとって萬満寺と号したといわれている。
山門をくぐると、次に出会うのは仁王門である。「仁王門」の左右に、国指定重要文化財の木造金剛力士像が安置されている。運慶作とも伝えられているが、真贋のほどは定かではない。また、例大祭に仁王さまの股をぐりが行われ、これで、むこう1年病魔や災難も除け、子どもはすくすく育つという。仁王門の先には、ようやく本堂である。
さらに、境内には弁天堂、水掛不動尊などがある。
萬満寺の左に隣接して、王子神社がある。馬橋一帯は砂丘で水が乏しいため、諏訪神社を勧請し萬満寺の鎮守としたものだが、2015年10月に本殿が完全に焼失してしまい、現在再建準備中とのことであった。
萬満寺を離れて進み、国道6号線に合流して進むと、左手に蘇羽鷹神社(そばじんじゃ)がある。千葉孝胤(ちばのりたね)が治めた三ヶ月(みこぜ)の地に馬橋城が建っていたが、廃城後に千葉氏の加護を受けて創建されとのこと。
ここで、国道6号線を離れて、右の旧道を進む。途中で再び国道6号線にぶつかるが、これを横切って進むと、一月寺(いちげつでら)がある。お寺とは思えず、何かの集会場のような感じである。元々一月寺は、武蔵野国新町の鈴法寺と共に普化宗の触頭として関東総本山という地位にあった。徳川幕府の庇護もあり、隆盛を極めたが、明治政府の方針により、幕府と縁の深い普化宗自体が廃止されたので、以降僧侶は僧侶資格を失い、近くの万満寺の助力を得ながら在家が管理する形となっていた。昭和30年代、妙縁寺総代であった佐藤悦三郎の仲立ちにより、日蓮正宗に改宗して現在に至る。
一月寺から100mほど進むと、旅籠玉屋がある。この街道は旧水戸街道として有名だが、成田街道の道筋でもあるため小金宿には旅籠が多く、鈴木家は代々惣右衛門を名乗り、玉屋の屋号で徳川時代後期の旅籠の原型を留めている。東京のベッドタウンと化したこの地で元旅籠屋の建物が残っていること事態が貴重である。
さらに進むと、参道が長く広大な境内の東漸寺がある。
東漸寺は、文明13年(1481)、経譽愚底運公上人により、当初、根木内(この地より1キロ北東)に開創した。この後約60年後の天文年間、現在地に移され、江戸初期に関東十八檀林の1つとされた名刹である。 その後幕府の庇護も受け檀林となった東漸寺は、広大な境内を持ち、多くの建物を擁するようになり、大改修が成就した享保7年(1722)には本堂、方丈、経蔵(観音堂)、鐘楼、開山堂、正定院、東照宮、鎮守社、山門、大門その他8つの学寮など、20数カ所もの堂宇を擁し、末寺35カ寺を数え、名実ともに大寺院へと発展した。また、明治初頭には、明治天皇によって勅願所となった。
北に進んで、北小金駅前のイオンにぶつかり街道は右に直角に進むが、イオン前には真新しい小金宿の案内板がり、八坂神社御跡地の碑も建っていた。
根木内交差点で国道6号線を渡ると、直ぐ左に根木内歴史公園がある。ここは根木内城址で、高城胤忠が寛正3年(1462)築城したもので小金城を築いて移るまで高城氏の本拠地であった。
天正18年(1590)小金落城と共に廃城となったと思われるが、昭和30年代に水戸街道(国道6号)が通り、城跡は2つに分断され、北半分は住宅地として消滅し、現在は大手口のある南側の曲輪の一部のみが残っている。掘り下げられただけの堀で、石垣などは配されておらず、典型的な戦国時代かそれ以前の城である。
この後、特に目立った歴史遺構もなく進むが、道路が大きく北に曲がると、右手に行念寺があった。創建は室町時代、明応2年(1493)で東漸寺開山・經譽愚底上人の開基である。昭和43年に本堂(鉄筋造)を復興し、庫裡(木造)を再建した。そして、「ベルクス」の名前のスーパーがあった。始めて見るスーパーである。
次に現れたのは、香取神社。この辺りに一里塚があったようだ。その次は稲荷神社。小さな神社で村社として創建されたとのことだが、茅葺きの屋根が珍しくかわいい。
稲荷神社の直ぐ先には、八坂神社がある。この辺りの水戸街道は小金牧の原野を通っていたため、真夏の直射日光や風雨を防ぐために街道の両脇に松が植えられていた。また、道に迷わないように道標の役目もあったようである。
進んで、南柏駅を過ぎ、日光東往還の分岐を通過して進む。やがて、左手に豊受稲荷本宮があるが、前方の家屋で半分隠れている。
ようやく、柏神社が見えてきた。江戸時代初期に八坂神社の御分霊を勧請して創建されたのが始まりで明治中期に羽黒台に鎮座していた羽黒神社を境内へ遷宮し、明治40年(1907)に合祀された。柏神社と名付けられたのは昭和49年(1974)で、それ以前は天王様とか羽黒神社とも呼んでいたらしい。
さて、ちょうどお昼の時間である。近くのお店で昼食をとり、午後の行程について吟味しながら休憩とした。
休憩の後、歩きだして300mほど、そごうの立体駐車場の前にある緑地帯に、明治天皇柏御小休所の石碑は建っていた。明治13年には明治天皇が行幸され、昭和16年には「明治天皇柏御小休所」として、史跡名勝天然記念物保存法による史跡に指定された。次の信号の手前左側、ビルの植え込みに「江戸へ近道」の石碑が立っていた。
進んで国道6号線を横切り、常磐線を渡るところに達すると、向こうに立派な建物が見える。ホテルかとも思ったが、地図にもその記述がない。前を通ると「迎賓館」と書いてあり、ますます分からなくなった。後で調べたら「迎賓館」という名の結婚式場であった。
道は、常磐線に沿うように進んで行く、国道にぶつかると向こうに巨大な建造物が見える。北柏ロジポートと名付けられた物流施設であった。
北柏駅を右に見ながら進むと、左手に東陽寺があった。由来は不明だが、明治5年に学制が公布され、翌年には東陽寺を校舎に根戸学校が開校し、のちに富勢尋常小学校(現・富勢小学校)となったとのこと。
その先の右手には、妙蓮寺。我孫子市指定文化財の阿吽二体の陶製仁王像があるとの説明板が立っていた。
我孫子駅入口の交差点にたどり着いた。左に八坂神社。応永3年(1396)の創建と伝えられる。
さて、左に進むと我孫子駅である。今日の歩行は、ここまでとして駅前のカフェで休息して帰路についた。