2012.07.09
大仏切通し・・・(散策)
今日(2012/7/9)の万歩計11,311(7.4Km)
昨日の小雨も上がり、今日は快晴です。先日の名越の切通しに続き、大仏切通しを歩いてみようと出かけました。鎌倉駅から藤沢駅行きのバスにのり、火の見下バス停で降ります。大仏前から2駅目です。
大仏切通への入り口は、小さな案内標識すら設置されていません。バス停の直ぐ横の細い路地を入って行きます(黄色い矢印)。クランク型に曲がって進むと直ぐに大仏切通しです。
鎌倉市教育委員会名で「立入禁止」の横棒が設置されていました。ここまで来て引き返す気にもなれず、乗り越えて進みました。
国指定史跡・大仏切通の説明板がありました。
大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原、山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝夷奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。
元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が州崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」に見えていることから、この地も戦場になった可能性があります。
大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場やここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、切岸などと共に、かっての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。
左側には、「やぐら群」がありましたが、「やぐら」とは、岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓とのことです。
置き石がありました。敵が攻め寄せるのを難しくするためとも言われていますが、本当のところは不明です。
そして、その先には倒木が切って積み重ねられており、乗り越えるのに難儀しました。教育委員会の「立入禁止」が理解できましたが、通れる程度に片付けるのはそれほど難しくないと思われるので、早急に対処して欲しいものです。
倒木を積み重ねた箇所がもう一箇所ありました。その後は、特に困難な場所もなく路が続いていました。
また、「立入禁止」のバーが現れました。左から合流する路があるので、ここから切通し入り口までが通行禁止のようです。しかし、それでは大仏切通の70%が閉鎖となってしまいます。教育委員会の責任逃れのような気がします。管理責任を果たしていないのではないでしょうか。ともかく、国指定史跡なのですから。その脇には、木の道標が立っていました。
樹林の中の路を進むと、「国指定史跡・大仏切通」の表示柱が立っていました。
表示柱からわずか150mでもう終わりです。新大仏トンネル横の階段を降りて、自動車道路に合流します。
大仏切通は、全長でも700m程度でした。途中で誰にも会う事はなく、国指定とは言っても入り口には道標もなく、ほとんど放置されているのではと思えました。
大仏切通しを通ったからには、大仏さまの尊顔を拝見しないわけには参りません。
何時も観光客で賑わっています。