2012.10.17

仙台(青葉城、瑞鳳殿他)・・・(旅行)

仙台の青葉城は昨年の6月に訪れたときは、3.11の大震災のため石垣を修復中で大手門から入れなかったが、今回もまだ修復は終わっておらず入れなかった。
東北大の前を通り、大きく回りこむと青葉城址に行けるのでタクシーで行ってみた。大きな鳥居を潜って最初に訪れたのは、宮城県護国神社です。
日清戦争後の明治31年(1898)に組織された昭忠会を母体として、日露戦争中の明治37年(1904)8月27日、現在地に「招魂社」を建立し、大日本帝国陸軍・第二師団管下(仙台師管区:宮城県・福島県・新潟県)および山形県の戦死者の一部を祀ったのを起源とし、昭和14年(1939)の内務省令により内務大臣指定護国神社となり、「宮城縣護國神社」に改称しました。明治維新以降の諸事変、戦役における宮城県関係あるいは縁故のある戦死・殉難者、5万6千余柱の英霊を祀っています。

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次には、やはり伊達政宗の騎馬像です。大手門口に修復された櫓が建つのみで、在りし日の青葉城をうかがわせるものは何もないので、騎馬像とその前の広場から仙台市街を見ると、もう終わりです。
奥州で最も覇を競った伊達藩のお城であるが、拍子抜けするぐらい何もなかったです。おみやげ屋やレストランはあり、賑わっていましたが。

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実は、青葉城には10/15にタクシーで訪れ、16日に秋保温泉で一泊し、17日に仙台市観光の「るーぷる仙台」と称するバスに乗り、市街観光しました。

sendai_04a.jpg 最初に訪れたのは、明治4年(1871)生まれで、詩人、英文学者の土井晩翠が晩年を過ごした、「晩翠草堂」です。イーリアス、オヂュッセーアの翻訳の他「荒城の月」の作詞者としても有名で、島崎藤村とともに「晩藤時代」と称され、大きな足跡を残しました。

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次に訪れたのは、伊達家の菩提寺の瑞鳳寺です。瑞鳳寺(ずいほうじ)は、臨済宗妙心寺派の仏教寺院で山号は正宗山です。開山は清岳、開基は伊達忠宗、本尊は平泉の毛越寺より遷した釈迦三尊像で江戸時代初期の寛永14年(1637)、仙台藩2代藩主・伊達忠宗によって、藩祖・伊達政宗廟「瑞鳳殿」が造営された際に香華院として創建されました。

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瑞鳳寺の山門前を通って進むと、進路は階段となり、伊達政宗公の霊廟の「瑞鳳殿」があります。政宗公は、この霊廟の地下に眠っているとのことです。本殿両脇には、殉死した家臣15名および陪臣5名の宝篋印塔が並んでいます。

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瑞鳳殿を後にして進路にしたがって進むと、二代藩主忠宗の霊廟の感仙殿があります。
本殿両脇には、殉死した家臣12名および陪臣4名の宝篋印塔が並びます。
また、その右隣には、三代藩主綱宗の霊廟の善応殿があります。三代藩主の頃には殉死は禁止されていたので、替わって14名の家臣が剃髪して百日間の弔いを行い、うち1人が出家し、没後に遺骸が善応殿の南側に埋葬されたとのことです。

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最後は、お世話になった「るーぷるバス」です。東北大学前を走っています。

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2012.10.16

秋保(あきう)温泉の磊々峡と秋保大滝・・・(旅行)

仙台駅から旅館の迎えのバスで約30分で仙台の奥座敷秋保温泉に着きます。
秋保温泉は古い温泉で、第29代・欽明天皇(531年?539年)が、小瘡(皮膚病)を患った時、秋保から運ばせた湯で湯浴みしたところ、それが完治したと云われている温泉です。
温泉のあたりで、名取川が急に狭くなり、磊々峡(らいらいきょう)と呼ばれる石英安山岩質・凝灰角礫岩の見事な峡谷があります。

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畑山崇一の歌の石版(右の写真)

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更にバスで30分ほど上流に向かうと、西光寺(秋保不動尊)と秋保大滝があります。
秋保不動尊の縁起は平安時代初期に慈覚大師が山形県の山寺へ行く途中、秋保大滝を眺めたとき、比例なき霊地と定め、1体の不動明王を安置し山寺の奥の院とした事が始まりだとされています。
また、秋保大滝は、落差55m、幅6mで「日本の滝百選」に選ばれています。

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2012.10.04

東京駅・・・(トピック, 散策)

東京駅は、辰野金吾と葛西萬司の設計で、深谷市産のレンガを用いた鉄筋レンガ造り3階建て総建坪9,545m²・長さ330mの豪壮華麗な洋式建築で大正3年(1914)に完成されました。その後、第2次世界大戦の空襲で焼け、2階建てとして修復されて長年その姿を見せていました。
修復されたものとは言えこの華麗な駅舎は、新しい24階建てのビルに建て替える計画が持ち上がったりしましたが、近年に至り元の姿に復元することとなり、2007年5月より着工して地下に免震機構を施すなどの工事も含めて完成し、2012年10月1日に公開となりました。そこで本日訪れて写真を撮影してきました。
(1) 北口のドーム外観
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(2) 貴賓玄関(皇室、国賓等の出入口で普段は使われない)
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(3) 駅名碑
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(4) 北口のドーム内部
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2012.08.02

尾瀬ヶ原(日帰りバスツアー)・・・(旅行)

妹夫婦が、いままでに尾瀬に行ったことがないので一度は行きたいと誘われ、2012/7/31に日帰りのバス旅行で尾瀬ヶ原に行って来ました。
私は、1965年とその4年後に訪れています。当時は便利なバスツアーもなく、テント、シュラフ、食料を担いで電車とバスを乗り継いでの旅でした。今は、出発して3時間ほどで鳩待峠まで一気にバスで到着です。

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下のモノクロ写真は1965年の時のものですが、鳩待峠の標高は1615mとなっていて、現在の標識の1591mと異なります。表示板の立っている場所が少し移動されたのでしょうか。

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出発して石畳の階段樣の道を下ると、直ぐに尾瀬のシンボルとも言える木道が現れ、山の鼻に向かって進みます。下り坂で樹林帯の中を通る道は、涼しく気持ちが良いです。名前は知らないが、可愛い花も咲いていました。

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鐘が立っていました。「ご通行の皆様へ クマと出会わないために、人が通ることを知らせて鐘を鳴らしてください。」と書かれていました。今日はかなり大勢の人が訪れているので大丈夫でしょう。そして、澄んだ沢の水には魚が泳いでいました。ヤマメでしょうか。

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1時間ほどで「山の鼻」に着きました。ここには、ビジターセンター、国民宿舎、キャンプ場があります。ちょうどお昼です。バスの中で配られたお弁当を食べ出発しました。少し進んで振り返ると「至仏山」が美しい山体を見せていました。

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進行方向には「燧ケ岳」が見えます。歩行の木道を1965年当時と比べると、上下区分のない一般道が中央分離帯のある高速道路に変わったように思えます。

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尾瀬ヶ原に点在する池には浮島が浮かび、スイレン科の「ヒツジグサ」が咲いていました。
なお、ヒツジグサの名は、未(ヒツジ)の刻(午後2時)頃に咲くから名付けられたとのことです。

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尾瀬は、本当に癒される景色です。もう咲き終わった「ニッコウキスゲ」もわずかに残っていました。

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ozegahara_14.jpg竜宮小屋に到着して、休憩を取りました。午後1時を過ぎたので、ここから引き返すことにしました。鳩待峠の駐車場に15時40分までに帰る必要があります。
山の鼻には、14:10分に着き、14:30分まで休憩の後、無事15:40分には鳩待峠に帰って来ました。最後の10分の石畳の階段の上りは、かなり堪えました。歳は争えません。
16時にバスは出発して、途中ホテルでお風呂に入り、サッパリして帰りました。なかなかに充実した一日でした。


2012.07.09

大仏から極楽寺・・・(散策)

高徳寺の大仏を後にして、江ノ電長谷駅方向に進み、長谷観音前の交差点を過ぎ、次の通りを右折して進みます。これが御霊小路で、突き当たって南に曲がると直ぐに「鎌倉権五郎神社」の石碑が立っています。ここで右折して西に進むと「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」があります。鎌倉権五郎神社とは、御霊神社の別称です。
鎌倉は、鎌倉幕府が置かれる以前に鎌倉党と呼ばれる板東平氏の一族が統治していたようですが、この御霊神社では、元は大庭・長尾・梶原・村岡・鎌倉のこれら五家の祖を祀る五霊神社であったそうです。それが御霊神社となり武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政(正)を祀る神社となったと伝えられています。

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境内には、袂石(たもといし)16貫(60Kg)、手玉石28貫(105Kg)と書かれた、丸い石が2つあり、説明板には、御祭神景正公が手玉に取り、袂に入れた石で、公の人知を超えた零才を示すと書かれていました。
また、鎌倉権五郎景政公が領地を見まわる時に弓を立てかけたという「弓立の松」もありました。

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御霊神社の鳥居の前は、江ノ電の踏切です。鎌倉らしい光景です。

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御霊神社から踏切を渡って南に進み、広い通りに出て右折すると「星月の井」と称する井戸があります。鎌倉十井の一つで「星の井」「星月夜の井」などとも呼ばれています。昔はこの井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。あるときに水を汲みにきた女性が、謝って包丁を井戸に落としてしまい、包丁は星影を切ってしまったために以後見ることができなくなったと伝えられています。奈良時代の名僧・行基は井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあるそうです。また、井戸の水は清らかで美味だったので昭和初期まで旅人に売られていたそうです。
「星月の井」を過ぎると直ぐに石段があり、石段を上ると虚空蔵堂があります。井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩として安置したお堂です。虚空蔵菩薩を信仰すると頭脳は明晰になり記憶力は増進するといわれ、限りない知恵をそなえた仏様であるとのことです。この菩薩様は秘仏で35年に一度しか開帳されなかったが、現在では毎年正月13日に開帳され拝むことができるとのことです。

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虚空蔵菩薩を過ぎると、道は上り坂となりますが、左側に「成就院」への階段が続いています。車の走る道路は掘り下げられた切通しとなっていますが、「成就院」に至る急坂が、かつての極楽寺坂です。上って行くと材木座海岸が美しく広がって見えます。このお寺は明月院と並んで紫陽花で有名ですが、もう花も終り、紫陽花の木が刈り込まれていました。

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成就院を過ぎて広い道路に合流すると、道は右にカーブして朱塗りの「桜橋」を渡ります。この橋は陸橋で、下を江ノ電が走っています。

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桜橋を渡ると右側に「導地蔵堂」があります。「極楽寺地蔵」とも呼ばれているこの地蔵堂は、文永4年(1267)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのがそのはじまりといわれています。兵火によって当時の地蔵像は焼けてしまいましたが、現在の地蔵像は室町時代の作と伝えられています。子育てに霊験あらたかなことから「導き地蔵」とも呼ばれてきました。
地蔵堂の前を進んで行くと稲村ヶ崎小学校があり、小学校から民家の中の道を更に進むと、突然左手に月影地蔵堂が現れます。小さなお堂ですが、お堂前には石仏が並び実に簡素なたたずまいを見せています。

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導地蔵堂まで引き返し、右折すると「極楽寺」山門です。静溢な佇まいのお寺でした。

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暑い日でした。極楽寺駅から鎌倉駅に行きカフェで少し休憩を取り、JR横須賀線で帰宅しました。
歩くには暑すぎる季節になってきました。


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