2011.11.23

中欧の旅(3日目:11/17)・・・(旅行)

3日目になりました。今日は、プラハに向かい、プラハの街を観光します。
朝食を済ませて、8:00にバスで出発してチェコのプラハに向かいます。プラハまで約5時間のバスの旅です。
途中の森の中では、霧氷が木々を飾っていました。とても寒そうです。
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森を過ぎて、田園地帯も霧で幻想的です。
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プラハの市街に着きました。気温は3℃で少し上がって、霧氷などは見られません。
まずは、レストランに向かい、昼食です。メインは牛肉とタマネギ、パプリカなどから作られるシチュー料理のグヤーシュです。美味しかったです。
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食事を済まし、プラハ城の北門に向います。聖ヴィート大聖堂の尖塔が見えてきました。
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北門も両側に衛兵が直立不動で立っています。中に入ると第二の中庭で、正面に1764年に建てられ、1856年に建て直した聖十字架の礼拝堂とコールの噴水があります。
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さらに、第三の中庭に進むと、大きな聖ヴィート大聖堂があります。大きくてカメラに収まりません。大きさは奥行き124メートル、幅60メートル、高さ96.6メートルもあり、14世紀のカレル4世の時代に現在のような堂々とした建物にする工事が始められ、最終的な完成は20世紀になってからというのも驚きです。
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中に入りました。入り口上部には丸い「バラ窓」と呼ばれる窓があります。
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大聖堂の入り口を出て、左にまわって行くと、聖ヤン・ネポムツキーの像がありました。聖ヤン・ネポムツキーの像は、プラハ市街のあちこちで見られるとのことですが、常に頭に5つの星を配して造られています。
南ボヘミアのネポムクの出身であったことから、聖ヨハネのネポムクとも呼ばれ、その殉教の背景には、当時のボヘミア王ヴァーツラフ4世とカトリック教会との対立があり、空席となっていた大修道院長の人選をめぐる問題があったとする説や、司祭として知りえた王妃の告解の内容を王に明かすことを拒んだからとする説などがあるそうです。いずれにせよ王を怒らせた聖ヨハネは拷問を受け、1393年3月20日に落命しました。その遺体はカレル橋の上から投げ捨てられましたが、同年4月17日、ヴルタヴァ川の川岸で発見されました。
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大聖堂と間に第三の中庭を挟んで建つ旧王宮は、現在はチェコの大統領府として使用さています。そのため国旗が掲揚されています。衛兵の交代がありました。
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プラハ城の正門に向かいます。正門の両側の門柱の彫刻は、戦う巨人たちでインパクトがあります。当然門柱には、衛兵が直立不動の姿勢で立っていて、観光客とよく一緒に写真撮影されます。
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正門を出て、左に進むと、プラハの街の赤い屋根が美しく見渡せます。そして、階段を下って行きます。
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下って行くと、英国大使館があって、チャーチルの胸像がありました。パイプをくわえていないのは、最近のご時世にならって禁煙したからでしょうか。
そして、トラムの走る道路に出て、さらに下るとカレル橋にでます。
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午後4時ですが、夕闇が迫ってきた気配です。カレル橋(カルルーフ・モスト)は、観光客は必ず訪れるところで、大勢の人が歩いています。、プラハを流れるヴルタヴァ川(モルダウ)に架かっている橋で、ヨーロッパに現存する最古の石橋です。神聖ローマ皇帝カール4世の治世下1357年に建設が始まり1400年に完成しました。最初は単に石橋、プラハ橋と呼ばれていましたが1870年よりカレル橋と呼ばれるようになったとのことです。橋の長さは516mで、橋の欄干には15体ずつ、合計30体の彫刻が並んでいます。その中でも有名なのは聖ヤン・ネポムツキー像で、台座の左側のレリーフに刻まれた聖人をなでると幸運が訪れると信じられていて、皆が触るので金色に輝いています。
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聖人の像の傍らには、物乞いの乞食もいました。寒いので同じ姿勢を保つのは厳しいことだと思います。生活保護制度からも漏れる人が居るのでしょうか。橋の下では、今日もヴルタヴァ川が豊かに流れています。
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日本人には、馴染みの深い聖フランシスコ・ザビエルの像もあります。カレル橋を渡って行くと、向こう側の橋にも塔が建っています。
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516mのカレル橋を渡り終え、旧市街広場に急ぎます。ひときわ高くそびえているのは時計塔です。時計塔と西に続く建物が旧市庁舎で、世界遺産です。

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広場の東側にはティーン教会(正式にはティーン(税関)の前の聖母マリア教会)の2つの尖塔がライトアップされて美しく輝いて見えます。
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広場の中央には、ヤン・フスの銅像があります。ヤン・フスは、チェコの宗教改革の先駆者として知られていて、ローマ教会の堕落を厳しく批判したため、1415年に火あぶりの刑になりました。銅像は、1915年フス没後500年を記念して造られたものです。
広場の西北の隅には、聖ミクラーシュ教会があります。18世紀に完成した豪華で壮麗なバロック様式の教会で、1787年、モーツァルトがこの教会で演奏したオルガンが現存しているとのこと。
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カフカ( 1883 – 1924)が生まれた家が、聖ミクラーシュ教会の北側にあります。現在、カフカカフェが入っている建物です。
時間があるので、火薬塔を見に行きました。火薬塔は15世紀終わりごろにプラハの旧市街の入り口として建てられた門です。17世紀に火薬置き場として塔を使ったので塔はその時代から火薬塔と呼ばれています。19世紀に塔の建て直しが行われ、現在の塔の高さは65メートルです。
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火薬塔の隣には市民会館がありました。アールヌーヴォー様式の建物で1906年に建設が始まり、1912年11月22日に完成しました。
1918年チェコスロバキアの独立宣言した場所であり、今は、プラハの春音楽祭のメイン会場として有名で、音楽祭は、1946年より始まり、毎年スメタナの命日5月12日に開幕します。
この近くのレストランで魚料理の夕食をとり、今晩のホテルに向かいました。


2011.11.22

中欧の旅(2日目:11/16)・・・(旅行)

今日は、ウィーン観光です。
昨日は、ホテルに着いてお風呂に入ったら直ぐに眠ってしまいましたが、時差のため朝は早く目が覚めます。6:30からのバイキングスタイルの朝食も待ちかねるようにして済ませ、8:45のバスでの出発まで時間があるので、少しホテルの周りを歩いて見ました。気温は3?4℃程度でしょうか、かなり寒いです。
ホテルの前には小公園があり、冬枯れでほとんど葉の落ちた木立になっています。トラムの駅もあるので、ここで乗れば、ウィーン西駅まで行く事ができます。
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8:45になり、バスで世界遺産である、近くのシェーンブルン宮殿に向かいました。かなりな濃さの霧で、写真が綺麗に撮れません。今回の旅行中は、毎日が霧で太陽を見ることは有りませんでした。
1619年頃、狩猟の途中にこの地に足を踏み入れたハプスブルク家の皇帝マティアスが、良質の湧き水を発見し、「おお、美しき泉よ。」と言ったところから、この名前がついたといいます。シェーンは美しい、ブルンネンは泉です。
ハプスブルク家唯一の女帝にして最大の権力を誇ったマリア・テレジアと、彼女ゆかりの宮殿内には豪華な部屋があります。1740年に23歳の若さで即位したマリア・テレジアは、強靭な精神力と巧みな政治手腕で帝国に繁栄と安定をもたらし、夏の離宮だった宮殿を大改築して、1400室以上のロココ風の部屋と幾何学的な広大な庭園を持つ豪壮なものにしたのです。
外壁は、マリア・テレジア色といわれる黄色になっています。内部の豪華な装飾の部屋を見学しましたが、内部は、残念ながら撮影禁止でした。マリア・テレジアに招かれ、モーツアルトが6歳でチェンバロ演奏を披露し、床で転んで、後にルイ16世に嫁いだマリー・アントワネットに助け起こされ、「将来君と結婚してあげる」と言ったのもこの宮殿です。
上層階の侍従たちが住み込んでいた部屋は、国営の賃貸アパートとして一般人が住んでいるとのことですが、世界遺産に住めるとは驚きです。シェーンブルン宮殿宛の手紙を貰うのは、さぞや良い気分だと思います。
正面入口前には、大きなクリスマスツリーが既に立てられていました。
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宮殿の右横の庭園を見ながら、宮殿裏に向かいました。広大な庭園です。
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裏側から見た宮殿です。
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裏庭を真っ直ぐ500mほど進むと、ネプチューンの噴水があり、さらにその先にはグロリエット戦勝記念碑があります。噴水の水は出ていませんでしたが、立派な噴水です 。写真を撮りに行って、集合時間に遅れそうになりました。
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正門前には石畳の広場があり、その四隅に支配者の象徴であるスフィンクスが鎮座しています。前足の先端近くまで女人像で胴体はライオン像です。さらに真っ直ぐに通りが伸びています。
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シェーンブルン宮殿を後にして、シュテファン大聖堂に向かいます。途中には、1784年から87年までモーツアルトが住居とした建物もありました。この家で「フィガロの結婚」を作曲したそうです。
シュテファン大聖堂は、ウィーン市街の中心にあり、ハプスブルク家の歴代君主の墓所であるほか、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトとその妻コンスタンツェ・ウェーバーの結婚式と葬儀が行われた聖堂としても知られています。壮大な建物で、何処から撮影しても全体は収まりません。観光用の馬車が何台も停まっていました。
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シュテファン寺院から伸びるケルントナー通りを進みます。ウィーンの目抜き通りで、有名ブランド店が並んでいます。既にクリスマスの飾り付けも一部始まっていました。

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ケルントナー通りの最後には、ウィーン国立歌劇場があります。世界屈指の歌劇場であり、国際的な舞台で活躍するトップアーチストたちが出演しています。毎日演目を変えて上演されており、50のオペラとバレエが約300日間にわたって上演され、公演日数は世界でもっとも多い劇場です。ここで、一度ゆっくりとオペラでも鑑賞したいものです。

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次は、ホーフブルク(王宮)です。自然史博物館の前辺りから入って行くと、広い中庭が広がっています。ひときわ目に付くのは、カール大公とオイゲン公の騎馬像です。
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カール大公(左の写真)は1771年9月5日、オーストリアで神聖ローマ帝国皇帝の第三子として生を受けます。フランス革命戦争が勃発、その時期にカール大公は軍隊入りし頭角を現し、皇帝の弟でもお飾りの司令官ではなく、自ら作戦指揮をして一度はナポレオンを退却させるなどの活躍をした大公です。
一方、オイゲン公(右の写真)はフランス貴族でありながらオーストリア皇室に仕え、オスマン帝国のドナウ川中流域奪回の最後の試みを挫折に導くなどの活躍をしました。
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駆け足の観光で、ヘルデン門(ブルク門)から外に出ます。道路を跨ぐとマリア・テレジア広場で、クリスマスマーケットが始まりつつある感じで、何店舗か開かれていました。そして、マリア・テレジアの銅像があります。
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マリア・テレジア広場の左右には、自然博物館と美術史博物館が対象な形で建っています。
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自然博物館の隣は、国会議事堂です。1883年、アテネで教鞭をとっていたデンマーク人のテオフィル・フォン・ハンセンによってつくられた国会議事堂で、民主主義の象徴として、その発祥の地アテネにちなんで構想されたといいます。前面には、アテネの女神像まで建っています。
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昼食は愛想の良いおやじさんのいるレストランでシュニッツェルを食べ、その後、自由行動の人達と別れてウィーンの森に向かいます。ウィーンの森といってもウィーンの西側に広がる丘陵地帯で、広大な領域で、まずハイリゲンクロイツ(聖十字架)修道院に向かいました。到着して、バスを降り、クリーム色の建物の中央の入り口の門から中に入ります。バーベンベルク家レオポルト3世によって1133年に創設され、オーストリアでは一番古いシトー派の修道院です。回廊に取り囲まれた中庭の奥の方には聖母マリアの像があり、台座の周りは泉になっていて、その外側にはプラタナスの大木が立っていました。
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一方、中庭の出口に近い方には、三位一体の塔が建っていて、その塔と向き合うようにチャペルの建物が建っています。そして、他の建物と違い歴史を感じさせるものでした。
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帽子を脱いで、チャペルの中を見学します。フラッシュを使わなければ撮影も許されるとのことで、正面祭壇を撮らせてもらいました。
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次は、小さな街マイヤーリンクにある小さな修道院教会に向かいます。ここは、オーストリアの皇帝フランツ・ヨゼフ帝と皇后エリザベスの1人息子である皇太子ルドルフ(当時31歳)が、17歳の愛人のマ リー・ヴェッツェラ男爵令嬢と一緒にピストル自殺を遂げたところです。元々皇太子の別荘で狩猟の館であったのですが、事件の後、フランツ帝が2人が心中をした場所を祭壇として、2階をを取り除いて礼拝堂に作り変えてしまいました。「うたかたの恋」の題名の映画にもなりました。

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10人ほどの修道女の方がいらっしゃるそうです。
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祭壇は、可愛い造りで、入り口上部のステンドグラスも綺麗です。別室には、マリーが1889年から1959年まで眠っていた棺と、壁にはマリーの写真が飾られていました。
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次に向かったのは、温泉で有名な小さな街のバーデンです。バスから降りると、果物屋があり、思わずシャッターを押していました。リンゴとラ・フランスがいっぱいです。
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クリスマス用品などを売る店のショーウインドウを覗きながら歩いて行くと、シューベルトとリストのプレートが掲げられた建物がありました。温泉のあるこの地を良く訪れたそうです。また、その先で細い通りに入ってゆくと、この地を愛した音楽家のひとり、ベートーベンの暮らした家がありました。建物の入り口には、ベートーベンが1821年から18233年の間の夏にこの家に住み、「第九交響曲」を作曲したと書かれていますが、彼は既に耳は聞こえなくなっていました。ウィーンに住むようになって、2人の弟を呼び寄せたが、28歳の時から患っていた中耳炎が悪化し始め、殆ど耳が聞こえなくなり、絶望の淵に追い詰められて自殺を決意し、2人の弟へ宛てた手紙をしたためました(有名な「ハイリゲンシュタットの遺書」です)。しかし、思い直し、こんな素晴らしい曲を作ったのです。 説明を聞いたグループから、思わず第9の合唱のメロディーの口ずさみが沸き起こりました。
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細い道路を進んで行くと、ペスト記念碑が見えてきます。町の中心地ハウプトプラッツ広場です。ペスト記念碑は、欧州で猛威を振るったペストが治まったのを記念して建てられた塔です。
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この広場に面して、市庁舎もあります。
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広場につながる通りを歩くと、有名ブランドの店が並んでいます。
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クリスマスの飾りを売る店は、覗いているだけで楽しくなります。
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だいぶ暗くなって来ました。ウイーンのホテルに戻り、夕食です。
メインは、チキンにお米を敷いたもので、美味しかったですが、デザートは甘すぎるとは皆さんの意見でした。忙しい2日目も終わりました。
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中欧の旅(1日目:11/15)・・・(旅行)

中欧(オーストリア、チェコ、ドイツ、スロバキア、ハンガリー)の旅に家内と出かけました。
宿泊は、ウィーンとプラハ、ブダペストにそれぞれ2泊づつで、毎日荷物のパッキングをしての移動よりは楽ですし、同じホテルに2泊なので下着類は洗濯もできます。
季節的には少し遅いのですが、出来ればクリスマスマーケットも観てみたいと、この時期を選びました。
11月15日、成田空港に10時15分集合なので、少し余裕を見て6時40分にタクシーを呼び、YCATから7時30分発のリムジンバスに乗りました。
交通はスムーズに流れて、9時10分ぐらいに成田空港に着きました。まだ、集合時間に1時間もあるので、とりあえずお金をユーロに替えたりしている内に集合時間が近づいて、人も集まってきました。
今回の旅行の参加者は、38人で少し多いグループで、添乗員さんは大変です。当然、熟年夫婦の参加が多いのですが、若い女性の一人旅に加えて、大学生(男)と父親、若い息子と両親の組み合わせもありました。
ウィーンまでの航空券を受け取り、チェックインを各自済ませて、皆が揃うの待って出国しますが、チェコのお金のコルナ(1Kc ≒ ¥5)とハンガリーのフォリント(¥1 ≒ 2Ft)も成田で替えて置く方が、レートが良いとのことなので替えることにしました。しかし、コルナ、フォリントは、逆に円に替えるのは大変なので、最小限にして足りなくなったら現地で追加で替えることにしました。どうせ、高額なものはクレジットカードで払えば良いことです。
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出国手続きをすませて、搭乗ゲートに進むとウィーンまで乗る、オーストリア航空の飛行機が駐機しています。オーストリアのフラグ・キャリアですが、資本的には、ルフトハンザドイツ航空の傘下にあるそうです。ウィーンと成田の便ということで、日本人のフライト・アテンダントも乗っています。また、フライト・アテンダントは洋服のみならず、ソックスも靴もカバンさえ赤で統一されています。
これから、ウィーンまで12時間のフライトです。

出発して水平飛行に移った頃、飲み物サービスに続いて、食事がでました。鮭かチキンのチョイスで、私は鮭を、家内はチキンを選びました。オーストリアの頭文字のAを型どった容器に入ってきて、日本蕎麦も付いています。味は、よかったですが、野菜サラダ、デザートがなく、他社と比べて少し劣る感じでしたが、私には十分でした。家内が「有名なマンナーのウエハースがついている」と喜んでいました。
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いよいよウィーンが近づいてきて、着陸まで1時間半ぐらいの所で、2回目の食事がでました。
下にご飯を敷き、とろみを付けてシーフドを煮たものをかけてあります。これは美味しかったです。
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ようやく、ウィーンに着きました。バスでシェーンブルン宮殿近くのホテルに向かいましたが、空港出口からバスの駐車場所に向かう僅かな間でも日本に比べて、相当に寒いのが感じられました。ホテルに着くと、夜食として紙袋に、パンにシュニッツェルを挟んだものと、チーズを挟んだものにリンゴを添えたものを入れて、配られました。ホテルの前にはトラムが走っていて、地下鉄の駅も遠くはないのですが、疲れてホテルの外に出る気も起こらず、お風呂に入って、パンをひとつだけ齧って、寝てしまいました。

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2011.11.01

安曇野の旅(2日目)・・・(仲間)

2日目の朝が明け、朝風呂、朝食を済ませ、友人の別荘に向かいました。
全部で700坪の広さがあり、建物は建ったが周りの整備はこれからで、奥様は3年ぐらい掛けてイングリッシュガーデンを作りたいとおしゃっていました。
写真正面には、信濃富士と呼ばれる有明山(2268.3m)が見えます。常念岳と共に安曇野のシンボルです。
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良い天気です。2日目は、遊歩道として整備されている旧篠ノ井線の廃線敷を歩くことにしました。車で明科(あかしな)駅まで行き、駐車場に車を留めタクシーで旧第二白坂トンネルの廃線敷駐車場に向かいました。11:15のスタートです。遊歩道の片側には、架線に用いたコンクリートの電柱が残っています。
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所々、駅のプラホームの駅名表示板を模した案内板が建てられています。
道は、緩やかに下って行きますが、蒸気機関車でよく上ったものだと思えるくらいの勾配でした。なお、蒸気機関車は昭和45年(1970)まで使用されていましたが、土砂崩れも多く、難所であったとのことです。
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漆久保(うるしくぼ)トンネルが見えてくると、右側にトンネルの上に続く細い道があり、上って行くと、木曽の御嶽山の表参道を開いた普覚像(烏帽子を被っている)と、裏参道を開いた覚明像がありました。ここのトンネルの上を通る道は、大昔の善光寺道で、通る旅人の安全を願って石像を祀ったものと考えられています。
漆久保トンネルは、明治30年(1897)に開通した全長53mの総煉瓦造りのトンネルで、百年前の鉄道トンネルとして保存状態もよく文化価値も高いとのことです。レンガは現在の明科高校付近で焼かれ、トロッコ線を設けて運搬しました。明治期の人々の活力が頭に浮かびます。

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「けやきの森公園」がありました。出発地点から2.4Kmのところです。例年なら、見事な紅葉が見られるそうですが、今年は9月の異常に高い気温で葉っぱが傷み、紅葉にならず茶色に変色して落下してしまったとのことで残念です。少し先の左の高台に東平の休憩所があります。無人ですが、お茶を入れられる用意がなされていました。また、ここからは、常念岳が大きく望むことができます。
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近くの山を見ると、色づき始めています。もう2週間ほどで見頃を迎えるのでしょうか。
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明科駅まで1.5Kmのところに、三五山(さごやま)トンネルがありました。明治30年代に造られた全長125mのトンネルで、篠ノ井線が電化されるのに先立ち、水滴が電線に付着するのを防ぐため、吹付けの補修をしています。歩行者用に電灯が付けられていました。
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トンネルを抜けると、展望が開け右側にはアルプスが頭を覗かせていて、遠くには白い冠雪の白馬まで見ることができました。
廃線敷の遊歩道は、湖神明社で終わります。この神社は、平安時代末から鎌倉時代にかけて、川手地方が伊勢神宮の御厨(みくりや:庄園)になったころに創建されたものと思われるとのことです。
時刻はちょうど13時です。後は、舗装道路を歩いて明科駅に向かうだけです。
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車で、別荘に戻ると奥様がバーベキューの準備を整えておいて下さいました。
建屋の前の濡れ縁での賑やかなおしゃべりとともに食べるバーベキューです。本当に楽しく過ごせました。
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haisen_17.jpg3年前に植えたという木がすでに大きく育ち、木陰をつくるようになっています。
数年後には、素晴らしい庭もできていることでしょう。
16時40分になりました。お土産まで頂いて、東京に帰る友人の車に便乗させてもらい、帰路につきました。


2011.10.31

安曇野の旅(1日目)・・・(仲間)

安曇野に別荘を建てた大学の同級生がおり、これを契機に気の合った仲間で安曇野を訪問することにしました。一泊することにして、最初の日は、ゴルフを楽しむグループと安曇野を散策するグループに別れ、夕刻に宿泊ホテルで合流する予定です。
散策チームは、私ともう一人の2名のみで、11:34にJR大糸線穂高駅に着き、駅前の「しなの庵」というレンタル自転車屋で荷物を預け、初めて乗る電動自転車を借り、出発しました。
出発すると、直ぐに「穂高神社」がありました。この神社は上高地に奥宮、奥穂高岳山頂に嶺宮があり、「日本アルプスの総鎮守」として親しまれています。祭神は、本宮中殿に穂高見神(ほたかみのかみ)別名「宇都志日金析命(うつしひかなさくのみこと)」、 左殿に綿津見神(わたつみのかみ)、右殿に瓊瓊杵神(ににぎのかみ)で、穂高見神と綿津見神は共に海人族である阿曇氏の祖神とされる海神です。信濃国に海は無いが、安曇野に定着した安曇氏と神社の関係がうかがえるとのことです。拝殿は平成21年(2009)に遷宮が行われ、真新しくなっています。
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境内では、菊花品評会が行われており、拝殿の前に位置する神楽殿にも菊の鉢植えが飾られていました。また、木曽駒をモデルとしたという、御神馬の像もありました。
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阿曇連比羅夫(あづみのむらじひらふ)の像が立っていました。船上で槍を持ちすくっと立った姿です。説明板によれば、「阿曇連比羅夫は、天智元年(662)天智天皇の命を受け、船師170艘を率いて百済の王子豊璋(ほうしょう)を百済に護送、救援し王位に即かす。天智2年、新羅・唐の連合軍と戦うも白村江(朝鮮半島の錦江)で破れ、8月申戌27日戦死する」とあります。

穂高神社境内の端には、沢山の道祖神の像が集められていました。貴人の服装の男女の双体の道祖神で、安曇野には多く見られるものですが、1体のみ餅搗きの姿の道祖神がありました。この餅つきの道祖神は、杵を男性、臼を女性に見立て、夫婦円満の神として祀ったものとのことでした。
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穂高神社を後にして、電動自転車で快適に進み、東光寺に向かいました。
曹洞宗の寺院で、武田信玄の5男の仁科盛信に仕えた等々力家が、天正18年(1590)に貝梅(穂高貝梅)の北城からここへ移築した東龍寺が前身で、その後曹洞宗となったものとのことです。山門の前には、大きな仁王様の下駄があり、仁王様に願い事をしてから、この下駄を履くと願いが叶うそうです。
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東光寺の直ぐ先には、本陣等々力家屋敷がありました。等々力氏は、武田信玄の5男仁科盛信に随身し、穂高地方を領有したが、江戸時代に入ってからは郷士になり、庄屋で松本藩主の本陣を勤め、殿様の野行の際の休憩所になっていたものです。建物は、安曇野市有形文化財(旧・穂高町文化財)に指定されていて、長い長い長屋門が道路に面しています。
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長屋門を潜ると、正面に殿様が籠で通る門があり、大きな松の2つの枝が中から門の上に被さっています。左側の飛び石通路を通って進むと通用の入り口があり、見学料を払うと建屋内を案内してくれます。右側には、桃山中期の様式の須弥山石組の庭園があり、庭の向こうにも離れの家屋が見えました。
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玄関を入った最初の間には、お嫁さんが輿入れで乗ってきた籠が置いてありました。座敷・書院は江戸時代中期の作とのことです。
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太鼓橋風の渡り廊下があり、映画撮影もなされたそうです。この渡り廊下を通って中に入ってゆくと、書院があり中庭を挟んで蔵造りの建家も見えました。殿様は、一番奥の書院で休憩を取られたそうです。
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次に「大王わさび農場」に向かいました。入って最初に目に付くわさび畑は、掘り取りを終えた小石を盛り上げた畝の状態で、全く緑は見えませんでした。
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左のほうに進むと、大きな道祖神がありました。
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更にその先には、綺麗で豊富な水がゆったりと流れていました。
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流れには、黒澤明監督の短編8作品のオムニバス映画「夢」の中の「水車のある村」の撮影に使われて有名になった、3連の水車があります。
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奥のほうに進むと、青々とした「わさび畑」も見ることができました。流石に日本で一番大きなわさび園で、畑は広大です。
農場内にはこの農場の名前の由来となった、大王神社があります。此の地一帯は、延暦年間(782?805)に安曇平野に繁栄した原住民族の王「魏石鬼八面大王」が治めていたと云います。そのころ全国統一を目指す天孫族が南方より侵攻し熾烈な戦いが行われ、大王は一族を率いて勇戦敢斗したが、優勢な天孫族に捕らえられ処刑されました。大王があまりに強かったため、その復活を恐れた天孫族は大王の遺体バラバラにして埋め、その大王の胴体が葬られているのが大王神社だとのことです。
また、今上天皇が皇太子時代の昭和51年(1976)に、美智子妃とともに訪れ、休憩のために造られた茶室もありました。
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大王が住んでいたといわれる有明山の麓の宮城の岩屋を再現したと言う洞窟もありました。
本当に広いわさび農場です。わさびを利用したアイスクリーム、お土産等を売るお店もあります。
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大王わさび農場の見学を終え、「水色の時」道祖神に向かいました。
安曇野は道祖神の数が日本一だそうですが、これは、NHKの連続テレビ小説「水色の時」(1975年4月?10月)の放送のために製作されたので、この名前がついています。おそらく安曇野でも最も新しい道祖神だと思えます。その少し先の穂高川堤防脇には、早春賦の歌碑があります。大正2年(1913)に吉丸一昌が安曇野のこの地を訪れ「春は名のみの風の寒さや・・・」の『早春賦』を作詞したと言われていることから、平成5(1993)に碑が建てられたとのことです。作曲は中田章で、太陽電池の電力で早春賦を奏でるオルゴールが設置されていました。
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友人の奥様がご指定という、井比わさび店に寄りました。注文する都度カメから出して量り、包装するので新鮮で評判も良いとのことで、私も「わさび漬け」を買いました。
進むと、蔵の前に「二十三夜塔」、「庚申塔」、「道祖神」の大きな石碑が並んでいました。
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安曇野には数多くの美術館がありますが、その中でも代表的な「碌山美術館」を訪れました。つたのからまる教会風の美術館で、日本近代彫刻の扉を開いた荻原守衛(碌山)(1879‐1910)の作品と資料を 永久に保存し、一般に公開するために開館されたものです。荻原碌山の作品以外にも高村光太郎、戸張孤鴈、中原悌二らの作品が展示されています。
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碌山美術館の後は、今夜の宿泊の「和野(なごみの)」に向かうことにしました。約4Kmの距離ですが、電動自転車では全く苦になりません。宿に到着して電話を掛け、自転車の引き取りに来てもらい、預けた荷物を届けてもらいました。宿の周りは、まだ紅葉には早いが、多少は色づいた木々も見られました。ゴルフ組みは、まだ到着していませんが、先に入館しました。
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