2011.12.15
2011.11.24
中欧の旅(6,7日目:11/20,21)・・・(旅行)
6日目になりました。今日の午前中は、団体でブダペスト市内の観光で午後は自由行動、そして夜はドナウ川イルミネーションクルーズです。
いつもの通り、バイキングの朝食をホテルでとり、8:30にバスで出発です。今日の気温の予報は最高温度が+2℃、最低温度が-2℃で、寒いです。はく息が白いです。
まず、最初に国会議事堂に行きました。世界で一番美しいと言われる国会議事堂です。国会議事堂とエルジェーベト広場から英雄広場と、その間の2Kmのアンドラーシ通りも合わせて世界遺産です。なお、アンドラーシ通りの下を走る世界で一番古い地下鉄も世界遺産に含まれています。
国民議会は、1880年に新しい国会議事堂の建設を決議し、コンペチションを行い、シュタインドル・イムレの案が採用されました。建設は1885年から始まり1904年に完成しました。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われたそうです。あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に補修工事が行われている状態にあるとのことです。
英雄広場は、1896年に建国1000年を記念して造られました。ブダペスト最大の広場で、中央の一番高い塔の上の天使ガブリエルはハンガリーの最初の王、聖イシュトヴァーンに王冠を授けるようローマ法王の夢枕にたった天使です。その足元の騎馬像は、ハンガリーに最初にやってきた7つの部族の族長を示しています。
左右のモニュメントの柱の間には、ハンガリーの歴史上の英雄らの像が計14体あります。向かって左側が中世の王、右側が、近代以降の革命家などになっています。
そして、騎馬像の前には、これまでの戦争でハンガリーのために戦い死んで行った兵士達を称える「無名戦士の碑」があります。
英雄広場で、塔に向かって右側に現在美術館(下の右の写真)があり、左側に西洋美術館があります。両館ともシッケンダンツ・アルベルトとヘルツォーグ・フェレップによる共同設計です。
下の左の写真は、アンドラーシ通りで、道路下には地下鉄が走り、エリジェーベト広場まで2kmにわたって真っ直ぐに伸びています。建設は1872年に始まり、開通式は1876年8月20日に行われましたが、その後、貴族、銀行家、地主、歴史的な人物などが越してきました。現在では、多くの国が大使館を置いています。
英雄広場の後ろは市民公園となっており、右の方には、屋外スケート場があり、スケート場の立派な建物が見えています(下の右の写真)。
アンドラーシ通りをバスで戻ると、途中に国立歌劇場が車窓から見えました。
その後、エルジェーベト橋を渡り、ツィタデラと呼ばれる、1854年にハプスブルク帝国によって建てられた要塞に行きました。張り出した円形の見張り台からは、ブダ側とペスト側の両方が良く見えます。市民の反オーストリア運動の監視にも用いられましたが、1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の発足で、両国間の衝突もなくなり、1894年に市に譲渡され、現在はホテル、レストランもある場所となっています。
この見張り台には、世界遺産登録のUNESCOのプレートが嵌めこまれていました。
長い幾多の時代を眺めてきた丸い要塞の壁を見ていると、遠い過去が想像されてきます。
第2次世界大戦では、ハンガリーはドイツについたのですが、敵の進行を防ぐ目的で、くさり橋を破壊した写真が要塞の壁に取り付けられていました。ハンガリー市民は複雑な心境だったことでしょう。
周りの林は、かなりな割合で葉っぱが落ち、冬を迎える準備をしているように思えました。
次に、漁夫の砦とマーチャーシュ教会のある丘に向かいました。途中までは、バスで行きますが、最後は、自分の足で階段を上って行きます。
「漁夫の砦」とは、変わった名前の「要塞」です。建国1000年を記念して作られたそうで、完成は1902年です。比較的新しい建物で、実際に戦闘などには使われたことはありません。「漁夫の砦」という名前は、中世に魚市場があったとか、ドナウ川の漁師が要塞を守っていたからとかいわれていますが、ハッキリしません。とんがり屋根の7つの塔からなっていて、それぞれの塔にマジャール族の英雄の名前がつけられているそうです。また、塔の形はマジャール族が遊牧をしていた時の天幕住居の形を模しているのだそうです。
広場には、三位一体の塔が建っていました。
川の方を漁夫の砦で囲まれるように、マーチャーシュ教会が建っています。磁器で有名なジョルナイ製のカラフルなタイルでモザイク屋根とした教会で、正面入口の右側に80mのマーチャーシュ塔、左側にベラ塔が建っています。13世紀半ばにロマネスク様式で創建され、14世紀にゴシック様式となり、15世紀のマーチャーシュ王の時代に80mノ塔が造られほぼ現在の形になりました。1867年のオーストリア=ハンガリーの二重帝国発足の折、オーストラリア皇帝フランツ・ヨーゼフのハンガリー国王としての戴冠式がここで行われました。
日本円も使えるお土産屋があり、皆でお買い物です。 |
漁夫の砦からは、眼下に街並みが美しく見えます。ドナウ川の向こうには、国会議事堂が見えます。霧がかかっているので、色調を補正しましたが、それほど綺麗にはなりません。
下の左の写真は、聖イシュトヴァーン大聖堂です。右の写真は、ドナウ川の上流方面です。
漁夫の砦と聖マーチューシャ教会の間の広場には、イシュトヴァーン王の騎馬像があります。
後は、また漁夫の砦の階段を下って行きます。
バスで昼食のレストランに向かう途中に、HOTEL GELLERTがありました。豊富な温泉の設備で有名なホテルです。 昼食は、ハラースレーでした。
昼食を終え、ドナウベント方面にオプショナルツアーに行く人達と別れ、残りの人は解散して自由行動ですが、皆んなクリスマスマーケットを見たいというので、デアーク・テールでバスを降り、ジェルボーカフェの前の広場まで来て解散しました。
ジェルボーカフェは、エリザベートも愛し、リストも通ったという150年の伝統を誇るカフェとして有名で、ガイドさんも、寒かったり疲れたりして休むなら、ここがお勧めですと言っていました。外国人観光客にとって必見の観光スポットのようです。
もうクリスマスマーケットの店が開かれ、クリスマスツリーが飾られていました。
まず、ヴァーツィ通りを歩きたいと家内が言っていたので、広場の南から通りを南に向かって歩き始めました。通り名は、ビルの壁に通り名を記したプレートがはめられいる(Vaci utca)ので分かりやすいです。まぁー、目抜き通りといったところです。
ヴァーツィ通りは、途中でエルジェーベト橋の大通りを地下道で横切って、まだまだ続きます。地下道を抜けると、面白いモニュメントがありました。スケートをしている人でしょうか。ブラチスラバの路上のモニュメントを思い出しました。
同じヴァーツィ通りでも、ここからは店のレベルも下がり、店の前にまで商品を陳列して売っている店が多いです。
カラフルな牛のモニュメントが、置かれていました。これはクリスマスのムードの持ち上げ用でしょうか。そして、ついに中央市場のカラフルな建物が見えて来ました。フォアグラを買おうと言っていたのですが、日曜日で市場が休みなのが本当に残念です。
中央市場の前の通りで左折して、カルビン・テールの方に進みます。道なりに曲って、北に向かうと直ぐに、国立博物館が右側に見えてきました。ハンガリー最大の博物館で、1847年完成のネオクラシック様式です。8本のコリント様式の柱が特徴です。
さらに、30mほど北上して、ラコーツィ道路を地下道で渡り、その先のドハーニ通りに入ると、直ぐにシナゴーグ(ユザヤ教会)が見えてきます。入ろうと思ったのですが、入場料は、1人4,000Ftもするので、馬鹿らしくなって止めました。外から写真だけは撮って置きましたが、後で入った人に聞くと、入らないのが正解で入ってがっかりしたと言っていました。
もう、聖イシュトヴァーン大聖堂が見えてきました。ともかく、大聖堂まで行って中を見学することにしました。入場料はないのですが、大聖堂の維持管理に200Ftまたは1€の寄付を払う必要がありましたが、日本円で100円程度なので、お寺のお賽銭ぐらいのものです。
中は、フラッシュを焚かなければ撮影もOKなので、中央祭壇を撮影しました。
天井のドームもフレスコ画が描かれ綺麗です。
主祭壇とは、別にサブの祭壇も幾つかありました。
主祭壇のある場所の左側に奥に通じる通路があり、進むとイシュトヴァーンの手のミイラを収めた綺麗な容器が置いてあります。200Ft寄付すると、2分間だけ照明され、手のミイラを右の方から見ることができます。何か黒いものが見えましたが、本当に手のミイラなのかハッキリしませんでした。数ケ国語で書かれた説明文も置いてありました。
まだ、時間がたっぷりあるので、エルジェーベト広場の方に歩いて行くと、日本地図の描かれた時計柱が立っていました。日本地図の下にも小さく時計が付いていて、日本時間を指していました。姉妹都市の小田原駅前・オシャレ横丁商店街からの寄贈のようです。
そして、再度クリスマスマーケットの開いている広場に行くと、なんだか賑やかな音楽が聞こえていて、見ると仮設の舞台で踊りが始まっていました。
周りのビルも夜は電飾がなされていて綺麗です。
ジェルボーカフェで一服しました。流石に、伝統のあるカフェで内装もエレガントです。日本の青山にも支店ができたそうです。次は、セーチェイニくさり橋の方に歩きました。
川べりに出ると、川向こうの王宮もライトアップされていました。くさり橋も既に電気が点灯されています。
くさり橋でには、橋のたもとの左右にライオンの像(合計4頭)が1852年に設置されていますが、このライオン像に関して、舌がないので人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話が有名です。しかし、実際は舌はあり(ただし像を見上げると見えない)、彫刻家は1890年代まで存命であったとのことです。
くさり橋を渡って往復しました。戻ると、フォーシーズンズホテルの電飾も綺麗でした。
広場に戻ると、ジェルボーカフェも明るく輝いています。
広場の片隅では、グラスを並べて音楽を演奏する人がいました。美しい音色でした。
夜のクリスマスマーケットは、益々盛り上がってきています。
集合場所の聖イシュトヴァーン大聖堂に戻ると、ここもライトアップされていました。
ドナウベントに出かけた人達も合流して、夕食です。肉料理でした。
ドナウ川のナイトクルーズに行きました。かなり寒いですが、覚悟の上です。街の建物ライトアップが綺麗でした。まずは、最も明るくライトアップされている国会議事堂です。
漁夫の砦、マーチャーシュ教会(左の写真)とセーチェニくさり橋です。丘の上には王宮も見えます。
これも「くさり橋」(左の写真)と最近になって電飾が始まったという「自由橋」です。
「ドナウの真珠」といわれるブダベストの夜景を眺められるクルーズは、ほんとうに素晴らしかったです。
これで、中欧の旅はすべて終わりました。明日は帰国です。
11/21日の朝が明けました。
今日は、朝食の後ウィーンにバスで移動して、13:15発のオーストリア航空で東京に帰国します。
バスの移動で途中休憩は、まだハンガリー国内で、皆んな売店で使い残したフォリントを使うことに夢中でした。家内もパブリカの袋入りなどを買っていました。
今回の旅行で、国境を通るのに全てノーチェックでしたが、オーストリアの国境に達したとき初めて、バスを止められました。しかし、前の入口から入ってきた、気のよさそうな係官がにっこりと微笑み、そのまま降りで行ってしまいました。拍子抜けです。
そして、空港に着き出国手続き、セキュリティーチェックも済ませて、搭乗ゲートにたどり着きました。
飛び立って、水平飛行に移ったころ、食事がでました。
東に向かう飛行で、みるみる外は暗くなってきました。
そして、夜明けの朝焼けが窓からきれいに見えました。到着の1時間30分ぐらいまえに、簡単な食事が出て、食べ終わってしばらくすると、成田到着でした。
中欧の旅(5日目:11/19)・・・(旅行)
5日目になりました。今日は、プラハからスロバキアのブラチスラバに移動して観光の後、ハンガリーのブダペストまで行き宿泊です。
朝食の後、プラハを8:30に出発して、332Km移動してお昼にブラチスラバに着きました。
日本では、ほとんどの都市で路面電車はなくなりましたが、中欧の国々は、どこもトラムが走っていて便利に利用しているように見えます。
まずは、昼食です。モッツァレラチーズとトマトにバジルの葉っぱを載せた前菜に、白身魚とじゃがいものメインでした。美味しかったです。
歩き始めて直ぐに、スロバキア国立劇場がありました。なかなか立派な建物で、テラスの上には音楽家の胸像も飾られています。
その先の交差点では、杖一本で空中に浮かんでいるパフォーマンスのおじさんがいました。時々開いた傘をお尻の下に移して、体の下には何も無いことを示しています。どうやって浮かんでいるのか、話題になりましたが、後にパフォーマンスを止めて立ち去るところを見た人が居て、種が分かりました。
同じ交差点の反対側には、マンホールから顔を覗かせている工事人がいます。通称「みつめる君」というそうです。大型トラックで壊され、3体目だそうです。チュミルという架空人物で、女の子をのぞき見しているらしいと書かれているガイドブックもあるそうです。
その先に進むと、道の傍らに「マジシャン」らしい像が立っています。皆んな、自分の帽子をマジシャンにかぶせ、マジシャンの帽子の下に立って写真を撮ったりしていました。
街の中心の「フラヴネー広場」に来ました。広場の中心にある噴水は「ロランド噴水」と 呼ばれ、 1572年、当時のオーストリア皇帝マクシミリアン 2世の命を受けて作られたブラチスラバ最古の公共水汲み場です。その中心に立つ騎士像は皇帝マクシミリアンですが、騎士像は年に 1度大晦日の夜に回れ右をし、 6番地の屋敷に向かい、その屋敷の持ち主でブラチスラバを守って亡くなった議員に敬意を表してお辞儀をするという伝説があります。
クリスマスマーケットの店が建ち始めていて見難いですが、右の奥には日本大使館があり、日の丸が見えます。近づくと、入り口の上に菊の御紋も付いていました。ここは一等地です。一等地に日本大使館があるとは、蓮舫さんにいうべきだと言った人がいるとの説明に一同苦笑でした。
広場の奥側には旧市庁舎があり、現在は市歴史博物館となっています。クリスマスツリー用の大きな樅の木が立てられていました。
広場のベンチの背もたれに腕を置いたナポレオンの像がありました。後ろにはフランス大使館があります。
広場から道路に戻って進むと、道路に小さな「王冠のマーク」が埋め込まれていました。これは、戴冠式でのパレードのコースを示すものだそうです。フラヴネー広場から100m程先で右折して、ミハルスカー通りの先100mほどのところに、ミハエル門があります。かつては、城壁で囲まれていた旧市街の門の一つで、現在残っている唯一の門で、武器博物館として使われています。
ミハルスカー通りをミハエル門と反対方向に歩くと、「フランツ・リスト」が9歳の頃住んでいた家があり、モニュメントが嵌めこまれていました。
ここで、少し自由時間があったので、カフェにでも入ろうかと、フラヴネー広場に戻り、その先の十字路で、左折してローリンスカ通りに入って行くと、レストラン「パパラッチ」の角でカメラを構えている像がありました。レストランのユーモアですね。
結局、手頃なカフェが見つからず、最初に歩いた道に戻って入りました。
さて、またガイドの案内が始まりました。現在、オーストリア大使館になっているところが、モーツアルトが6歳の時に演奏した建物で、その旨を紹介するプレートが掲げられています。ガイドが6歳の時の演奏なのは、1762の表示の前にROKUと書いてあるでしょうと冗談を言います。
最後に、聖マルティン教会の前を通り、バスの駐車場所に戻りました。聖マルティン教会は1452年の創建のロマネスク様式の教会で、1765年に造られた高さ85mの塔が遠くからも良く見えます。なお、1563?1830年の間に19回(内7回は女王)も戴冠式が行われたとのこです。
西の丘にはブラチスラバ城が見えますが、12世紀にロマネスク様式で建てられ、15世紀にゴシック様式の要塞に改築、後にオスマン・トルコの侵攻に備えて四隅に塔が付けられ現在の形になり、「ひっくり返したテーブル」と呼ばれ親しまれています。18世紀にはマリアテレジアの居城にもなりましたが、1811年の大火災で荒廃し廃墟となっていました。その後、第二次世界大戦後に復旧して博物館、展示館として使われています。
バスの駐車場所に戻ると、ドナウ川に架かっている斜張橋(Nový most)の主塔の上の展望レストランが見えました。上るのはエレベータです。しかし、レストランは丸くても回転はしないそうです。画竜点睛を欠きますね。
15:30にブラチスラバを出発して、ブダペストに向かい、18:30頃に着きました。
着いたら直ぐに、夕食です。ロールキャベツの料理で、ヴァイオリンとアコーディオンの音楽演奏がありました。我々の席の近くに来たときは、「故郷」を演奏してくれました。皆んな良い気分になって楽しかったのですが、バイオリンのおじさんの演奏のCDを取り出し、何人かが買わされていました。料理の味は、????
2011.11.23
中欧の旅(4日目:11/18)・・・(旅行)
今日は、バスでドレスデンに向かいドレスデンを観光して、夜には再びプラハに戻ってきます。約3時間の距離を往復です。
ドレスデンに着き、ドイツらしいソーセイジとじゃがいも、キャベツのコールスローの昼食を済ませ、オペラハウスのゼンパー・オーパー前の広場でバスを降りました。
道路を隔てた向こう側には、旧カトリック宮廷教会(左の写真)とドレスデン城が見えます。
ドレスデンの歴史的な建築物が、黒い色をしているのは、煤煙で汚れたわけではなく、多く用いられている「エルベ砂岩」には豊富に鉄分が含まれていて、長い年月で酸化が進み黒くなるためだそうです。
そして、ゼンパー・オーパーの名で呼ばれるオペラハウスの前には、この劇場の発注者のザクセン王ヨハンの騎馬像があります。また、広場の東方向には、ツヴィンガー宮殿が見えています。
最初に、まずツヴィンガー宮殿に入ります。この宮殿は、1694年にザクセン選帝侯となったフリードリヒ・アウグスト1世(アウグスト強健王)がバロック建築の巨匠ダニエル・ペッペルマンに命じて1711年に建築に着手した宮殿で、ドレスデンのシンボルとなっています。入り口の門となっている建物は、アルテ・マイスター絵画館になっています。ここを通り抜けると広い中庭があり、正面には「王冠の門」が見えています。
正面の王冠の門から左右につながる回廊を覆うように建物がありました。
そして、広場の中心で左に向かうと、丸い建屋のカリヨンがあり、マイセン焼の鐘と時計が組み込まれています。内部には、マイセンの磁器の展示室があり、階段を上って、上のテラスに上ることができます。
テラスから中庭を眺めると全体の規模がよく分かります。
テラスの手摺にも石像が建てられ、優美さを醸し出しています。
ツヴィンガー宮殿を出て、次にレジデンツ城(ドレスデン城)に向かいました。
歴代のザクセンの君主が住んだレジデンツ城は1945年の爆撃で大きな被害を受け、85年から修復が始まりました。
2005年にオリジナル部分を組み込んだモダンな内部が完成し、2006年9月にはオリジナルに基づいて再現された歴史的な緑の丸天井(Historisches Grünes Gewölbe)がオープンしました。それに続いて2009年の1月31日、3連結した中庭のうち、中央の中庭が新しい入口のホワイエ(ロビー)としてオープンしました。
エルベ川方向の門から出て進みます。
フリードリヒ・アウグスト1世(1750?1827)の座像のあるドレスデン地方裁判所の前を通り、ブリュールのテラスへの階段を上ります。なお、座像の王は、裁判所の前に相応しく、左手に「法」と書かれた本を持っています。
旧王室芸術アカデミー校の円屋根のある建物の手前で、右に階段を降りおしゃれな店の並ぶ通りを進みます。
フラウエン教会の前にでました。11世紀に創建され、18世紀に塔の高さが95mの大バロック様式の教会に建て替えられましたが、大戦で瓦礫と化し、そのまま放置されていたが、1994年から再建が始まり、全ての瓦礫に番号が付けられて整理され「世界最大のパズル」といわれた作業を経て元の場所に戻されました。
内部は、教会の名前に相応しく、祭壇も内装も美しく素晴らしいものでした。
再びレジデンツ城の城壁にでました。馬小屋の外側に得がれたアウグスト強健王の「君主の行列」と題される、マイセン焼のタイル25,000枚の長さ101mにもおよぶ壁画です。1200℃で焼かれたマイセン磁器なので、連合軍の空爆で城が炎上しても、この壁画だけは耐えたといいます。
行列最後尾には壁画作者のW.ヴァルター自身が描かれています。
最後に旧カトリック宮廷教会の正面入口前を通りました。この教会は、1755年に建てられ、ザクセン州最大の教会で鐘楼の高さは85mです。壁には諸聖人の彫像が飾られています。
これで、ドレスデン観光を終え、
プラハに戻り夕食です。
チキンがメインの食事でした。