« Previous | Next » (Home)     [カテゴリー:散策 ]

2011.09.22

紀伊国分寺跡・・・(散策)

 お彼岸で帰省しました。昨日に戻る積りが台風15号が浜松付近に上陸して飛行機は途中で引き返すこともあるとのことであり、新幹線も不通で帰れませんでした。もう一泊して、紀伊国分寺跡を見に行きました。初めてです。以前は国の史跡に指定(昭和3年:1928)されていても人の口先にも上ることはなかった史跡ですが、最近になり改めて整備されたものです。
 天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔により、造営が開始され、天平勝宝8年(756)に主要伽藍が完成したもので、南から南門・中門・金堂・講堂・軒廊・僧坊を置かれていた。塔は金堂の東前方に、鐘楼と経楼は金堂の東西後方に配置されていたとのこと。回廊は中門から塔を囲み、講堂につながっていて、東側は雑舎に当てられたものと推測されている。塔跡は一辺16.4メートルの瓦積み基壇上に三間塔婆の礎石が旧位置に残っている。
kokubunji_01.jpgkokubunji_02.jpg
 創建当時の境内は不明だが、講堂跡を中心に2町(約218m)四方が境内の名残を示しているとのこと。元慶3年(879)2月22日に火災で伽藍が全焼し、金堂と僧坊が再建されたが、その他は再建されなかった。その後、14世紀初めに本堂が講堂跡に再建された。また、根来寺の末寺になった。この根来寺の末寺になったことが災いして、天正13年(1585)の秀吉の紀州征伐で根来寺とともに焼き討ちされ、伽藍を再び焼失したが、元禄年間になって本堂が再建された。
 昭和3年(1928)2月7日、国の史跡に指定され、その後昭和48年(1973)から昭和50年(1970)の発掘調査により、寺域が二町四方と判明し、伽藍配置・規模が確認され、昭和60年(1985)国の史跡に追加指定された。
kokubunji_03.jpgkokubunji_04.jpg
なお、国分寺は、全国で約70寺建造され、今も史跡もしくは現存する寺院として残っている。

2011.06.16

建長寺・・・(散策)

明月院の次は建長寺です。五山第一臨済宗で始まる大きな寺名碑が立っています。
バスの駐車スペースも確保されていて、沢山の観光バスが止まっていました。
建長5年(1253)北条時頼が蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)を開山として創建した、わが国最初の禅の専門道場です。
総門をくぐると、最初に勇壮な山門があり、「建長興国禅寺」の扁額が掛かっています。
kencho_01.jpgkencho_02.jpg
山門をくぐると、白槙(ビャクシン)の巨木のある前庭を進み、仏殿があります。
仏殿の後ろには、法堂です。流石に、鎌倉五山の第一です。雄大で荘厳な建物です。
kencho_03.jpgkencho_04.jpg
法堂の後ろには、右に庫裏、左には唐門と通称される勅使門があり、その中には方丈があります。
重要文化財の唐門は修理が終わり、2週間ほど前の5月30日に落慶法要が営まれたばかしで、眩いばかりに輝いています。今回の修理は、一年半近くを要し、ほぼ建立時の唐門を再現出来たとのことです。
この、唐門は、寛永5年(1628)に徳川秀忠の夫人「お江(ごう)」の霊屋(みたまや=現建長寺仏殿)の門として東京の増上寺に建立の後、1647年に仏殿とともに建長寺に移築されたものです。関東大震災の被害を受け、一度解体修理が行われて以来80余年、傷みが進み今回の修理となったものです。奇しくも今年の大河ドラマのヒロインが「お江」です。
kencho_05.jpgkencho_06.jpg
唐門の右の通用門から、龍王殿(方丈)に入ります。方丈から見た唐門の後ろ側も輝いています。
なお、龍王殿は京都・般舟三昧院(はんしゅうざんまいいん)より昭和15年に移築されたもので、建物は享保17年(1732)の建立とのことです。
kencho_07.jpgkencho_08.jpg
龍王殿の裏に回ってゆくと、蘸碧(さんぺき)池を中心とする庭園があります。開山大覚禅師(蘭渓道隆)の作で、創建当時よりあったとのことです。亀が一匹泳いでいるのが見えました。
kencho_09.jpg
帰りに、もう一度白槙の巨木を撮りました。もっとも大きな白槙です。開山の蘭渓道隆(らんけいどうりゅう)が中国から持ち帰った種子を、建長寺創建の際に蒔いたといわれ、神奈川の名木100選に選定されています。紫陽花も綺麗です。
kencho_10.jpgkencho_11.jpg

kencho_12.jpg最後に、国宝に指定されていて、関東一美しい梵鐘として知られ、音色が人の泣き声に似ているということから「夜泣き鐘」とも呼ばれている鐘楼を撮りました。
建長寺の梵鐘は、建長7年(1255)、関東の鋳物師の筆頭であった物部重光によって鋳造されたもので、総高208.8センチメートル、口径124.3センチメートル。平安時代の作風を踏襲していて、建長寺創建当時の貴重な遺品です。円覚寺の梵鐘とともに、昭和28年(1953)11月14日、国宝に指定されました。

明月院・・・(散策)

円覚寺の次に明月院を訪れました。
明月院はもともと北条時宗が建てた禅興寺の塔頭であったが、江戸期に禅興寺の方が従属する形になり、その後明治に至り禅興寺は廃寺となり、明月院が残ったそうです。
入り口を入って左に進むと、北条時頼のお廟があり、さらに左に進むと墓所もある。
meigetsu_02.jpgmeigetsu_03.jpg
本堂に続く道の紫陽花は、まだちらほらの段階です。でも最盛期は、人で埋まって、とても歩けなくなります。
meigetsu_01.jpgmeigetsu_04.jpg
紫陽花の回廊を進んで行くと、方丈の建物があり、その前には枯山水の庭園です。須弥山(しゅみせん)をかたどっています。
meigetsu_05.jpgmeigetsu_06.jpg
さらに奥に進むと、藁葺き屋根の開山堂があります。当初、宗猷堂(そうゆうどう)と呼ばれていたお堂で、歴代住持の位牌が祀られているとのことです。
また、さらに奥には、やぐら(羅漢洞)と呼ばれる洞窟墳墓があります。間口7m、奥行6m、高さ3mとのことです。
meigetsu_07.jpgmeigetsu_08.jpg

円覚寺(鎌倉)・・・(散策)

久しぶりに鎌倉に行きました。紫陽花も咲き始めるころです。最盛期になると、混み合うので、少し早いが行く気になりました。まず、最初は北鎌倉で降りて円覚寺です。
弘安5年(1282)、鎌倉時代後半、17歳で執権についた北条時宗が中国より無学祖元禅師を招いて創建した臨済宗のお寺です。
新しい、北条時宗公御廟所の大きな石碑が目に付きます。最近建てたのですね。以前はなかったですよ。
石段を上って、入り口で入場料300円を払います。大きな山門が見えています。
enkaku_01.jpgenkaku_02.jpg
山門を見上げると、上の方の扉が開いていました。お掃除中とのことでした。
正面に仏殿が見えます。なお、円覚寺には法堂(はっとう)はありません。
enkaku_03.jpgenkaku_04.jpg
本堂の左方向にある松嶺院(しょうれいいん)に向かいました。「山野草の花の寺」の張り紙が見えたので、お花を見せてもらおうと思ったからです。今は季節ではありませんが、牡丹も沢山植えられていました。
enkaku_05.jpg

enkaku_06.jpgenkaku_07.jpg
松嶺院の裏は墓地になっていて、オームに一家を皆殺しにされた坂本弁護士や田中絹代、開高 健などの有名人の墓があります。建屋の横を細い階段を続いていますが、墓地は撮影禁止です。
ぐるっと廻って降りてくると、ツグミの巣がありました。お寺の方が教えてくれました。小さくて可愛い巣です。直径は10Cmもなくて、7Cmぐらいでしょうか。
enkaku_08.jpgenkaku_09.jpg

enkaku_10.jpgenkaku_11.jpg
奥に進むと勅使門があります。門の中には方丈が建っています。門の横から入ると、方丈の前庭に百観音があります。なお、方丈とは禅宗において、1丈(約3メートル)四方の部屋の意味でしたが、転じて住職の居室のある建家の事をいうようになったものです。
enkaku_12.jpgenkaku_13.jpg

2010.10.08

金沢鎌倉道・・・(散策)

金沢鎌倉道は、正式には金沢道で保土ヶ谷の金沢横町から金沢の六浦陣屋(現金沢八景駅)へ到る道の名称です。金沢からは朝比奈切通しを経て鎌倉へ通じるため、金沢鎌倉道とも呼ばれました。
平安時代以前の東海道は、鎌倉から金沢・六浦を経て三浦半島から房総半島へ渡っていたのですが、鎌倉時代に入って鎌倉街道が整備され、鎌倉から房総半島へ到る道は下道と呼ばるようになり、その途中の金沢から北上し程ヶ谷へ到る金沢道が開かたのです。
前置きが、長くなりました。今日は、保土ヶ谷から金沢道を歩いて、とりあえず井土ヶ谷まで行ってみることにしました。
まず、保土ヶ谷駅から旧東海道の通りであった商店街を通って金沢横町に向かって歩きます。途中には、江戸期の問屋場跡の説明板が立っていました。

kama_01.jpgkama_02.jpg

金沢道と旧東海道の交わるところが金沢横町で、4つの石碑が建っています。
石碑に刻まれている文字について、詳しい説明板が掲げられていました。

kama_03.jpgkama_03a.jpg

石碑の見ながら左折して、JRの踏み切りを渡り、さらに国道を渡ると金沢鎌倉道の案内板が立っていました。進むと、大変な急坂を少し上ると、左に臨済宗の福聚寺があります。開創は古先印元禅師で吉野時代(後醍醐天皇、足利尊氏)とのことです。また、十辺舎一九の弟子の五辺舎半九の墓石があります。

kama_04.jpgkama_05.jpg

それにしても、急な坂道です。50mほども進むと、やはり左側に急な階段があり、上ると御所台地蔵尊があります。詳細は不明ですが、名称からして鎌倉時代に作られたものでしょう。周りには、沢山の石仏、石塔がありました。

kama_06.jpgkama_07.jpg
kama_08.jpgkama_09.jpg

kama_10.jpg
そして、道の左側には「御所台の井戸(政子の井戸)」がありました。この井戸の水を北条政子が化粧に使ったと伝えられています。江戸時代以降でも、天皇や将軍が保土ケ谷宿の軽部本陣に立ち寄ったときには、この井戸の水が料理に使われたそうです。
昭和の初めごろまで、このあたりには清水が流れていたそうで、「尼将軍 政子の井戸はあふれいて 朝(あした)涼しく 蟹あそぶなり」という歌も残っているそうです。

kama_11.jpgkama_12.jpg

急坂を息を切らしながら上り詰めると、右側に横浜清風高校があり、ようやく道は平坦になります。高校を通り過ぎると信号があり、その角に北向地蔵があります。この地蔵は鎌倉時代の建立でなく、僧三誉伝入が享保2年(1717)に、天下泰平・国土安全を祈念するとともに、旅人の道中安全を祈願して建立したものです。四角柱にお地蔵様が乗かっていて、角柱には「是より左の方かなさわ道」「是より右の方くめう寺道」と刻まれ、金沢方面と弘明寺方面への道案内も兼ねています。
ここから進んで行くと、自動車専用道路(神奈川3号狩場線)を跨いで急な下り坂となり、大通りに出て右折して井土ヶ谷駅の方に向かいました。その後、井土ヶ谷駅でバスに乗り保土ヶ谷東口前に戻りました。

« Previous | Next »