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2012.07.09

大仏から極楽寺・・・(散策)

高徳寺の大仏を後にして、江ノ電長谷駅方向に進み、長谷観音前の交差点を過ぎ、次の通りを右折して進みます。これが御霊小路で、突き当たって南に曲がると直ぐに「鎌倉権五郎神社」の石碑が立っています。ここで右折して西に進むと「御霊神社(ごりょうじんじゃ)」があります。鎌倉権五郎神社とは、御霊神社の別称です。
鎌倉は、鎌倉幕府が置かれる以前に鎌倉党と呼ばれる板東平氏の一族が統治していたようですが、この御霊神社では、元は大庭・長尾・梶原・村岡・鎌倉のこれら五家の祖を祀る五霊神社であったそうです。それが御霊神社となり武勇で名高い領主の鎌倉権五郎景政(正)を祀る神社となったと伝えられています。

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境内には、袂石(たもといし)16貫(60Kg)、手玉石28貫(105Kg)と書かれた、丸い石が2つあり、説明板には、御祭神景正公が手玉に取り、袂に入れた石で、公の人知を超えた零才を示すと書かれていました。
また、鎌倉権五郎景政公が領地を見まわる時に弓を立てかけたという「弓立の松」もありました。

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御霊神社の鳥居の前は、江ノ電の踏切です。鎌倉らしい光景です。

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御霊神社から踏切を渡って南に進み、広い通りに出て右折すると「星月の井」と称する井戸があります。鎌倉十井の一つで「星の井」「星月夜の井」などとも呼ばれています。昔はこの井戸の中に昼間も星の影が見えたことから、この名がついたといわれています。あるときに水を汲みにきた女性が、謝って包丁を井戸に落としてしまい、包丁は星影を切ってしまったために以後見ることができなくなったと伝えられています。奈良時代の名僧・行基は井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩の化身と思い、お堂を建てて虚空蔵菩薩をまつったという伝説もあるそうです。また、井戸の水は清らかで美味だったので昭和初期まで旅人に売られていたそうです。
「星月の井」を過ぎると直ぐに石段があり、石段を上ると虚空蔵堂があります。井戸から出てきた光り輝く石を虚空蔵菩薩として安置したお堂です。虚空蔵菩薩を信仰すると頭脳は明晰になり記憶力は増進するといわれ、限りない知恵をそなえた仏様であるとのことです。この菩薩様は秘仏で35年に一度しか開帳されなかったが、現在では毎年正月13日に開帳され拝むことができるとのことです。

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虚空蔵菩薩を過ぎると、道は上り坂となりますが、左側に「成就院」への階段が続いています。車の走る道路は掘り下げられた切通しとなっていますが、「成就院」に至る急坂が、かつての極楽寺坂です。上って行くと材木座海岸が美しく広がって見えます。このお寺は明月院と並んで紫陽花で有名ですが、もう花も終り、紫陽花の木が刈り込まれていました。

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成就院を過ぎて広い道路に合流すると、道は右にカーブして朱塗りの「桜橋」を渡ります。この橋は陸橋で、下を江ノ電が走っています。

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桜橋を渡ると右側に「導地蔵堂」があります。「極楽寺地蔵」とも呼ばれているこの地蔵堂は、文永4年(1267)、極楽寺の忍性が運慶作の地蔵像を安置したのがそのはじまりといわれています。兵火によって当時の地蔵像は焼けてしまいましたが、現在の地蔵像は室町時代の作と伝えられています。子育てに霊験あらたかなことから「導き地蔵」とも呼ばれてきました。
地蔵堂の前を進んで行くと稲村ヶ崎小学校があり、小学校から民家の中の道を更に進むと、突然左手に月影地蔵堂が現れます。小さなお堂ですが、お堂前には石仏が並び実に簡素なたたずまいを見せています。

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導地蔵堂まで引き返し、右折すると「極楽寺」山門です。静溢な佇まいのお寺でした。

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暑い日でした。極楽寺駅から鎌倉駅に行きカフェで少し休憩を取り、JR横須賀線で帰宅しました。
歩くには暑すぎる季節になってきました。

大仏切通し・・・(散策)

今日(2012/7/9)の万歩計11,311(7.4Km)
昨日の小雨も上がり、今日は快晴です。先日の名越の切通しに続き、大仏切通しを歩いてみようと出かけました。鎌倉駅から藤沢駅行きのバスにのり、火の見下バス停で降ります。大仏前から2駅目です。
大仏切通への入り口は、小さな案内標識すら設置されていません。バス停の直ぐ横の細い路地を入って行きます(黄色い矢印)。クランク型に曲がって進むと直ぐに大仏切通しです。

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鎌倉市教育委員会名で「立入禁止」の横棒が設置されていました。ここまで来て引き返す気にもなれず、乗り越えて進みました。

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国指定史跡・大仏切通の説明板がありました。
大仏切通はいわゆる鎌倉七口の一つに数えられ、梶原、山崎を経て武蔵・京都方面へ通じる道路です。記録がないため正確な開削時期は不明ですが、北側にある北条氏常盤亭の存在や、朝夷奈切通や巨福呂坂の整備時期との関係から、仁治2年(1241)から建長2年(1250)ごろに整備されたと考えられています。
 元弘3年(1333)の新田義貞の鎌倉攻めでは、上野国(現在の群馬県)から南下した軍勢が州崎(現在の深沢・山崎)方面から攻め寄せ、激戦となったことが「太平記」に見えていることから、この地も戦場になった可能性があります。
 大仏切通は、江戸時代に経路が変更され、現在の県道鎌倉藤沢線ができたため大規模な破壊を免れ、付近に造られた平場やここに開口する「やぐら」と呼ばれる岩窟、切岸などと共に、かっての鎌倉の幹線道路のあり方を、今によく伝えています。

左側には、「やぐら群」がありましたが、「やぐら」とは、岩壁などをくり抜いてできた横穴洞穴に死者を埋葬し五輪塔などを置く墳墓とのことです。

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置き石がありました。敵が攻め寄せるのを難しくするためとも言われていますが、本当のところは不明です。
そして、その先には倒木が切って積み重ねられており、乗り越えるのに難儀しました。教育委員会の「立入禁止」が理解できましたが、通れる程度に片付けるのはそれほど難しくないと思われるので、早急に対処して欲しいものです。

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倒木を積み重ねた箇所がもう一箇所ありました。その後は、特に困難な場所もなく路が続いていました。

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また、「立入禁止」のバーが現れました。左から合流する路があるので、ここから切通し入り口までが通行禁止のようです。しかし、それでは大仏切通の70%が閉鎖となってしまいます。教育委員会の責任逃れのような気がします。管理責任を果たしていないのではないでしょうか。ともかく、国指定史跡なのですから。その脇には、木の道標が立っていました。

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樹林の中の路を進むと、「国指定史跡・大仏切通」の表示柱が立っていました。

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表示柱からわずか150mでもう終わりです。新大仏トンネル横の階段を降りて、自動車道路に合流します。
大仏切通は、全長でも700m程度でした。途中で誰にも会う事はなく、国指定とは言っても入り口には道標もなく、ほとんど放置されているのではと思えました。

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大仏切通しを通ったからには、大仏さまの尊顔を拝見しないわけには参りません。
何時も観光客で賑わっています。

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2012.07.05

名越切通し・・・(散策)

急に思い立って、鎌倉駅から名越切通しを通って逗子駅まで歩いてみる事にしました。
鎌倉駅に着いたのが10時50分頃で、東口に出て若宮大路を南に向かい、横須賀線のガードの手前で若宮大路から左に別れて線路沿いに進み、県道鎌倉葉山線にぶつかって左折して進みます。

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進行方向右手にひときわ目に付く上行寺(じょうぎょうじ)があります。日蓮上人の孫弟子にあたる「日範上人」が1313年に開山しました。
「瘡守稲荷(かさもりいなり)」と、「千手観音像」そして「身がわり鬼子母神」が祀られ、癌封じ寺として有名とのことです。このお寺を過ぎると、道は南東方向に曲がり、前方に名越踏切が見えてきます。

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踏切を渡って直ぐに左折して進みますが、この道が名越切通しを越えて三浦に向かう、かつての古道です。
進むと右手に石囲いがあり、石碑と井戸が現れます。日蓮乞水(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つにもなっています。『新編鎌倉誌』に「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。日蓮、安房国より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に湧出けると也。水斗升に過ざれども、大旱にも涸ずと云ふ。甚令水也。」とあります。碑文に建長5年(1253)とあり、当時この前の道が街道であったことを物語っています。

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日蓮乞水を過ぎると直ぐに名越坂踏切があり、踏切を渡って右折します。道標も立っています。

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道なりに進むと、Y字路となり右の急坂を上って行きます。右に細い道が分かれているので、この右方向の道を進みます。直ぐ下にはJR横須賀線が走っています。

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右下に横須賀線のトンネルの入り口が見えると、いよいよ名越切通しへの上り道です。

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石段の道を上って行くと立派な道標が立っていて、この道で良いのかと多少不安を感じながら上ってきたのが、消し飛びます。

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道標を過ぎてもしばらくは石段の道が続きますが、切通しの頂上付近になって堀割道になります。この堀割道が本当の鎌倉の道で、石段の道は近年になり崩れ防止のために手を加えたものと思われます。

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堀割道の真中に大きな置き石がありました。置き石は敵の侵入を妨害するためとの説があるそうですが、それほど有効とも思えず、結局よく分かりません。
終に、切通しの峠に着きました。思ったより短い距離でした。そのまま進めば名越切通しを簡単に通り過ぎてしまうので、左折して法性寺(ほうしょうじ)に向かいます。

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法性寺は日蓮の弟子・日朗が開山したと伝える鎌倉時代の古刹です。
法性寺の墓地が見えてくると、左に石を切り出した跡と思える岸壁があり、その先には洞窟がありました。大勢の白人の子供が活発に動いていたので聞くと、米国ペンシルバニアから2週間の予定で日本を訪れている30人の中学生でした。

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墓地から少し進むと、法性寺の奥の院と祖師堂が建っていました。左の白い鳥居は山王権現社で石段を上ると石祠と石塔があるそうです。

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法性寺の奥の院を見て引き返し、尾根道に戻ったところで右折して展望台の方に向かいました。途中に石廟が2つ建っていました。石廟とは死者を埋葬した地に建てた石造墳墓堂で、珍しい形をしています。

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パノラマ展望台からは、逗子の市街がよく見えます。切通しを過ぎて逗子駅に向かう県道もよく見えています。

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切通しの道に戻り進みます。国指定史跡・名越切通の立派な案内板も立っていて、日本語以外にも、英語、中国語、ハングルで説明が書かれていました。
名越切通は、鎌倉から相模湾沿いに三浦半島を結ぶ交通路で、『吾妻鏡』天福元年(1233)8月18日条に「名越坂」として初めて登場し、明治時代になって直下を通る現在の横須賀線や県道のトンネルが開通するまで、長い間幹線道路として使い続けられた重要な道です。
 急峻な尾根を掘り割って造られた切通は、時代が下るにつれて通行しやすいように改修したり、地震等で崩れては復旧を繰り返しているため、鎌倉時代の姿そのものではありません。
しかし、その周辺には、横穴式の供養施設であるやぐらが約150基も集中する「まんだら堂やぐら群」や、死者を荼毘に付した跡など、中世の葬送に関する遺構が数多く分布するほか、
切通の防衛にも関係すると考えられる人工的な平場や大規模な石切場跡(大切岸:おおきりぎし)が尾根筋に見られるなど、古都鎌倉の周縁の歴史景観をたいへん良く残しています。

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名越切通しの逗子に近い方は、勾配が緩やかなためか石段にはなっていません。そして、これぞ鎌倉の切通しと写真で良くお目にかかる場所にさしかかりました。進行方向に向かって見ると、右側から岩がせり出して隘路となっています。

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通りすぎて振り返ると、左から「国指定史跡名越切通整備基礎調査」で崩落の危険があると指摘されている大きな岩が見えます。だいぶ亀裂も広がっているようで心配です。

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大きな岩を通り過ぎると、亀ケ岡団地の住宅が見えてきました。坂道を下って県道に出て逗子駅に向かい、駅前のスタバで休憩して帰宅しました。

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2011.10.25

江戸城・・・(散策)

江戸城と言っても今は皇居ですが、二重橋の前には修学旅行以来何度か訪れたましたが、もう50年近く何時でも行ける場所に住んでいながら、恥ずかしながら大手門から中に入ったことはありませんでした。皇居として用いられているところは、申請なしでは入れないですが、すでに開放されて、北の丸公園となっているところは当然として、本丸、二の丸等があった江戸城の中心付近も開放されています。それで、今日は遅ればせながら行ってみることにしました。
江戸城は、慶応4年4月4日(1868:明治元年)に明治新政府に明け渡され、明治2年より皇居として使用されていますが、現在は主に元の西の丸の領域のみの使用となっています。
東京駅の丸の内口から出て、真っ直ぐ進んで和田倉門にぶつかり右折して大手門の方に歩いて行きました。3.11の地震の影響で白壁が一部剥がれ落ちています。お堀では、1羽の白鳥が優雅に泳いでいました。
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大手門は枡形門で、一の門を入ると直角に曲がって二の門があります。敵が一の門を破って入ってきても正面と横から弓矢、鉄砲で攻撃でき、二の門を破るのは容易でない備えであったのでしょう。その一の門と二の門の間に旧大手門渡櫓の鯱(しゃち)が置いてありました。  昭和20年(1945)4月の戦災で消失した旧大手門渡櫓の屋根に飾られていた鯱です。頭部に、明暦三丁酉と刻まれています。明暦の大火(1657)で消失した後、再建時に製作されたものです。右の写真は、二の門を通った中から撮影したものですが、渡櫓は昭和43年(1968)に再建されたものです。
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大手門の二の門を潜ると、右手に尚蔵館(しょうぞうかん)が建っています。尚蔵館は皇室に代々受け継がれた絵画、書、工芸品等が平成元年、国に寄贈されたのを機に、保存、管理、調査、研究を行う施設として、また一般に展示公開することを目的に建てられたものです。無料で見学できます。
先に進むと、江戸時代の同心番所が残されています。ここには同心が詰めていて、主に登城する大名の供の者の監視に当たっていました。
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同心番所の先には、三の門の石垣が残っていて、その先に百人番所がありました。鉄砲百人組と呼ばれた甲賀組、伊賀組、根来組、二十五騎組の4組が昼夜交代でここに詰めていて、各組には同心が100人ずつ配属されていました。本丸につながる中の門を前にしての警護です。右の写真は、中門の石垣です。
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中の門を入ると、大番所があります。他の番所より位の高い与力、同心によって警備されていました。その前は、美しく整備された小広場の感じです。
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両側を石垣に囲まれた緩やかな坂道を上って行くと、広く開けた芝生で覆われた本丸跡があります。本丸は本丸表と中奥、大奥に分かれていて、手前から順に本丸表、中奥、大奥になっていました。本丸表は儀式、政務の場で、役人の詰所や政務を執る部屋、そして諸大名の詰めの間などがありました。中奥は将軍の公邸にあたり、ここで日常の起居や政務を見ていました。大奥は将軍の私邸で、御台所(正室)を中心に、将軍の子女やその世話をする女中達が生活していました。なお、将軍世嗣や大御所の居住場所は、西の丸でした。今の皇居はこの西の丸にあり、参観には申請が必要です。
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広場を左のほうに進むと、富士見櫓があります。江戸城で唯一の三重櫓です。明暦の大火(1657)で、消失した天守閣の代用としても使われたました。かつて、江戸城には19の櫓がありましたが、現在はこの富士見櫓を含め3つしか残っておりません。この富士見櫓の先が、西の丸(現皇居)で、今は当然、この先は公開されておりません。 元の本丸跡に戻り、本丸の左側を進んで行くと、赤穂浪士の討ち入りにつながったことで知られる、松の大廊下跡があります。浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)の吉良上野介義央(きらこうずのすけよしなが)への刃傷事件(元禄14年:1701)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来で江戸城で2番目に長い廊下だったそうです。 
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本丸跡に午砲台跡の石碑がありました。明治4年よりここで、陸軍近衛師団が空砲による報時を開始したところです。この空砲の音は「ドン」と呼ばれ親しまれていて、今でも半ドンと言う言葉が残っています。正午の大砲の「ドン」という音より、一日の半分が休みなので「半ドン」と呼ばれるようになったのです。

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edojyo_17.jpg石室がありました。抜け穴とか金蔵とかの説もあったそうですが、大奥御納戸の脇と言う位置から、非常の際の大奥用の調度などを納めていたところと考えられています。伊豆石で作られた堅牢なものです。

本丸跡の北側には天守台があります。かつての天守閣跡です。ここは本丸最奥部で、本丸台地の最高部(標高25m)で、慶長11年(1606)に天守台が造られ、翌年に五層の天守閣が完成しました。しかし、明暦3年(1657)の大火でこの天守閣も消失してしまいました。その後は、徳川家光の異母弟の保科正之(初代会津藩主)が天守は無駄である、と再建反対を唱えそのままとなっています。それにしても、振袖火事とも呼ばれる明暦の火事では、通説では死者10万7千人といいますから、もしそうなら、関東大地震を凌ぐほどになります。
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天守台からは、本丸跡の広い台地がよく見えます。東の方を見ると、桃華(とうか)楽堂があります。香淳皇后の還暦を記念して建てられたもので、昭和41年に完成したものです。
八角形の建物で、屋根はテッセンの花弁を模っています。八つある壁面は大きく羽ばたく鳥を中心に、日、月、星や松竹梅、楽の音等をイメージした図柄が陶片で描かれています。桃華楽堂の呼び名は、香淳皇后のお印である「桃」に因んで命名されたとのことです。
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天守台の北側に回ると北桔橋(きたはねばし)門があります。本来は、枡形門形式であったのですが、現在は一の門の高麗門だけが復元されています。ここは本丸の搦手にあたり、北ノ丸のある田安台地とをつなぐ橋で、有事には橋を跳ね上げて敵を遮断できる構造になっていました。門を出ると、水をたたえたお堀が残っています。重機もない時代に、よく造ったものだと思います。
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北桔橋門から引き返し、今度は二の丸跡の方に進みます。本丸から二の丸に向かう坂道を梅林坂と呼んでいます。文明10年(1478)、太田道潅が天神社を祀り、数百株の梅を植えたので梅林坂と名が付いたといわれています。現在は、約50本の紅白の梅が植えられています。
梅林坂を下ると、諏訪の茶屋があります。江戸時代は吹上御苑にありましたが、明治45年に再建されたもので、明治期の茶屋風の建物として優雅な外観を持っているため、皇居東御苑の整備にあたりここに移されました。この先には、全国「都道府県の木」が植えられていました。
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二の丸には、小堀遠州が造った庭園がありましたが、明治以降は荒廃していました。現在の二の丸庭園は、昭和43年(1968)に、家光による再建当時の「二之丸御絵図」を参考にして、築山泉水式の回遊庭園が復元されたものです。二の丸池には、コウホネ、ヒメコウホネ、ヒツジグサ、アサザの4種類の水性植物が植えられています。
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84種もの菖蒲を植えた、菖蒲園もありました。皇居正門の石橋旧飾電燈もありました。
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後は、入門した大手門から退出して帰りました。

2011.10.17

三渓園・・・(散策)

久しぶりに三渓園に行って見ました。何十年かぶりです。
入場券の販売は、自動販売機です。お寺は、まだ自動の入場券販売機はみかけませんね。雰囲気が壊れると思っているのでしょうか。
三渓を造ったのは、原 三渓ですが、原 三溪(本名富太郎)【慶応4年(1868)-昭和14年(1939)】は、岐阜県厚見群佐波村(現在の岐阜県柳津町)で庄屋の青木家の長男として生まれ、幼少の頃から絵、漢学、詩文を学び、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学、政治・法律を学び、明治21年(1888)に跡見女学校の助教授になり、その後、教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍します。長男を入婿に出した青木家はどうなったのかわかりませんが、原家の家業を継ぐと、経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として大成功を収めました。実業家以外にも様々な面を持ちあわせた三溪は、住まいを本牧・三之谷へ移すと古建築の移築を開始し、明治39年(1906)三溪園を無料にて開園するほか、近代日本画家の支援・育成を行ったといいます。
三渓園で、まず最初に目に飛び込んでくるのは、大きな池です。この池を中心に色々な建家が集められていると言えます。大勢の方が、池の周りの思い思いの場所で写生をしています。
順路に従い歩いてゆくと、最初に鶴翔閣(旧原家住宅)横浜市指定有形文化財があります。明治35年(1902))三溪が建て、三溪園造成の足がかりになった家屋で、上空から見た形があたかも鶴が飛翔している姿を思わせることから、”鶴翔閣”と名づけられました。 現在は、フォーマルな宴会の会場などとして貸出を行なっています。
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手入れの行き届いた順路を進むと、三重の塔が目に入ってきます。この三重の塔は、今は廃寺となった京都の燈明寺から大正3年(1914)に移築されとのことです。
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大池の小島にある涵花亭とそこに渡る観心橋が見えます。観心橋では、結婚式場のパンフレットに使うためか、和装の2人の写真を撮影していました。
内苑に入る御門をくぐると、大正9年(1920)建築され、三渓が家族と暮らした鶴翔閣から離れ、亡くなるまでのおよそ20年を夫人と過ごした隠居所の白雲邸があります。ここも横浜市指定有形文化財で、貸出施設となっています。
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次にあるのは、三渓園でも最も重要な家屋の臨春閣です。紀州初代藩主徳川頼宣が慶安2年(1649)に、夏の別荘巖出御殿(いわでごてん)として和歌山県岩出市の紀の川沿いに建築したものと言われています。8大将軍吉宗は、子供の頃、祖父のこの別荘で川に張り出した座敷から川に飛び込み遊んだそうです。数寄屋風書院造りで、桂離宮と我が国別荘史上の双璧とされ、重要文化財指定です。三渓園には大正6年(1917)に移築されました。
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建屋内部も庭からですが見学できます。亭樹と名付けられた、途中に屋根付きの休憩所のある、小さな橋を渡って、臨春閣を横に見ながら進みます。
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一番奥まで進むと、建長寺の近くにあった心平寺の地蔵堂の天授院があります。大正5年(1916)に移築され、三溪園では原家の持仏堂とされていました。慶安4年(1651)建築で、重要文化財です。
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天授院の横には、月華殿があります。徳川家康により、京都伏見城内に建てられたものといわれています。 大正7年(1918)に春草廬(茶室)と共に移築されました。三溪が建てた小さな茶室の金毛窟とつながっています。慶長8年(1603)の建築で重要文化財です。右の写真は、金毛窟です。
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内苑から出て、また大池のほとりに出ます。入り口とは、反対側です。鴨が泳いでいました。
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大池から少し西に入ると、横笛庵があります。建築年不明ですが、草庵風の茶亭で素朴ながら風趣のある建物です。 平安末期に横笛と呼ばれる、高倉天皇の中宮 建礼門院に仕え、平清盛の従者である斉藤時頼(滝口入道)と悲恋に終わった女性がおりましたが、横笛が、他の人々の恋が実ることを願って、時頼から寄せられた千束の恋文で作った己の像は、「縁結びの像」として知られており、建物内に横笛の像が安置されていたことから横笛庵と称されています。横笛の像は、戦争の際に失われたのは、まことに残念です。2人の悲恋話については、高山樗牛による”滝口入道”という小説が有名とのことですが、まだ読んだことはありません。
横笛庵の先には、鎌倉の東慶寺にあった旧東慶寺仏殿があります。明治40年(1907)に移築された禅宗様の特色を色濃く残す建物です。
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更に奥に進むと、旧矢箆原(やのはら)家住宅があります。岐阜県大野郡荘川村岩瀬(白川郷)にありましたが、ダム建設により三溪園に寄贈されることになり、昭和35年(1960)に移築されました。 大きな茅葺屋根が印象的な合掌(がっしょう)造という屋根に特徴がある構造の民家です。1750年頃宝暦年間の建築で、重要文化財となっています。
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時期的には、萩の花がほぼ終わり、紅葉には早い時期で撮影には恵まれていたとは、言えない時期でした。是非、紅葉の最盛期に再訪したいと思いました。

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