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2010.11.09

トルコとエジプトの旅(3日目:10/31)・・・(旅行)

三日目は、ダーダネルス海峡をフェリーで渡って、トロイ遺跡を見学し、アイワクルで宿泊です。全部で500Kmもの移動です。
まだ、体は日本時間とみえて、6時のモーニングコール前に目が覚めます。6時15分には、スーツケースを扉の前に出し、ホテルレストランで朝食です。食事を終わっても、時間に余裕があるので、ホテルの正面玄関をはじめ、周囲の写真を撮りました。入り口脇には、昨日の結婚式の花輪が立てかけられて残っています。雲ひとつなく晴れ渡っています。

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マルマラ海を左に見ながら2時間走り、道路沿いにあるレストランで停止してトイレ休憩です。

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観光用のバスは、ベンツ製の同じタイプのものばかりが走っています。
ここで、お店の右側にあるトイレで、50クルシュ払って入ります。チップでなく使用料なので1リラ払ったらお釣りをくれます。水洗ですが、典型的なトルコスタイルのトイレでした。

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休憩ポイントを過ぎると、マルマラ海はダーダネルス海峡になり、2時間ほど走って11時30分に、フェリーの出るGelibolu(ゲリボル)と言う港町に着きました。ここのレストランで昼食ですが、焼きさばにポテトと春巻きのような揚げ物がついたものでした。飛行機の食事で確保しておいた、小さな容器に入った醤油が役に立ちます。小さい容器ながら、周りの人にも醤油を分けました。

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レストランを中にして、フェリーの停泊岸壁の反対側は、小型船舶のハーバーになっていました。エンジン付の小型船で、ヨットは無いようです。

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食事の後、休憩して12時20分にフェリーに乗ります。バスは先に乗っています。隣り合う桟橋にも別のフェリーが泊まっています。我々はLapseki(ラプセキ)に渡りますが、どこか違う港に向かうのでしょうか。

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いよいよ出向して、街が遠ざかって行きます。

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ダーダネルス海峡を行く動画もどうぞ

デッキを上に上がって行くと、操舵室(出港前に撮影したもの)があります。
40分ほど走ると、Lapseki(ラプセキ)が見えて来て、バスに乗り込みます。

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LapsekiからCanakkale(カナッカレ)を通り、1時間弱でトロイの遺跡に着きます。ドイツ人のシュリーマンが子供の頃より、ホメロスの書いたイリアスに登場するトロイの発見を夢見て、終に発見し、西洋社会を驚かせて有名になったトロイです。世界遺産でもあり、今回のトルコ旅行で期待を高めていた人の多い遺跡です。
古い石垣を巡って進むと、見晴らしの良い場所に出ます。

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現在では、海岸線は堆積により5Kmほど遠ざかっていますが、昔は直ぐ前が海であったとのことです。

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トロイはヒッタイト以前のBC3000からAD400のローマの支配の時代まで、栄えては滅びるという歴史を繰り返し、トロイは全部で9層にわたる都市遺跡を形成しています。すなわち、新しい王朝が進出して来たとき、旧来の遺跡を壊して新しく造るのではなく、遺跡の上に堆積された土の上に、手っ取り早く新しい都市を造ったのです。この構造が見える場所がありました。(下の左の写真)

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さらに進むと、古代に動物を生贄にして神を祀った場所があり、丸い井戸のように見えるところに、動物の血が溜まったことが分かっているとのことです。
これで、遺跡は終わり後は、トロイの木馬の余興です。

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ガイドのケレム氏によれば、シュリーマンはトルコ人から見れば、泥棒のようなもので、考古学者でもないのに、9層に重なった遺跡を宝物欲しさに、時代の積み重なりなど無視して、無茶苦茶に堀りまくり、遺跡を取り返しがつかないまでに破壊し、見つかった宝はドイツに持ち帰りました。第二次世界大戦後は、ロシアがドイツより持ち出しロシアの博物館が所蔵しています。現在では、トルコ人だけでなく、考古学者もシュリーマンを遺跡の発掘者でなく、遺跡の破壊者と見なしているとのことです。それでも、まだまだ西洋社会ではトロイはシュリーマンの功績との考えが根強く、遺跡としてもはや価値もさほどでないトロイを世界遺産に指定し、明日訪問するエフェスの遺跡の方がはるかに価値が上と思われるのに、世界遺産に認定されなていないと、憤っていました。

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トロイの遺跡を後にして、バスは今日の宿泊地のアイワルクに向かって走ります。
2時間ほど走って、TOROI Olive Houseと書かれたお土産品店でトイレ休憩です。

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その後、1時間弱で今日の宿泊のGrand Temizel Hotelにつきました。まだ5時です。
キーを貰い、部屋でシャワーを浴びて、7時から夕食になりました。

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トルコとエジプトの旅(2日目:10/30)・・・(旅行)

二日目は、エジプトを発って、イスタンブールに着き市内観光です。
体内時計は、まだ日本時間のためか、遅く寝たにもかかわらず、5時のモーニングコールの前に目が覚め、2日目の朝が明けました。5時30分から朝食は可能で、スーツケースは6時までに部屋の扉の前に出しておくようにとのこと。日本人はせっかちだから、大半の人は5時30分にスーツケースを出して朝食に向かいます。まだ早いので、レストランは閑散としていましたが、直ぐに我々のグループが入ってきました。外はまだ暗いです。食事を終えるころには、外も明るくなり、ホテルのプールなどもハッキリと見えてきました。
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朝早く目覚めて、7時の出発時間には余裕があり、ロビーで時間を過ごしたり、昨日は暗かったホテルの正面の写真を撮ったりしました。外国ではトイレ事情が日本と比べて悪いので、出発前にトイレも済ませます。
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予定通り、7時にバスは出発して10分ほどで空港に着きました。エジプトでは、空港に着いたら、入り口でセキュリティーチェックで、スーツケースも手荷物も上着もエックス線検査トンネルを潜らせます。その後、配られた出国カードを立ったままで、スーツケースの上などの不安定な状態で記入し、航空券を貰ってエジプト航空のカウンターでチェックインです。飛行機の出発の9時45分には、余裕があるので免税店の並ぶ辺りをうろうろしますが、人が非常に多く人気のショッピングモールの中を歩いている感じです。時間が経過して搭乗ゲートに進むと、何だか狭くて廊下の壁際にベンチを並べただけの感じで落ち着けません。そして再度セキュリティーチェックです。シャトルバスで延々と走ってようやく搭乗します。機種は忘れましたがAirbus A320だったような気がします。飛び立って、地中海に出て1時間ほどで食事が配られ、やがてトルコが見えてきて、2時間ほどのフライトでイスタンブールに到着しました。
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トルコの入国は、入国カードもなくパスポートにスタンプを押すだけで簡単に済みます。その後、スーツケースをピックアップすると、ポーターが待機していて、直ぐに台車で駐車場で待っているバスに運んでくれます。これから6日間乗るバスはベンツ製で、ガイドはケレムさんと言う人です。バスの横でサングラスをかけている人です。
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バスで旧市街に向かいますが、右側にはマルマラ海が見え、時々コンスタンティノープル時代の城壁が残っています。
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ブルーモスクと呼ばれている、スルタンアフメト・モスクとビザンティン帝国時代に建てられたキリスト教の大聖堂のアヤソフィアの間のスルタンアフメット公園前にバスが停まりました。流石に人通りが多いです。
ブル?モスクは、逆光で写真は暗くなってしまいましたが、アヤソフィアは綺麗に撮れました。
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ブルーモスクは、オスマン帝国の第14代スルタン・アフメト1世によって1609年から1616年の7年の歳月をかけて建造されました。世界で最も美しいモスクと評されていて、世界で唯一優美な6本のミナレットと直径27.5mの大ドームをもち、内部は数万枚の青い装飾タイルやステンドグラスで彩られています。
ゲートを潜り、優美な壁に囲まれた前庭に入り、高いミナレット(尖塔)を眺め、一旦 前庭から裏庭に出て改めて、ドームに入ります。入り口では靴を脱いでビニール袋に入れ、女性は肌の露出度によっては布で覆う必要があります。今回の旅行では、覆うように言われた女性は居ませんでした。
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ドーム内部は、評判に違わず美しく、見事な紋様の飾りで装飾されています。また、メッカ方向には、最も色鮮やかなステンドグラスがはめられていて、人々が直ぐにメッカ方向を認識できるようになっています。
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入り口と反対側にあるドームの出口から出て、前庭からも出ると、先ほどと角度が変わって木立の間にブルーモスクが綺麗に見えました。
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ブルーモスクを見終わった後は、トプカプ宮殿を見学するため数百メートルの道を歩いて行きます。まず、トプカプ宮殿の「帝王の門」と呼ばれる門を潜り、第一庭園の木立に挟まれた道を進みます。
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第二の門は、「表敬の門」と呼ばれています。門の天井も美しく装飾されています。
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「表敬の門」の内部の第二庭園を進んで行くと、途中には地下貯水槽跡がありました。
そして、「幸福の門」と呼ばれる第三の門を潜ります。装飾も益々凝ったものになります。
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「幸福の門」を潜ると、スルタンの謁見の間のある小振りだが、豪華な建物があります。
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もちろん、天井の装飾も豪華です。
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この謁見の間がある建物の周囲は第三庭園で、その庭園を取り囲むように宝物殿があります。宝物殿は、衣類、装飾品、聖遺物などの展示室に分かれています。装飾品の展示室には、有名なトプカプの短剣、スプンー屋のダイヤがあるはずでしたが、余りにも混雑していて、見逃しました。どこかに貸し出していたのかも知れません。
また、ヨハネのターバン、モーゼの杖などが、聖遺物の展示室にあり、厳かにコーランの祈りの声が聞こえていました。それにしても、出エジプト記に書かれているようにモーゼが振り上げて海を分けたその杖とは、とても思えません。なんだか新しい感じでした。
宝物館の見学を終え、幸福の門から出て左の方を見ると、屋根から煙突が突き出しているのが見えます。ここは厨房で、5,000人の食事を作っていたと言います。もちろん、優れた料理人も広く集められ、この宮廷料理故に、トルコ料理は世界3大料理と呼ばれるようになったとのことです。
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トプカプ宮殿を後にして、ブルーモスク近くまで引き返し、宮廷料理とは比べるべくも無いが、カジュアルなレストランで夕食です。
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シシケバブが皿に盛られ、大きなピーマン?とトマト、ポテト、ご飯がお皿に乗っかっています。それに、チーズとパンが盛られた皿が出てきました。
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食事を終え、暮れなずむブルーモスクを見ながら、バスに乗り込み今晩の泊まりの「Grand Cevahir(グランド ジェバヒル)」に向かいます。
5時30分(きょうの夜中まで夏時間で、その時刻に従えば、6時30分)にホテルに着きました。まだ早い時刻で、明日の朝のモーニングコールは冬時間の6時なので、今朝よりはだいぶ余裕があります。
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2010.11.08

トルコとエジプトの旅(1日目:10/29)・・・(旅行)

トルコとエジプトの旅に家内と2人で出かけます。
第一日目は、日本を発ってエジプトのホテルまでです。
トルコがメインでエジプト観光は、1日半ぐらいです。
10月29日、成田空港に11時10分集合なので、少し余裕を見て7時半にタクシーを呼び、YCATから8時40分発のリムジンバスに乗りました。
交通はスムーズに流れて、10時10分ぐらいに成田空港に着きました。まだ、集合時間に1時間もあるので、レストラン階に上がって軽く腹に入れ、うろうろしている内に集合時間が近づいて、人も集まってきました。
今回の旅行の参加者は、男性6人に対して女性23人とのこと。そして、熟年夫婦の参加が大多数と思っていたが、若い女性の参加が多いのも驚きでした。
エジプトのカイロまでの航空券を受け取り、各自チェックイン。エジプト航空は、始めて乗る航空会社です。
チェックインを終えて、円をドルに換え、セキュイティーを通りますが、ブーツを履いている女性は皆脱がされています。上着も男女の別なく脱がされます。私もカメラ2台と旅行用の小物を少し入れた持ち込みバッグを、全ての物を取り出して調べられました。本当に、塵(ちり)まで取り出す感じでした。APECが迫っているからか、これほど厳しいセキュリティチェックは初めてです。
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セキュリティチェックを過ぎると、出国審査ですが、これはスムーズに通過できました。
そして、シャトルに乗り、サテライトに向かいます。
免税店が並んでいる前を通り、搭乗口に向かいます。
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登場時間が来て乗り込みました。Boeing 777の機体です。前の座席の背に液晶ディスプレーがあり、映画を見たり、音楽を聴いたりできます。映画の字幕がアラビヤ語なのが、なんとも・・・。それにしても、エジプト航空のビジネスクラスの座席はジェラシイーを感じますね。
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13時10分発で、カイロまで13時間30分の予定ですが、動き出したのは13時40分ぐらいでした。そして、日本海上空に達したころ、飲み物と食事が配られました。確か、ビーフ、魚、チキンのチョイスだったと思うのですが、私はビーフ、家内は魚を選択しました。思ったより美味しかったです。エジプトでは、生野菜を食べると洗う水に雑菌がいるので下痢になると聞かされていましたが、この野菜は成田近郊の調整なので大丈夫でしょう。水は木曽のもので、”KISO”と蓋に書かれています。
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飛行経路と現在位置ならびに速度、外気温度などがスクリーン表示されていますが、前の座席の背のディスプレーにも表示できます。北京の北側を飛び、タシケント、カスピ海を横切り、カイロに向かいます。モンゴルを過ぎたあたりで、サケのおにぎりとどら焼きのおやつが出ました。
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トルコの南に達した頃、2回目の食事がでました。
今度はチョイスは無くて、海老と蟹を使ったおじやのようなものでしたが、これも美味しい。それに煮物、蕎麦がついてデザートには、果物を配してあります。そして、30分ぐらい遅れるのではと思っていたのですが、ほぼ定刻(20:30)にカイロ国際空港に到着しました。
カイロ空港は、撮影禁止とのことで写真は撮れません。知らなくて撮っているいる人もいるようで、あまりうるさくはないらしいのですが。
ともかく、飛行機から降りて、成田で買っておいたUSドルの一部をエジプトポンドに変え、添乗員さんに予め払って買っていただいた15ドルのビザをパスポートに貼る。そして、予め記入しておいた入国カードとともに差し出して入国審査を通ります。
入国審査は、何も質問されることも無く簡単ですが、ビザは形式的かも知れないが受入国が、入国を許可しても良いか身元審査をして発行するもので、お金のみで発行とは、何だかおかしい気がします。観光収入を相当に当てにする国としては、お金を取りたいのは当然で、ビザと言っていても入国税の収入印紙みたいな考えなのでしょう。それでも、成田の施設使用料、保安サービス料の2,540円の半額ですね。
入国審査を済ませると、預けておいたスーツケースをピックアップして、税関をスルーパスで通れば、迎えのバスが外で待っていて、ポーターが荷物を運んでバスに積み込んでくれます。
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バスで向かうホテルは、空港から10分ぐらいの”Iberotel”というホテルです。入り口でまた、空港と同じセキュリティーゲートを通ります。なかなか良さそうなホテルでしたが、もう夜の11時で日本時間なら徹夜明けの朝の6時です。皆疲れて鍵を貰ったら、部屋に入ってシャワーを浴び直ぐに眠りにつきます。何せ、明日のモーニングコールは5時です。
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2010.09.22

興福寺、薬師寺、唐招提寺・・・(旅行)

奈良に立ち寄る機会があり、興福寺の国宝展、今年秋に解体され修復に10年を要するとされる薬師寺の東塔ならびに唐招提寺を訪れることにしました。
1. 興福寺とその周辺
宿泊に選んだホテルが「猿沢池」の近くでした。着いたのは9月21日でしたが、22日には、采女祭(うねめまつり)とのことで、池の周りには提灯が灯されていました。采女祭は、奈良時代に帝の寵愛が衰えたことを嘆いて猿沢池に身を投げた采女(後宮の女官)の霊を慰めるために行われる祭りです。
池の周りに配置されたベンチでは、若いカップルが提灯の照らす明かりの中の楽しい時間を過ごしています。
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猿沢池からは、ライトアップしている興福寺の五重塔が見えていました。階段を上って行くと、5人ばかりの人が撮影を試みていましたが、三脚を使っている人はともかく、夜間の撮影なのでうまく撮れません。何枚か試みて比較的良好なのが下の写真です。昨日は満月で、今日も丸い月が輝いてよい感じです。この塔は、天平2年(730)に興福寺の創建者藤原不比等(ふひと)の娘光明(こうみょう)皇后の建造ですが、その後5回の被災・再建をへて、応永33年(1426)頃に再建されたのが現存する塔で、高さは50.1mです。
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一夜明けました。今日は9月22日です。猿沢池も昨日夜とは違った姿を見せています。魚7分に水3分と言われる池です。
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階段を上って興福寺の南円堂の前にでました。創建以来4度目の建物で、寛政元年(1789)頃に再建されたお堂です。堂内には本尊不空羂索観音菩薩像(ふくうけんさくかんのんぞう)、四天王像が安置されていていずれも国宝です。
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興福寺五重塔と東金堂です。なお、中金堂は、再建中で平成30年落慶予定とのことです。
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9時になり、食堂(じきどう)の跡地に建てられた国宝館の見学です。撮影は一切禁止ですが、高さ5.2mの千手観音の巨像をはじめ、乾漆十大弟子立像、乾漆八部衆立像などなど、おびただしい国宝もしくは重要文化財が展示されていて圧倒されます。特に乾漆八部衆立像の中の阿修羅像はひときわ有名です。これだけでも奈良に来た甲斐がありました。
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興福寺周辺でも、地面に草が生やされているところでは、鹿がのんびりと草を食んでいます。これも奈良を特徴付ける風景です。
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2. 薬師寺
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国宝館での余韻を引きずりながら、ホテルに戻り、チェックアウトして近鉄電車で西ノ京駅に向かい、薬師寺の興楽門に着きました。天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の御代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い718年に現在地に移されたとのことです。
最初に目に付く大きな建物は、大講堂です。修学旅行と思われる大勢の生徒が訪れていました。大講堂には、重要文化財の弥勒三尊が鎮座しています。また、仏像の裏手の方に回って行くと、国宝で天平勝宝5年(753)に刻まれたことがわかる日本最古の仏足石があります。さらに、中村晋也作の釈迦十大弟子が立っていますが、顔は仏像的でなく、アーリア人の骨格や、顔相、その当時の修行の様子などを、すべて現地に出向き、調査研究して、原形態に近付ける努力をしたものとのことでした。

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国宝の大講堂の次には、金堂です。金堂の両側には東塔と西塔が建っていますが、すっかり色が褪せてしまった東塔は、今年の秋には解体され、10年ほど掛けて修理再建されるとのことです。10年間は見られなくなるので、今のうちに見ておきたいと思ったのが訪れた最大の理由です。ともかく、現在寺に残る建築のうち、奈良時代(天平年間)にさかのぼる唯一のもので、総高34.1メートル(相輪含む)です。日本に現存する江戸時代以前に作られた仏塔としては、東寺五重塔、興福寺五重塔、醍醐寺五重塔に次ぎ、4番目の高さを誇るとのことです。

また、金堂の中には、国宝であり、美術史の本などに良く登場する薬師三尊像があります。薬師如来が中心に鎮座し、右に日光菩薩、左に月光(がっこう)菩薩が屹立しています。ブロンズ作りで黒光りした像で世界でも最高の仏像と云われています。
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nara_15.jpg講堂と金堂、東塔、西塔を見学した後は、少し離れた場所にある玄奘三蔵大伽藍に向かいます。途中、萩の花が咲いていましたが、満開には少し早いようです。
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玄奘三蔵院の回廊に囲まれて中央に八角形の玄奘塔が建っています。薬師寺は法相宗ですが、その始祖である玄奘三蔵の遺骨を真身舎利(しんじんしゃり)として奉安し、須弥壇には玄奘三蔵訳経像を祀っています。
また、回廊の裏面に当たるところには、大唐西域壁画殿があり、平山郁夫画伯が30年かけて完成させた玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画が掲げられています。
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3. 唐招提寺

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薬師寺を後にして、唐招提寺に向かいます。狭い道路ですが車の通りが多く注意が必要です。それにしてもまだまだ残暑が厳しくこたえます。途中の蕎麦屋で昼食を取りしばし休憩を取りました。
唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)に天武天皇第7皇子の新田部親王(にいたべしんのう)の旧宅跡を朝廷から譲り受け寺としたもので、晩年を過ごしました。
南大門を入ると、正面に金堂が見えます。世界遺産登録の表示のある大きな寺名碑の前を通り金堂正面に達します。

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金堂には、中央に本尊の盧舎那仏坐像が安置され、右に薬師如来立像、左に千手観音立像が配置されていますが、いずれも国宝で木心乾漆の作りです。
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金堂の諸仏にお参りをして左手に回って行くと、舎利殿とその後方の長い建物の東室・礼堂(らいどう)が見えてきます。
また、金堂の後ろには講堂があり、中央に弥勒菩薩坐像、左右に持国天立像と増長天立像が配置されています。弥勒菩薩は鎌倉時代の作で左右の仏像は8世紀の作で、いずれも重要文化財です。

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東室の北側の旧開山堂の手前に松尾芭蕉の句碑があります。元禄元年(1688)ここで、鑑真和上坐像を拝した際に芭蕉が詠んだ「若葉して御目の雫拭はばや」の句が刻まれています。
また、旧開山堂の裏に回ると、北原白秋(1885-1942)が唐招提寺の開祖である鑑真和上像に感動した時に詠んだと云われる歌「水楢(なら)の柔き嫩葉(わかば)はみ眼にして花よりもなほや白う匂はむ」の歌碑があります。
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北原白秋の歌碑を過ぎて進むと、左手に鑑真和上の御廟があります。参道は苔が生していて厳かな雰囲気が漂い、一番奥に石造りの廟が建っています。
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鑑真和上の御廟から引き返す途上に土塀に囲まれた、非公開の御影堂があり鑑真和上坐像が安置されています。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構で、慶安2年(1649年)の建立で、1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築されたもので、重要文化財に指定されています。
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東室・礼堂の裏側に至る道を戻ると、正倉院より古い校倉造(あぜくらづくり)で国宝の宝蔵があります。
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ここから、東室と礼堂の間にある通り抜け通路の馬道(めどう)を通って講堂横に戻りました。
まだまだ暑くて、暑さに弱い家内はまいっています。タクシーで西大寺駅に行き、京都に出て15時32分の新幹線で帰宅しました。

2010.09.12

大内宿と会津の旅(2日目)・・・(旅行)

9月11日です。2日目の朝が明けました。山間の温泉場ということもあり、涼しい朝です。周囲の緑の山々が清々しく、良い気分です。
さて、食事を済ませて出発です。さほど時間も掛からず、若松城(鶴ヶ城)に着きましたが、天守閣は屋根を元の赤瓦に取り替える工事中で、すっぽり覆われています。
会津若松城は、時代ごとに城主が代わり、変遷を重ねてきましたが、1643年(寛永20年)出羽国山形より3代将軍の徳川家光の庶弟である保科正之が23万石で入封し、以後、明治維新まで会津松平氏(保科氏から改名)の居城となったものです。
戊辰戦争の1868年(慶応4年)には、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえ、板垣退助勢が薩摩の援軍の助けをかりても遂に城落には至らなかったのです。その後に開城されたが、戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、明治7年(1874)に取り壊されています。
現在の天守は1965年(昭和40年)に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
なお、地元では「鶴ヶ城」と呼ばれることが多いのですが、これは秀吉からこの地を与えられた蒲生氏郷の幼名の「鶴千代」から来ています。
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工事中も、若松城天守閣郷土博物館としては見学可能ですが、種々の歴史的な遺構は、すべて撮影禁止で、最後に銀色の鯱(しゃちほこ)のみ撮影可能でした。若松城に鯱があったかどうかは、見解がわかれているそうですが、この鯱は、復元工事を担当したハザマの当時の会長より寄贈されたもので、全身の鱗は銀箔、牙は金製、瞳の中心に2カラットのダイヤモンドが埋め込まれているとのことです。ハザマは名古屋城天守の復元工事も受け持っており、名古屋城の金鯱と対になるように銀鯱としたそうで、金閣寺、銀閣寺に倣ったとのことです。
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天守閣から干飯櫓、南走り長屋を通って、屋外に出てきます。
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若松城を後にして、七日町通りで車を駐車場にいれ、レオ氏郷南蛮館に行きました。建物は明治時代に建てられた蔵を改造したもので、1階は民芸品を扱うお店で2階が氏郷関係の資料館になっています。レオとはキリスト教に改宗した氏郷の洗礼名で、資料館には氏郷が秀吉から貰った記念の品や、氏郷がキリシタンであったことを物語るマリア像などが展示されています。また復元された天主の間には、色鮮やかな「泰西王侯騎馬屏風図」や呂宋(ルソン)の茶壺が飾られています。
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aidutrip_06.jpg次に「野口英世青春通り」に向かいました。野口英世が書生時代に行き交った通りです。流石に暑くなってきました。レトロな感じの喫茶店があったので、休憩を取りました。注文したアイスコーヒーも美味しかったです。

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隣は、重厚な蔵造りの福西本店で、会津の種々な名品を販売しています。
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さらに、隣の建物脇のガス灯風の街灯も良い感じです。
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次に、大通りの神明通りを横切って、蒲生氏郷の墓所を訪れました。蒲生氏は藤原秀郷の流れをくむ名門でしたが、仕えていた近江の六角氏が信長に滅ぼされ、父の賢秀(かたひで)が信長に臣従するとき、人質として差し出されました。ところが、信長は氏郷の才を見抜いて、娘の冬姫と結婚させ、信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(たださぶろうますひで)と名乗り織田氏の一門として手厚く遇せられました。その後幾多の変遷を経て秀吉時代に会津の地に92万石の大領を与えられましたが、これは秀吉が氏郷の才を恐れ、大領でも都から遠ざけて天下取りに関われないようにとの意図があったと言われています。秀吉の意図を知る氏郷は、涙を流して悔しがったと伝えられています。
40歳で急死し、毒殺説もありましたが現在では、曲直瀬玄朔(まなせげんさく)の残したカルテなどから肝臓癌、もしくは膵臓癌であったと推察されています。また、辞世の歌は、まだまだ働けるのにとの思いを込めた悔いを残こした辞世となっています。辞世の「限りあれば 吹かねど 花は散るものを 心みじかき春の山風」は、花の命は限りがあり、風など吹かなくても自然に散ってしまうのに、春の山風は何と気が短いものよ、とでも訳せばよいのでしょうか。
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また、墓石は空風火水地の五文字を刻した五輪塔です。
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氏郷の墓所を訪れた後は、車で飯盛山に向かいます。かなり長い階段の上りが待ち構えています。女性陣は250円払ってのエスカレーターに対して男性陣は、意地で自分の足で上ります。
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階段を上り詰めると広場になっており、左のほうには白虎隊以外の少年武士慰霊碑と墓石が立っていて、松平容保候の弔歌碑がありました。「幾人の涙は石にそそぐとも、その名は世々に朽じとぞ思う」と刻まれています。
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広場の右の方には、ポンペイの廃墟から掘り出した古代宮殿の柱で作ったという、ローマ市寄贈の碑が建っていて、イタリア語で「文明の母たるローマは白虎隊勇士の遺烈に、不朽の敬意を捧げんが為、古代ローマの権威を表すファシスタ党章の鉞(まさかり)を飾り永遠偉大の証たる千年の古石柱を贈る」と書かれているとのことです。
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さらに、白虎隊士自刃の地の矢印表示に従い右の小道を進むと、白虎隊士でただ一人の生き残りの飯沼貞吉の墓所があります。15歳で年齢を16と偽って白虎隊に参加しましたが、戦い利あらず、飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及びましたが、死に切れず命を救われました。維新後は貞雄と改名して逓信省の通信技師として各地に勤務し、日本の電信・電話の普及に貢献し、日清戦争にも従軍しました。1931年(昭和6年)2月12日、77歳で生涯を終えましたが、白虎隊のことは一部の史家にしか話さなかったとのことです。

さらに進んで階段を下りると白虎隊の自刃の地で、自刃の址の碑、隊士の石の像、慰霊碑が建っています。確かに鶴ヶ城が見通せる場所です。そして、燃えている武家屋敷を鶴ヶ城が燃えていると見誤って、自刃を遂げたのです。隊士は16、17歳が中心で、まったく痛ましい出来事です。
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写真中央付近に木立に囲まれた覆いの掛けられた天守閣が見えます。
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飯盛山からの帰り道は階段を通らず、広場から下を見下ろした右側に坂道となって続いている方に進んで行きます。下って行くと、宇賀神のお堂があり白虎隊の自刃の様子を描いた額縁が架かっています。ここに描かれている白虎隊士の姿が最も実際の服装に近いものであるといわれているそうです。
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さらに下りると「さざえ堂」と呼ばれる仏堂があります。中は二重螺旋になっていて、同じ通路を通らず、上って下りてこられるとのことです。中が螺旋にになってることから「さざえ堂」と呼ばれるのでしょう。
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成瀬櫻桃子(なるせおうとうし)の「天高し ピサの斜塔と サザエ堂」の句碑が建っていましたが、詠み人の心が、どうも理解できなくてスッキリしません。そして、最後は「厳島神社」です。両側に杉の大木が立っていました。
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直ぐ横の「戸ノ口堰洞穴」からは大量の水が流れ出しています。今から400年前の元和年間に猪苗代湖の水を会津地方に引くため、郷士八田氏が起工し、元禄年間まで工事が続けられ、飯盛山の山腹に150mの穴をうがって2,500ヘクタールの田圃に灌漑することができたとのことです。白虎隊士中2番隊は、戸ノ口原に布陣している味方軍応援のため派遣されましたが、戦いに利あらず、お城の安否を確かめようと帰城の途中隊士20名が通過した洞窟で、水を止めれば上半身を丸めて通れる大きさとのことです。
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飯盛山から下りてきて、昼食を取り猪苗代湖湖畔の「野口英世記念館」に向かいました。
博士の生涯を年代順に分け、遺品や参考資料を展示した展示館と、生家が残されています。
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生家の中には、英世が一歳半のとき、運命の火傷をした囲炉裏や上京するとき決意を刻んだ床柱が当時そのままに保存されています。
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記念館をでると、野口英世も子供時代に何時も眺めた、磐梯山が変わらぬ雄姿を見せていました。
その後、磐越自動車道で郡山JCTに向かい、東北自動車道に乗り換えて帰宅の途に着きました。
一度訪れたいと思っていた、大内宿を初めとして楽しい2日間でした。
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