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2007.08.16

小旅行(高野山と西行法師)・・・(旅行)

今年の夏は特別に暑いですね。
お盆に帰省して、少しは涼しいのではと8月13日に高野山に上った。
和歌山線で橋本駅に行き、そこで南海高野線で「極楽橋駅」、ケーブルカーに乗り換えて高野山駅に着いた。その後バスで千住院前まで行き奥の院に向かって歩いた。
下の写真は円空が子供の石童丸と親子の名乗りをすることなく修行に励んだという「刈萱堂(かるかやどう)」である。
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簡単に物語を紹介すると、筑前の刈萱荘博多領主の加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)は、妻の桂子と側室の千里の間の激しい憎しみを知り、出家して円空と名乗り高野山に入って蓮華谷に質素な萱(かや)の屋根の庵(いおり)を結んで一心に修行にはげみ、周囲からは刈萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれるようになる。刈萱道心の名前を聞いた千里の一子 石童丸は刈萱荘博多を連想させる名前から父に違いないと、14歳になったとき、母とともに高野山に来るが、高野山は女人禁制であるため、山麓の学問路(かむろ)に母を残して、高野山に入る。途中のお堂で夜を過ごした石童丸は出会った僧に刈萱道心の居所を尋ねるが、その僧こそ刈萱道心であった。僧は石童丸の話しを聞いて驚いたが、修行中の身でもあるため、父であることを名乗ることをせず、刈萱道心は亡くなったと話す。悲しみにくれる石童丸はしかたなく母の待つ学問路(かむろ)に帰ってゆくが、たどり着くと旅の疲れが影響したか急な発熱で母も亡くなっていた。一人ぼっちになってしまった石童丸は、先に会った僧に再び会いに高野山に上り、弟子となって30年間、親子の名乗りをすることもなく刈萱堂で修行に励んだと伝えられる。

一の橋を渡って奥の院への1.7Kmの参道を進む。参道は杉の大木の道になっており、多くの大名の墓所の表示が見られる。伊達家、加賀百万石前田家、豊臣秀吉、薩摩、備前、などなど・・・・

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奥の院は撮影禁止で写真を撮ることは出来なかったが、流石に真言宗の大本山の貫禄で賑わいを見せていた。本堂の裏には、弘法大師廟もあり、また石田光成建立の念仏堂も建っていた。
さて、再び歩き始めの出発地の千住院前に戻り、さらに昔の女人禁制時代には、女性がお祈りを捧げた女人堂まで歩いてみた。明治の始めまで女人禁制であった高野山は高野七口と言われる7ケ所に女人堂が建っていたが、今はこの不動口にある女人堂だけが残っている。

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女人堂からケーブルカーに乗らず、南海高野線の極楽橋駅まで行ける歩道があるので、歩いてみた。
歩き始めて少し行ったところに、古いお堂が建っていたが、これが父を尋ねる石童丸が一夜を過ごしたお堂かも知れない。ともかく、歩く人のみが見ることが出来るお堂であり、ほとんどの人は知らないと思われる。事実40分ほどの下りで誰にも出くわすことは無かった。とても急な下り坂で下るのも大変で、上りは相当に骨が折れると思われた。

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8月15日は、我が家に帰宅する日であったが、出発前にJR和歌山線の打田駅近くの「西行法師の銅像」を見に行った。打田町教育委員会の建てた説明板によれば、西行法師(1118?90)は俗名を佐藤義清(さとうよしきよ)と言い、田中荘・池田荘(現在の打田町)の領主で竹房に居を構えていた。18歳で都に上り左衛門尉(さえもんのじょう)に任官、北面の武士となり鳥羽上皇に仕えていたが、23歳で出家し、出家後は仏道修行より歌道が主で諸国行脚に日を送り、歌人として有名になり尊崇を受けたとあった。
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晩年(69歳)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。このときの歌は、旧東海道の旅の藤枝から掛川(2)に記したが、「年たけて また越ゆべしとおもいきや 命なりけり 小夜の中山」がある。なお、奥州の藤原氏と西行は同族でともに平将門を成敗した「藤原氏郷」の子孫である。
73歳で没したが、「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」の歌の通り1190年2月16日であった。
ここで見た西行像の台坐には百人一首にある「嘆けとて 月やはものを思わする かこち顔なる わが涙かな」が刻まれていた。百人一首は定家の選だが、他の歌とのバランスを考慮しての選出であり、あえて一首取り出すなら、三夕(さんせき)の歌で有名な
「心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」の方が、好ましいと小生には思えるのだが・・・ 茅ヶ崎から小田原(2)参照。
ところで、教育委員会の説明には打田町(正確には和歌山県那賀郡打田町)とあるが、平成の大合併で昨年末に打田町は近隣の町村と合併して「紀の川市」になっている。したがって、西行法師が居を構えていたのは「紀の川市竹房」となる。


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