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2012.03.22

和歌山市内の名所を尋ねて・・・(旅行)

国民休暇村で一泊した次の日の3月20日は春分の日でした。10時頃にチェックアウトして、和歌山市の何箇所かを回ることにしました。意外に近場は、行ったことのない場所も多いものです。

1. 淡嶋神社

最初に訪れたのは、加太港に面して建っている「淡嶋神社」です。祭神 は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)を祀っています
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りありますが、ここはその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇っています。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納しました。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされるとのことです。
なお、苫(とま)とは、菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろのことです。

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また、この神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形や市松人形、はてはフランス人形までもが所狭しと並べられています。そのため心霊スポットとしてマスコミに取り上げられることがあり、髪の毛が伸びることで話題を集めたお菊人形も安置されているとのことです。

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2. 養翠園

次は、紀州藩第10代藩主徳川治寶(はるとみ)によって、文政元年(1818)から文政9年(1826)にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である養翠園(ようすいえん)です。
和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情があります。この池には、日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと伝えられています。また、藩主は、舟を用いて来園し、そのための船着場が園内に設けられています。したがって正門はもっぱら客人のためであったようです。
なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、これらの他には東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけとのことです。

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3. 和歌浦

次は、山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と詠み、「万葉集」にも載せられていることで有名な「和歌浦(わかのうら)」です。現在の地名では「わかうら」と呼ばれていますが、子供の頃に親に連れられて訪れたときと比べても、あまりにも衰退して、廃屋となった旅館も多く、また跡地には老人ホームなどの施設が見られました。雑賀孫市で有名になった雑賀崎も有るところなのですが、和歌山市政の貧困さのためか、山部赤人の歌碑も、雑賀孫市に纏わる記述を見ることもなく、海岸べりの工場や商業施設などで景観を完璧に破壊し、折角の遺産を完膚なきまでに壊してしまっています。

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4. 和歌浦天満宮

延喜元年(901)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠みました。
「老を積む身は浮き船に誘はれて遠ざかり行く和歌の浦波」
「見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙」
その後、村上天皇の康保年間(964 – 968)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされます。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられています。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されています。もちろん、受験生も合格祈願に多く訪れることでしょう。また、和歌浦天満宮は、藤原公任卿の詠歌「和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく」にもあるように、大宰府、北野と並んで、”日本の三菅廟”といわれているとのことです。

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5. 紀州東照宮

元和7年(1621)に徳川家康の十男である紀州藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称される。本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵があるとのことです。

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元和5年紀州初代藩主として入国した徳川頼宣(1602?71)により、東照大権現を祀る東照社として建立されました。頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われました。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであったといいます。現在は頼宣も合祀されています。

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6. 琴の浦 温山荘園

最後に訪れたのは、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園された「温山荘園」です。
子供の頃、親に連れられて来た記憶がかすかにあるのですが、情景は完全に忘れていました。また、新田長次郎の造園なので大人達は「新田の別荘」と呼んでいて、長く「新田義貞」の別荘と思い込んでいました。

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紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられているそうです。
造園は、大正初期から昭和初期にかけてで武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園です。この潮入り庭園は、先に紹介した「養翠園」にヒントを得たと思われ、個人の庭園としては日本最大です。
また、「温山荘」の名称は”温山”の雅号を持つ翁の求めに応じて、東郷平八郎元帥により命名されました。当初は翁の健康維持のために使用していましたが、在世中に一般人にも解放されるようになり、翁の没後はその遺志により、「財団法人 琴ノ浦 温山荘園」を設立し、その財団が管理にあたっています。

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なお平成10年には建造物が、文化庁文化財部より「登録有形文化財」の指定を受け、平成22年2月に庭園が国名勝の指定、平成22年6月に建物が重要文化財指定を受けています。

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駆け足で和歌山市内の名所を回りましたが、まだまだ和歌山城も紀三井寺もあります。
最近では、熊野古道のみが喧伝されていますが、もっと訪問客を誘う材料があると思えるのですが・・・。

紀州加太国民休暇村・・・(旅行)

春の彼岸も終えた3月19日に94歳の母と2人の妹と私の4人で、紀州加太国民休暇村に行きました。高齢の母を連れてなので、あまり遠くには行けないと選び初めての訪問でした。

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海に面した小高い丘の上に建っていて、部屋の窓からは「友ヶ島」とその向こうに「淡路島」がよく見えました。素晴らしい眺めです。
大阪湾への海路なので、第二次世界大戦の時には砲台が築かれ、その弾薬庫跡が保存状態もよく残っていました。

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目の前の友が島周辺は、鯛の良好な釣り場とのことです。
淡路島に沈む夕日を見ながらの夕食も、鯛を中心とした献立てで美味しくて堪能しました。

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2012.02.28

美術館(中川一政、MOA)訪問・・・(旅行)

今日は、真鶴にある「中川一政美術館」と熱海の「MOA美術館」を訪問します。寒い朝ですが、よく晴れています。途中、バスの窓から富士山が綺麗に見えました。
多少の渋滞がありましたが、中川一政美術館には、11:00ごろには着きました。

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観光バスが3台ほど停まっていて、美術館が混雑しているので、先に別の建家に移設された一政のアトリエなどを見学し、その後美術館に進みました。一政は、98歳の長寿を全うするのですが、晩年には白内障のためほとんど色が判別できなくなり、家政婦に絵の具の色の名を大きく書かせて描く時に見分けたとのことです。

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5つの展示室があり、油絵、新聞小説の挿絵、書などが展示されています。絶筆となった薔薇の絵も展示されていました。
当然ながら、写真撮影は禁止なので「絵葉書」を買い、何枚かをスキャナーで取り込みました。下は、福浦突堤と箱根駒ヶ岳です。

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一政が最も描くことを好んだ薔薇の絵と向日葵の絵です。

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お昼になり、12:20に磯料理を出すお店に着きました。いけすの魚を使ったお刺身は、流石に美味しかったです。

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食事のお店は岩忠と言い、場所は真鶴ブルーラインの橋が眼前に見える場所でした。

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今日の最後の訪問の「MOA美術館」に向かいました。山の斜面に建てられた美術館で、入り口から延々とエスカレータで上って行きます。エスカレーターは山の斜面に掘られたトンネル内に造られており、刻々と照明の色が変わるなど美しい空間になっています。

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エスカレーターで上り切ったフロアーに能楽堂があり、解説を含め1時間ほど狂言を鑑賞しました。その後、東洋美術を中心とした展示物を見学しましたが、モネの睡蓮の絵もありました。
この美術館の一番の展示物は国宝の尾形光琳の「紅白梅屏風図」ですが、CG技術で作られたレプリカも飾られていて、これは写真撮影が出来ました。

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高い山の上に造られた建物なので、眺望は素晴らしいものでした。初島もよく見えました。

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上のフロアーから見下ろしたときに見えた、王と女王のモニュメントも見に行きました。

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また、別のフロアーから外に出ると、尾形光琳の屋敷が復元されていました。宝永年間の数年の江戸滞在の後、正徳2年(1712)ころ京都新町通り二条下るの地に屋敷を新築するが、自ら書いた図面と大工の仕様帖(いずれも重要文化財)が現存しており、それを元に復元したものとのことです。軒先の紅梅も綺麗に咲いていました。

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本当に眺めの良い場所でした。

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午後4時30分に閉館なので、その後は帰路に向かいました。楽しい1日が過ごせました。

2011.11.24

中欧の旅(6,7日目:11/20,21)・・・(旅行)

6日目になりました。今日の午前中は、団体でブダペスト市内の観光で午後は自由行動、そして夜はドナウ川イルミネーションクルーズです。
いつもの通り、バイキングの朝食をホテルでとり、8:30にバスで出発です。今日の気温の予報は最高温度が+2℃、最低温度が-2℃で、寒いです。はく息が白いです。
まず、最初に国会議事堂に行きました。世界で一番美しいと言われる国会議事堂です。国会議事堂とエルジェーベト広場から英雄広場と、その間の2Kmのアンドラーシ通りも合わせて世界遺産です。なお、アンドラーシ通りの下を走る世界で一番古い地下鉄も世界遺産に含まれています。
国民議会は、1880年に新しい国会議事堂の建設を決議し、コンペチションを行い、シュタインドル・イムレの案が採用されました。建設は1885年から始まり1904年に完成しました。国会議事堂の建設にはおよそ1000人が従事し、4000万個のレンガ、50万の宝石と40kgの金が使われたそうです。あまりにも広大で、繊細な手仕事で作られた建物のため、常に補修工事が行われている状態にあるとのことです。

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英雄広場は、1896年に建国1000年を記念して造られました。ブダペスト最大の広場で、中央の一番高い塔の上の天使ガブリエルはハンガリーの最初の王、聖イシュトヴァーンに王冠を授けるようローマ法王の夢枕にたった天使です。その足元の騎馬像は、ハンガリーに最初にやってきた7つの部族の族長を示しています。
左右のモニュメントの柱の間には、ハンガリーの歴史上の英雄らの像が計14体あります。向かって左側が中世の王、右側が、近代以降の革命家などになっています。
そして、騎馬像の前には、これまでの戦争でハンガリーのために戦い死んで行った兵士達を称える「無名戦士の碑」があります。

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英雄広場で、塔に向かって右側に現在美術館(下の右の写真)があり、左側に西洋美術館があります。両館ともシッケンダンツ・アルベルトとヘルツォーグ・フェレップによる共同設計です。

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下の左の写真は、アンドラーシ通りで、道路下には地下鉄が走り、エリジェーベト広場まで2kmにわたって真っ直ぐに伸びています。建設は1872年に始まり、開通式は1876年8月20日に行われましたが、その後、貴族、銀行家、地主、歴史的な人物などが越してきました。現在では、多くの国が大使館を置いています。
英雄広場の後ろは市民公園となっており、右の方には、屋外スケート場があり、スケート場の立派な建物が見えています(下の右の写真)。

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アンドラーシ通りをバスで戻ると、途中に国立歌劇場が車窓から見えました。
その後、エルジェーベト橋を渡り、ツィタデラと呼ばれる、1854年にハプスブルク帝国によって建てられた要塞に行きました。張り出した円形の見張り台からは、ブダ側とペスト側の両方が良く見えます。市民の反オーストリア運動の監視にも用いられましたが、1867年のオーストリア=ハンガリー二重帝国の発足で、両国間の衝突もなくなり、1894年に市に譲渡され、現在はホテル、レストランもある場所となっています。

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この見張り台には、世界遺産登録のUNESCOのプレートが嵌めこまれていました。
長い幾多の時代を眺めてきた丸い要塞の壁を見ていると、遠い過去が想像されてきます。

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第2次世界大戦では、ハンガリーはドイツについたのですが、敵の進行を防ぐ目的で、くさり橋を破壊した写真が要塞の壁に取り付けられていました。ハンガリー市民は複雑な心境だったことでしょう。
周りの林は、かなりな割合で葉っぱが落ち、冬を迎える準備をしているように思えました。

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次に、漁夫の砦とマーチャーシュ教会のある丘に向かいました。途中までは、バスで行きますが、最後は、自分の足で階段を上って行きます。

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「漁夫の砦」とは、変わった名前の「要塞」です。建国1000年を記念して作られたそうで、完成は1902年です。比較的新しい建物で、実際に戦闘などには使われたことはありません。「漁夫の砦」という名前は、中世に魚市場があったとか、ドナウ川の漁師が要塞を守っていたからとかいわれていますが、ハッキリしません。とんがり屋根の7つの塔からなっていて、それぞれの塔にマジャール族の英雄の名前がつけられているそうです。また、塔の形はマジャール族が遊牧をしていた時の天幕住居の形を模しているのだそうです。
広場には、三位一体の塔が建っていました。

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川の方を漁夫の砦で囲まれるように、マーチャーシュ教会が建っています。磁器で有名なジョルナイ製のカラフルなタイルでモザイク屋根とした教会で、正面入口の右側に80mのマーチャーシュ塔、左側にベラ塔が建っています。13世紀半ばにロマネスク様式で創建され、14世紀にゴシック様式となり、15世紀のマーチャーシュ王の時代に80mノ塔が造られほぼ現在の形になりました。1867年のオーストリア=ハンガリーの二重帝国発足の折、オーストラリア皇帝フランツ・ヨーゼフのハンガリー国王としての戴冠式がここで行われました。

日本円も使えるお土産屋があり、皆でお買い物です。
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漁夫の砦からは、眼下に街並みが美しく見えます。ドナウ川の向こうには、国会議事堂が見えます。霧がかかっているので、色調を補正しましたが、それほど綺麗にはなりません。

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下の左の写真は、聖イシュトヴァーン大聖堂です。右の写真は、ドナウ川の上流方面です。

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漁夫の砦と聖マーチューシャ教会の間の広場には、イシュトヴァーン王の騎馬像があります。
後は、また漁夫の砦の階段を下って行きます。

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バスで昼食のレストランに向かう途中に、HOTEL GELLERTがありました。豊富な温泉の設備で有名なホテルです。 昼食は、ハラースレーでした。

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budapest_29a.jpg昼食を終え、ドナウベント方面にオプショナルツアーに行く人達と別れ、残りの人は解散して自由行動ですが、皆んなクリスマスマーケットを見たいというので、デアーク・テールでバスを降り、ジェルボーカフェの前の広場まで来て解散しました。
ジェルボーカフェは、エリザベートも愛し、リストも通ったという150年の伝統を誇るカフェとして有名で、ガイドさんも、寒かったり疲れたりして休むなら、ここがお勧めですと言っていました。外国人観光客にとって必見の観光スポットのようです。

もうクリスマスマーケットの店が開かれ、クリスマスツリーが飾られていました。

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まず、ヴァーツィ通りを歩きたいと家内が言っていたので、広場の南から通りを南に向かって歩き始めました。通り名は、ビルの壁に通り名を記したプレートがはめられいる(Vaci utca)ので分かりやすいです。まぁー、目抜き通りといったところです。

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ヴァーツィ通りは、途中でエルジェーベト橋の大通りを地下道で横切って、まだまだ続きます。地下道を抜けると、面白いモニュメントがありました。スケートをしている人でしょうか。ブラチスラバの路上のモニュメントを思い出しました。
同じヴァーツィ通りでも、ここからは店のレベルも下がり、店の前にまで商品を陳列して売っている店が多いです。

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カラフルな牛のモニュメントが、置かれていました。これはクリスマスのムードの持ち上げ用でしょうか。そして、ついに中央市場のカラフルな建物が見えて来ました。フォアグラを買おうと言っていたのですが、日曜日で市場が休みなのが本当に残念です。

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中央市場の前の通りで左折して、カルビン・テールの方に進みます。道なりに曲って、北に向かうと直ぐに、国立博物館が右側に見えてきました。ハンガリー最大の博物館で、1847年完成のネオクラシック様式です。8本のコリント様式の柱が特徴です。
さらに、30mほど北上して、ラコーツィ道路を地下道で渡り、その先のドハーニ通りに入ると、直ぐにシナゴーグ(ユザヤ教会)が見えてきます。入ろうと思ったのですが、入場料は、1人4,000Ftもするので、馬鹿らしくなって止めました。外から写真だけは撮って置きましたが、後で入った人に聞くと、入らないのが正解で入ってがっかりしたと言っていました。

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もう、聖イシュトヴァーン大聖堂が見えてきました。ともかく、大聖堂まで行って中を見学することにしました。入場料はないのですが、大聖堂の維持管理に200Ftまたは1€の寄付を払う必要がありましたが、日本円で100円程度なので、お寺のお賽銭ぐらいのものです。
中は、フラッシュを焚かなければ撮影もOKなので、中央祭壇を撮影しました。

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天井のドームもフレスコ画が描かれ綺麗です。

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主祭壇とは、別にサブの祭壇も幾つかありました。

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主祭壇のある場所の左側に奥に通じる通路があり、進むとイシュトヴァーンの手のミイラを収めた綺麗な容器が置いてあります。200Ft寄付すると、2分間だけ照明され、手のミイラを右の方から見ることができます。何か黒いものが見えましたが、本当に手のミイラなのかハッキリしませんでした。数ケ国語で書かれた説明文も置いてありました。

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まだ、時間がたっぷりあるので、エルジェーベト広場の方に歩いて行くと、日本地図の描かれた時計柱が立っていました。日本地図の下にも小さく時計が付いていて、日本時間を指していました。姉妹都市の小田原駅前・オシャレ横丁商店街からの寄贈のようです。
そして、再度クリスマスマーケットの開いている広場に行くと、なんだか賑やかな音楽が聞こえていて、見ると仮設の舞台で踊りが始まっていました。

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周りのビルも夜は電飾がなされていて綺麗です。
ジェルボーカフェで一服しました。流石に、伝統のあるカフェで内装もエレガントです。日本の青山にも支店ができたそうです。次は、セーチェイニくさり橋の方に歩きました。

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川べりに出ると、川向こうの王宮もライトアップされていました。くさり橋も既に電気が点灯されています。

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くさり橋でには、橋のたもとの左右にライオンの像(合計4頭)が1852年に設置されていますが、このライオン像に関して、舌がないので人々が彫刻家をからかい、彫刻家はドナウ川に投身自殺してしまったという逸話が有名です。しかし、実際は舌はあり(ただし像を見上げると見えない)、彫刻家は1890年代まで存命であったとのことです。

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くさり橋を渡って往復しました。戻ると、フォーシーズンズホテルの電飾も綺麗でした。
広場に戻ると、ジェルボーカフェも明るく輝いています。

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広場の片隅では、グラスを並べて音楽を演奏する人がいました。美しい音色でした。
夜のクリスマスマーケットは、益々盛り上がってきています。

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集合場所の聖イシュトヴァーン大聖堂に戻ると、ここもライトアップされていました。
ドナウベントに出かけた人達も合流して、夕食です。肉料理でした。

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ドナウ川のナイトクルーズに行きました。かなり寒いですが、覚悟の上です。街の建物ライトアップが綺麗でした。まずは、最も明るくライトアップされている国会議事堂です。

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漁夫の砦、マーチャーシュ教会(左の写真)とセーチェニくさり橋です。丘の上には王宮も見えます。

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これも「くさり橋」(左の写真)と最近になって電飾が始まったという「自由橋」です。

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    ドナウ川クルーズ(動画)    


「ドナウの真珠」といわれるブダベストの夜景を眺められるクルーズは、ほんとうに素晴らしかったです。

これで、中欧の旅はすべて終わりました。明日は帰国です。


11/21日の朝が明けました。
今日は、朝食の後ウィーンにバスで移動して、13:15発のオーストリア航空で東京に帰国します。
バスの移動で途中休憩は、まだハンガリー国内で、皆んな売店で使い残したフォリントを使うことに夢中でした。家内もパブリカの袋入りなどを買っていました。
今回の旅行で、国境を通るのに全てノーチェックでしたが、オーストリアの国境に達したとき初めて、バスを止められました。しかし、前の入口から入ってきた、気のよさそうな係官がにっこりと微笑み、そのまま降りで行ってしまいました。拍子抜けです。
そして、空港に着き出国手続き、セキュリティーチェックも済ませて、搭乗ゲートにたどり着きました。
飛び立って、水平飛行に移ったころ、食事がでました。

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東に向かう飛行で、みるみる外は暗くなってきました。
そして、夜明けの朝焼けが窓からきれいに見えました。到着の1時間30分ぐらいまえに、簡単な食事が出て、食べ終わってしばらくすると、成田到着でした。

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中欧の旅(5日目:11/19)・・・(旅行)

5日目になりました。今日は、プラハからスロバキアのブラチスラバに移動して観光の後、ハンガリーのブダペストまで行き宿泊です。
朝食の後、プラハを8:30に出発して、332Km移動してお昼にブラチスラバに着きました。
日本では、ほとんどの都市で路面電車はなくなりましたが、中欧の国々は、どこもトラムが走っていて便利に利用しているように見えます。
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まずは、昼食です。モッツァレラチーズとトマトにバジルの葉っぱを載せた前菜に、白身魚とじゃがいものメインでした。美味しかったです。
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歩き始めて直ぐに、スロバキア国立劇場がありました。なかなか立派な建物で、テラスの上には音楽家の胸像も飾られています。
その先の交差点では、杖一本で空中に浮かんでいるパフォーマンスのおじさんがいました。時々開いた傘をお尻の下に移して、体の下には何も無いことを示しています。どうやって浮かんでいるのか、話題になりましたが、後にパフォーマンスを止めて立ち去るところを見た人が居て、種が分かりました。
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同じ交差点の反対側には、マンホールから顔を覗かせている工事人がいます。通称「みつめる君」というそうです。大型トラックで壊され、3体目だそうです。チュミルという架空人物で、女の子をのぞき見しているらしいと書かれているガイドブックもあるそうです。
その先に進むと、道の傍らに「マジシャン」らしい像が立っています。皆んな、自分の帽子をマジシャンにかぶせ、マジシャンの帽子の下に立って写真を撮ったりしていました。
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街の中心の「フラヴネー広場」に来ました。広場の中心にある噴水は「ロランド噴水」と 呼ばれ、 1572年、当時のオーストリア皇帝マクシミリアン 2世の命を受けて作られたブラチスラバ最古の公共水汲み場です。その中心に立つ騎士像は皇帝マクシミリアンですが、騎士像は年に 1度大晦日の夜に回れ右をし、 6番地の屋敷に向かい、その屋敷の持ち主でブラチスラバを守って亡くなった議員に敬意を表してお辞儀をするという伝説があります。
クリスマスマーケットの店が建ち始めていて見難いですが、右の奥には日本大使館があり、日の丸が見えます。近づくと、入り口の上に菊の御紋も付いていました。ここは一等地です。一等地に日本大使館があるとは、蓮舫さんにいうべきだと言った人がいるとの説明に一同苦笑でした。
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広場の奥側には旧市庁舎があり、現在は市歴史博物館となっています。クリスマスツリー用の大きな樅の木が立てられていました。
広場のベンチの背もたれに腕を置いたナポレオンの像がありました。後ろにはフランス大使館があります。
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広場から道路に戻って進むと、道路に小さな「王冠のマーク」が埋め込まれていました。これは、戴冠式でのパレードのコースを示すものだそうです。フラヴネー広場から100m程先で右折して、ミハルスカー通りの先100mほどのところに、ミハエル門があります。かつては、城壁で囲まれていた旧市街の門の一つで、現在残っている唯一の門で、武器博物館として使われています。
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ミハルスカー通りをミハエル門と反対方向に歩くと、「フランツ・リスト」が9歳の頃住んでいた家があり、モニュメントが嵌めこまれていました。
ここで、少し自由時間があったので、カフェにでも入ろうかと、フラヴネー広場に戻り、その先の十字路で、左折してローリンスカ通りに入って行くと、レストラン「パパラッチ」の角でカメラを構えている像がありました。レストランのユーモアですね。
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結局、手頃なカフェが見つからず、最初に歩いた道に戻って入りました。
さて、またガイドの案内が始まりました。現在、オーストリア大使館になっているところが、モーツアルトが6歳の時に演奏した建物で、その旨を紹介するプレートが掲げられています。ガイドが6歳の時の演奏なのは、1762の表示の前にROKUと書いてあるでしょうと冗談を言います。
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最後に、聖マルティン教会の前を通り、バスの駐車場所に戻りました。聖マルティン教会は1452年の創建のロマネスク様式の教会で、1765年に造られた高さ85mの塔が遠くからも良く見えます。なお、1563?1830年の間に19回(内7回は女王)も戴冠式が行われたとのこです。
西の丘にはブラチスラバ城が見えますが、12世紀にロマネスク様式で建てられ、15世紀にゴシック様式の要塞に改築、後にオスマン・トルコの侵攻に備えて四隅に塔が付けられ現在の形になり、「ひっくり返したテーブル」と呼ばれ親しまれています。18世紀にはマリアテレジアの居城にもなりましたが、1811年の大火災で荒廃し廃墟となっていました。その後、第二次世界大戦後に復旧して博物館、展示館として使われています。
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バスの駐車場所に戻ると、ドナウ川に架かっている斜張橋(Nový most)の主塔の上の展望レストランが見えました。上るのはエレベータです。しかし、レストランは丸くても回転はしないそうです。画竜点睛を欠きますね。
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15:30にブラチスラバを出発して、ブダペストに向かい、18:30頃に着きました。
着いたら直ぐに、夕食です。ロールキャベツの料理で、ヴァイオリンとアコーディオンの音楽演奏がありました。我々の席の近くに来たときは、「故郷」を演奏してくれました。皆んな良い気分になって楽しかったのですが、バイオリンのおじさんの演奏のCDを取り出し、何人かが買わされていました。料理の味は、????
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