2012.03.22
和歌山市内の名所を尋ねて・・・(旅行)
国民休暇村で一泊した次の日の3月20日は春分の日でした。10時頃にチェックアウトして、和歌山市の何箇所かを回ることにしました。意外に近場は、行ったことのない場所も多いものです。
1. 淡嶋神社
最初に訪れたのは、加太港に面して建っている「淡嶋神社」です。祭神 は、少彦名命(すくなひこなのみこと)、大己貴命(おほなむじのみこと)、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后(じんぐうこうごう)を祀っています
淡嶋神社系統の神社は日本国内に約1000社余りありますが、ここはその総本社であり、和歌山県内でも屈指の歴史を誇っています。社伝によれば、三韓出兵の帰途瀬戸の海上での突然の嵐に遭遇した神功皇后が、船中で祈りを捧げたところ、「船の苫(とま)を海に投げ、その流れのままに船を進めるように」とのお告げにより友ヶ島に無事入港できたことを感謝し、持ち帰った三韓渡来の宝物を先述の二神に奉納しました。その数年後、神功皇后の孫である仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来た際、その事実を聞くにおよび、島では不自由であろうと考え、社を対岸の加太に移し、現在のような社殿を建築したことが淡嶋神社の起こりとされるとのことです。
なお、苫(とま)とは、菅(すげ)や茅(かや)などを粗く編んだむしろのことです。
また、この神社は人形供養の神社としても有名で、境内には供養のために納められた、無数の雛人形や市松人形、はてはフランス人形までもが所狭しと並べられています。そのため心霊スポットとしてマスコミに取り上げられることがあり、髪の毛が伸びることで話題を集めたお菊人形も安置されているとのことです。
2. 養翠園
次は、紀州藩第10代藩主徳川治寶(はるとみ)によって、文政元年(1818)から文政9年(1826)にかけて造営された西浜御殿内の広大な大名庭園である養翠園(ようすいえん)です。
和歌山湾沿いの立地を利用して、海水を引き込んだ「汐入り」の池が特徴的で、潮の干満に応じて細波が立ち、水面が上下する独特の風情があります。この池には、日本庭園としては珍しい直線状の三ツ橋を渡しており、背後の天神山と章魚頭姿山(たこずしやま)を借景としたこの構図は、中国の西湖を模したものと伝えられています。また、藩主は、舟を用いて来園し、そのための船着場が園内に設けられています。したがって正門はもっぱら客人のためであったようです。
なお、日本の大規模な庭園で汐入の池をもつものは、これらの他には東京都港区の浜離宮恩賜庭園だけとのことです。
3. 和歌浦
次は、山部赤人が「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(たづ)鳴き渡る」と詠み、「万葉集」にも載せられていることで有名な「和歌浦(わかのうら)」です。現在の地名では「わかうら」と呼ばれていますが、子供の頃に親に連れられて訪れたときと比べても、あまりにも衰退して、廃屋となった旅館も多く、また跡地には老人ホームなどの施設が見られました。雑賀孫市で有名になった雑賀崎も有るところなのですが、和歌山市政の貧困さのためか、山部赤人の歌碑も、雑賀孫市に纏わる記述を見ることもなく、海岸べりの工場や商業施設などで景観を完璧に破壊し、折角の遺産を完膚なきまでに壊してしまっています。
4. 和歌浦天満宮
延喜元年(901)に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、2首の歌を詠みました。
「老を積む身は浮き船に誘はれて遠ざかり行く和歌の浦波」
「見ざりつる古しべまでも悔しきは和歌吹上の浦の曙」
その後、村上天皇の康保年間(964 – 968)に参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされます。また、道真が立ち寄った際に、敷物がなく、漁師が船の艫綱を敷物(円座)にして迎えたといい、綱敷天神とも称せられています。天満宮は和歌浦天神山(標高約93m)の中腹に位置し、菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神として尊崇されています。もちろん、受験生も合格祈願に多く訪れることでしょう。また、和歌浦天満宮は、藤原公任卿の詠歌「和歌の浦の天満宮や日の本の三の名だる一つとぞきく」にもあるように、大宰府、北野と並んで、”日本の三菅廟”といわれているとのことです。
5. 紀州東照宮
元和7年(1621)に徳川家康の十男である紀州藩祖・徳川頼宣により南海道の総鎮護として創建され、関西の日光とも称される。本殿は伝・左甚五郎作の彫刻や狩野探幽作の襖絵があるとのことです。
元和5年紀州初代藩主として入国した徳川頼宣(1602?71)により、東照大権現を祀る東照社として建立されました。頼宣の紀州入国とともに計画され、元和6年(1619)起工、元和7年(1620)に竣工・遷宮式が行われました。『紀伊続風土記』によれば、境内は方八町で、宮山周囲50町余りであったといいます。現在は頼宣も合祀されています。
6. 琴の浦 温山荘園
最後に訪れたのは、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園された「温山荘園」です。
子供の頃、親に連れられて来た記憶がかすかにあるのですが、情景は完全に忘れていました。また、新田長次郎の造園なので大人達は「新田の別荘」と呼んでいて、長く「新田義貞」の別荘と思い込んでいました。
紀州の名園として名高く皇族らがしばしば来訪し、随行した桂太郎、清浦奎吾、東郷平八郎、秋山好古らの扁額が主屋「温山荘」に掲げられているそうです。
造園は、大正初期から昭和初期にかけてで武者小路千家家元名代の木津宗泉により作庭された潮入式池泉回遊庭園です。この潮入り庭園は、先に紹介した「養翠園」にヒントを得たと思われ、個人の庭園としては日本最大です。
また、「温山荘」の名称は”温山”の雅号を持つ翁の求めに応じて、東郷平八郎元帥により命名されました。当初は翁の健康維持のために使用していましたが、在世中に一般人にも解放されるようになり、翁の没後はその遺志により、「財団法人 琴ノ浦 温山荘園」を設立し、その財団が管理にあたっています。
なお平成10年には建造物が、文化庁文化財部より「登録有形文化財」の指定を受け、平成22年2月に庭園が国名勝の指定、平成22年6月に建物が重要文化財指定を受けています。
駆け足で和歌山市内の名所を回りましたが、まだまだ和歌山城も紀三井寺もあります。
最近では、熊野古道のみが喧伝されていますが、もっと訪問客を誘う材料があると思えるのですが・・・。