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2009.04.24

イタリア旅行(4日目:4/24)・・・(旅行)

4日目は、フィレンツェ観光です。ホテルを出て、まずミケランジェロ広場に行きました。ここに有名なダビデ像があるのですが、この像はレプリカで本物はアカデミア美術館にあります。また、この広場は小高い丘の上なので、フィレンツェの市街がよく見えます。特に、Duomoとヴェッキオ宮殿の尖塔が目をひきます。
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フィレンツェの市街を眺めた後は、市街に戻りますが、端正な姿のサンタ・クローチェ聖堂がありました。この聖堂には、ミケランジェロ、ガリレオ、マキャヴェッリ、ジョヴァンニ・ジェンティーレ、ロッシーニといった有名なイタリア人たちの埋葬されています。
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次に訪れたのはウフィッツィ美術館ですが、内部は撮影禁止なので、僅かに渡り廊下から撮ったヴェッキオ橋のみです。しかし、この美術館は、イタリア国内の美術館としては収蔵品の質、量ともに最大のもので、1982年に世界遺産フィレンツェ歴史地区の一部として認定されています。ともかく、美術の教科書でしか見たことのない、ボッティチェッリ、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロらのイタリアルネサンスの巨匠の絵画が生で見られて感激でした。
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次に訪れたのは、ヴェッキオ宮殿である。1299年から1314年にかけてフィレンツェ共和国の政庁舎として建築され、一時、メディチ家もピッティ宮殿へ移るまでここを住居としていました。1550年から1565年の間に、部分的に改築された。現在でも、フィレンツェ市庁舎として使われています。
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ヴェッキオ宮殿の前の広場は、シニョリーア広場と呼ばれ、ネプチューンの噴水(左)、ダヴィデ像等があります。
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次は、単にDuomoと呼ばれているサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂です。外装は白大理石を基調とし、緑、ピンクの大理石によって装飾されて威容を誇っています。建設が開始は、1296年で、1461年に完成しましたが何と160年ほど要しています。
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左のは、大聖堂付属のジオットの鐘楼です。右の上側の写真は、やはり大聖堂と向かい合わせのサン・ジョヴァンニ洗礼堂の東側の扉(1452年完成)で、ミケランジェロが「天国への門」と呼んで賞賛したものです。現在設置されている扉はレプリカで、本物はドゥオーモ付属博物館に所蔵されています。
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市街の道路から見た大聖堂。
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2009.04.23

イタリア旅行(3日目:4/23)・・・(旅行)

3日目になりました。ヴェネツィアに向かって出発ですが、泊まったのがヴェネツィア郊外なので、直ぐに着きました。そして、名物のゴンドラで運河を進みます。途中で、出勤途上と思われるサラリーマンが10人ほど乗ったエンジン付きボートにも遭遇しましたが、我々には珍しい光景でした。
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大きな運河から狭い運河に入っていきます。ヴェネチアらしい狭い水路で、洗濯物が干されていたりします。そして、食事をして、高い鐘楼の目立つサンマルコ広場に着きました。
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サンマルコ広場に面して、1720年創業のカフェ・フローリアンがあります。世界で初めてのカフェで、バイロン、ゲーテ、英国女王エリザベス2世をはじめ多くの著名人が訪れました。右の写真は、ヴェネチアの入口に立つ2つの塔で、この間で処刑等も行われたとのこと。
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左の写真は修復中のドゥカーレ宮殿(写真左手)の尋問室と古い牢獄を結ぶ、大理石造りの「溜息の橋」です。この橋からの眺めは囚人が投獄される前に見るヴェネツィアの最後の景色であったので、19世紀にジョージ・バイロンが「溜息の橋」と名づけたとのこと。右は、サンマルコ広場から見たドゥカーレ宮殿です。
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左は、サン・マルコ大聖堂の正面入口です。流石に重厚な作りです。右は鐘楼で、98.6mの高さがあります。1514年に現在の形で完成していますが、1902年に崩壊したため現在サン・マルコ広場に建っているのは1912年に再建されたもの。
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運河に架かる橋は、下をゴンドラが通るため太鼓橋様になっているのが多いですが、橋から運河に浮かぶゴンドラを眺めるのも正にヴェネツィアの感じです。右は、サン・モイゼ教会です。
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左は、バルトロメオ教会。帰りはボートで海に出て、サンマルコ広場の鐘楼を眺め、サンタ・マリア・デッラ・サルーテ教会を見ながら、バスのま待つ駐車場に戻ります。
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2009.04.22

イタリア旅行(1,2日目:4/21,22)・・・(旅行)

家内とイタリア旅行に出かけました。私は、仕事で何度も訪れているイタリアですが、家内は初めてです。

一日目は、成田を出発して夕方にミラノのMalpensa空港に着いて、ホテルに直行して一泊です。
ミラノの町並みが飛行機の窓から見えてくると、すぐに到着で、入国手続きを済ませてバスでホテルに向かいました。
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一夜明けて、出発して最初にスフォルツェスコ城を訪れました。
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興味のないギフトショップを付き合わされて、その後Vittorio Emanuele II Galleriaに向かいました。まず、レオナルド・ダヴィンチと4人の弟子の像の見学です。
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Italia_08.jpgさて、ミラノと言えば、Vittorio Emanuele II Galleria(ビットリオ・エマニュエル二世通り)です。
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その後、Vittorio Emanuele II像を見て、汚れを落とし白く輝くDuomoです。Duomoは中に入って見学したのですが、撮影禁止で写真はありません。以前一人できた時は、エレベーターで屋上にも上ったのですが。
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ミラノを離れてヴェローナに向かいました。左の写真はガーヴィ門で、紀元前1世紀建立され1932年にここに移設されたとのこと。右の写真は、古い街の土台で先史時代に遡る古い街のため、何度か古い都市の上に新しい街が築かれたことが解る。
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ヴェローナの古城。ヴェローナには、多くの古城が残っている。
Italia_13.jpgヴェローナ:ロミオとジュリエットで有名なキャブロット家への通路の壁の落書きここだけは、落書き自由で恋人の名前を書いたりします。右は、「ロミオさま、何故あなたはロミオなの」との有名なセリフをジュリエットが語ったバルコニーです。
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ヴェローナを支配していたスカラ家の墓廟です。
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ダンテの像。ベネチアを追われ、放浪の後ヴェローナで亡命生活を送りました。
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左は、ランベルティの塔で12世紀に作られ、その後何度か修復されています。今でも、ヴェローナで一番高い塔です。右の上の写真は、街角に立つ女神像だが、ミネルバの像か?
右の下の写真は、エルベ広場:晒し台です。罪人に首枷をつけて晒したのです。エルベとは野菜の意味とのことですが、この広場では野菜のみならずテント張りの店で色々なものを売っています。
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観光客を目当てにお金を稼ぐパフォーマンスです。写真を撮るとお金を要求します。私は遠くからズームで撮影してお金を払いませんでした。右は、ローマ時代に作られたアレーナ(円形闘技場)です。今ではオペラが上演されています。
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ローマの起源で有名なロムルス、レムス像です。
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2007.08.16

小旅行(高野山と西行法師)・・・(旅行)

今年の夏は特別に暑いですね。
お盆に帰省して、少しは涼しいのではと8月13日に高野山に上った。
和歌山線で橋本駅に行き、そこで南海高野線で「極楽橋駅」、ケーブルカーに乗り換えて高野山駅に着いた。その後バスで千住院前まで行き奥の院に向かって歩いた。
下の写真は円空が子供の石童丸と親子の名乗りをすることなく修行に励んだという「刈萱堂(かるかやどう)」である。
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簡単に物語を紹介すると、筑前の刈萱荘博多領主の加藤左衛門繁氏(かとう さえもん しげうじ)は、妻の桂子と側室の千里の間の激しい憎しみを知り、出家して円空と名乗り高野山に入って蓮華谷に質素な萱(かや)の屋根の庵(いおり)を結んで一心に修行にはげみ、周囲からは刈萱道心(かるかやどうしん)と呼ばれるようになる。刈萱道心の名前を聞いた千里の一子 石童丸は刈萱荘博多を連想させる名前から父に違いないと、14歳になったとき、母とともに高野山に来るが、高野山は女人禁制であるため、山麓の学問路(かむろ)に母を残して、高野山に入る。途中のお堂で夜を過ごした石童丸は出会った僧に刈萱道心の居所を尋ねるが、その僧こそ刈萱道心であった。僧は石童丸の話しを聞いて驚いたが、修行中の身でもあるため、父であることを名乗ることをせず、刈萱道心は亡くなったと話す。悲しみにくれる石童丸はしかたなく母の待つ学問路(かむろ)に帰ってゆくが、たどり着くと旅の疲れが影響したか急な発熱で母も亡くなっていた。一人ぼっちになってしまった石童丸は、先に会った僧に再び会いに高野山に上り、弟子となって30年間、親子の名乗りをすることもなく刈萱堂で修行に励んだと伝えられる。

一の橋を渡って奥の院への1.7Kmの参道を進む。参道は杉の大木の道になっており、多くの大名の墓所の表示が見られる。伊達家、加賀百万石前田家、豊臣秀吉、薩摩、備前、などなど・・・・

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奥の院は撮影禁止で写真を撮ることは出来なかったが、流石に真言宗の大本山の貫禄で賑わいを見せていた。本堂の裏には、弘法大師廟もあり、また石田光成建立の念仏堂も建っていた。
さて、再び歩き始めの出発地の千住院前に戻り、さらに昔の女人禁制時代には、女性がお祈りを捧げた女人堂まで歩いてみた。明治の始めまで女人禁制であった高野山は高野七口と言われる7ケ所に女人堂が建っていたが、今はこの不動口にある女人堂だけが残っている。

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女人堂からケーブルカーに乗らず、南海高野線の極楽橋駅まで行ける歩道があるので、歩いてみた。
歩き始めて少し行ったところに、古いお堂が建っていたが、これが父を尋ねる石童丸が一夜を過ごしたお堂かも知れない。ともかく、歩く人のみが見ることが出来るお堂であり、ほとんどの人は知らないと思われる。事実40分ほどの下りで誰にも出くわすことは無かった。とても急な下り坂で下るのも大変で、上りは相当に骨が折れると思われた。

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8月15日は、我が家に帰宅する日であったが、出発前にJR和歌山線の打田駅近くの「西行法師の銅像」を見に行った。打田町教育委員会の建てた説明板によれば、西行法師(1118?90)は俗名を佐藤義清(さとうよしきよ)と言い、田中荘・池田荘(現在の打田町)の領主で竹房に居を構えていた。18歳で都に上り左衛門尉(さえもんのじょう)に任官、北面の武士となり鳥羽上皇に仕えていたが、23歳で出家し、出家後は仏道修行より歌道が主で諸国行脚に日を送り、歌人として有名になり尊崇を受けたとあった。
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晩年(69歳)に東大寺再建の勧進を奥州藤原氏に行うために陸奥に下った旅は有名で、この途次に鎌倉で源頼朝に面会したことが『吾妻鏡』に記されている。このときの歌は、旧東海道の旅の藤枝から掛川(2)に記したが、「年たけて また越ゆべしとおもいきや 命なりけり 小夜の中山」がある。なお、奥州の藤原氏と西行は同族でともに平将門を成敗した「藤原氏郷」の子孫である。
73歳で没したが、「願はくは花の下にて春死なん、そのきさらぎの望月のころ」の歌の通り1190年2月16日であった。
ここで見た西行像の台坐には百人一首にある「嘆けとて 月やはものを思わする かこち顔なる わが涙かな」が刻まれていた。百人一首は定家の選だが、他の歌とのバランスを考慮しての選出であり、あえて一首取り出すなら、三夕(さんせき)の歌で有名な
「心なき 身にもあわれは 知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮れ」の方が、好ましいと小生には思えるのだが・・・ 茅ヶ崎から小田原(2)参照。
ところで、教育委員会の説明には打田町(正確には和歌山県那賀郡打田町)とあるが、平成の大合併で昨年末に打田町は近隣の町村と合併して「紀の川市」になっている。したがって、西行法師が居を構えていたのは「紀の川市竹房」となる。

2007.07.28

高山と乗鞍、上高地・・・(旅行)

暑い季節になって、旧東海道歩きもキツイので、9月になるまではお休みにして、どこか涼しいところをと考え、高山と乗鞍岳、上高地へ7/23,24の両日バス旅行に行ってきた。
alps_001.jpg東京駅集合で長野新幹線で上田まで行き、あとはバスで一気に高山へ。お昼は高山に着く直前にバスの中で済ませ、高山別院に到着。高山は以前にも訪れているので、人気の上一之町などのスポットは避けて、江戸時代の商家と屋台会館を見学することにした。

連子格子の商家は中に入ると奥行きが大きく、古い家具調度などが展示されていた。町並みもまるでタイムスリップしたようなたたずまいだ。
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屋台会館では4台の屋台が展示され、可愛い巫女さんが案内しながら説明してくれた。屋台は全部で23台あり、定期的に入れ替えるとのこと。また、屋台は背が高いので搬入は大変で、屋台の2、3階部分の支えの柱を縮めてドアを潜るという。
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初日は高山とオプションで新穂高ロープウェーで西穂高口まで上るものであったが、山の中腹より上は完全に霧の中で上っても何も見えないだろうとスキップすることにして、その日の泊まりの平湯温泉で、付近を散策して過ごした。
そして、明けて23日は朝から快晴で素晴らしい天気。
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乗鞍に上るバスの窓から見る空も全く雲が見えない日本晴れで、バスの運転手も、これほどの天気は始めてと興奮している。運転手が興奮したらしょうがないのだが、無事畳平に到着。気温は7℃だが、日照りが強く、それほど寒くは感じない。展望は、北アルプスの槍、穂高は当然として白馬の方も良く見えラッキー。

畳平から最高地点の剣が峰までは1時間半ほどかかるので、往復は無理なので近くの標高2,764mの魔王岳に上ることになる。ここなら20分ほどで上れるし、十分に高山の雰囲気が味わえ、360度に近い展望も楽しめる。
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大した上りで無いと思ったが、畳平のバスの駐車場や売店などが、だいぶ下に見える。一旦、畳平に降りて、時間があるので売店の裏方面のお花畑を見ることとした。
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10種類以上の高山植物が咲いていたが、代表例とし、黄色い花の「ミヤマキンバエ」、ピンクの花の「コイワイカガミ」、白い花の「ハクサンイチゲ」と黒百合のつぼみの写真を掲載した。
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乗鞍を後にして、午後からは上高地にむかい、大正池でバスを降りて歩き始めた。少し雲が浮かんでいるが、まだまだ快晴の天気。梓川は水量が多く、冷たくそして綺麗な澄んだ水の流れであった。あちこちで、鴨が泳いでいるのを見ることができ、子供の鴨も見られた。
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梓川沿いの樹林帯のなかの清々しい歩道を歩いて行くと、常に左手方向に「焼岳」が見え、ズームで撮ると山頂の水蒸気も写すことが出来た。
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田代池に寄り道をしてその後、田代橋、穂高橋を渡るといよいよ、穂高が迫ってきて、「ウエストンのレリーフ」を見て、上高地のシンボルの「河童橋」に到着。河童橋を渡ってビジターセンターも訪問し、あとはバスの駐車場付近で散策して、帰りの時間を待つことにした。本当に、今日は穂高の雄姿もハッキリと見られ、うまい空気もお腹いっぱい吸い込んで、満足した1日であった。
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